「え、男性を雇ったの?初詣、あんたも女ってことよね。」…

「え、男性を雇ったの?初詣、あんたも女ってことよね。」...

会社を辞めた日、俺は行きつけの喫茶店で久しぶりに夕飯を食べていた。仕事を辞めたことを店員の波に告白し、ここで働こうかなとぼんやり呟いた。冗談のつもりだった。しかし、その冗談が冗談でいられなくなった瞬間があった。

「え、男性を雇ったの?初詣、あんたも女ってことよね。」

俺の運命、波の運命、そして傷も大きく動き始めた。

おはようございます。いつもの顔ぶれ、いつもの風景、何ひとつ変わらないはずの朝。けれど、まるで違う世界が映っていた。俺は杉本啓介。35歳、22歳で入社して以来ずっと働いてきたこの会社を、今日ついに辞める。最初の頃は人間関係にも恵まれ、穏やかな毎日を過ごせていたけれど、5年前に会社が別の企業に買収されてからは様子が一変した。いわゆるブラック企業ってやつだ。土日も出社しなければ終わらない仕事量。終電で帰るのが当たり前の日々。気がつけば、周囲の顔ぶれはすっかり変わっていた。入社以来ずっと仲の良かった同期も、いつも声をかけてくれていた先輩も、もう誰ひとりとして残っていない。そんな慌ただしい毎日を送っていたら、彼女の誕生日すら祝えず、別れを告げられることになった。

「私のことなんて何も考えてないじゃん。」

日付が変わってから慌てて彼女の家に向かった俺を、彼女は涙をこぼしながら迎え、ケーキを投げつけてきた。その一件で俺の心は折れた。翌日には退職の意思を伝えたものの、結局辞めるまでに1年もかかってしまった。俺はようやく自由になれる。

「お疲れ様でした。」

残り少ない私物をまとめて、定時ぴったりに会社を飛び出す。きっとほとんどの人は俺が辞めたことすら気づかないだろう。実際、俺も誰かがいなくなってもしばらく気づかないことがよくあった。それほどまでに、みんなが自分を守るので精一杯なんだ。俺は大きく伸びをして、赤色の空を仰ぐ。胸いっぱいに空気を吸い込んだ後、ふと足を向けた。

「今日はあっちに寄ろうかな。」

いらっしゃい。扉を開けた瞬間、鈴が店内に響く。タイムスリップしたようなレトロな空気が漂う喫茶店。ここは俺のお気に入りの場所だ。カウンターの奥から顔を覗かせて、優しく微笑んでくれたのは店員の波だった。

「久しぶりじゃない?」

笑顔を浮かべながら水のグラスを運んでくれる。控えめな音を立ててテーブルに置かれたグラス。

「うん。ちょっとバタバタしてたから。コーヒーとナポリタンもらってもいい?」

「かしこまりました。」

票に手早く書き込むと、波はカウンターの奥へ戻っていった。この喫茶店の名前はルーアン。カウンターが5席にテーブル席が2つだけの小さな店だ。メニューの数は少ないが、俺はこの空間が好きだった。

「コーヒー、先にどうぞ。」

「ありがとう。」

運ばれてきたコーヒーを一口飲み、大きく息を吐き出す。こうしてゆっくりコーヒーを味わうなんて、本当に久しぶりだ。次の仕事はまだ決まっていないけど、今日だけは何も考えずに空間に身を委ねていたい。そう思った。

「ナポリタン、お待たせしました。」

気づくと、波がにっこり笑いながら俺の顔を覗き込んでいた。

「あ、ありがとう。今日も美味しそうだね。」

そう言いながら手を合わせて頂きますの挨拶をする。すると、波がすっと俺の向かいに腰を下ろした。

「今日はもうお客さん来なさそうだし、一緒に夕飯食べてもいいですか?」

疑問系ではあるけど、すでにテーブルにはナポリタンにサンドイッチ、飲み物まで並んでいる。

「いいよ。一緒に食べよう。」

思わず笑いがこぼれると、波も嬉しそうに手を合わせた。俺がルーアンを知ったのは、会社の様子が変わって1年経った頃だった。必死で働き続けた1年。気がつけば職場の半分は知らない顔になっていた。このまま働き続けるのは危ないかもしれない。そう感じながらも、退職の保証はなく、不安に足を引っ張られていた。気づけば自分の中の何かが濁っていく感覚があった。そんなある日、奇跡的に定時で帰れて、たまたま見つけたのがこのルーアンだった。

「もう4年ぐらい通ってるんだな。」

「そんなに経つんだ。啓介さんが私の一番の常連さんよ。」

そう言ってニコニコしながらナポリタンを頬張る波。ほっぺたを膨らませた顔がリスみたいで、一気に幼く見えた。吹き出した俺を、波がじっとした目で見つめる。

彼女はナポリタンを飲み込み、水を一口含むと静かに口を開いた。

「どうしたの?」

「なんでもない。」

笑いがまだ残っていた俺は、少しごまかすように答える。

「そういえば、バイトの子いなかったっけ?」

「あは。」

波は視線をそらし、そっと頬を動かして何かを考え込む。やがて決意したように俺の方を見て、ぱっと笑顔を作った。

「昨日やめちゃった。」

「そ、そっか。」

波は笑っていたけれど、目の奥は震えていた。拒絶と悲しみが静かに交互に揺れているように見えた。沈黙。店内のBGMだけがやけに大きく耳に残る。

「俺、ここで働こうかな。」

「え?」

思わずこぼれた言葉に、波が目を見開いて俺を見つめる。

「じ、実は俺、今日退職したんだ。」

「そうなんだ。」

困ったように眉を寄せる波に、俺は慌てて手を振った。

「あ、冗談、冗談。ちゃんとお仕事探すから。仕事決まったらまた食べに来るね。」

罪悪感が胸に押し寄せる。波を困らせてしまったことが、どうしようもなく辛かった。いや、もしかしたら波の困った顔にショックを受けたのかもしれない。自分は波と仲がいいと勘違いしていたんだ。客と店員。本来それ以上でもないはずなのに。

「変なこと言ってごめん。あ、ここってモーニングやってるんだっけ?明日朝早く来てみようかな。」

「啓介さん。」

「ああ、大丈夫。客として、まだまだここで働いて。」

「一緒に住みませんか?」

「お、いいよ。え、今なんで?」

聞き落とした言葉を拾おうと、俺は思わず波の顔を見つめた。

「啓介さんさえよければ、ここで働きませんか?」

「うん。働けたら嬉しい。」

やっぱり聞き間違いじゃなかった。飛び出しそうだった心臓がようやく低い位置に戻っていく。俺は深く息を吸い込んだ。

「あと、一緒に住みませんか?」

「咳」

吸い込んだ空気は肺に届かずに迷い込んでしまう。俺は盛大にむせ散らかした。

「ちょっと、啓介さん、大丈夫?」

「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけ。」

波が慌てて近づき、背中を優しく撫でてくれる。

「波ちゃんがとんでもないこと言うから。」

「ごめんなさい。」

彼女は小さく謝りながら俺の背を叩いてくれていた。咳が落ち着いたタイミングで、波がお茶を差し出してくれる。口に含むと、柔らかな苦味が喉を心地よく通り抜けた。

「おいしい。」

「よかった。おじいちゃんもコーヒーも好きだったけど、お茶も大好きでね。お店に常備してたの。私もその癖が残っちゃって。」

どこか寂しげに微笑む波。この喫茶店は彼女が祖父から受け継いだ場所だ。

「俺、ここで働いたらおじいちゃんに怒られないかな?」

波はゆっくりと首を振る。

「大丈夫。きっと喜んでくれると思うの。」

そう言って穏やかに微笑んだ。

「次の仕事が決まるまでのつなぎでもいい。一緒に働いてくれたら嬉しい。一緒に住むことも前向きに考えて。」

その瞳がわずかに震えた。

さて、どうすっかな。俺はベッドに寝転び、天井をぼんやりと見つめる。もちろん今はまだ自分の部屋にいる。

「安心して。部屋は2LDKだから、プライベートは完全に分けられるわ。」

そういうことじゃないんだよ。けれどその言葉は飲み込んだ。少し考えさせてほしい。そう言い残し、今日は店を後にしたのだった。

願ってもない幸運。そう思えなくもない。小柄でよく働き、表情豊かな波。くるくる変わる顔つきは守ってあげたくなる子供のようだったけれど、コーヒーを入れる時の彼女の横顔は、冷たく、鋭く、そして温かくて愛おしい。実を言うと、俺はコーヒーが苦手だった。いや、今も苦手なままだが。

あれは仕事に疲れ果てたある日のこと。ふと見つけたルーアンにふらりと入った。

「ごめんなさい。もう閉店。」

「いえ、どうぞ。」

一瞬戸惑ったように俺を見つめた波だったが、ふと優しい笑顔を浮かべ、招き入れてくれた。

「優しいコーヒー入れましょうか?」

「あ、はい。」

コーヒーが苦手だと伝える間もなく、波は微笑みながら準備を始める。一滴ずつ抽出されていくそれを見つめるその瞳。店内に漂う香ばしい香りが、なぜか心を包み込んでくるようだった。

「どうぞ。」

カップをそっと置くと、小さな音がテーブルに響く。立ち上る湯気が鼻をくすぐり、香りが胸の奥まで優しく広がっていった。口を近づけ、そっと含む。一気に広がるほろ苦さが思いのほか心地いい。

「俺、本当はコーヒー苦手なんですが、これはすごく美味しいです。あの、うまく言えないんですけど、えぐみとか酸味がなくてすごく飲みやすいです。」

「よかった。このコーヒーね、疲れた常連さんにも人気なんですよ。よかったらミルクも入れてみてください。」

差し出された小さな器の中には白いミルク。俺は一礼し、カップへと注いだ。琥珀に溶け込む白。砂糖を加えなくても、ほのかな甘みが舌の上を踊った。

「落ち着く。」

「そうでしょ。」

その時見せた波の笑顔が、胸の中で静かに、そして苦く溶けていくのを感じた。それ以来、俺は好きになった。もちろん、コーヒーのことだ。時間を見つけてはルーアンに足を運ぶようになり、波は色々なことを教えてくれた。

「コンビニならあそこが苦み少なめでおすすめ。カフェだと自分で入れられるようになるのが一番だけど、気軽に楽しむのも大切。コーヒーと一口に行っても種類は様々。自分好みの一杯に出会えれば、それだけで人生が少し豊かになる。まあ、おじいちゃんの受け売りだけどね。」

俺は波との出会いを思い返しながら、彼女の言葉を反芻していた。何か事情がありそうだよな。そう呟いた俺は、慣れてきた暗闇の中でそっと目を閉じ、静かに夢へと身を委ねた。

次の日、俺はルーアンを訪れ、波に答えを告げた。

「うん。俺でよければ、しばらく済ませてもらっていいかな?」

「そう。俺はここで暮らすことを決めた。」

「嬉しい。ありがとう。」

波は大きな瞳を潤ませながら、俺の両手をぎゅっと握る。涙を含んだ声で感謝の言葉をこぼした。

ちなみに家はルーアンの2階。波のおじいちゃんがリフォームしてくれていて、驚くほど綺麗な部屋だ。

「おじいちゃんには人を住ませる許可もらってるから、気にしないで。」

そう言って鍵を俺の手に渡してくれる。

「本当に俺でいいの?」

「啓介さんがいいんです。」

柔らかく微笑む波。俺はこの言葉の重みをもっと深く考えるべきだった。念のため、これまで住んでいた部屋は解約せず残しておくことにした。最低限の荷物をまとめ、数日かけて引っ越しを済ませる。

「啓介さん、何か必要なものある?」

「そうだなあ。生活に使う細かいものが色々欲しくて。」

「オッケー。」

にっこり笑って親指を立てる波。

「この辺りの案内も兼ねて、いろんなお店見てみない?」

「助かる。」

2人で外に出て、大通りを歩き出す。

「あ、」

ふと足が止まる。この道の先に、以前働いていた会社があることを思い出してしまった。胸の奥でぎゅっと心臓が縮み込む。

「そうだ。駅の反対側の方がお店も充実してておすすめなの。ちょっと歩くけど、そっちに行かない?」

俺の気持ちに気づいたのか、波は偶然を装ってそっと袖を引き、元来た道を指さす。

「ありがとう。え?いや、逃げるのって良くないよな。」

その言葉に波の表情が一瞬固まる。

「逃げちゃダメなの?別にいいじゃない。それで自分の人生が守られるなら、何が悪いのよ。」

「そうだよな。」

勢いに圧倒されて、思わず一歩下がってしまった。

「あ、ごめんなさい。」

沈黙の後、俺は波の顔を覗き込み、意識的に口角を上げて頷いた。

「行こうか。」

それからの日々は静かに穏やかに流れていった。もちろん仕事は1から波に教わるのだが。

「動かすの早い。もっとじっくりやって。あ、おい、視線を外さない。」

想像以上に厳しいけれど、あの会社では得られなかった達成感と手応え。俺の毎日は満たされていった。

「今日もお疲れ様。」

閉店後、コーヒーを入れてくれる波の笑顔は穏やかで温かい。心が甘く、ほろ苦く溶けていく瞬間だった。

「甘いものもどうぞ。」

そう言って、小さなパンに生クリームを挟んだものを差し出してくれる。

「私も一緒に食べるね。」

カウンターに座る俺の隣に、波が腰を下ろす。そのまま横から覗き込み、にっこりと笑った。閉店後の静かな一時。24時間の中で俺が一番好きな時だった。慣れてくると、休みの日には2人で出かけることが多くなっていった。カフェに立ち寄るのはもちろん、気分転換としてデートスポットを巡ることもある。

「どうしたの?じっと見て。あれ欲しいの?」

「え?いや、その、いいよ。」

「買ってあげる。」

「そんな申し訳ないから、大丈夫。」

でも結局、俺は波に買ってあげるのだ。そして彼女の部屋やお店に、少しずつぬいぐるみが増えていく。こうやって一緒に過ごす時間が増えるほど、気づかされることがあった。波は店を離れると、とても幼く見える。天真爛漫で、まるで子供のような純粋さをそのまま大人になった人。そんな印象を受けた。

「仕事中はあんなに怖いのにな。」

「え、何か言った?」

「いや、仕事中と出かけてる時で別人みたいだなって。」

「ああ、おじいちゃんがそうだったからかな。仕事を教える時はすごく厳しかったけど、それ以外ではもうデレデレって言葉がぴったりだった。」

「あはは、波ちゃん。」

その笑顔に、深い愛情と懐かしさが滲んでいた。そういえば、彼女から祖父以外の家族の話を聞いたことがなかった。それに気づいたのは、この時だった。

「そういえば、波ちゃんはお母さんと、」

「あ、啓介さん、私、喉乾いちゃった。ぬいぐるみのお礼にお茶を奢るから、カフェ行こう。」

俺の言葉を途中で遮り、嬉しそうにカフェを指さして走り出す波。けれど、その時俺の腕を掴んだ彼女の手は、ほんの少しだけ震えていた。

楽しい休日が終われば、また2人でルーアンを切り盛りする。忙しさの中にも穏やかさがあり、その毎日は俺にとってとても愛しい時間になっていった。

「啓介君、パンケーキ上達したんじゃないの。もう私より上手かもしれない。」

「でも俺は波ちゃんが焼いた、おじいちゃんのパンケーキも好きだけどな。」

「もう、上田さん、いつの話よ。」

「いつだったかな?高校生とか?」

ルーアンの常連客は、波のことをよく知る人たちが多い。こうして俺の知らない波の過去に触れることがある。

「昔は可愛かったなあ。」

「そうなんですか。」

「そうそう。昔からよく笑う子で、おじいちゃんのことが大好きなのが伝わってきたよ。あの人も、目に入れても痛くないって言葉を体現するような人だった。」

そう言いながら、上田さんは目を細めてコーヒーを飲む。

「うん。嫌味のない爽やかな酸味。おじいちゃんに近づいてきたな。」

本当にその一言に、波の瞳が柔らかく解れる。嬉しさが溢れたように微笑みが広がっていた。

穏やかでゆったりと流れる時間。それがルーアンに漂う空気だったけれど、その裏でゆっくりと破滅へ向かっていたことに、俺はまだ気づいていなかった。波が時折り見せる不安げな表情。その小さな変化にもっと早く気づいていれば。

ある日、俺はルーアンの2階で遅い昼食を取っていた。近くのオフィスビルで研修がいくつかあったらしく、店内はひどく込み合っていた。客足が落ち着いた頃、波がサンドイッチを手渡しながら言った。

「今のうちに休憩してきて。」

そうして俺を2階に上げてくれた。波が作ってくれたサンドイッチを頬張っていると、1階から来客を知らせる鈴が聞こえ、続いて波の接客の声が届く。だがその声は不自然に止まり、どこか困惑しているのが伝わってきた。胸騒ぎを感じた俺は、静かに階段を降りる。

「波ちゃん。」

ひょっこりと顔を出すと、カウンター越しに店内が見渡せる。

「どうかした?」

目に飛び込んできたのは、フロアで呆然と立ち尽くす波と、彼女を睨むように見つめる2人の女性だった。母子のように見えるが、濃い化粧と強い香水のせいで、その場にいるだけで不快指数が跳ね上がるような雰囲気を放っている。

「え、男性を雇ったの?初詣、あんたも女ってことよね。」

冷たく吐き捨てるように言い放った50代くらいの女性は、くるりと背を向けて店を出ていく。

「ああ、せっかく私たちが来やすいようにバイトの子を追い出したのに、卑怯じゃない。」

後に続いたもう1人の女性も、波を睨みつけながら店を出た。残された波は、ただ扉の方を見つめたまま立ち尽くしている。その背中は小さく震えていた。

「波ちゃん。」

「きゃっ。」

俺の声に、彼女は飛び上がるように驚いた。

「どうぞ。よかったら聞いてくれますか?」

その日の閉店後、波はアイスコーヒーを入れて俺の前にそっと置いてくれる。甘めに仕立てられたその一杯が、昼の疲れを優しく包んでくれるようだった。波は慎重に言葉を選びながら、今日やってきた2人について話し始める。

「あの女性たちは、さおりさんとあやちゃん。さおりさんは波の母親で、あやちゃんは異父妹なのだという。」

「私は母が18歳の時に生まれたの。相手の男性が誰かも分からなくて、未婚のまま私を、」

そう言って波はアイスコーヒーを一口飲む。そして静かにグラスを見つめながら続けた。

「18歳で、しかも父親も分からない中で私を産んでくれたことには感謝してる。でも、愛してはもらえなかった。」

物心ついた頃から世話をしてくれたのは、波の祖父母だったという。家に寄りつかない娘の代わりに、たっぷりの愛情を注いでくれた。波は壊れそうな笑顔を浮かべながら語った。中学に上がると、通学の関係で母の元に戻された。だが、さおりさんは相変わらず波に興味を示さなかったという。彼が来てるからという理由で、家に入れてもらえなかった日もあったらしい。

「私が14歳の時、あやが生まれたの。彼女もまた、父親が誰かわからないって。私は彼女を守ろうって決めたの。」

その言葉の後、一瞬の沈黙が流れる。波は唇を噛み、右腕を左手で強く握りしめる。その小さな手が震えていた。グラスの中で氷の落ちる音が、まるで合図のように響く。波は再び口を開いた。

「でも私と違って、あやは母に愛されてた。可愛い服を着て、おもちゃもたくさん持ってた。母のコロコロ変わる彼氏たちにも可愛がられてたみたいで。いつの間にか、私のことを見下すようになってたの。」

俺は波の手をそっと包み込む。冷たく震える。

「高校には入れたけど、アルバイトを禁止された。おかしいなと思ったら、母がいつの間にか仕事をやめていて、生活費を稼ぐためにいくつも掛け持ちしてた。 いつの間にか高校は退学って言われてたの。」

すっと流れた涙が、ぽたりと俺の手に落ちる。何か事情があるとは思っていたが、その深さに言葉が出てこなかった。それでも波は微笑みながら語り続ける。

「でも私が17歳の時、状況を察したおじいちゃんとおばあちゃんが、私を正式に引き取ってくれたの。それでここで暮らすことになったのよ。」

声は明るかった。引き取られてからは高校にも通い直し、2人からたっぷりと愛情をもらって本当に幸せだったという。

「母は自分の両親、つまり私の祖父母と相性が悪くて、ここには全然寄りつかなかった。でも、今になっておじいちゃんたちが引っ越したことに気づいたみたい。お金をね、要求してくるのよ。」

最後の言葉は、小さく呟くようだった。それを聞いて、母との関係の全貌が俺にもようやく見えてきた。

「それで、俺に働いてて欲しかった。」

「そう。母は男好きなのに、どこかで男性を怖がってる。年齢なんて関係なくて、とにかく男というだけで拒絶する部分があるの。だから、啓介さんがいてくれたら少し安心できるって思ったの。ごめんなさい。」

波の声が震えたその瞬間、俺は思わず彼女を抱きしめた。いつも笑っていたけど、ずっと震えていた。その笑顔がどれだけ無理して作っていたものだったかが、よくわかった。

「ごめんなんて言わないで。むしろ俺を頼ってくれてありがとう。これからもここで働かせてください。」

「はい。」

くすくすと笑いながら、俺の胸の中で小さく頷く波。その細い肩をそっと抱きしめながら、俺は心の中で強く誓った。絶対に波を守る。俺はもうずっと前から彼女に惚れていたのだから。

それからしばらくの間、穏やかな日々が続いた。来客を知らせる鈴が鳴るたびに緊張していた波の肩も、ようやく落ち着きを取り戻したようで、いつも通りの波が見られるようになった。きっともう大丈夫。俺はそんな甘いことを考えてしまっていた。

「波ちゃん。」

けれど最近の波は、どこかおかしい。ため息の回数が増え、視線はうつろで、話しかけても返事が上の空だ。

「はい。えっと、ご注文は?」

「うん。卵の納品がおかしくて。え、あ、20箱。と、どうしよう。」

発注業務は波が主に担当しているが、ここ最近はミスも目立ち始めていた。

「波ちゃん、大丈夫?今日はお店閉めて休もうか。」

「大丈夫。」

その返事と同時に、冷たい視線がこちらに向けられる。波は俺の横をふっと通り過ぎ、そのまま電話をかけ始めた。卵の受け入れ先か。

「啓介さん、私、明日1人で出かけるね。」

「え?うん。」

大量の卵が届いてから数日後、定休日前の閉店作業中、波が思い出したようにそう告げてきた。別々に休みを過ごすことは今までにもあったし、友人と遊びに行くことも珍しくなかった。

「そっか。気をつけてね。」

「ありがとう。」

だけど、あの時の波の笑顔にはどこか違和感があった。次の日、結局俺は波の跡をつけていた。

「俺、どう見ても怪しいよな。」

何度もそう思いながら、物陰からじっとカフェを見つめる。波は3駅離れたカフェに、30分ほど前に入っていた。幸い窓際の席に座ってくれたおかげで、様子はよく見える。

「もちろんデートだったら帰ろう。うん。」

呟いた言葉が風に乗って消えていく。さらに30分が過ぎた頃、波は時折り時計を見ながらも、席を立とうとしなかった。完全に相手の遅刻だろう。思わず口をついて出たその時、さおりさんとあやちゃんが波の待つテーブルに現れた。声は聞こえなかったが、2人の横柄な態度は遠目からでもはっきり伝わってくる。さおりさんは席につくなり、波に手を突き出した。波は困惑したように俯き、さおりさんとあやちゃんはまるでそれを見下ろすかのように、冷たい視線を注いでいた。とても家族とは思えない光景である。俺は大きく息を吐き出してから、ゆっくりと立ち上がった。

「全く、さっさとお金渡してくれれば、こんなカフェに長居しなくて済んだのに。」

「そうだよ。お姉ちゃん。」

「ママが男嫌いなの知ってて、男の従業員雇うとかありえないでしょ。そんなことするから、わざわざ私が取り立てに来なきゃいけないんじゃん。」

カフェに入った瞬間、店員が空いている席へ案内しようと近づいてきた。だが耳にしてしまった2人の声に、その店員も思わず立ち止まり固まってしまう。

「びっくりですよね。あそこ、俺の知り合いなんで。空席の案内は結構です。ありがとうございます。」

店員が小さく声を漏らした気がしたが、俺はそのまま波の元へ向かって歩き出した。

「もう、お金はこれっきりにしてください。」

「はあ?それが親に向かって言う言葉?まだ幼い妹もいるんだから、妹のためにもお金を出しなさいよ。」

「そうだよ、お姉ちゃん。私、まだ18歳、高校生だよ。」

「波さんのこと、16歳から働かせてたんですよね。」

俺は2人の前にすっと立ち、静かに言い放った。

「は?何を?」

「お前、お店にいた男じゃん。」

俺に気づいたさおりさんとあやちゃんは、驚きながらも睨みつけてくる。

「波ちゃん、ごめんね。なんか様子が変で心配だったから、ついてきちゃった。」

波は大きな目をさらに見開いて俺を見つめるけれど、すぐにふふっと笑い、ふっと肩の力を抜いた。

「今日はもう帰るわよ。あや、行くわよ。」

俺と話している間に立ち去りたかったのだろう。さおりさんはあやちゃんの腕を掴んで、そそくさと出口へ向かう。

「すみません。話は終わってないんですよ。」

「お母さん、話すことなんてないわよ。」

「俺にはあるんです。支払いはもう済んでるので。他のお客さんや店員さんの迷惑になりますから、出ましょうか。」

きっぱりと言い放ち、俺は3人を外へ促した。

「単刀直入に言います。これ以上、波さんに付きまとうのはやめてください。」

「波は私の娘。部外者が何を言ってるの?」

「波さんは、愛された記憶がないと言っていました。」

「親の心子知らず。どんなに愛しても、子供ってそういうものなのよ。」

「子育てもしたことがないガキが、偉そうに何言ってるの?」

冷たく人を見下す笑顔に、濃い化粧はぴったりなんだな。心の中でそんなことを思いながら、さおりさんを見つめていた。

「何よその顔。人をバカにするような目だから、男って嫌いなのよ。自分を満たすことしか興味がないくせに、口だけは偉そう。」

その笑顔の奥に、過去の傷のようなものがうっすらと見えた。

「波さんもあやちゃんも、父親がいないどころか、誰だったのかもわからない。それはさおりさん1人だけが責められることではないのかもしれない。さおりさんもきっと大変だったと思います。でも、だからと言って、波さんを傷つけていい理由にはなりません。波さんからお金を巻き上げていい理由にもならないはずです。」

さおりさんの顔が歪んだ。それが何を意味するのか、俺は必死に探る。波への謝罪であってほしい。そう願いながら。

「子供からお金をもらって何が悪いの?妹はこれから大学生になるのよ。いろんなことにお金が必要なの。家族を助けるのは家族の義務。部外者が偉そうに口出しする話じゃないわよ。」

その歪んだ表情が示していたのは、俺への敵意だった。俺は深く、大きくため息をついた。

「波さんは、あなたに愛されたかったと言っていました。今も、そんな彼女の優しい弱さにつけ込んでお金を要求するなんて、間違ってる。」

「はっ。」

「波は母が投げつけた過去の言葉に傷つきながらも、祖父母が与えてくれた愛に感謝して生きてきた。それでもどこかで願っていたのだ。他でもない、母親に愛されたいと。」

「30超えたおばちゃんが、ママに愛されたいなんて狂ってるでしょ。お姉ちゃんは、可愛い妹のためにお金出せばいいの。この前は100万ぽんと出したくせに。今回だって、さっさと払えばよかったのに。なんでこんな面倒なことになってるの?」

俺とさおりさんの間に、あやちゃんが割って入ってきた。どこか波に似た整った顔で、睨むように俺を見つめる。母を必死に守ろうとするその姿が、一瞬だけ痛々しく見えた。

「100万。その金額に、思わず言葉が止まる。」

「えっと、あやちゃん、100万ってそんな簡単に稼げるものじゃないんだよ。貯めるのにも相当の努力が必要だ。」

会社員として働いてきた自分ですら、その金額がいかに現実離れしているかは痛いほどわかる。なのに、まだ幼さの残る18歳の女の子が、あっさりと口にしたことに思考が一瞬止まった。言葉がうまく出てこなかった。

「どっか行けよ。何の取り柄もないおじさん。」

その瞬間だった。

「パシン。」

乾いた音が空気を裂くように響いた。全ての動きが止まった。そして、波の声が空間を振わせた。

「帰って。大切な人を侮辱する人間に、私はありません。さおりさんも、帰ってください。」

あやちゃんは頬を抑えたまま、呆然と姉を見つめていた。そして、たちまち顔を歪め、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「お姉ちゃんが、お姉ちゃんがぶった。警察!」

高い声が通りに響き、道行く人々がぎょっとしたようにこちらを見る。けれど、家族の揉め事と分かるのか、通報する者はいなかった。それが唯一の救いだった。

「何すんだよ。可愛い。あやの顔に傷が残ったらどうしてくれるの?」

あやを抱きしめるさおりさん。その光景をじっと見つめる波。俺は彼女の顔を見て、思わず息を飲んだ。

「何よその目?」

さおりさんも驚いたように声を漏らす。その瞳がわずかに震えていた。波の中にあったはずの迷いが、完全に消えていた。その瞳はまっすぐで、冷たくて、そして鋭く、母親を貫くように向けられていた。

「私、確かにいい大人になっても、あなたに愛されたいと願ってた。でも、今ようやく気づいたんです。もう、それは必要ない。私には、啓介さんがいるから。私を愛してくれない家族なんて、もういらないんです。」

「はあ?何言ってんの?生意気な。」

「じゃあいいわ。産んであげたお礼として、300万頂戴なさいよ。それでしばらく、あんたの前から消えてあげる。」

その瞬間、波の表情が凍りついた。諦めた人間は強い。そして、脆い。彼女は今、決定的に母を、さおりさんを諦めたのだ。

「お前なんか、」

ふらりと揺れた波の体。ああ、まずいと思った瞬間には、すでに彼女はさおりさんに向かって走り出していた。

「何っ?」

振り上げられた波の拳が、俺の目の前でぴたりと止まる。小さな笑い声を漏らした波は、ゆっくりと肩の力を抜き、俺の胸へふわりと倒れかかってきた。間に滑り込むようにして、俺は彼女を受け止める。

「頑張ったよ。」

触れるか触れないかのうちに、そっと抱きしめた。

「は、人を殴ろうとするなんて、嫌な子。こんな子が店員なんて、ルーアンも終わりね。黙っててあげるから、500万くらい払ったら、」

けらけらと笑うさおりさんを見て、俺は拳をぎゅっと握りしめながら低い声を絞り出す。

「こんなこと言って、大丈夫なんですかね。」

「は?何よそれ?脅すならもっとマシな脅し方しなさいよ。意味不明なんだけど。」

あははと笑い声をあげるさおりさんの前に、俺は黙ってスマホを差し出した。

「何を?録画でもしたって言いたいの?」

「え?」

「あ、おじいちゃん。」

俺は最初から最後まで、波の祖父であり、さおりさんの父でもあるおじいちゃんとテレビ電話を繋いでいた。彼の番号は、常連の上田さんが教えてくれた。

「縁を切ったつもりだったが、こんな腐った根性で生きてるなら、話は別だ。今すぐこっちへ来い。一緒に暮らすぞ。」

「え?いやよ。なんで今更あんたたちと生活しなきゃいけないのよ。」

「お前が必要としてるからだ。」

「嫌だって言ってるでしょ。」

通話を一方的に切り、スマホを俺に押し付けるように返すさおりさん。あやちゃんの手を引き、その場を去ろうとする。

「あ、さおりさん。」

「何よ。」

「今日、受け取ったお金、返してもらっていいですか?」

「あ、分かったわよ。」

スマホの画面が再びおじいちゃんに繋がっていることに気づいたのだろう。さおりさんは慌ててバッグから封筒を取り出し、投げるように波へ手渡した。

「あや、早く行くわよ。」

そう言って、あやちゃんの手を掴んで、俺たちの前から立ち去っていく。

「お母さん、そのことだけでも、大切にしてくれて嬉しい。」

波ちゃん、後ろから届いた声。鼻にかかり、わずかに震えていた。振り返るべきか迷っていたその時、とんと背中にぬくもりが伝ってくる。

「啓介さん、今日は来てくれてありがとう。啓介さんの言った通り、私、まだ母の愛情をどこかで望んでたのかもしれません。最初から私にそんなものなかったのに。」

鼻にかかっていた声が、涙を含み、しっとりとした響きに変わっていった。

「でもさ、親に愛されたいって願うのなんて、当たり前のことじゃないか。俺だって、親から頻繁に届くメッセージがうるさいなって思う時もあるよ。でも、途切れたら途切れたで、やっぱり心配なんだよな。」

気づいたら俺は、頬を人差し指でぽりぽりと掻いていた。忙しさを理由にずっと帰っていない実家。両親の笑顔をふと頭に思い浮かべていた。

「だからさ、結局、大人だって、親から気にかけてもらいたいもんなんだよ。」

「そうなの。」

くすくすと笑う声に、波の言葉が重なる。

「そうだよ。でも、さおりさんが愛してくれなくても、おじいちゃんも、俺も、波ちゃんのことが大好きだから。絶対に寂しい思いはさせないよ。」

ええと、だから、は自分の口から自然とこぼれた言葉の重みに気づいて、俺は慌てて口を手で抑えた。

「それって、どういう意味?」

背中越しに届いた声は、戸惑いを含んで、少し震えている。

「え?」

覚悟を決めた俺は、ゆっくりと振り返り、彼女の目を見つめた。

「俺、初めて会った時から、波ちゃんのこと好きでした。」

「本当に?」

「本当だよ。」

波の瞳が、戸惑いから喜びへと少しずつ色を変えていく。視線を一度伏せた後、何かを決心したように顔を上げる。

「私も、初めて会った時から大好きだった。」

「え、あの頃って、俺、激務でボロボロだったはずだけど。」

「でも、綺麗で優しい目をしてる人だなって、そう思ったの。」

その言葉と共に、波の頬を大粒の涙が伝っていく。

「その、俺と、付き合ってください。」

「はい。」

それから俺たちは付き合い始めた。そして、1年後、結婚した。実は、あの日のビデオ通話を俺は切り忘れていて、告白の一部始終を、おじいちゃんに聞かれていたらしい。

「気に入った。啓介君なら、うちの娘に合格だ。」

と、おじいちゃんに正式に認められたわけだ。俺自身も早い段階で、波とルーアンを守りたいと心を決めていたから、1年での結婚も全く早すぎるとは思わなかった。来年には、新しい家族が増える。子育てに不安を感じていたが、今ではおじいちゃんやおばあちゃんからもらった愛情に自信を持てるようになり、出産にも前向きになっている。さおりさんとあやちゃんとは、正式に縁を切ったそうだ。とはいえ、あの後、おじいちゃんが無理やり引き取り、今ではその近くで鍛え直されているらしい。実はおじいちゃんよりも怖いのは、その奥さん、つまりさおりさんの母親だと、波が苦笑いしながら教えてくれた。

「お母さん、今頃泣いてるかもね。」

「もし時間が解決してくれたら、いつか会いに行く。」

「うん。もう変わらないかもしれない。私には、自分を愛してくれる家族がいるから、大丈夫。」

こう言ってにっこりと笑った波を、俺はそっと抱きしめた。守るべきものが1つ増えた。今こそ、もっと強くなろう。俺はそう心に誓った。

これが、俺たち2人の馴れ初めです。ご視聴ありがとうございました。

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