初日の朝、シオンは胸の名札を指で直した。総務部の新入社員として、育児施設を出て初めての社会人生活。廊下の蛍光灯が白く目に刺さる。誰も声をかけてこない。
戦略統括部長の岩本は、シオンを一瞥しただけで言った。
「IQ中卒のガキに企画書なんて無理でしょ。お茶汲みがお似合いよ」
シオンは無言でうつむいた。育児施設出身と履歴書に書いてある。制服は安っぽい。どうせ見た目で点数をつけられたのだ。
「東大卒の私が見れば一目瞭然。中卒は数字も読めないでしょう?まずはこれが私の好み。間違えたら即アウトよ」
シオンは黙ってお茶を4つ並べた。温度計のアプリだけを見て。手順通りに。
その日の午後、岩本がシオンの机に封筒を叩きつけた。
「解雇通知よ。初日でクビ。理由は学歴、見た目、空気が読めない。これ以上ないでしょ」
「岩本部長、初日解雇は就業規則上、上司の承認なしでは進められません」
「私が取り締まり役よ。現場は私が決める。黙ってなさい」
シオンは封筒を受け取り、退職表の欄だけ目で追った。
「今日は署名しません。持ち帰ります」
「すぐ荷物をまとめて。セキュリティが見てるから逃げないでね」
「逃げません。礼儀は最後まで守ります」
シオンは名札だけ外して鞄に入れた。そして地へと向かった。背後に無数の視線を感じながら。
その夜、施設に戻ったシオンは封筒を広げ、署名欄を鉛筆で囲んだ。
「今日は書かない。明日、復帰の手続きが先」
施設の相談員が心配そうに言った。
「無理しないで。戻る部屋はいつでも空いてるから」
「ありがとうございます。今日は施設に戻ります」
その同じ夜、シオンは電話を一本かけた。森弁護士に。
「明日、臨時株主総会を開きます。議案は2つ。岩本取締役の解任と、顧問契約の永久不採用です」
森は冷静に応じた。
「感情でなく手続きで勝ちます」
シオンは育児施設出身の19歳。だが、その背後には巨大な信託があった。信託財産の評価額は約30兆円。その議決権は、シオン本人に委ねられていた。
翌朝、午前8時30分。昭和ホールディングス本社の大会議室に臨時株主総会の紙が貼られた。株主席には機関投資家と報道陣が並び、端末が一斉に起動した。
岩本は早く会場に入り、壇上に上がろうとしたが、警備に止められた。
「関係者以外は壇に上がれません」
「私が取り締まり役よ。関札くらい触らせなさい」
「警備長の指示です。お戻りください」
議長の高橋が木槌を軽く叩き、開会を宣言した。
「定足数に達しました。昭和ホールディングス臨時株主総会を開きます。議案第1号は岩本取締役の解任。第2号は顧問契約の永久不採用です」
岩本が立ち上がり、声を張り上げた。
「待ってください。議が急すぎます。私に説明もないんですか?」
「説明は資料にあります。次は手順通り行います」
「根拠は何ですか?数字は上がってます」
「根拠は忠実義務違反の疑いと警告の無視です」
森弁護士が映し出したのは、未読の警告メールの一覧。3通すべて未読だった。
「警告読んでないの?それはまずいんじゃないの?取締役が未読は説明責任ゼロでしょう」
会場が騒然とした。シャッター音だけが細かく鳴る。
「それは解雇してはならない人物についての警告でした。佐藤さんのことです」
「佐藤?総務の新人でしょう?あんな中卒のガキ」
岩本の言葉に、会場は一瞬で凍りついた。
「凡人に議決権があるわけないでしょ」
「凡人って何?差別をさらけ出してんじゃないの?」
森は大画面に信託の概要を映した。
「信託財産の評価額は約30兆円規模です。議決権は手続きの範囲で本人に委ねられています」
「30兆?ありえない。偽装でしょ」
「偽装ではありません。ここに信託番号と証明書があります。監督役と社外監査の連署名もあります」
岩本の顔色が一瞬で失われた。涙が汗に混じり、マスカラが頬を黒く汚した。
「私は被害者よ。大事な情報が共有されてなかった」
「共有されても読まなければ意味ないでしょう。未読で逃げた取締役に誰が会社を任せるの?」
シオンは席を立ち、閉じた手帳と印鑑を取り出した。
「私は総務の佐藤です。議案第1号に賛成します」
声は低く、震えなかった。
「私の価値は見た目で決まったんですよね。制服が安いから、学歴が低いから。点数をつけられた」
「違います。学歴で判断しただけ。見た目じゃない」
「制服が安いから点数をつけた、とおっしゃいましたよね」
後方で田中が小さく頷き、メモを掲げた。
「私も聞きました。フロアで。証言します」
「よ、よそ行きの芝居でしょ」
「場内の罵倒は禁止です。発言順は議長権限で指示します」
採決が行われた。賛成の手が圧倒的に多く上がり、反対は僅かだった。
「賛成多数で、岩本取締役を解任します」
岩本は立ち上がり、マイクにしがみついた。
「待って。私がいないと数字が回らない」
「回ります。あなたの席は今夜から空きます」
社長が短く言い、警備に目配せをした。岩本は腕を掴まれ、扉の方へ引きずられた。
「佐藤さん、お願い。私謝るから撤回して」
「撤回はできません。昨日あなたが決めた手続きです」
シオンは岩本の目を見据え、一歩だけ近づいた。
「私は中卒です。でも、人を点数にしないことだけは学びました」
岩本は口を開いたまま、何も言えなかった。
議案第2号も賛成多数で可決され、顧問契約の永久不採用が成立した。臨時株主総会は閉会した。
扉の外で岩本の声が聞こえたが、すぐに途切れた。
「全部私のせいじゃない。けがお静かにこちらへ」
記者がシオンの前にマイクを突き出した。
「コメントをお願いします」
「今日は手続きの結果です。私はこれから学びます」
廊下の角で社長が記者団を止め、短い声明を読み上げた。
「差別は解体します。手続きは公表します」
その夜、シオンは信託委員会の控室で森と向き合っていた。
「よく耐えました。次は信託委員会の説明です」
「はい。逃げません」
森は一枚の紙を机に置いた。
「これは信託の議決権行使の手続き書です。今夜読む必要はありません。休んでください」
「10分だけ。それから読みます」
シオンは目を閉じ、手のひらの汗を膝の布で抑えた。田中がトレーのクッキーを一枚差し出した。
「佐藤さん、毛布ある?冷えるよ」
「大丈夫です。田中さんこそ座ってください」
「私、今日は勇気出した」
「すごいです。半分くらいの勇気が私の背中を押してくれました」
2人は笑い、すぐに声を落とした。
「終わった」
「まだ始まり。両方ある」
数日後、岩本はコンビニの弁当棚の前で半額シールを数え、温めをやめた。年玉にぎりで我慢。明日は面接がある。
面接官は履歴書を見て言った。
「最後の職歴に『取締役解任』とあります。理由は?」
「5解が会社の政治が」
「記事は検索の1ページ目です。今日はここまでにします」
岩本の履歴書は裏返しにされ、受付のベルだけが鳴った。
翌月、2社目の面談でも同じ質問をされ、持ち合わせた資料だけが薄くなった。
「トラブルじゃない。誤解です」
「失礼します」
岩本は駅の階段の角で、履歴書の束を握りしめた。
「私だって被害者なのに。誰も守ってくれなかった」
携帯には母からの未読メッセージが1つだけ残っていた。再生すると事務的な声が続いた。
「母は、契約は書面のみと」
「私まだ生きてるのに」
岩本は再生を止め、端末の赤い画面とスマホを見つめた。
数ヶ月後、昭和ホールディングスの研修室で、学歴欄の質問が赤線で消され、新しい文が貼られた。
「見た目の評価は禁止です。事実と行動だけ書く」
シオンは最前列で手を上げ、マイクを受け取った。
「育児施設出身は評価理由に使えない、という理解で合っていますか?」
「合っています。必要な支援は別窓口で扱います」
研修参加者たちは頷き、スライドの番号を書き取った。
シオンは信託の塾で科目を追い、夜だけ総務の端末へログインした。知識を一つずつ身につける。数字は正直だ。
半年後、信託委員会では面接表を2回改定し、学歴欄の下に支援窓口のQRコードが追加された。
施設の相談員が目頭を指で抑え、スケジュール表に丸をつけた。
「施設の子たちが昭和に見学に行けるの?本当?」
「はい。安全講習だけ受ければ大丈夫です。私が同行します」
「学歴で扉を閉めません。約束は守ります」
見学の列で、施設の子供がシオンの袖を握り、名札を指でなぞった。
「佐藤ってかっこいい」
「かっこよくなくていい。約束を守るだけです」
窓の外は晴れて、ビルの影が短く落ちていた。シオンは子供たちの名札を直し、エレベーターの扉が開く音を聞いた。
昭和の掲示板に面接の注意文が増え、学歴欄の下に小さな補足が貼られた。その紙を、岩本は遠くのビルの地下から見上げた。
消毒の染みたゴム手袋を替え、指先の擦り傷を袖に隠した。名前のないベストには、数字だけが縫い付けてある。
それでも朝は来て、手続きは進み、会社のルールは少しずつ書き変わっていく。シオンは胸の名札を指で抑えた。
短く言う。長く言い訳しない。



