式の前夜、息子から電話がかかってきた。「母さん、明日は来なくていいから。お金だけ出してもらえればそれでいいんで」—…

式の前夜、息子から電話がかかってきた。「母さん、明日は来なくていいから。お金だけ出してもらえればそれでいいんで」—...

結婚式の前夜、電話の向こうの息子の声は、まるで他人のような冷たさでした。

「母さん、明日は来なくていいから。床の親族だけでやることにしたんだ」

私は耳を疑いました。40年間、看護師として朝早くから夜勤も休日出勤もいとわず働き、貯めた1200万円。すべては息子の学費と結婚式のために注ぎ込んだのに、その私が招待状から外されたと言うのです。

「どういうこと? 私、1200万円も援助したのよ」

震える声で訴える私に、息子の強しは信じられない言葉を返しました。

「お母さん、お金だけ出してもらえばいいんです。式は私たち家族だけで」

続けて嫁の床が追い打ちをかけます。

「お母さんの名前、招待リストから外したから」

心臓が止まるかと思いました。まさかATM扱いされているなんて。夫が生きていれば、こんなことにはならなかったのでしょうか。

翌朝、私は震える手で契約書の束を確認しました。式場、ホテル、ケータリング、フラワーアレンジメント。すべての契約書に書かれた名前は、他でもない私、石井み子でした。息子の名前はどこにもありませんでした。

そこへ強しから電話がかかってきました。

「契約書類、全部こっちに送って。名義変更するから」

「どういうこと? お金は私が出したのに」

「床の両親が仕切りたいって言うから、全部向こうの名前にするんだよ」

私は抗議しました。

「強し、それはおかしいでしょう」

「何がおかしいんだよ。床の家は上流階級なんだ。母さんみたいな…」

「その“みたいな”って何?」

強しは一瞬黙り込み、そして吐き捨てるように言いました。

「看護師なんて恥ずかしいんだよ。床の親戚は皆、医者や会社経営者。そこに看護師の母親がいたら、格が下がるだろう」

胸が締めつけられました。

「私が必死に働いて、あなたを医者にしたというのに!」

「それとこれとは別だろ。俺の努力で医者になったんだ」

その時、背後から床の声が聞こえてきました。

「お母さん、ちょっと変わってもらえます?」

電話を代わった床の声は、いつもの猫なで声とは違い、冷たく突き放すような響きでした。

「お母さん、はっきり言いますね。うちの母が言ってるんです。間違った人がいたら恥ずかしいって」

「間違い…?」

「ええ、看護師でしょう。うちの親族に説明するのが面倒なんです。医者の息子の母親が看護師だなんて、恥ずかしくないですか?」

さらに床は続けました。

「それにお母さんの服装のセンスも、正直恥ずかしいです。この前お会いした時のあの地味な格好、あんなのではとても人前に出せません」

「私は倹約して暮らしてきただけよ。すべてはあなたたちのために…」

「それが迷惑なんです!」

床の声が急に大きくなりました。

「貧乏臭い親がいるって、どれだけ恥ずかしいか分かります? うちの母なんてエルメスのバッグを何個も持ってるんですよ。それに比べてお母さんは…」

電話の向こうで強しが何か言っているのが聞こえました。

「強しも同じ意見よね」

「ああ、そうだな」

床は勝ち誇ったように言いました。

「ほら、強しもこう言ってます。お母さん、空気読んでください」

その後さらに信じられない要求が続きました。

「あと、新居にも来ないでくださいね。孫が生まれても合わせませんから。教育に悪影響ですから」

「教育に悪影響…?」

「ええ、貧乏性が映ったら困るんです。うちの子は床の実家の後取りとして育てるつもりですから」

強しが電話を取り返しました。

「母さん、正直に言うよ。俺、もうお母さんのこと家族だと思ってない」

「なんですって…」

「だって価値観が違いすぎるんだ。床の家族といると、俺も成長できる。でも母さんといると、昔の貧乏な自分を思い出して嫌になる」

涙がこぼれそうになりました。でも、まだ強しは止まりませんでした。

「金だけ出してくれればいいんだよ。それが母親の役目だろ。1200万円、ありがたく使わせてもらうよ。でも、それ以上の関係は望まないでくれ」

そして、とどめを刺すような言葉を放ちました。

「あ、そうだ。式場には絶対来るなよ。もし来たら、警備員に追い出してもらうから」

「強し…本当に、本気で言ってるの?」

「本気だよ。母さんはもう俺たちの人生に必要ない」

電話は一方的に切られました。私は崩れるように椅子に座り込みました。40年間の献身が、たった1本の電話で否定されたのです。

しばらく呆然としていると、玄関のチャイムが鳴りました。ドアを開けると、夫の正尾が心配そうな顔で立っていました。

「みち子、どうした? 顔色が真っ青だぞ」

夫を居間に通し、震える声でことの経緯を説明しました。正尾の顔が見る見るうちに青ざめていきます。

「なんだと? 俺も式から外されたよ、ということだな」

「あなたも?」

「ああ、さっき強しから電話があった。『父さんは来なくていい。床の家の格に合わない』だとさ」

正尾は拳を握りしめ、怒りに震えていました。

「みち子、お前が40年間どれだけ苦労してきたか、俺は全部見てきた。朝5時に起きて弁当を作って、夜勤明けでフラフラになりながら強しの塾の送り迎えをして…。俺だってお前に楽をさせてやりたかった。でも、俺の稼ぎじゃ強しを医者にはできなかった。だからお前に全部背負わせてしまった」

夫の目に涙が浮かんでいました。

「それなのに、あいつは親の苦労を『恥ずかしい』だと? 冗談じゃない」

その時、私のスマートフォンにメッセージが届きました。床からでした。添付された画像を開くと、そこには衝撃的な内容が映っていました。床とその母親との会話のスクリーンショットでした。

「ゆかちゃん、あの看護師の人、本当にこさせないの?」

「もちろんよ、お母様。あんな貧乏臭い人、恥ずかしくて」

「でも、1200万円も出してもらったんでしょう?」

「お金だけもらえばいいのよ。ATMに感謝なんてしないでしょう?」

「あら、ゆかちゃんったら。でも、その通りね」

「式が終わったら、完全に縁を切るつもり。強しもそう言ってる」

私の手が震え、スマートフォンを落としそうになりました。正尾が画面を覗き込み、顔を真っ赤にして怒りました。

「ATMだと? みち子をATM扱いしてるのか? 」

続けて、もう1つのメッセージが届きました。今度は強しと床の会話の録音データでした。震える指で再生しました。

「強し、本当にお母さんこさせないの?」

「当然だろ。あんな貧乏臭い母親、恥ずかしくて見せられない」

「でも、お金は全部もらったのよね?」

「ああ、1200万円きっちりな。まあ、今まで育ててもらった分の返済だと思えば安いもんだ」

「冷たいのね。でも、そこが好き」

「母親より床の方が大事だからな。床の実家の後ろ盾があれば、俺も出世できる」

「じゃあ、お母さんはもう用済みね」

「ああ、用済みだ。もう2度と会うつもりもない」

録音はそこで終わっていました。正尾が立ち上がり、壁を殴りました。

「畜生…俺たちを何だと思ってるんだ?」

その瞬間、また電話が鳴りました。今度は知らない番号でした。恐る恐る出ると、床の母親の声が聞こえてきました。

「あら、みち子さん? 私、床の母の佐藤です。単刀直入に言いますね。もう強しさんとは関わらないでください」

「どういう意味ですか?」

「強しさんはもう佐藤家の人間なんです。あなたみたいな下品な人とは、もう縁を切ってもらいます」

「私のどこが下品だと言うんですか?」

「全部よ。職業も生活水準も教養も。看護師なんて、最初から教養も何もないでしょう。私たちとは住む世界が違うのよ」

佐藤夫人は続けました。

「それに、あなたの夫も工場勤めでしょう? そんな家庭で育った強しさんが、よく医者になれたものだわ。でも、もう過去は関係ありません。強しさんは佐藤家の息子として、新しい人生を歩むのです」

「強しは石井の息子です」

「いいえ、違います。もう戸籍も佐藤家の養子縁組の手続きを進めているところです」

「養子縁組…?」

「ええ、強しさんも承知よ。佐藤家の後取りとして、クリニックを継いでもらいますから」

私は言葉を失いました。まさかそこまでとは。佐藤夫人は、最後にとどめを刺すような言葉をつけ加えました。

「1200万円、ありがたく使わせていただきますね。でも、これっきりです。もう2度とお金の無心もしませんし、連絡も取りません。お互い、赤の他人ということで」

「赤の他人…? 息子と母親が、赤の他人ですって?」

「ええ、そうよ。あなたにはもう、強しさんに会う資格もありません。もし無理に会おうとしたら、法的手段も辞しませんから」

電話は一方的に切られました。正尾が私を抱きしめました。

「みち子…」

「正尾さん、私たちは何のために生きてきたの? 強しのためにすべてを犠牲にして、結果がこれなの?」

涙が止まりませんでした。40年間の苦労が、すべて無駄だったのでしょうか。

でも、その時、正尾が私の肩を掴んで言いました。

「みち子、泣いてる場合じゃない。契約書、全部お前の名前なんだろう? なら、まだ手はある」

正尾の目に、決意の光が宿っていました。私ははっと我に返りました。

「契約書…そうよ。全部、私の名前で契約したのよ」

私は急いで書類入れからすべての契約書を取り出しました。式場の予約契約書、ホテルの宴会場使用契約書、ケータリング業者との契約書、フラワーアレンジメントの発注、カメラマンの撮影契約書、引き出物の注文書。

「見て、正尾さん。全部、契約者はみ子になってる」

正尾は1つ1つ丁寧に確認しながら、にやりと笑いました。

「みち子、これは全部、お前の権限でキャンセルできるんじゃないか」

「でも、そんなことをしたら…」

「なんだ、息子に嫌われるのが怖いのか? もう向こうから縁を切ってきたんだぞ」

正尾の言葉は正論でした。でも、まだ躊躇する私に、正尾は優しく言いました。

「みち子、お前は40年間、本当によく頑張った。でも、もう我慢する必要はない。自分の尊厳を取り戻す時だ」

私は深呼吸をして、式場に電話をかけました。

「グランドパレスホテルでございます」

「お世話になっております。明日の、強し・床両名の結婚式の件で、契約者の石井み子です」

「石井様、いつもありがとうございます。何かご用件でしょうか?」

実は…。私は一瞬躊躇しましたが、意を決して言いました。

「すべてキャンセルしたいのですが」

電話の向こうで、担当者が息を飲む音が聞こえました。

「キャンセルですか? 明日の挙式を…?」

「はい。契約者は私ですので、キャンセルは可能ですよね」

「え、ええ…契約上は可能ですが、前日のキャンセルとなりますと、キャンセル料が…」

「いくらですか?」

「全額の70%、つまり700万円となります」

私は覚悟を決めました。

「分かりました。それでもキャンセルします」

「本当によろしいのですか? 新郎様にはご連絡は…?」

「いいえ、連絡は不要です。契約者の私の判断ですから」

電話を切った後、続けてケータリング業者、フラワーショップ、カメラマン、すべてに連絡を入れました。どの業者も驚いていましたが、契約者の判断ということで、すべてキャンセルとなりました。

「みち子、本当にいいのか?」

正尾が心配そうに聞きました。

「ええ。1200万円のうち、キャンセル料を払ってもまだ手元に残るわ。それは私たちの老後のために使いましょう」

その時、正尾が思いついたように言いました。

「みち子。ただキャンセルするだけじゃ、面白くない。明日、俺たちも式場に行こう」

「え? でも、警備員に追い出されるって…」

「違う。俺たちは契約者として、キャンセルの最終確認に行くんだ。合法的にな」

正尾の目がいたずらっぽく光りました。

「それに、あいつらが慌てふためく顔を、この目で見てやりたくないか?」

私は少し考えてから、頷きました。

「そうね。最後くらい、堂々としていたいわ」

その夜、私は床の母親から聞いた「佐藤家の養子縁組」について調べました。すると、まだ正式な手続きは始まっていないことが分かりました。つまり、法的にはまだ強しは石井の息子だったのです。

「正尾さん、見て。養子縁組はまだ成立してないわ」

「ということは、まだ強しは俺たちの息子か」

「ええ。でも、もう息子だとは思いたくないわ」

正尾が私の手を握りました。

「みち子、明日で全部に決着をつけよう。40年間の苦労に、自分たちで幕を下ろすんだ」

私は正尾の手を握り返しました。

「ええ、明日は私たちの卒業式ね」

翌朝、私たちは最高の服装に身を包みました。私は普段着ない紺色のスーツを着て、真珠のネックレスをつけました。正尾も礼服をきちんと着こなしていました。

「みち子、綺麗だよ」

「あなたも素敵よ」

私たちは手を繋いで、式場へ向かうタクシーに乗り込みました。運転手さんがバックミラー越しに言いました。

「結婚式ですか? お2人ともお上品ですね」

「いいえ」私は微笑みながら答えました。「卒業式です」

運転手は不思議そうな顔をしていましたが、それ以上は聞いてきませんでした。式場に近づくにつれて、私の心臓は高鳴りました。でも、それは恐れではなく、むしろすがすがしい気持ちでした。

「正尾さん、私、なんだかすっきりしてる」

「俺もだ。40年間の重りを、やっと下ろせる気がする」

式場の前には、すでに多くの招待客が集まり始めていました。床の親族らしき、着飾った人々が談笑している姿が見えました。正尾が私の手をぎゅっと握りました。

「さあ、みち子。最後の舞台だ」

私は深呼吸をして、堂々と式場の正面玄関に向かって歩き始めました。

式場の正面玄関に足を踏み入れると、きらびやかなシャンデリアの光が私たちを迎えました。受付には、強しの同僚らしき人たちがいました。

「あれ? 石井先生のご両親じゃないですか?」

1人が私たちに気づいて、声をかけてきました。

「ええ、そうです」

私が落ち着いて答えると、彼は困惑した表情を浮かべました。

「でも、石井先生からご両親は『体調不良で欠席される』と聞いてましたけど…」

正尾が前を向いたまま言いました。

「いいえ、私たちはとても元気ですよ」

その時、廊下の奥から床の高い声が聞こえてきました。

「もう、お花がまだ届いてないじゃない! どうなってるの?」

続いて、強しの慌てた声も聞こえてきます。

「ケータリングの業者からも連絡がない。おかしいな…」

私と正尾は静かに控え室の方へ向かいました。すると、そこには真っ青な顔をしたホテルの支配人が立っていました。

「石井様、お待ちしておりました」

支配人は私たちを見るなり、深々と頭を下げました。

「昨日のキャンセルの件、確かに承っております。本日は最終確認にいらしたのですね」

その瞬間、近くにいた床の母親が振り返りました。

「キャンセル? 何のことですか?」

支配人は困惑した表情で答えました。

「昨日、契約者の石井み子様から、本日の結婚式の全面キャンセルのご連絡をいただきましたが…」

佐藤夫人の顔が、見る見るうちに青ざめていきました。

「ちょっと待ってください! 今日は娘の結婚式なんですよ!」

「申し訳ございませんが、契約者様のご意思ですので…」

その騒ぎを聞きつけて、強しと床が飛んできました。床はウェディングドレス姿で、強しはタキシードを着ていました。

「母さん!」

強しが私を見つけて叫びました。

「何をしたんだ?」

「あら、強し。おめでとう」

私は冷静に微笑みました。

「でも残念。式場もお料理もお花も、全部キャンセルしたわ」

「キャンセル? 冗談だろ!」

床が泣きそうな顔で詰め寄ってきました。

「お母さん、どうして、こんなひどいことを!」

「ひどいこと?」

私は床をまっすぐ見つめました。

「ATMに、何か言われたかしら?」

床の顔が凍りつきました。

「私たちを式に呼ばないと言ったのは、あなたたちでしょう? 『お金だけ出させて、恥ずかしいから来るな』と言ったのも」

強しが慌てて言い訳を始めました。

「それは誤解だ! 母さん、今すぐ連絡して、キャンセルを取り消してくれ!」

「無理よ。もう、すべて処理済みだから」

「じゃあ、今から予約し直せば…」

支配人が申し訳なさそうに首を振りました。

「申し訳ございませんが、本日は他のお客様のご予約で満席でございます…。でも、3ヶ月後になりますが…」

床が泣き崩れました。

「3ヶ月後…? そんなの、招待状も送ったのに…」

佐藤夫人が私に掴みかかってきました。

「あなた、なんてことをしてくれたの!? うちの大切な親族を、全国から呼んだのよ!」

「あら、お気の毒に」

私は佐藤夫人の手を払いのけました。

「でも、私には関係ありませんわ。だって、私たちは『赤の他人』なんでしょう? 昨日、あなたがそう言ったじゃないですか」

強しが膝をついて、私に懇願してきました。

「母さん…お願いだ。謝るから、なんとかしてくれ…」

「謝る?」

正尾が強しを見下ろしました。

「今更謝って、何になる。前は『母さんを恥ずかしい』と言った。俺たちを『格が合わない』と言った。その言葉は、もう取り消せないんだぞ」

招待客たちが、次々とロビーに集まってきました。皆、困惑した表情を浮かべています。

「どうなってるの? 式はまだ始まらないの?」

床の親族の1人が大声でまくしたてました。

「おい、どういうことだ? 北海道から来たんだぞ!」

強しは必死に説明しようとしましたが、言葉が出てきません。床は泣きながら、来賓に頭を下げて回っています。その時、私のスマートフォンが鳴りました。ケータリング業者からでした。

「石井様、キャンセル料の件ですが、お振り込み確認できました。ありがとうございます」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

強しが飛びついてきました。

「いくら払ったんだ?」

「全部で700万円くらいかしら?」

「700万円…!」

強しの顔が真っ青になりました。

「それ、俺たちが結婚式に使うはずだった金だろ!」

「あら、違うわよ」

私は首を振りました。

「これは私のお金。あなたには関係ないでしょう?」

床の母親が、震え声で聞いてきました。

「じゃあ…披露宴の料理はありません。引き出物はありません。お花はありません。写真撮影もありません…?」

佐藤夫人は、その場に座り込んでしまいました。床がヒステリックに叫びました。

「お母さんは、意地悪な人でなし!」

「人でなし?」

私は床に近づきました。

「あなたたちこそ、人の心がないんじゃない? 40年間必死に働いて貯めたお金を、当たり前のように受け取って、『ありがとう』の一言もない。それどころか、ATM扱い」

「うるさい! 黙りなさい!」

私の気迫に、床は後ずさりしました。

「あなたたちは、お金の価値を知らない。苦労して稼ぐことの大変さを知らない。だから、平気で人を傷つけられるのよ」

強しが、最後の手段とばかりに言いました。

「母さん、1200万円返すから! だから許してくれ!」

「返す?」

正尾が鼻で笑いました。

「どうやって返すんだ? お前たちに、そんな金があるのか?」

強しは言葉に詰まりました。確かに、新婚生活を始めたばかりの2人に、そんな大金はありません。

「床の実家に借りればいいだろう」

強しが床の母親を見ました。しかし、佐藤夫人は首を横に振りました。

「うちだって、そんな余裕はないわよ。クリニックの経営も、楽じゃないんだから」

「嘘だろ! 金持ちだって言ってたじゃないか!」

床が涙声で言いました。

「…見栄を張ってただけよ。本当はうちも大変なの」

強しの顔が、絶望に染まりました。その時、ホテルのスタッフが申し訳なさそうに近づいてきました。

「あの…申し訳ございませんが、この会場は次のお客様のご利用時間になりますので…」

つまり、出ていけということでした。ウェディングドレス姿の床と、タキシード姿の強し。そして、呆然と立ち尽くす招待客たち。皆、言葉を失っていました。

私は正尾に目を合わせて、静かに踵を返しました。

「待って、母さん!」

強しが追いかけてきましたが、私は振り返りませんでした。

「もう『母さん』と呼ばないで。あなたは佐藤家の人間になるんでしょう?」

「そんな…養子縁組はまだ…」

「じゃあ、石井の恥さらしね」

私は正尾と手を繋いで、堂々と式場を後にしました。背後から強しの鳴き声と、床のヒステリックな叫び声、そして招待客たちの怒号が聞こえてきましたが、もう振り返ることはありませんでした。

式場を出た私たちは、近くの公園のベンチに腰を下ろしました。春の陽ざしが優しく降り注ぎ、桜の花びらがひらひらと舞い落ちていました。

「みち子、本当に良かったのか?」

正尾が心配そうに聞きました。

「ええ。これで良かったの。むしろ、すっきりした気持ちよ」

私は深呼吸をして、青空を見上げました。40年間背負っていた重りが、すっかり消えたような気がしました。その時、スマートフォンが鳴りました。見ると、強しからのメッセージでした。

「母さん、俺が間違ってた。本当にごめん。もう1度やり直させてくれ」

続けて、もう1通メッセージが届きました。

「床とは離婚する。母さんがいないと俺はダメだ。お願いだ。許してくれ」

私は静かに、スマートフォンの電源を切りました。

「返事しないのか?」

「ええ。今更、何を言われても、もう遅いわ」

その後、キャンセル料を払って戻ってきた500万円を手に、私たちは新しい人生を始めることにしました。

「みち子、せっかくだから、今まで我慢してきたことを全部やってみないか?」

正尾の提案に、私は目を輝かせました。

「そうね。まず、行きたかった北欧旅行に行きましょう」

「いいな。オーロラも見てみたい」

私たちは、まるで新婚夫婦のように旅行のパンフレットを広げました。そして1ヶ月後、私たちはノルウェーにいました。美しいフィヨルドを眺めながら、正尾が言いました。

「みち子、俺たち、やっと自由になったな」

「ええ。40年間、強しのことばかり考えて生きてきたけど、これからは自分たちのために生きられる」

夜、願いのオーロラを見ることができました。緑の光のカーテンが夜空に舞う様子は、まるで天からの祝福のようでした。

「みち子、綺麗だな」

「ええ、本当に…」

涙が自然とこぼれました。でも、それは悲しみの涙ではありません。やっと本当の意味で解放された、喜びの涙でした。

帰国後、私は看護師時代の友人から連絡を受けました。

「みち子、聞いたわよ。息子さんのこと」

「ああ、もう広まってるのね」

「でも、あなたの決断は正しかったと思う。子供のためにすべてを犠牲にする必要なんて、ないのよ」

友人の言葉に、私は救われた気がしました。

その後、強しと床は本当に離婚したようでした。風の噂では、結婚式の中止が原因で、床の実家からも見放されたそうです。さらに、病院でもこの騒動が問題視され、強しは地方の病院への転勤を余儀なくされたとか。

「因果応報ってやつかな?」

正尾がぽつりと言いました。

「そうね。でも、強しのことは考えたくないわ」

私たちは残りの人生を楽しむことに専念しました。料理教室に通い始め、社交ダンスも習い始めました。今まで節約ばかりしていた分、少し贅沢な外食も楽しむようになりました。

「みち子、今日のパスタ、うまいな」

イタリアンレストランで、正尾が微笑みました。

「ええ、本当に。こんな美味しいもの、初めて食べたわ」

40年間、強しの教育費のために、私たちは1度も贅沢をしませんでした。外食なんて、強しの合格祝いの時くらい。それも、強しの好きな店ばかりでした。これが、本来の人生なのかもしれない。

ある日、一通の手紙が届きました。差出人は、強しでした。

「お母さん、お父さんへ。あれから1年が経ちました。今更ですが、心から謝罪したいです。僕はお母さんたちの愛情を当たり前だと思い、感謝することを忘れていました。お金の価値も、苦労の意味も、何も分かっていませんでした。今、地方の病院で1人で暮らしています。毎日自分で家事をして、節約生活をしています。やっと、お母さんたちの苦労が少しだけ分かった気がします。許してもらえるとは思いません。でも、伝えたかった。本当にごめんなさい。そして、ありがとう」

私は手紙を読み終えて、静かに畳みました。

「返事は書かないの?」

正尾が聞きました。

「書かないわ。でも、この手紙は取っておく」

「許したのか?」

「許すとか、許さないとか、そういうことじゃないの。ただ…強しも少しは成長したのかなって」

私は手紙を引き出しにしまいました。

「でも、もう親子には戻れない。それだけは確かね」

今、私たちは幸せです。本当の意味での幸せを、60歳を過ぎてやっと手に入れました。子供のために生きることが親の幸せだと思っていました。でも、違いました。親にも、親自身の人生があっていいんです。理不尽な扱いを受けたら、例え相手が息子でも、毅然とした態度を取るべきです。お金で愛情は買えません。そして、感謝の気持ちを忘れた人間に、慈悲を与える必要もありません。

私たちの物語が、同じように苦しんでいる親御さんたちの勇気になれば幸いです。自分の人生は自分のもの。それを忘れないでください。

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