「あんたは血のつながらない赤の他人でしょう。家族の財産は長女の私が全部いただくわ。ほら、これでも持って、とっとと出ていきなさいよ。」
その一言で、線香の香りが漂う和室の空気が、まるで真冬のように凍りついた。
三年間の壮絶な介護の末に、義姉から投げつけられたのは、くしゃくしゃになった古いスーパーのビニール袋だった。だが、この時勝ち誇る義姉は知る由もなかった。数日後、この薄い袋の中身によって、自分自身の優雅な人生が音を立てて崩れ去り、人生で一番後悔することになると。
窓の外では、冷たい木枯らしが庭の枯葉をカサカサと物悲しく揺らしていた。
四十九日の法要が無事に終わり、親戚たちが帰った後の静まり返った実家。私は擦り切れた古い畳の上に正座し、目の前で繰り広げられる信じられない光景を、ただじっと見つめていた。
「嫌だ。お母さんたら、こんな立派な真珠のネックレスを隠し持ってたのね。あ、こっちの金の指輪、もうすごいわ。これ、純金じゃないの?売ったら結構なお金になりそうね。」
下品な歓声を上げながら、義母が大切にしていた箪笥を漁っているのは、義姉の霊子、五十五歳だ。高級ブランドの黒いワンピースに身を包み、派手な赤いネイルをした指先で、義母の宝石箱から次々と高価な品を引っ張り出しては、自分のバッグへと無造作に放り込んでいる。
先ほどまで親戚の前では「お母さん」と嘘泣きをしてハンカチを濡らしていたというのに、身内だけになった途端、この有り様である。
「小岸さん。お母さんの遺品整理は、もう少し落ち着いてからでもいいのではありませんか?まだ四十九日が終わったばかりですし。」
私がたまらず控えめに声をかけると、霊子は宝石箱を抱え込んだまま振り返り、鋭い目で私をぎろりと睨みつけた。
「はあ?何言ってんのよ。落ち着いてからって、あんたがこそこそ盗む前に、長女の私がしっかり管理してあげるって言ってんの。大体ね、弟が死んだ後も図々しくこの家に座って、お母さんの年金で飯食ってたんでしょう。泥棒猫が偉そうに口出ししないでちょうだい。」
その侮辱の言葉に、私は思わずぎゅっと唇を噛み締め、黙り込んだ。膝の上に置いた、ひび割れて荒れ果てた自分の両手が、小刻みに震えているのが分かった。
飯を食ってたなんかじゃない。夫の匠が突然の交通事故で他界し、間もなく一人残された義母が脳卒中で倒れた。右半身に思い麻痺が残り、言葉も不自由になってしまった義母。施設に入れることも、見捨てることも、私にはどうしてもできなかったのだ。
「小岸さん、少しだけでも手伝ってくれませんか。」
縋る思いで何度も電話をした。しかし霊子は、
「私は社長夫人で毎日忙しいの。下の世話なんて汚いこと、私にできるわけないでしょう。あんた暇なんだから、最後まで面倒を見なさいよ。」
と吐き捨て、この三年間、一度たりともお見舞いに来ることはなかった。
それからの日々は、まさに地獄のような戦いだった。夜中の頻繁なトイレ介助。喉に詰まらせないように工夫した食事。床ずれを防ぐための体位変換。私の睡眠時間は毎日三時間にも満たず、白髪は増え、心身ともに限界を超えてボロボロになっていた。
それでも「さゆりさん、ごめんね。ありがとうね。」と、不自由な口で泣きながら感謝してくれる義母のためだけに、私は歯を食い縛って頑張ってきたのだ。
それなのに、義母が息を引き取ると、霊子は手のひらを返したように弁護士を連れて実家に乗り込んできた。そして「財産は全て、血のつながった私が相続する」と豪語し、今こうして金目のものを根こそぎ奪い取っているのである。
「ああ、嫌だ、嫌だ。貧乏臭い嫁がいつまでもジメジメといて、空気が悪くなるわ。」
霊子はこれ見よがしにため息をつき、鼻で笑いながら、部屋の隅のゴミ箱の横に転がっていた丸められた古いビニール袋を拾い上げた。スーパーのロゴが掠れ、全体が茶色く汚れた、どう見てもただのゴミ袋だ。
「ほら、あんたには特別にこれをあげるわ。お母さんがね、生前に『さゆりさんにはこれを渡してくれ』って言ってたのよ。どうせ廉価な、使い古しの肌着でも入ってんでしょう。ゴミはゴミ箱へ。貧乏人は貧乏臭い袋が似合いよ。」
霊子は得意げに吐き捨てると、その薄汚れたビニール袋を私の顔に向けて乱暴に投げつけた。
バサッという鈍い音と共に袋が私の膝の上に落ちる。持ってみると、中身は妙にずっしりとしていて、硬い四角い感触があった。
「さあ、用が済んだらさっさと出て行ってちょうだい。この家は明日、不動産屋の査定が入るんだから。もうあんたの居場所なんて、どこにもないのよ。」
「シッシッ」と犬を追い払うような手つきで追い立てられ、私は長年暮らした実家を後にした。三年間の私の血の滲むような献身は、この薄汚れた古いビニール袋一つで終わったのだ。
虚しさと悔しさ、そして義母を失った悲しみで、帰り道の景色は涙でぐちゃぐちゃに滲んでいた。
やがて、引っ越したばかりの自分の狭く冷たいアパートにたどり着いた私は、古びた茶箪笥の上に、あのビニール袋をポツンと置いた。部屋には、時計の針の音だけが無常に響いている。
「お母さん。本当に私には、このゴミ袋だけなんですか?」
涙を拭い、固く結ばれた結び目を、震える指でゆっくりと解いていく。中には、古い新聞紙でぐるぐる巻きにされた、分厚い箱のようなものが入っていた。
カサカサと音を立てながら新聞紙を一枚、また一枚と剥がしていく。そして、最後に現れたあるものを見た瞬間、私は自分の目を疑い、思わず息を飲んだ。
「いえ、嘘でしょう。どうしてこれが…」
薄暗いアパートの部屋に、私の震える声だけが響き渡った。
手の中にある、その信じられないものを前に、私の目から再び大粒の涙が溢れ出していた。
何十にも巻かれた茶色い新聞紙の束。それを震える手で一枚ずつ剥がしていくと、中から現れたのは、見事な牡丹の彫刻が施された古い桐の小箱だった。そっと蓋を開けると、ふわりと懐かしい樟脳の香りが漂った。
中に入っていたのは、布張りの分厚い通帳。一通の白い封筒。そして、古びた銀行の通帳だった。
手紙の表書きには、麻痺の残る不自由な左手で一生懸命に書かれた、水が滴るような震えた文字でこう記されていた。
「私のたった一人の大切な娘、さゆりへ。」
その文字を見た瞬間、これまで必死に噛み殺していた感情がダムのように決壊し、私の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お母さん…」
誰もいない冷たいアパートの部屋に、私の嗚咽だけが響き渡る。
思えばこの三年間の介護生活は、決して綺麗ごとでは済まされない、泥水をすするような過酷な日々だった。夫の匠が交通事故で帰らぬ人となり、悲しみに暮れる間もなく義母が脳卒中で倒れた。実の娘である義姉の霊子は「私は社長夫人としてのお付き合いで忙しいの。介護なんて底辺の仕事、私にやらせる気?」と言い放ち、一切の手助けを拒否した。
それどころか、年に一度だけ義母の年金通帳や家の権利書を確認するためだけに実家へやってきては、私たちにひどい言葉を投げつけて帰っていった。
あれは一年前の冬のことだった。高級な毛皮のコートを着て、土足のまま義母の寝室に上がり込んできた霊子は、鼻をつまんで顔を歪めた。
「ああ、嫌だ嫌だ。部屋中、老人臭と薬の匂いが染みついてるじゃない。さゆりさん、あんたよくこんな汚いこと毎日できるわね。」
ベッドで横たわる義母が申し訳なさそうに「あ、あう…」と涙を流す中、霊子の暴言はエスカレートした。
「どうせあんた、血もつながってないくせに、お母さんの遺産をかすめ取ろうと必死なんでしょう。うちの夫の会社は年商数十億だから、こんなボロ家の金なんてどうでもいいけど、あんたみたいな厚かましい泥棒猫に一円たりとも渡しはしないからね。本当、教養のない貧乏人は、これだから嫌なのよ。」
その言葉が胸に突き刺さった。だが、私は反論したい気持ちをぐっと飲み込み、ただ無言で床の染みを睨みつけるしかなかった。私がここで言い返せば、霊子の怒りの矛先は、抵抗すらできない義母に向かってしまう。だから私は沈黙を貫き、義母の震える冷たい手を、ただ両手で包み込むようにぎゅっと握りしめていた。
血のつながらない私を、「さゆりさんは私の娘よ」と愛してくれた義母を守るためには、私が耐えるしかなかったのだ。
涙で霞む目をこすりながら、私は手紙の封を切った。便箋には、義母の深い愛情と、信じられない事実が綴られていた。
「さゆり。三年間、本当にごめんね。そして、ありがとう。あなたがいなければ、私はとっくに絶望して死んでいました。これを読んでいるということは、あの強欲な霊子のことだから、あなたを家から追い出し、金目のものを全て奪っていった後でしょう。でも安心してください。霊子が勝ち誇って持ち去ったあの宝石箱。あれは私が仕掛けた罠です。本当の価値あるものは、全てこの袋の中に隠しておきました。」
罠?一体、どういうことなのだろうか。困惑する私をよそに、手紙はさらに衝撃的な内容へと続いていく。
「さゆり。箱に入っている通帳を見てちょうだい。そして、同封した名刺の人物に、今すぐ電話をかけるのです。あなたのこれからの人生は、全て彼に託してあります。」
私は言われるがまま、古びた通帳のページをめくった。
「え…」
そこに記載されていた最後の残高を見て、私は心臓が止まるかと思った。
「一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、五億…」
桁を間違えかと思い、何度も確認したが、間違いなく「伍億円」という信じられない数字が刻まれていたのだ。
だが、私が本当に驚愕したのは、それだけではなかった。手紙に同封されていた一枚の黒い名刺。そこに金色の文字で刻まれていた名前を見た瞬間、私は自分の目を疑った。
「どうして、お母さんがこんなすごい人と繋がっているの?」
その名前は、平凡な主婦である私でも、テレビや新聞で何度も目にしたことがある人物だった。いや、それだけではない。実の姉の霊子が「夫の会社を支えてくださっている大企業」としていつも自慢に語っていた、日本有数の巨大グループ企業の会長の名前だったのだ。
震える指でスマートフォンを握りしめ、私は名刺に書かれた直通番号にダイヤルした。こんなの、何かの間違いかもしれない。そう思いながらも、コール音は無常に響く。
三回目のコールの後、ガチャリと電話が繋がり、向こうから低く、重い、威厳のある男性の声が聞こえてきた。
「待っていましたよ、さゆりさん。」
その人物が発した次の一言で、私の運命は、そして私をゴミのように嘲った霊子の傲慢な人生は、音を立てて崩壊し始めることとなる。
「待っていましたよ、さゆりさん。」
その重厚で落ち着いた声は、紛れもなくテレビや新聞で何度も目にしたことのある、日本最大グループの総帥、豪徳寺会長その人のものだった。
「あ、あの、大変失礼ですが、本当に豪徳寺会長でいらっしゃいますか?なぜ、一般人の私に…それに、どうして母があなたの連絡先を?」
私が恐る恐る尋ねると、電話の向こうで豪徳寺会長は、ふっと懐かしむように深く温かい息を吐いた。
「静さんには、私が若い頃、事業に失敗して文字通り路頭に迷っていたところを救っていただいたのです。私の今日の成功は、全て静さんのおかげなのですよ。」
「先生、母がですか?」
「いえ、先生はかつて、卓越した先見の明を持つ投資家として、一部の財界人から恐れられるほどの方でした。引退された後も、私のような敗者復活組を裏からひっそりと支援してくださっていた。その通帳にある金額は、先生が長年の投資で築き上げた、私が保証する個人財産です。そして先生は、生前、全財産を血のつながった長女ではなく、最後まで寄り添ってくれたあなたに全て譲ると、私に固く遺言されていたのです。」
頭の中が真っ白になった。あの優しくて、不自由な体でいつも「さゆりさん、ごめんね。ありがとうね」と微笑んでいた義母が、日本経済を動かす大企業の会長から「先生」と呼ばれるほどの人物だったなんて。
「さゆりさん。あなたの義姉、霊子という女とその夫の会社は、我が豪徳寺グループの下請けとして、私が…いや、私が霊子の夫の父と旧知の仲だったという理由だけで、特別に仕事を回し、生かしてやっていたにすぎません。」
豪徳寺会長の声が、急に刃物のように冷たく鋭くなった。
「先生からあなたが受けてきた凄まじい仕打ちの全ては、密かに報告を受けております。さゆりさん、あなたはもう、誰の言葉にも怯え、我慢する必要はないのです。静さんの無念を、そしてあなたの三年間の血の滲むような介護の苦労を、今こそ晴らす時が来たのですよ。」
その時だった。私のスマートフォンの画面に、別の着信が割り込んできた。画面に表示された名前は「霊子」。
「会長、申し訳ありません。霊子さんから電話が…」
「出なさい。そして今は、何を言われてもただ黙って聞き流すのです。反撃の舞台は、私が完璧に整えますから。」
豪徳寺会長の強い言葉に背中を押され、私は深呼吸を一つして、霊子の電話に切り替えた。
「あーら、さゆりさん?あんた、まだあの汚いゴミ袋を大事に抱えてないでしょね?あはははは!」
電話に出るなり、鼓膜を突き破らんばかりの高笑いが響いた。
「今ね、お母さんの宝石の査定が終わったところなのよ。やっぱり私の見立て通り、全部で数百万円もの価値があったわ。これから夫と高級フレンチでお祝いなの。あんたみたいな教養のない高卒の貧乏人には、一生縁のない世界でしょうけどね。」
チュキチュキと、カップの触れ合う音が聞こえる。霊子は遺産を手に入れたと思い込み、完全に有頂天になっていた。
「あんた、私がいくら正論で説教しても、いつも黙り込んで、本当に気味が悪いわね。教養がないから、言い返す言葉も知らないんでしょう。あ、そうそう。あのボロ家は明日から、取り壊しに向けて業者が入るから、うっかり近づいて泥棒なんてしないでよ。せいぜいそのゴミ袋と一緒に、一生底辺の惨めな生活を楽しみなさい。じゃあね。」
プツンと一方的に電話が切られた。
「ツー、ツー…」という無機質な電子音だけが、薄暗いアパートの部屋に響く。
耳の奥にこびりついて離れない、数々の侮辱の言葉。かつての私なら、この理不尽な暴力にただ泣き寝入りし、悔しさで唇から血が滲むほど噛み締めながら、一人で震えることしかできなかっただろう。
だが、今は違う。私はぎゅっとスマートフォンを握りしめながら、冷たく沈黙した。私の手の中には、義母が残してくれた莫大な金額の通帳と、強大な味方の存在があるのだ。
再び豪徳寺会長との通話に戻ると、会長は静かに、しかし絶対的な権威を感じさせる声で告げた。
「明日の午後一時、豪徳寺グループの本社ビルにある、私の最上階の執務室に来てください。」
「明日ですか?」
「いえ、明日はちょうど、霊子の夫の会社との年間契約更新の最終面談日なのです。彼らは今、我が社との大型契約が継続できると信じきって、浮き足立っていることでしょう。」
会長の言葉に、私ははっとした。霊子が今夜、高級フレンチで祝杯を上げている本当の理由は、数百万の宝石の査定額などではなく、明日の豪徳寺グループとの大型契約を確信しているからに違いない。
「さゆりさん。そこで彼らに現実を教えてやりましょう。彼らが今まで一体誰のおかげで社長面をして、贅沢な暮らしができていたのか。そして、彼らがゴミと呼んで嘲笑い踏みにじったものが、どれほど恐ろしい力を持っていたのかを。」
窓の外では、冷たい木枯らしがシトシトと降り始めていた。だが私の心の中には、三年間の凍えるような絶望の冬を終わらせる、静かで確かな炎が、確かに灯り始めていた。
翌日の午後十二時半。私は都心の一等地にそびえ立つ、全面ガラスの巨大な高層ビルを見上げていた。ここが日本経済を牽引する、豪徳寺グループの本社ビル。エントランスには高級な大理石が敷き詰められ、行き交うエリート社員たちは皆、隙のないスーツ姿だ。
私は手持ちの中で一番マシな、スーパーの特売で買った地味なスーツを着ていた。しかし、この煌びやかな空間では、自分の存在がいかにも場違いで、ひどく見窄らしく感じられた。
「ちょっと、嘘でしょう?なんでこんなところに、あんな薄汚い女がいるのよ。」
不意に、鼓膜を突き破るような下品で甲高い声が、静寂なロビーに響き渡った。びくっとして振り返ると、そこには目を疑うような光景があった。
立っていたのは、全身を高級ブランドで固め、季節外れの派手なストールを羽織った義姉の霊子と、恰幅のいい夫の健だった。霊子の首元には、昨日実家から強奪していった義母の真珠のネックレスが、これ見よがしに輝いている。
「おいおい、健。お前の弟の嫁ってのは、よっぽど常識がないんだな。」
健は私を見下すと、鼻でふっと笑い、見下すような冷たい声で言った。
「俺たちはこれから、豪徳寺グループとの年間数億円という大型契約の更新面談なんだぞ。まさか俺たちに金の無心でもしにストーカーしてきたのか?勘弁してくれよ。底辺の貧乏人が近くにいると、こっちまで貧乏臭くなる。」
健の言葉に同調するように、霊子もわざとらしく口元を隠して笑う。
「やだ、本当ね。あんた、こんな立派なビルに、そんなヨレヨレの安物スーツで来るなんて恥ずかしくないの。あ、もしかしてトイレ清掃のパートの面接なら納得だわ。高卒で何の取り柄もないあんたには、便所掃除がお似合いよ。」
行き交う社員たちが、何事かとこちらを振り返る。公開処刑のような侮辱の嵐。かつての実家で毎日浴びせられていた暴言がフラッシュバックし、私の足はかすかに震えた。
しかし、私は唇をぎゅっと噛み締め、一切の反論をせず、ただ深く沈黙した。言い返さない私を見て、霊子はさらに調子に乗った。
「ほら、お母さんの遺品のこの真珠、本物だったのよ。査定に出したら一括百万円ですって。あんたが血まなこになって介護してたおばあさんの遺産、全部私がいただいちゃってごめんあそばせ。ま、あんたにはあのゴミ袋があるんだから、せいぜいそれを抱えて、惨めに生きていきなさいよ。」
健も腕時計をちらりと見て、「シッシッ」と私を汚いノラ犬のように手で払った。
「おい、もう行こうぜ。こんなゴミ女に関わってる時間はない。今日は俺の会社がさらに飛躍する記念すべき日なんだ。おい、お前。邪魔だからさっさと帰れ。」
私が黙り込んだまま耐え忍んでいると、突然、私たちに向かって一直線に歩いてくる一人の初老の男性がいた。きっちりとした仕立てのスーツを着こなし、鋭い眼光を放つその姿は、一目でただ者ではないと分かる、圧倒的なオーラを放っていた。
それを見た健の顔色が、ぱっと明るくなった。
「おお、黒田常務じゃないですか。わざわざロビーまでお出迎えいただけるなんて、光栄の至りです!」
健が満面の笑みで、その男性、豪徳寺グループのナンバー2である黒田常務にすり寄ろうとした、その瞬間だった。
黒田常務は、愛想笑いを浮かべる健の存在など完全に無視し、まるで道端の石ころでも避けるかのように、横を通り過ぎた。そして、ヨレヨレのスーツを着た私の目の前で、ぴたりと立ち止まると、周囲の空気ごと凍らせるような九十度の深いお辞儀をしたのだ。
「さゆり様。お待ちしておりました。」
「はぁ?」
霊子と健の口から、間抜けな声が漏れた。
「豪徳寺会長が、最上階の特別VIP室でお待ちかねでございます。ささっ、こちらへ。」
黒田常務のその言葉に、ロビーの空気が一変した。
最上階の特別VIP室。それは、国の要人や世界的な企業のトップしか通されない、選ばれし者のための絶対的な聖域だ。
「ち、ちょっと待ってください。黒田常務。何かの間違いですよね?その女は、ただの貧乏な…」
パニックになった健が、裏返った声で叫んだが、黒田常務は振り返りもしなかった。ただ背を向けたまま、氷のように冷たい声で一言だけ放った。
「健社長、貴殿の面談室は三階の一般応接室です。遅刻せぬよう、せいぜい気をつけなさい。」
私は黙ったまま、黒田常務に導かれて専用エレベーターへと歩き出した。振り返ると、霊子と健が、幽霊でも見たかのように口をあんぐりと開け、呆然と立ち尽くしている姿が見えた。
エレベーターの重厚な扉が静かに閉まり、最上階へと向けてゆっくりと上昇していく。これから始まるのは、ただの契約面談ではない。あの強欲な義姉夫婦をどん底に突き落とす、完璧に計算された豪徳寺会長の仕掛けた罠の幕開けなのだ。
専用エレベーターの扉が静かに開くと、そこは別世界だった。ふかふかの絨毯が敷き詰められた廊下の突き当たり。重厚なマホガニーの両開き扉の奥には、東京の街並みを一望できる広大なVIPルームが広がっていた。部屋の中央には高級な黒皮のソファが置かれ、壁には美術館でしか見られないような名画が飾られている。
「よく来てくれましたね、さゆりさん。さあ、こちらへ。」
窓際に立っていた白髪の初老の男性が、静かに振り返った。威厳に満ちた鋭い眼光。しかし、私を見るその目元だけは、まるで長年の友人を慈しむかのように優しく微笑んでいた。豪徳寺グループ総帥、豪徳寺隆之介会長、その人である。
「お忙しいところ申し訳ありません。私のような者が、こんな立派な場所に…」
私が恐縮して頭を下げると、会長は優しく首を横に振った。
「静先生の娘であるあなたをお迎えするのです。当然の礼儀ですよ。さあ、彼らが到着したようです。少しばかり不快な思いをさせるかもしれませんが、耐えてくださいね。」
会長が手元のインターホンを押すと同時に、ノックの音が響き、扉がガチャリと開いた。
「豪徳寺会長!本日はお忙しい中、我々のために お時間を頂戴し、誠に光栄の至りです!」
満面の笑みで、まるで御幣でも担ぐかのように両手をすり合わせながら入ってきたのは、義兄の健だった。その後ろには、猫なで声を出して媚びへつらう霊子が続いている。
だが、深くお辞儀をしてから顔を上げた二人の視線が、ソファに座る私の姿を捉えた瞬間、二人の顔からさっと血の気が引いていくのが分かった。
「お、お前…!なんでここにいるんだ?」
健の顔が驚愕から一変、真っ赤な怒りに染まり、首の血管が今にも切れそうなほどに浮き出た。
「ちょっとあんた、どうやってここまで入り込んだのよ!警備員!警備員を呼びなさいよ!」
霊子が金切り声を上げ、高級バッグを振り回しながら私を指差した。
二人は完全に勘違いしていた。私がロビーで黒田常務に案内されたのは何かの間違いで、その後、隙を見てこの最上階に忍び込み、会長に直接陳情なり無心なりをしていると思い込んだのだ。
健は慌てて豪徳寺会長に向き直り、床に額がつく勢いで平謝りした。
「会長、誠に申し訳ございません!この女は私の義理の妹でして、精神を病んでいる異常者なのです。まさか勝手にここまで忍び込み、会長にご迷惑をおかけするとは!」
「そうです!会長!」
霊子も必死に同調する。
「この女、私の母の介護を押し付けてきた上に、母の年金や預金をこそこそと横領していた極悪人なんです。母が死んだのをいいことに、今度は大企業である御社にまでタカリに来たに違いありません!」
息を吐くように嘘をつく二人。三年間の私の血の滲むような努力を「押し付けた」と言い放ち、あろうことか私を年金泥棒呼ばわりしたのだ。あまりの理不尽な侮辱の連鎖に、私は眩暈すら覚えた。
健はさらに一歩私に歩み寄り、ヤクザのように凄んだ声で脅迫してきた。
「おい、さゆり。お前がこれ以上俺たちの邪魔をするなら、今すぐ警察を呼んでやる。老人虐待と横領でブタ箱にぶち込んでやるからな。お前のその貧乏臭いアパートも追い出させて、一生社会の底辺を這いずるようにしてやるよ。さあ、今すぐ会長に土下座して謝れ!」
密室のVIPルームに響き渡る、鼓膜を破るような怒声と脅迫。三年間の介護生活の中で、彼らから何度となく浴びせられてきた暴言のトラウマが蘇り、私の両手は膝の上でガタガタと震え始めた。逃げ場のない空間で大柄な健に見下ろされ、私は完全に精神的に追い込まれていた。
言いがかりもいい加減にしろと反論したかった。だが、恐怖で喉がカラカラに乾き、声が出ない。私は恐怖と屈辱に耐えながら、真っ青な顔でぎゅっと唇を噛み締め、深い沈黙を貫くしかなかった。
私が黙り込んだのを見て、健と霊子は「図星で反論できないのだ」と確信し、見苦しく歪んだ笑みを浮かべた。
「ほら見ろ。何も言い返せないじゃないか。会長。このゴミ女は、すぐに私がつまみ出します。さあ、我々の来期の数億円の契約のお話を…」
健が勝ち誇ったように豪徳寺会長にすり寄った、その時だった。
「老人虐待に、横領?ですか。」
ずっと無言で事態を見つめていた豪徳寺会長が、低く、血が凍るような冷やかな声で呟いた。その瞬間、部屋の空気が一瞬にして氷点下まで下がったかのような錯覚に陥った。
「そうです!とんでもない悪女でして…」
愛想笑いを浮かべる健。しかし、豪徳寺会長の鋭い眼光は、健たちをまるで害虫でも見るかのように冷徹に見据えていた。
「なるほど。ならば、ここでハッキリさせましょうか。一体どちらが裁かれるべき、本物の悪なのかを。」
豪徳寺会長が静かに指を鳴らすと、部屋の奥にあるもう一つの隠し扉が、ゆっくりと音もなく開いた。そして、そこから姿を現したある人物を見た瞬間、勝ち誇っていた義姉夫婦の顔面は、今度こそ完全に凍りつくことになる。
隠し扉の奥から静かに姿を現したのは、金縁の眼鏡をかけ、隙のない仕立ての良いスーツを着こなした初老の男性だった。手には分厚い革張りのファイルが握られている。その顔を見た瞬間、義兄の健は、まるで雷に打たれたように硬直した。
「さ、佐田先生!なぜ、あなたがこんなところに!?」
佐田弁護士。それは日本中の大企業が数億円の顧問料を積んでも依頼したがるという、法曹界の頂点に立つ伝説と呼ばれる、無敗の第一人者だ。以前、健が自分の会社の顧問にと、げたを履いてすがりついたが、「あなたのような強欲な人間の依頼は受けません」と一笑に付された相手でもある。
その佐田弁護士は、驚愕する健たちをまるで空気のように完全に無視し、まっすぐに私の前へと歩み寄った。そして、黒田常務と同じように、深々と頭を下げたのだ。
「さゆり様。先生からのご遺言通り、全ての法的手続きと資産管理の引き継ぎが完了いたしました。」
「佐田先生、ありがとうございます。」
私が小さく頭を下げると、佐田弁護士は優しい微笑みを浮かべた。
「な、何なのよ、これ。」
事態が飲み込めず、霊子がヒステリックな声を上げた。
「日本一の弁護士が、なんでこんな底辺の貧乏女に頭を下げてるのよ!騙されないでください!この女は、死んだ私の母の年金を毟り取ってた泥棒猫なんです!」
唾を飛ばして喚き散らす霊子。
「そうだ!こんな高卒の教養のない女が資産管理だと?笑わせるな!精々、スーパーの特売品の計算が関の山だろうが!」
健も便乗し、私を小ばかにするように喚いて笑った。
次々と浴びせられる罵詈雑言。しかし、私はもう震えてはいなかった。彼らの見苦しい姿をただ静かに見つめ、一切の表情を変えずに、深い沈黙を貫いた。
私が反論しないのをいいことに、健と霊子は「やはり図星だ」とばかりに見苦しい薄笑いを浮かべている。そんな二人に、豪徳寺会長が冷え切った声で言った。
「愚かですね。あなた方は、この三年間、さゆりさんが実家で、ただ介護だけをしていたとでも思っているのですか?」
「はぁ?どういう意味ですか?」
健が軽薄な顔をすると、豪徳寺会長は静かに語り始めた。
「右半身が麻痺し、言葉も不自由になった静さんは、己の築き上げた資産の後継者として、さゆりさんを選んだのです。さゆりさんは、毎日睡眠時間を削る過酷な介護の傍ら、静さんの厳しい指導を受け、莫大な資産の運用を代理で行っていました。そう、さゆりさんの正体は、静さんが鍛えに鍛えて育て上げた、天才的な相場師なのですよ。」
健と霊子の口が、同時にあんぐりと開いた。
「嘘よ!そんなの絶対に嘘!この女は、ただの甲斐性なしの看護婦よ!株だの投資だの、そんな難しいこと、この頭の悪い女にできるわけないじゃない!私から財産を奪うために、みんなで口裏を合わせてるんでしょう!」
まだ現実が受け入れられないようですね。佐田弁護士が冷たく言い放ち、持っていた分厚いファイルの中から一枚の書類を取り出すと、ぽんとテーブルの上に投げ出した。
「これは、さゆり様がこの一年間で運用し、利益を出した株式のリストです。その利益だけで、あなた方の会社の年間売上など、軽く吹き飛ぶ額ですよ。まあ、ご自身の目で確かめるのが一番でしょう。」
健は「そんなハッタリに騙されるか」と毒づきながら、乱暴に書類を手に取った。しかし、その紙面に目を走らせた瞬間、健の目は限界まで見開かれ、持っていた書類がガタガタと激しく震え始めた。
「た、たけ、どうしたのよ。」
ただごとならぬ夫の様子に、霊子がおずおずと声をかける。だが、健は霊子の声など聞こえていないかのように、額から滝のような脂汗を流し、血の気の引いた真っ青な顔で書類を凝視していた。
「嘘だ…嘘だろ…なんで…なんで、お前がこれを持っているんだ?」
健の喉の奥から、ヒューヒューという引きつった音が漏れた。書類からばっと顔を上げた健の瞳には、先ほどまでの傲慢さは微塵もなく、ただ圧倒的な恐怖だけが浮かんでいた。
私は、ずっと押し殺していた口をゆっくりと開き、この日初めて健の目を見て、静かに言い放った。
「健さん。あなた、自分の会社が今、誰に与奪の件を握られているのか、まだ気づいていないのですか?」
その言葉の意味を理解した瞬間、健の膝からかくんと力が抜け、高級な絨毯の上に、ぶざまに崩れ落ちた。
高級なペルシャ絨毯の上に、体重九十キロ近い健の巨体が、まるで糸の切れた操り人形のように、どさりと崩れ落ちた。
「健!ちょっと、どうしたのよ!しっかりしなさいよ!なんで、こんな底辺のゴミ女の前で、へたり込んでるの!?」
事態が全く飲み込めていない霊子が、ヒステリックな金切り声を上げて夫の肩を乱暴に揺さぶる。しかし、健は焦点の合わない目で虚空を眺め、ガチガチと歯の根を鳴らして震えるばかりだった。
「う、嘘だ…なんで、うちの会社の筆頭株主が、さゆり…お前の名前になっているんだ…。それに、この莫大な額の株式を…お前が買い占めていたというのか…。」
絞り出すような声で言う健の言葉に、霊子は息を呑んだ。
「筆頭株主?何言ってんのよ!うちの会社は、あんたが社長でしょう!この女は、ただの高卒で、うちのお母さんの下の世話をしてただけの、甲斐性なしの看護婦じゃない!そんな小難しいこと、猿の知能の女にできるわけないでしょう!ねえ!何か言い返しなさいよ!この泥棒猫!」
霊子は私に向かって真っ赤なネイルの指を突きつけ、口汚く罵り続けた。空間を切り裂くような侮辱の言葉の数々。しかし、私はもう怯えることはなかった。癇癪を起こして喚き散らす霊子を、まるで哀れな昆虫でも観察するかのように、ただ穏やかに見下ろし、深く沈黙した。
私が一切反論せず、氷のような視線で見つめていることに、霊子はさらに逆上した。
「何よ、その目は!気持ち悪い!健!さっさと立ちなさいよ!こんな貧乏女のハッタリなんか無視して、豪徳寺会長との契約の話を進めるのよ!私たち、数億円の契約更新に来たんでしょう!」
「黙れ!」
突如、VIPルームの窓ガラスがビリビリと震えるほどの、健の鼓膜を破るような怒声が響き渡った。
「ひっ!」
今まで一度も夫から怒鳴られたことのなかった霊子は、カエルが潰れたような悲鳴を上げて後ずさった。
「お前は、何も分かってない!黙ってろ、このバカ女!」
血走った目で妻を怒鳴りつけた後、健は這いつくばるようにして佐田弁護士の足元にすがりついた。
「佐田先生!これは何かの間違いですよね!うちの会社は順調で…」
「健社長。」
佐田弁護士は、すがりつく健の手を冷たく振り払った。
「あなたの会社が、二年前から深刻な資金繰りの悪化に陥り、倒産寸前だったことは調査済みです。銀行からも融資を断られ、首が回らなくなる一歩手前だったあなたたちを、奇跡的にダミー会社を通じて資金援助し、全ての株式を買い取って救済したのは、他でもない静さんです。そして、その実務を完璧にこなしていたのが、さゆり様なのです。」
「ああ…ああ…。」
健の口から、絶望の呻き声が漏れた。私たちが寝る間も惜しんで介護と投資に明け暮れていた頃、彼らは義母の金で救われているとも知らず、高級車を乗り回し、私たちを「貧乏人」「底辺」と罵っていたのだ。
佐田弁護士は、眼鏡の奥を鋭く光らせて、無情な宣告を下した。
「現在、健社長の会社の株式の過半数、そして数億円に上る負債の債権は、全てさゆり様の個人管理下にあります。つまり、さゆり様が今ここで資金を引き上げると一言命じれば、あなたの会社は明日の朝には風前の灯となり、確実に倒産する。ということです。」
「倒産…うちの会社が…。」
霊子が、信じられないという顔でその場にへたり込んだ。自慢だった「社長夫人」という肩書きが、実は高級官僚の腰巾着に過ぎなかったことを、ようやく理解し始めたのだ。
「あ、待ってくれ、さゆりちゃん!いや、さゆりさん!」
健は態度を急変させ、床に額を擦りつけて私に向かって必死に命乞いを始めた。
「俺たちが悪かった!いくらでも謝る!だから、どうか資金の引き上げだけは勘弁してくれ!俺たちは家族じゃないか!れ子からも謝れ!」
「わ、私が…なんでこの女に…。」
まだプライドを捨てきれず、唸る霊子。
私は床に這いつくばる二人を見下ろし、静かに口を開いた。
「家族ですか?昨日、実家から私を追い出す時、霊子さんは『あんたは血の繋がらない赤の他人だ』と言って笑いましたよね。三年間の介護も、全て私に押し付けて。そう、それは、私に残されたのはあの薄汚れたスーパーのビニール袋だけ。あなた方はそう言って、私をゴミのように捨てたんです。今更、家族だなんて、虫が良すぎるのではありませんか?」
私の冷たい宣告に、健の顔から完全に希望が消え去った。
「さて、さゆりさん。彼らの罪の代償は、まだ終わりませんよ。」
ずっと静観していた豪徳寺会長が、ゆっくりとソファから立ち上がった。その威厳に満ちた姿は、まるで地獄の閻魔大王のようだった。
「健君。君はまだ、自分がどれほど絶望的な状況にいるのか、根本的に理解していないようだね。」
「会長…?どういうことでしょうか?」
震え上がる健を見下ろし、豪徳寺会長は氷の微笑みを浮かべた。
「君は今日、我が豪徳寺グループとの年間契約更新のためにここへ来たと信じ込んでいる。だが、私が君たちをこの最上階に呼び出した本当の理由を、今から教えてあげよう。」
豪徳寺会長の口から次に放たれた言葉は、健と霊子の精神を完全に破壊し、彼らを底なしの地獄へと突き落とす、あまりにも残酷な最後通告だった。
豪徳寺会長の冷徹な声が、VIPルームの静寂を切り裂いた。健はすがるような目で豪徳寺会長を見上げ、ガチガチと歯を鳴らしている。
「本当の理由ですか?そう、それは至極簡単なことです。我が豪徳寺グループは、本日を持って健社長の会社との一切の取引を完全停止します。もちろん、来期の数億円の契約更新などありえません。即刻、出入り禁止です。」
その宣告の刃が振り下ろされた瞬間だった。
「取引停止!?嘘でしょう、会長!我が社は、御社との取引が売上の八割を占めているんですよ!それを切られたら、我が社は完全に終わりです!どうか、どうかそれだけは!」
健は目を見開き、頭を抱えて絶叫した。
「自業自得ですよ。」
豪徳寺会長は、哀れむような感情も見せず、冷たく言い放った。
「君たちの会社が納品する資材は、年々品質が落ち、納期遅れも頻発していた。本来なら、数年前にとっくに契約を打ち切って、損害賠償を請求しているレベルだ。それでも我が社が特別に契約を継続してやったのは、ひとえに静さんから、『さゆりの生活を守るために、愚かな娘夫婦だが、生かしておいてやってほしい』と懇願されていたからに他ならない。」
「お母さん…。」
私は思わず息を飲んだ。義母は、不自由な体で私の介護を受けながら、私に暴言を吐き続ける義姉夫婦の会社を、裏で必死に支えてくれていたのだ。全ては、私がこれ以上彼らから迫害されないための、義母なりの賭けだった。
「しかし、静さんは亡くなった。そして、君たちは、恩人であるさゆりさんから全財産を奪い、ゴミのように追い出した。もはや、君たちのような社会の害悪を生かしておく理由は、一つもないのです。」
豪徳寺会長の決定的な言葉に、健は白目を剥きそうになりながら、その場に突っ伏した。
「ああ…終わりだ…俺の会社が…俺の人生が…。」
しかし、まだ事態を正確に理解できていない。いや、現実から必死に目を背けようとしている狂人が、約一名、そこに残っていた。
「ふざけないでよ!」
突然、鼓膜を突き破るような金切り声が響いた。義姉の霊子だった。顔を夜叉のように見苦しく歪ませ、真っ赤なマニキュアを塗った指で私をびしっと指差す。
「どうせ、あんたが会長に色仕掛けでもして、嘘八百を吹き込んだんでしょう!この泥棒猫!高卒で教養もなくて、男を誑かすことしか脳がない底辺のクズ女!お母さんの年金を盗んだだけじゃ飽き足らず、私の夫の会社まで潰そうって言うの!?あんたみたいな陰湿で貧乏臭い女、生きてる価値もないわ!」
狂ったように喚き散らし、私に向かってバッグを投げつけようとする霊子。あまりの醜悪な暴言の連打に、黒田常務が一歩前に出ようとしたが、私はそれを手で制した。
私は一切の表情を崩さず、ただ静かに、深く沈黙した。かつてなら、この理不尽な侮辱に涙を流して震えていたかもしれない。だが今は、怒り狂って喚き散らす霊子の姿が、泥沼でもがく哀れな虫にしか見えなかった。
私の氷のような沈黙が、霊子の恐怖と焦燥感をさらに煽り立てていく。
「何よ!何か言い返しなさいよ!黙ってないで、自分がやった汚い手口を白状しなさいよ!」
口から泡を飛ばさんばかりに喚く霊子を見下ろし、佐田弁護士がため息をつきながら前に進み出た。
「本当に、救いのない愚か者ですね。あなたが昨日、さゆり様にゴミだと言って投げつけた、あの薄汚いビニール袋。あれが、自分自身の首を絞める最強の罠だとも知らずに。」
その言葉に、霊子の動きがぴたりと止まった。
「はぁ?あ、あのゴミ袋が罠?」
佐田弁護士は私の方を向き、深く頷いた。
「さゆり様。昨日お電話でお伝えした通り、あの箱の中に入っていたもう一つのものは、お持ちいただいておりますね。」
「はい、これです。」
私はスーツのポケットから、昨日あの薄汚れたビニール袋の中の桐箱から見つけた小さな物体を取り出し、佐田弁護士の手に渡した。それは、黒くて四角い、小型のICレコーダーだった。
「な、何よそれ!そんなおもちゃみたいな機械が、何なのよ!」
強がる霊子だったが、その声は明らかに震えていた。
「静さんは、ご自身が亡くなられた後、あなた方が必ずさゆり様を家から追い出し、財産を独占しようと牙を向くことを、完全に予測しておられました。」
佐田弁護士は、冷徹な目で霊子と健を見渡した。
「だからこそ、本当に価値のある五億円の通帳や、豪徳寺グループの株券、そしてこのレコーダーを、あえて一番貧乏臭いスーパーの古いビニール袋の中に隠したのです。強欲で見えっ張りなあなた方は、決してそんな汚い袋の中身を確認することはない。完璧に見抜いていたのですよ。」
「う、嘘よ!お母さんがそんな…!」
「では、聞かせて差し上げましょう。このレコーダーに吹き込まれている、先生が最後に残した恐るべき事実を。」
佐田弁護士が、レコーダーの再生ボタンを「かちり」と押し込んだ。直後、VIPルームに響き渡った音声を聞いた瞬間、健と霊子はまるで本物の幽霊を見たかのように顔面を蒼白にし、情けない悲鳴を上げて床に這いつくばった。
「そんな…どうして…あの時の会話が…。」
健が頭を抱えて、ガタガタと震え出す。
密室に響き渡る、決定的な破滅の証拠。それは、義姉夫婦が絶対に知られてはならない、背筋も凍るような過去の犯罪の記録だった。
「かちっ」という小さな電子音の直後、ICレコーダーから流れ出したのは、スピーカー特有のノイズ混じりの、しかし紛れもなく霊子とその夫・健の生々しい肉声だった。
「ああ、部屋中、むっとするわ。吐き気がする。姉さん、さっさとその書類にババーの手を握らせて、捺印させてよ。」
「分かってるよ。しかし、裏帳簿で作ったうちの会社の二億円の脱税、まさか税務署に目をつけられるとはな。このバカな老婆の土地と預金を勝手に担保にして、偽造書類を作れば、とりあえずの穴埋めはできる。どうせもう喋れない植物人間なんだから、バレるわけがないさ。」
「あはは、本当ね。お母さんが死んだら、遺言書も私たちが偽造して。あの甲斐性なしの嫁に、借金だけ全部押し付けて、家から追い出せば完璧じゃない。」
「ああ、早くこのババア、死んでくれないかしら。」
録音されたその邪悪な笑い声が、静寂なVIPルームに不気味に響き渡った。
それは、一年前、私が義母の薬をもらうために数時間だけ家を開けていた時の会話だった。彼らは、私がいなくなった隙を狙って寝室に忍び込み、意思表示ができない義母の手を無理やり握って、会社の負債を補填するための連帯保証人の書類を偽造していたのだ。
録音が終わると、部屋の空気は重く、冷え切っていた。健は顔面から完全に血の気を失い、床の上でガチガチと激しく歯の根を鳴らしている。
「ああ…ああ…ち、違う…これは…。」
健の口から、壊れたおもちゃのような掠れ声が漏れた。しかし、霊子はまだ現実を受け入れられず、錯乱したように立ち上がり、私に向かって狂ったように叫び始めた。
「うう、嘘よ!絶対に嘘!あんた、さては流行りのAIとかいうやつで、私たちの声を勝手に作ったんでしょう!この卑劣な!底辺の高卒女のくせに、小賢しい真似しやがって!警察よ!こんなの完全に名誉棄損で訴えてやるわ!あんたなんか、一生刑務所で臭い飯を食えばいいのよ!」
首に青筋を立て、唾を飛ばしながら私を罵倒する霊子。その凄まじい侮辱の言葉の数々を前にしても、私は眉一つ動かさず、氷のように冷たい視線で彼女を見据えた。ただの一言も言い返さず、深い沈黙を貫く私が言い返さないことで、霊子の焦燥は限界に達し、呼吸を荒くして私に掴みかかろうとした。
「見苦しい言い訳は、やめなさい。」
その時、佐田弁護士が一歩前に出て、霊子を鋭い声で制した。
「この音声データは、すでに専門の民間科学捜査研究所での鑑定を経て、一切の編集や加工がない本物であると証明されています。さらに、あなた方が銀行に提出した担保の書類の筆跡が、健社長のものであるという鑑定結果も出ているのです。」
「鑑定ですって…。」
霊子の手が空を切り、そのまま力なく下ろされた。
「横領、文書偽造、脱税、そして、抵抗できない静さんに対する心理的虐待。これらが揃えば、健社長、あなたは間違いなく実刑判決を受け、刑務所行きとなります。もちろん、共犯である霊子さんも、ただでは済みませんよ。」
佐田弁護士の冷静な宣告。健は「刑務所」という言葉を聞いた瞬間、ついに発狂したように、床に頭をガンガンと打ち付け始めた。
「ああ、終わりだ!俺の人生、俺の会社が!こんな、こんなバカなババアのせいで!」
「健!」
霊子もパニックに陥り、健の背中にすがりついて泣き喚く。
「どうにかしてよ!私、社長夫人じゃなくなるの!?刑務所なんて絶対に嫌よ!」
さっきまで「多少貧乏人」「ゴミ」と嘲笑い、高層ビルのVIPルームで優越感に浸っていた二人の姿は、今や跡形もなく、ぶざまに崩れ去っていた。
私は床に這いつくばる二人を、静かに見下ろした。義母は、ベッドの上で自分の手を無理やり握られ、借金の書類に拇印を押されながら、どれほど恐ろしく悲しい思いをしたことだろう。声も出せず、涙を流すことしかできなかった義母の無念を思うと、私の胸の奥で、冷たい怒りが静かに燃え上がった。
「さて、さゆりさん。ここからが総仕上げですよ。」
豪徳寺会長が、満足げに深く頷きながら口を開いた。
「健君。君は今、『誰のせいで』と言ったね。君たちを破滅させたのは、静先生でも、さゆりさんでもない。君たち自身の強欲さだ。だが、君たちにはまだ、会っておかなければならない人物がいる。」
「ええ…。」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げる健。
「本日は、君たちの悪事の証拠が全て揃うこの日に合わせて、特別なゲストをお呼びしているのだよ。さあ、お入りなさい。」
豪徳寺会長が再びインターホンのボタンを押すと、重厚な扉がガチャリと音を立てて開いた。そこに現れた意外な人物の姿を見た瞬間、健の目玉がこぼれ落ちんばかりに見開かれ、その口からは声にならない絶叫が漏れた。
「な、なぜ、あなたがここに…。」
最上階の密室に足を踏み入れたその人物の登場によって、義姉夫婦の運命は、いよいよ逃れられない完全なる地獄へと叩き落とされることになる。
重厚な扉がゆっくりと開き、VIPルームに足を踏み入れたのは、一人の冴えない中年男性だった。小脇に大きなダンボール箱を抱え、ひどく緊張した面持ちで立っている。その顔を見た瞬間、健は床に這いつくばったまま、信じられないものを見るように目を見開いた。
「さ、佐々木!お前、うちの専務の佐々木じゃないか!なんで、お前がここにいるんだ!」
健の腰巾着であり、会社の金庫番でもある佐々木専務だった。健は一瞬の混乱の後、自分の部下が助けに来てくれたのだと勘違いし、ばっと顔を輝かせた。
「お、そうか!今日の契約更新のために、追加の財務資料を持ってきてくれたんだな!でかしたぞ、佐々木!さあ、早くその資料を会長に見せて、うちの会社の経営が万全だと証明してくれ!」
霊子もそれに便乗し、先ほどまでの恐怖を忘れたようにふんぞり返った。
「ちょっと、あんたグズグズしないで、早く出しなさいよ、この給料泥棒!この薄汚い高卒女が、うちの会社を乗っ取っただの、私たちが借金まみれだの、出鱈目を吹き込んでるのよ!あんたからも、この貧乏人にガツンと言ってやりなさい!」
いつも通り、部下を奴隷のように見下し、暴言を吐き捨てる霊子。
しかし、佐々木は霊子には目もくれず、まっすぐに私の前へと歩み寄ってきた。そして、持っていたダンボール箱を床に置くと、私に向かって、深く、深く頭を下げたのだ。
「さゆり様。この度は、本当にありがとうございました。さゆり様のおかげで、私の娘は無事に海外で移植手術を受けることができました。このご恩は、一生忘れません。」
「ええっ?」
健と霊子は、ぽかんと間抜けに口を開けたまま、固まった。
「佐々木、お前、何を言っているんだ?なんで、そんな底辺のゴミ女に頭を下げている?」
健の怒声に、佐々木はゆっくりと振り返り、今まで見せたこともないような、冷たい軽蔑の目を健に向けた。
「底辺のゴミ?健社長。あなたがゴミと呼ぶ、このさゆり様こそが、倒産寸前だった我が社をお救いになり、さらには私のような末端の社員の家族の命まで救ってくださった、本当の大恩人です。」
「半年前、私の娘が思いもよらぬ難病で倒れ、莫大な手術費が必要になった時。私はあなたに、給料の前借りをしてほしいと必死に頼みました。しかし、あなたは『使えない社員のガキが、どうなろうと知ったことか』と、私を嘲笑い、あろうことか、病院に通うために休んだ私のボーナスを全額カットした!」
佐々木の切実な叫びが、部屋中に響き渡る。
「絶望して、ビルの屋上から飛び降りようとした私を、止めてくださったのは、我が社の筆頭株主となられていた、さゆり様でした。さゆり様は、静さんからのご指示で、娘の手術費を全額、ポケットマネーで支払ってくださったのです!」
「そ、そんなバカな…。」
健はわなわなと震えながら、後ずさった。
「私は、あなた方夫婦が、寝たきりの静さんの手を無理やり握らせて、保証人の書類を偽造する現場を、この目で見ていました。だからこそ、私は真実を全て、さゆり様と豪徳寺会長にお話しし、今日、この箱を持ってきたのです。」
佐々木が足元のダンボール箱を開けると、中には黒いファイルの山が、ぎっしりと詰まっていた。
「ここに、あなた方が長年に渡って隠蔽してきた二億円の脱税の証拠と、先生の財産を横領しようとした偽造書類の原本が、全て入っています。」
「ああ…。」
決定的な証拠を突きつけられ、健は泡をかきながら床を転がり回った。霊子は顔を真っ赤にして、私に向かって金切り声を上げた。
「あんた、うちの社員を金で買収したわね!なんて卑劣で汚い手を使うの!あんたみたいな貧乏人が、五億円だの、筆頭株主だの!そんなの全部、嘘っぱち!教養のない泥棒猫の言うことなんか、絶対に認めないからね!」
どれほど決定的な証拠を突きつけられても、まだ虚勢を張り、私を見下して喚き通し続ける霊子。私は、癇癪を起こす霊子を、ただ穏やかに見つめ、深く無言のまま沈黙した。一切の感情を見せない私の、その氷のような沈黙が、彼女のちっぽけなプライドと精神を、さらにズタズタに引き裂いていく。
「もう十分でしょう。佐々木君、ご苦労だったね。」
豪徳寺会長が静かに手を上げると、開いたままになっていた扉の奥から、黒いスーツを着た屈強な男たちが数名、足音も立てずに部屋になだれ込んできた。
「東京国税局です。健社長、二億円の悪質な脱税の容疑で、強制調査に入らせていただきます。」
「丸…さの登場…。」
それは、健の会社の完全なる終焉を告げるものだった。
「嫌だ!やめてくれ!俺は悪くない!全部、全部、こいつが…!」
健は完全にパニックに陥り、あろうことか、隣にいた妻の霊子を指差した。
「こいつがやったんだ!義母の書類を偽造しろとか言い出したのは霊子だ!俺は無理やりやらされただけだ!」
「ちょっと、健!あんた、何言ってんのよ!ふざけないで!」
見苦しい仲間割れを始める義姉夫婦。しかし、佐田弁護士は冷徹な目で霊子を見据え、さらに衝撃的な言葉を放った。
「霊子さん。健社長に責任を押し付けようとしても、無駄ですよ。なぜなら、あなたが犯した本当の罪は、書類の偽造や脱税などという、生ぬるいものではないからです。」
「い、いえ…本当の罪…?」
霊子が呆然と呟く。
「先生が倒れた、あの日の夜。あなたが実家で、一体何をしたのか。さゆり様は、全てご存知なのですよ。」
その言葉を聞いた瞬間、霊子の顔から全ての血の気が引いて、真っ白になり、その場にがくんと膝をついた。
「う、嘘…。なんで…誰も知るはずのない、あの日のことを…。」
実質に響き渡る、最大の爆弾。三年間の地獄の介護生活の始まりに隠された、身の毛もよだつ恐ろしい真実が、今まさに暴かれようとしていた。
三年目のあの日。健が這いつくばったまま、呆然と霊子の顔を見上げた。霊子はまるで心臓を直接掴まれたかのように身を震わせ、真っ青な唇をガタガタと震わせている。
「霊子、お前、一体何を隠しているんだ?三年目、お母さんが倒れた日、お前は何をしたんだよ!」
夫の問いかけにも、霊子は答えることができない。ただ、焦点の合わない目で虚空を見つめ、ヒューヒューと短い呼吸を繰り返すばかりだ。
私は、ずっと胸の奥に閉じ込めていた、重い記憶の蓋を、ゆっくりと開けた。
「霊子さん。あの日、お母さんが倒れる直前に、あなたに電話をしたと言っていましたよね。体調が悪いから、すぐに来てほしい、と。」
霊子の肩が、びくっと跳ねた。
「あなたは、親戚の前でこう言っていました。『私が駆けつけた時には、もうお母さんは倒れて、意識がなかった』と。でも、それは嘘ですよね。」
私は、豪徳寺会長から手渡されたもう一枚の資料を、霊子の目の前に突きつけた。それは、あの日、義母が倒れた実家のリビングの、警備会社のホームセキュリティ記録だった。
「お母さんは、倒れる直前に非常ボタンを押していました。そして、その数分後に、あなたが玄関の鍵を開けて中に入った記録が残っています。救急車が到着したのは、その三十分後。霊子さん、あなたが実家に入ってから、救急車を呼ぶまでの三十分間、あなたは何をしていたんですか?」
「そ、それは…パニックになって、どうしていいか分からなくて…。」
霊子の声が上ずった。
「いいえ。あなたは、その間、倒れて苦しむお母さんの横で、リビングの金庫からあるものを盗み出していた。お母さんの個人資産が入った、隠し口座の通帳と印鑑を。」
「なんですって!」
健が絶叫した。
「あなたが救急車を呼ぶのが、あと十分早ければ、お母さんに麻痺が残ることはなかったと、医師が言っていました。あなたは、自分の母親の命よりも、金庫の中身を優先したんです。」
私は、怒りで声がかすかに震えるのを感じながら、続けた。
「お母さんは、意識がもうろうとする中で、必死に手を伸ばして、あなたに助けを求めた。それなのに、あなたは…。『汚い、邪魔よ』と言って、その手を足で蹴り飛ばした。」
「そうですね。」
霊子は、自分の犯した罪をありありと思い出したのか、顔を両手で覆って、その場に崩れ落ちた。
「お母さんは、話せなくなってからも、その時のことを鮮明に覚えていました。私に、文字盤を使って、教えてくれたんです。『霊子が私の手を蹴った。金を持って、笑って出ていった。』と。お母さんは、実の娘に裏切られた悲しみを抱えたまま、この三年間、私に何度も何度も謝っていました。『あんな娘に育ててしまって、さゆりさんに苦労をかけて、ごめんね』と。」
「嘘よ!嘘よ!お母さん!」
霊子は狂ったように頭を振り、床を爪でかきむしった。
「私は社長夫人なのよ!金が必要だったのよ!あの時、健の会社が風前の灯で、お母さんに頼みに行ったら、断られたのよ!だったら、死ぬのを待つより、先に奪ったって同じじゃない!この人殺し!」
「お前のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ!」
健が、今度は霊子に向かって飛びかかろうとした。
「お前があの日、お母さんを見殺しにしたから、こんなことになったんだ!」
「あんたの会社の借金のせいでしょうが!責任転嫁しないでよ!」
VIPルームで繰り広げられる、醜悪な夫婦喧嘩。罵詈雑言が飛び交い、掴み合いの喧嘩を始める二人。その姿には、かつて私を「底辺」「教養がない」と嘲笑っていた、あのプライドなど、微塵も残っていなかった。
私は、そんな二人を、氷のような沈黙で見つめ続けた。沈黙は、時にどんな言葉よりも鋭い刃となる。反論すらされないことで、二人は自分たちが、もはや言葉を交わす価値すらない存在にまで堕ちたことを、その身に沁みて思い知っていた。
「連れて行きなさい。」
豪徳寺会長が、冷徹に命じた。国税局の職員と、さらに佐田弁護士が呼んでいた警察官たちが、騒ぎ立てる二人を力づくで抑え込む。
「放して!私は社長夫人よ!さゆり!あんた、ただじゃおかないからね!呪ってやるわ!貧乏人のくせに、私をこんな目に合わせて!」
引きずり出されていく間際まで、幽鬼のような罵声が廊下に響き渡った。だが、その声も、重厚な扉が閉まると同時に、ぷつりと途絶えた。部屋に残ったのは、深い静寂と、義母が愛用していた樟脳の香りの残り香だけだった。
「終わりましたね、さゆりさん。」
豪徳寺会長が、そっと私の肩に手を置いた。
だが、物語は、これで終わりではなかった。佐田弁護士が、最後に一通の、今まで隠されていた本当の遺言書を取り出した。
「さゆり様。静さんが、あなたにだけ伝えて欲しいと願っていた、最大の事実が、まだ一つだけ残っています。」
「最大の事実…。」
私が耳を疑った、その内容は、これまでの復讐劇さえも霞むような、あまりにも衝撃的な、家族の真実だった。
「いえ…そんなことが、あり得るんですか…。」
私の目から、この日一番の激しい涙が溢れ出した。
「さゆり様。心を落ち着けて、聞いてください。静さんが、命をかけて守り通した真実です。」
佐田弁護士が差し出したのは、ひどく古ぼけた一通の書面だった。それは、病院の封筒に入った、二十年以上も前のDNA鑑定書の控え、そして、一通の出生証明書だった。
涙で霞む目を擦りながら、私はその書類の内容をなぞった。そこに記されていた事実は、私のこれまでの人生を、根底から覆すものだった。
「いえ…霊子さんと、お母さんは…血が繋がっていない…。」
あまりの衝撃に、私はその場にへたり込みそうになった。
佐田弁護士は、静かに頷き、口を開いた。
「静さんの亡き夫、つまり健さんの父である仙堂氏が、外で別の女性に産ませた子が、霊子さんでした。静さんは、仙堂氏の不始末を隠し、実の子として霊子さんを育て上げたのです。しかし、霊子さんは幼い頃から強欲で、静さんを本当の母親だとは思えないような、残酷な仕打ちを繰り返してきました。そんな…じゃあ…。」
「健さんが、静さんの、たった一人の実子でした。」
そして、ここからが、先生が一番伝えたかったことです。佐田弁護士は、出生証明書の裏に隠されていた、古いセピア色の写真を取り出した。そこには、若かりし頃の義母が、一人の美しい女性と親しげに肩を並べて笑っている姿があった。
「この女性に、見覚えはありませんか?」
写真の中の女性の顔を見た瞬間、私の心臓が跳ね上がった。
「お母さん…。」
そこに写っていたのは、私が幼い頃に亡くした、私の本当の母親だった。
「さゆりさんの実のお母様と、静先生は、かつて共に投資の世界で切磋琢磨した、親友同士だったのです。お母様が亡くなる直前、静先生はこう言ったそうです。『もし、あなたの娘に何かあったら、私が必ず、命に代えても守ると。』」
頭の中が真っ白になった。健さんとの結婚も、偶然の出会いだと思っていた。でも、あの日、お見合いの席で、義母が私の顔を見た瞬間、ボロボロと涙を流して私を抱きしめた、本当の理由が、ようやく分かった。
「静さんは、あなたが親友の娘であることを隠し、一人の義母として、そして師匠として、あなたに自立する力を授けようとしました。霊子さんのような強欲な人間に食い物にされないよう、あえて厳しい投資の訓練を積ませ、五億円という財産を授けたのです。さゆりさん。あなたは、嫁としてではなく、実の娘以上の愛を持って、あの方に守られていたのですよ。」
「お母さん…。」
私は写真を胸に抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。三年間、毎日毎日、不自由な体で私の手を握り、「ごめんね、ありがとうね」と言っていた義母の言葉。それは、介護への感謝だけではなかったのだ。親友との約束を果たせている喜びと、私を過酷な運命に巻き込んでしまったことへの、母としての謝罪だったのだ。
「さゆり、あんたは血のつながらない赤の他人よ。」
昨日、霊子が私に投げつけた、あの言葉。それは、実は霊子自身に突きつけられるべき言葉だった。血が繋がっていても、愛がなければ、赤の他人以下の怪物になる。血が繋がっていなくても、魂で結ばれていれば、本当の親子になれる。
「さゆりさん、もう泣かないでください。」
豪徳寺会長が、ハンカチを差し出しながら、穏やかに言った。
「静さんの最後の願いは、あなたがその財産を手にし、誰にも縛られず、自由で幸せな人生を歩むこと。そして、あの強欲な二人に、相応の報いを受けさせることでした。その願いは、今、完璧に果たされました。」
私は涙を拭い、窓の外に広がる、雲一つない青空を見上げた。あの日、投げ捨てられた薄汚いビニール袋。その中に入っていたのは、金銭的な富だけではなかった。私を愛してくれた二人の母の、何者にも代えがたい、深く、深い愛だったのだ。
しかし、私の復讐劇は、これで終わりではなかった。拘置所に送られた霊子と健に、さらなる追い打ちをかける準備が整っていた。
「佐田先生。例の件、進めてください。」
私の声は、もう震えていなかった。
「承知いたしました。彼らには、刑務所の中でも、一生終わらない地獄を味わっていただきましょう。」
私が下した、冷徹で慈悲のない最後の決断。それは、霊子が何よりも大切にしていたプライドを、一瞬で粉々に粉砕するものだった。
拘置所の冷たい面会室。アクリル板越しに座る霊子は、昨日の華やかな姿が嘘のように、ヨレヨレのブランド物の服が、しだらけになっていた。
「さゆり!あんた、何の用よ!勝ち誇りに来たの!」
霊子は、私を見るなり、獣のような目で睨みつけた。
「いい気になるんじゃないわよ!私には、まだ実家の土地の権利があるの!刑務所から出たら、あの家を売って、またあんたを地獄に突き落としてやるんだから!」
まだ、そんなことを言っているのか。私は、心の底から呆れた。健も、隣のブースで、国税局の取り調べに疲れ果てた顔をしていたが、私の姿を見つけると、必死にアクリル板を叩いた。
「さゆり、助けてくれ!霊子が勝手にやったことなんだ!お前は優しい義理の妹だっただろう!頼む!被害届を取り下げてくれ!」
見苦しい言い訳と怒号が飛び交う面会室で、私はゆっくりと一枚の書類を、アクリル板に押し当てた。
「霊子さん。残念ですが、その実家は、もうあなたのものではありません。」
「はぁ?何を言ってるのよ。私が長女なんだから、当然相続権が…。」
「いいえ。あなたが三年目、お母さんが倒れた時に、金庫から盗み出し、勝手に担保に入れた、あの土地と建物。返済が滞っていたため、債権者である私が競売の手続きを完了させました。本日付けで、あの家は私の所有物になりました。」
「な…!」
霊子の顔が、恐怖で引きつった。
「さらに、霊子さん。あなたが実の親だと思っていた仙堂氏の遺言書についても、佐田先生が調査を終えました。仙堂氏は、あなたが愛人の子であることを知っており、一円の遺産も渡さないという排除の手続きを、生前に行おうとしていました。それを、静さんがあえて止めていたんです。あなたが改心することを願って。」
「嘘…嘘よ…お父様が、私を憎むはずがないわ…。」
「いいえ、事実です。そして、あなたがこれまで、夫の会社から流用して贅沢に使っていた、数百万円の役員報酬。これも、実態のない架空のものであるとして、債権者から不当利得返還請求が出されました。あなたは、刑務所を出た後、一文なしになるどころか、一生かかっても返せないほどの、莫大な負債を背負うことになります。」
霊子は、ガタガタと全身を震わせた。
「じゃあ…私の…私の…あの高級ブランドのバッグは?私の優雅な生活は、どうなるのよ!?」
「全て、差し押さえです。あなたが昨日、私に投げつけたあのビニール袋。あれが、あなたの人生で最後に手にする、自由な持ち物になるでしょうね。」
私が冷たく告げると、霊子は発狂したように、アクリル板を拳で殴りつけた。
「いやああ!私は社長夫人なのよ!貧乏人のあんたなんかに、見下される筋合いはないのよ!返して!私の人生を返して!」
取り乱して泣き喚く霊子。その隣で、健も「もう終わりだ…」と、力なく床に崩れ落ちた。
かつて、私を「底辺」「ゴミ」と嘲笑い、三年間の献身を踏みにじった二人。彼らから奪ったのは、お金だけではない。彼らが何よりも執着していた、虚栄とプライド、そして未来への希望の全てだった。
私は、一切の感情を廃した無表情で、その光景を、ただじっと見つめ続けた。私が何も言い返さないことで、彼らは自分の声が虚空に消えていく絶望を、嫌というほど味わっていた。
「さようなら、霊子さん。いいえ、赤の他人の霊子さん。」
私は最後にそう言い残し、一度も振り返ることなく、面会室を後にした。背後で、霊子の正気を失った叫び声が、冷たいコンクリートの壁に虚しく響き渡っていた。
拘置所を後にした、私の心は、驚くほど澄み切っていた。秋の空はどこまでも高く、冷たい風が頬を撫でる。かつては、この風を浴びるだけで「今日はお母さんの体を冷やさないようにしなきゃ」と、自分のことなど二の次で、必死だった。
あれから、数週間後。健の会社は、正式に倒産した。巨額の脱税と文書偽造、さらには長年に渡る社員へのパワーハラスメントが次々と明るみに出て、メディアは「強欲社長夫婦の悪行」として、連日センセーショナルに報じた。
私は、差し押さえられた霊子の元自宅である、超高級マンションの前に立っていた。そこでは、裁判所の執行官たちによって、家財道具の運び出しが行われていた。
「ちょっと、触らないでよ!それ、エルメスの新作なのよ!あんたたちみたいな下っ端に触らせるために買ったんじゃないわ!」
入り口で、保釈保証金を準備できず、厳しい監視下で私物の整理を許された霊子が、ボロボロの姿で叫んでいた。かつて艶やかだった肌はくすみ、高級ブランドの服は見る影もなく汚れ、髪は振り乱されている。
「霊子さん。」
私が声をかけると、彼女は獲物を見つけたハイエナのような顔で、こちらを振り向いた。
「さゆり!あんた、よくも私の前に顔を出せたわね!泥棒猫!あんたが全部仕組んだんでしょう!偽物だのなんだのって!お母さんを誑かして!」
霊子は私に向かって突進しようとしたが、執行官に厳しく制止された。私は一歩も引かず、ただ静かに彼女を見つめた。
「お母さんは、あなたにチャンスを与えていたんです。あの三年間、あなたが一度でも心からお母さんを案じ、見舞いに来ていれば、五億円の一部は、あなたのものになるはずでした。遺言書には、そう書かれていたんです。」
霊子の動きが止まった。
「でも、あなたは来なかった。それどころか、お母さんが亡くなった直後、私をゴミのように追い出した。霊子さん、あなたが捨てた、あの古いビニール袋。あれこそが、あなたが手にできたはずの、最後の、そして最大の資産だったんですよ。」
「嘘…嘘よ…あんな…スーパーの袋が…。」
霊子は、力なく膝をついた。彼女が「汚い、価値がない」と決めつけ、私の顔に投げつけた、あの袋の中に、自分の人生を逆転させるための、全てが入っていた。それを、自らの手で放り投げたという事実。その絶望が、霊子の顔を、刹那に絶望の色に染めていった。
「もうすぐ、あの実家の取り壊しが始まります。お母さんの意思で、あの土地は、地域の子供たちのための公園として寄付することにしました。あなたの居場所は、この世界のどこにも、もう残っていません。」
「ああ、嫌だ!嫌よ!」
霊子は、アスファルトの上に突っ伏して、爪を立てて泣き叫んだ。その姿は、かつて「私を底辺と嘲笑った」傲慢な社長夫人の面影など、微塵もなく、ただの哀れな敗者の姿だった。
「お母さん、見ていてくださいね。」
私は心の中で呟き、その場を立ち去った。後ろでは、霊子が執行官に引きずられながら、最後の私物、皮肉にも彼女が私を追い出した時に使ったものと同じような、安物のビニール袋を抱えて、連れて行かれるのが見えた。彼女のプライド、地位、名誉、そして金。全ては、彼女自身がゴミとして扱った愛の前に、本物のゴミとなって消え去ったのだ。
私は、豪徳寺会長が手配してくれた車に乗り込んだ。行き先は、三年間、一歩も出ることができなかった、あの狭い家ではない。二人の母が、私に託してくれた、自由で光輝く、新しい人生のステージだ。
だが、物語には、まだ最後に伝えるべき奇跡が残っていた。
車が向かった先は、緑豊かな高台にある墓地。そこには、三年間待ち続けた、ある人が、私を待っていたのだ。
「さゆり様、到着いたしました。」
運転手の声に顔を上げると、そこには私の想像を絶する光景が広がっていた。車が止まったのは、町を一望できる静かな丘の上にある、霊園だった。そこには、新しく立てられたばかりの真っ白で清らかな墓標が、午後の光を浴びて輝いている。墓標には、義母の名前と、私の実の母の名前が、隣り合わせに刻まれていた。
「二人のお母さん、ようやく一緒になれたのね。」
私は、二人の母が好きだった白と紫の桔梗の花を手向け、深く頭を下げた。すると、背後から柔らかな足音が近づいてきた。
「さゆりさん。」
振り返ると、そこには意外な人物が立っていた。豪徳寺会長の隣で、穏やかに微笑む一人の青年。義理の弟の、渡君だ。健さんの弟で、数年前から海外の医療チームで働いていた、渡君だった。彼は、霊子からは「あんなのは家族の恥晒しだ」と疎まれていたが、義母が倒れた時、誰よりも先に「自分も帰る」と言ってくれた、優しい青年だ。
「さゆりさん。お母さんから、手紙を預かっていました。『僕が帰国するまで、決して開けないでくれ』と言われていたんです。」
渡君が差し出した手紙。そこには、義母の最後の、そして最大の願いが、綴られていた。
「さゆり。全てが終わったら、渡と一緒に、私の故郷にある小さな診療所を、立て直してくれませんか?あそこは今、医師が足りず、困っている人がたくさんいます。あなたに託した五億円は、そのための資金です。あなたのその優しい手は、介護だけでなく、多くの人を救うための力になるはずです。」
私は、溢れ出す涙を止めることができなかった。義母は、私の三年間の苦労を、「犠牲」だとは思っていなかった。それを、新しい人生を切り開くための「試練の修行」として、見守ってくれていたのだ。
「さゆりさん。僕と一緒に、お母さんの夢を叶えてくれませんか?」
渡君の真っすぐな瞳を見て、私は力強く頷いた。
一年後。都心の喧騒から遠く離れた、海の見える小さな村。そこには、新しく開院されたばかりの「静メモリアル診療所」があった。私は事務として、そして投資の利益を村の福祉に還元する財団の代表として、毎日を忙しく過ごしている。診療所で、渡君が村のお年寄りたちに笑顔で接している姿を見るのが、私の今の幸せだ。
一方、刑務所の中で服役中の霊子と健からは、今でも「金を出せ」「ここから出してくれ」という身勝手な手紙が届くことがある。だが、私はその手紙を、一度も開くことなく、静かにシュレッダーにかける。彼らにかける言葉は、もう一言も残っていない。
窓の外では、潮風に揺れる花が、鮮やかに咲き誇っている。かつて、私の顔に投げつけられた、あの薄汚いビニール袋。その中に入っていた「愛」という名の種は、今、この小さな村で、美しい花を咲かせようとしている。
「お母さん、見ていてくださいね。私、今、本当に幸せです。」
空を見上げると、二人の母が寄り添って笑っているような、温かな陽だまりが、私を包み込んだ。三年間の暗闇は消え去り、私の前には、希望に満ちた明るいばかりの未来が、どこまでも広がっていた。



