38年間、この会社の門をくぐってから一度も裏切ったことはなかった。高卒で入り、営業として、そして気づけば会社に寄せられる苦情処理のすべてを一手に引き受ける存在になっていた。顧客の怒りの声を正面から受け止め、誠実に向き合い、信用を守り続けてきた15年。その記録は、すべて俺の手元にしかない。
新社長の井川が着任したのは、そんな時だった。コスト削減と成果主義を掲げる彼は、最初の会議で全社員の前で言い放った。
「年功序列制度は廃止します」
俺には狙いが見えた。高い給与を取るベテランを排除するつもりだ。
そして苦情処理の説明を求めた井川は、俺の部下でもある若手の田がある発言をするのを待っていたかのように、こう続けた。
「苦情処理は重要度が低い。正社員である必要はない。バイトで十分でしょう」
田も調子に乗った。
「苦情処理程度、僕なら3分でできます」
会議が静まった時、井川が歩み寄り、俺の横を通り過ぎざまに言った。
「武田さん、後で社長室に来てください」
社長室で井川は全社員の給与表を机に広げた。そして薄笑いを浮かべながら言った。
「武田さんは高卒入社でずっと平社員のまま。それでいてこの給与水準はなかなかですよ。今後、営業の担当から外れてもらいます。苦情対応も若手に引き継ぎます」
「では、私の仕事は何ですか?」
「それを自分で考えるのが成果主義というものです。ただ、これまでの実績を見る限り、成果を上げるのは難しいでしょうね」
高卒という言葉が刃のように刺さったが、俺は顔に出さなかった。38年間、顧客の怒りを受け止めてきた人間が、この程度の言葉で表情を崩すわけにはいかない。
俺は翌日、上長の篠原に自己都合退職の意思を告げた。篠原は「引き止める立場じゃない」とだけ言い、視線をそらした。退職届を出したその日、ただ一つだけ懸念が残った。大口の取引先である電気メーカーからの苦情処理が、ちょうど対応の真っ最中だったのだ。だが、引き継ぎを申し出るより先に篠原が言った。
「電気メーカーの件は田に任せます。引き継ぎは不要です」
俺は何も言わなかった。私物をまとめながら、15年分の記録ファイルを手に取った。本来なら会社の外に持ち出すべきではない。だが、このファイルには対応中の案件が含まれている。捨てるわけにはいかない。俺はファイルを鞄に納め、後ろ髪を引かれる思いで会社を出た。
退職から3週間後、同期から電話が入った。
「武田、電気メーカーからの苦情処理の件がおかしなことになってる」
田が送った回答書は、比較基準と正式手順を記した定型的な内容だったらしい。問題はそこではない。俺は10年前のトラブル解決の際、電気メーカーの取締役である朝倉との間で、ある取り決めを交わしていた。再発時は保証交渉に先立ち、双方の実務担当者による事前協議の場を設けるという合意だ。書面には残っていない。経緯と背景、当時の担当者名まで、俺の記録にだけ詳細が残っている。
田がその取り決めを知るはずがない。朝倉は誠実さを何よりも重んじる人間だ。事務的に処理されたと感じれば、交渉のテーブルそのものを畳むだろう。俺が動く義理はない。追い出したのは向こうだ。そう思いながらも、ファイルから目が離せなかった。
夕方、再び同期から連絡が来た。電気メーカー側が弁護士を立てたという。
退職から2ヶ月近く経った朝、同期の声が震えていた。
「電気メーカーが正式に損害賠償の訴えを起こしたぞ。請求額は12億だ」
株価は取引開始と同時に売り注文が殺到し、1割近く下落した。
その日の夕方、会社の代表番号から着信があった。電話口に出たのは井川だった。余裕の色は完全に消えていた。
「武田さん、一度お時間をいただけませんか?」
「考えます」
そう答えて、俺はすぐに電話を切った。向こうの焦りがどこまで深くなるか、もう少し見る必要がある。
3日後、井川から再び電話があった。
「条件があれば聞かせてください」
追い出した本人が、同じ数字に追われて俺にすがっている。俺は数日かけてまとめた条件を話し始めた。
「条件は3つだ。1つ目、苦情処理の専門部署を新設し、その責任者として俺を復帰させること。2つ目、俺が管理してきた15年分の記録を会社の正式な資産として登録し、後継者の育成に使えるようにすること。そして3つ目、訴訟に至った今回の経緯に関する社内調査報告書を作成し、全社員に開示することだ」
井川は沈黙し、ようやく口を開いた。
「1つ目と2つ目は受け入れます。ただ3つ目は社内の体質への影響が懸念されます」
「3つ目がなければ、同じことが必ず繰り返される。条件を受け入れるつもりがないなら、話し合いに応じるつもりもない」
「わかりました。全て受け入れます」
電話を終え、俺はファイルを開いた。どこで対応が崩れたかよりも、今の朝倉がどんな状態にあるかを把握する方が先だった。弁護士を立てた相手との交渉で、謝罪や保障の話から入れば逆効果になる。記録こそが、今の俺に残された唯一の武器だ。
翌日、俺は苦情処理専門部署の責任者として正式に復帰した。直ちに朝倉へ電話をかけた。
「担当として会社に戻ることになりました。話し合いの時間をいただけないでしょうか」
朝倉はしばらく間を置いてから言った。
「武田さんが来るなら、話は聞きます。ただ、今回の対応を決めた方にも同席してもらいたい」
その場で了承し、すぐに井川のところへ向かった。
「先方の条件です。断るなら面談自体が成立しません」
井川は眉を潜め、しばらく黙っていた。
「12億の賠償請求と株価の下落が続いています。社長、この行方が面談にかかっています」
「わかりました」
その返事は短かった。
翌日の面談場所は電気メーカー本社の会議室だった。テーブルを挟んで俺と朝倉が向かい合う。井川と田代は俺の隣に座っていた。朝倉は弁護士を連れてこなかった。俺が直接連絡を入れたことで、そう判断したのだろう。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。朝倉の目には、怒りよりも落胆があるように見えた。
「まず確認させてください。10年前のトラブル解決の際、朝倉さんとの間で交わした取り決めについてです。双方の実務担当者による事前協議の場を設けるという合意です。経緯と背景、その場にいた人間の名前まで、私の記録に残してあります」
朝倉の目が俺に向く。
「さすが武田さんだ。よく覚えていらっしゃる」
「最初のトラブルから私が対応した案件は全て残してあります。朝倉さんがどう判断されたか、帰り際にかけてくださった言葉まで」
俺はファイルを開き、一枚のページを朝倉の側に向けた。日付とトラブルの概要、そして帰り際に朝倉が言った言葉がそのまま書いてある。朝倉は黙ってそれを見つめていた。その目に、険しさはなかった。
「少し失礼します」
朝倉は静かに席を立ち、会議室を出た。数分後、戻ってきた朝倉は椅子に座り直し、俺を見据えた。
「なぜ、こんなものを書き残していたんですか?」
その問いに、攻めるような色はなかった。
「引き継ぐためです。私がいなくなった時、誰かが朝倉さんと向き合えるように。記録に書き残しておけば、いつかそれができると思っていました。ただ、今回は引き継ぎの機会がありませんでした」
朝倉は井川と田に言い放った。
「田という人間が寄越した回答書を見た時、もうこの会社とは話せないと感じた。まるで初対面のような文書だ。長年の付き合いを、その程度のものとして扱う会社なのかと判断せざるを得ない」
俺は井川を見ながら言った。
「それが損害賠償の請求にまで至った原因ですね」
「金額だけじゃない。関係を関係として扱われなかったことへの怒りだ。武田さんが退職したと聞いた時、弁護士を立てようと決めた」
俺はゆっくりと頷いた。
「武田さんが戻ったのなら、訴訟は取り下げます」
その瞬間、記録を書き続けてきたことが報われたという思いが込み上げてきた。
朝倉は視線を井川と田に向けた。
「一つだけ聞かせてください。武田さんを退職させると決めたのは、井川社長。あなたですね。武田さんから直接連絡があった時、私は話し合いをしようと決めた。武田さんは自分が戻ると直接伝えてくれた。しかし社長、あなたからは一言もない」
井川は口を開いたが、言葉が出てこない。田は俯いたままだ。
「申し上げておきたいのは、それだけです」
朝倉は立ち上がり、俺に一礼して部屋を出た。残ったのは三人だけだ。
田が顔を上げ、俺に向かって深く頭を下げた。
「すみませんでした」
俺は無言で小さく頷く。井川は、朝倉が座っていた席をじっと見つめたまま動かなかった。
俺は深く息をついてから口を開いた。
「電話対応がバイトで十分なら、この数ヶ月で発生した12億円の賠償請求と株価の下落はどう説明されますか?これが成果主義の結果ですか?」
井川は顔を上げなかった。田も動かない。二人の沈黙が全てを語っていた。
俺はファイルを静かに閉じ、会議室を後にした。
数日後、訴訟の取り下げが正式に発表された。株式市場は即座に反応し、急落した株価は回復基調に転じた。取締役会での審議の結果、成果主義への転換方針は白紙に戻り、年功序列制度の再設計が改めて始まった。篠原は役職を外れたという。俺が求めた社内調査報告書が全社員に開示されたのは、年が明けてからのことだ。15年間で処理してきた案件の中に、当時適切な対応がなければ訴訟に発展していた可能性が高いものが多く含まれていたことが判明した。
田は新設された苦情処理専門部署に移動となり、俺の部下に配置された。3分でできると言った人間が、今は俺の隣で電話を取っている。
今の俺の仕事は、記録を次の人間に渡すことだ。取引先の名前と出来事だけでなく、そこにいた人間がどういう判断をする者なのかまで書き残してきた記録。それを使える形にして残す。それこそが、地道ながらも会社の安定経営を支える基礎なのだと、俺は信じている。



