「ちょっと若くて可愛いからって、桜井、お前調子に乗ってるんじゃないか。どうせこの会社の面接も、その顔と胸だけで受かったんだろ。社会を舐めるなよ」
私はその言葉を聞いた瞬間、手に持っていたコーヒーカップを固く握りしめた。ロビーの一角でたまたま目にした光景。私の孫、桜井かな子が、上司らしき男に辱められている最中だった。
かな子ははじかれたように自分の胸を隠した。すると男はポケットから財布を取り出し、小銭を床にばらまいた。
「ほら、さっさと拾えよ。全員分の飲み物を買ってこい。お前なんて、それくらいしか役に立てないんだからな」
私はこの時、静かに我慢の限界を迎えた。人の孫に何と言い草だ。挙げ句の果てに、床に小銭をばらまいて拾えだと。この若造が。
「おい、貴様、何をしている」
私は立ち上がり、ゆっくりとその場へ歩み寄った。
私の名前は皆川。年齢は65歳になる。私は大学を卒業後、株式会社カヤという会社に入社した。当時のカヤは、関東県にスーパーマーケットなどを展開する、まだ小さな企業だった。
社長のカヤ守市は、私が入社した時、まだ40歳になったばかりで、今で言うところのカリスマだった。次々とアイデアを出し、それを実現させることで、カヤを徐々に大きくしていった。
私はカヤ社長と同じ大学、同じサークル出身だったこともあり、彼に気に入られていた。
「皆川、今回の仕事は君に任せる。きっと君ならできるだろう」
「社長、ありがとうございます。精一杯頑張ります」
社長に目をかけられ、仕事を叩き込まれた私は、徐々に仕事が楽しくなり、尊敬する社長の下で働けるのを嬉しく思った。私が若くして結婚し、娘を授かった時も、社長は祝ってくれた。一人ひとりの社員を大切にする社長は、私の憧れだった。
私はとにかくがむしゃらに働いた。大学で学んだ経営の知識を生かし、特に企業の買収、子会社化を進めた。社長は会社を大きくしたいとは思っていたものの、その辺りは不得意だったようで、私を信頼して任せてくれた。
その結果、私が40代になる頃には、株式会社カヤはスーパーマーケットやドラッグストアチェーンなどを吸収し、大きく成長した。
「カヤがここまで大きなグループ会社に成長できたのは、皆川君のおかげだ」
「カヤ社長、もったいないお言葉です」
「そこで、君を専務取締役にしようと思う」
「しかし社長、私はまだ40代で」
「年齢など関係ない。君の実力は誰もが認めているし、他の取締役も賛成している」
こうして私は、カヤグループの本社専務取締役となった。
専務に就任してしばらく経った頃、プライベートでも嬉しいことが起こった。一人娘が、桜井学という青年と結婚し、孫のかな子が生まれたのだ。
娘夫婦は私たち夫婦の暮らす家の近くに住んでおり、よく孫を連れてきてくれていた。
「かな子はなんて可愛いんだ。目に入れても痛くないとは、このことだな」
「お父さん、私のことより可愛がってるんじゃない?」
娘には呆れられたものだ。孫はすくすくと成長していき、私は私で仕事に没頭した。専務として会社の経営に関わりながら、社長を支え続けた。
時は経ち、孫のかな子は大学を卒業する年になった。
「かな子、もう就職先は決めたのか?」
「うん。おじいちゃん、実は私、赤井薬局に内定をもらったの」
「赤井といえば、うちの子会社じゃないか。知らなかったな」
「少しでもおじいちゃんの役に立つ仕事がしたかったけど、就活では力を借りずに自力で頑張りたくて。でも、受かって嬉しい」
私は家族からは仕事人間だと呆れられることが多かったが、かな子はそんな私を尊敬してくれていたらしい。私はそのことを嬉しく思い、「精一杯頑張るんだぞ」と声をかけた。
私が65歳になった頃、年齢を理由にカヤ社長が退任することになった。
「皆川、次の社長はお前に任せたいと思っている」
私の上には副社長もいたが、彼は自分は二番手の方が向いていると言ったため、私が新社長に選ばれた。
「ありがとうございます。私はカヤを守り抜き、さらに成長させて見せます」
「心強い言葉だ。カヤグループのことは、任せたぞ」
こうして私は、カヤの本社代表取締役社長に就任した。
そして、社長になってからしばらくして、私は訳あって、かな子の働く赤井薬局の本社に来ていた。オープンスペースとなっているロビーの端でコーヒーを飲んでいると、あちらこちらでミーティングをする社員の姿が見える。
すると、かな子を含む7人ほどのグループがやってきた。
「さて、ミーティングを始める。桜井、資料を出せ」
30代半ばくらいの男が、偉そうにかな子に言った。しかし、かな子の表情は凍りついている。
「赤井課長、資料とは何のことでしょうか?」
「ミーティング資料を作るように言っておいただろ? 桜井」
「課長、私はそんなことは聞いていません」
どうやら雲行きが怪しくなってきた。私はかな子につっかかる男の名前を知っている。赤井大輔。赤井薬局の社長である赤井正幸の息子で、コネ入社だと言われている。
「なんだよ、お前。自分のミスを人のせいにしようというのか?」
「そうではなくて、とにかく資料作りを私は命じられていないんです」
かな子は嘘をつくような性格ではない。周りの社員は気まずそうに目配せし合っている。すると大輔は鼻で笑った。
「ちょっと若くて可愛いからって、桜井、お前調子に乗ってるんじゃないか」
「そ、そんなこと……」
「どうせこの会社の面接も、その顔と胸だけで受かったんだろ。社会を舐めるなよ」
かな子はそう言われ、はじくように自分の胸を隠した。私は信じられない光景を目の当たりにし、その場を凝視してしまう。
「お前みたいな仕事のできない無能が、役に立てることがあるのか?」
「わ、私は……」
かな子が答える前に、大輔はポケットから財布を取り出すと、小銭を床にばらまいた。
「ほら、さっさと拾えよ。全員分の飲み物買ってこい。お前なんて、それくらいしか役に立てないんだからな」
私はこの時、我慢の限界を迎えた。人の孫に何と言い草だ。挙げ句の果てに、小銭を拾えだと。この若造が。
「おい、貴様、何をしている」
「は? あんた誰?」
大輔は突然歩み寄ってきた私に、驚きの視線を向けた。
「お、おじいちゃん、どうしてここに?」
かな子が呆然としてつぶやく。すると大輔は、かな子と私を交互に見て言った。
「なんだ、このじじい。お前の身内なのか?」
「そうだ。私はそこにいる桜井かな子の祖父だ」
「おいおい、ここは老人ホームじゃないんだぞ。なんで社員の祖父がこんなところにいるんだよ。お前が連れてきたのか?」
大輔は馬鹿にするように笑い、かな子の顔を覗き込む。
「おい、じじい、聞いてるのかよ。授業参観じゃないんだぜ。なんでこんなところにいるんだよ」
なぜ私が赤井薬局の本社にいるのか。それは、娘から「かな子が悩んでいる」と相談されたのがきっかけだった。
かな子は大学卒業後、赤井薬局に入社したのだが、その直後の歓迎会で社長の息子である大輔に目をつけられたという。大輔は「2人で飲みに行こう」とかな子をしつこく誘った。しかしかな子はそれを丁寧に断り、「2人にはならない」と言った。
すると翌日から、大輔の態度が一変し、かな子に辛く当たるようになった。直属の上司でありながら仕事を教えなかったり、話しかけても無視をしたり。仕事も円滑に進まなくなり、かな子は「どうすればいいんだろう」と涙ながらに娘に語ったのだそうだ。
「心配させたくないから、おじいちゃんには言わないで」とかな子は言ったらしいが、娘から聞く嫌がらせの内容はどんどんエスカレートしていった。娘もこらえきれなくなって、私に相談したというわけだ。
それを聞いて、私はすぐに秘書に「赤井薬局に正体を隠して入り込みたい」と告げた。秘書は「社長ともあろう方が」と慌てたが、私は他に気になることもあり、どうしても赤井薬局に行きたいと伝えた。その結果、現在こうして赤井薬局の本社で、大輔と対峙しているのである。
「私がここにいる理由など、貴様には関係ない。それよりも、かな子へのさっきの態度は何だ? 立派なセクハラにパワハラだろうが」
私がそう言うと、大輔は鼻で笑った。
「おお、怖い怖い。じじいが生きがってんじゃねえよ。覚えたての言葉でも使ってみたかったんですか? おじいちゃん」
「お前はいつも、そんな風に人を馬鹿にした態度なのか」
「さて、何のことやら。ていうか、じじい、孫可愛さにしゃしゃり出てきたようだけどよ。本当に後悔しないのか?」
「後悔とは、どういうことだ?」
私が大輔を睨みつけると、大輔は他の社員に言った。
「おい、このじじいに俺の正体を教えてやれよ」
すると、顎でしゃくられた社員が、気まずそうに呟いた。
「赤井課長は、赤井薬局の社長のご子息です……」
「聞こえたか、じじい? 俺はこの会社の社長の息子だ。お前の孫の首なんて、飛ばそうと思えばいつだって飛ばせるんだよ」
勝ち誇ったように笑う大輔。私はため息をついて告げた。
「そうか。じゃあ、お前のご自慢のパパをここに連れてこい」
「はあ? なんで部外者のじじいのために、社長を連れてこなきゃならないんだよ。そんなに暇じゃねえんだよ。頭使えよ、じじい」
「なるほど。それでは、直接呼ぶとしよう」
私は携帯を取り出すと、電話をかけた。すると3コールもしないうちに、赤井薬局の社長である正幸が電話に出る。
「皆川社長、赤井です。本日はどんなご要件で?」
「赤井社長。私は現在、赤井薬局本社に来ていましてね。ロビーに出てきてもらうことはできますかな?」
私がそう言うと、正幸社長はパニックになったようだった。
「し、社長が弊社に……!? すぐに向かいます!」
私が電話を切ると、数分も経たずに、太った体を揺らして正幸社長がやってくる。すると彼は、私に向かって頭を下げ始めた。
「皆川社長、どういった理由があるか分かりませんが、足をお運びいただき、ありがとうございます」
大輔は、社長が私に頭を下げる姿を、驚愕して見ていた。
「おい、父さん、なんでこんなしょぼくれたじじいに頭下げてるんだよ」
「おい、口を慎まんか、大輔! この方は親会社、カヤの新社長だろうが!」
正幸が真っ青になって叫ぶと、大輔は「は?」と呟いた。
「え、だって、桜井のじいさんだって……」
「桜井? 入社員の桜井さんが、どうかしたのか?」
正幸社長は意味が分からないという顔になる。私とかな子は苗字も違うし、かな子が赤井薬局に入社したのは周りに伏せていた。
「いかにも。ここにいる桜井かな子は、私の孫だが」
すると、その場がざわめいた。大輔は顎が外れんばかりに口を開いていた。
「おい、桜井! お前、そんなこと一言も……」
かな子は怒った表情で、大輔から視線をそらす。正幸社長はまだ事態が飲み込めていないようだった。
「そ、その、皆川社長。それで、何かあったのでしょうか?」
そこで私は、自分が目撃した一連の仕打ちを正幸社長に説明した。大輔がかな子に言いがかりをつけたこと、セクハラじみた言葉を言ったこと、そして小銭を床にばらまいて命令したことを。
それを聞きながら、正幸社長はどんどん真っ青になっていった。
「そ、そんな……大輔が、お孫さんにそんなことを……大変申し訳ございません!」
社長はその場で膝をつき、土下座の姿勢になる。そして、呆然と立ち尽くす大輔にも「お前も頭を下げんか!」と怒鳴った。
大輔は顔面蒼白になり、震えながら土下座の姿勢になった。
「も、申し訳ございませんでした……」
「謝るのは、私にではないだろう」
大輔は飛び上がるようにして身を起こし、かな子に向き直った。
「桜井さん、失礼な真似をして、申し訳ございませんでした」
するとかな子は、涙目になりながら告げた。
「私は、到底許すことはできません。それに……被害者は、私だけじゃありませんから」
いつの間にか集まっていた社員たちの中から、数人が進み出た。
「私も、赤井課長にセクハラされました。体を触られたこともあるわ」
「僕は、無茶ぶりされて、できなければ朝までサービス残業させられました」
出るわ出るわ、大輔の悪業があげつらわれる。赤井親子はさらに真っ青になっていった。
「ちなみに、ここに来る前に、取締役会に内密で赤井薬局の内部調査を行っている」
「え……?」
「赤井薬局では、役員とその身内のコネ社員が入り乱れ、社員が虐げられているという結果が出ているんだ」
すると正幸は、気まずそうな顔になった。コネ入者の社員は大輔だけでなく、赤井薬局の副社長や専務の子供も入社し、それぞれ悪業を働いていたのである。
「も、申し訳ありません! 皆川社長。愚息を始め、そういった社員には、私が責任を持って指導しますので、何卒、何卒大事にはしていただきたく……」
唇を震わせながら言う正幸社長。そんな彼に、私は大きなため息をついた。
「正幸社長。内部調査の結果、分かったことは、セクハラやパワハラだけではないんですよ」
「え、と言いますと……?」
「あなた方役員は、売上を誤魔化し、私服を肥やしていますね」
正幸社長は息を飲んだ。そう、私がかな子のこと以外にも気になることがあると秘書に言ったのは、このことだったのだ。
「ま、まさか、そんなことは決して……」
「じゃあ、これは何ですかな?」
そこで私は、内部調査の結果資料を床にばらまいた。そこには、赤井薬局の役員の不正を裏付けるデータが並んでいる。
「もう確実な証拠は上がっているんだ。自分たちの罪を認めなさい」
正幸社長は、とうとう自分たちの不正を認めた。親会社に報告する売上を誤魔化していたこと。それを役員はこっそり着服し、贅沢三昧していたことを。
さすがの大輔も、父がそんな不正を働いていたとは知らなかったようで、呆然として父親を見ていた。
「どうか、どうか皆川社長、見逃していただけませんでしょうか?」
この後に及んでそんなことを言う正幸社長に、私はきっぱりと告げた。
「そんなわけにはいかない。赤井薬局の役員は、全員解雇にする」
「そ、そんな……!」
「当然だろう。役員同士でグルになって不正を働いていたんだ。その上、身内をコネ入社させ、贅沢三昧を見過ごしていた。そんな者どもは、会社のためにはならない。全員解雇だ」
私がそう宣言すると、社員たちから、なんと歓声が上がった。それほど、役員たちに苦しめられてきた人間が多かったということだろう。
すると、大輔が叫んだ。
「お、おい、ちょっと待てよ! 父さんは社長をクビになるってことなのか? でも、俺は残れるんだよな? 首とかありえねえから」
そこで私は、大輔を睨みつけた。
「貴様、話を聞いていなかったのか。役員は不正で解雇する。だが、私は親会社の社長として、社員を苦しめた貴様の解雇も決定する。さっさと荷物をまとめろ」
「そ、そんな……そんなの、あんまりだ……!」
大輔は情けなく泣き始め、周りはドン引きしていた。誰一人寄る者がなかったのが、大輔がこれまでやってきたことの結果だろう。
顔面蒼白で魂が抜けたようになっている正幸社長と、泣き喚く大輔は、他の社員によってその場からつまみ出されたのだった。
彼らが去ると、私は赤井薬局の社員たちに向き直った。
「これで、君たちの成長を妨げていた悪質な社員と役員たちは一掃される。私は君たちが、真面目で有能な人材だと信じている。新しい社長や役員には、きちんとした人材を据えると約束しよう。君たちには、赤井薬局、ひいては親会社のカヤのため、精一杯頑張ってもらいたい」
すると、社員たちから拍手が起こり、中には嬉し泣きしている者もいた。
「ええ、最後にだが……」
私は咳払いをして、かな子を見る。
「桜井かな子が、親会社社長の私の孫であるということは、周知の事実となってしまったが……君たちに頼みがある。かな子を特別扱いせずに、働かせてやってほしい」
「おじいちゃん……!」
「かな子は、赤井薬局のために尽くすだろう。指導をよろしく頼みます」
私が頭を下げると、社員たちは慌てた。その場は温かな雰囲気に包まれ、これからの赤井薬局はいい会社になると、私は確信していたのだった。
その後、私は赤井薬局の役員を一斉に解雇した。もちろん、大輔を含む問題のコネ社員も解雇となった。私は信頼できる関連会社の役員を、赤井薬局の代表取締役社長に任命した。薬局はその会社名も新しくし、誠実で社員を思う社長のもと、再出発をすることとなる。
ここからは聞いた話だが、社長を解雇された正幸には、実は贅沢癖があり、借金まであったのだという。社長を解雇されたことで返済の目途は立たなくなり、赤井家は一気に困窮。正幸の妻で大輔の母である夫人は、夫に見切りをつけ、家を出ていったのだとか。現在、正幸は家も売り払い、田舎に引っ込んでしまったらしい。また、正幸と大輔は「お前のせいでこんなことになった」と揉め、親子の縁を切ったのだとか。
大輔はボロアパートに転がり込み、転職しようとしているものの、あの性格が災いして、なかなかうまくいかないらしい。彼が社会に揉まれ、少しでもまともになることを期待したいが、期待するだけ無駄かもしれない。
一方の私は、引き続きカヤの代表取締役として仕事をしている。カヤグループは成長を続けているので、責任感を持って仕事に取り組んでいくつもりだ。
かな子は、名前を変えた赤井薬局で働き続け、どんどん仕事で成果を出しているらしい。
「会社が一新されて、風通しが良くなって、のびのび働けてるわ。おじいちゃん、ありがとう」
笑顔で言うかな子が、私はやっぱり可愛くて仕方ない。
ちなみに、あの騒動から3年後、かな子は同僚と結婚することが決まった。私も相手には合わせてもらったが、誠実そうで優秀な、素晴らしい青年だった。来年の春には、かな子の結婚式が行われる。私は今からそれが楽しみで仕方ない。



