「嫁いびりをするのはやめろ。」
玄関で靴を脱いでいた私の手が、息子の怒鳴り声に凍りついた。川島利子、68歳。呉服店で38年間働き続けてきた私が、まさかこんな言葉を投げつけられるなんて。
「母さんのせいで沙耶が毎日泣いているんだ。もう我慢の限界だ。」
大志の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。私の胸に鋭い痛みが走る。3年前に夫を亡くしてから、息子夫婦との同居は私にとって心の支えだったのに。
「ちょっと待って。大志、私が何をしたっていうの?」
震える声で問いかけたが、息子は首を横に振るだけだった。その後ろから、嫁の沙耶が涙を拭いながら現れた。
「お母さん、私、これ以上耐えられません。」
沙耶の言葉に、私は言葉を失った。一体何が起きているの? 私は沙耶に優しく接してきたつもりだったのに。
「今夜中に出て行ってくれ。母さんとはもう一緒に暮らせない。」
大志の冷たい宣告が私の心臓を貫いた。38年間真面目に生きてきた私の人生が、たった一瞬で否定された気がした。
でも、不思議なことに、その瞬間、私の口元に静かな微笑みが浮かんでいた。
「母さんが沙耶に嫌がらせをしているって、近所の人からも聞いたんだ。」
大志の言葉に私は耳を疑った。嫌がらせ? そんなことをした覚えは一切ない。
「落ち着いて話を聞いて。私は沙耶さんに何もしていないわ。」
必死に弁明しようとしたが、息子は顔を背けた。まるで私の声が聞こえていないかのように。
「お母さん、もういいんです。私たち夫婦の時間を大切にしたいんです。」
沙耶の声は冷たく、私を完全に拒絶していた。
「証拠もないのに、私を追い出すの? 38年間、看護婦として真面目に働いて、あなたを立派に育てたこの母親を?」
涙が込み上げてきたが、私は必死にこらえた。大志は私の目を見ようともしない。
「母さん、これは沙耶と俺で決めたことだ。明日の朝までに荷物をまとめてくれ。」
「お母さんの荷物は最小限でお願いします。この家は私たちのものですから。」
沙耶の言葉が私の胸に突き刺さった。3年前に夫が亡くなってから、必死に守ってきたこの家。息子夫婦のために全てを捧げてきたのに。
「分かったわ。でも大志、いつか必ず後悔する日が来るわよ。」
私は静かにそう告げると、自分の部屋へ向かった。
翌朝、私は小さなスーツケース一つに荷物をまとめていた。38年間の思い出が詰まった品々を、たった一つのケースに押し込める虚しさに胸が締めつけられる。
「母さん、早く出て行って。」
大志が部屋のドアを乱暴に開けた。その顔には、もう息子としての優しさは微塵も感じられなかった。
「お母さん、これからは私たちの新しい生活が始まるんです。邪魔をしないでください。」
沙耶が腕を組みながら、勝ち誇ったような表情で私を見下ろしていた。
玄関を出ると、近所の山田さんと鈴木さんが立話をしていた。私を見るなり、ひそひそと囁き合う。
「あら、川島さん、お出かけですか?」
山田さんの声には、明らかに何かを知っているような響きがあった。
「え、ええ、少し用事があって。」
私は曖昧に答えたが、鈴木さんは意味深な視線を向けてきた。
「沙耶さん、大変だったみたいですね。お母さんからの嫁いびりで。」
その言葉に私は凍りついた。嫁いびり? 私が? 一体誰がそんな嘘を広めたというの。
「そんなこと、私は一切していません!」
必死に否定したが、2人の表情は変わらなかった。むしろ、哀れむような目で私を見ている。
「川島さん、認めた方がいいですよ。沙耶さんが泣きながら相談していたのを、皆さん見ていますから。」
山田さんの言葉が私の心を深くえぐった。この町内で30年以上誠実に生きてきた私の評判が、たった一つの嘘で崩れ去っていく。
家を後にして歩き始めると、後ろから大志の声が聞こえてきた。
「もう二度と戻ってくるな。お前みたいな性格の悪い母親はいらない。」
息子の残酷な言葉に、私の足がよろめいた。性格が悪い? この私が、毎朝5時に起きて朝食を作り、大志の好物を覚えて作り続けた私が。
「お母さん、私たちの幸せを邪魔しないでくださいね。」
沙耶の冷たい笑い声が風に乗って聞こえてきた。
通りを歩いていると、呉服店の同僚だった田中さんに出会った。
「利子さん、どうしたの? 顔色が悪いわよ。」
田中さんの優しい声に、思わず涙がこぼれそうになった。でも、ここで泣いてはいけない。
「実は、息子夫婦と少し問題があって…」
「まさか、噂は本当だったの? 利子さんが嫁いびりをしているって。」
田中さんまでもがその噂を知っていたことに、私は愕然とした。20年間共に働いた同僚にまで、私は悪者として見られているのか。
「違うの、田中さん。私は何もしていないのよ。」
「でも利子さん。沙耶さんのお母様が町内会で話していたわよ。利子さんが毎日沙耶さんをいじめているって。」
沙耶の母親? 初めて聞く話だった。私は沙耶の実家とはほとんど交流がなかったのに。
夕方、とりあえず近くの小さなアパートを借りることにした。不動産屋の店員も、私を見る目が冷たかった。きっと噂が広まっているのだろう。
古いワンルームのアパート。家賃は月5万円。年金暮らしの私には少し厳しいが、仕方がない。
部屋に入ると、急に孤独感が襲ってきた。夫の仏壇に手を合わせることもできない。毎朝供えていた花も飾ることができない。
「あなた、私は嫁いびりなんてしていないのよ。」
誰もいない部屋で、泣き夫に語りかけた。でも、返事が返ってくるはずもない。
その夜、私は一人で泣いた。38年間の誠実な人生がたった一つの誤解で否定された悔しさ、息子に裏切られた悲しさ、全てが押し寄せてきて、枕が涙で濡れた。
でも、泣きながらも心のどこかで静かな決意が芽生えていた。
必ず真実を明らかにして見せる。そして、私を陥れた者には必ず報いを受けさせる。今に見ていなさい。
あの日から1ヶ月が経った。小さなアパートの窓から見える景色は、相変わらず殺風景な駐車場だけ。朝起きて、一人分の質素な朝食を作る毎日。かつては家族3人分の食事を作っていた手が、今は自分一人のために動いている。
息子からの連絡は一度もなかった。買い物に出ると、町内の人々の視線が突き刺さる。パートでも私を避けるように距離を取る主婦たち。今まで築いてきた信頼関係が、全て崩れ去っていた。
「あの人、川島利子さんでしょ。嫁いびりで追い出されたって聞いたわ。」
「ひどい姑だったらしいわよ。沙耶さんが可哀想に。」
聞こえてくる陰口に、私は俯いて足早に通り過ぎる。反論したくても、誰も私の話を聞いてくれない。まるで透明人間になったような気分だった。
そんなある日、呉服店に顔を出すことにした。38年間勤めた職場だ。せめて、昔の同僚たちとは話がしたかった。
「利子さん、久しぶりね。」
店長の吉岡さんが温かく迎えてくれた。この1ヶ月で初めて感じる、人の温もりだった。
「吉岡さん、お元気でしたか?」
「利子さんこそ、大丈夫? 噂は聞いているけど、私は信じていないわよ。」
吉岡さんの言葉に、思わず涙がこぼれそうになった。信じてくれる人がいた。それだけで心が少し軽くなる。
「実は私も、利子さんらしくないと思っていたの。」
奥から現れた後輩の美沙さんも、優しく微笑んでいた。
「38年間、利子さんがどれだけ真面目に働いていたか、私たちは知っているもの。」
その時、店に一人の客が入ってきた。見覚えのある顔だった。沙耶の同級生だった裕子さんだ。
「あら、川島さん。」
裕子さんは私を見て少し驚いた表情を見せた後、周りを見回してから小声で話しかけてきた。
「利子さん、実は気になることがあって。」
「何かしら?」
「沙耶さんのお母様のことなんですけど…最近、町内会でおかしなことを言いふらしているんです。」
私の心臓が高鳴り始めた。沙耶の母親、恵美子さん。確かに田中さんも彼女の名前を出していた。
「利子さんが沙耶さんをいじめていたって、具体的な内容を話しているんですけど、どうも辻褄が合わないんです。」
「どういうことですか?」
裕子さんは声を潜めた。
「恵美子さんが言うには、利子さんが毎日沙耶さんの料理に文句をつけていたって。でも沙耶さん自身は、『お母さんはいつも美味しいって褒めてくれる』って言っていたんです。」
私の中で、何かが繋がり始めた。恵美子さんが嘘を広めている。でも、なぜ?
「それに、恵美子さんは利子さんの悪口を言う時、妙に詳しいんです。まるで見てきたかのように。」
「でも、恵美子さんはうちにはほとんど来たことがないわ。」
「そうでしょう。だから変なんですよ。」
裕子さんは何か考え込んでいるようだったが、時計を見て慌てた様子を見せた。
「ごめんなさい。もう行かなくちゃ。でも利子さん、私は利子さんの味方です。」
裕子さんが去った後、吉岡さんが真剣な表情で近づいてきた。
「利子さん、もしかしたらあなたは嵌められたのかもしれないわね。」
「嵌められた?」
「ええ、恵美子さんという人、前に似たようなトラブルを起こしていたって聞いたことがあるの。」
美沙さんも頷いた。
「私も聞きました。自分の娘の姑ともめて、結局離婚に追い込んだとか。」
私の体が震え始めた。もしそれが本当なら、私は恵美子さんの策略に嵌められたということ?
「利子さん、証拠を集めた方がいいわ。」
吉岡さんの助言に、私は頷いた。そうだ。ただ泣いているだけではダメだ。真実を明らかにしなければ。
その日の帰り道、私は小さなICレコーダーを購入した。もし恵美子さんが私の悪口を言っているなら、それを録音しよう。
アパートに戻ると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人の名前はない。
恐る恐る開けると、そこには一行だけ書かれていた。
「真実を知りたければ、明日の午後3時に中央公園へ。」
私の手が震えた。これは罠だろうか? それとも味方からの連絡だろうか? でも、今の私には失うものは何もない。明日、必ず行くわ。
中央公園のベンチに座って待っていると、意外な人物が現れた。沙耶の親友だった亜美さんだった。彼女は周りを警戒するように見回してから、私の隣に座った。
「利子さん、お久しぶりです。」
「亜美さん、あなたが手紙を?」
亜美さんは深くため息をついた。その顔には明らかな苦悩の色が浮かんでいた。
「利子さん、私はもう黙っていられません。沙耶がしていることは間違っています。」
私の心臓が高鳴った。
「沙耶が、何をしているというの?」
「実は、沙耶のお母様、恵美子さんが利子さんの悪口を広めているのは、全て計画的なものなんです。」
計画的? 亜美さんは小さな封筒を取り出した。
「これを聞いてください。先週、沙耶と恵美子さんが話しているのを、偶然録音したんです。」
亜美さんがスマートフォンを操作すると、聞き覚えのある声が流れてきた。
「お母さん、もっと大げさに言って。利子さんが私を毎日いじめていたって。」
沙耶の声だった。私の手が震える。
「分かったわ。でも沙耶、本当にこんなことして大丈夫なの?」
「大丈夫よ。これであの家は完全に私たちのものになるんだから。」
「でも、利子さん、何も悪いことしてないんでしょう。」
「だから何? あの人がいなくなれば、大志さんの財産も自由に使えるし、実家の土地も売れるのよ。」
録音はそこで途切れた。私は言葉を失った。全て、演技だったのか。沙耶の涙も、大志の怒りを煽ったのも。
震える声でつぶやくと、亜美さんが私の手を握った。
「利子さん、実は、まだあるんです。」
亜美さんは別の録音を再生した。今度は恵美子さんの声が中心だった。
「田中さん、実は、利子さんがうちの沙耶をいじめているんです。毎日台所で嫌みを言われて、沙耶は泣いているんですよ。」
「まあ、そんなことが。」
「ええ、利子さんは表向きはいい人ぶっているけど、実は恐ろしい姑なんです。」
私の目から涙がこぼれた。恵美子さんが積極的に嘘を広めている証拠が、ここにあった。
「亜美さん、どうしてこんなものを?」
「実は、私、沙耶の行動がおかしいと思っていたんです。利子さんのことを悪く言う時の沙耶の目が、嘘をついている時の目だったから。」
亜美さんの言葉に、私は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「それに、私も夫の母と同居しているけど、利子さんみたいな優しいお母さんだったら、どんなに幸せかと思っていました。」
その時、亜美さんの電話が鳴った。画面を見て、亜美さんの顔が青ざめた。
「沙耶からだ。」
「出なくていいわ。」
私が止めたが、亜美さんは首を横に振った。
「いいえ、出ます。利子さん、録音してください。」
私は慌ててスマートフォンを取り出した。
「もしもし。沙耶?」
「亜美、今どこにいるの?」
スピーカーから聞こえる沙耶の声は、苛立っているようだった。
「買い物よ。どうしたの?」
「お母さんのこと、誰かに話してない?」
「え? どういうこと?」
「裕子が変なこと言ってたのよ。利子さんは悪くないんじゃないかって。」
亜美さんと私は目を合わせた。
「私は何も話してないわよ。」
「本当? もし余計なこと言ったら、あんたも同じ目に合わせるから。」
脅迫めいた言葉に、私は怒りを感じた。
「沙耶、あなた何を言っているの?」
「とにかく、お母さんの味方なんかしたら、後悔することになるわよ。」
電話が切れた。亜美さんの手が震えていた。
「利子さん、沙耶は本気です。私、怖い。」
「亜美さん、あなたを巻き込んでごめんなさい。」
「いいえ、これは私が選んだことです。正しいことをしないと、後悔すると思ったから。」
私たちは公園を出て、呉服店へ向かった。吉岡さんと美沙さんに録音を聞いてもらうためだ。
店に着くと、吉岡さんは真剣な表情で録音を聞いていた。
「これは酷い。完全な名誉毀損よ。」
美沙さんも憤慨していた。
「利子さん、これを警察に持っていくべきです。」
でも、私には別の考えがあった。
「いいえ、まだです。もっと証拠を集めてから、一気に反撃します。」
その時、店のドアが開いた。入ってきたのは、なんと大志だった。
「母さん。」
1ヶ月ぶりに聞く息子の声。でも、そこに優しさは感じられなかった。
「何の用かしら?」
私は冷たく問いかけた。
「母さんが店にいるって聞いて。みんなに迷惑かけないでくれよ。」
迷惑? 私は嘲るように言った。
「そうよ。私が大志にとっては、迷惑な存在なんでしょう。」
「そうだよ。母さんのせいで、沙耶はまだ苦しんでいるんだ。」
その時、亜美さんが立ち上がった。
「大志さん、あなた騙されているのよ。」
「亜美さん、何を言っているんですか?」
「沙耶さんと恵美子さんが、利子さんを陥れたの。全部嘘よ。」
大志の顔が青ざめ始めた。
「何を言っているんですか? 母さんが沙耶をいじめていたのは事実だ。」
大志は必死に否定したが、その声には動揺が隠せなかった。
「大志さん、これを聞いて。」
亜美さんがスマートフォンを取り出し、先ほどの録音を再生した。沙耶と恵美子の会話が、静かな店内に響く。
「お母さん、もっと大げさに言って。利子さんが私を毎日いじめていたって。」
「大丈夫よ。これであの家は完全に私たちのものになるんだから。」
録音が終わると、大志の顔は真っ青になっていた。膝から力が抜けたように、近くの椅子に崩れ落ちた。
「嘘だ、こんなの。」
「嘘じゃないわ。あなたの愛する妻が、私を陥れたのよ。」
私の声は冷たく、感情を押し殺していた。38年間育てた息子が、私を信じずに追い出した。その傷は深い。
「母さん、僕は…」
「今更、何を言うの? あなたは私の話も聞かずに、家から追い出したじゃない。」
吉岡さんが口を開いた。
「大志君、利子さんがどれだけ辛い思いをしたか分かる? 町内中で嫁いびりする悪い姑として噂されて、誰も近寄らなくなったのよ。」
美沙さんも続けた。
「38年間この店で真面目に働いてきたり子さんの評判が、たった一つの嘘で台無しになったんです。」
大志は頭を抱えていた。
「でも、沙耶は泣いていた。本当に苦しそうだった。」
「演技よ。」
亜美さんがきっぱりと言った。
「沙耶は昔から演技が上手かったの。自分の目的のためなら、涙なんて簡単に流せる子だった。」
その時、私の携帯電話が鳴った。見ると、見知らぬ番号だった。
「もしもし。川島利子さんですか? 私、不動産会社の山崎と申します。」
不動産会社?
「実は、川島様の亡きご主人様から相続された土地について、重要なお知らせがあります。」
私は息を飲んだ。夫の実家の土地。相続した覚えはあるが、特に活用もせず放置していた。
「はい。」
「渋谷の一等地にある土地のことです。以前から購入希望があったのですが、この度、5億円での買い取りオファーが入りました。」
店内にいた全員が、私の言葉に振り返った。
「5億円?」
「はい。川島様の亡きご主人様は、この土地を利子様名義で残されています。詳しくは後日伺いますが、取り急ぎご連絡まで。」
電話を切ると、大志が震え声で聞いてきた。
「母さん、5億円って…」
「あなたには関係ないことよ。」
私は冷たく突き放した。
「実は、あなたのお父さんは私にかなりの資産を残してくれていたの。でも、あなたたちには一切話していなかった。」
「どうして…」
「お金目当てで近づく人間を見極めるためよ。そして、見事にあなたたちの本性が分かったわ。」
大志の顔がさらに青ざめた。
「母さん、誤解だ。僕は…」
「あなたは私を信じなかった。それが全てよ。」
その時、店のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは、沙耶と恵美子だった。
「大志さん、こんなところで何をしているの?」
沙耶の声には苛立ちが滲んでいた。
「お母さんと話なんかしないって、約束したでしょう。」
「沙耶君…」
大志が何か言いかけたが、恵美子が遮った。
「大志さん、すぐに帰りましょう。こんな嫁いびり婆と話すことなんて、何もないわ。」
その瞬間、私の中で何かが切れた。
「恵美子さん、いい加減にしなさい。」
私の声は店内に響き渡った。
「あなたが私の悪口を言いふらしていたこと、全部録音されているのよ。」
恵美子の顔が引きつった。
「何を言っているの? 証拠もないのに。」
「証拠なら、ここにあるわ。」
亜美さんが再び録音を再生した。恵美子が田中さんに私の悪口を言っている音声が流れる。
「これは…」
恵美子が言葉を失った。
「お母さん、どういうこと?」
沙耶が母親を見たが、恵美子は答えられなかった。
「沙耶さん、あなたも共犯よね。」
私は沙耶をまっすぐ見つめた。
「『利子さんがいなくなれば、大志さんの財産も自由に使える』って言っていたわよね。」
「そんなこと言ってない!」
沙耶は必死に否定したが、亜美さんがまた別の録音を再生した。
「あの人がいなくなれば、大志さんの財産も自由に使えるし、実家の土地も売れるのよ。」
沙耶自身の声が、店内に響いた。
「沙耶、これは本当なのか?」
大志が苦い声で問いかけた。沙耶は答えられず、ただ俯いていた。
「答えてくれ。母さんを追い出したのは、金のためだったのか?」
「違う、私は…」
沙耶が言い訳を始めようとした時、私は立ち上がった。
「もういいわ。全て分かったから。」
私は大志を見た。
「あなたに言っておくことがあるわ。私は今日、弁護士に会ってきた。あなたへの経済的支援は、今後一切しない。」
「母さん…」
「それから、お父さんが残してくれた土地の売却金5億円も、あなたには一銭も渡さない。全て寄付することに決めたわ。」
沙耶と恵美子の顔が真っ青になった。
「5億円…」
沙耶が震え声で呟いた。
「そう、あなたたちが知らなかった財産よ。でも、もう関係ないわね。」
私は店を出ようとしたが、振り返って最後に言った。
「大志、私を嫁いびりする悪い母親だと言ったわね。その言葉、一生忘れないわ。」
「母さん、待って!」
大志が追いかけてきたが、私は振り返らなかった。
「お母さん、お願いします。話を聞いてください。」
沙耶も必死に呼び止めたが、私の足は止まらなかった。
「利子さん。」
亜美さんが私の肩に手を置いた。
「利子さん、あなたは何も悪くありません。正しいことをしたんです。」
吉岡さんと美沙さんも頷いていた。
「利子さん、私たちはあなたの味方よ。」
涙が溢れてきた。でも、それは悲しみの涙ではなかった。ようやく真実が明らかになった安堵と、私を信じてくれる人たちがいる喜びの涙だった。
あれから3ヶ月が経った。私は渋谷の高級マンションの最上階で、朝のコーヒーを楽しんでいる。窓から見える東京の街並みは、朝日に輝いて美しかった。
土地の売却金5億円。そのうち2億円でこのマンションを購入し、残りは資産運用と寄付に回した。毎月の運用益だけで、優雅な生活が送れる。
「利子さん、おはようございます。」
マンションのコンシェルジュが笑顔で挨拶してくれる。ここでは、誰も私を嫁いびりの姑なんて呼ばない。
携帯電話が鳴った。画面を見ると、吉岡さんからだった。
「利子さん、素敵なお知らせがあるの。」
「何かしら?」
「呉服店の特別顧問として、月に2回だけ来ていただけないかしら。若い子たちに、38年間の経験を伝えて欲しいの。」
私の心が温かくなった。必要とされる喜び。それはお金では買えない価値があった。
「喜んで、引き受けるわ。」
電話を切ると、インターホンが鳴った。モニターを見ると、見覚えのある顔が映っていた。大志と沙耶だった。
「母さん、お願いです。少しだけ話を聞いてください。」
大志の声は、3ヶ月前とは別人のように弱々しかった。私は少し迷ったが、エントランスまで降りることにした。
ロビーで待っていた2人の姿を見て、私は驚いた。沙耶はやつれ、大志も明らかに疲れきっていた。
「母さん…」
「何の用かしら?」
私の声は冷たかった。
「お母さん、本当に申し訳ありませんでした。」
沙耶が深々と頭を下げた。
「私たちが間違っていました。お母さんは何も悪くなかった。」
「今更、分かったの?」
私の皮肉に、沙耶は唇を噛んだ。
「実は、私の母、恵美子さんが…倒れたの。嘘をついていたことがバレて、近所から完全に孤立してしまいました。」
「当然の報いだと思ったわ。人を陥れた者は、いずれ自分に帰ってくる。」
「それで、母さん…僕たちの生活も限界なんだ。」
大志が苦しそうに言った。
「沙耶の嘘がバレてから、僕の会社での立場も悪くなって…」
「みんな、親を追い出した息子だって分かったのよ。」
私の言葉に、大志は何も言い返せなかった。
「お母さん、お願いです。もう一度、家族としてやり直させてください。」
沙耶が涙を流しながら懇願した。でも、その涙を見ても、私の心は動かなかった。
「沙耶さん、あなたの涙は信じられないわ。演技が上手だってこと、もう知っているから。」
沙耶の顔が真っ赤になった。
「お母さんの財産、5億円のことも…それが目的なの?」
「違います! 本当に反省しているんです!」
でも、その言葉に説得力はなかった。
「大志、あなたは私を信じなかった。38年間育てた母親より、嘘つきの妻を信じた。」
「母さん、あれは…」
「言い訳は聞きたくないわ。あなたは私に言ったわよね。『もう二度と戻ってくるな』って。」
大志の目から涙がこぼれた。
「僕がバカだった。母さん、本当にごめんなさい。」
「謝罪は受け取ったわ。でも、許すつもりはない。」
私は立ち上がった。
「お母さん!」
沙耶が私の腕を掴もうとしたが、私はそっと避けた。
「私はもう、あなたたちの家族ではありません。あの日、あなたたちが私を追い出した時から。」
「母さん、お願いだ。」
大志が膝をついた。
「立ちなさい。みっともないわ。」
でも、大志は立ち上がらなかった。
「母さんがいないと、僕は…」
「あなたはもう38歳よ。いつまで母親に甘えるつもり?」
私の言葉は厳しかったが、それが現実だった。
その時、私の携帯が鳴った。亜美さんからだった。
「利子さん、今大丈夫?」
「ええ、どうしたの?」
「実は、沙耶のことで新しい事実が分かったんです。」
私はスピーカーにした。大志と沙耶に聞かせるために。
「沙耶は、以前付き合っていた彼氏の母親も、同じように追い出していたんです。」
沙耶の顔が青ざめた。
「それって…」
「はい。恵美子さんと一緒に、彼氏の母親を悪者に仕立て上げて、財産を狙っていたそうです。」
大志が沙耶を見た。その目には、裏切られた者の怒りが宿っていた。
「沙耶、本当なのか?」
「違う! それは…」
沙耶は必死に否定しようとしたが、もう遅かった。
「沙耶さん、あなたは私にも同じことをしたわよね。『嫁いびりされていた』って。」
私は二人に背を向けた。
「もう二度と、私の前に現れないで。」
「母さん!」
大志の叫びを背に、私はエレベーターに乗った。
翌日、裕子さんから電話があった。
「利子さん、聞きました? 恵美子さん、町内会から除名されたそうです。」
「そう。」
「それに、沙耶さんと大志さん、離婚するって噂になってます。」
驚きはなかった。嘘で築いた関係は、いつか崩れる運命にある。
夕方、私は呉服店の特別顧問として、若い店員たちに接客の心を教えていた。
「大切なのは、お客様の心に寄り添うこと。38年間、それだけを大切にしてきました。」
若い店員たちが、真剣な眼差しで聞いてくれる。
「利子さん、素敵です。私も利子さんみたいになりたいです。」
その言葉が、私の心を満たしてくれた。
店を出ると、夕焼けが空を染めていた。ふと、泣き夫のことを思い出した。
「あなた、私は強く生きているわよ。」
空を見上げながら、私は微笑んだ。
理不尽な誤解に屈しなかったこと、真実を信じて戦ったこと。それが今の幸せを作ったのだ。
私は今、本当に自由で幸せだ。高級マンションでの優雅な生活、必要とされる喜び、そして私を信じてくれる仲間たち。
あの日、息子に追い出されたことは、むしろ良かったのかもしれない。偽りの家族関係に縛られることなく、本当の自分を取り戻せたのだから。
「嫁いびりをするのはやめろ。」
あの言葉を思い出すたびに、今では笑えるようになった。私は嫁いびりなんてしていなかった。ただ、優しい姑であろうとしただけだった。
でも、もうそんな必要はない。私は私の人生を生きる。誰に遠慮することもなく、誰に媚びることもなく。
風の噂で、恵美子さんが老人ホームに入所したと聞いた。身寄りもなく、一人寂しく余生を送ったらしい。
人を陥れた報い。それは必ず自分に帰ってくる。
私は窓から見える夜景を眺めながら、静かにワインを傾けた。
正義は、必ず勝つ。
そう呟いて、私は満足げに微笑んだ。理不尽に屈しない強さ。それこそが、人生で最も大切なものだと、68歳にして学んだ。



