市役所からの赤い封筒が、被災の人生を静かに、しかし確実に変えていった。
その朝、白川被災(66歳)は古びた団地の1階にある集合郵便ポストの前に立っていた。昭和40年代に建てられたその建物は、コンクリートの外壁が黒ずみ、エレベーターもない。夏の湿気がこもる階段を、被災はいつものように前傾姿勢で歩く。目は常に落ち着かず、すれ違う人がいれば素早くそらす。口癖のように「さあ」「ちょっと」と、言葉を濁すことの多い女性だった。
郵便受けから郵便物をまとめて引き抜くと、指に触れた一通の封筒。赤い封筒だった。左上には市役所の印。ただそれだけで、被災の指先は止まった。
廊下の奥から足音が近づいてきた。被災は反射的に封筒を他の郵便物の下に押し込み、顔を上げると、買い物帰りの老女がいた。同じ棟に住む、よく挨拶をする人だった。
「おはようございます」
被災は腰を折って挨拶したが、目は合わせなかった。老女が通り過ぎるのを確認してから、再び赤い封筒を取り出し、布のトートバッグの底に押し込んだ。
階段を上がりながら、被災は自分に言い聞かせた。まず、夫には言わない。言い方を考えてから言う。今日じゃなくてもいい。
鍵を開けると、玄関には古い靴が二足並んでいた。自分のウォーキングシューズと、夫の黒い革靴。息子の靴は、その奥に倒れたままだった。
細い廊下を進むと、突き当たりに扉が一枚。被災はその扉の前を通る時、無意識に足音を殺した。扉は閉まっていた。去年の秋から、ずっと。
白川洋介(41歳)は、昨年春に会社の契約が切れた。それから半年ほど仕事を探していたようだったが、去年の10月、ダンボール箱を一つ抱えてこの部屋に戻ってきた。それ以来、扉は閉まったまま。中からは昼夜問わず、パソコンの単調なゲームの効果音が漏れてくる。
台所に立つと、今度は夫の元嗣が折りたたみテーブルの前に座り、新聞を広げていた。白川元嗣(69歳)は背が高く、顎の線が太く張っている。表情はいつも凝り固まったように硬い。今日は外出する予定もないのに、きちんとアイロンの当てられた白いシャツを着ていた。近所のコンビニに行くだけでも、彼は格好を整える男だった。
被災が麦茶を置くと、元嗣は新聞から目を離さずに言った。
「昨日、小泉さんに廊下で会ったぞ。洋介のことを聞かれた。東京の会社でITの仕事をしていて、今はリモートワークで自宅から働いているんだと言っておいた」
声には何の感情もなかった。天気の話をするような口ぶりだった。被災は「そうですか」とだけ返した。元嗣が近所に同じ説明をしていることは知っていた。大手企業でIT関係の仕事をしていて、最近はテレワークが多いんですよ、と。それを聞くたびに、被災の喉の奥が閉まるような気がした。
「元嗣さん、ちょっと見て欲しいものがあって」
被災は声を大きくした。テレビから視線を外した元嗣に、最国書を指し示した。
「洋介のことで、市役所から督促状が来てるんです。税金と保険料の滞納の通知で…」
元嗣は書類を手に取り、眼鏡をかけ直してじっくりと読んだ。読み終えると、テーブルに戻した。
「市役所が間違えたんだろう」
被災は小さく首を振った。
「間違いじゃないと思う。洋介のマイナンバーが書いてあって、住所も全部合ってるから…市役所が間違えたと言っている。こんな書類一枚で動揺するな」
元嗣の声が低くなった。被災が言葉を続けようとすると、元嗣は突然、書類を手に取り、丸めた。
止める間もなく、丸められた紙が壁の隅に飛んでいった。怒鳴り声ではなかった。低く、歯を噛みしめたような声だった。
「騒ぎを立てるな。隣に聞こえたらどうするんだ。あの家の嫁は耳がいいから、廊下まで聞こえるぞ。分かっているのか?」
被災は黙ったまま、壁の隅で丸まった督促状を拾い上げた。手のひらで紙の折り目を一つずつ広げ、丁寧に伸ばした。その行為に集中することで、頭の中にある数字のことを少しだけ遠くに追いやれるような気がした。
そこから、白川家の静かな崩壊が、さらに静かに進んでいった。
翌日、被災は半額シールを狙って近くのスーパーへ向かった。現役の頃の夫はそれなりの役職にいて、給料も悪くなかった。こんな計算をして買い物をする必要はなかったはずなのに、いつの間にか、それが当たり前になっていた。
精肉コーナーで牛肉のしぐれ煮のパックに半額シールが貼られているのを見つけ、手に取った。その時、声をかけられた。
「あら、白川さん」
振り返ると、同じ棟の2階に住む小関文枝(63歳)が立っていた。団地の中で最も情報の流通が早い人物として、被災は彼女を認識していた。悪意はない。ただ、この人の口に入った話は、翌朝には棟全体に広まる。
「洋介さんはお元気ですか? 最近全然お見かけしないけど。テレワークってやっぱり大変なんですかね。朝から夜遅くまで働いてるって聞きましたけど」
元嗣が言い広めた話が、すでに文枝の口から出てきた。被災は表情を崩さないように意識して答えた。
「ええ、まあ…最近はオンラインの会議が多くて、忙しいみたいで」
「そうですか。それは大変ね。でも収入はいいんでしょうね。大手の会社だから」
話は続いたが、被災は適当に相槌を打つだけだった。文枝が背を向けた瞬間、被災は手の中の牛肉のパックを静かに棚に戻した。代わりに、もやしを一袋多く取った。
同じ頃、駅前の自転車置き場で、元嗣が働いていた。週に3日、この自転車置き場の整理員として。蛍光オレンジの反射ベストを着て、汗を拭いながら列を整えていると、声がした。
「白川さんじゃないですか」
振り返ると、中年の男が立っていた。かつての職場の同僚、田中だった。元嗣が課長職だった頃、部下だった男だ。
「あれ、こちらで働いてらっしゃるんですか?」
声に悪意はなかった。ただ事実を確認するような口調だった。元嗣は反射的にベストの前を閉じたが、閉じても意味がないことは分かっていた。
「知人に頼まれてね。管理組合の手伝いみたいなものだよ。ボランティアだ」
田中は軽く会釈をして、改札へと歩き去っていった。その背中が見えなくなるまで、元嗣は視線を向けていた。
仕事を終えた帰り道、元嗣は駅前のコンビニに寄り、果物コーナーでメロンを買った。1,300円。自分でも、なぜそれを買ったのかうまく説明できなかった。ただ、何かを持って帰らなければいけないような気がした。
その夜、夕食を食べながら、被災は切り出した。
「元嗣さん、やっぱり話をしないといけないと思って。洋介が3年間、国民健康保険と住民税を払っていなかったみたいで。延滞金も合わせると、かなりの金額になっているんです。世帯主の元嗣さんが連帯して払わないといけないんじゃないかと…」
元嗣は箸を置いた。
「あいつに払わせればいい」
「あいつにはお金がないんです。だから3年間払えなかった」
「だったらバイトでも何でもして稼げばいい。41歳だぞ。子供じゃない。俺は知らん」
被災は何も言えなかった。
食事が終わると、元嗣はカウンターのメロンをラップで包んで冷蔵庫に入れた。しばらくして、元嗣が財布を取り出し、1000円札を2枚取り出して、廊下の奥に向かった。被災は知っていた。元嗣が洋介の部屋の扉の下の隙間に向かって、封筒をそっと差し込んでいることを。毎日ではない。2日に1回か、3日に1回。1000円か2000円を。
「あいつのことは知らん」と今夜は言った。その口で、これを行っている。元嗣は自分がそれを矛盾だとは思っていなかった。
その夜、被災はほとんど眠れなかった。天井を見ながら、数字のことを考えていた。督促状の金額と、通帳の残高と、今月の年金の入金額。頭の中で何度も計算を繰り返したが、毎回同じ答えが出た。足りない。
6月に入ると、梅雨がやってきた。雨の季節になると、団地全体からカビの気配が滲み出る。ベランダに干した洗濯物は乾きが遅く、生乾きの匂いが残る。
ある朝、被災はお茶を2つ湯のみに注ぎ、盆に乗せて奥の扉の前に立った。朝の9時を過ぎていた。小さく咳払いをして、扉を2回軽く叩いた。
「洋介? お茶を置いておくね。それと…市役所からまた手紙が来てるんだけど、ちょっと見てもらえる?」
しばらくの間があった。それから、扉の向こうでマウスのクリック音がした。起きていた。でも、返事はなかった。被災は盆を扉の前の床に置いた。昼過ぎまで、それは手つかずのまま残っていた。
その日の午後、被災は一人で市役所へ行くことにした。元嗣には言わなかった。言えば、止められるか怒鳴られるかのどちらかだった。雨の中、バスに乗って市役所へ向かった。
窓口で、滞納の督促状を見せ、分割納付が可能かどうかを尋ねた。対応したのは、名札に「田所」と書かれた30代前半の女性職員だった。
「息子さんが同一の住民票に記録されている以上、世帯主の方には連帯して納付する義務が生じます。現在の滞納額に延滞金を加算した合計が請求額になります。分割納付は可能ですが、その場合は改めて申請書を提出していただく必要があります」
田所の口調は淡々としていた。被災は、鞄の中のレシートを取り出し、その裏にメモを書き始めた。書いているうちに、目の奥が熱くなってきた。抑えようとした。こういう場所で泣いてはいけない、と思った。でも、田所の言葉の内容と、自分がレシートの裏に必死にメモを書いているという事実が重なって、どうにも抑えきれなかった。
「すみません」
被災は目元をカーディガンの袖で拭った。田所は一瞬だけ表情を変えたが、何も言わなかった。
その同じ日の午後、元嗣は自転車置き場の管理事務所に呼ばれていた。担当者は40代の男で、堀内といった。
「来月から白川さんのシフトをちょっと変更させてもらいたくて。今は週3日入っていただいてますが、週1日に減らしたいんです」
理由を聞くと、堀内は少し目を泳がせた。
「近くの大学から、夏の間だけアルバイトをしたいという学生さんが何人か来てくれていて…人数的にちょっと多くなりすぎてしまって」
安く働く若い人員が来た。だから、年配の自分の枠が削られた。そういうことだった。
「分かりました」
元嗣はそれだけ言って、小屋を出た。外は雨だった。傘を差して、並んだ自転車を眺めた。自分が毎日少しずつ整えてきた列だった。
その夜、元嗣が帰ってきたのは9時を過ぎてからだった。被災は今で一人、市役所でもらった書類を読んでいた。玄関の扉が開く音がした。元嗣は様子がおかしかった。酒の匂いがした。この20年ほど、夫が酔って帰ってきた記憶はなかった。足取りが安定せず、廊下の壁に手をつきながら歩いていた。
奥の洋介の部屋の前まで来た時、突然、足が止まった。そして、扉に拳を叩きつけた。乾いた鈍い音がした。
「洋介! 出てこい!」
声が低かった。廊下の狭い空間にその低さが反響した。
「お前が3年間払わなかった金のせいで、俺たちが市役所に呼びつけられているんだぞ! 分かってるのか? 41年生きてきて、何をやってるんだ?」
元嗣の声が大きくなっていった。
「この団地で生きている間にお前は何一つ自分でやったか! 就職も親が口聞きした。引っ越しも…それでもダメになって帰ってきて、飯だけ食って! 税金は払わない! いつまで俺の金を食いつぶすんだ!」
言葉が続くにつれ、元嗣の口調は崩れていった。怒鳴っているというより、何かが溢れているような声だった。
その時、扉の向こうから音がした。何かが投げつけられる鈍い音。液体が飛び散る音。扉の下の隙間から、麺のスープのようなどろりとした液体が滲み出てきた。
元嗣は黙った。手が震えていた。さっき拳を叩きつけた右手だった。そのまま廊下を引き返し、今に入り、ソファに腰を下ろした。そのまま動かなくなった。
被災は台所から雑巾を持ってきて、廊下に膝をついて扉の下の床を拭いた。スープは冷えて、ベタついていた。インスタントラーメンのスープの匂いだった。拭きながら、隣の部屋の気配を感じていた。壁の向こうで誰かが立っている。耳を済ませている。そういう気配だった。
今に戻ると、元嗣はソファに背を預けたまま眠っていた。口を少し開けて、規則正しい寝息を立てていた。被災はブランケットを押入れから出してきて、肩にかけた。
その日から、被災は外に出る時間を変えた。ゴミ出しは集積所が空になるギリギリの時間に。買い物はスーパーが閉まる直前の、人が少ない時間帯に。廊下で誰かとすれ違うのが怖くなった。足音がすれば、立ち止まって人が通り過ぎてから動くようにした。食欲がなかった。朝はお茶だけで、昼は白飯に梅干し一つ。夜は何か作ったが、半分も食べられなかった。眠れない夜が続いた。
7月に入って最初の週、被災は郵便局へ行く途中、小さな公園を通りかかった。ベンチに一人の老人が座っていた。遠くから見た時、まず服装で気づいた。紺のスラックス、白いシャツ。元嗣だった。
近づくにつれて、それがコンビニのおにぎりだとは分かった。透明なフィルムを剥がして、白い三角形のおにぎりを、元嗣はゆっくりと食べていた。誰かと話しているわけではない。スマートフォンを見ているわけでもない。ただそこに座って、おにぎりを食べていた。
その横顔を見た瞬間、被災の胸の中の何かが、きゅっと絞られた。元嗣の表情に、驚いていた。緊張が抜けていた。誰も見ていないから、誰かに見せる顔を作る必要がないから、ただそこに座っている老人の顔になっていた。顎の張りも、目つきの硬さもなかった。ただ疲れた顔で、おにぎりを食べていた。
声をかけようとした。でも、声をかけたら、元嗣はすぐに元の顔に戻る。それは分かっていた。被災は、一歩後ろに下がった。それから、ゆっくりと来た道を引き返した。
家に戻ると、玄関の空気がいつもと違った。一歩進んで気づいた。奥の扉が、半分ほど開いていた。何ヶ月ぶりだろう。去年の秋に戻ってきてから、扉が開いているのを見た記憶がなかった。
台所の方で物音がした。被災が目を向けると、洋介が立っていた。流しの前で何かをしている。41歳の息子の後ろ姿を、被災はしばらく見ていた。髪が長くなり、首の後ろに無造作にかかっていた。肌の色は悪かった。外に出ていないからだった。
「…洋介?」
洋介は振り返った。目が充血していた。被災は、洋介が何をしていたのかを見た。自分の布のトートバッグの中を漁っていた。財布の中を探っていた。
「何してるの?」
声が出た。思ったより落ち着いていた。洋介は財布をカウンターに置いた。謝りはしなかった。代わりに、台所のテーブルに何かを置いた。紙の束だった。消費者金融の書類だった。借入額、残高、毎月の返済額が書かれていた。
金額を見た。300万円を超えていた。ページをめくると、別の会社の書類があった。また別の会社の書類があった。3社から借りていた。合計すると、300万円を大幅に超えた。
「いつから?」
洋介は答えなかった。
「いつから、こんなに借りてたの?」
「…仕事、なくなってから」
「何に使ったの?」
洋介は床を見た。
「ゲームとか。…生活費、食べるのに必要だったから」
被災は書類を持ったまま、立っていた。消費者金融から300万を超える金を借りて、ゲームに使っていた。3年間、保険も税金も払わずに、毎日部屋に閉じこもって、親が扉の前に置いた食事を食べながら。頭の中でそれが整理されるまで、少し時間がかかった。
「督促状も来てて。ここ、住所に来てる。放っておいたら、取り立てに来るって書いてあった」
その声には感情がなかった。謝罪でも、言い訳でも、怒りでもなかった。ただ事実を並べているだけの、平坦な声だった。
「なんで今まで言わなかったの?」
「言っても仕方ないから」
「…払ってよ。親に頼むしかないから」
洋介はそう言って、台所を出て行った。扉がまた閉まった。台所には被災一人が残った。
その夜、被災は元嗣にすべてを話した。手紙のこと、3年間払っていなかったこと、消費者金融から借りていること、合計金額。元嗣は黙って聞いていた。口を挟まなかった。被災が話し終えると、しばらく沈黙があった。扇風機の音だけがしていた。
やがて、元嗣の手がテーブルの上に置かれた。節くれ立った、自転車のハンドルを毎日触っている手。その手が、かすかに震えていた。元嗣は眼鏡を外し、両手で顔を覆った。肩が動いた。最初は小さく、それから大きく、不規則に揺れた。声が漏れた。おえつだった。
被災は、この男が泣くのを40年近い結婚生活の中で一度も見たことがなかった。父が死んだ時も、息子が生まれた時も、退職する時も、この人は泣かなかった。泣かないのではなく、泣けない人なのだと思っていた。
元嗣が、顔を手で覆ったまま言葉を絞り出した。声がかすれていた。
「…俺のせいだ」
被災は聞いた。
「俺があいつに完璧を求めすぎた。仕事で成功しろ。名前のある会社に入れ。結婚しろ。親を安心させろ。そういうことばかり言った。あいつが何を言っても、足りないと言った。それであいつは…」
声が途切れた。またおえつが来た。
「俺のせいで、この家がこうなった。俺が面のために嘘をついて、それがどんどん大きくなって、お前に全部押し付けた。市役所も、弁護士も、全部お前が行って。俺はずっと公園で座ってた」
声が完全に割れた。
「…すまない」
その言葉が出た時、被災の胸の中で何かが動いた。怒りではなかった。哀れみでも、感動でもなかった。何と呼べばいいのか分からないものが、胸の中心からゆっくりと広がった。長い間、石でも入っているような重さがあった。それが、少しだけ動いた。
被災は立ち上がり、椅子を引いて、元嗣の隣に座った。何も言わなかった。慰める言葉を探したが見つからなかった。探すのをやめた。どんな言葉も、今この瞬間には余計なものになる気がした。被災は手を伸ばし、元嗣の方にそっと置いた。肩の布が震えているのが分かった。
翌朝、元嗣はいつもと同じように6時に起きてきた。スラックスは履いていた。でも、シャツはアイロンをかけていないものだった。それだけのことだったが、被災には何かが変わったような気がした。
朝食を済ませてから、元嗣は廊下に出た。洋介の部屋の前に立ち、扉を叩いた。先月のような怒りに任せた叩き方ではなかった。2回、控えめに叩いた。
「洋介。少し話がしたい。出てこられるか」
扉の向こうは静かだった。元嗣はもう一度言った。
「怒鳴ったりしない。ただ、話したい」
しばらくの間があった。そして、扉が少し開いた。洋介が顔だけ出した。目が充血していた。髪が乱れていた。それでも、顔を出した。
元嗣は扉の前に立ったまま、話を始めた。声は穏やかだった。
「弁護士と相談して、自己破産の手続きを進めようと思っている。費用は、親が出す。お前がやることは、弁護士に必要な書類を揃えることだ。一緒に行けるか」
洋介は黙っていた。元嗣は続けた。
「団地も、ここを引き払う予定だ。もっと安いところに移る。お前も一緒に来るかどうかは、お前が決めていい。でも、来るなら何か仕事を探してくれ。何でもいい。コンビニでも、工場でも。俺も、週1しか仕事がないから…お前の力が必要だ」
その最後の一言を、元嗣はゆっくりと言った。
「お前の力が必要だ」
洋介の顔がわずかに動いた。眉の当たりが、ほんの少しだけ動いた。それだけだった。洋介は何も言わず、扉を少し閉めた。でも、完全には閉めなかった。数センチだけ、開いたまま残した。元嗣はその扉を見て、一度だけ頷いた。それから廊下を引き返してきた。
被災との目が合った。元嗣は何も言わなかった。被災も、何も言わなかった。二人は台所に戻った。
午後になって、被災は書類をテーブルに広げた。法テラスへの申請書類。団地の退去届の下書き。弁護士への委任状。元嗣も椅子を引いて座り、眼鏡をかけて書類を一つずつ読んだ。被災が補足の説明をする。元嗣は読み終えると、角印を押す場所を指で示した。
被災は引き出しから印鑑を取り出してきた。元嗣の実印だ。長年使っていた黒い印鑑だった。元嗣はそれを受け取って、朱肉に当てた。書類の割印欄に、静かに押した。紙の上に、丸い朱色の印が残った。被災も自分の印鑑を出し、同じように押した。二つの判子が並んで、紙の上にあった。元嗣は書類を揃えてまとめ、封筒に入れた。手が震えていなかった。
夕方になると、風が少し変わった。被災はベランダに出て、タオルを取り込んだ。古い、毛立ったタオルだった。よく乾いていた。廊下の奥の扉が数センチ開いていた。そこから、キーボードを叩く音が聞こえてきた。でも、今日はゲームの効果音がなかった。
今では、元嗣が座っていた。テレビはつけていなかった。書類をまとめた封筒を膝の上に置いて、窓の外を見ていた。
被災は台所でお茶を入れた。今日は、3つの湯のみに注いだ。元嗣の分、自分の分、もう一つ。もう一つの湯のみを盆に乗せて、廊下を歩いた。洋介の部屋の前に来て、扉の開いた隙間に向かって言った。
「洋介。お茶、ここに置いておくね」
キーボードの音が一瞬だけ止まった。それから、また始まった。被災は湯のみを扉の前の床に置いた。今日は、手紙は置かなかった。湯のみだけ置いて、そのまま廊下を戻った。
今に戻ると、元嗣がお茶を受け取った。
「…ありがとう」
その言葉も短かった。でも、被災には聞こえた。自分の湯のみを持って窓の際に立った。外はまだ明るかった。入道雲が遠くに見えていた。その手前の空は、夕方の色になっていた。
被災はお茶を飲んだ。温かかった。明日も、弁護士に連絡しなければいけない。団地の管理会社にも連絡が必要だった。元嗣が洋介と一緒に、書類を揃えなければいけない。やることはまだたくさんあった。でも、今この瞬間だけは、窓の外の夕暮れを見ていた。元嗣も黙って座っていた。二人の間に言葉はなかった。
廊下の奥から、キーボードの音が続いていた。セミの声が、遠くで続いていた。夕暮れの光が部屋に差し込んで、テーブルの上の封筒を照らしていた。封筒の中には、今日押した二つの判の跡がある書類が入っていた。それで、十分だった。今日という一日が、その書類と共に終わろうとしていた。明日のことは、明日考えるしかなかった。それで、十分だった。



