義母が離婚届をテーブルに叩きつけた。白い封筒からは数枚の一万円札が覗いている。十五年間の結婚生活の代償が十万円。夫の剣一はコーヒーカップを見つめたまま、口元に隠しきれない笑みを浮かべていた。
「高卒のくせに、身の程をお知りなさい」
義母の声は氷のように冷たかった。私のバッグの中には、彼らが知らない一通の書類が入っている。海外の世界的企業からの、現地法人責任者としての辞令だった。
剣一は数日前、その企業から採用通知を受け取った。彼は自分の実力で掴み取ったと信じ込んでいる。しかし、彼の英語の書類を深夜まで翻訳し、完璧なビジネス文書に書き直していたのは、私だった。彼は私が高校卒業後、必死に独学で語学を学んだことを知らない。ただの暇な主婦が趣味でやっている程度にしか思っていなかった。
「手切れ金は十万円よ。ありがたく受け取って、とっとと荷物をまとめて出ていきなさい」
私は何も言わなかった。怒りよりも呆れが先に立った。私はボールペンを手に取り、離婚届の妻の欄にサラサラと名前を書いた。手は震えなかった。
「お前のその豪情なところも、俺は嫌いだったんだよ」
剣一が言い訳のように呟いた。彼のスマホがテーブルで震え、画面には「ミカ」という女性の名前が表示された。彼は慌ててスマホを伏せた。義母が気に入っているどこかのお嬢様。新しい赴任先には、すでに別の女性が同行する予定になっている。
「荷物はいりません。手ブラで出ますから」
私は立ち上がり、十万円の入った封筒はテーブルに残したまま、家を出た。空は高く澄み切っていた。私のバッグの中には、剣一がこれから赴任する海外オフィスへの、私の責任者としての辞令が入っている。
彼らは勝ったつもりでいる。私から全てを奪い、自分たちだけが輝かしい未来を手に入れたのだと。しかし一週間後、剣一が初出社する海外オフィスの朝会で、彼らは思い知ることになる。
私が家を出てから数日後、スマートフォンに義母からの不在着信が九十六件届いていた。私はそれを見て、静かに息を吐いた。彼らはまだ知らない。私がこの家を出る前に、夫婦の通帳から自分の稼ぎを全て別の口座に移していたことを。彼らが手にしたのは、住宅ローンの借金がたっぷり残った口座だけだ。
剣一は私に向かって、かつてこう言った。「お前みたいな高卒には分からない世界だ。これからは俺に話しかけるな。恥ずかしいからな」
彼が採用されたのは、私がこっそり手直しした英語のレポートのおかげだ。私はそのレポートに、一つだけ小さな仕掛けを残しておいた。彼が提出前に一度でも読み返せば気づく、恥ずかしい一文を。
電車の中で、私は剣一のクラウドデータを開いた。そこには、彼と美香という女性の航空券の予約履歴があった。彼の名前の隣に、見知らぬ女性の名前。そして、現地の高級ホテルの予約メール。エグゼクティブスイート、ダブルルーム。全て彼のクレジットカードで決済されている。
指先は震えなかった。むしろ頭の中は驚くほど冷静だった。証拠は十分に揃った。不倫の証拠として、これ以上ないほど明確なものだった。彼らは私を無一文で追い出したつもりだろう。しかし、この証拠があれば、いつでも彼らの足元を掬うことができる。
私は全てのスクリーンショットを撮り、自分のメールアドレスに転送した。
空港のラウンジで、私は人事担当者からのメールを開いた。そこには、剣一が会社に対して、単身用アパートを拒否し、同行する妻のための高級マンションを会社負担で用意しろと要求していると書かれていた。彼は会社に対して、まだ結婚もしていない美香を妻として申請しようとしている。
「け一さん、あなたは本当に何も分かっていないのね」
私は誰もいないラウンジで静かに呟いた。
そして初出社の日。彼は美香を連れて、得意満面でオフィスに現れた。受付で大声を上げ、自分のデスクを要求し、エリートとしての扱いを求めた。私は通路の影から、その様子を静かに見つめていた。
会議室に通された二人。ジョンが彼の配属先が現場管理の部署であることを伝えると、剣一は激怒した。彼が要求した高級マンションと家具のアップグレードの請求書を突きつけられた時、彼の顔から血の気が引いていった。
「おい、俺は完璧な英語のレポートを提出して採用されたんだぞ。この部署の責任者を呼べ」
その言葉を聞いて、私はゆっくりと会議室のドアを開けた。
剣一は私を見て、幽霊でも見たかのような顔をした。「ゆ、ゆみ。なんでお前がここにいるんだ?」
私は静かに彼を見つめた。「あなたが先ほど直接話をつけると呼び出した、あなたの直属の上司です」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気が凍りついた。剣一は口をパクパクと動かすが、声が出ていない。私は彼が提出したレポートのコピーを取り出し、赤いペンで線を引いた一文を突きつけた。
「では、この段落の最後の一文を、ここで日本語に訳してみてください」
剣一の額から脂汗が吹き出した。彼は翻訳アプリに頼りきりだったから、その意味すら理解できない。私は静かにその一文を読み上げた。「このプロジェクトの成功は、私を長年支えてくれた妻の協力によるものです」
「ビジネスの採用課題に、こんな個人的な文章を書くバカがどこにいますか? 私が夜中に書き直したデータに、わざとこの一文を残しておいたのよ。あなたが提出する前に一度でも自分の文章を読み返していれば、すぐに気づいたはずの仕掛けにね」
剣一の膝が崩れ落ちた。ミカも叫び出した。「冗談じゃないわよ。私、こんな工場のおじさんと結婚するつもりなんてないわ。お金持ちのエリートだって言うからついてきたのに、騙したのね!」
二人の見苦しい言い争いが始まった。私は冷ややかにそれを見つめながら、スマートフォンを取り出した。義母からの着信が九十七回目に達している。
私は通話ボタンを押さず、静かに電源を切った。その数時間前、日本の親戚から、義母が親族を集めて祝勝会を開いたことを知らせるメッセージが届いていた。義母は高級寿司を注文したが、剣一のクレジットカードが使えず、散々な目にあったらしい。そして銀行で、通帳の残高がゼロで、多額の借金があることを知らされたという。
私は会議室に戻り、剣一の前で会社への請求書にサインをした。「ええ、規定通りに進めてちょうだい。彼には自分の見栄がどれほど高くつくか、しっかり学んでもらわないといけないから」
その時、剣一のスマホが鳴り始めた。義母からだ。彼はスピーカーボタンを誤って押してしまい、義母の絶叫が会議室に響き渡った。
「あんたのクレジットカード使えなかったのよ! 親戚を呼んだお祝いの席で、お寿司の支払いができなかったのよ!」
私は剣一の手からスマホを取り上げ、冷たく言い放った。「お義母様、お久しぶりです。残念ですが、私は日本には戻りません。ここは私のオフィスですから。私は今、剣一さんの直属の上司として彼と面談をしているところです」
「何をバカなことを言ってるのよ! あんたは高卒で教養もない!」
「その教養のない元嫁が、夜な夜な彼の英語の書類を書き直していたのです。彼がこの世界的企業に採用されたのも、全て私が書いたレポートのおかげです。彼はこの会社で何の権力もありません。特別手当ても出ませんし、期間中の一般社員です。そして私生活の乱れと虚偽の申告により、彼が要求した高級マンションの家賃は全て彼個人の借金として請求されます」
「嘘よ、嘘よ! うちの剣一はエリートなのよ!」
「嘘かどうかはご自身の目で確かめてください。もうすぐ日本の銀行から正式な差し押さえの通知が届くはずですから。あの家はもうすぐ人手に渡ります」
義母の声は完全に哀願に変わった。「待って、ゆみさん。私が悪かったわ。慰謝料も払うし、百万円上げるから。だからローンを、私の家を助けて」
「あの時、あなたが私に言った言葉をお返しします。身の程をお知りなさい」
私は通話終了のボタンを押した。
ミカはヒステリックに叫びながら会議室を飛び出そうとしたが、ドアの前に立っていたジョンが進路を塞いだ。壁のモニターに、日本の弁護士事務所の風景が映し出された。私が全てを依頼しておいた木村弁護士だった。
「佐藤美香さん、あなたは田中健一氏が婚姻関係にあることを知りながら不定行為に及んでいました。海外の高級ホテルの予約記録、航空券の購入履歴、不適切なメッセージの記録、全て揃っています。すでにあなたの行為に対する慰謝料の請求手続きは進んでおります。そして、あなたのご実家にも内容証明郵便を送付いたしました」
ミカの顔から血の気が引いた。彼女は実家のお金と親の体面を何よりも気にしている女性だった。床に崩れ落ち、泣き叫ぶだけだった。
ジョンが剣一に言い渡した。「あなたの採用は本日を持って取り消します。手配にかかった全ての費用を損害賠償として請求します」
剣一は声にならない悲鳴をあげた。彼は最後の足掻きで、私にすがろうとした。「ゆみ、お願いだ。助けてくれ。俺が悪かった。借金を立て替えてくれ、会社に頼んで解雇を取り消してくれ」
「あなたが私を無一文で追い出し、私の十五年間の努力を罰ゲームと呼んだ夜、その時点で私の中のあなたは完全に死にました。あなたが会社を解雇されたのは、私が仕組んだからではありません。あなた自身の実力が評価された。ただそれだけの結果です」
私は彼の手からマニュアルを拾い上げ、彼の目の前に落とした。「それがあなたの、教養のあるエリートの姿ですか?」
剣一は力なく崩れ落ちた。ジョンが彼を立ち上がらせ、出口へ案内した。ドアが閉まる時、彼は一度だけ振り返ったが、私は何も言わなかった。
あれから二週間が経った。私は自分のオフィスで、木村弁護士からの報告書を読んでいた。美香は帰国後、実家で両親から全てを取り上げられ、監視下で事務作業をさせられている。剣一と義母は、差し押さえられた家を追い出され、隣町の古いアパートに移り住んだ。剣一は今、日雇いのアルバイトで生計を立てている。義母は年金を剣一の借金返済に当てられ、食事にも困る日々だ。
私は報告書を読み終え、深く息を吐いた。ざまあみろという喜びはない。ただ、これで本当に終わったのだという静かな安堵だけがあった。
その日の夕方、オフィスに小さな小包が届いた。差出人は、親族の中で唯一私の苦労を分かってくれていた叔母のさち子さんだった。箱を開けると、そこには義母がゴミとして捨てたと言っていた、私の大切な思い出の品が入っていた。亡き両親の写真、独身時代から大切に使っていた辞書、夜を徹して勉強するために使っていた単語帳。そして、さち子さんからの手紙。
「ゆみさんがどれだけ剣一の仕事を手伝い、義母さんの嫌みに黙って耐えていたか、私は気づいていました。でも親族の空気に逆らえず、ずっと見て見ぬふりをしてしまった。どうか新しい場所であなた自身の花を咲かせてください。今まで本当によく頑張りましたね」
私はその手紙を読み、何度も涙をこぼした。悲しい涙ではなかった。胸の奥に張り詰めていた何かが、温かい温度を持って溶けていくような涙だった。
会社を出ると、外は美しい夕暮れだった。私はさち子さんから届いた花束を胸に抱き、見知らぬ異国の町をゆっくりと歩いた。小さな花屋で買ったオレンジ色の花束。私は、もう誰の影にも隠れない。この広い世界で、私自身の名前を使って、胸を張って生きていく。
投げつけられた十万円の金銭と、見下された十五年。それは私が本当の幸せを見つけるための、長い長い準備期間だったのだ。



