銀行のATMで最後の仕送りを振り込んだ瞬間、夫が突然私の手を掴んで走り出した。「今すぐ逃げよう、早く!」息を切らしながら振り返ると、キャップとマスクで顔を隠した妹が、見知らぬ高齢の女性の手を引いて銀行から逃げていくところだった。姉は35歳で無職。父は「母に似ているから」という理由で姉を庇い、私は子供の頃からずっと2人の言いなりだった。でも、夫を狙われて、もう我慢できないと思った。電話で姉に「…

銀行のATMで最後の仕送りを振り込んだ瞬間、夫が突然私の手を掴んで走り出した。「今すぐ逃げよう、早く!」息を切らしながら振り返ると、キャップとマスクで顔を隠した妹が、見知らぬ高齢の女性の手を引いて銀行から逃げていくところだった。姉は35歳で無職。父は「母に似ているから」という理由で姉を庇い、私は子供の頃からずっと2人の言いなりだった。でも、夫を狙われて、もう我慢できないと思った。電話で姉に「...

機械が紙幣を数える音が聞こえた。このお金でまた姉は働かずに過ごすのだろうか。そして父は当然のように受け取るのか。そんな考えが頭をよぎる。入金処理が終わり、明細票が出てきた。私がそれを取ったその瞬間だった。

「今すぐ逃げよう。早く。」

突然、新一が私の手を掴んだ。え、走って?返事をする余裕もなかった。彼は私の手を引き、ATMコーナーから飛び出す。銀行の自動ドアを抜けて歩道へ出た。何が起きたのか分からないまま、必死について行った。徐々に息が上がる。ヒールの低い靴を選んでいてよかった。それでも突然の全力疾走に体が追いつかない。新一は私の手を離さず、まるで何かから守るようにしっかり握っている。角を曲がり、人通りの多い商店街へ入る。そこでようやく新一は速度を落とした。私は肩で息をしながら新一を見上げる。

「どうかしたの?」

彼は周囲を確認してから低く告げた。

「後ろ見てみろ。」

そう促されて、恐る恐る振り返った。

私は真宮子、39歳。夫の新一と2人で暮らしながら、在宅でライターの仕事をしている。ライターと言っても、有名な雑誌に名前が載るような華やかな仕事とはほど遠い。企業のホームページの記事を書いたり、商品の紹介文を作ったり、取材内容をまとめたり、依頼主から受け取った資料を読み込み、決められた期限までに納品する。そんな地道な仕事を続けてきた。

在宅勤務と言うと自由な印象を持たれがちだが、実際は違う。締め切りは容赦なくやってくるし、急な修正依頼が飛び込んでくることもある。家にいるからと言って仕事が軽いわけではなく、むしろ自分で時間を管理しなければならない分、なかなか気を抜けない。それでも私はこの働き方が気に入っている。誰かと競争する必要もなく、自分のペースで仕事に向き合えるからだ。

元々、私は目立つことが得意ではない。自分の意見を強く押し通したり、人とぶつかったりするのも苦手だ。子供の頃からそうだった。周囲が揉めそうになると、自分が折れば済むと考えてしまう。理不尽だと感じたり、納得できなかったりもするが、波風を立てることへの苦手意識が勝つ。相手が不快になるくらいなら、私が我慢した方が早い。そういう振る舞いが心と体に深く染みついていた。

そんな私でも好きなものがある。掃除、洗濯など、目の前のことを1つずつ片付けていく作業には達成感がある。冷蔵庫の中身を見ながら献立を考えたり、洗濯物を綺麗に畳んだり、そういう時間に安心感を覚える。家の中を整える行為は、私にとって心を整えることでもあった。最も、それは私が特別出来た人間だからではない。自信がないからこそ、自分にできることを探してきた結果だ。学生時代も社会人になってからも、誰かの前に立って引っ張る役割にはなれなかった。その代わり、裏方として支えることならできる。私は誰かを支えながら穏やかに暮らしていくだけで十分幸せだと考えていた。

私と新一は結婚して5年ほどになる。子供はいない。出会いは仕事だった。当時から私は在宅でライターをしていて、新一は取引先の担当者。何度も連絡を取り合ううちに親しくなり、やがて交際へ発展する。そのまま結婚に至ったのだ。新一は不思議な人だ。勤務先はそこそこ大きな企業で、周囲からの評価も高いらしい。同期の中では出世頭だと同僚の人に聞いたこともある。ところが、家に帰ってくると雰囲気が一変する。休日にはソファーでのんびり昼寝をしたり、冷蔵庫を開けては何か食べるものを探したり、テレビを見ながら大笑いしたり。会社での姿しか知らない人が見たら驚くだろう。私は新一のそういうマイペースなところが好きだった。誰かを見下したりせず、人によって態度を変えたりもしない。私の仕事もきちんと尊重してくれる。そして何より、私自身を大切に扱ってくれた。

住んでいるのは小さな一軒家の借家だ。築年数はそれなりだが日当たりが良く、庭には季節ごとに花が咲く。豪華な家ではなく、絵本にも出てきそうな素朴さだ。それが私たちにとっては十分すぎるほどの居場所なのだ。

その日も普段と変わらない昼下がりだった。私は自宅の仕事部屋でパソコンに向かっている。依頼された記事の締め切りが近い。資料を確認しながら文章を整え、原稿を仕上げている最中だった。不意にスマートフォンが鳴る。机の上に置いていた端末へ目を向けた私は、画面を見た瞬間に眉を寄せた。表示されていた名前は、父だった。一気に気が重くなる。何の用件かなどと考えるまでもない。楽しい連絡が来る相手ではない。私は深呼吸を1つ挟み、通話ボタンを押した。

「もしもし。お父さん?」

「やっと出たか。遅いぞ。開口一番。」

そんな言葉が飛んでくる。私は着信を確認してすぐに出たつもりだが、彼にとっては「やっと」なのだ。近況を尋ねるでも体調を気遣うでもない。私をグズだとなじるのがいつもの流れだった。

「今月の仕送りのことなんだがな。」

やっぱり、と私は内心でため息をつく。父は今年67歳だ。現在は年金と貯金で生活している。本来なら父1人で暮らすには十分な蓄えがある。問題は、実家にもう1人面倒を見なくてはならない大人がいることだった。私の妹の姉だ。彼女は35歳になった今も実家暮らし。定職にはついておらず、働いても長続きしないどころか、最近では働こうとする気配すら見当たらない。父が面倒を見てくれると甘えているからだ。そして父もそんな姉を疑問一つ抱かず庇い続けている。理由は昔から変わらない。姉が亡くなった母によく似ているからだ。父は母を深く愛していた。だからこそ、母によく似た姉を可愛がる。一方で、私は幼い頃から冷遇されてきた。褒められるのも許されるのも姉。叱られたり、我慢する役目は私だ。姉もまた、父の態度を見ながら成長した。結果として、父と同じ態度で私を扱うようになった。

「今月は追加でもう少し欲しい。そうだな。あと10万は欲しい。」

「何言ってるの?先週振り込んだばかりでしょ。」

「足りるわけないだろう。ふん。」

父は鼻息で不機嫌を示す。

「生活費なら、お父さんの年金もあるでしょ。」

「姉にも金がかかるんだ。」

「あのさ、姉ももう35歳なんだから自分で働けば?」

「お前はどうしてそう冷たいんだ?ひどい姉だな。それに親不幸な娘でもある。家族で支え合おうっていう気持ちはないのか?」

言葉の強まりに押され、私は口を閉じた。経験上、反論しても話が長引くだけで終わる。父は昔からそうだった。自分の考えが正しいと信じて疑わない。ゆえに、私は我慢するべき。ある意味単純な思考だ。

「大体お前は結婚してるだろう。旦那も働いているんだから余裕があるはずだ。家族なんだから、困っていたら助けるのは当然のことだろう。」

「……分かったわ。」

「分かったなら早く振り込め。」

父は満足したらしい。ところが、本当に厄介なのはここからだ。用件が済んだにも関わらず、通話が終わらない。父は昔話を始める。最も、楽しい思い出話とはほど遠い。

「お前は昔から要領が悪かったな。姉を見習えと言っても聞かなかった。気も利かないし、愛嬌もない。俺たちが育ててやらなかったら、お前なんて何の価値もないんだぞ。」

私はスマートフォンを耳に当てたまま、パソコンの画面へ視線を向ける。原稿の締め切りは目前だった。本来なら集中しなければならないところだが、文章が頭に入ってこない。父の愚痴が延々と続くからだ。飽きるほど聞かされてきた内容だった。今更傷つくことはないけれど、気力は削られる。時計を見ると、作業時間ばかりが減っていく。私は相槌を打ちながら、会話を終わらせる機会を探した。そして、父の話が一区切りついた瞬間を狙う。

「お父さん、ごめんなさい。」

「あ?なんだ。」

「締め切り前の仕事があるの。続きはまた今度にしてもいい?」

なるべく穏やかな声を作って言う。

「ちっ、忙しい忙しいって、お前は昔から……」

「振り込みはしておくから。じゃあね。」

「さっさとしろよ、忙しいんだから。」

ようやく通話が切れた。私はスマートフォンを机に置き、椅子の背にもたれかかり、長く息を吐き出した。父と会話が終わるたび、同じ感覚に襲われる。疲労とも悲しみとも違う、ひたすら重たくて息が詰まる感覚だ。私は両手で顔を抑えた後、改めてパソコンへ向き直る。締め切りは待ってくれない。今は仕事をするべきだ。それで気も紛れる。分かっているのだが、途切れた集中力は簡単には戻ってこなかった。

父から追加の仕送りを要求された数日後のこと。その日も私は仕事部屋で原稿を書いていた。午前中に洗濯などの家事を済ませ、早めの昼食の後片付けを終え、午後から一気に作業を進める予定だ。締め切りまで余裕がある案件ではあったが、前倒しで仕上げておきたい。画面上の文字を読み返し、言い回しを整えていた時、玄関のチャイムが鳴った。宅配便だろうか。心当たりがあったので、そう考えて席を立つ。インターホンの画面を確認した私は、思わず息を飲んだ。映っていたのは姉だった。

連絡は受けておらず、来る予定も聞いていない。それでも無視する勇気はなく、玄関へ向かい鍵を開ける。扉を開いた瞬間、姉は私を押しのけるようにして家の中へ入ってきた。

「お姉ちゃん、遅い。」

甲高い声の圧は父そっくりだ。

「ごめん。仕事をしていたから。」

「在宅でしょ。家にいるなら暇じゃん。」

「暇ってわけじゃ……」

「はいはい。言い訳はいいから。」

彼女は私の言葉を最後まで聞かず、靴を脱ぎ散らかして廊下を進んでいく。久しぶりに直接会った姉は、相変わらず整った顔立ちをしていた。亡くなった母に似た華やかな雰囲気がある。子供の頃から親戚にも近所の人にも可愛いと言われて育ってきた妹だったけれど、見た目より全体的にふっくらしている気がする。外見の変化を責めるつもりはなかった。それよりも、生活習慣や健康状態が気にかかる。実家で昼夜逆転のような生活をしていると父から聞いていたからだ。

私は姉の後を追いながら、慎重に発言の内容を選んだ。

「姉、最近体調は大丈夫?あ、久しぶりに会ったから、元気にしているかなって。」

「何?いきなり。お姉ちゃん、うざい。」

彼女は立ち止まり、ギッとこちらを睨んでくる。

「そういう意味じゃなくて、私、本当に心配で。あなた、かなり不規則な生活してるんでしょ。」

「やめてよ。その目、人の体型チェックとか最低なんだけど。自分が地味だからって僻まないでよね。」

「ごめんなさい。」

反射的に謝ってしまう。姉は鼻で笑い、リビングへ入るなりソファーに腰を下ろした。まるで自分の家のような振る舞いだ。リビングは朝のうちに掃除を済ませている。クッションも整え、テーブルの上には仕事の資料を置かずすっきりさせてあった。姉はそこへバッグを乱暴に置き、足を組む。

「お茶。」

「え?」

「お茶。あとお菓子。人が来たら普通出すでしょ。」

なんとも横柄な物言いだ。自分がもてなしを受ける価値がある人間だと思っている。

「急だったからあまり用意が……」

「何でもいいわよ。お姉ちゃんって一応家事得意なんでしょ?あ、でも不味いもの出したらぶっ飛ばすから。」

「分かったわ。」

私はキッチンへ向かった。棚の上にある紅茶を取り出し、ポットからお湯を注ぐ。お菓子は昨日焼いたクッキーがあった。本当は新一と夜に食べる予定だったが、出さないわけにもいかない。紅茶とクッキーをトレーに乗せ、リビングへ戻る。姉はスマートフォンを操作しながら、こちらを見ることもなく言った。

「遅い。本当に気が利かないよね。お父さんがいつも言ってる意味、分かるわ。」

「……ごめんね。」

つい口をついて出てしまう謝罪と共に、テーブルにカップと皿を置いた。姉はスマホを見たまま、クッキーを摘まみ、口へ運ぶ。

「まあ、味は悪くないじゃん。」

「ありがとう。」

「褒めてるわけじゃないから勘違いしないで。ふん。」

顔を背けるところまで父そっくりだ。姉は紅茶を飲む。熱いと文句を言われるので、あらかじめ少し冷ましておいた。

「そういえば、仕送りのことお父さんから聞いてるでしょ?さっさと振り込んだよね。」

私はそこで、彼女の目的が金の催促だったのかと理解する。

「追加分のことなら、まだ金額が大きいから新一にも相談しないとと思って。」

「まだやってないの?ごめんね、じゃないんだけど。」

「はあ。なんで新一さんに相談するの?」

「家計から出すことになると思うから。」

「何それ?めんどくさいな。」

がちゃんと、姉はカップを乱暴にテーブルへ置いた。中の紅茶が揺れて、受け皿にこぼれる。私は慌てて布巾を取りに行こうとした。その時、姉がじろりと私を見る。

「今、呆れた?」

「え?」

「お姉ちゃん、今私のことバカにしたでしょ。」

一体何のことか理解不能だった。

「はい?そんなつもりじゃ……」

「嘘。今完全に見下してた。」

「違うわ。紅茶がこぼれたから拭こうと思って。」

「うるさい。」

次の瞬間、姉はテーブルの上のクッキーを掴み、私の足元へ投げつけた。乾いた音を立てて割れたクッキーが床に散らばる。さらに彼女はカップを傾けた。紅茶がテーブルの上へ流れ、ラグの端まで染みていく。

「お姉ちゃんって本当に偉そうだよね。」

「姉、やめて。ラグに染みるから。」

「そんな安物、買い換えればいいじゃん。」

「安物でも大切に使ってるの。」

「へえ。じゃあ私よりラグの方が大事なんだ。」

「そういう意味じゃ……」

「姉は稼いでるんだから、私たちの面倒を見るのは当然じゃない。」

彼女は立ち上がり、カップを拾う私を見下ろしていった。

「むしろ、家族に貢献する機会をあげてるんだから、感謝して欲しいわ。」

「感謝?」

「そうよ。お姉ちゃんは家でパソコン打ってるだけでしょ。社会の役に立ってるって実感欲しいんじゃないの?」

冗談でも皮肉でもない。姉は本気で言っている。自分が援助を受ける立場であることを恥じる気配は皆無だった。

「私はちゃんと仕事として……」

「はいはい、作家様ね。偉い偉い。」

姉はわざとらしく手を叩いた。その音がやけに耳に残る。作家というかライターなのだが、彼女は昔からその辺りの区分を勘違いしているようだ。私は床に散らばったクッキーと、紅茶で濡れたラグを見つめた。こんなことをされる理由があるのだろうか。そう考えかけて、すぐに自分の中で打ち消す。私が余計なことを言ったからだ。健康を心配するつもりが、姉を怒らせてしまった。仕送りの話でも、もっとうまく返事すればよかった。昔から、こういう時は私の言い方が悪いのだと考える癖がある。

「ねえ、お姉ちゃん。」

「何?」

「意外と物があるね。」

嫌な予感がした。姉はリビングの棚へ近づき、勝手に扉を開ける。中には食器や客用のカップが並べてあった。私は慌てて近づいた。

「姉、そこは触らないで。」

「え?なんで?」

「割れ物が入ってるから。」

「へえ。あ、これ可愛いじゃん。」

姉が手に取ったのは、私が大切にしているティーセットだ。白に淡い花模様が入ったカップとソーサー。独身時代、初めて大きな仕事を任された時、自分へのご褒美として買ったものだ。高級ブランド品ではない。それでも私にとっては、仕事を続けてきた証のような品だった。新一も気に入ってくれて、記念日にはよくそのティーセットで紅茶を飲んだ。

「姉、それはだめ。私が大切にしているものなの。」

「ふうん。じゃあ、安物じゃないじゃん。」

彼女の価値基準はやはり値段なのだ。だが、私がここで必死になればなるほど、姉はよりティーセットに執着する。

「値段の問題じゃない。本当にやめて。」

「高く売れそうだから、とりあえずもらってくね。」

こちらの言い分を一切聞かない。その態度に焦りが募る。私はとっさに姉の手首を掴もうとしたけれど、彼女は大げさに身を引いた。

「触らないでよ。気持ち悪い。妹が欲しいって言ってるのにくれないんだ。」

「他のものなら考えるから。お願い、持っていかないで。」

「ふん、知らない。私はこれがいいの。」

姉は私から顔を背け、バッグを開けた。カップを雑に詰め込み始める。ソーサー同士がぶつかり、ガチャガチャと嫌な音がした。

「割れたら、お姉ちゃんの詰め方が悪いってことで。」

「姉が入れてるでしょ。」

「細かいな。だから嫌われるんだよ。」

カップがバッグの中へ消えていく。私は手を伸ばしかけて、止まってしまった。ここで無理に取り返せば、姉はさらに怒る。父にも話が行き、電話がかかってきてまた攻められる。そう考えると、足が床に縫いつけられたように動かなかった。

「じゃ、仕送りよろしく。」

「姉、待って。せめてティーセットは置いていって。」

なんとか言葉を絞り出す。しかし姉は鼻で笑った。

「しつこい。お姉ちゃんって本当にケチ。」

姉はバッグを肩にかけ、玄関へ向かう。廊下へ出る前、わざとらしく振り返った。

「お父さんにも言っておくから。お姉ちゃんが私に意地悪したって。」

「意地悪なんてしてないわ。」

「したじゃん。私の体調に文句言って、仕送りも渋って、欲しいものもくれない。じゃあね。」

玄関の扉が乱暴に閉まる。家の中には、姉によって乱された空気だけが残った。私はしばらく立ち尽くした。やがてリビングへ戻る。床には割れたクッキーが散らばり、テーブルとラグには紅茶の跡が広がっている。棚の中にはぽっかりと開いた場所があった。そこにあったはずのティーセットは、もう手元に戻らないかもしれない。喉の辺りがぐっと詰まる。頭の中に浮かんだのは、「また怒らせてしまった」という一言だった。

私はよろよろと布巾を取り、テーブルを拭き始めた。紅茶の染みはなかなか落ちない。ラグは後で洗うしかなさそうだ。クッキーのかけらを集めながら、私は何度も自分に言い聞かせる。大丈夫だ。大したことではない。ティーセットより、家族との揉め事を増やさない方がいい。そうやって自分を納得させた。

夕方になり、新一が帰ってきた。玄関の鍵が開く音がして、私は慌てて洗面所で洗っていたラグから手を離す。

「ただいま。」

「お帰りなさい。」

「うん。何かあった?」

新一はすぐに異変に気づいた。リビングのテーブルは拭いた後だったが、ラグはまだ完全に乾いていない。棚の中の空きも目立つ。急いでごまかそうとしたが、彼の視線がティーセットのあった場所へ向いた。

「あれ?あそこにあったカップはどうしたの?」

「実は……姉が来たの。」

それで私は迷った。話せば新一は怒る。けれど隠しても後から分かってしまう。結局、私は今日の出来事を、リビングのソファーに座って途切れ途切れに説明した。聞き終えた新一は、キュッと唇を引き結ぶ。怒りをこらえている時の表情だった。

「それ、泥棒だよ。」

「でも、妹だから……」

「妹でも、人の家から勝手に物を持っていけば泥棒だ。」

「違うの。元は私が余計なことを言ったから……」

私は俯く。すると新一の声が変わった。叱るためではなく、私を現実へ引き戻すための響きがある。

「体調を気遣ったことが、物を投げられる理由になるわけがない。でも姉だったのよ。」

「嫌なら言葉で伝えればいい。大人なんだから。ティーセットを奪っていい理由にもならないよ。」

真剣な彼の眼差しに少し救われる。

「けど、我慢し続ける必要はある?」

私は答えられなかった。必要があるかと聞かれれば、ないのかもしれないが、私の中では昔から当たり前なだけだ。父と姉を怒らせず、いつでも従う。私が折れば家庭は回る。そんな考え方が骨の髄まで染みついている。

「私が悪いから仕方ないの。ごめんなさい。新一、怒らないで。」

「姉は悪くないし、俺は怒ってるよ。お父さんと姉さんにじゃなくて。でも、でもじゃない。姉が大切にしていたものを奪われて、俺が平気でいられると思う?」

新一は私の隣に座った。今朝まで足元にあった柔らかな感触は今はない。新一の優しさがありがたい反面、申し訳なさが募っていく。私はまた彼に迷惑をかけてしまった。

「今日はもう休もう。俺が夕飯を作る。姉はゆっくりしてて。」

「え、で、でも……」

「お願いだから、今日くらい自分を優先して。」

新一の言葉に、私はぼんやりと頷くしかなかった。普段はのほほんとしている彼が、明らかに納得していない様子で深く考え込んでいる。その姿を見て、初めて自分が失ったのはティーセットだけではないのかもしれないと感じ始めていた。

ある日のこと、ふとスマートフォンが鳴った。画面を見ると、おばの美代子さんの名前が表示されている。私は慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし、美代子さん。」

「ああ、トコ。元気?」

「うん。美代子さんこそ。」

聞き慣れた明るい口調に、自然と頬が緩む。美代子さんは母の妹だ。今年で62歳になるが、現役で国内外を飛び回り、今でも第一線で働いている。私にとって憧れの女性でもある。

「ええ、ついさっき帰国したところなのよ。」

「そういえば、3ヶ月ぐらい海外だったっけ?」

「うん。ようやく終わったわ。ところで、週末空いてる?」

手早くスケジュール表を確認する。急ぎの仕事はない。

「大丈夫だよ。」

「じゃあ、遊びに行くわ。お土産もあるし。あ、新一さんの分もあるから楽しみにしていてね。」

電話を切った後、私は久しぶりに気分が明るくなっていた。美代子さんと会うと元気をもらえる。母が亡くなった後も、何かと気にかけてくれた人だ。週末が待ち遠しい。

そして迎えた土曜日。午前中から掃除を済ませ、お茶の準備も整えた。昼過ぎになると美代子さんがやってきた。玄関で一緒に迎えた新一も嬉しそうだ。仕事関係で美代子さんが色々と面白い話を聞かせてくれるため、親しみを感じているのだという。

「美代子さん、いらっしゃい。」

「久しぶりね、新一さん。」

「荷物重かったでしょ?持ちますよ。」

「平気、まだまだ若いもの。」

そう言って笑う姿は本当に元気そのものだ。リビングへ案内すると、大きな紙袋から次々とお土産が出てくる。海外のお菓子、珍しい紅茶、現地の雑貨など、どれも素敵だった。

「すごい。こんなにたくさん。」

「ちょっと買いすぎたかしら。」

「大歓迎です。ありがとうございます。今、お茶を持ってくるね。」

3人でテーブルを囲み、おしゃべりに花を咲かせる。話題は豊富で会話は全く途切れない。その時だった。

ピンポン。とインターホンが鳴る。それも、何度も何度も繰り返される。ボタンが壊れるのではないかという勢いだった。私は一気に嫌な予感がした。美代子さんも察したらしい。

「ふう。多分、姉でしょ。こんなことをするの、あの子くらいしかいないし。」

実際、モニターを確認するとそこには姉の姿が映っている。

「ごめんなさい。」

「なんでトコが謝るの?ここは私に任せて、座ってなさい。」

そう言い残し、彼女は玄関へ向かった。私は新一と顔を見合わせる。しばらくすると、外から声が聞こえ始めた。最初は何を言っているのか分からなかったが、時間が経つにつれてどんどん大きくなる。姉らしき怒鳴り声と、それに対する美代子さんの落ち着いた返答が続く。会話というより、姉による一方的な攻撃に近かった。

「様子見てくる。」

「私も行く。」

私たちはリビングを出て、サンダルを引っかけて玄関のドアに手をかける。外へ出た瞬間、状況が理解できた。姉が腕を振り回しながら騒いでいる。対する美代子さんは腕を組み、呆れたように立っていた。

「だから邪魔なのよ。」

「人の家にアポなしで来た人が言うセリフじゃないわね。」

「お姉ちゃんの家なら、私の家みたいなものでしょ。」

「意味が分からないわ。ふう。」

美代子さんは1つ息を吐く。その些細な動作も姉の神経に触った。

「おばさんには関係ない。」

「関係あるのよ。トコは私の大事な姪だもの。」

「何それ?私は大事じゃないって言いたいの?ママが亡くなったのはお姉ちゃんのせいなんだよ。おばさんだって、本当はお姉ちゃんのこと恨んでるんでしょう?」

「は?本気で言ってるの?」

一瞬、美代子さんは呆然としていた。母の話題が出たことに、私は体を強張らせる。隣の新一も、軽蔑したように眉を寄せた。姉はますます機嫌を悪くし、周囲を見回す。そこで私たちに気づいた。

「お姉ちゃん、遅いのよ。出てくるのが。」

ちっ、と舌打ちまで飛んでくる。私は反射的に身構えた。ところが、今日は少々状況が違うことにすぐに気づく。美代子さんも新一もいる。信頼している2人に囲まれて、不思議と冷静になれた。

「どうしたの?何の用よ?またお金のこと?」

すると、姉の動きがピタッと止まる。図星という反応だ。同時に、私の口ぶりに驚いている。

「何よ、その態度。」

「だから、用件は何なの?それとも、単に騒ぎに来ただけ?」

「う、うるさい。あるわよ。」

がばっと、姉はバッグを乱暴に開けた。中から何かを取り出す。私は目を見開いた。以前、勝手に持っていかれたあのティーセットだ。

「ほら、返してあげる。」

私はほっとした。

「これ、一銭にもならなかったわ。査定に出したらがっかりしたわよ。」

だが次の瞬間、彼女はティーセットを地面へ叩きつけた。乾いた破砕音が響く。カップが割れ、ソーサーが砕け、白い破片が飛び散った。私の頭の中が真っ白になる。数秒遅れて理解した。完全に壊されたのだ。

「お前……」

新一が一歩前へ出る。私は慌てて彼の腕を掴んだ。鼻息を荒くしながら姉は続ける。

「ブランド品でも何でもないじゃない。査定してもらったら、2束3文だったわ。時間返せ。」

「それはそうだ。ティーセットはハンドメイド作家の手による一点物。安く見積もっても、そんな値段になるはずがない。」

新一の言葉に、姉は一瞬言葉を詰まらせた。自分の査定が間違っていたことを認めたくないのだろう。

「あなた、自分で盗んだ家のものを勝手に売ろうとしたの?」と美代子さんは問い詰める。

「盗んでない。家族なんだから問題ないわ。」

「小学生でもそんな理屈は通らないわよ。」

「うるさい。おばさんには関係ないでしょ!」

「あなた、本当にずっとそんな調子なのね。」

哀れむような視線を向けられ、姉の顔が朱に染まる。そんな彼女に新一が険しい目を向ける。普段の彼からは想像できない空気を醸し出していた。その貫くような視線の鋭さに、さすがの姉も体を強張らせる。しかし、すぐに強気な態度へ戻った。

「うん。何よ。どうせお姉ちゃんには何もできないんだから、怖くないわ。お姉ちゃんは昔からそう。私にもお父さんにも逆らえない。一生そのままよ。」

私はじっと彼女を見つめた。姉の発言は、以前ほど心を傷つけなかった。味方がいるという事実は、こんなにも強く自分を保たせてくれる。姉は何かを察したのか、不機嫌そうに再び舌打ちした。

「もういい。今日は帰る。」

「是非そうしてちょうだい。」

「うるさい。仕送り忘れないでよ。」

「近所迷惑だから、静かに帰りなさい。」

どすどすと足音を立て、姉は去っていった。ようやく周囲に平穏が戻る。私は足元を見つめた。ティーセットの残骸が散らばっている。もう元には戻らない。大切な思い出だった。

「本当に困った子ね。」美代子さんは姉が去っていた方向を見てため息をついた。

楽しいお茶会どころではなくなってしまった。リビングに戻り、私たちは残っていたお茶とお菓子を黙々と食べる。やがて美代子さんは「また来るわ」と言って帰っていった。

数日後、新一はあれから何度も言ってくれた。

「トコが悪いわけじゃない。姉さんのしたことは、どう考えてもおかしい。もう仕送りはやめよう。連絡も無視した方がいい。」

その度びに、私は返事に詰まった。彼の言っていることが正しいのは分かる。分かっているのに、父と姉の機嫌を損ねることへの恐怖が先に立つ。子供の頃から積み重なったものは、そう簡単に剥がれてくれなかった。

ある日の夕方、新一がいつもより遅く帰ってきた。リビングの扉が開く音がして、私は夕飯の支度をしながら振り向く。

「お帰りなさい。」

「ただいま。」

いつものんびりした調子ではなかった。私は火を弱め、キッチンから出る。新一はネクタイを緩めながらリビングの入り口で立ち止まり、大きく息を吐いていた。

「何かあった?」

「実は、今日会社の前に姉さんがいた。」

「え、何?どういうこと?」

思わず聞き返す。新一はリビングのソファーにカバンを置いた。話を聞くと、彼が退社しようとしたら、会社の出入り口近くに立っていたという。新一の名前を呼び、下品に話しかけてきたそうだ。

「それで、何を言われたの?」

「『お姉ちゃんには内緒で話したい』とか、『今度2人で食事に行きたい』とか。」

私は言葉を失った。姉が新一の会社まで行き、直談判をかけていた。その事実がすぐには飲み込めない。

「それで、えっと、新一はもちろん無視して帰ってきた。」

「ごめんなさい。」

反射的に謝罪が飛び出す。

「トコが謝ることじゃない。」

「でも、姉が迷惑をかけたから。」

「迷惑をかけたのは姉さん本人だ。」

新一ははっきり言い切った。仕事で疲れているはずなのに、私の家族が一方的に押しかけて迷惑をかけている。いくら頭を下げても足りない。しかし、姉の行動はその日で終わらなかった。翌日も、その次の日も、彼女は新一の会社近くに現れた。退社時間を狙っているらしく、出入り口から駅へ向かう道で待っているという。新一は毎回無視し、時には別の出入り口や道を使いながら帰ってきた。それでも、姉はその行動を一切やめなかった。

「今日は会社じゃなくて、駅の改札前にいた。ま、また俺の後ろを歩きながら、しつこく話しかけてきた。周りから見たら、俺は相当冷たい男だろうな。」

「本当にごめんなさい。」

新一はまっすぐにこちらを見つめてくる。

「謝るより、そろそろ対処しよう。会社にも相談する。場合によっては警察にも。」

真剣な様子で彼はそう言った。私の中で迷いが浮かぶ。確かに看過できる時期はとっくに過ぎている。

「でも、警察は大げさじゃ……」

「大げさじゃない。待ち伏せを繰り返されているんだから。」

私はすぐに頷けなかった。姉が悪いとは分かっているが、「警察」という言葉を聞くと、父が怒鳴り込んでくる未来が浮かんでしまう。「お前は妹を犯罪者にする気か」という父の叫びが、脳内で容易に想像できた。新一は私の沈黙を見て、強い言葉を一旦やめた。

「トコが怖いなら、俺が直接話すよ。無理しなくていい。当事者は俺だ。」

「でも、姉は……あの子は私の妹だから。」

そこまで言いかけて、私は口を閉じた。姉がわがままなのも、父が私を責めるのも仕方ない。そうやって自分の中の抵抗を潰してきた。けれど、今回は違う。姉が狙っているのは新一だった。お金やものなら、私はこれまで何度も譲ってきた。お菓子も、おもちゃも、洋服も、進学の希望も、父からの評価も。姉が欲しがれば、私は下がる。父が命じた時には、文句を言わずに差し出す。そんな人生を送ってきた。しかし、新一は違う。彼のことだけは、絶対に奪われたくなかった。

「私……あの子と話をしてみる。」

小さく消え入りそうな声で呟いた。新一が心配そうな顔で見てくるが、安心させたくて、私は無理やり笑った。

翌日の午前中、姉から電話がかかってくる。画面に名前が表示された瞬間、いつものように胃の辺りが重くなる。それでも、私は通話ボタンを押した。

「もしもし。」

「お姉ちゃん、仕送りまだ?開口一番。」

やはりお金の催促だった。

「今月分はもう振り込んでいるわ。」

「だからさ、追加分。」

「追加分は無理よ。」

私は自分を奮い立たせるように、ぎゅっと拳を握る。

「それより姉、新一の会社に行っているでしょ。これ以上、彼に迷惑をかけないで。」

電話の向こうが止まった。すぐに、不機嫌そうな息遣いが聞こえる。

「はあ?何?新一さんから聞いたの?」

「会社の前で待ち伏せするのはやめて。ストーカー行為になり得るのよ。」

「お姉ちゃん、上から目線で何言ってんの?お姉ちゃんと比べたら、誰だって私の方を選ぶに決まってんじゃん。」

姉はけらけらと笑う。その物言いには、隙あらば新一と関係を持とうとする下心が透けて見えて、ぞっとした。私はスマートフォンを握り直した。いつもなら、ここで謝って話を終わらせている。だが、新一に関わることだけは引けなかった。

「もう新一に近づかないで。」

「本気で新一さんを奪われたくないなら、もっとお金ちょうだいよ。」

結局、彼女はそれしか言えないのか。私は張り詰めていた気持ちが緩むのを感じた。呆れてしまったのだ。結局、姉はその程度の人間なのだろう。そう思ってしまった自分に驚く。そして、返事を迷っているうちに、電話は切れていた。私はしばらく暗くなったスマートフォンを見つめる。手のひらに汗が滲んでいる。ほんのわずかだが、言い返せた。私にとっては大きな一歩だった。

その日の夜、私は新一に電話の内容を話す。彼は驚いたように目を丸くした後、穏やかに微笑んだ。

「よく言ったね。俺も、そこまで姉に愛されていることが分かって嬉しいよ。」

「もう……でも、姉はまた何かしてくるかも。」

「その時は、一緒に対処しよう。」

私はこくんと頷いた。

そして翌日。今日は元々新一と出かける約束をしていた。彼が有給を取ってくれて、久しぶりに2人で買い物と食事に行く予定だったのだ。朝から天気がいい。私はお気に入りのワンピースを着て髪を整え、カバンを持つ。頭の隅には、姉のことが残っていた。出かける前、新一が言った。

「仕送り、本当にするの?」

「今回で最後にしたい。もし今後電話がかかってきても断る。それか、法的措置を取る準備があるってちゃんと言うよ。」

自分自身に改めて確認するように言う。新一は少しだけ黙って、私の横顔を見つめていた。

「分かった。トコがそう決めたなら、一緒に行くよ。」

「ありがとう。」

私は現金が入った封筒をカバンへ入れる。駅前へ向かう途中、銀行に寄った。ATMコーナーには数人が並んでいる。私は列に入り、新一はすぐ近くで待ってくれた。順番が来る。ATMの前に立ち、姉の口座番号を入力する。画面を確認しながら紙幣を入れる。機械が紙幣を数える音が聞こえた。このお金でまた姉は働かずに過ごすのだろうか。そして父は当然のように受け取るのか。そんな考えが頭をよぎる。入金処理が終わり、明細票が出てきた。私はそれを取る。その瞬間だった。

「今すぐ逃げよう、早く。」

突然、新一が私の手を掴んだ。え、走って?返事をする余裕もなかった。彼は私の手を引き、ATMコーナーから飛び出す。銀行の自動ドアを抜けて歩道へ出た。何が起きたのか分からないまま、必死についていった。徐々に息が上がる。ヒールの低い靴を選んでいてよかった。それでも、突然の全力疾走に体が追いつかない。新一は私の手を離さず、まるで何かから守るようにしっかり握っている。角を曲がり、人通りの多い商店街へ入る。そこでようやく新一は速度を落とした。私は肩で息をしながら新一を見上げる。

「どうかしたの?」

彼は周囲を確認してから低く告げた。

「後ろ見てみろ。」

そう促されて、恐る恐る振り返った。銀行の方向から、深くキャップをかぶりマスクをした人物が、年配の女性の手を引いて小走りで駆けていくのが見える。一瞬誰だか分からなかったけれど、歩き方や身長に見覚えがある。私ははっとした。

「え、姉?」

思わず名前が漏れる。一方、彼女に手を引かれている年配の女性には見覚えがなかった。80代ぐらいだろうか。紺色の服を着ていて、姉に引っ張られ、転びそうになりながら走っている。親戚でも近所の人でもない。2人は銀行とは反対方向へ向かい、人混みの中へ紛れていく。姉は何度も振り返りながら、年配の女性を急かしていた。その仕草が妙に引っかかる。助けているようには見えない。むしろ、どこかに逃げようとしている。私は同じ方向に視線を向けている新一へ尋ねる。

「一体、何があったの?」

「さっき、姉さんとあのおばあさんが、この2つの隣のATMにいた。」

落ち着いた声で彼は説明してくれた。女性は機械の操作に慣れていない様子で、何度も画面を見比べながら指を動かしていたという。その横にいたのが姉だった。

「最初は親切で付き添ってるのかとも考えたけど、あの姉さんがそんなことするかなって。」

「うん。私も同じ考えだ。」

姉は昔から面倒なことが嫌いだった。見知らぬお年寄りに寄り添って、優しく操作を教えるような性格ではない。父にすら、自分の機嫌が悪い時は冷たく当たる。お年寄りでなくとも、他人を助ける姿自体、想像しにくかった。

「しかも、姉さんはすごく小さな声で急かしてて、イライラしてるみたいだった。何てはっきりは聞こえなかったけど、『早くして』とか『そこじゃない』とか、そういう感じだったと思う。おばあさんの方は困っているみたいだった。何度も姉さんを見て、指示を待っていた。」

新一の話を聞くほど、胸騒ぎが強くなる。姉はキャップとマスクで自身の顔を隠していた。普段なら、目を引く服や持ち物を選び自慢するタイプだ。それなのに、今日の姉は明らかに目立たない格好をしていた。服装も黒っぽかった気がする。

「それで、2人に銀行員さんが近づいてきた。多分、祖母と孫のやり取りだとしても不審に感じたんだと思う。声をかけていた。」

「それで、姉は逃げたの?」

「声をかけられた瞬間に、おばあさんの手を取って逃げようとしてた。そして、2人が逃げ出そうとした方向に、俺がいたというわけだ。姉さん、明らかに挙動不審だったし、こっちに気づいたら絶対面倒になる。巻き込まれる前に離れた方がいいと思ったんだ。」

「それで、私を連れて逃げたってことね。」

新一の判断は正しかった。姉が私に気づけば、何を言い出したか分からない。銀行の中で騒ぎ出した可能性もある。私は自分の手元を見る。姉の口座へ入金したばかりだった。つい先ほどまで「これで最後にしよう」と考えていたけれど、今見た光景がその決意とは別の不安を連れてくる。

「姉……何をしていたんだろう?」

ぽつりと呟く。銀行からはもう離れているはずなのに、私の心臓はまだ早鐘を打っていた。

「実は、最近ちょっと気になっていたことがあるんだ。」

「え、何?」

「会社の前で俺を待ち伏せしてた姉さん、毎回違う高級ブランド品を身につけてた。」

私は呆然とした。

「高級ブランドって、例えば?」

「バッグとかアクセサリーとか。詳しくはないけど、明らかに高そうなものだった。本人もわざわざ見せてきたよ。『これ新作なんです』とか『分かる人には分かるんですよ』とか。しかも、今度新一さんに似合いそうなものをプレゼントします、とまで言ったらしい。」

「でも、姉がそんなもの買えるはず……」

言いかけて、私は口を閉じた。姉は働いていない。父の年金と貯金に頼り、足りない分を私に求めている。それなのに、高級ブランド品をいくつも持つ余裕がある。一瞬、真面目に働き始めたのかと考えたが、すぐに打ち消す。姉が仕事を始めたなら、父はきっと電話で大げさに自慢してくる。けれど、父からそんな話は一度も聞いていなかった。

「なんか変よね。ああ、でも、どう変なのか分からない。」

新一は考え込んだ。普段なら、私を安心させるために冗談の一つでも言ってくれる。しかし、今は違った。

「もしかして、姉さん、何か怪しい仕事に手を出してるんじゃないか。」

彼がもたらした一言に、ぞくりと背筋が冷える。頭の中で嫌な線が繋がっていく。まさか、お年寄りを狙うような。言葉にしたくなかったが、一度浮かんだ考えは消え続ける。テレビやネットの記事で見たことがあった。家族を装ったり、役所や銀行、警察の関係者を名乗ったりして、高齢者をATMへ誘導する詐欺について。

「まさか。」

私は首を横に振る。姉は傲慢で、私を見下している。だが、そこまで悪いことに手を染める人間だとは信じたくなかった。私は家族だからずっと逆らわずに助けてきた。もし、姉が知らない年配の女性からお金を奪っているとすれば、私が続けてきたことは一体何だったのだろう。子供の頃から言いたい言葉を飲み込んできたことも、無意味になってしまう。

「まあ、全部想像だし、証拠もないしな。うん。俺が見たのは、姉さんが年配の女性とATMにいたこと。銀行員さんが近づいて、姉さんが逃げた。それだけだ。」

「でも、不自然ではあるよね。」

新一は否定しなかった。その正直さが却って怖かった。私はもう一度、銀行の方を見る。人混みの向こうに、姉の姿も年配の女性の姿も消えている。今から追いかけても、もう見つからないだろう。

「私、姉に電話した方がいいかな。」

「今はやめた方がいい。」

「どうして?」

「問い詰めたところで、まともに答えるとは思えないよ。」

私は自分が焦っていることを自覚した。スマートフォンが入っているカバンを撫でていた手を、ゆっくりと下ろす。

「それに、もし本当に怪しいことに関わってるなら、トコが危ない。姉さんはトコを軽く見てるだろう。何を言っても支配できると思ってる。だからこそ、変に突っ込むと利用される可能性がある。」

「利用される……」

その一言が重たく響いた。もう十分、私は利用されている。仕送りも、家事の手伝いも、急な呼び出しも。姉は昔から、私を便利な道具のように扱ってきた。私自身がもう仕送りはしないと強く決意を固めても、それだけでは意味がない。姉はこちらの意思などお構いなしに迫ってくるだろう。大事なのは、彼女を断固として拒絶すること。

私はカバンの持ち手をきつく握りしめた。

「今日は、予定を変えよう。」新一は優しく切り出した。「買い物と食事は、また今度にしよう。一旦家に帰って、落ち着いて考えたい。ああ、でも、どこかテイクアウトできるところにだけ寄ろうか。」

「ごめんね。せっかく休みを取ってくれたのに。」

「謝らなくていい。トコのせいじゃない。」

彼はぎゅっと私の手を握ってくれる。その言い方で、自分だけが何でも悪いわけではないのだと、いつも引き戻される。まだ不器用だけど、そう受け取ろうとはしていた。

商店街を歩いている途中、新一がある喫茶店を指さした。

「サンドイッチでも買って帰ろうか。」

「ああ、そうだね。美味しそう。」

なんとなく時計を見る。昼食の時間まではまだ少しある。店内も空いていると思うが、今は早く家に帰りたかった。立ち寄った喫茶店は、昔ながらの個人経営の店で、テイクアウトにも対応している。新一は時々利用しているようだ。店内へ入ると、香ばしいパンやコーヒーの匂いが漂ってくる。それだけで緊張が少し柔らいだ。ショーケースの中には様々なサンドイッチが並んでいて、どれも美味しそうだった。

「迷うね。」

「全部買えばいい。」

「全部は多いでしょ。」

「じゃあ、3種類。」

結局、私たちは卵サンド、ハムチーズサンド、照り焼きチキンサンドを購入した。飲み物も持ち帰り用に用意してもらう。それから、どこにも寄り道せず家へ戻った。リビングのテーブルへサンドイッチとテイクアウトのコーヒーを並べる。手洗い・うがいを済ませた私は、まず卵サンドを手に取った。一口かじる。ふわふわのパンと優しい味付けの卵が、口いっぱいに広がった。

「美味しいだろう。俺も好きなんだよな。」

「なんか、ほっとするね。」

銀行での光景が頭から消えたわけではないけれど、美味しい食事には不思議な力があった。張り詰めていた気持ちがゆっくりと緩んでいく。新一も照り焼きチキンサンドを頬張っている。数分前まで険しい表情をしていたのに、今は肩の力が抜けていた。私はコーヒーも飲み、口の中をさっぱりさせる。その時だった。新一がふと真面目な様子になる。

「実は、姉に伝えたかったことがある。」

「え、何?」

私はカップを置いた。彼にしては珍しい前置きだった。仕事の話だろうか?それとも、先ほどの銀行の件について何か考えがあるのか?新一は軽く頭を掻いた。

「俺の本社移動が正式に決まったんだ。」

私は目を見開いた。

「お、本当に決まったの?」

「先週、内示が出てた。」

「え、先週?どうしてすぐに言ってくれなかったの?」

ぐいっと身を乗り出すと、彼は苦笑する。

「正式発表までは黙ってろって言われてたんだ。で、昨日、辞令も出たから、今日伝えるつもりだった。」

私は胸の前で手を組んだ。本社への移動は栄転に当たる。新一は元々評価が高かった。この辞令も、会社から大きく期待されている証拠だろう。出世欲自体は薄い彼だが、仕事への意欲は旺盛なのだ。今はこんな感じのプロジェクトを担当している、などと、私にも話せる範囲で楽しそうに教えてくれる。

「おめでとう。すごいじゃない?」

「ありがとう。トコが支えてくれたからだよ。」

「私は何もしてないわ。」

「してるよ。」

頬を緩らせる彼に、私は思わず笑ってしまう。新一も釣られて微笑んだ。リビングに明るい空気が満ちる。だが、新一はそこで話を終わらせなかった。

「移動自体は、半年後くらいになると思う。引き継ぎもあるからな。」

「半年後。そっか。」

「それで、相談なんだけど……引っ越さないか。」

予想外の一言だった。

「え?本社勤務になったら当然勤務先も変わるし、引っ越し自体は必須なんだけど。」

「うん。まあ、そうだよね。」

何が言いたいのだろう。私は新一をじっと見つめ返し、続きを待った。

「それに、姉さんとお父さんから、物理的な距離を取るのはどうだろうって、ずっと考えてたんだ。」

それは私も考えたことがないわけではなかったが、どこか現実味が薄い発想だった。父も姉もずっと私の人生にいる存在だったからだ。物理的な距離を取ろうが、決して逃げられないと思い込んでいた。

「だが、今ならどうだろう。もう仕送りはしないと決意はした。このまま引っ越して行方をくらますのは、私の意思の強さを2人に叩きつけるのと同義だと感じる。」

こちらを後押しするかのように、新一は慎重に言った。

「今の住所を知られている状態は危ない。姉さんは突然来るし、お父さんも、来ようと思えば来られる。」

事実なので反論できない。姉は何度も何の連絡もなく押しかけてきて、その果てにティーカップを奪い、壊した。今後、もっとひどいことをしない保証はない。

「俺、最近改めて考えてたんだ。」

「え?何を?」

「トコは、ずっと1人で戦ってたんじゃないかって。」

私は息を飲んだ。耐えていただけで、戦っていたつもりはなかった。しかし、新一から見れば、違ったのだろうか。

「でも、もう1人じゃない。俺たち夫婦だろ。」

そのセリフが、ストンと確かな重みを伴って胸に落ちる。

「トコは、何でもかんでも自分1人で背負いたがる。」

「そ、そんなこと……」

新一は苦笑する。

「俺の人生にも巻き込んでくれよ。俺だって、そうするから。」

優しい声がもたらした衝撃は凄まじかった。私は目の前が一気に開けたような気持ちになる。結婚した時から、新一は味方で、家族で、支えてくれる人だと頭では理解している。でも心の中では、父と姉のことは私の問題だと一線を引いていた。私がどうにかしなくてはならない。だから、できる限り新一を巻き込むことを避けた。仕送りの件でも、負担を背負わせないように話を整理して切り出すことに務めた。しかし、それは果たして夫婦として正しかったのだろうか。私は初めて考えた。

「私……頼ってもいいのかな?」

声がかすれる。

「なんだそれ?」新一は吹き出した。

「だって、今更だろ。そんなこと言われたら……」

私は視線を落とした。涙が出そうになる。長い間張り詰めていた糸が緩むような感覚だった。

「いっぱい頼っちゃうと思うけど、それでもいい?」

新一は呆然とし、数秒後、不思議そうに首をかしげた。

「いくら頼られたって、足りないくらいだよ。俺、そんなに頼りなく見える?」

「見えない。全然見えない。」

私は念を押すように繰り返した。本心だった。

「なら、問題なし。」

新一は明るく言い切る。涙がこぼれるよりも先に、口元が緩み笑ってしまった。彼も同じような表情になる。夫婦というのは、一緒に過ごしていると似てくるものなのだと、その時初めて実感した。銀行で見た光景も、姉の行動も不気味だった。父が今後どう出てくるかも分からない。問題は未解決のままだ。それでも、私には新一がいる。その事実を、ようやくきちんと飲み込めた気がした。

新一のおかげで一歩踏み出せた。父や姉を変えることは不可能だろう。でも、自分の生き方なら変えられる。そんな考えが、静かに胸の中に芽生え始めていた。

数日後の夕方、私はキッチンで夕食の支度をしていた。まな板の上には切りかけの野菜がある。鍋では味噌汁が温まり、フライパンには下味をつけた鶏肉を並べてあった。新一からはまっすぐ帰宅するとメッセージが届いていた。何気ない時間だが、最近の私には以前より大切に感じられる。今後の方針が決まったからだろうか。以前よりずっと呼吸がしやすい気がする。もちろん、怖さが消えたわけではない。父から怒鳴られ、姉が家に押しかけてくる未来を何度も想像しては、手が止まりそうになる。それでも、私はもう2人とは不感賞を貫く。

美代子さんにも電話で伝えた。彼女は短く笑い、優しく言ってくれた。

「やっとね。遅すぎるくらいよ。何か困ったことがあったら、いつでも連絡して。引っ越しに関しても、手助けできると思う。」

背中を押してくれるような力強い声だ。

「ありがとう、美代子さん。」

「いいえ。私も、今度あなたと会ったら話したいことがあるの。ねえ、いつなら空いてるかしら。」

「え、えっとね……」

軽く会話をして、その時は電話を切った。今週末、新一と一緒に会いに行く予定だ。

おかずの味付けを確認していると、不意にスマートフォンが鳴る。画面に表示された名前は、姉だ。私は手を洗ってから、スマートフォンを取った。以前なら、表示を見た瞬間に身構えていたと思う。今も緊張はあるが、通話ボタンを押す指は以前より迷わなかった。スピーカーに切り替え、キッチンカウンターへ端末を置く。

「もしもし。」

「遅い。出るなり、姉は怒鳴り散らした。しかしいつもより明らかに余裕がない。荒い息遣いが混じり、何かに追い立てられているようだった。」

「料理中だったの。」

「そんなのどうでもいいから。お金、すぐ振り込んで。」

用件は検討がついている。だが、あえて尋ねた。

「お金?今月分ならもう振り込んだし、追加分もあなたの言う通りにしてあげたはずだけど。」

「あんなんじゃ足りないのよ。」

どすっ、と何かを叩く音が電話越しに聞こえる。姉の足音か、テーブルを叩いているのだろうか。

「何に使うの?」

「いちいち聞かないで。」

姉の苛立ちは、いつものわがままとは違い、強い焦りが混ざっている。銀行から走り去った姉の姿が脳裏に蘇った。嫌な想像がまた形を持ち始める。

「姉、何よ。」

「私、もう2度とあなたとお父さんに仕送りはしない。」

電話の向こうの騒がしさが、ピタッと停止した。

「自分でなんとかして。あなたはもう35歳よ。生活費も遊ぶお金も、自分で用意しなさい。」

「何それ?ふざけないで。」

ちらりと見た鍋の中で、味噌汁が小さく揺れている。私は火を弱め、続けた。

「この後、お父さんにも同じことを伝える。」

「ふ、ふざけないで。お姉ちゃん、咳払い。」

姉の声がキッチンに響いた。私は反射的に肩に力が入ったが、スマートフォンから決して視線をそらさない。

「お姉ちゃんが仕送りしなかったら、私たちが困るでしょ。」

「困るなら働いて。大人なら当たり前のことだよ。」

「私に命令する気?」

「命令じゃない。私はもうお金を出さないと伝えているの。」

あくまで冷静に、淡々と言葉を紡ぐ。絶対に揺るがない姿を見せつけるのだ。

「何様のつもりよ。」

「姉の姉よ。一応ね。でも、あなたの財布じゃない。」

口にした瞬間、自分でも驚いた。こんな風に返せる日が来るなんて、以前の私なら考えられなかった。姉も予想外だったのだろう。しばらく言葉に詰まっていた。だが、すぐにいつもの調子へ戻る。

「ああ、私に新一さんを奪われてもいいわけ?」

「新一は、あなたみたいな人にはなびかないよ。待ち伏せしても無駄。彼にも迷惑をかけないで。」

「はあ。なんでお姉ちゃんが勝ったつもりでいるの?」

「勝ち負けの話じゃないってば。」

私ははあ、と息を漏らした。些細な動作だったが、それすらも姉の神経を逆撫でたようだ。

「新一さんだって、本当は私の方がいいに決まってる。地味なお姉ちゃんより、私の方が女として魅力あるし。」

「そう考えたいなら、自由にすればいい。でも、新一に近づくのはやめて。」

「何を余裕ぶって。むかつく。」

姉の吐き捨てるような一言に、以前の私は怯え、慌てて謝っていた。けれど、今は違う。新一を奪うと脅してくる妹に、これ以上頭を下げる必要はない。私はカウンターに片手を置き、息を整えた。

「心当たり、あるんでしょ。姉、あなた、怪しい仕事とかしてないよね。」

その瞬間、今まで早口に言い返していた姉が、突然黙った。ほんの短い沈黙だが、答えとしては十分すぎる。

「は、何のこと?」

「分からないなら、別にいい。」

姉が何かやらかしていると直感的に悟った。詳しい内容までは分からない。胸騒ぎは確信に変わりつつあったが、私はそこで追求しなかった。姉を下手に刺激すれば、こちらが巻き込まれる。無視が妥当だ。新一の言っていた通りだった。

「もういいな。」

「何がよ。」

「今後、私はあなたとお父さんとは2度と関わるつもりはない。電話もかけてこないで。迷惑だから。」

「は?お姉ちゃん、何言ってるの?」

おそらく今、姉は呆けた顔をしているはずだ。すらすらと決別の言葉が出てきた自分を、まるで別人のように感じる。「迷惑」というたった一言を、どうして今まで言えなかったのだろう。父と姉から向けられる数々の要求を思い起こす。呼び出し、金の催促、勝手な訪問。新一への接近。全部、迷惑だった。私はずっと、それを自分の中で別の名前に置き換えてきた。家族だから。償いだから。私が我慢すれば済むのだと。けれど、今はっきり分かった。迷惑だったのだ。

姉が黙りこくる。電話の向こうから、荒い息遣いだけが聞こえる。最初はかなり荒かったのが嘘のようだ。やがて、姉が低く言った。

「そんなこと、言っていいの?」

「どういう意味?」

「新一さんさ、お姉ちゃんのせいでママが亡くなったこと、知らないみたいだったじゃない?」

心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。

「ねえ、知られたくないよね。新一さんがあのことを知ったら、幻滅すると思うよ。自分の母親を見捨てた女なんて、普通に考えて無理でしょ。」

息がうまく吸えなかった。母との記憶が一気に押し寄せてくる。私の中で最も重く、苦しい場所にあるものだ。ずっと触れず、誰にも見せないようにしてきた。新一にも、詳しく話せていない。姉はその隙間を、正確についてきた。

「お姉ちゃんってさ、なんで自分が幸せになれると思ってるの?ママを奪ったくせに。私とお父さんに尽くして、ようやく許される立場でしょ。」

スマートフォンの向こうから、姉の攻める口ぶりが続く。私は何も返せなかった。先ほどまでの強さが、指の間からこぼれていく。母のことを出されると、私はまだ駄目だった。あの日、小学6年生の子供に戻ってしまう。

「はは。黙っちゃった。ほら、やっぱり分かってるんじゃん。自分が悪いって。」

私はカウンターに手をついた。体を支えないと、立っていられない。

「今すぐ振り込んで。追加で30万ね。30万、安いものでしょ。新一さんに黙ってあげるんだから。それとも、全部話す?新一さんの会社にも行ってあげようか。」

私は唇を噛んだ。違うと言い返したい。でも、言葉が出てこない。その時だった。横から手が伸びてきて、私のスマートフォンを取る。はっとして振り返ると、新一がそこにいた。帰宅したばかりらしく、スーツ姿のまま立っている。どうやら、スピーカー状態にしていたことが功を奏し、玄関を開けた時点で通話内容の大半を聞いていたらしい。新一はスマートフォンを口元へ寄せた。

「こんなに大事なことなら、直接、俺から聞く。君は引っ込んでいてくれ。」

「え、新一さん。」

普段の彼からは想像しづらい、低くはっきりした口調だった。私を守ろうとしている時の新一は、驚くほど頼もしい。姉も面食らった様子だった。新一は構わず続ける。

「それから、もう1つ伝えておく。これ以上、トコを苦しめるつもりなら、俺も君を許さない。会社への待ち伏せもそうだ。君のつきまとい行為に関しては、法的に訴える準備がある。」

電話の向こうで、息を飲む気配がした。姉は強気な性格だが、同時に、自分が不利になる話には弱く、すぐに逃げ出す癖がある。「法的措置」「訴える」などという単語を真正面からぶつけられる経験は、少ないはずだ。

「そんなの、脅しじゃない。私は好きな人に会いに行っただけ。」

「君が一方的に行為を寄せているだけだろ。俺は迷惑だし、何度も断った。あ、ちなみに、会社の入り口の防犯カメラにも記録が残っているはずだよ。」

「え……。」

姉は珍しく黙り込む。私はキッチンの横の椅子に腰を下ろした。まだ動悸は収まらない。母の話を持ち出された衝撃が尾を引いている。それでも、新一がいてくれるおかげで、なんとか呼吸ができていた。やがて、姉が絞り出すように言った。

「お姉ちゃんのどこがいいのよ。」

姉らしい発想だと思った。自分が選ばれない理由ではなく、私が選ばれていることの方が理解できないのだ。だが、新一は即答した。

「全部だな。優しいところと、料理が上手なところと、家事全般、いつだって楽しそうにやっている姿が好きだ。あと、どんな仕事にも真剣に取り組んでいるところ。」

指を数えながら、1つ1つあげていく。そばで聞いている私は、だんだん落ち着かなくなってきた。

「紅茶を飲んでお菓子を食べると機嫌が良くなるところも可愛い。人の話を最後まで聞いてくれるし、家族を大事にするところも好きだ。我慢しすぎるところは心配だけど、それも可愛い。」

「は、ちょっと待ってよ。」

「なんだよ。君が聞いてきたんだろ。」

新一は平然としていた。

「新一、もういいから。」

「でも、まだ半分も言ってない。」

「半分?」

思わず聞き返してしまう。彼は本気の目をしていた。しかも、まだ続きがあるらしい。

「いや、やめて。恥ずかしいから。」

「なんで。事実なのに。それが恥ずかしいの?」

新一は不思議そうに首をかしげた。電話の向こうから、呆れた声が響く。

「もういい。あんたたちの痴話げんか。」

私は両手で額を抑えた。姉に同意したくなる日が来るとは思わなかった。新一はようやく話を切り上げる。

「とにかく、トコを悪く言うのはやめてくれ。」

「何なのよ、本当に。」

「お金は、もう渡さない。」

姉は納得できない様子だったが、すぐに話題を切り替える。電話をかけてきた当初の焦りを思い出したのだろう。

「そんなのどうでもいいから、お金。もうこの際、新一さんでもいいから、お金ちょうだい。」

彼女の声が一段高くなった。

「嫌だけど。」新一は一言で切って捨てた。

「なんでよ。お姉ちゃんの旦那なら、私の家族でもあるでしょ。家族なら助けてよ。」

「働け。」

私は思わず吹き出しそうになる。

「なんでよ。お姉ちゃん、小説家で稼いでるんでしょ?ケチ。もったいぶりやがって。」

その瞬間、私も新一も固まった。思いもよらぬことを言われたからだ。妙な沈黙が落ちるが、私はゆっくり口を開いた。

「……どして、小説家ってこと?」

「は?何の話?私の仕事はライターだって、ずっと言ってるよね。」

姉は心底不思議そうだった。

「どういうことも何もないでしょ。ライターなんて格好つけて言ってるけどさ。いや、だから、お姉ちゃん、大学の時に賞もらってデビューしたじゃない。そこからずっと小説家として仕事してるんでしょ。」

私は目を見開いた。新一も驚いたようにこちらを見る。

「税とかいっぱい入ってるでしょ。私、小説家ってどれくらい稼げるのか、ちゃんと調べたから知ってるんだからね。」

そこまで言われて、ようやく理解した。彼女は、とんでもない勘違いをしている。

「姉、私、デビューしてないよ。」

「は?何言ってんの?嘘つかないでよ。」

「嘘じゃない。できなかったの。あなたのせいで。」

私は目を閉じた。長い間、思い出さないようにしていた記憶が浮かび上がる。あれは大学時代のことだった。当時の私は、奨学金を借りながら大学へ通っていた。アルバイトも複数掛け持ちする。平日の夕方はスーパーのレジ。休日はファミリーレストラン。試験期間中は、家庭教師の単発バイトまで入れていた。学費も生活費も、自分で何とかしなければならなかったからだ。本当は1人暮らしがしたかった。父と姉から離れたかった。けれど、家賃まで払う余裕はなかった。

当時から、美代子さんは何度も助けを申し出てくれた。

「無理しなくていいのよ。学費でも家賃でもいいわ。おばとして支援したいの。」

「ごめんなさい。」

私は首を横に振る。父に知られるのが怖かった。もし美代子さんから援助を受けていると知ったら、父は激怒し、その怒りは間違いなく私へ向く。だから、断り続けた。大学へ通いながら、洗濯、掃除、買い物、食事の支度など、家事もほぼ私が担当していた。父は仕事を理由に何もしない。当時高校生だった姉も同じだ。

「お姉ちゃん、お腹空いた。お菓子とジュース買ってきて。あと、買ってきたらブラウスにアイロンかけといてね。それから、私の部屋も掃除して。」

そんな要求が、毎日のように飛んでくる。私は大学の課題とバイトの合間に、それらを片付けていた。本当に忙しかった。だが、楽しみが1つだけある。小説を書くことだ。子供の頃から本が好きで、大学生になって自分でも書くようになった。誰かに見せるためではなく、お金になるとも考えていない。ただ、好きだったのだ。ノートパソコンを開き、自分だけの物語を紡ぐ。その時間だけは、父も姉も存在しない世界へ行ける気がした。授業の合間、アルバイトの休憩時間、みんなが寝静まった深夜など、睡眠時間を削ってでも書いていた。

そんなある日のこと、私は初めて長編小説を書き上げた。完成した瞬間の達成感は、今でも覚えている。その時、たまたま見つけたのが新人賞の募集要項だった。有名な出版社が主催する賞で、締め切りは近い。せっかくだし、軽い気持ちで、ダメ元だった。私は原稿を応募する。それから数ヶ月後、知らない番号から電話がかかってきた。

「私、出版社のものです。真宮子様でお間違いありませんか?」

「え、は、はい。」

「おめでとうございます。今回の新人賞で、真宮子さんの作品が最終候補に残られました。」

最初は意味が分からなかったが、女性はすらすらと続ける。

「え、もしもし。お聞きになっていますか?」

「あ、はい。」

慌てて返事をした。手が震えそうになる。心臓がうるさい。女性は優しい笑い声をこぼした。

「今後の流れについてご説明します。」

私は必死にメモを取った。受賞式の日程や、担当編集者との打ち合わせ、原稿の構成について、刊行予定を一気に告げられる。夢のようだ。電話を切った後も信じられなかった。私は何度もメモを見返す。その夜は眠れなかった。生まれて初めて、自分の人生が変わるかもしれないと感じた。

だが、数日後、再び出版社から電話がかかってくる。今度の女性の声は重かった。

「真宮子様。大変申し訳ないのですが、受賞の件について、お話があります。」

嫌な予感がした。彼女はしばらく迷った素振りを見せた後、口を開いた。

「真宮子様の受賞を取り消させていただくことになりました。」

「え……?」

全身から熱が引いていく。何を言われたのか、うまく飲み込めない。

「大変申し訳ありません。ど、どうしてですか?」

事情を説明され、私は真実を知った。どうやら、私の部屋へ勝手に入った姉が、受賞のメモを見つけ、出版社に電話をかけたらしい。最初は賞金の話だった。

「賞金あるんでしょ?家族なんだから、私にも分けてよ。」

それだけならまだ良かった。問題はその後だ。受賞式に私が出るから、自分はお姉ちゃんより顔がいいし、読者もつくと思う、と言い出した。編集部は困惑したが、姉は止まらなかった。翌日も、その翌日も、毎日電話をかけ続ける。あげく、私が書いたことにしろ、と言い出す。

「その方が売れるでしょ。写真も私を使えばいいじゃん。お姉ちゃんより美人だし。」

姉の要求は次第に激しさを増していった。あげく、担当者を変えろ、編集長を出せ、と叫ぶ。深夜にも連絡し、ついには出版社へ押しかけると言い出した。その騒動は編集部全体へ伝わり、話し合いが行われた。結果として、姉は危険人物と認定される。身内である私を受賞させれば、出版社全体へ被害が及ぶ可能性がある。受賞を取り消す。それが編集部の判断だった。私は電話を握ったまま、その場に縫いつけられたように動けなかった。

「本当に申し訳ありません。原稿は返却させていただきますので。」

何度も謝られたけれど、私は怒れない。出しゃばった真似をしたから、罰が当たったのだと、直感的にそう思ってしまった。

「分かりました。妹が迷惑をかけて、本当にすみません。」

電話を切った後、私はしばらく部屋で座り込んだ。姉が何か言っていた気がするが、何を言われたのかは全く覚えていない。ただ、私の夢は終わったのだと理解した。その後、小説を書く時間は減っていった。忙しさを理由に、私は夢から目を背けた。いや、本当は違う。また奪われるのが怖かったのだ。全て諦めたことにして、忘れるしかなかった。

現在へ意識が戻る。電話の向こうは、しばらく沈黙していた。先ほどまで勢いよく怒鳴っていた姉が、珍しく言葉を失っている。私としては、単なる事実を説明しただけだ。

「自分で潰してきたんだから、知ってると思ってた。」

思わず呟いた。やがて、絞り出すような姉の声が聞こえる。

「じゃあ、今までの仕送りは……?」

私ははあ、と息を吐いた。

「それはもちろん、普通に私のライターとしての稼ぎと貯金から、少しずつ出してたよ。」

姉は再び口をつぐんだ。毎日普通に働いて、普通に節約して、その中から何とかしてた。言葉にするうち、自分でもなんだかおかしくなってくる。姉は勘違いしていた。私が小説家として成功していて、一般的な会社員よりずっと多くのお金を持っていると。だから、多少奪っても問題ない。何度も送りを要求しても平気だと、思い込んでいたのだ。けれど、現実は違う。私は大学時代に、姉自身のせいで大きなチャンスを失った。そこでくじけず、人生全てを投げ出さなかったのは、私のすごいところだと、今なら分かる。ずっと地道に働いてきた。様々な記事を書き、締め切りに追われ、貯金を積み上げ、生活を続ける。そのお金を、私は長年、父と姉へ送り続けていた。なんだか、馬鹿馬鹿しくなってくる。怒りよりも、脱力感の方が強い。長年抱えていた巨大な問題の中身を見てみたら、想像以上にくだらなかった。姉は、お金が私の人生を壊したことにも気づいていなかった。自分に都合のいい物語だけを信じていたのだから、当然だ。

「私は悪くない。」

突然、姉が叫ぶ。

「お姉ちゃんが勝手にしたことじゃん。全部。仕送りも、小説のことも。」

「そうかもしれないね。」

「何、その言い方?もうどうでもいいの?」

その言葉は本心だった。本当に、どうでも良くなっていた。説明する気力も、分かってもらいたいという期待もない。

「姉。これから、私たちに関わらないでね。お父さんにも、そう伝えて。」

「う、ふざけ……。」

「電話もかけてきても、私は出ない。家に押しかけてきたとしても、絶対にドアを開けることはないよ。他人のふりをするから。」

私は淡々と告げる。姉は、途中から何も言えなくなっていた。いつものように怒鳴り返し、脅せばいいのに、できないらしい。自分の思い込みが崩れたせいか、それとも別の理由があるのか、私には分からなかった。

「じゃあね。」

ぱちん、と私は通話終了ボタンを押した。通話時間の表示が消え、キッチンに静寂が戻った。全身から力が抜ける。どっと疲れた。肩は重く、頭もぼんやりする。終わった。けれど、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、爽快感に近いものがある。言いたいことを言えたのは、初めてだった。父にも姉にも逆らえなかった私が、自分の意思で線を引いた。その事実が、胸の中を温かくする。隣にいた新一が笑う。

「うん。頑張ったな。」

私は照れ臭くなった。

「そんな大したことじゃ……。」

「大したことだよ。」

真剣に言い聞かせてくる。

「俺、知ってるからな。」

「何を?」

「トコが、どれだけ勇気を出したか。」

私は返事ができなかった。代わりに、小さく頷いた。

その後、私たちは途中だった夕食作りを再開した。味噌汁を温め直し、鶏肉を焼き、サラダを盛り付ける。いつも通りの作業だ。食卓に料理を並べ、向かい合って座り、いただきますをして食べ始める。温かい味噌汁が体に染みた。ようやく緊張が解けていく。私たちは他愛のない話をしていたが、新一にはずっと気になっていることがあったのだろう。彼は箸を置き、少し真面目な様子になる。

「こう……うん。お母さんのことを、聞いてもいいか?」

私は動きを止めた。母の話は、いつかは向き合わなければならないと分かっていた。新一は、今日の電話でその一端を聞いてしまった。隠し続けることはできない。私は味噌汁の湯気を見つめる。

「うん。」

新一は黙って待っている。決して急かさず、攻めない。私は小さく息を吐いた。ずっと父と姉に逆らえずにいた理由は、性格の弱さだけでは片付けられない。今でも、ふとした拍子に、子供の頃の記憶が蘇る。

あれは、私が小学6年生だった時の出来事だ。当時、母はまだ生きていた。母は専業主婦で、家のことを丁寧にこなす人だった。料理も掃除も上手で、気配りが利き、近所の人からもよく頼られている。私にとって母は、家の中で唯一、安心して甘えられる存在だった。姉が生まれてから、母は体調を崩しがちになる。寝込む日も増え、家事の途中で休む姿を見ることもあった。それでも、母は私と姉の前では、なるべく明るく振る舞っていた。

「トコ、無理してお姉ちゃんしなくていいのよ。」

母はよく、私にそう言ってくれる。

「トコも姉も、どちらも大事な私の娘なんだから。」

その言葉を聞く度、私は救われていた。父は昔から、姉に甘かった。彼女が泣けば、すぐに駆け寄る。私のおもちゃを奪っても、父はへらへらと笑って済ませる。嫌だと訴える私を見て、決まって顔を顰めた。

「お姉ちゃんなんだから、譲れ。」

その一言で話は終わり、私の気持ちはいつも置き去りにされた。母はそんな父を、何度も止めていた。

「あなた、そんな言い方はやめて。トコだって子供よ。」

「姉はまだ小さいんだぞ。トコは分別があるだろう。」

「違うわ。あなたがそう振る舞うように仕向けているの。甘やかし続けるのは、違うでしょ。」

父は不満げに黙り込む。姉も、母に注意されるのを嫌っていた。幼いながらに、母が自分ばかりを特別扱いしないことが不満だったのだと思う。

「ママなんて嫌い。」

「嫌いでもいいわ。でも、人のものを取ったら謝りなさい。」

「やだ。」

そんなやり取りを、何度も見た。母は姉にも甘やかしすぎず、私にも我慢を押し付けない。だから、私は母が大好きだ。

あの日は、よく晴れた放課後だった。私は学校の図書室へ寄った。ずっと順番待ちしていた本が、ようやく返却されていた。本を見つけた瞬間、嬉しくてたまらなくなった。借りて帰るつもりだったが、最初の数ページを開いたところで、物語に引き込まれてしまう。続きを読みたい。もう1章だけ。ちょうどいいところまで。そんな風に読み進めるうち、時間の感覚が薄れていった。図書室の先生に声をかけられて、ようやく我に返る。時計を見た瞬間、血の気が引いた。いつも家に帰る時間を、2時間以上過ぎている。私は慌てて本を借り、ランドセルを背負って学校を飛び出した。家までの道を急ぎながら、母に謝らなければと何度も考えた。母は心配しているはずだ。体調が良くない日だったら、余計に負担をかけてしまう。息を切らしながら家につき、玄関の引き戸を開けた。その瞬間、私は動けなくなった。玄関先に、母が倒れている。床には、赤いものが広がっていた。母の頭の辺りから、血が流れていたのだ。

「お、お母さん。」

自分でも聞いたことのない叫びが出た。ランドセルが肩から落ちる。私は母のそばに膝をつき、何度も呼びかけた。

「お母さん。起きて。お願い。お母さん!」

母は返事をしなかった。どうしていいか分からず、私は泣きながら近所の家へ駆け込む。近所の人が救急車を呼んでくれた。その後の記憶は、所々途切れている。救急車のサイレン、白い廊下、慌ただしく動く大人たち。母は病院へ運ばれ、集中治療室に入った。警察も来た。家の中で倒れていたので、念のため状況を確認する必要があったらしい。私は何度も同じことを聞かれた。いつ帰ったのか、母を見つけた時、玄関はどうなっていたのか。誰かを見たか、何か変わったことはあったかなど。私は涙をこぼし、つっかえながら答え続ける。警察の人は、決して責めるような口調ではなかった。でも、幼い私には、全てが怖かった。

結局、事件性は認められなかった。母は体調不良でふらつき、倒れる寸前に壁の角へ頭をぶつけたのではないか。その衝撃で意識を失い、誰にも発見されないまま時間が経った。警察の連絡で遅れて病院へ駆けつけた父と姉に、そう説明がなされた。父は私を見るなり、険しい目で近づいてくる。

「お前、何をしていた?」

「図書室で本を読んでいて……」

「なんで早く帰らなかった?お前が早く帰っていれば、母さんはすぐ見つかったんだぞ。母さんが死んだのは、お前のせいだ。」

その言葉は、私の中に深く突き刺さった。否定できない。本当にそうだと感じた。私が図書室で本に夢中にならず、いつも通りの時間に帰っていれば、母は助かったかもしれない。姉も、父のそばで泣いている。

「お姉ちゃんのせいで、ママがいなくなっちゃうの。」

「ち、違う……」

「違わない。お前のせいだぞ。言い訳するな。」

警察官や医師、看護師も父を止めに入るが、場は混沌としていた。

「ごめんなさい。」

私は謝ることしかできなかった。今になれば、疑問に感じる点はいくつもある。私より先に学校から帰っていたはずの姉は、なぜ母に気づかなかったのか。その時間、姉は何をしていたのだろう。そもそも、母が玄関で倒れる前、家の中で起きていたこととは。けれど、当時の私は小学6年生だ。倒れていた母の姿が衝撃的すぎて、他のことを考える余裕など残っていない。父に攻められ、姉に泣かれ、私は自分が取り返しのつかないことをしたのだと信じ込んだ。

数日後、母は意識を取り戻すことなく亡くなった。病院の冷たい空気も、親戚たちの慌ただしさも、父の険しい態度も、今でも断片的に覚えている。葬儀の日、私は黒いワンピースを着て、ずっと俯いていた。母のために泣いている人たちの中で、私は自分がそこにいる資格すらないように感じた。

「母さんはトコを心配していたんだ。それなのに、お前は本なんか読んで、帰りが遅れた。最後まで、母さんに迷惑をかけたな。」

「ママ、可哀そう。お姉ちゃんが早く帰ればよかったのに。」

「ああ、そもそも、お前なんかがいなければ。」

親戚の前でも、父と姉は私を責めた。周囲の大人たちは、困ったように視線をそらす。おそらく、美代子さんが父を止めに入ったはずだ。私は何度も謝っていた。

「ごめんなさい。お母さん、お父さん、姉、ごめんなさい。」

それから、私の中で1つの考えが根を張った。母が亡くなったのは、私のせいだ。父と姉から母を奪ったのだから、2人に逆らってはいけない。2人が求めることには、応じるのが私の務めだ。誰かにそう命じられたわけではない。しかし、毎日繰り返し攻められるうちに、私は自然とその考えを自分のものにしていった。父が厳しい言葉を投げてきても、姉にわがままを言われても、黙って受け入れる。それが、償いになると信じていた。私は母の代わりに、家族を支えるべきなのだ。そんな歪んだ義務感を抱えたまま、大人になる。新一と結婚しても、苗字が変わっても、家を出ても、その根は抜けずにいた。父から電話がかかってくれば、私は身構えつつも応対した。姉が理不尽なことを言っても、反論する前に謝罪が出る。仕送りを求められれば、断るより先に金額を計算してしまう。おかしいと分かっているけれど、心と体が昔のまま動いてしまう。小学6年生のあの日、玄関で倒れていた母の姿を見つけた瞬間から、私の時間は止まっていた。そして、父と姉は、止まったままの私を利用し続けている。その異常な状況から脱却するのに、こんなにも長い時間を要してしまった。

語り終えた頃には、味噌汁もすっかり冷めている。私自身、こんなに長く話すつもりはなかったが、一度口を開くと止まらなかった。新一は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。目の前の彼は、考え込んでいる。何かを整理しているようだった。やがて、彼がゆっくりと口を開く。

「まさかとは思うけど……他にも、俺に黙ったままのこと、ないよな。」

私は思わず、視線をそらした。新一は鋭い。どうやら、私が他にも打ち明けたいことがあるのを、察したらしい。今までは、話すべきではないと考えていた。自分1人で抱えていれば済む話だと。だけど、本当は、新一に隠し続けること自体が、不誠実なのだろう。私は膝の上で手を握った。

「ご飯、食べ終わってからでも……いい?」

新一は一瞬、呆然とした後、小さく笑った。

「もちろん。」

私たちは夕食を再開した。途中で止まってしまった食事だったが、嫌な空気ではなかった。重たい話を共有したことで、距離が近くなったような気がする。それでも、次に話す内容を考えると、胃が重かった。食事を終え、私は食器を片付けた。新一も手伝ってくれる。洗い物を済ませ、お湯を沸かして温かいお茶を入れる。湯気が立ち上る様子を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。リビングへ戻り、私はソファーへ腰を下ろした。新一も隣へ座る。いつもなら適当にテレビをつけている時間だけれど、今日はどちらもリモコンへ手を伸ばさない。部屋の中は静かだった。時計の針が進む音が聞こえる。私は湯呑みを両手で包み込んだ。温かさが指先へ伝わる。

「実はね……うん。」

「うん。」

「私たちの赤ちゃんが、流れちゃったの。もしかしたら、お父さんが原因かもしれないんだ。」

「え……。」

新一の姿勢が、わずかに変わった。今まで見たことがない表情をしていた。相当な衝撃を与えてしまったようだ。真剣な空気が周囲に満ちる。なんとなく、私は湯呑みに視線を落とした。私たちには子供がいないが、最初から夫婦でそう決めていたわけではなかった。実は、一度だけ妊娠の経験がある。そして、流した。あの日から、私は子供を持つことへ消極的になった。新一も、その気持ちを尊重してくれている。だから、子供の話題を持ち出すことはほとんどなかった。新一にとっても、辛い出来事だったからだろう。心臓が嫌な音を立てていた。でも、話すと決めたのは、自分自身だ。

あれは、結婚して半年を過ぎた頃のこと。私の妊娠が分かった。検査薬の結果を見た時、私はしばらく動けなかった。信じられない気持ちと、喜びと、不安が一度に押し寄せてくる。その日、新一が帰ってきてから、私は恐る恐る報告した。

「新一……あのね、赤ちゃん、できたみたい。」

彼は数秒、ぽかんとしていたけれど、次の瞬間、これ以上ないほど嬉しそうに笑う。

「お、本当に?」

「うん。でも、まだ病院には行ってないから、ちゃんと確認しないと。」

「どこ?ありがとう。それでも、嬉しい。」

そう言って、新一は私を抱きしめてくれた。あの時の温もりは、今でも覚えている。病院でも妊娠は確認された。まだ初期だから、無理は禁物だと医師より説明を受け、私は何度も頷く。新一も一緒に話を聞き、帰り道では私の歩調に合わせてくれた。

「思い荷物は俺が持つ。ほら、カバンもこっちに預けて。」

「大丈夫だよ。これくらい。」

「大丈夫でも持つ。簡単に済ませるな。」

そんなやり取りをしながら、私たちは未来の話をする。部屋はどこを使おうか。ベビーベッドは必要だろうか。仕事はどう調整するべきか。何もかも手探りだったが、幸せだった。ただ、その頃の新一は、仕事がとても忙しかった。大きな案件を任されて、毎日帰宅が遅くなり、休日出勤も増える。新一は申し訳なさそうにしていたが、私は心配をかけたくなかった。

「大丈夫。無理しないでね。」

「トコこそ、何かあったらすぐ連絡して。」

「うん。」

毎朝、私は笑顔を作って新一を送り出すけれど、本当は不安だった。初めての妊娠で、体の変化についていけない日もあった。眠気も強く、食べ物の匂いが辛い。気持ちが急に沈む時間もある。それでも、新一には隠し通した。仕事でただでさえ大変なのに、私まで負担になりたくなかったからだ。

そんなある日、父から電話がかかってくる。

「明日、実家へ来い。」

「明日?急に言われても。」

「来いと言ってるんだ。文句は許さん。」

「……分かった。」

断れず、翌日私は実家へ向かった。父は庭にいた。作業着姿で、木材や工具のようなものを並べている。

「お父さん、何をするの?」

「家の改修だ。姉が部屋を広くしたいと言っている。」

「え、業者さんは?」

「金がかかるだろう。できるところは、自分たちでやる。」

私は庭に置かれた木材を見る。どう考えても、素人が簡単に扱える量ではなかった。重そうな板材や、部品も積まれている。

「お前も手伝え。」

「私が?でも……。」

「当然だろう。姉のためなんだから。さっさと動け。」

私はお腹へ手を添えた。まだ外から見ても分からない時期だ。だが、私の中には新しい命がある。医師から、無理をしないように言われている。思いものを持つのも避けたいし、工具を扱うのも怖い。私は父を見据えた。

「お父さん。私、今、妊娠してるの。あまり体に負担がかかるようなことは、手伝えない。」

父の動きが止まった。声は弱々しかったと思う。それでも、私の精一杯を振り絞って言い放った。父はしばらく私を見ていたが、やがて眉を寄せた。

「……妊娠?」

「うん。お前が?」

背中を冷たいものが流れる。父の様子が一気に変わった。

「お前のせいで母さんは亡くなったのに、何を平然と母親になろうとしているんだ。ふざけるな。産むなんて、許さない。」

次の瞬間、父の手が私の肩へ伸びた。強く押された体がよろける。私はなんとか踏みとまろうとしたが、庭の土の上で足を取られた。父は怒りをぶつけるように、私へ足を向けてきた。

「やめて。お願い。」

お腹を蹴り付けられ、鈍い痛みが走る。

「お前に、母親になる資格なんてあるか?」

私は必死に体を丸くし、お腹を守った。父はなおも罵声を続けた。

「母さんを返せ。姉から母親を奪ったくせに、幸せになれると思うな。」

庭の土の匂いと、父の怒鳴る声と、お腹を庇う両腕の痛み。全部がぐちゃぐちゃに混ざる。ぎゅっと歯を食い縛ると、目からつき刺すような痛みが走った。ずきんずきんと、鈍い音が響いている。どれくらい経ったのか分からない。やがて、父は息を荒げながら、私の腕を掴んだ。

「いつまでだらだらしてる。甘えるな。」

無理やり立たされ、足元はおぼつかない。それでも、父は改修の手伝いをやめさせてはくれなかった。重い物は持てないと言っても、板を運べ、工具を取れ、掃除しろなどと命じてくる。私は逆らえなかった。これ以上、父の怒りを買えば、何をされるか。想像するだけで恐ろしい。作業が終わる頃には、体が鉛のように重くなっていた。帰り道、私は何度も休みながら家へ戻る。新一には、言わないでおこうと決めた。父にされたことを口にした瞬間、何かが決定的に壊れる気がする。加えて、仕事で忙しい時期に、心配をかけたくない。私はシャワーを浴び、長袖の服で痣を隠した。新一が帰ってきた時には、なんとか笑顔を作った。

「トコ、何か、疲れてる?」

「平気。ちょっと眠いだけ。」

「無理しないで。」

「うん。」

嘘をついた。

数日後、私は家の中で倒れた。昼過ぎだったと思う。キッチンへ水を飲みに行こうとしたところで、視界が揺れた。次に目を覚ました時、私は病院にいた。新一が、私の手を握っている。

「トコ……ごめん。」

「新一?」

「どうして謝るの?俺がもっと早く帰っていれば。仕事ばかりで、君の変化に気づけなかった。」

「違う。あなたのせいじゃない。」

新一が私の倒れているのを見つけて、すぐに救急車を呼んでくれたらしいが、当然、発見は遅かった。新一は自分を責めていた。処置が遅れたのも、自分のせいだと、彼は何度も言う。その後、お腹の子は助からなかったと医師から告げられた。妊娠初期の流産は珍しいことではなく、母親が自分を責める必要はない。医師はそう説明してくれた。しかし、私は自分を責め、新一も同様だった。私たち2人とも、互いに違う理由で苦しんでいた。

私は、医師と2人きりになった際に、父から受けたことを少しだけ話す。彼女は険しい様子でカルテを見た。

「お父様のことは、直接の原因とは断定できません。ただ、真宮子さんが強いストレスを受けたことは、間違いありません。今は、体を休めることを最優先にしてください。」

「はい。」

医師は警察や相談窓口についても話してくれたけれど、当時の私は動けなかった。父を訴える。離れる。そんな選択肢を、自分の中に入れることすらできない。結局、新一に真実を話さないまま、退院した。

以降、私は妊娠せずにいる。医師から明確に妊娠できないと言われたわけではないが、私は自分の体が変わってしまったと感じていた。子供を望む気持ちより、また失う恐怖の方が大きくなった。新一は無理に子供の話を出さなくなり、私が消極的になったことを、責めもしなかった。本当は、あの日、父に何をされたのか。新一が仕事で夢中だったせいではないのだと、いつか話さなければならない。そう考えながら、何度も機会を逃した。時間が経つほど、口にするのが難しくなる。彼が自分を責め続けていることも、分かっていた。それでも、私は父への恐怖と、自分の中の罪悪感に押しつぶされ、真実を隠し続けた。なんと愚かだったのだろう。

新一に打ち明けた私は、程よく冷めたお茶に口をつける。部屋の中は、しばらく静まり返っていた。新一は、何も言わない。呆れているのだろうか。そんな不安が胸をよぎった。だが、次の瞬間、彼が小さく息を飲む音が聞こえた。私は顔を上げる。新一は、今まで見たことがないほど険しい様子で、拳を握りしめていた。唇を引き結び、何かをこらえている。父に対する怒りなのだろう。でも、その怒りは長く続かなかった。新一は目を閉じ、深く息を吐くと、私を見た。

「気づけなくて、ごめん。俺、何も知らなかった。」

溢れたのは、謝罪だった。私は慌てて首を横に振る。

「違う。新一のせいじゃ……。」

「違わない。トコが、そんな状態だったのに。俺、全然ダメな夫だ。」

とても苦しそうに言って、新一は俯く。1人で抱え続けさせてしまった後悔が、今も残っているのだろう。私は湯呑みをテーブルへ置き、小さく呟いた。

「私も、ごめんね。こんな大事なことを、ずっと黙ってて。」

「トコ、それは……。」

「話さなきゃって考えてたの。でも、時間が経つほど、言い出せなくなって。本当に、ごめん。」

「いや、俺の方こそ、ごめん。」

数秒後、なぜか2人同時に吹き出してしまった。

「何してるんだろうね。」

「本当にな。謝り合いみたいになってる。」

「確かに。」

張り詰めていた空気が少し柔らぎ、私は肩の力を抜いた。新一も苦笑している。こんな場面で笑うなんて、不謹慎かもしれない。だが、不思議と救われた気がした。ずっと抱えていたものを、ようやく打ち明けられたからだろう。私は新一を見た。彼はいつも、トコは悪くないと言ってくれる。ならば、私も今、同じ言葉を返すべきだ。

「新一のせいじゃないよ。流産のことも、誰も悪くない。お父さんのことは、単に、酷いことをされて許せないってだけだから。」

自分へ言い聞かせるような口ぶりになってしまった。新一は無言で、そっと私を引き寄せる。気づけば、私は彼の腕の中にいた。温かい。何度も抱きしめられてきたのに、今日はなんだかいつもと違う。長い間凍りついていた心の一部が、少しずつ溶けていくような感覚を覚えた。今まで受けた傷が、全部消えたわけではない。でも、確かに癒された。

数日後、私と新一は、美代子さんの自宅を訪ねた。約束していた週末だった。駅から少し歩いた場所にあるマンションで、部屋は高層階にある。玄関へ入ると、海外で買ったらしい雑貨や絵画がすっきり並び、美代子さんらしい空間が広がっていた。

「よく来てくれたわね。」

「お邪魔します。」

「これ、お菓子を買ってきました。よかったら。」

「あら、ありがとう。さあ、2人とも座って。」

リビングへ通され、私たちはソファーへ並んで腰を下ろした。テーブルには紅茶と焼き菓子が用意されている。いつもなら、美代子さんはどんな話題でも明るく聞かせてくれる。しかし、今日の彼女は、普段とは違う硬い雰囲気をまとっている。電話で「話したいことがある」と言っていた時から、気になっていた。美代子さんは向かいの席に座り、手元のカップには触れず、まっすぐこちらを見る。

「トコ、新一さん。今日は、どうしても伝えたいことがあるの。」

その時だった。私のスマートフォンが鳴る。画面を見ると、父の名前が表示されていた。新一がすぐに私の背中に手を添え、美代子さんも眉を寄せた。一度、深く息を吸い、私はスマートフォンを手に取る。

「スピーカーにするね。」

「うん。その方がいいわ。」

私は通話ボタンを押し、スピーカーへ切り替えた。

「もしもし。」

「おい、トコ。姉が逮捕された。」

開口一番、父は叫んだ。部屋の空気が一瞬で張り詰める。

「逮捕?」

「そうだ。警察から連絡が来て。」

新一と視線が合う。銀行の光景が脳裏に蘇っていた。嫌な予感が、現実になったのだ。

「特殊詐欺だとよ。あいつ、最近よく出かけて、やっと仕事を探す気になったんだと思ったら、詐欺の一員だったって。なるほど。高齢者から金を騙し取る連中の手伝いをしていたんだ。もうすぐ、ニュースにもなるはずだ。」

姉は、やはり危ない仕事に手を出していた。驚きよりも先に、腑に落ちる感覚がある。彼女と一緒にいた年配の女性は、被害者だったのか。父の言葉は止まらなかった。

「やっぱり、あいつは出来損ないだったんだ。犯罪を犯すなんて。あんなバカだったなんて、思わなかった。母さんに似てるからって、可愛がってやったのに。恩を仇で返しやがって。」

あまりの変わり様に、私は耳を疑う。つい最近まで、父は姉を庇い倒していた。何をしても許し、姉のためなら私から金を絞り取ることすら当然だった。その父が、逮捕された途端、実の娘を切り捨てようとしている。

「もう、姉じゃない。あんな犯罪者、我が家の恥だ。」

新一が唇を噛み、美代子さんは冷え切った目でスマートフォンを見つめていた。

「何?」

「俺の娘は、もうお前だけだ。金はいい。もう仕送りはいらん。その代わり、孫の顔を見せろ。」

頭が真っ白になる。理解不能だ。

「お前もいい年だが、まだ産めるだろう。新一君も稼ぎがあるんだから、さっさと子供を作れ。今後は、その子に俺の面倒を見させる。姉がダメになった以上、後継ぎを残すのは、お前の役目だ。」

父は本気で言っている。私の気持ちも、過去も、体のことも、何ひとつ考えていない。それどころか、私たちの子供を、自分の老後の道具にしようとしている。

「何を言ってるんだ?」新一が低く呟く。美代子さんも呆然とし、言葉を失っていた。私の中で、何かが切れた。今までずっと飲み込んできた怒りが、喉元まで一気に競り上がる。

「ふざけるな。」

自分でも驚くほど、大きな声が出た。

「なんだと?」

「ふざけるなって言ってるの。」

「お前、親に向かって。」

「親?私はあえて鼻白んで笑った。あなたのどこが親なの?私を便利な財布にして、姉の世話を押し付けて、お母さんのことまで私のせいにした。」

「それは、お前が……。」

「私が初めて妊娠した時、あなたが何をしたか、覚えてる?」

電話越しに、父が息を飲む気配があった。覚えているくせに、こんなことを言っているのだ。そういえば、流産したことは、父に直接告げてはいなかった。あの後、子供について気にかけられることもなく、彼の関心はいつも、私が父と姉のためにどれだけ自分を犠牲にできるかの一点だけだった。なぜ、こんな人間の言うことに、ずっと従ってしまっていたのだろう。

「私はもう、あなたのことを父親だなんて思わない。今日で終わり。あなたとは絶縁する。」

「は?何をバカなことを言ってる?」

父は私を黙らせるため、いつものように怒鳴った。だが、もう聞かなかった。ここには新一と美代子さんがいる。何より、今の私は、自分の言葉で線を引ける。

「お前は俺の娘だろうが。育ててやった恩を忘れたのか。」

父の声が響いた時、美代子さんがすっと手を伸ばした。

「トコ、貸して。」

私はスマートフォンを彼女へ渡す。美代子さんは、堂々とした様子で言った。

「こんにちは。久しぶりねえ。」

「……美代子さんか。」

父の反応が、明らかに変わった。先ほどまで怒鳴り散らしていた勢いが、一瞬で鈍る。父は昔から、美代子さんが苦手だったことを、私は思い出す。

「なんで、あんたがそこにいる?」

「私が、自分の家に、トコと新一さんを招いたからよ。ある意味、ちょうどいいタイミングだったわ。」

「あんたには、関係ない。」

「あるわ。だって、姉さん……トコと姉のお母さんの話でもあるでしょ。」

確かに、父は先ほど、母の話題で私を責めた。彼女にとっては、実の姉のことだ。だが、私は彼女の口ぶりから、妙な雰囲気を感じた。美代子さんは、何を言おうとしているのだろう。彼女は一呼吸置き、静かな一言を告げた。

「本当のこと、教えてあげる。姉さんが亡くなったのは、トコのせいじゃない。姉のせいよ。」

私の呼吸が、止まりかけた。新一も隣で、身を固くする。父の返事も、なくなってしまった。美代子さんは、淡々と続けた。

「あなたたちは、姉さんは意識を取り戻さずに亡くなったと思っているでしょう。でも、本当は違う。一瞬だけ、目を覚ましたのよ。私が病室にいた時に。」

私も、初めて聞く話だ。その時、美代子さんは医師や看護師を呼びに行こうとしたが、母は止めた。そして、自分が倒れた時に、何があったかを話してくれたという。

「あの日、トコより先に帰っていたのは、姉だったの。姉は、姉さんの財布から、こっそりお金を抜いた。そのお金を持って、友達のところへ遊びに行くつもりだったみたい。気づいた姉さんは、姉を止めた。でも、姉は怒って、『邪魔しないで』と、姉さんを押しのけたの。姉さんは、その時、目眩を起こして、ふらついていたらしいわ。そこへ、姉が突き飛ばしたものだから、体勢を崩して、壁の角に頭をぶつけてしまったの。そのまま、振り返らず、すぐに家を飛び出した姉は、その瞬間を最後まで見ていない。姉さんが倒れて、血を流したことにも気づかず、放置する形となった。結局、トコが帰るまで、姉さんは玄関で倒れたままだった。」

自分の指先から、徐々に熱が引いていく。母が亡くなったのは、私の帰りが遅れたせいだと、ずっと思ってきた。父と姉に、そう攻められ続けた。けれど、美代子さんの話は、全く違っている。全身の力が抜けていく。新一が、絶対に離さないというように、強く手を握ってくれる。

「姉さんは、私に言ったわ。『誰にも言わないで。姉が自分から言い出すまでは』って。なんで、母親だったからでしょうね。姉の語尾には、深い悔しさが滲んでいた。『姉にも、いつか自分のしたことを理解して欲しかったのよ。自分から謝れる日が来るかもしれないと、最後まで信じたかったんでしょう。』」

「そんな……。」

「私は、姉さんの願いを守って、ずっと黙っていた。でも、最近のやり取りで、分かったの。姉は、自分から話していないどころか、都合よく忘れている。私は、彼女と姉が電話で話した時のことを思い出す。姉が母のことを持ち出した際に、不思議そうな表情をしていたのは、これが理由だったのだ。そして、姉さんが亡くなった責任を、トコに押し付けている。あなたも、同じよ。」

父は、何も答えない。

「私が今日、トコと新一さんに話したかったことの1つは、これよ。」

私は、口元を抑えた。ずっと背負っていたものが、急激に崩れ落ちていく。

「トコ?」

新一が私の名前を呼ぶが、返事ができない。その頃、父がようやく口を開いた。

「……姉が、そんなことをするはずが。」

「あら。さっきまで『もう姉じゃない』みたいなことを言っていたのに、まだ信じるの。都合がいいわね。」

「違う。俺は……。」

「違わないわ。」

美代子さんは冷たく言い切った。

「あなたは、攻める相手として、トコが使いやすかっただけ。自分が責任を逃れたくないから、トコに押し付けたんじゃないの?」

「だ、黙れ。違う。俺は、家族を守るために、必死で……。」

「本当に?トコは、まだ子供だったのよ。母親を失って、誰かに守られるべき立場だった。それなのに、あなたは、傷ついた子供を、さらに追い詰めた。親として、最低だわ。」

父は、完全に沈黙した。自分と同年代の大人からの言葉なら、響くようだ。美代子さんへの苦手意識が、余計にそうさせているのだろう。彼女はスマートフォンを私へ差し出す。

「トコ、最後は、あなたが言いなさい。」

私は、それを受け取った。もう、怖くない。私は、自分の人生を取り戻す。

「お父さん。」

「どうして……トコ?」

「今の話、聞こえたでしょ。私のために、あなたがしてくれたことなんて、何もなかった。ゆっくりと言葉を紡ぐ。もう一度言う。私たちの関係は、今日で本当に終わり。2度と、連絡してこないで。」

「お前まで、俺を捨てる気か。親不幸も……。」

「そうだよ。私は、お父さんを捨てる。もう、あなたと関わりたくないの。さようなら。」

「待て。トコ!」

それ以上の返事を聞かずに、通話を切った。スマートフォンの画面が暗くなる。部屋に沈黙が落ち、次の瞬間、目から涙がこぼれた。一度流れ出すと、止まらない。私の中の感情が、一気に押し寄せてくる。言葉で言い表すのは難しい。新一が、私を抱き寄せる。美代子さんも隣へ来て、背中に手を添えてくれた。

「トコ、よく頑張ったわ。もう大丈夫だ。」

その言葉を聞いた瞬間、私はこらえきれなくなる。子供のように、格好悪いほど泣いた。でも、美代子さんも新一も、離れずにいてくれる。2人に包まれながら、私はようやく、長い間閉じ込められていた暗い場所から出られた気がした。

その後、父はすぐに私たちとの絶縁を受け入れたわけではなかった。数日後、私たちの家へ押しかけてきたが、その頃にはもう遅い。美代子さんの進めもあり、私たちは彼女が用意してくれたウィークリーマンションへ移っていたのだ。本格的な引っ越し先が決まるまでの仮住まいだった。事情を知らない父は、誰もいない家の前で、長時間待ち続けた。インターホンを鳴らし、玄関を叩き、近所をうろつく。やがて、不審者として通報され、警察がやってきた。父は、慌てて立ち去ったそうだ。

一方、逮捕された姉は、別の意味で大きな衝撃を受けていた。本人は自分が特殊詐欺グループの幹部だと思い込んでいたが、実際には違う。彼女は末端の使い走りに過ぎない。指示された通りに動き、高齢者を誘導し、いざという時に切り捨てるための駒として、利用されていただけだった。その事実を知った時の姉は、怒るより先に、呆然としていたという。父は何度か彼女との面会に足を運び、母の件について問い詰める。けれど、姉は母を突き飛ばしたこと自体は認めたが、自分が悪いとは微塵も考えていなかった。

「だって、実際さ、お姉ちゃんがもっと早く帰ってきてたら、助かってたんでしょ。」

そんな理屈を、本気で口にしたそうだ。さらに、そんな話より私を助けてよ、と父へ迫った。当然、話はまとまらず、互いに責任を押し付け合い、面会室で激しい口論になる。最終的には職員が止めに入り、面会は途中で打ち切りになったそうだ。父はその後も、何とかして私へ連絡を取ろうとしてきたが、ふと、ある事実に気づく。自分は、実の娘について、何も知らない。どんな仕事をしているのかも、好きなものも。その現実を突きつけられ、父は呆然とした。

数ヶ月後、姉には実刑判決が下った。ニュースにもなり、近所では噂が広がり、父へ向けられる目も変わる。犯罪者を育てた親、という評価が突きまとうようになった。さらに、「そういえば、トコちゃんをずっと働かせていたわよね」「妹さんばかり甘やかしていたもの」「トコちゃん、本当に気の毒だったわ」といった話も広まっていく。同情が向けられたのは、私だけだった。父は、周囲の厳しい視線に耐えられなくなった。買い物へ出る回数も減り、人付き合いも絶ち、やがて家へ閉じこもるようになった。年金と残り少ない貯金で、細々と暮らしているらしい。その後の父について、私は詳しく知ろうとも思わなかった。

半年後、私たちは新しい家へ引っ越した。日当たりが良くて、駅からも近い。何より、父も姉も知らない場所だ。引っ越しの片付けが終わった頃、私たちは改めて美代子さんにお礼を言いに行った。ウィークリーマンションの手配もそうだし、引っ越し先を探す時にも、相談に乗ってくれた。私たちが何度もお礼を伝えると、美代子さんは明るく笑うばかりだ。

「お礼なんて、いらないわ。トコが前を向けたなら、それが1番嬉しいもの。」

そう言い残して、彼女は再び海外へ飛び立っていった。相変わらず、忙しそうである。私も新一も、仕事は順調だ。本社勤務となった彼は、毎日慌ただしく働いている。私も、ライターの仕事を続けていた。引っ越し先に仕事部屋を作ったおかげで、集中しやすくなった。そして、私は最近、また小説を書き始めている。誰かに見せたり、賞へ応募する予定は、今のところない。まずは、自分が楽しむためだ。父や姉のことを、完全に忘れる日は、まだ遠い。それでも、もう過去に縛られてはいない。私は、私の人生を生きている。窓から吹き込む風を感じながら、私はキーボードへ指を置いた。

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