最愛の夫の葬儀を終えたばかりのその日。私は自分の耳を疑いました。四十二年間連れ添った白さんが天国へ旅立ってから、まだたったの三日しか経っていないのです。
葬儀場から戻り、遺骨を自宅の祭壇に納めた直後のことでした。喪服の涙も乾かぬうちに、息子の達也に呼び出されたのです。
「母さん、大事な話があるんだ」
リビングのソファに腰を下ろした達也の表情は、これまで見たことがないほど硬直したものでした。その隣には、息子の嫁であるエリカさんが、なぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべて座っています。
「単刀直入に言います。明日までにこの家から出て行ってください」
私はあまりのことに言葉を失いました。まさか夫が亡くなって間もないこの時期に、そんなことを言われるとは夢にも思っていませんでした。
達也はさらに続けました。
「仏壇も処分してください。エリカの両親がここに住むことになったので、邪魔なものは置いておけないんです」
「何を言っているの? お父さんが亡くなったばかりなのよ」
「だからこそです。母さん一人ではこの家は広すぎるでしょう。エリカの両親ならまだ現役で働いていますし、孫の教育にとってもその方がプラスなんです」
エリカさんが口を挟みました。
「そうですよ。お義母さん、もう十分お世話になったじゃないですか」
私の人生が音を立てて崩れ落ちていく瞬間でした。私は信じられない思いで達也の顔を見つめました。この子のためにどれだけの犠牲を払ってきたことでしょうか。毎朝五時に起きて弁当を作り、夫を送り出してからパートに出かけ、帰宅後は家事に追われる毎日でした。達也の大学進学時には、老後のための貯金を崩して六百万円もの学費を捻出しました。結婚する時も、どうしても必要なんだと頼まれて三百万円を援助したのです。
「達也、私がどれだけあなたのために尽くしてきたか忘れたの?」
「昔のことを持ち出されても困ります。時代は変わったんです」
エリカさんが横から冷たく言い放ちました。
「お義母さんの料理も、正直言って味が濃すぎてもう時代遅れなんですよ。私の母ならもっと健康的な食事を作ってくれますし」
「でもこの家はお義母さんには関係ないでしょう。私の親は子供たちの教育資金を援助してくれるんです。お義母さんにはもうそんな余裕もないでしょう」
達也の言葉はまるで刃物のように私の心を切り裂きました。四十二年間、家族のために生きてきました。義母の介護も五年間、私一人で背負いました。それなのに夫が亡くなった途端に、これですか。
「察してください。身勝手なんです」
エリカさんの冷酷な微笑みを見て、私は震える手で膝を強く握りしめました。
翌朝、達也は約束通り私の荷物を整理するためにやってきました。エリカさんも一緒です。二人は容赦なく、私の思い出の品々をダンボールに詰め込み始めました。
「母さん、必要最小限のものだけにしてください。エリカの両親の荷物が多いので」
達也は事務的にそう言いながら、私と白さんの結婚記念日の写真を無造作に箱に放り込みました。
「それは大切な写真なの。もっと丁寧に扱って」
「写真なんてデジタル化すればいいじゃないですか」
エリカさんが横から口を挟みます。私は黙って一つ一つの品を確認しながら整理を続けました。白さんとの新婚旅行の土産、達也が生まれた時の産着、家族で行った温泉旅行の記念品。どれも捨てられない大切な思い出ばかりです。
「お義母さん、そんな古いものばかり持っていても仕方ないでしょう。ダンスで離れてわかってます」
エリカさんの言葉に私は胸が締めつけられる思いでした。
午後になって、達也が仏壇の前に立ちました。
「これも処分します」
「達也、お願い。それだけはやめて。お父さんの遺骨があるのよ」
「遺骨なんてただの木の板じゃないですか。エリカの親は無宗教だから、こんな迷信的なものは置いておけません」
私は必死に達也の腕にすがりつきました。
「お願い、せめて遺骨だけでも持たせて。お父さんの魂が……」
「魂なんてありませんよ。科学的じゃないでしょう」
達也は私の手を振り払い、仏壇の扉を開けました。中には白さんの遺骨と先祖代々の遺骨が並んでいます。達也の祖父母の遺骨もありました。
「この人たち、僕は会ったこともないし関係ないですよ」
「達也、あなたのおじいちゃんとおばあちゃんよ。あなたが生まれる前に亡くなったけれど、きっと天国から見守って……」
「だからそういう非科学的な話はやめてください」
エリカさんが仏壇の引き出しを開けて、中を物色し始めました。
「あら、これ、金の仏具じゃない。売ればいい値段になりそう」
「エリカさん、それは……」
「お義母さんには関係ないでしょう。この家のものはもう私たちのものですから」
私は言葉を失いました。この二人は一体何を言っているのでしょうか?
夕方になり、私の荷物は小さなダンボール三箱にまとめられました。四十二年間の生活が、たったこれだけになってしまったのです。
「母さん」
達也が外を指差しました。
「でも、今すぐに住む場所なんて……」
「それは母さんの問題でしょう。ホテルでもネットカフェでも、どこでも行けばいいじゃないですか」
「達也、私はあなたの母親よ」
「だから何ですか? もう僕には関係ありません」
エリカさんが追い打ちをかけるように言いました。
「そうですよ。もう他人なんです。二度と連絡しないでください。私たちの新しい生活の邪魔をしないで」
私は震える手でダンボールを抱えて玄関を出ました。外は雨が降り始めていました。
「あ、そうそう」
振り返ると、エリカさんが玄関に立っていました。
「鍵も返してくださいね。他人が勝手に入ってこられたら困りますから」
私は黙って鍵を渡しました。達也は私の目を見ようともしません。
「母さん、もう来ないでください。エリカの両親に合わせたくないので」
「達也、最後に一つだけ聞かせて。私はそんなに悪い母親だったの?」
達也は一瞬言葉に詰まりました。しかし、すぐに冷たい表情に戻りました。
「別に悪くはなかったですよ。でも、もう別家庭なんです。わかってください」
玄関のドアがバタンと閉められました。私は雨の中、ダンボールを抱えて立ち尽くしました。涙なのか雨なのか、顔を濡らすものが何なのかわかりません。ただ、心の中で何かが完全に壊れる音がしました。
近所の人が通りかかり、心配そうに声をかけてくれました。
「よし子さん、大丈夫ですか? ずぶ濡れじゃないですか?」
「ええ、大丈夫です。ちょっと……」
言葉が続きません。まさか息子に家から追い出されたなんて言えるはずがありません。タクシーを呼んで、とりあえず駅前のビジネスホテルに向かいました。
チェックインの手続きをする間も現実感がありませんでした。部屋に入ってダンボールを開けてみました。写真と最低限の着替え。そして、白さんの形見の腕時計。それだけでした。仏壇も遺骨も思い出の品々も、全て奪われてしまいました。
ベッドに座り込んで、私は声を殺して泣きました。白さん、あなたがいなくなって、私はこんな仕打ちを受けています。四十二年間、何のために頑張ってきたのでしょうか。
窓の外では雨が激しさを増していました。ホテルの部屋で一人、私は呆然と天井を見つめていました。コンビニで買った弁当もほとんど手をつけられません。白さんの形見の腕時計を握りしめてベッドに横たわりました。
「白さん、私はどうすればいいの? これから先、どうやって生きていけばいいの?」
涙がまた溢れてきました。その時、携帯電話が鳴りました。親友の正子からでした。
「よし子、今どこにいるの? 達也君から聞いたわよ。ひどい話じゃない」
「正子、私、どうしていいか……」
「とにかく落ち着いて。実はあなたに伝えなきゃいけないことがあるの」
正子の声がいつになく真剣でした。
「達也君のこと、近所で噂になってるわ。どうやらかなりの借金を抱えているらしいの。しかも、あなたの家を担保にして」
「家を担保に? どういうこと?」
「そうよ。私の知り合いの不動産屋さんから聞いたの。でもおかしいのよ。その家の名義を確認したら……」
私は息を飲みました。
「よし子、あの家の名義、あなたになってるはずよ。白さんが生前、あなたに贈与したって」
「そんなこと知らなかった」
「とにかく明日、一緒に弁護士さんのところへ行きましょう。私の従姉が弁護士をしているから、相談に乗ってもらえるわ」
翌日、正子と一緒に法律事務所を訪れました。弁護士の先生は優しい笑顔で迎えてくれました。
「よし子さん、まずは落ち着いてください。書類を確認させていただきますね」
私は自宅の権利書や白さんが残していた書類を見せました。先生は丁寧に一つ一つ確認していきます。
「これは興味深いですね。よし子さん、この家の名義は五年前に白さんからあなたに生前贈与されています。正式な手続きも完了していますよ」
「本当ですか?」
「ええ、間違いありません。つまり、この家は完全にあなたの所有物です。息子さんには何の権利もありません」
私は驚きで言葉が出ませんでした。
「それだけではありません。白さんの生命保険も確認しましたが、受取人は全てあなたです。三千万円の保険金が下りるはずです」
「三千万円も」
「はい。さらに、白さんの退職金の一部もあなた名義の口座に振り込まれているようです。通帳を確認してみてください」
震える手で通帳を開くと、確かに二千万円の残高がありました。白さんが私のために残してくれたお金でした。
「白さんはあなたの将来を心配されていたのでしょう。全て、あなたが困らないように準備されていたんです」
先生の言葉に、私は涙が溢れました。白さんは最後まで私のことを考えてくれていたのです。
「それで、息子さんが家を担保に借金をしているという話ですが」
先生は書類をめくりながら続けました。
「これは完全に無効です。所有者であるあなたの許可なく、勝手に担保設定することはできません。もし本当にそんなことをしていたら、詐欺に問われる可能性もあります。達也さんが犯罪に…まだ確定ではありませんが、調査が必要ですね」
「それより、よし子さん。あなたはこの家をどうされたいですか?」
私は深く息を吸いました。頭の中で何かがはっきりと見えてきました。
「先生、私にはあの家を処分する権利があるということですね」
「もちろんです。売却するも取り壊すも、全てあなたの自由です。達也さんたちを追い出すことも当然できます。不法占拠ということになりますから」
正子が私の手を握りました。
「よし子、あなたは何も悪くない。堂々としていいのよ」
私は立ち上がりました。もう迷いはありませんでした。
「先生、お願いがあります。家を取り壊したいのです。全て更地にして」
先生は少し驚いた顔をしましたが、すぐに頷きました。
「わかりました。手続きをお手伝いします。ただ、事前に現在の居住者に通告する必要がありますね」
「いいえ、その必要はありません。もう他人だと言われましたから」
私の声は自分でも驚くほど冷静でした。
法律事務所を出て、私は正子と喫茶店に入りました。コーヒーを飲みながら、これからのことを考えました。
「よし子、本当に家を取り壊すの?」
「ええ、決めました。達也たちは私を他人だと言った。仏壇も白さんの遺骨も処分すると言った。なら、私も遠慮する必要はないでしょう」
正子は真剣に私を見つめました。
「でも、親子じゃないの。後悔しない?」
「正子、私は四十二年間ずっと我慢してきました。達也のため、家族のために。でも、もう限界です。夫の遺骨をただの木と言われた時、私の中で何かが切れました」
私は鏡で自分の顔を見ました。泣きはらした目も、今は鋭い光を放っていました。
「達也たちが望んだことです。私という邪魔者を排除したかったなら、お望み通りにしてあげましょう」
その日の午後、私は解体業者を訪ねました。担当の鈴木さんは親切に説明してくれました。
「よし子さん、一軒家の解体ですね。建物の大きさからすると、費用は約二百万円です。更地にするまで三日ほどかかります」
「三日後にお願いできますか?」
「可能ですが、現在お住まいの方は……」
「もう誰も住んでいません。私の所有物ですから問題ありません」
鈴木さんは少し不思議そうな顔をしましたが、契約書を用意してくれました。
「では、三日後の朝八時から作業を開始します。近隣への挨拶回りは我々で行います」
「お願いします。ただ、作業当日まで住人には知らせないでください」
「わかりました。守秘義務は守ります」
契約書にサインをして、手付金を支払いました。二百万円は決して安くありませんが、白さんが残してくれたお金があります。これもきっと白さんの意思だと思いました。
次に向かったのは湘南の不動産屋でした。すぐに物件を紹介してくれました。
「こちらはどうでしょう? ワンLDKで、バルコニーから海が見えます。管理も行き届いていて、シニアの方に人気です」
内見をすると、明るい日差しが差し込む素敵な部屋でした。
「家賃はおいくらですか?」
「月額十二万円です。敷金・礼金を合わせて、初期費用は五十万円ほどです」
私は即決しました。生命保険金も入れば、十分に生活していけます。
「契約します。できるだけ早く入居したいのですが」
「でしたら、明日から入居可能です」
帰りに仏壇店に立ち寄りました。小さいけれど品のある仏壇を購入し、新居への配送を頼みました。
「遺骨は新しく作り直したいのですが」
「承ります。戒名をお教えください」
白さんの戒名を伝えながら、私は心の中で謝りました。白さん、あなたの遺骨は守れなかった。でも、新しい遺骨でまた一緒に暮らしましょう。
その夜、ホテルの部屋で私は達也への手紙を書きました。
「達也へ。お望み通り家を出ます。ついでに家も一緒に持っていきますね。三日後の朝、確認してください。母より」
短い手紙でしたが、言いたいことは全て込めました。これを郵送すれば、達也の手元に届くのは二日後。解体が始まる前日の夕方です。
翌日、私は新居への引っ越しを済ませました。ダンボール三箱の荷物なのですぐに終わりました。海の見えるバルコニーに立つと、心が晴れるようでした。
「白さん、見てください。素敵な場所でしょう。ここで新しい生活を始めます」
夕日が海を金色に染めていました。明日の朝、達也たちはどんな顔をするでしょうか? でも、もう関係ありません。他人だと言ったのは彼らの方です。
携帯電話に銀行から入金の通知が来ました。白さんの生命保険金の一部が振り込まれたようです。これで当分は困りません。私は深呼吸をしました。明日で全てが終わります。いいえ。新しい人生が始まるのです。
ベッドに入る前にもう一度、白さんの写真を見つめました。
「白さん、私は間違っていないですよね。達也はあなたの息子であることも否定したんです。仏壇も先祖も全て否定したなら、私も母親であることをやめてもいいですよね」
写真の白さんは優しく微笑んでいるように見えました。
明日の朝八時、全てが動き出します。達也への手紙も明日の夕方には届くでしょう。慌ててももう遅い。契約は完了し、解体は止められません。私は目を閉じました。四十二年間で、今夜が一番安らかな気持ちでした。
解体当日の朝、私は新居のバルコニーでコーヒーを飲んでいました。時計は七時五十分を指しています。あと十分で重機が動き出すでしょう。
八時ちょうど、携帯電話が鳴りました。達也からです。昨日の夕方に手紙が届いたようです。
「母さん、何してるんですか? 今すぐやめてください」
「おはよう、達也。何のことかしら?」
「とぼけないでください。家を解体するって。正気ですか?」
「ええ、正気よ。私の家ですから、私の自由でしょう」
「ふざけないでください。僕たちが住んでるんですよ」
「あら、おかしいわね。私を追い出した時、もう他人だって言ったじゃない。他人が住んでいる家なんて、私には関係ないわ」
電話の向こうで何かが倒れる音がしました。きっと慌てているのでしょう。
「母さん、お願いします。やめてください。エリカの両親が今日引っ越してくるんです」
「それは大変ね。でも、他人の私には関係ありませんから」
「母さん!」
私は電話を切りました。すぐにまた鳴りましたが、出ませんでした。
三十分後、再び電話が鳴りました。今度はエリカさんからでした。
「お義母様、お願いします。解体を止めてください」
「あら、エリカさん。今更、都合が良すぎませんか?」
「すみませんでした。謝ります。だからお願いします」
「謝る? 何を謝るの? あなたたちは間違ったことをしたの?」
エリカさんは言葉に詰まりました。
「だって……お義母様一人では広すぎるし」
「そうね。だから私も家はいらないと思って、解体することにしたの。あなたたちの言う通りよ」
「でも、私たちはどこに住めばいいんですか?」
「それはあなたたちの問題でしょう。私に聞かれても困るわ」
電話の向こうでエリカさんが泣き始めました。でも、私の心は全く動きませんでした。
「お義母様、本当にすみませんでした。私が悪かったです」
「何が悪かったの?」
「全部です。お義母様を追い出したり、仏壇を処分しようとしたり」
「ああ、そう。でも、もう遅いわね。契約は完了していますから」
また達也の声が聞こえてきました。電話を変わったようです。
「母さん、金なら払います。解体費用なら払うから、止めてください」
「あら、お金があるの。借金で首が回らないって聞いたけど」
達也は息を飲みました。
「誰から聞いたんですか?」
「色々な人から。それに、私の家を勝手に担保にしようとした。そうね。それ、犯罪よ」
「違います。それは誤解です」
「言い訳はいいわ。ところで、エリカさんのご両親にはもう連絡した?」
「まだです。どう説明すればいいか……」
「正直に言えばいいじゃない。自分が母親を追い出して、その腹いせに家を解体されたって」
達也は黙り込みました。
十時頃、解体業者の鈴木さんから連絡がありました。
「よし子さん、順調に進んでいます。屋根の撤去が終わりました」
「ありがとうございます。予定通りお願いします」
「ただ、現場には若い男性と女性が来て、作業を止めるよう要求しているんですが」
「無視してください。彼らには何の権限もありません」
「わかりました。警備員もいますので大丈夫です」
午後になって、達也から何度も電話がありましたが、全て無視しました。留守電には謝罪と懇願のメッセージが入っていました。
「母さん、本当にごめんなさい。僕が間違っていました。仏壇も大切にします。だからお願いです」
遅すぎます。白さんの遺骨をただの木といった時点で、もう許すつもりはありませんでした。
夕方、鈴木さんから写真が送られてきました。家は完全に解体され、更地になっていました。四十二年間の思い出が詰まった家でしたが、不思議と悲しくありませんでした。
「これで本当に終わったのね」
私は白さんの写真に向かってつぶやきました。
夜になって、見知らぬ番号からの着信がありました。出てみると、エリカさんの母親でした。
「達也君のお母様ですか? 一体どういうことですか?」
「どういうことと言われましても……」
「娘から聞きました。家を解体したって、本当ですか?」
「ええ、本当です。私の所有物ですから」
「でも、私たちが住む予定だったんです」
「それは知りませんでした。でも、もう関係ありませんね」
「ひどいじゃないですか」
「ひどい? 私を追い出したのは、あなたの娘さんと達也ですよ。夫の葬儀直後に」
エリカさんの母親は黙りました。
「それに、私はもう他人だそうです。達也がはっきりそう言いました。他人に遠慮する必要はないでしょう」
「でも、親子じゃないですか」
「親子? 仏壇も遺骨も処分しろと言われた時点で、親子ではなくなりました」
電話を切ると、また達也から電話がありました。今度は出てみました。
「母さん、エリカと離婚することになりそうです」
「そう」
「エリカさんの両親が激怒しています。恥をかかされたって」
「自業自得ね」
「母さん、本当に僕を許してくれないんですか?」
「達也、あなたは私に何と言った? 『もう別家庭だ。他人だ。二度と連絡するな』。その言葉、全部返すわ」
「母さん……」
「もう『母さん』と呼ばないで。あなたが望んだことよ。私たちは他人。二度と連絡しないで」
私は静かに電話を切りました。外を見ると、満月が海を照らしていました。美しい夜でした。新しい仏壇に手を合わせて、白さんに報告しました。
「白さん、全て終わりました。これからは、あなたと二人で静かに暮らします」
風が優しく吹いて、カーテンが揺れました。まるで白さんが答えてくれているようでした。
解体から一ヶ月が経ちました。湘南の海が見えるマンションでの生活にも慣れてきました。朝は五時に起きてバルコニーでヨガをするのが日課になりました。海から登る朝日を浴びながら深呼吸をすると、心が晴れるような気がします。
「白さん、今日も良い天気ですよ」
新しい仏壇に手を合わせて、先行を上げます。小さいけれど品のある仏壇です。白さんの新しい戒名も、きちんと納められています。
この一ヶ月で、私の生活は大きく変わりました。近所のカルチャーセンターで陶芸教室に通い始めました。先生は私より少し年上の優しい女性で、丁寧に指導してくれます。
「よし子さん、綺麗に作られてますね」
「ありがとうございます。心を落ち着けて作ることが、こんなに気持ちいいなんて知りませんでした」
教室の仲間たちとも親しくなりました。皆、それぞれの人生を歩んできた方々です。お茶の時間には、色々な話に花が咲きます。
「よし子さんは一人暮らしなの?」
「ええ、夫を亡くして。でも、今は自由で幸せです」
本当にそう思います。誰にも気を使わず、自分のペースで生活できる。こんな贅沢があったなんて、今まで知りませんでした。
週に二回は近くのスポーツジムにも通っています。水中ウォーキングは膝に優しく、体力維持に最適です。インストラクターの若い女性がいつも明るく声をかけてくれます。
「よし子さん、今日も元気ですね」
「あなたの笑顔を見ると、もっと元気になるわ」
夕方には海辺を散歩します。波の音を聞きながら歩いていると、心が穏やかになります。時々ベンチに座って、夕日を眺めます。
先日、正子が遊びに来てくれました。
「よし子、すっかり若返ったじゃない。表情が明るくなったわ」
「そうかしら。自分では分からないけど」
「本当よ。前はいつも何かに追われているような顔をしていた。今はとても穏やかで幸せそう」
正子の言葉に、私は微笑みました。確かに、今の私は幸せです。
「達也君のことは聞いてる?」
「いいえ。何も。連絡も取っていないし、取るつもりもないわ」
「そう。実は私の知り合いから聞いたんだけど……」
正子は少し言いにくそうにしました。
「エリカさん、離婚したらしいわよ。それに、達也君もリストラされたって」
「そう」
私は特に何も感じませんでした。もう他人のことですから。
「よし子、後悔してない?」
「全くしていないわ。むしろ、もっと早く決断すべきだった」
本心でした。我慢することが美徳だと信じ込んでいた自分が、今では愚かに思えます。
ある日、郵便受けに手紙が入っていました。差出人は達也でした。一瞬迷いましたが、開封しました。
「母さんへ。もう母さんと呼ぶ資格はないかもしれませんが、最後に伝えたいことがあります。僕は取り返しのつかないことをしました。父さんが亡くなって悲しんでいる母さんを追い出し、仏壇まで処分しようとした。人として最低のことをしました。今、僕は全てを失いました。仕事も家庭も住む場所も。でも、これは当然の報いだと思っています。母さんを傷つけた罰です。本当にごめんなさい。もう二度と連絡はしません。母さんが幸せでいてくれることを、遠くから祈っています。達也」
手紙を読み終えて、私は静かにそれを折りたたみました。涙は出ませんでした。ただ、少しだけ達也のことを哀れに思いました。でも、許すつもりはありません。
「白さん、達也は反省しているようです。でも、私はもう前を向いて生きていきます」
仏壇に手を合わせて、手紙をしまいました。過去は過去。今は新しい人生を楽しむ時です。
最近、新しい趣味も見つけました。海辺の風景を描く水彩画です。まだ下手ですが、描いている時間は無心になれます。これが本当の自由というものなのね。私は今、心から幸せです。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きる。それがこんなに素晴らしいことだったなんて。
夕暮れ、バルコニーでお茶を飲みながら、私はこの一ヶ月を振り返りました。達也に家を追い出された時は、人生の終わりだと思いました。でも、違いました。あれは新しい人生の始まりだったのです。
理不尽な仕打ちを受けた時、我慢し続ける必要はない。自分の尊厳を守るために戦うことは、決して悪いことではない。むしろ、それは生きる者の権利であり、義務でもあるのかもしれません。
私の決断は極端だったかもしれません。家を解体するなんて、普通の人はしないでしょう。でも、私にとっては必要なことでした。過去と決別し、新しい人生を始めるために。
今、世の中には私と同じように理不尽な扱いを受けている人がたくさんいるでしょう。家族から否定され、存在を否定され、苦しんでいる人たち。そんな方々に私は言いたい。我慢には限界があります。自分を大切にできない人に、他人を大切にする資格はありません。時には断固とした態度を取ることも必要です。自分の人生は自分のものなのですから。親子であっても夫婦であっても、人としての尊厳を踏みにじることは許されません。血のつながりは、暴力を正当化する理由にはならないのです。
私は今、六十七歳。人生の残りの時間はそう長くはないかもしれません。だからこそ、一日一日を大切に、自分らしく生きていきたい。誰に遠慮することもなく、誰に気を使うこともなく。
海に沈む夕日を見ながら、私は深呼吸をしました。潮風が優しく頬を撫でていきます。
「白さん、私は強くなりました。あなたが残してくれたお金と愛情のおかげで、新しい人生を歩んでいます。ありがとう」
明日は陶芸教室の発表会があります。『自由』をテーマにした作品の予定です。今の私の心境を一番よく表している言葉だから。人生はいつでもやり直せる。六十七歳でも、七十歳でも、八十歳でも。大切なのは、自分を信じて前を向いて歩くこと。
最後に、達也のことを少しだけ。彼もいつか、本当の意味で成長してくれることを、遠くから願っています。親を大切にできない人間は、誰からも大切にされない。その代償を身を持って学んだはずですから。でも、それは彼の人生。私にはもう関係のないこと。
私は立ち上がり、部屋に戻りました。明日も早起きしてヨガをして、陶芸教室に行って、充実した一日を過ごします。これが私の選んだ人生。誰にも邪魔されない、私だけの幸せな人生です。



