「浮気してたのはお前じゃなくて、俺の方なんだよ。でも、俺はどうしても許せないことがあってな…昨日、離婚届を出してきたんだ。」
その言葉が飛び出した瞬間、祝いの席の空気が凍りついた。夫の両親は、何が何だか分からないといった様子で、私と夫を交互に見つめている。
私は、夫の一言で始まったこの茶番を、ただ静かに見つめていた。彼は封筒から数枚の写真を取り出し、両親の前に並べた。
「俺に隠れて、こそこそと浮気を繰り返していたんだ。証拠の写真もある。マナ、3日だけ時間をやる。その間に家から出ていく準備をしろ。それで俺たちは終わりだ。」
写真には、確かに私と男性が会話している姿が映っていた。何も知らなければ、浮気の現場に見えなくもない。
「3日もいらないわ。1分あれば十分よ。実は入院する前から新居を探していたの。だから、今からそこに行くわね。」
「は?新居? 何を言ってるんだ?」
私は内心でため息をついた。何も知らずに得意げな夫を見ていると、滑稽ですらあった。しかし、ここで感情を出すのは得策ではない。私はこの日のために、ずっと準備をしてきたのだ。
「冗談なんかじゃないわよ。ちなみに、私に無断で離婚届を出したことも、最初から全部知ってたわ。」
「はあ? そんな狂った話を信じると思ってるのか?」
夫は一瞬動揺したようだったが、すぐに取り繕うように鼻で笑った。私は、彼のその薄っぺらい自信を眺めながら、長年抑え込んできた怒りをさらに奥へと押し込んだ。そして、ポケットからスマホを取り出すと、画面を彼に向けて見せた。
「これを見て。」
夫は最初、興味なさそうにしていた。しかし、画面に映った瞬間、その顔色は一変した。そこには、夫が実家の机で離婚届に記入している姿が映っていたのだ。音声も鮮明で、紙をめくる音やペンを走らせる音まではっきりと拾われていた。
「実は、入院する前から家の中に監視カメラを設置していたのよ。」
「正気か? よくもこんなことを…。頭がおかしいんじゃないのか?」
「監視カメラを設置したのは、あなたが何をしているのかを知るためよ。理由もなく、こんなことはしないわ。」
「そんなのプライバシーの侵害だ! 犯罪だぞ!」
「弘樹、落ち着け。まずは話を聞こうじゃないか。」
夫が声を荒げる中、義父が低い声でそれを制した。義母も、戸惑いながら私を見つめる。
「マナさん…一体、どうしてそんなことをしたの? 理由があるなら、聞かせてほしい。」
私は軽く頷き、視線を夫から義両親へと移した。
「理由は簡単です。弘樹が私を、まるで召使のように扱い、いびってきたからです。」
「なっ…弘樹、それは本当なの?」
「そんなわけないだろ! こいつの勘違いだ! 俺がいつ、そんなことをしたっていうんだ!」
夫は焦りながら言い訳を始めた。私は深呼吸を一つして、冷静に話を続けた。
「私が入院した理由を、お父さんたちは聞いていませんでしたよね。実は、過労とストレスによるものだったんです。弘樹が私に過剰な家事を押し付けたことが原因です。」
「弘樹がそんなことをするなんて、私には信じられないわ…。」
義母は顔を曇らせながら首を横に振った。義父も腕を組み、険しい顔で私を見つめる。
「マナさん、我々には弘樹がそんな風には見えたことはないんだが…。少なくとも、我々が知っている弘樹は、家族を大事にする息子だ。」
「お父さんとお母さんがそうおっしゃるのは分かります。弘樹はいつも、お二人の前ではいい夫を演じていますからね。でも、それが本当の姿ではありません。私はずっと、弘樹の本性を見てきました。」
「父さん、母さん、この女の話を信じちゃいけない! 全部、こいつの妄想なんだ!」
夫は義両親に向き直り、慌てて否定を始めた。義母はまだ半信半疑の様子で、「でも、マナさんの話にも筋は通っているわよ…」と呟いた。
すると、夫はさらに声を荒げて私を非難し始めた。
「こいつは、自分の浮気を隠すためにこんな嘘をついてるんだ! 俺を悪者にして、自分を守ろうとしてるんだよ!」
「水樹、証拠があるかどうかはともかく、マナさんがここまで言うには、それなりの理由があるはずだ。我々が信じられないというだけで、終わらせていい問題じゃない。」
「もういい! どうせ新居があるんだろう? だったら今すぐ出ていけばいいだろう!」
追い詰められた夫は、急に話題をそらすように私に向き直り、声を荒げた。
「弘樹、何を言ってるの? そんな乱暴なことを…。」
「母さん、もうこいつを家に置いておく理由なんてないんだよ! 居場所があるっていうなら、さっさと出て行けばいいんだ!」
「今日は、新居には行かないわ。他に用事があるから。」
私は冷静に言い放った。夫は苛立ちを隠そうともせず、不満げに睨みつけてくる。
「はあ? 他の用事だ? 荷物をまとめるのに忙しいとか言うんじゃないだろうな。」
「弘樹の愛人に会いに行くつもりよ。」
私は、一瞬も目をそらさずに答えた。リビングの空気が、瞬時に凍りついた。義母は手を口に当て、目を丸くしている。義父は厳しい表情を浮かべながら、私と夫を交互に見つめていた。
「…愛人だと? ふざけるな! 証拠もないくせに、でたらめなことを言いやがって!」
「でたらめかどうか、これから確かめてみればいいじゃない。」
私は肩を軽くすくめ、微笑みを浮かべたまま返した。義母が慌てた様子で口を挟む。
「弘樹、何のことなの? 愛人だなんて、そんな話、私たちは聞いたこともないけれど…。」
「俺が浮気なんてするわけないだろ!」
夫は大げさなジェスチャーで否定し、義母を安心させるように力強く頷いた。
「そうなら、行くのに問題はないはずよね。潔白なら、何も心配いらないでしょう?」
私は静かにそう言うと、夫をじっと見据えた。夫はわずかに顔を引きつらせたが、すぐに鼻で笑って強がって見せた。
「いいだろう。お前がどんな茶番を企んでいるかは知らないが、付き合ってやるよ。」
「お父さん、お母さんも一緒に来てください。きっと、弘樹の潔白が証明されるだけですから。」
私は皮肉を込めて、義両親に声をかけた。義父は眉間に深い皺を寄せ、険しい顔をしながら頷いた。
「そこまで言うのなら、確かめてみるしかないな。」
義母は不安そうに夫を見た。
「弘樹、大丈夫よね? 本当に何もないのよね?」
「だから言ってるだろ! 何もないって!」
夫は声を荒げ、苛立ちを隠せなくなっていた。それでも、強がるように私を睨み返す。
「好きに言ってろ。無駄足を踏むのはお前の方だ。」
私は立ち上がった。
「では、車で行きましょうか。時間を無駄にしないためにもね。」
義父母は困惑した表情を浮かべながらも、私の提案に従うことにした。夫は大股で先に歩き出したが、その背中からは焦りが滲み出ているように見えた。私は小さくため息をつきながら、彼を追うように玄関に向かった。
車内は静まり返り、誰一人として口を開こうとしない。夫は腕を組んで黙り込み、義父母もお互いに困惑した表情を浮かべていた。私だけが、冷静に目的地へと車を走らせた。
目的地は、町の外れにある小さな住宅だった。
「ここが“愛人”の家だっていうのか?」
車を止めると、夫が苛立った様子で皮肉っぽく聞いてきた。私は淡々と答えた。
「そうよ。ここがその場所。さあ、降りましょう。」
玄関に向かって歩き出すと、夫は少し足を引きずるようにしてついてきた。義両親は、さらに困惑した表情を浮かべている。
「ここは、どこなの…?」
義母が不安げに尋ねる。私は玄関前で足を止め、振り返りながら静かに告げた。
「ここは、リナの家よ。」
その瞬間、夫の顔が凍りついた。義父母も同時に驚いた声を上げる。
「リナって…マナさんの妹さんのことか?」
「ええ、私の妹のリナです。」
私はドアベルを押しながら、冷静に言った。夫は目を泳がせ、何かを言い返そうとしたが、その言葉が出る前に、ドアが開いた。
現れたのは、私の妹のリナだった。彼女は、まるで覚悟を決めたような表情で立っていた。目が赤く腫れているのは、一目で分かった。
「お姉ちゃん…来たのね。」
リナは小さな声で呟きながら、頭を下げた。義両親は、驚きと混乱の入り混じった表情で、その言葉を待っている。
リナは玄関口で深々と頭を下げると、涙声で言った。
「お父さん、お母さん。本当にごめんなさい。私…弘樹さんと浮気していました。」
この告白に、義父母の表情がみるみるうちに険しくなっていく。
「リナさん…本当なのか?」
義父が声を震わせながら問いかけた。リナは顔を上げず、再び深々と頭を下げた。
「本当です。私が悪いんです。申し訳ありませんでした。」
「弘樹、これ、どういうことなの? 本当にリナさんと…?」
義母は呆然と立ち尽くし、夫を鋭く睨んだ。夫は何か言い訳をしようとしたが、言葉が出てこない様子だった。その代わりに、目を泳がせ、義両親の顔とリナを交互に見ている。
リナは涙を流しながら義両親に土下座し、震える声で謝罪を続けた。
「全て私のせいです。どうか…お許しください。」
義両親はリナの涙ながらの謝罪を聞き、やっと事の重大さを理解した様子だった。義父は険しい表情で夫を睨みつけ、義母も声を震わせながら問い詰める。
「弘樹、本当に浮気をしていたの? リナさんがここまで言ってるのに、何か言い分はないの?」
しかし、夫は顔を真っ赤に染めながらも、なおも否定を続けた。
「そんなのは嘘だ! リナが勝手に誤解してるだけだ! 俺は浮気なんてしてない!」
その言葉の端々には焦りが見えるものの、なんとか事態を否定しようと必死だ。義父はさらに声を荒げて詰め寄った。
「じゃあ、リナさんが嘘をついてるっていうのか! お前の方が信用できないんだよ!」
「違う! 俺は何もしてない! 証拠があるわけでもないのに、勝手に決めつけるな!」
「その“証拠がない”っていう言葉を、待っていたわ。」
私は冷静に鞄からスマホを取り出し、画面を操作しながら言った。夫がこちらに目を向けた先、スマホの画面には監視カメラの映像が再生されていた。その映像には、リナの自宅と思われる部屋の中で、夫とリナが親密な様子で過ごしている姿が、はっきりと映し出されていた。ソファに座り、リナの肩に手を回して笑い合う夫の姿。言い逃れできる余地など、どこにもなかった。
夫の顔色が、見る見るうちに真っ青に変わった。目を見開いたまま、映像から視線をそらすことができない。義母は口元を押さえ、義父は怒りに震えながら怒鳴り声を上げた。
「これが証拠じゃなかったら、何なんだ! 弘樹!」
「こ、これは違うんだ! 何かの…何かの間違いだ!」
夫はようやく顔を上げ、震える声で反論しようとした。だが、その言葉は義両親にも私にも、もう届かない。
「“間違い”だなんて、まだ言うのね。この映像があるのに、まだ白を切るつもり? いい加減、認めたらどうなの?」
夫は完全に追い詰められ、何も言い返せずに俯いた。義母は涙を浮かべながら呟いた。
「どうして…どうしてこんなことをしたの? 弘樹。マナさんにこんな酷いことを…。あなたには、失望したわ。」
その場の空気が、完全に変わった。私は夫を見据えながら、今まで抑えていた怒りを少しずつ解放していく。
「これが、私が今まで見てきた現実よ。あなたが私にしたこと、そしてリナを巻き込んだこと。その全ての経緯を、これからお父さんたちにもしっかりお話しするわ。カメラを設置したのは、あなたのいびりに耐えかねたからよ。召使のように扱われるのも、いつも一方的に命令されるのも、限界だったから。」
私は静かな声で言葉を投げかけた。義両親は戸惑いの表情を浮かべ、夫は焦りを隠しきれない様子で私を睨んでいた。
「どうやってカメラを設置したか、知りたい? あなたが出勤している間に、専門業者にお願いして取り付けてもらったの。全部で5台。家のあちこちにね。リビングでソファに座りながら文句を言う姿も、書斎で一人で何やら怪しい動きをしている姿も、全て記録してあるわ。」
私はスマホを手に取り、義両親の前に差し出した。夫は思わず声を上げる。
「いや、これはおかしいだろう! こんなの違法だ! 待て、この映像が本当なら…お前、何をやっていたんだ?」
「この映像だけじゃ、判断できないだろうが! 俺が悪いって証拠になるのか!」
夫は声を荒げたが、その言葉にはどこか弱々しさがあった。私は表情を変えずに、次の映像を再生した。それは、夫とリナが親密そうに話している場面だった。二人の距離感、表情。それだけで、十分に裏切りを物語っていた。
「リナと楽しそうね。これは、あなたが言っていた“浮気”には入らないのかしら?」
私は皮肉を込めた言葉を放った。夫は黙り込み、義両親の表情は一気に曇った。
「弘樹、これはどういうことなの?」
義母が動揺を隠せず、声を震わせながら問いかける。
「弘樹が私をいびり始めたのは、自分の計画の一環だったのよね。リナと結婚するために、私を追い出そうとしていた。それが全て、あなたの行動から分かったわ。」
その言葉に、リナが顔を伏せ、小さな声で呟いた。
「ごめんなさい…止めようと思ったけど、怖くてできなかったの…。」
「リナさん、それはどういうことなの?」
義母が動揺を隠せない様子でリナに詰め寄る。リナは声を震わせながら話し始めた。
「弘樹さんがお姉ちゃんに対して酷いことをしているのは知っていました。でも、私が反対したら、彼が怒るかもしれないと思って。それに…彼が私に結婚を約束してくれたから。」
「弘樹! お前、本当にそんなことをやっていたのか!」
「いや、それはリナが勝手に! 俺はそんなつもりじゃ…。」
夫は言い訳を口にしようとしたが、その声には、もはや説得力がなかった。
「“勝手に”ね。じゃあ、この映像も、リナが勝手にあなたを引き込んでいたっていうつもり?」
義両親はその場で立ち尽くし、夫は言葉を失い、リナは「本当にごめんなさい」と何度も繰り返すばかりだった。リビングには、重苦しい沈黙が降りていた。
義父は怒りを抑えきれない様子で、夫を睨みつけた。
「弘樹、お前、一体何を考えてるんだ? マナさんにこんな酷いことをして、許されると思っているのか?」
「弘樹、本当に浮気してるの? それに、リナさんまでこんなに追い込むなんて…。どうしてそんなことができるの?」
義母も声を震わせて続けた。夫は椅子に座り直し、焦りを隠そうとするように薄笑いを浮かべた。
「いやいや、違うんだよ。確かに、俺にも悪い部分はあったかもしれないけど、マナの方にも問題があるんだ。」
「問題だと? お前、自分のやったことを正当化する気か?」
義父が厳しい口調で問い詰める。
「俺は大企業で働いてるんだぞ! 家計を支えてるのは全部俺だ! それに比べて、マナは専業主婦で家事しかしてない。俺が家に帰ってきても、ちゃんとした食事が出ないこともあったんだ。それで浮気を責められるのは、おかしいだろう!」
「何を言ってるの? 弘樹! 家事をこなしているだけでも十分じゃない! マナさんがどれだけ頑張ってきたか、見ていなかったの?」
「見てないわけじゃないさ。でも、不公平だろ? 俺が仕事で疲れて帰ってきても、家事の一つで文句を言うし、俺を敬ってくれない。結局、俺がこうなったのは、マナのせいだ。」
「弘樹、それが本気で言っていることなの? あなたがどれだけ家の中で私をいびり倒してきたか、忘れたの?」
私は呆れると同時に、怒りが胸の奥から湧き上がるのを感じた。夫は反撃を試みる。
「“いびり”? 何の証拠があって、そんなことを言うんだ!」
「証拠なら、すでに提示したじゃない。監視カメラの映像。それだけで十分よ。」
「弘樹、お前は何を考えているんだ? 本来、夫婦は支え合うものだろう? なぜ、自分の行いを正当化しようとするんだ?」
義父が深いため息をつき、頭を振った。義母も口を挟む。
「弘樹、マナさんがどれだけ辛かったか、考えたことがあるの? 夫婦とはお互いを思いやるものよ。自分が全て正しいなんて、思わないで。」
それでも夫は態度を改めることなく、「俺は悪くない」と繰り返すばかりだった。義両親が繰り返し窘めようとしても、夫はその言葉を聞き流しているかのようだった。
私は、冷たい微笑みを浮かべた。
「弘樹、あなたがここまで自分勝手な考えに固執しているのなら、私から伝えたい事実があるの。」
その言葉に、夫の眉が一瞬だけぴくりと動いた。彼は私に視線を向ける。
「事実? 何のことだ?」
夫が疑念を込めて問いかけた。私はその質問に答えず、スマホを握りしめたまま、夫をじっと見据えた。
「弘樹、覚悟して。この先は、あなたが想像している以上に厳しい現実を突きつけることになるから。」
私は冷静な態度を崩さず、さっき夫が私の浮気を疑って撮り出した写真に話を変えた。
「この写真、よく見てちょうだい。」
「これが何だっていうんだ?」
夫は面倒そうに顔をしかめる。
「この写真に映っている男性は、浮気相手なんかじゃないのよ。彼は、私が相談していた探偵事務所の調査員。つまり、あなたがこれを証拠だと思い込んでいるのは、完全にあなたの誤解よ。」
私はきっぱりと言い切った。その言葉に、夫の表情が一瞬、強張る。
「探偵事務所だと? お前、一体何を言ってるんだ?」
義両親は、さらに困惑した様子で私を見つめた。
「あなたが私をいびり始めてから、私は探偵事務所に相談することを決めたの。夫婦関係が冷え切った理由が一方的に私にあるわけではないこと。そして、あなたがどれだけ私を追い詰めてきたかを、明らかにするためだったの。」
「マナさん…そこまで追い詰められていたなんて…。」
「この男性と会っていたのは、あなたの浮気について調査を依頼していたからよ。それに加えて、家の中でのいびりや不審な行動も調べてもらっていたの。」
写真を差し示しながら、私は言葉を重ねた。
「弘樹、お前は何をしていたんだ? なぜマナさんをそんなに追い詰めるようなことを?」
義父が重い口調で尋ねる。夫は動揺を隠しきれない様子ながらも、無理に冷静を装って反論した。
「探偵なんて雇って…そんなの、信用できるわけないだろ! お前が浮気をしていたのを隠すための作り話じゃないのか!」
「確かに、あなたはこうして疑ってくると思っていたわ。でも、探偵事務所が提示してくれた情報には、何一つ嘘はない。むしろ、あなたがどれだけ自分勝手に行動していたかが、明らかになったのよ。」
「俺が自分勝手だって? 馬鹿げてる!」
夫は激昂し、椅子から立ち上がりそうになる。義母が手を上げて、夫を制する。
「弘樹、落ち着きなさい!」
私は視線をまっすぐ夫に向けながら続けた。
「探偵事務所に相談したのは、もう私一人ではどうすることもできなかったから。いびりが始まった時点で、私の中で何かが壊れたの。だから、冷静な判断をするためにも、プロの助けが必要だったの。探偵事務所では、あなたの浮気調査だけじゃなくて、会社でのあなたの振る舞いについても確認してもらったわ。」
「会社のこと? お前、何を知っているっていうんだ?」
「たくさんよ。あなたの部下たちがどれだけあなたに振り回されているかも。あなたがどんな風に感謝を忘れて仕事をしているかもね。」
「ちょっと待て! 弘樹、会社で何か問題を起こしているのか?」
「そんなことあるわけないだろ! 俺はちゃんと仕事をしてる! 部下を指導するのも、上司として当然の役割だ!」
「あなたがやっているのは“指導”なんかじゃない。命令よ。部下たちに無理なスケジュールを押し付けたり、自分のミスを押し付けたり、成果を横取りしたりしているって、みんな言ってるわ。」
「そんな…! 弘樹、そんなこと本当にしているの?」
「マナの言うことなんて信じる必要はない! 会社で俺が評価されているのは事実だし、部下が愚痴をこぼしたところで、それが何だっていうんだ?」
「“評価されている”? あなたは、もう評価なんてされていないわよ。」
「は?」
「浮気調査の過程で分かったのよ。あなたの行動は、もう上司にも問題視されている。部下からの苦情が溜まりに溜まって、今、会社ではあなたに対する処分が検討されているってね。」
夫の視線が一瞬泳ぎ、表情は硬直していた。それでも、彼は虚勢を張り、言葉を絞り出す。
「そんなの出鱈目だ! 会社が俺を処分するはずがない! 俺は、エリート社員だぞ!」
「弘樹、どういうことなのか、ちゃんと説明しなさい! マナさんがここまで言うには、それなりの理由があるはずよ!」
義母は眉を潜め、声に抑えきれない怒りを滲ませた。
「あなたの部下たちは、みんな限界に達していたのよ。あなたの機嫌を伺いながら、あなたのために残業をして、家族との時間を削って、あなたの我儘に付き合わされてきた。でも、それももう終わり。」
「そんなの、俺には関係のないことだ!」
「そうね。あなたは自分のことしか見ていないから、部下たちの苦しみなんて理解できるはずもない。でも、会社はもうそれを見逃してはいないわ。会社があなたにどんな処分を下すのか、もう間もなく分かるわよ。あなたが妹と浮気していたことも、義両親を騙してきたことも、そして、自分のことしか考えていないことも。全部、事実よ。それなのに、どれも認めるつもりはないのね。」
私は夫を冷静に見据えながら言った。夫は睨み返してきたが、言葉を返せない。
義父が口を開いた。
「弘樹、マナさんがここまで言っているんだ。本当のことを言いなさい。お前は、何を考えてこんなことをしたんだ?」
「弘樹、私たちはお前を信じていたわ。マナさんと幸せに暮らしていると思っていたのに。どうして、こんな裏切りを…?」
義母の声は、涙で震えていた。夫は沈黙を続けていたが、ついに鼻で笑い、言い放った。
「くだらない。俺が謝る? そんな必要、あるわけないだろう。」
「弘樹、いい加減にしろ! お前が悪いと認めない限り、俺たちだってお前を助けるわけにはいかないぞ!」
「弘樹、あなた、何様のつもりなの! 私たちも騙していたなんて、許せると思う?」
義母の声にも怒りが込められていたが、夫は義母の言葉すら無視した。
「俺はエリートだ。会社だって、俺がいないと回らない。お前らに頼る必要なんてない。絶縁したいなら、勝手にしろ!」
「もう一度、よく考えろ! これから先、お前はどうするつもりなんだ!」
夫は冷笑を浮かべながら立ち上がり、乱暴に椅子を引きずった。
「どうするもこうするもないさ。俺は俺のやり方で生きていく。それだけだ。」
「弘樹、今ならまだ遅くないのよ! 本当にもう一度、自分の行いを振り返って…」
夫は振り返らず、ドアを勢いよく閉めた。その音が、沈黙をさらに重くした。夫の背中からは、後悔や反省の色は微塵も感じられなかった。
私は深い息をつき、義両親に目を向けた。
「申し訳ありません。でも、もう私にはどうすることもできません。」
「マナさん、謝るのはあなたじゃない。弘樹の愚かさが招いた結果だ。私たちも、絶縁するしかないと思っている。」
「弘樹が戻ってきても、私たちは受け入れないわ。もう限界よ。」
再び沈黙が訪れた。夫が最後に見せた冷笑は、彼自身の孤立を意味していたように思えた。
—
夫との最初の出会いは、今でも鮮明に覚えている。誰にでも優しく、他人の立場に立って考えられる人だった。その上、仕事でも高い成果を上げ、周囲からの信頼も厚い。本当の意味で“優秀な人物”と呼ぶにふさわしい存在だった。そんな夫に惹かれた私は、彼の誠実さに触れるたびに、この人となら一緒に人生を歩めると思った。
結婚したばかりの頃、夫は私に対して変わらず優しかった。小さな家での暮らしだったが、笑顔で支え合いながら過ごす日々があった。しかし、時間が経つにつれて、夫の本性が少しずつ顔を出し始めた。仕事のストレスを理由に態度が冷たくなり、家事を押し付けるようになった。そんな変化にも、私は「一時的なものだ」と信じ、またあの優しい夫に戻る日が来ると待ち続けた。
けれど、その希望は無惨にも裏切られた。夫は次第に自己中心的な行動を繰り返し、私を“都合のいい存在”として扱うようになっていった。家事を任せるだけでなく、外での失敗や苛立ちを私にぶつける。支え合うどころか、私は一方的に負担を押し付けられるばかりだった。思い返せば、夫にとって私は支え合うパートナーではなく、自分を支える“便利な存在”でしかなかったのだろう。結婚を決めたのも、私の優しさや忍耐を利用できると判断したからだったのかもしれない。その事実に、胸が痛むというよりも虚しさが込み上げてくる。
もし昔の夫がそのままでいてくれたなら、今のような状況にはならなかっただろう。あの頃の夫なら、どこに行っても成功し、周囲からも愛される存在であり続けたはずだ。しかし、今の夫ではそれは不可能だ。自分のことしか考えず、人を大切にする気持ちを失った夫が、どこに行っても上手くいくはずがない。
夫がこの先どうなるかは、私には分からない。夫の考え方が改まり、反省する日が来るかもしれない。しかし、それは彼自身の問題であり、私が手を差し伸べる理由はもうない。私はもう、夫の面倒を見る立場ではないのだ。もし夫がこの先も自分の過ちを認めず、人との関係を修復する努力をしないのであれば、彼の人生は孤独と困難の連続になるだろう。だが、私が感じているのは憎しみではない。むしろ、夫に対する感情はほとんど残っていない。ただ、夫が変わらない限り、まともな人生を歩むことはできない。その現実を、淡々と受け入れているだけだ。
私は、新しい生活を始める決意を固めている。過去に囚われず、自分の幸せを追求していくことが、今の私にとって最も重要なことだからだ。夫がどうなろうと、それはもう私の知るところではない。夫がどう生きていくかは、彼自身が決めるべきことなのだから。
—
夫とは、正式に離婚が成立した。長く苦しい戦いではあったが、最後には私が求めていた慰謝料も請求することができた。しかし、離婚届にサインをしながらも、夫は終始不機嫌そうな顔をしていた。
「俺は何も悪くない。全部、お前が大げさに騒ぎ立てた結果だろ。」
そんな言葉を吐き捨てながら、夫は私に一瞥もくれずに書類にペンを走らせていた。その態度に、怒りというよりも呆れが込み上げてきた。どこまで自分勝手なのだろうか、と。ここまで来ても自分の過ちを認めるどころか、全て私のせいにしようとする夫の姿勢は、ある意味で見事なまでの一貫性だった。
慰謝料を支払う段階になっても、夫の態度は変わらなかった。
「これで満足か? 金が欲しかっただけだろう。」
夫は冷たい声でそう言い放ったが、その言葉に私は全く揺さぶられることはなかった。むしろ、解放を迎えられたことに安堵していた。私の中では、もうこの人に対する感情は消えうせていたのだ。
離婚が成立した今、私はやっと自由の身になれた。長い間、夫の言葉や態度に傷つき、翻弄されてきたけれど、ようやく自分の人生を取り戻すことができる。その事実が、私の心に静かな充足感をもたらしてくれた。
—
離婚から数ヶ月が経ったある日、元夫から電話がかかってきた。画面に映る名前を見て、嫌な予感が胸をよぎる。私はため息をつきながら、応答ボタンを押した。
「マナ、頼む。助けてくれ。」
電話越しの元夫の声は、以前の自信に満ちたものとはまるで違っていた。どこか焦りと後悔が混じり、途切れ途切れに聞こえてくる。
「どうしたの?」
冷静に言い放ちながら、私はスマホを机に置いてスピーカーモードに切り替えた。
元夫の話は支離滅裂だったが、要約するとこうだった。離婚後、元夫は浮気と社内での問題行動が原因で左遷され、現在は離島の支店に飛ばされているという。それでも元夫の悪評はすでに広まっており、同僚たちからは冷たい目で見られているらしい。
「あいつら、俺の話も聞いてくれないんだ。部下たちも逆らうようになって、何もかも上手くいかない。」
元夫は続けて、以前使い潰していた部下たちがこれまでのことを会社に告発し、上層部が元夫の行動を問題視していることも明かした。どうやら内外で彼の悪評が広がり、業界内でも再就職が難しい状況に追い込まれているようだ。
「お前には何の関係もないかもしれないけど、俺はもう、頼れる人がいないんだ。」
その言葉に、一瞬胸が痛んだ。しかし、それ以上に冷静な自分がいた。元夫は私に助けを求めているが、それは単に自分の窮地を救いたいからでしかない。
「だから、どうしてほしいの?」
私は感情を抑え、冷たい口調で問いかけた。
「やり直してくれないか? お前と、もう一度。俺が間違ってた。悪かったって、分かってる。」
元夫の声は、どこか震えていた。これまでの自分の行動を反省し、後悔していることが伝わってくる。だが、その裏に透けて見えるのは、ただ助けを求める必死さだった。
「反省してるって、本気で言ってるの?」
「本気だ。俺は変わる。絶対に変わるから。」
夫の言葉に、私はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「弘樹、私に謝るのが遅すぎるのよ。全部、失ってから謝っても、それは自分を救うためでしょう?」
電話越しの夫は、息を飲んだようだった。
「そんなことは…」
「本当に反省しているなら、最初から素直に謝るべきだったのよ。私が傷ついていると分かった時に。両親や周りの人に、誠実に向き合うべきだったの。それをしなかったのは、自分のことしか考えていなかったからよ。」
元夫は、何も言えない様子で黙り込んだ。その沈黙が、元夫の答えそのものだった。
「でも、俺は本気で変わりたいんだ。チャンスをくれないか?」
「もう遅いのよ。」
私は静かにそう告げた。
「今のあなたは、誰にも頼らず、自分で立ち直るしかないの。だって、“エリート”なんでしょ?」
元夫の反応を待たずに、私は電話を切るボタンを押そうとして、指を止めた。
「最後に、一つだけ言っておくわ。反省するのはいいことよ。でも、それを生かして、これからの行動で示すのが大事なの。過去のやり直しは、できないのよ。」
電話越しの元夫の声は途切れがちで、それでも懇願を続けていた。
「マナ、本当に頼む。俺を見捨てないでくれ。もう、誰も助けてくれないんだ。」
その言葉には悲痛さが滲んでいたが、私の心には一切響かなかった。むしろ、底の方で呆れる気持ちの方が勝っていた。あの声をまともに聞くことさえ、苦しく感じていたからだ。
「弘樹、あなたの謝罪には、心がないのよ。」
目の前に元夫の顔が浮かんでいるようで、ため息が出る。何かを言い返そうとしたのか、電話の向こうで元夫が一瞬息を飲む音が聞こえたが、その後は沈黙が続いた。その沈黙の間、私の頭にはこれまでの元夫の行動が次々と蘇っていた。人を利用し、都合が悪くなると責任を押し付ける。そして、自分が不利な状況になると、途端に弱者のふりをする。その卑怯な姿勢が、これまでどれだけ私を傷つけたことか。
元夫は、沈黙を破るようにまた言葉を重ねた。
「俺は、エリートとしてここまでやってきた。マナだって分かるだろう。俺なら、また立ち直れる。でも、今はお前の力が必要なんだ。」
相変わらず、元夫の言葉の端々には自己愛と甘えが透けて見える。そこに、本当の後悔や反省など微塵も感じられなかった。私は拳をぎゅっと握りしめたが、声を荒げることはせずに、深く息を吐いた。
「弘樹、あなたは自分の行動の結果を、まだ理解していないのよ。」
毅然とした声を意識しながら、言葉を継ぐ。私が話している間、元夫は何も言い返してこない。いつもなら強気で言い訳をしてくるのに、この状況でも無言な元夫に、逆に呆れが増してくる。
「あなたが謝罪しているのは、自分が苦しいからであって、誰かを傷つけたことを本気で反省しているわけじゃない。それが分からないうちは、何をしても無駄よ。」
そう言い切ると、スマホから元夫の声がか細く震えて聞こえた。
「それじゃあ…俺は、もうどうすればいいんだ?」
思わず、小さく笑いが漏れた。ここまで来ても、まだ自分で考えようともしないのか。呆れるしかなかった。元夫の頼りなさに、苛立ちが募る。私は深く息を吸い、冷静に、けれどはっきりと告げた。
「これからも、誰にも頼らずに生きていけばいいじゃない。あなたは“エリート”なんだから。」
元夫のプライドを傷つけるつもりはなかったが、それがどれだけ空虚なものかを、本人に自覚させたかった。電話越しの沈黙が、言葉以上に私の気持ちを伝えたような気がする。スマホ越しに、何かを言いたげな気配が伝わってきた。しかし、私はそれ以上、元夫の声を聞きたいとは思わなかった。元夫の泣きつく言葉に、何の価値もないことを、もう嫌というほど思い知らされているからだ。
「弘樹、もう切るわね。」
そう言うと、私は迷わず電話を切った。スマホを置いた瞬間、部屋に静寂が戻った。どこか、肩の荷が降りたような解放感が胸に広がる。机に置いたスマホをじっと見つめ、深く息を吐いた。これで、本当に終わった。元夫の人生がどうなるかは、もう私の知るところではない。彼自身が向き合い、変わる努力をするしかないのだから。私は最後に小さく微笑み、スマホの画面を消した。明日から始まる新しい日々が、少しだけ楽しみになっている自分に気づいた。
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元夫からの謝罪メールは、その後1ヶ月ほど途切れることなく続いた。最初は長々とした反省の言葉が並んでいたが、次第に「どうかやり直してほしい」「もう一度話をさせてほしい」といった懇願の内容に変わっていった。それでも、私は一度も返信しなかった。元夫が助けを求めてくるのは、自分を救いたい一心だからだということが、明白だったからだ。
義両親にも、元夫から電話があったらしい。だが、彼らも同じだった。義父から「弘樹が連絡してきたけど、私たちも手を貸すつもりはない」という言葉を聞いた時、私は少しだけほっとした。彼らが冷静に状況を理解し、元夫の甘えを断ち切ってくれているのが、分かったからだ。それでも、元夫が頼る相手を見つけられないまま孤立していく様子は、どこか痛々しくもあった。
一方、妹のリナは実家に戻り、両親に土下座して謝罪をしたという。両親を巻き込む形で浮気が発覚したこともあり、両親は激怒していたそうだ。リナは何度も何度も謝罪の言葉を繰り返したが、両親は簡単には許さなかった。「一から叩き直す」という名目で、リナは厳しい監視下に置かれることになった。これまでの甘やかされていた日々は一変し、自分の過ちと向き合う厳しい生活が始まったという。
さらに、リナの浮気の噂は友人を通じて広まり、多くの人々から距離を置かれる結果となった。これまで築いてきた人間関係が、わずか数日のうちに崩壊していく様子は、リナにとって耐え難いものだっただろう。それでも、これがリナにとって必要な罰なのだと思った。
私自身も、新しい生活をスタートさせる準備を進めていた。予定通り新居に引っ越し、再び仕事を始めることで、久しぶりに独身生活を取り戻した。誰にも邪魔されない、自分だけの時間が手に入るということが、これほどまでに心地よいものだとは思わなかった。
義両親からは、何度も謝罪の言葉をもらった。
「弘樹がこんなことをする人間だとは思わなかった。もっと早くマナさんを守っていれば…」
という、悔しそうな言葉には、どこか救われる思いがした。彼らが最後まで私を信じ、味方でいてくれたことには、感謝している。「人に感謝することを忘れてはいけない」、それは今回の出来事を通じて私が改めて学んだことだった。義両親や両親、そして周囲の支えがあったからこそ、私はこうして新しい一歩を踏み出せたのだと思う。
人生において、誰もが誰かに支えられている。私はこれまで、元夫に尽くすことで自分の役割を全うしてきたつもりだった。しかし、それがいかに一方的なものだったのか、今になってようやく分かった。これからは、自分のために生きる人生を楽しみたい。そして、その中で支え合える人たちと共に歩んでいければと思う。そんな思いを胸に、私は新しい生活を前向きに歩み出すのだった。
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「今日から、俺の両親も同居な。荷物はお前が全部片付けろ。いいか? 両親には余計なことを言うな。お前は、夫の言うことを黙って聞いていればいいんだ。」
新居への引っ越し当日、夫のよしは大量の荷物と共にそう言い放った。夫の背後から現れた義両親は、おそらく何も知らない。夫が私に無断で同居を決めたこと。それに、あのことも。
「リカさん、ありがとう。よしから聞いてるよ。リカさんが同居を提案してくれたそうだね。」
「よしも、幸せものね。リカさんのようなお嫁さんをもらって。」
「リカは、本当にできた嫁なんだ。同居を提案してくれた時は、嬉しかったよ。リカ、これからもよろしくな。」
そう言って、夫は嘘を並べた後、先に義両親を新居の中へ案内する。そして、私と二人きりになったと同時に、吐き捨てた。
「俺の荷物は、丁寧に扱えよ。分かったら、さっさと運び始めろ。」
もう、こんな夫に遠慮することもない。義両親の前で、徹底的にぶち壊してやろうじゃないか。
「無理よ。あなたの荷物、ここには一つもないから。」
「はあ? 俺の荷物は、お前に頼んでたよな? 忘れたとは言わせないぞ。」
「ええ、確かにあなたの荷物は送ったわ。でも、ここにはないの。」
「さっきから、何言ってるんだ? 分かるように説明しろ!」
私の態度がいつもと違うことを察したのか、夫は怒りに任せて大声をあげた。私は、強く意見することが苦手で、結婚してからも夫に従順だったと思う。夫が私を選んだのも、そんな性格が扱いやすかったのだろう。でも、もう夫の思うようにはさせたくない。私は夫の大声にひるまず、まっすぐ目を見た。
そこに、夫の怒鳴り声を聞いた義両親が戻ってくる。
「どうした? よし、大声なんか出して。ご近所さんに迷惑だろう。」
「さっきまで何もなかったのに、急にどうしたのよ。事情を話してごらんなさい。」
「ごめん、ごめん。ちょっと驚いて、大きな声が出てしまったんだ。リカが、俺の荷物を新居に送り忘れたみたいで。」
「そうなのか? リカさん、珍しいね。しっかり者のリカさんが忘れるなんて。」
「そんなこともあるわよね。大丈夫よ、リカさん。私たちも手伝うから、今からでも取りに行きましょう。」
「いえ、大丈夫ですよ。お父さん、お母さん。忘れたわけではないので。荷物は、私の弟が送ってくれる予定です。」
「なんだ、A君が運んでくれるのか? それを先に言えよ。」
夫は、普段から弟と仲良くしているのもあってか、少し表情を緩めた。その表情を見て、この人は何も知らないのだと、心の中で笑う。そして、私は義両親に事実を伝えた。
「それよりも、お二人に謝らないといけないことがあります。私、同居はできません。よしは私が同居を提案したと言いましたが、私は同居のことを聞いていませんでした。」
「え? なんだって?」
何も知らなかった義両親は、困惑した表情を浮かべる。本当に二人には申し訳ない。それもこれも、夫の所業のせいだ。義両親はわけが分からないまま、夫に理由を尋ねた。
「よし、どういうことなんだ? お前が勝手に決めたということか? 私たちを騙したということか? 答えなさい! よし!」
「何言ってんだよ。俺が父さんと母さんを騙すわけないだろ? 最近、俺の仕事が忙しくて、リカとの時間が少なくなってたんだ。だから、リカは同居のことも忘れてしまったんだよ。リカは、しっかりしているように見えて、抜けてるところがあるからさ。」
「そんな大事なことを忘れるか? お前、嘘をついてないだろうな?」
「いやいや、嘘なんてついてないって。なあ、リカ?」
そう問いかける夫の顔は、明らかに焦っていた。私が何も言えないだろうと高を括っていたのだろう。即興で用意したであろう夫の言い訳はかなり苦しいもので、義両親は疑いの目を向けている。そんな義両親に、私は新たな事実を伝えた。
「残念ですが、よしは嘘しかついていません。私のことを“本当にできた嫁”と言っていましたが、家では毎日のようにののしられ、こき使われていました。断るごとに離婚をちらつかせて脅されてもいました。」
「はあ…。そんなこと、私たちは知らないぞ。」
「おい、よし。どういうことだ?」
「待ってくれよ。なんでリカの話を鵜呑みにするんだよ。リカが嘘をついている可能性もあるだろう? なあ、リカ。いい加減にしろよ。これから新居で、家族仲良く暮らしたい。そう思っているのは、俺だけか?」
「私だって、仲良く暮らしたかった。でも、夫とはもう終わり。もっと早く行動に移すべきだった。私にあるのは、そんな後悔だけだ。」
もう一度、夫の目をまっすぐ見て、私は口を開く。
「11月22日、あなたはどこに行ってたの?」
「なんだよ、急に。その日は出張に行ってた。場所は京都だ。これは、リカにも伝えたはずだよな。」
その言葉を聞いた直後、私はスマホを取り出し、画像を映した状態で夫と義両親にかざした。そこには、夫と女性が映っている。日付は、11月22日。
「ここに写っている場所は、京都じゃないわ。あと、この女性は同僚でもないでしょう? よし、あなた、浮気旅行してたのよね?」
写真には、東京タワーが映っていたの。義両親も、すぐに理解したようだ。一瞬で顔色が変わり、夫に冷たい視線を浴びせた。
「次から次へと、よし! いい加減にするのはお前だ! 出張だと嘘をついて、浮気だと! ふざけるな!」
「父さん、落ち着けって! この人は同級生だよ。浮気相手なんかじゃない! それに、画像はリカが捏造したかもしれないだろう! 決めつけないでくれよ!」
義父は怒りで、義母は失望で、体を震わせた。
「“捏造した”なんて、そっちの方こそ決めつけないでほしいわ。私はただ、事実を言っているだけ。夫は出張と嘘をつき、浮気相手と旅行に行った。それだけよ。」
夫はあくまで白を切るつもりのようだが、画像だけが証拠ではない。私はすでに、夫を追い詰める準備を進めてきたのだ。それを証明してくれる人が、もうすぐやってくる。夫が地獄を見るのは、ここからだ。
夫が喚く中、新居の前に1台のトラックが停まった。その車から、逞しい男性が現れる。私の弟だ。
「A君、ちょうどいいところに来てくれた。リカが、いきなり変なことを言い出したんだよ。俺が浮気してるとか、なんとか。君なら、俺を信じてくれるだろう? なんとか言ってやってくれ。」
「分かりました。では、言わせてもらいますね。お兄さん、300万円、支払ってください。」
「300万? A君、どうした? 君まで、変なことを言って。」
「浮気の慰謝料、300万円払えって言ってるんだよ。俺の姉ちゃんを傷つけたんだ。これでも、足りないくらいだ。」
そう言って、弟は一枚の書類を突きつけた。それは、慰謝料請求書だった。夫は、弟の行動に理解が追いつかず、固まっていた。“仲良くしていたはずの弟が、なぜ?”そう言いたげに、夫は弟を睨むような目で見ていた。そんな夫に、私が事情を説明する。
「Aがあなたと仲良くしていたのは、浮気の調査をしやすくするためよ。さっき見せた画像も、Aが尾行して撮ってくれたの。弁護士にも依頼してくれた。証拠なら、いくらでも用意できると思うけど。」
「嘘だろ。A君、俺を騙してたのか?」
「あんた、バカなの? 俺は姉ちゃんを助けるために行動しただけ。騙していたのは、あんたの方だろうが。いいか、よく聞け。姉ちゃんは、あんたの所有物じゃない。ずっと尽くしてくれていたのに、感謝もしないで。絶対に慰謝料は払ってもらうが、それでも一生許すつもりはない。」
これまでの人生の中で、弟がこんなに激怒したのは初めて見た。弟に相談した時は、怒りはあったものの、冷静に物事を進めてくれた。だから、今弟が私のために怒ってくれている姿を見て、思わず涙がこぼれた。弟の姿に驚いていたのは、夫と義両親も同じだった。特に夫は、弟に追い詰められるとは微塵も思っていなかったようで、下唇を噛んで俯いた。
ただ、夫は弟の言葉を受け止めるつもりはないようだ。とうとう開き直り、こんなことを言い出した。
「姉もバカなら、弟もバカだな。俺の浮気相手は、会社の社長令嬢なんだよ。それに、俺は次期社長候補とも言われている。慰謝料300万なんざ、速攻で払ってやるよ。俺が社長になったら、真っ先にお前らを潰してやるからな。」
夫の辞書に“反省”という文字はないらしい。謝罪らしい謝罪もなく、口を開けば喚くだけ。浮気相手が社長令嬢であること。あと、夫が次期社長候補というのは、本当のことだった。でも、そんなことは関係ない。だって、夫はもうすでに全てを失っているから。
夫が金目当てで浮気をした。当然、それも私たちは知っている。そして、夫が知らない事情も、すでに抑えてある。私は深呼吸をして、とどめの一撃を放った。
「あなたの浮気相手、既婚者よ。ちなみに、あなたの荷物は、浮気相手の実家に送ったわ。彼女、旦那さんと実家に暮らしているそうよ。これから、面白いことになりそうね。」
「は? 嘘だろ?」
「浮気相手の両親と旦那さんにも、夫の愚行は伝えてあるわ。“次期社長候補”なんて、笑わせてくれる? きっと、夫も会社に入れなくなるだろう。」
夫も、すぐに状況を理解したのか、またも態度を一変させる。ニヤニヤとした表情で、媚びるように話しかけてきた。
「あはは、それを先に言ってくれよ。さっきの言葉は全部なし。俺が悪かったなあ。リカ、俺たち、まだやり直せるよな?」
その言葉に、目を丸くしたのは私だけではない。義両親も、弟も、呆気に取られたような顔をしている。それもそうだろう。こんな身勝手な発言が許されるはずもない。夫は自分の首を絞めていることにも気づかず、今までのことをなかったことにしようとしている。本当に、バカな人だと私は呆れた。でも、私はもっとバカだと改めて思う。こんな人に尽くしていた。こんな人の言うことを聞いてしまっていた。間違えていたのは、私も同じだ。だから、私は今日、気に変わる。
そう思い、私は夫に最後の言葉を伝えた。
「世の中にはね、取り返しのつかないことがあるの。ちなみに、さっきまでの会話はボイスレコーダーに録音してあるから、これも浮気相手の実家に送っておくわね。」
そう言って背を向けると、夫がブルブルと震えながら、膝から崩れ落ちた。義両親は首を横に大きく振る。弟も、深くため息をついた。
その後、夫は義両親から絶縁された。浮気相手の両親にも呼び出され、私が想像もできないくらい大激怒されたらしい。もちろん、浮気相手も両親に縁を切られ、旦那さんにも離婚を言い渡された。“社長令嬢”という肩書きがなければ何も残っていないようで、最後の最後まで泣きついていたそうだが、誰一人として怒りを収めなかったみたいだ。夫と浮気相手は、お互いに責任をなすりつけ合うことしかできず、結局別れてしまった。
ここで二人が協力できていれば、彼らの人生も少しは変わったかもしれない。でも、私にとってはどうでもいいこと。後悔しながら生きていけばいいと思う。
義両親は、改めて私に謝罪をしてくれた。
「リカさん、本当に申し訳ない。私たちは、君の悩みに気づくことができなかった。よしがあんな風になってしまったのも、親である私たちの責任だ。許してもらえるとは思っていないが、この通りだ。もし困ったことがあったら、いつでも相談してね。私たちには、それくらいしかできないから。」
深々と頭を下げる義両親に、私はすぐに頭を上げるよう伝えた。私の味方になってくれた義両親には、感謝すれど恨みはない。私は大丈夫。そんな思いで、二人に笑顔を向けた。
その後、私は新居で新しい生活をスタートさせた。隣には弟がいて、今でも私を支えてくれている。あの騒動の後、私は弟に感謝を伝えた。
「A、本当にありがとう。Aがいてくれたから、私も自分を変えることができたと思う。」
「何言ってんだよ、姉ちゃん。俺たち、家族だろ? 家族が支え合うのは、当たり前じゃないか。俺は、姉ちゃんが困っていたら、どんな時でも助ける。だから、いつでも頼ってくれよ。もう、お姉ちゃんが傷つくところは、見たくないからさ。」
弟は照れることもなく、爽やかな笑顔を向けてくれた。弟の言う通り、家族は支え合うものだと実感している。ただ、それは“当たり前”ではないと思うのだ。たとえ家族であっても、人を助けるということは案外難しい。だから、私はいつでも感謝の気持ちを忘れたくない。この気持ちは、ずっと変わらないだろう。
—
私は結婚と同時に、仕事を辞めた。それは、義母の言葉がきっかけだった。
「嫁は、結婚したら家に入るのが常識よ。家事、育児ができてこそ、一人前なの。分かったわね。」
古臭い考え方には、素直に賛同できない。でも、私は反発することなく、言う通りにした。義母との関係を悪化させる方が、この先大変だろう。そう思っていたのだが、私は別の問題に直面する。
「お前は、ずっと家にいるんだから、家事くらいちゃんとやれ。専業主婦のくせに、役に立たねえな。せっかく母さんが躾けてくれてるのに、ちょっとは期待に応えてみろ。」
夫の大輔に、ことあるごとに、そんな愚痴を言われるようになったのだ。決して、家事をサボっていたわけではない。でも、主婦として不器用な私が、夫と義母の期待に応えられていないのは確かだった。特に夫は、義父の会社の次期社長候補として忙しい日々を過ごしている。休日もパソコンにかじりつきっ放しで、寝てしまうこともあるくらいだ。夫が頑張っているなら、私も頑張って、二人に認めてもらえばいい。不安がないと言えば嘘になるが、そう考えるようにした。
結婚からしばらく経ち、私の妊娠が発覚した。家事を頑張った甲斐もあってか、夫の愚痴は少しだけ減ったようにも思う。ただ、この頃から夫と義母は、義兄夫婦の高志さんとリカさんのことを、よく悪く言うようになった。
「兄さんがしっかりしないから、リカさんがいつまでも働きに出ないといけないんだよな。そんなんだから、父さんにも見放されるんだよ。」
「そうね。リカさんが可哀想だわ。高志には、もっと夫としての自覚を持ってもらわないと。」
義兄夫婦は実家から離れたところで暮らしており、義兄の高志さんも仕事が忙しいようで、あまり会うことはない。私は二人のことを詳しく知らなかったので、深く考えずに、自然と聞き流していた。
それから数ヶ月後、今、私は義実家に来ている。ポツンと、毎年恒例の親族の集まりがあるからだ。いつもと違うのは、義兄夫婦も参加するということ。私は大舞台に上がるような緊張感で、義実家に足を踏み入れた。
「お久しぶりです。高志さん、リカさん。お会いできて、嬉しいです。」
「ももこさん、久しぶり。元気にしてたかい?」
「こちらこそ。お会いできて、嬉しいわ。いつもなかなか顔を出せなくて…。」
「お仕事がお忙しいんですよね。帰省中くらいは、ゆっくりなさってください。」
「あ、私、料理の準備をしてきますね。」
最後に、針のような視線を感じた気がして、私は急いでその場を切り上げた。台所に飛び込めば、案の定、義母が鬼の形相で仁王立ちしている。
「全く。ちょっと目を離すと、すぐサボるんだから。準備は嫁の仕事よ。ほら、早く料理を温めなさい。」
「すみません、お母さん。すぐやります。」
いつものように、義母の言う通り、右へ左へ慌ただしく作業をしている最中、ふと気づく。今日は、嫁が二人いるのでは? しかし、義母は義姉に対して、何も言う気配はない。むしろ、客人であるかのように、ニコニコと愛想よく世間話までしている。私には、ゴミでも見るような目で命令してくるのに。
いや、義姉は仕事で疲れているのだ。私は専業主婦だから、こういう時に働いてこその存在なんだ。私は深く考えるのをやめ、自分を納得させる道を選ぶ。その方が楽だ。これは、結婚生活で得た術である。
とはいえ、さすがに立ちっぱなしは辛くなってくる。正直、妊娠を舐めていた。7ヶ月で安定期とはいえ、お腹もだいぶ膨らんできている。とにかく、疲れやすい。世の母たちは、みんなこれを乗り越えているのか。顔も知らない女性たちに敬意を抱きながら、私は一息つこうと、台所の片隅にある椅子に腰かけた。この場所なら、今から配膳になるから、客人たちの目に触れることもないだろう。と思いながら、お腹を撫で、体を休めていると、夫が台所に入ってきた。まさか、身重の私を気遣って、手伝いに来てくれたのか。
そんな期待を抱いた私を、嘲笑うかのように。夫は、なんと私のお腹を蹴ってきたのだ。
「嫁は、立っておくのが常識だろう。母さんが働いてんのに、嫁が座るなんて、ありえないぞ。」
夫は喚き立てたが、ショックを受けた私の耳には、入ってこなかった。この人は、今、私を辱めただけでなく、お腹の子供にまで危害を加えたのだ。私は唇を震わせながら、夫を睨みつけた。
「私のお腹の中には、今、赤ちゃんがいるの。私が無理すれば、赤ちゃんが危険にさらされるのよ。私と、あなたの子なの。無茶を言わないでちょうだい。」
「何言ってるんだ。妻である前に、嫁だろ。そんなことも分からないのか。だから、お前はダメなんだ。」
夫は、やれやれと言った風に、大げさに首を左右に振る。
「尊い命を前に、嫁も何もないわよ。私はもう、この子の母なの。この子を守ることが、何よりも優先されることなのよ。」
「嫁のくせに、いちいち反抗しやがって。根性を叩き直してやる!」
夫は、私を無理やり立たせようと、腕を引っ張った。あまりの力に、私は痛みと恐怖で悲鳴を上げる。涙ながらに抵抗していると、騒ぎに気づいたのか、義兄が台所に入ってきた。
「おい、何をしてるんだ? ももこさん、大丈夫かい? 妊婦さんに、そんな乱暴を働くなんて。もっと優しくしなさいよ。お前の奥さんだろ?」
「嫁だからこそ、こき使うんだよ。嫁は、夫の所有物だろ?」
「そんなわけあるか。夫婦は対等な存在だ。どちらか一方がいい気になって、相手を貶めていいはずがない。」
「はは。相変わらず、兄さんは綺麗事ばかりでヘドが出るよ。夫婦は対等? そんな言葉を間に受けて、いつまでもリカさんを働かせてるんだ。亭主養ってやれよ。情けない。」
「お前に、うちの家庭のことをとやかく言われる筋合いはない。何様だ。」
今度は、義兄と言い争いを始めた夫を見て、私は深くため息をついた。これまでは、夫にどんな扱いを受けようと、それは私に至らないことがあるせいだと思っていた。努力して、少しでも満足してもらえるよう、自分を高めていこう。そう思えたのだ。でも、この一連の出来事を通して、痛感した。夫は、人を見下す人種なのだ。私のことも、私の赤ちゃんのことも、義兄のことも。自分の気に食わないものは、家族であろうとも、徹底的に貶す。こんな人の言うことを、いつまでも聞いているわけにはいかない。私はもう、母になるのだから。
私は、後回しにしようと思っていた、夫と義兄夫婦との話し合いを早めるべく、ついに自らの足で立ち上がった。
「分かったわ、高志。そんなに言うなら、立ってもらいましょう。あなたの嫁である、リカさんにもね。」
その場が、水を打ったように静かになった。夫も義兄も、目が点になっている。夫が、いち早く元の表情に戻った。
「リカさんが、俺の…何を言ってるんだ? 妊娠して、ついに頭まで行かれたのか?」
私は夫の問いかけに答える代わりに、今度は台所へ行き、義姉を無理やり立たせた。
「ほら、リカさんも、ちゃんと立ってないと。夫が“嫁は立っておくのが常識”って言うんです。リカさんも、夫の嫁ですものね。」
「え? 何ですって?」
晴れやかな笑顔で言ってのけた発言に、今度は居間の空気が固まった。親族たちは、みんな揃って私と義姉の方を向いている。義姉は、ただただ目を丸くするばかりだ。義母が、慌てて飛んできた。
「ちょっと、ももこさん! 何てことを言うの! そりゃ、リカさんはあなたと違って、綺麗で要領が良くて、気配りができる素敵な女性だけど。だからって、嫉妬で嘘を言うのは違うでしょう!」
「そうだぞ! 親族の前で俺に恥をかかせるなんて、侮辱罪で訴えてもいいくらいだぞ! バカなことをするんじゃない! 全員の前で土下座して謝れ!」
反吐が出る。私の言葉に、全く耳を貸さない二人の反応にも、思わず笑えてきた。私は満面の笑みを向けたまま、ポケットからスマホを取り出し、親族たちの前に掲げた。
爆音で流れる、いかがわしい音声。そして、疑いようのない映像。そう、私は夫と義姉の浮気現場を撮影していたのだ。和やかな空気は、一瞬にして総白痴の有り様となった。
「ちょ…ちょっと、何なのよ、これ!」
義姉も、驚くやら恥ずかしいやらで、表情が忙しい。夫は、目に見えて慌てふためき、私との距離を詰めてきた。
「どういうことだ? なんで、こんなものを持っている? どうして、家でただぼさっとしているだけのお前が、こんなことを知ってるんだ?」
「家でぼさっと…夫の顔色を窺う生活だったからこそ、気づけたのよ。」
「なんだって? 何を言ってるんだ?」
「最初はね、私もあなたを疑ってなかったわ。休日もパソコンにかじりつくほど仕事熱心だと思ってたの。でも、ある日、机に突っ伏したまま寝ていたから、毛布をかけに行ったら、ちょうど画面にリカさんとのメールのやり取りが映っていたの。一目で浮気だと分かる内容だったわ。そこから先は、分かるでしょう? あなたを尾行して、決定的な証拠を撮影したのよ。」
「いや、だからって、あんな現場に、どうやって…」
「あなた、私に内緒でアパートを一室借りていたのね。二人で一緒に入ったと思ったら、鍵をかけ忘れてたわよ。よほど、気持ちが盛り上がっていたようね。」
夫も義姉も、開いた口が塞がらないようで、顔が真っ青に染まっている。一方、燃え盛る炎のように真っ赤な顔になっているのは、義兄だ。一歩一歩、床がへこみそうな音を立てて、夫に近づいてくる。義兄が、夫の胸ぐらを掴んだ。
「どういうことだ? なぜ、お前とリカが…。お前から迫ったのか?」
「は? 別に。いい男に女が寄ってくるのは当然のことだろ。考えてもみろよ。兄さんが、俺より優ってるところが、一つでもあるのか?」
「ふ、二人とも、やめてちょうだい!」
義姉が、間に入ろうとする。自分の脇の甘さはさておき、ここは義兄をなだめながら、挑発的な夫を窘めるつもりだろう。私だけではなく、誰もがそう信じて疑わなかった。その時、義姉は、なんと夫の腕に自分の腕を絡ませた。
「高志くんの言う通りよ。高志くんが次期社長として頑張っている中、あなたは何? お父さんの会社ですら、働かせてもらえないじゃない。優秀な男と夫婦になろうとするのは、生物としての生存本能よ。」
その場にいた、全員の顎が外れなかった。夫と義兄と義姉の三人が、激しい罵り合いを繰り広げていると、突然、テーブルを叩く音がした。一瞬で、その場が静まり返る。振り向くと、音の主は義父だった。
「みんな、一旦落ち着きなさい。」
その場にいる全員が、神妙な顔つきで席に着いた。
「まず、先ほど、俺の中で決まった重要事項を伝えておこう。次期社長候補は、高志だ。」
「な、なんだって? どうして、別の会社で働いてる兄さんなんか…!」
夫は早速立ち上がり、唾を飛ばす勢いで叫び出す。義父が鋭い眼光を飛ばすと、納得はいかない顔だが、ひとまず座り直した。
「元々、うちの会社は高志に任せるつもりだったんだ。高志がよその会社で働いているのは、そうすることで会社の経営について、より深い理解を得られるようにとの目論みだった。」
初めて明かされる義父の考えに、夫は目を見開く。義姉も、予想外という顔だ。
「でも、俺の方が父さんの会社についてよく知ってる! 取引の立ち回りだってうまいし、俺の方が絶対社長にふさわしいはずだ!」
「有能であれば、社長になれるわけではない。トップは、従業員全員の生活がかかっている。一番身近な家族すら大切にできない奴が、どうして会社の人間を大切にできるんだ。こんな男に、大事な社員を任せられない。」
「そんな! 俺が無能な兄さんの下で働くなんて、納得できるか? 父さん、もう一度考え直してくれ!」
義父は、より強くテーブルを叩いた。
「くどい! 心から反省している様子だったら、また一からやり直すチャンスも与えてやったものを。自分の過ちを認めることすらできない奴は、俺の会社には必要ない。お前は、首だ。」
夫は、ブルブルと体を震わせていたかと思うと、突然、義父の元へ行って土下座した。
「すみませんでした、父さん! 兄さんの元でも、何でも働きます! 首だけは、勘弁してください!」
「バカ者! 俺に謝ってどうする! ももこさんに謝るのが先だろう!」
夫が、はっとした顔で、ようやく私の方を見た。自分でも驚くくらい、私の夫を見る目は冷たい。夫は、フラフラとした足取りでこちらに近づいてきて、ゆっくりと膝をつく。彼の額は、脂汗でびっしり濡れていた。
「ももこ、すまなかった。浮気の件はもちろん、お前に対する態度、全てを改める。これから、心を入れ替えて頑張るから、どうか許してくれ。」
ゆっくりと頭を下げる夫に、私は大きなため息をついた。
「ひとまず、考えさせてください。」
義父が静かに頷くと、その場の騒動はひとまず収まり、穏やかな雰囲気が広がった。
騒動のあの日から、私は現在実家に帰り、夫とは別居している。夫は本当に反省している様子で、毎日のように実家に訪れたけれど、一度失った信頼は、二度と取り戻せない。私だけではなく、お腹の中の子供にまで危害を加えたのだ。結局、私もまた離婚を選び、夫に慰謝料と養育費を請求する運びとなった。会社やご近所でも「身重の妻を放って不倫した」と噂され、夫は肩身の狭い思いをしているらしい。
一方、義兄夫婦も。義姉は義兄と即離婚した上で、慰謝料を請求した。夫との破局と離婚のショックから精神を病んだ義姉は、浪費が増え、会社を退職。ストレス発散の買い物などで、あっという間に貯金も尽きてしまった。今は慰謝料支払いのため、怪しい仕事に手を染めているとの噂も聞く。
また、義母も、私にきつい態度を取ってきたことが明らかとなり、義父から大目玉を食らった。離婚こそ避けられたが、今は外出やお金の管理も厳しくチェックされるらしい。
一方、私はと言うと…。あれから数ヶ月。私は無事に男の子を出産した。正直、初めての育児は目が回るほどの忙しさで、離婚のショックに浸っている暇もない。子供に粉ミルクを含ませながら、私はぼんやりと今後のことを考える。
この子が一歳になったら、働きに出よう。ブランクはあるけど、恥ずかしがっていなければ、どこか働き口はあるはず。いや、あるかどうかではない。見つけて見せるのだ。だって、私は母だから。この子がすくすくと育つように、私の全てをかけて、大切にしていこう。窓から差し込む日差しが、我が子の顔を優しく照らし出していた。



