会議室のドアを開けた瞬間、手代木部長が俺を見て首をかしげた。
「水希さん、なんでここにいるんですか?会議は社員だけで十分なんですけどね。シニアスタッフなんで帰っていいですよ」
飯野課長がにやにやしながら言った。俺は伝えなければならない大事なことがあったが、飯野の経験でなんとかカバーしてくれるだろうと思い、その場を去ることにした。
「では帰りますね。お先に失礼します」
俺は水希孝太、60歳になるじいさんだ。令和の今では「定年」と呼ぶにはまだ早いとされる世代。俺の親の時代なら60歳といえば、一生遊んで暮らせるだけの金を稼ぎ、年金をもらいながら悠々自適の老後ライフの第一歩となる年齢だった。
健康寿命も伸びつつあるこの世の中、60歳はまだまだ働ける働き手の一人となるようだ。
妻には「あなたは健康だけが取り柄なんだから、もう少し働いてちょうだい」と言われた。妻からは俺が家にいること自体がストレスになると、はっきり言われている。
息子からは「孫がもう一人増える予定だから、もう少し蓄えをお願いしたい」と言われた。
「そこはお前の稼ぎじゃないのか」と呆れた口調で返答したが、「教育費とかではなく、おもちゃなどを買い与えるための費用だ」と切り返された。
ということで、俺はシニアスタッフとして勤務先と5年満期の再雇用契約を結んだ。
俺の勤務先は旅行業で、主に法人相手の旅行の企画などを行っている。俺は元々この会社で働いていたため、旅行業に関する資格を持っている。そのため、勤務先から「大人や人の届け出が面倒だから、もう少し職場に残ってくれないか」と言われたのだった。
ただし、「給与はこれまでの8割程度しか出せませんが」と言われたが、家族からあんなことを言われている立場からすれば渡りに船だ。5年も働けば家族としても納得するだろう。
幸いにして、俺はこの会社では頼れる上司の一人としてカウントしてもらっており、資格取得のための勉強を見てやったり、旅程を組むための知識なども伝授したりしていた。
「水希さんが残ってくれるならすごく助かります。まだまだ教わりたいこといっぱいあるんですよ」
「いやいや、お前さんは3年目でもう一人立ちできないといけないだろ。添乗とかも任せなきゃならんからな。頼むぞ。っていうか、会社が欲しいのはあんたのスキルじゃない。資格だ。早くお前らも資格を取って、定年を払い箱にしろ」
唯一、飯野課長は俺を目の上のたんこぶのように扱う。飯野課長よりも保有する資格が多いし、英語の他に中国語と韓国語が話せるし、それに課長より長く会社にいるのが癪に触るらしい。
俺は癪に触るのなら、資格や語学習に力を入れればいいだけだと思っているので放っておいている。それを除けば部署内は和やかなムードなので、俺としても過ごしやすい。
隣にある個人向け旅行商品を企画する部署は、旅行商品の企画倒れが続き、「もう後がない」と上層部に言われたらしい。上司と部下たちの間で温度感が異なり、転職を検討している社員もいるのだとか。
旅行業界は社会情勢に左右されやすい業界だから、こういう状況に陥るのも仕方がない。俺がいる法人営業部は研修旅行や慰安旅行など、会社の福利厚生のための旅行商品の企画をしている。不況のまっただ中にいれば「もう後がない」と言われるのはうちの部署だったであろう。
そんな中、人事移動で法人営業部の部長が変わった。
「海外事業部から転勤してきました手代木です。法人営業部がさらにいい部署になるよう尽力しますので、よろしくお願いいたします」
若手の女性部長がやってきた。手代木部長は、弊社の商品を利用して渡航した海外旅行客のアシストをするために海外に駐在していたという。
「水希さん、なかなか不慣れな点が多いので色々教えてくださいね」
「いやいやいや。こいつは使い物にならんので、何か分からないことがあればこの飯野にお任せください」
手代木部長と俺の間に割って入ってくる。こいつは自分の上司に小判鮫のようにくっついて取り入ろうとする。少しでも早く出世したい一心で媚びを売っているのだが、一度もそれが叶ったことがない。
俺も管理職への登用チャンスがいくつかあった。しかし管理職となればデスクワークオンリーとなる。俺は自分が企画した旅行の添乗員としてお客様を案内することに生きがいを感じていたので、管理職の道を断り、平社員のままでいることにしたのだ。
もちろん、チャンスを棒に振るのはそれこそ勿体ないと家族からは愚痴られた。最終的に「夫が出張でいない方が平和である」と家族は賛成した。
「こいつは社員じゃないんで。え、でもさあ、社員を紹介しますんで、どうぞこちらへ」
俺を無視して、飯野は手代木部長を連れて行ってしまった。まあ、それでいいと思っていたし、自分の仕事をこなせればそれで構わなかった。
ある意味、子飼いの飯野は、手代木部長が困った表情をしているにも関わらず、かなり余計なことまでレクチャーをしている。手代木部長だっていい大人だ。救急室やトイレの場所まで教える必要はないだろう。
そんな時に電話が鳴った。
「手代木部長が電話だからと立ち上がった。おい、電話番のシニアスタッフ」
俺は飯野が言い終わる前に受話器を取っていた。
「はい。法人営業部の水希でございます」
飯野はそれで満足したかのように、また手代木部長にあれこれ話を始めていた。
電話の相手は、常得意先の池田産業の部長さんだ。池田産業からは、社内の慰安旅行から顧客の接待旅行など様々なご依頼を受けている。この電話も毎年恒例の社内の慰安旅行。2泊3日で30名分のご依頼だった。
飯野がべったり張り付いている手代木部長に声をかけるのは憚られたので、社内メールで電話の内容を伝えた。
「ちょっと飯野課長は席に戻ってくれますか?」
手代木部長がパソコンの画面に視線を落としながら、少し厳しい口調で伝える。飯野がその口調に驚き、慌てて自席へ戻る。
そのやり取りが俺には小気味よく思えたが、手代木部長は慌て始める。そりゃそうだ。彼女はこれまで現地で顧客サポートをしていただけだ。営業はもちろん、旅程の企画立案なんて初めてのことだろう。
「あの、水希さん。お客様は今年は関東県への旅行をお望みです。去年は富山県で解散物や山の自然をご堪能いただきました」
「なるほど。それなら水希さんを中心に」
「いいえ。水希はシニアスタッフですので任せることはできません。さあ、お前ら、この旅行を成功させるために1人3つのプランを考えてこい」
手代木部長が目で「ごめんなさい」と俺に訴えている。俺は「いえいえ」とにっこりした顔を見せて答えた。
その2日後、先方である池田産業さんへプレゼンをするための企画会議をする日だ。飯野が座長となり、営業部のメンバーがそれぞれプレゼンする。メンバーがプレゼンするたびに飯野がつまらなそうに相槌を打つ。
次は俺の番だなと立ち上がろうとした時だった。
「もう、もうこれで発表は終わりだな。なかなかいい案が出ないままだな。つまらない案ばかりだよ。旅行会社らしからぬ提案ばかりしやがって」
「待ってください。水希さんのプレゼンがまだです」
「水希さん?なんでここにいるんですか?会議は社員だけで十分なんですけどね。シニアスタッフなんで帰っていいですよ」
「ちょっと飯野課長」
手代木部長が飯野課長を窘めたが、周りに部下がいる中で彼が引くことはなかった。
「今回の案は、俺が提示した魔法の国ツアーと横浜ナイトクルーズで決めちゃいます。以上」
俺は飯野に大事なことを伝えなければいけなかったが、まあそれは飯野の経験でなんとかカバーしてくれるだろうと思った。
「では帰りますね。お先に失礼します」
俺は3つの企画書をファイルにしまい込み、その場を後にした。
「ああ、水希さん、池田産業様からお電話です」
他の社員が、会議室を出ようとした俺に声をかけてくれた。
「何?俺が出るよ」
飯野は電話に出ようとした俺から受話器をもぎ取った。ギリッと俺を睨みつけたので、俺はそのまま帰ることにした。もうどうなっても俺が知ったことではないのだ。飯野がなんとかしてくれるはずだ。そう自分に言い聞かせることしかできなかった。
翌朝早くに会社用のスマホを見たら、会社の電話番号から何十件もの着信があったのだ。俺はスマホを2台使い分けている。1つは家族との連絡用で、もう1つは会社用のものだ。妻が家庭内で仕事の連絡をすることを良しと思わないので、帰宅後は会社用のスマホをサイレントモードにするか電源を切っている。
着信履歴を確認すると、昨夜からずっと連絡を入れているようだった。未明の時間に諦めたらしく、そこで着信は一旦終わっていた。一瞬、着信拒否にでもしてやろうかと思ったが、大人げないのでそれだけはやめておく。
そう思った時に、サイレントモードの中、画面が明るく光り着信があったことを知らせてきたので、思わず電話を取った。
「もしもし」
「手代木です。水希さん、朝早くにすみません」
俺は軽くため息をついてしまった。手代木部長から、すぐにでも出社して欲しいという連絡だった。
いつもより1時間早く家を出る。早く家を出たところで、駅からバスの接続がなかったので、仕方なくタクシーを使って会社へ急ぐ。バスと電車の定期圏以外の交通費は会社から出ないと分かっていたが、一応領収書はもらっておくことにした。
職場に着くと、手代木部長と飯野がそこにいた。手代木部長は顔を青くしていたし、飯野は昨夜から職場にいたらしく、昨日と同じシャツのままだった。
「一体何があったんですか?」
「実は、池田産業さんが突然に取引を中止したいと言ってきて」
「池田産業さんが?だって昨日まで慰安旅行のご発注を頂いていたじゃないですか」
まあ、大体察しがついていた。
「飯野課長、何があったんですか?」
飯野はずっと黙ったままだ。
「先方のご希望に寄り添えないプランを提案したんですよね」
飯野は肩をビクっとさせる。
「池田産業の社長は足に障害を持っていらっしゃるんだ。多様性を受け入れている会社でな。どんな方でも喜んでもらえるプランを提案して、ここまでの信頼を築き上げてきたんですよ」
飯野は顔を真っ赤にした。
「昨日のプレゼンでは、法人営業部の社員たちは皆、社長の障害のことはもちろん、何らかの事情で配慮が必要な社員がいることも承知の上で検討したプランを提示していました。それなのに、あなたは全て否定しましたよね」
手代木部長は「気づかなかった」というような表情を見せる。
「それに、魔法の国とナイトクルーズのプランを本当に先方に提案なさったのですか?池田産業さんがどんな会社かご存知の上でプランニングなさったんですか?」
飯野は首を横に振った。
俺は深く長いため息をついた。
「池田産業さんの親会社は海外の映画配給会社です。魔法の国は、映画配給会社が手掛けるテーマパークと敵対する場所です。それに、横浜でのナイトクルーズの運営会社って、どんな会社かご存知ですか?」
「確か池田産業さんのグループ企業にはタイガービールがあったわ。ナイトクルーズの運営は確か日の元ビール」
「そういうことです、手代木部長。池田産業さんはタイガービール一択なんですよ。それに、我々の強みとして、社長のようにハンディキャップを持つ社員さんに寄り添う添乗員をつける他、ツアーナースの手配も行っているんですよ」
「これはどうして?」
「ハンディを持つ人だって、自分のペースで遊びたいでしょ。それに、旅先でも社内と同様に社員さんの手を煩わせてしまうのは本意ではないと言うんだ」
ツアーナースは、旅行に同行する看護師だ。医療ケアを必要とする人が医師の指示書を携帯すれば、看護師が旅先でも医療ケアを施すことができる。バイタルチェックなどもしてくれるので、持病がある社員にも喜ばれているのだ。
その時、ちょうど出勤した社員が俺に耳打ちをして教えてくれた。
「飯野課長は昨日の電話で、『ツアーナースなんて、救急車を呼べばすぐですから、そんなの不要ですよ』と高笑いしていましたよ。それに、『魔法の国ツアーで目いっぱい楽しもう』って言っていましたね」
俺はギロリと飯野課長を睨んだ。飯野課長を見据えながら、俺は怒りに満ちた声で告げる。
「飯野課長。池田産業さんは葬儀を営んでいるって分かった上で、全てのご提案をなさったんですよね」
もちろん、葬儀の慰安旅行で楽しんではいけないという決まりはない。ただ、御通夜や葬儀をしている場所にいる人に笑いながら話すような、はしゃいだ内容ではなかったという意味だ。昨日のその時間は、多分御通夜などの見送りの儀式をしているご遺族がいたのではなかろうか。
仕事上、自分たちが健康に気を使わないといけないのに、救急車があるからツアーナースはいらないと笑いながら言うべきではなかった。魔法の国は、池田産業が運営する葬儀会館の近くにある。慰安旅行だとしても、近隣の人に浮かれた姿を見られたくないだろう。
「全てが裏目に出ちゃったようね」
手代木部長はジャケットを羽織り、外出の準備を始める。
「池田産業様に謝罪に行ってきます」
飯野は自分が同行するつもりでいるようだ。
「飯野課長はここで待機してください。水希さん、昨日の打ち合わせで出したプランニング案を全てまとめて、ご提案しましょう」
「はい」
俺は、昨日社員たちから出されたプランをPDFファイルに落とし込み、俺が育てた社員を一人連れて行くことにした。
「ちくしょ」
飯野が悔しそうに叫び声をあげたが、無意味としか言いようがない。全ては自分が撒いた種だよな。
俺は叫び声を背中に浴びながら、手代木部長と後輩社員と一緒に池田産業へ向かった。
池田産業の担当者はとても立腹していた。手代木部長は平身低頭で謝罪し、新しい案を見て決めて欲しいと丁寧に持ちかけた。俺は後輩社員のプランニングを提示し、受け入れてもらうことに成功した。社長を始め、配慮を必要とする人に対する添乗員3名の確保と、ツアーナース1名の手配も約束した。
手代木部長と俺たちは「申し訳ございません」「ありがとうございました」を何度口にしたか分からないが、関係性の修復ができたようだった。
会社に帰着した手代木部長は、飯野課長を自宅謹慎にした。これまでカスタマーサービスを中心に行ってきた手代木部長も、法人営業の難しさを初めて実感したと言っていた。
「この件に関しては、飯野課長だけが悪いとは言えない。私も処分されるべきだわ。でも、飯野課長には水希さんに対するパワハラを認めます。だから自宅謹慎にしました」
「シニアスタッフって、もう随分昔の呼び方よ。当時は契約社員という位置付けだったけどね。うちの会社は60歳を超えて再雇用しても、正社員としての処遇をしているのよ」
俺はシニアスタッフでも何でもなく、ただの正社員だった。
飯野は自ら退職届を出し、それが受理された。「自ら退職届を」とは言ったが、厳密に言えば諭旨解雇だった。諭旨解雇とは、会社側が自ら退職するように促すが、それに背いたら解雇するという懲戒処分だ。自己都合の退職ならば、わずかながら退職金も得られる。解雇されれば働き口が少なくなるため、飯野は早々に自己都合での退職をせざるを得なかったのだ。
ただし、転職をするにも同業である旅行業への転職は、会社の規則上NGとしていた。自己都合での退職の場合は異業種転職が必須。年功序列方式で課長になれた飯野だが、退職理由が必要な「パワハラ」と「取引先を怒らせたこと」とは、表だって言えるはずがない。
「自らのポテンシャルを引き出してくれる職場に就きたく、旅行業界を離れることにしました」
転職エージェントのアドバイザーなら絶対にしないような、もっともらしいけれど全く伝わらない転職理由を並べては失敗しているそうだ。転職どころか、いわゆる失業手当を受給しながら新しい仕事探しをしているようだが、「俺は中堅旅行会社の法人営業部の課長まで務め上げた人間だぞ。なんでこんな職を紹介されなきゃならないんだ」とハローワークの担当者に盾突いたという噂を聞いた。まあ、それが本当か嘘かは定かではないが、飯野なら言いかねないと思っている。
まあ、飯野の話はさておき、池田産業の慰安旅行が無事に終了し、同社の紹介で新規の顧客も獲得することができた。しかも3つも新規獲得できたのだから、池田産業へ足を向けて寝られない状況だ。
手代木部長は法人営業について勉強をしながら、様々な旅行の楽しみ方を提案できる部署を作り上げてくれている。メンバーたちのモチベーションもアップし、和やかな職場作りにつながった。
俺の任期はあと3年とちょっと。できれば70歳まで任期継続できたらいいなと心から思った。最後までご視聴ありがとうございます。もしよければチャンネル登録よろしくお願いいたします。また次の動画でお会いしましょう。



