「おじいちゃん、今日は50名分も仕込んだのに、たった100円玉ひとつで全部パーになっちゃったよ。」そんな朝の会話から始まった、たった一晩の出来事。東京の下町にある小さな寿司屋で、高級スーツを着た銀行員が、私たちを「貧乏臭い」と笑い、祖父の店の150万円の予約を一方的にキャンセルしたのです。悔しくて、悔しくて、涙をこらえることしかできなかった。でも、祖父はただ静かに一礼しただけ。そして翌朝、祖…

「おじいちゃん、今日は50名分も仕込んだのに、たった100円玉ひとつで全部パーになっちゃったよ。」そんな朝の会話から始まった、たった一晩の出来事。東京の下町にある小さな寿司屋で、高級スーツを着た銀行員が、私たちを「貧乏臭い」と笑い、祖父の店の150万円の予約を一方的にキャンセルしたのです。悔しくて、悔しくて、涙をこらえることしかできなかった。でも、祖父はただ静かに一礼しただけ。そして翌朝、祖...

「どうして50名分も仕込んだのに、たった100円で全部台無しになっちゃうの?」

高級スーツを着た銀行員が、東京下町の裏路地にある小さな寿司屋「寿司栗原」に足を踏み入れた。店内には、すり切れたエプロン姿の19歳の双子、楓と小春が立っていた。

誰もが姉妹が泣き崩れるのを待っていた。しかし、彼女たちも、祖父で大将の栗原も、怒鳴ることも泣き叫ぶこともなかった。老職人はただ静かに一礼をしただけだった。

「おい、奢ってやるよ。100円のかっぱ巻きで十分だろ。このボロ店にはな。」

50名分、150万円の予約が、100円玉一枚で笑い飛ばされた。普通なら店ごと潰れてもおかしくない。それなのに大将の背筋は、わずかにも揺れなかった。

「予約の確認は受けました。そんな話より、お前たちの格好をどうにかしろよ。」

笑う銀行員だけが知らない。この路地裏のボロ寿司屋の裏側に、何が隠されているかを。

これは、理不尽な仕打ちで傷つけられた姉妹と、その祖父に最後に訪れる、ある因果応報の物語である。

時はその日の朝に遡る。

寿司栗原は、東京下町の裏路地にある小さな寿司屋だ。外壁のモルタルはひび割れ、暖簾の色もすっかり褪せていた。それでも毎日、その引き戸をくぐる常連客は絶えなかった。

毎朝6時、楓と小春は祖父より先に目を覚ます。

「姉ちゃん、今日はいい天気だよ。早く仕込みしよう。」

2人でエプロン姿になり、勝手口から仕込みに入るのが日課だった。姉の楓は真剣な目で仕事をこなし、妹の小春は笑顔で常連客の名前を覚えていた。

楓と小春が両親を亡くしたのは7歳の時だった。父は運転中の事故で即死し、母は数日後に後を追うようにこの世を去った。その知らせを受けた祖父の栗原は、翌日には2人を引き取った。

「ねえ、姉ちゃん、お父さんってどんな人だった?」

ただ毎朝、姉妹の前に朝食を並べ、こう言うだけだった。

「食え。」

不器用な愛情だった。しかし2人にはそれで十分だった。

「優しい人だったよ。おじいちゃんに似てた。」

「ねえ、姉ちゃん、私たち、おじいちゃんに似てるかな?」

小学生の頃、2人はおじいちゃんの店を継ぐと決めていた。

「小春、修行が終わったら、私たちで壽司屋やろうね。」
「うん。絶対やる。2人で。」

高校を卒業した4月、2人は同時に店での修行を始めた。77歳の祖父の手は節くれだったが、包丁の切れ味は衰えていなかった。

「魚の目を見ろ。鮮度はそこに出る。」
「はい、おじいちゃん。」

昼過ぎの休憩時間、小春は姉に話しかけた。

「ねえ、おじいちゃんって昔、どんな仕事してたの? あまり話してくれないけど、すごい人なんだとは思う。」

実際、祖父の過去を知る者は、この界隈にはほとんどいなかった。しかし、栗原は国内外に500店舗以上を展開する、栗原フードグループの創業者であり、グループ総資産3兆円を超える飲食業界の重鎮だった。引退後、彼は全ての肩書きを捨てて、この小さな店に戻ってきたのだ。

夕食後、栗原が珍しく姉妹を隣に座らせて、お茶を出した。

「寿司は嘘をつかない。握る人間が正直なら、寿司も正直だ。」
「おじいちゃん、それってどういう意味?」
「自分で分かるようになれ。それが修行だ。」

この言葉の意味が分かるようになりたい。それが2人の心からの願いだった。

一方、その日の午前中。第一糸和銀行の常務店では、法人営業課長の笑神が、部下と今日の予定を確認していた。

「今夜の件寿司、50名分、150万円、確認済みだな。」
「はい、確認済みです、課長。」
「まあ、ボロい店だけどな。先輩の進めだから仕方ない。」

34歳の笑神は、名門大学を卒業したエリートだった。彼にとって、外見や学歴が劣る相手は、最初から眼中になかった。その傲慢さが、今夜、取り返しのつかない結果をもたらすとは、この時は誰も知らなかった。

物語は、同じ日の夕方5時に戻る。

楓は店の引き戸の前に立っていた。

「今日もよろしくね、姉ちゃん。」
「うん、よろしく。」

2人は顔を見合わせて、小さく笑った。今日は50名のお客さんも来る。頑張ろう。

「こんな路地に店があるのか。田舎臭いな。」

引き戸が開いた瞬間、笑神の目に飛び込んできたのは、「いらっしゃいませ」と挨拶をする、古びたエプロンを身につけた2人の若い娘だった。

「はあ? 本当にこんな店でいいのかよ。」

部下が「課長、お客様の前で」と言いかけたが、笑神はそれを無視してカウンター席にどかっと座った。

「お前ら、ここの娘か。バイトじゃないよな。」
「はい。こちらは祖父の店です。修行中です。」
「修行だと? こんなボロ店で修行して、何になれるんだ。」

笑神の隣にいた部下の行員2人も、同調するように笑った。厨房で仕込みをしていた栗原は、その声を聞いていた。しかし、彼は静かに包丁を動かし続けていた。

「奢ってやるよ。100円のかっぱ巻きで十分じゃないか。ちょうどいいだろう、このボロ屋には。」

小春は拳を握りしめた。口から言葉が出そうになった。しかし、楓が小春の腕をそっと掴んだ。

「お飲み物はいかがですか?」
「おい、笑えよ。楽しくやろうぜ。俺が奢ってやってるんだから。」

周囲の常連客たちが、険しい顔でこちらを見ていた。

「少しやりすぎじゃないか?」

笑神は店内をぐるりと見回してから、また口を開いた。

「この店、何年営業してるんだ? 随分くたびれてるな。」

栗原が厨房から出てきて、静かに笑神の前に立った。

「ご注文をどうぞ。」

笑神はその顔を見て、さらに大きな声を張り上げた。

「大将、貧乏臭い娘がいる店に、大口取引先を連れてくるなんて無理な話だよ。50名、150万の予約はキャンセルするわ。貧乏に免じて、今回はなかったことにしてやる。」

カウンター席に座っていた常連客たちは、一斉に手を止めた。誰も声を出せなかった。栗原は眉ひとつ動かさなかった。楓と小春は、祖父の背中を見ていた。拳を握りしめ、唇を噛んでいた。それでも涙をこらえていた。

栗原がゆっくり頭を下げた。

「承知しました。」

笑神は高笑いしながら立ち上がり、財布を取り出した。

「かっぱ巻き食ったから、払ってやるよ。これで十分だろ。」

そう言って、100円玉を1枚、カウンターに投げた。乾いた音が、静まり返った店内に響いた。

「ひどいな、あいつら。大将、大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。」

楓は店の隅に下がり、壁に手をついた。唇を強く噛んでいた。目が赤くなっていた。

「姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫だから。」

楓の声が途中で止まった。小春が姉の手を握った。どちらの手も、小さく震えていた。

閉店後の片付けをしながら、楓は何度も鼻をすすった。

「姉ちゃん、悔しいよね。」
「悔しいよ、私も。」

楓は洗い物をしながら涙をこぼし、肩が小さく揺れていた。小春がそっと後ろから抱きついた。

「うん。でも、おじいちゃんに見せたくない。」

2人はしばらく、そのまま声を押し殺して泣いた。

栗原は、姉妹が寝静まった後、1人で厨房に入った。

「すまなかったな。」

その言葉は、誰にも届かない場所で静かにこぼれた。

その夜、銀行の窓口員である北条は、笑神の姿を離れた席から見ていた。

「止めるべきだった。私が。」

その夜遅く、楓と小春は布団の中で天井を見ていた。

「姉ちゃん、起きてる?」
「うん、眠れない。」

「貧乏臭い娘が出入りする店に、っていう声が頭から離れなかった。」
「私も。ねえ、私たち、何か悪いことした?」
「してない。何もしてない。」

楓は強くそう言った。自分に言い聞かせるように。小春はそれを聞いて、少し泣いた。楓も静かに涙をこぼした。隣の部屋では、栗原が目を開けたまま、2人の声を聞いていた。

誰も知らなかった。翌朝、全てが動き始めることを。

翌朝、楓と小春はいつも通り6時に起きた。しかし、2人ともほとんど眠れていなかった。目が腫れたままエプロンを締めた。栗原は厨房に早くから入り、黙々と仕込みをしていた。

「おじいちゃん、先に仕込み始めてたんだね。」

栗原は一度だけ楓に目をやった。その表情には何も書いてなかった。しかし、楓は感じていた。祖父はすべて気づいていると。

開店から1時間後、常連客の老人が入ってきた。

「大将、昨夜は大変だったな。うちの奥さんから聞いたよ。」
「ご心配おかけしました。」
「いや、大将はすごいよ。ああいう奴に動じないんだから。」

栗原は笑顔を見せた。楓と小春は、その横顔を見ていた。2人には、その笑顔が少し無理をしているように見えた。

正午すぎ、1台の車が路地裏に止まった。降りてきたのは、65歳ほどの男性だった。グレーのスーツを着た、品のある男性だった。

「おはよう。少しだけ時間をもらえるかな。」

高島郎、栗原フードグループの代表取締役社長だ。高島は2人の顔を見て、すぐに気づいた。目が腫れていた。昨夜泣いた後のようだった。

「何かあったか、教えてくれ。」
「いえ、何もないですよ。大丈夫です。」

楓は笑顔を作ったが、その目は笑っていなかった。高島はそれ以上聞かなかった。お茶を一口飲んで、静かに待っていた。

しばらくして、小春が口を開いた。

「昨夜、銀行の人が来て。」

小春は昨夜の出来事を話した。奢ってやるよという声。100円玉を投げられた音。「貧乏臭い娘が出入りする店に」という言葉。小春の声は途中で詰まった。

「おじいちゃんは、何も言わなかったけど。悔しくて、悔しくて、どうしようもなかった。」

高島は膝の上で拳を握った。目の前にいる19歳の娘たちが、必死に涙をこらえていた。小春の目から涙がこぼれた。楓がその肩を抱いた。

「勝造さんはいるか?」

その頃、栗原は厨房の奥で包丁を研いでいた。高島が入ってくるのを見て、無言のまま包丁を置いた。

「聞きました。昨夜のことを。」

栗原は何も言わなかった。ただ、厨房の壁にかけてある2人の写真に目をやった。7歳の楓と小春が、栗原の隣に笑って立っている写真だ。

「笑神典、第一糸和銀行常務店法人営業課長、34歳。昨夜、50名分150万円の予約を一方的にキャンセルした男ですよね。」

栗原は黙って聞いていた。高島が全てを話し終えた後、しばらく沈黙が続いた。楓と小春が、厨房の外から様子を見ていた。

「おじいちゃん、もう気にしないで。また来てもらえれば。」

栗原は振り返った。その目に、楓は見たことのない色を見た。穏やかな目だった。しかし、その奥に、静かな炎があった。

「お前たちは、何も気にしなくていい。仕込みを続けなさい。」

楓と小春は顔を見合わせた。祖父の声はいつもと変わらなかった。しかし、何かが確かに違っていた。

「高島さん、すぐに動いてください。」
「はい。どのようにしますか?」

栗原は一呼吸おいた。それから、ゆっくりと言った。

「全グループの全座預金、3兆円を、全額解約でお願いします。」

高島は息を飲んだ。3兆円。それは、栗原フードグループが第一糸和銀行に預けている、全ての預金だった。

「承知しました。すぐに動きます。」

栗原はそれだけ言って、また包丁を手に取った。何事もなかったかのように、仕込みを再開した。高島は小さく頭を下げて、厨房を出た。

「おじいちゃん、何をしようとしてるの?」

楓と小春は、栗原の背中を見つめていた。

「今すぐに、第一糸和銀行の全座を解約してください。」

電話の向こうから、驚きの声が上がった。

「勝造さんのご指示です。詳細は後ほど。」

それだけで、全員が動いた。創業者の命令という言葉は、グループ全体に重く響いた。50年以上、このグループを育てた人間の言葉だった。

午後3時、栗原食品の経理部長が解約書類を銀行窓口に提出した。午後4時、リテール。午後5時には、栗原フードサービスが続いた。

「それは、何かの間違いですか?」

窓口員たちは、最初は処理の間違いだと思っていた。しかし、数が増えるにつれ、誰もが顔色を変えていった。その日遅く、第一糸和銀行の基幹システムに異変が走り始めた。グループ系列各社の講座から、次々と解約通知が入ってきた。

「本部に連絡しろ。急いで。」

寿司栗原では、その夜も閉店後の仕込みが静かに続いていた。一方、銀行の担当者が再び高島に電話を入れた。

「勘違いではありません。全て正確な申請です。」

電話は静かに切られた。

その夜、楓と小春は布団に入ったが、しばらく眠れなかった。暗い天井を見上げながら、2人は手を繋いでいた。

「ねえ、姉ちゃん。おじいちゃんって、本当にすごい人なのかな?」
「うん。すごい人だよ。私たちのおじいちゃんだから。」

小春はそれを聞いて、小さく笑った。

「明日も、おじいちゃんと一緒に仕込みたい。」
「うん。」

それだけで十分だった。2人は手を繋いだまま、静かに眠りについた。

翌朝、第一糸和銀行常務店に出勤した行員たちは、凍りついた。窓口には、次々と解約書類が届き続けていた。夜間に届いた解約通知が、デスクを埋め尽くしていた。

「これは、全部、解約通知か。」

「3兆2000億円です。」

栗原食品、栗原リテール、栗原フードサービス。グループ系列企業20社以上から、全座解約の申請書が届いていた。この支店の年間預金残高をはるかに超える額だった。

支店長はすぐに本部に電話を入れた。本部も、最初は処理ミスだと思った。しかし、確認を重ねるうち、全員が同じ顔になった。これは本物だ。取り返しのつかないことが起きている。

担当者が栗原グループに電話を入れた。

「理由は、先方の方がよくご存知ではないですか?」

それだけ言って、高島は電話を切った。受話器を持ったまま、担当者が立ち尽くしていた。

その頃、営業課長の笑神が上司に呼ばれていた。

「笑神。お前、昨夜の夕方、何をした?」
「昨日ですか? 接待の下見に行きましたが。」
「寿司栗原だ。あの店の大将が誰か、お前は知っているか?」

笑神の表情が少し変わった。

「栗原勝造だ。栗原フードグループの創業者、名誉会長だ。」

笑神の顔から、血の気が引いた。

「昨夜から今朝にかけて、グループ全体から全座の解約通知が届いた。合計3兆2000億円。全て引き上げると言っている。」
「う、嘘だろ。そ、そんなボロい寿司屋の老人が。」
「黙れ。お前が侮辱した相手だ。」

笑神は、立っていられなくなり、壁に手をついた。

「お前のせいで、この支店は終わりだ。お前は懲戒解雇だ。」
「俺は先輩の進めで行っただけです。知らなかったんです。」
「言い訳は聞かない。荷物をまとめて、すぐに出ていけ。」

笑神は声を出せなかった。支店内の全員が、笑神を冷たい目で見つめていた。昨夜、笑い声をあげていた部下たちも、顔を青くして立ち尽くしていた。

笑神は、ふらふらとデスクに戻り、荷物をダンボールに入れた。手が震えていた。頭が真っ白だった。1年かけて積み上げてきた全てが、無意味になった。

支店長は静かに立ち上がり、笑神の名刺を裏向けにした。法人営業課長の肩書きが、ひっそりと消えた。

北条は、その様子を離れた席から見ていた。彼女は拳をぎゅっと握った。

笑神が支店を出る時、誰も見送らなかった。ただ、冷たい視線だけが、その背中に向けられていた。

「なんで。なんで、あのボロ店の老人が。」

路上に出た笑神は、しばらく歩けなかった。壁に背をつけて、立ち尽くしていた。頭の中に、昨夜の高笑いが蘇った。「貧乏臭い娘が出入りする店に」という自分の声。足元がぐらついた。

「こんなはずじゃなかったんだ。」

財布から名刺を1枚取り出した。法人営業課長、笑神。それを眺めて、ゆっくりと2つに折った。

同日午後2時、第一糸和銀行の頭取室に報告が入った。

「車を回せ。寿司栗原に行く。」
「頭取が直接ですか?」
「それ以外に方法はない。」

頭取の浜野は、役員の同行も断り、1人でタクシーに乗った。車の中で、浜野は目を閉じていた。何を言えばいいのか。謝罪では済まない。それでも、行かなければならなかった。

「いらっしゃいませ。」

昼過ぎの寿司栗原は静かだった。

「私は第一糸和銀行の浜野と申します。勝造さんはいらっしゃいますか?」

楓は一瞬固まった。銀行の頭取が来た。すぐに厨房に向かった。

栗原が厨房から出てきた。エプロン姿のまま立った。浜野は玄関で膝をついた。

「この度は、弊社の行員が大変失礼な振る舞いをいたしました。心よりお詫び申し上げます。」

店内の常連客たちが、息を飲んで見ていた。銀行の頭取が、このボロ寿司屋の老職人に頭を下げている。誰もが声を出せなかった。

「笑神は、本日付けで懲戒解雇といたしました。また、常務店の処分についても、近日中に判断いたします。」

栗原はしばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。

「頭を上げてください。」

浜野はゆっくり顔をあげた。

「私は、この子たちの祖父です。寿司職人です。ただそれだけです。ただ、この子たちが傷ついた。それだけが、私には許せなかった。」

楓と小春の目に、涙が滲んだ。

「おっしゃる通りです。何の言い訳もございません。」

「この子たちに謝ってください。」

浜野は立ち上がり、楓と小春の方を向いた。そして、また頭を深く下げた。

「本当に申し訳ございませんでした。」

楓は口元を抑えた。小春が、わっと声をあげて泣いた。

「私たち、私たち、何も悪くないのに。」

小春の声が震えた。楓も、その場にしゃがみ込んだ。

「おじいちゃん。ありがとう。ありがとう。」

栗原は、2人の前に歩み寄り、その頭をそっと撫でた。

浜野は、もう一度頭を下げてから、店を出た。

その夜、第一糸和銀行常務店の経営陣が解任された。栗原フードグループからの莫大な預金の解約。その背景にある、エリート行員による侮辱行為。銀行業界内に、その話は瞬く間に広まった。

支店長も解任された。長年積み上げてきたキャリアが、一夜にして終わった。特に笑神に同調して笑っていた部下2人は、地方支店への移動を命じられた。

常務店は資金繰りが行き詰まり、1ヶ月後に他の支店と統合された。事実上の倒産だった。

「全グループの口座解約、完了しました。」
「ご苦労でした。ありがとうございます。」

高島は、栗原の目に光るものを見た。どんな時も自分を大きく見せない。ただ、大切なものを守るために静かに行動する。それが、栗原勝造という人間だった。

「勝造さんのような人を、私は他に知りません。」

高島はそう言って、また頭を下げた。栗原は照れたように笑い、「大したことですよ」とだけ言った。

転職活動を始めた笑神は、50社以上に履歴書を送った。しかし、全て断られた。栗原フードグループの3兆円を失った行員として、業界のブラックリストに記録されていた。

海古から3週間後、笑神は高級マンションを引き払い、家賃5万円の部屋に移った。財布の中には、数万円しか残っていなかった。

「もう、終わりだ。」

夜神は薄暗い部屋で天井を見ていた。頭の中に、カウンターに投げ置いた100円玉の音が蘇った。乾いた音が、ずっとずっと響いていた。

1ヶ月後、笑神はハローワークへ足を運んだ。しかし、名前を告げた瞬間、相談員の目が変わった。

「何かご存知ですか?」
「栗原グループの件は、業界に広まっています。」

言葉を濁された。同期の銀行員に連絡した。しかし、既読がつくだけで返信はなかった。

「誰も助けてくれないのか?」

100円玉1枚で、全てを失った。しかし、笑神が傷つけた最も大きなものは、お金ではなかった。

「あの子たちに、俺は何をしたんだ。」

それに気づいた時が、笑神の本当の意味での終わりだった。

半年が経っても、就職先は見つからなかった。コンビニの夜間バイトに応募したが、採用担当者が名前を確認した瞬間、電話が切れた。

「俺は、もうどこにも行けないのか。」

その独り言は、誰もいない部屋の壁に吸い込まれていった。

今は、物流倉庫で荷物を運ぶ日々だった。かつて接待に使っていた銀行の近くを、毎日バスで通り過ぎた。

「あの時の俺は、何を考えていたんだろう。」

バスの窓から、双子の姉妹のような若い2人が笑っているのが見えた。その笑顔が、あの日の姉妹と重なった。

「悪かった。本当に悪かった。」

しかし、謝る場所も、謝る相手も、もういない。

その日の夕方、寿司栗原では。

「姉ちゃん、外の夕焼けが綺麗だよ。」

浜野が帰った後、楓と小春は縁側に並んで座っていた。夕暮れの光が、2人の横顔を照らしていた。

「姉ちゃん、おじいちゃんって、本当にすごいね。」

楓は膝を抱えて、小さく笑った。泣きながら笑っていた。

「うん。ずっとそばにいてくれた。知らなかったけど。」

「私もっと強くなりたい。おじいちゃんみたいに。」

小春が、楓の肩に頭をもたれかけた。そのまま、2人はしばらく黙っていた。

路地裏の奥から、包丁を研ぐ音が聞こえてきた。栗原が、また明日の準備をしていた。その音は、いつもと変わらなかった。確かで、温かかった。

「慣れるよ。絶対なれる。2人で。」

栗原は、厨房で明日の仕込みの水加減を確かめていた。いつもと変わらない所作だった。

「おじいちゃん、明日もよろしくね。」
「ああ。仕込みを頼む。」

楓はそれを聞いて、静かに微笑んだ。もう、それが分かるようになっていた。これが修行だと、栗原は言っていた。その言葉の意味が、今夜初めて、少し分かった気がした。

「姉ちゃん、また明日も頑張ろうね。」

楓は小春の顔を見て、「うん」とだけ答えた。2人はエプロンを並べてかけ、店の明かりを消した。

路地裏に夜風が流れていた。遠くで電車の音がした。明日もこの店で、栗原と3人で仕込みをする。ただそれだけが、今は全てだった。

うまい寿司を出す。それだけだ。

それから半年が過ぎた。寿司栗原に、変化が起きていた。あの夜の出来事が口コミで広まっていたのだ。

「大将の寿司は本物だよ。ずっとそう言ってたんだ。」

裏の小さな店に、遠方からも客が来るようになった。それでも、栗原は何も変えなかった。値段も、店の構えも、姿勢も。

「おじいちゃん、また新しいお客さん来てくれたよ。」

楓は日々、腕を上げていた。栗原の言葉の意味が、少しずつ分かるようになってきていた。

「姉ちゃん、今日の握り、おじいちゃんそっくりだったよ。」
「本当に?」

楓の目が少し潤んだ。それは、最高の言葉だった。

ある夜、閉店後に栗原が姉妹に向かって言った。

「お前たちのおかげで、今日もいい仕事ができた。」

栗原がそんなことを言うのは初めてだった。楓と小春は顔を見合わせて、泣いた。声を上げて泣いた。

「おじいちゃん、私たちも、私たちもここにいられてよかった。」

栗原が、2人の頭をそっと撫でた。

窓口の北条は、その後、銀行内で声を上げた。

「誠実に生きたものには、誠実なものが返ってくる。」

彼女は後に、若手行員への倫理研修の担当になった。研修の中で、北条は必ずあの夜のことを話したという。

「あの寿司屋に、私も一度行きたいと思っています。」

笑神克典のその後を、寿司栗原の誰も知らなかった。

寿司栗原の路地裏に、今日ものれんが揺れる。

「おじいちゃん、今日も『美味しかった』って言ってもらえたよ。」

楓と小春がのれんをかける。栗原が包丁を研ぐ音が聞こえる。

「ありがとう。」

その音は、今日も変わらず続いていた。

寿司は嘘をつかない。握る人間が正直なら、寿司も正直だ。それが、栗原の生き様だった。

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