「結婚は許します。でもお父さんは結婚式に参加しないでください。車椅子が家族になるなんて、一家の恥だわ。」…

「結婚は許します。でもお父さんは結婚式に参加しないでください。車椅子が家族になるなんて、一家の恥だわ。」...

面談室の扉が乱暴に開け放たれ、看護師の悲鳴にも似た声が張り詰めた空気を切り裂いた。
「大変です。あの子の容態が急に新天使の恐れがあります。急いで来てください。」

俺の隣で彼女が息を飲み、その美しい顔から血の気が引いていくのが分かった。あの子、彼女が我が子同然に慈しみ育てている生まれつき心臓に思いを抱えたおいっこのことだ。俺はただの付き添い。実家のクリーニング屋を手伝うしがない男。この神聖な場所で俺にできることなど何もないはずだった。

病室の前に駆けつけるとそこはすでに戦場だった。けたたましいアラーム音の中、医師たちの声が飛びかう。だがその声もやがて「打つ手がない。これ以上の蘇生は困難だ」という絶望的なささやきに変わっていった。彼女の「いや」という魂の叫びが俺の心を突き刺した。

違う。諦めるな。俺の頭の中でかつて叩き込まれた知識と経験が猛烈なスピードで活路を導き出していく。できる?いや、俺にしかできないかもしれない。俺は泣き崩れる彼女の肩にそっと手を置き、絶望に満ちた医師たちの輪の中に静かに、しかし力強く割り込んだ。

「俺ならできるかもしれない。やらせてください。」

その場にいた誰もが奇怪な顔で俺を見た。クリーニング屋のジャケットを羽織った素人の男。だが、俺の瞳には再び光が宿り始めていた。俺の本当の物語はまだ終わってなんかいない。

俺の名前は水上健太。30歳独身。かつて追いかけた夢の残骸は心の奥底にある錆びたダンボール箱にしまい込んだままだ。今の俺の居場所は実家である「水上クリーニング」の裏手にある作業場。窓から差し込む西日が空気中を舞う無数の埃をキラキラと照らし出す。

ちゅっと鋭い音を立てて年季の入ったアイロンが純白の蒸気を吐き出す。預かったばかりのワイシャツに走る頑固なシワに熱い鉄の腹を滑らせると、まるで固く閉ざした心が解きほぐされるように生地が素直に滑らかに伸びていく。この瞬間だけは無心になれた。

「健太、お疲れ様。これあんたに届いてたわよ。」

作業場の古い引き戸がガラガラと音を立てて開いた。母さんが日に焼けた手で一通の封筒をヒラヒラとさせている。差し出し人の名前には覚えがなかったが、その下に小さく、けれどはっきりと記された「県立港北高等学校第38期生同窓会実行委員会」という文字列に俺は思わず動きを止めた。

「同窓会よ。ホテルでやるんですって。立派になったわね。みんな行ってきたらどう?懐かしい顔に会えるわよ。」

懐かしい顔。その言葉の響きは心地よさよりもむしろチリチリとした痛みを伴って胸に刺さった。想像の中に浮かぶのは、それぞれの時間をきちんと歩み、相応の肩書きや家族を手に入れている姿。そこにクリーニング屋の染み抜き係が一体どんな顔をして立っていればいいというのか。何かを成し遂げたわけでもない。誇れるものがあるわけでもない。ただ時間だけが過ぎて気づけばここにいた。

「気が進まないなら無理することないけどね。でも…。楓ちゃんも来るみたいよ。」

ぽつりと紡がれた名前に俺の心臓が忘れていたリズムを刻むようにドクンと大きく跳ねた。楓。高校時代、俺が言葉にできなかった思いを全て注ぎ込んでいた相手だ。いつもクラスの中心で太陽みたいに笑っていた。笑うと右の頬にだけ小さくえくぼが浮かぶ。放課後の教室で夕日を浴びて笑う彼女のその頬を、俺は今でも鮮明に思い出すことができた。もしかしたら会えるかもしれない。その淡い期待が分厚い無気力の殻をほんの少しだけ突き破ったのだ。

会場であるホテルの最上階。きらびやかなシャンデリアが照らす宴会場に足を踏み入れると、懐かしい声と新しい声が混じり合った心地よい喧騒が俺を迎えた。俺は誰にも声をかけられないようで、気配を消すみたいに壁際へ移動し、手にしたウーロン茶のグラスを持て遊んだ。あちこちで小さな輪ができている。記憶の中にある17歳の面影を残しながらも、すっかり大人の男と女になった旧友たち。彼らの会話が断片的に耳に飛び込んでくる。

「で、課長になったんだよ。」
「去年、うちの子もうすぐ3歳になるの。見てこの写真。」

きらびやかな成功談と幸福な報告がまるでBGMのように流れている。俺は素通りする映画に迷い込んだエキストラのような気分だった。グラスの中の氷がランと虚しい音を立てる。帰ろうか。そう思ったその時だった。

「だめよ、翼。そっちは言っちゃだめよ。みんなのお邪魔になるでしょ。」

その声はどんな喧騒の中にいても俺の耳にはっきりと届いた。ゆっくりと振り向く。人垣の向こう側、少し屈んで小さな子供に目線を合わせている。見慣れた横顔。楓だった。白いワンピースがスポットライトを浴びたように輝いて見えた。昔と少しも変わらない優しい眉、優しいまなざし。俺の心臓が肋骨を内側から叩くみたいに激しく脈打ち始めた。だが次の瞬間、俺の視線は彼女の隣に立つ小さな男の子に釘付けになった。5歳くらいだろうか。楓のスカートの裾を小さな手で不安そうに、けれど力強く握りしめている。

そこへ人の輪をかき分けるようにして一人の男が自信に満ちた足取りで近づいてきた。高木俊助。学生時代からいつもクラスの中心にいた男だ。地元の名士である高木総合病院の院長の息子。体にぴったりとフィットした高級なスーツは彼の成功を如実に物語っていた。

「よう、翼君。ちゃんとママの言うこと聞いてないとサンタさん来ないぞ。」

高木はまるでそれが自分の指定席であるかのように自然に楓の隣に立つ。そして翼と呼ばれたその子の頭を慣れ慣れしく撫でた。俺の存在に気づくと、彼は値踏みするような視線を一瞬だけ向け、それからわざとらしく口の端を釣り上げた。

「おお、あれ、水上じゃないか。久しぶりだな。息してるか?お前、卒業してから何やってんだっけな?ああ、そうだ。今は実家のクリーニング屋か。」

見下すようなその口ぶりに腹の底で何かがぐらりと揺れる。だが俺は何も言い返せない。事実だったからだ。楓は少し困ったように眉を寄せながら高木と俺を交互に見た。

「高木君、やめてよ。そういう言い方。健太君、久しぶり。元気だった?」

健太君と俺の名前を呼んでくれただけで胸が詰まって喉が渇く。しかし高木はそんな感傷的な空気を許さない。俺たちの間にずいっと体を割り込ませると、見せつけるように楓の肩に手を回した。

「なんだよ、水臭いな。なあ、健太、よく見ろよ。翼君、俺にだけはすっかり懐いちゃってさ。楓の大事な息子さんだ。可愛すぎて俺が父親になってやりたいくらいだよ。そうだろ。今度3人で動物園に行く約束もしてるんだ。」

息子、父親。その言葉が鉄の楔のように俺の胸に打ち込まれた。頭が真っ白になる。血の気が引いて周りの喧騒が急に遠くなった。そうか。そういうことだったのか。楓は結婚して母親になっていたんだ。幸せそうに寄り添う三人の姿。俺の入り込む隙間なんて1ミリだってありはしない。

「そうか。良かったな。」

俺は喉の奥から絞り出すようにそれだけを言った。祝福の言葉のはずなのに、それはひどく歪んで呪いの言葉のように聞こえたかもしれない。もうここにはいられない。俺は誰に挨拶するでもなく、空になったグラスをテーブルに置き、逃げるようにその場を後にした。ホテルの自動ドアが開くと、真冬の風がほてった頬を容赦なく張り飛ばしていった。

それから数日が過ぎた昼下がりのことだった。店の軽トラックを走らせ、いつものように商店街へ配達に出かける。アーケードの入り口にある古びたベンチに見慣れた二人の姿を見つけた時、俺は咄嗟にハンドルの影に顔を隠した。楓と翼君だ。関わりたくない。あの完璧な家族の絵をもう一度見せつけられたくはない。だがその様子は同窓会で見たものとは少し違っていた。翼君が膝に顔をうずめて肩を震わせている。楓はその小さな背中をさすりながら途方に暮れたような顔で空を見上げていた。

俺はアクセルを踏むことができなかった。その小さな背中がまるで助けを求めているように見えてしまったからだ。翼君の足元に何かが転がっている。よく見るとそれはプラスチックでできたヒーローの人形だった。手と足が無残にも本体から引きちぎられている。その残骸を前にして翼君は声を上げて泣いていたのだ。

「どうしたんだ?」

気づいた時には俺は車を止め、二人の前に立っていた。楓ははっと顔を上げて俺を見ると、驚きと気まずさが入り混じった表情で慌てて立ち上がった。

「ああ、健太君、こんにちは。」

「これ、壊れたのか。」

俺は翼君の前にゆっくりとしゃがみ込む。散らばったパーツを拾い集めると、腕と胴体をつなぐボールジョイントの受け側が見事に割れてしまっていた。

「うん。僕が階段から落としちゃったから。」

しゃくり上げながら翼君が小さな声で答える。

「そっか。大事なやつだったんだな。」

俺は立ち上がると、戸惑う楓に向かって言った。

「よかったらうちの店に来ないか。作業場にいい道具がある。もしかしたら直せるかもしれない。」

「え、でもそんな悪いわ。クリーニング屋さんなのに。」

「いいから。子供が泣いてるのを見て見ぬふりするのは目覚めが悪い。」

ぶっきら棒な言い方だと思った。だがそうでも言わないとまた逃げ出してしまいそうだった。

店の裏にある俺の城。普段は客の目に触れることのない作業場の隅にある机。そこにヒーロー人形の痛々しいパーツを並べる。翼君は俺の隣で椅子にちょこんと座り、真剣な目つきで俺の手元を見つめていた。楓は少し離れた壁に寄りかかり、不安そうに成り行きを見守っている。俺は引き出しから愛用の工具セットを取り出した。細かい作業は昔から嫌いじゃなかった。むしろ没頭できた。

ピンセットで割れた破片を慎重につまみ上げる。かつて小さくもろいものを扱ったような懐かしい感覚が一瞬だけ胸をよぎったが、すぐにそれを振り払った。割れた断面をヤスリで滑らかにする。そしてバイスという極細のドリルで双方に直径1ミリにも満たない穴を開けた。息を詰め、先がぶれてはならない。そこに補強剤としてステンレスの細い芯を通し、二種類の樹脂を混ぜ合わせるタイプの強力な接着剤をつまようじの先で慎重に塗布していく。

周りの音が完全に消えていた。聞こえるのは自分の呼吸の音と心臓の鼓動だけ。この感覚は久しぶりだった。

「よし、これでくっついた。」

15分ほど経っただろうか。俺が顔を上げると、翼君が瞳をこれ以上ないくらい大きく見開いて俺の手元を凝視していた。人形の腕はまるで怪我などしなかったかのようにぴたりと胴体にくっついている。俺はゆっくりと腕を前後に動かして見せた。

「ほら、この通り。接着剤が完全に固まるまで1日は無茶しちゃだめだぞ。でも前よりずっと丈夫になったはずだ。」

「ああ。すごい。お兄ちゃん魔法使いだ。」

翼君は満面の笑顔で歓声を上げると、俺から人形をそっと受け取り、宝物のように胸に抱きしめた。その混じりのない笑顔に、俺の心の硬い地面から小さな芽が顔を出すような温かい感覚が広がった。

「ありがとう、健太君。さあ、翼さん、お礼を言って帰るわよ。長居しちゃってごめんなさい。」

楓が申し訳なさそうに翼の手を引こうとする。だが翼は俺の作業場をキラキラした目で見回すとその場から動こうとしなかった。壁一面に整然と並べられた工具、棚に置かれた様々な薬品の瓶、そして隅に積まれた俺が暇つぶしに組み立てた精密な城のプラモデル。彼の目にはこの殺風景な作業場が宝箱をひっくり返したような夢の空間に映っているらしかった。

「やだ、僕ここで遊びたい。魔法使いのお兄ちゃんの秘密基地でもっと遊びたい。」

翼は俺のズボンの裾をぎゅっと掴んで見上げてきた。その瞳には一点の曇りもない「好き」という感情が満ちている。

「こら、わがまま言わないの。健太君に迷惑でしょ。」

楓が慌てて嗜める。

「いいよ。どうせ今日はもう店じまいだ。俺ももう少しこのヒーローの活躍が見たいしな。」

俺がそう言っていたずらっぽく笑うと、翼は「やった」と飛び跳ねた。楓は「本当にごめん」と恐縮しながらも、どこか嬉しそうに頭を下げた。

そこから俺の作業場はにわか作りの冒険の舞台になった。

「健太兄ちゃんはあっちのアイロンの上に乗ってて。そこが悪い怪獣の巣かな。」
「はいはい。怪人どもめ。俺様のアイロンプレスでぺちゃんこにしてくれるぞ。」

俺がアイロンを構えて悪役になり切ると、翼はケラケラと腹を抱えて笑い転げた。

「行くぞ、ミラクルリペアフラッシュ!」

翼は修理したばかりのヒーローを俺に向けて元気に叫んだ。どんなに壊れても、どんなにバラバラになっても一瞬で元通りにしちゃう光線だ。その言葉に俺は思わず動きを止める。さっき俺がやったことそのものではないか。子供の発想力というのはなんて素直で、なんて鋭いのだろう。

翼がヒーローごっこに夢中になっているその時だった。少し離れた場所から俺たちを微笑ましそうに見ていた楓が、そっと俺の隣にやってきた。そして翼に聞こえないように声を潜めて言った。

「健太君、本当にありがとう。」
「ん?何が?」
「あの子があんなに笑ってるの、本当に久しぶりに見たから。ねえ、健太君、勘違いしてるかもしれないから言っておくね。」

楓の表情がふっと真剣なものに変わる。

「翼は私の息子じゃないんだ。数年前に病気で亡くなった私の姉の一人息子なの。」

「え?」

俺は目の前で怪人の真似をしてはしゃいでいる翼と、悲しい色を浮かべた楓の顔を交互に見た。頭がうまく状況を処理できない。

「両親がいないあの子を引き取る親戚がいなくて、だから私が一緒に暮らしてるの。それに翼は生まれつき心臓に重い病気があって、ずっと高木君のお父さんの病院に入院を繰り返してるんだ。根本的に直すには難しい手術が必要だって。」

そこまで言って楓は唇をぎゅっと噛んだ。その視線の先では翼が今度は俺の工具に興味を示して、ドライバーをヒーローの剣に見立てて振り回している。元気で無邪気で、残酷なほどに生命力に満ち溢れているように見えるのに。

「ああ、ごめん。こんな話。せっかく楽しく遊んでるのに暗い話しちゃったね。忘れて。」

「忘れられるかよ。」

俺はぽつりと呟いた。目の前で無邪気に笑う翼の姿と、楓から聞いた重い現実。その二つが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。どうしてこんな小さな子がそんなものを背負わなければならないのか。どうして楓が一人でそんなものの全てを抱えなければならないのか。答えの出ない問いが胸の奥で渦を巻く。

「健太兄ちゃん、次はあの城で遊ぼうよ!」

翼が俺の作ったプラモデルを指差して叫んだ。その声が重くなりかけた空気をあっさりと吹き飛ばす。俺は複雑な思いを喉の奥にぐっと飲み込むと、「おう」と短く答えて翼のそばにしゃがみ込んだ。

「いいか?この城はな、難攻不落なんだぞ。まずこの堀を渡らないと。」

俺が真剣な顔で説明を始めると、翼は目を輝かせて聞き入っている。その横で楓が何か言いたそうに、でも何も言えずにただ俺たちのことを見つめていた。

日が暮れかかり、お開きの時間になった。翼は「また絶対に来るからね」と何度も念を押しながら楓に手を引かれて帰っていった。帰り際、楓が俺にだけ聞こえる声で言った。

「さっきの話、もしよかったらでいいんだけど…今度病院にいる翼にも顔見せてやってくれないかな。きっとすごく喜ぶと思うから。」

俺は黙って頷いた。それはもう約束になっていた。一人になった作業場は妙に広く静かに感じられた。床には翼が忘れていった折り紙の手裏剣が一つ、ぽつんと落ちている。それを拾い上げると、まだあの子の温もりが残っているような気がした。

それから俺の週末は、楓と翼の三人で過ごすのがいつの間にか当たり前になっていた。翼はすっかり俺に懐いて、「健太兄ちゃん、キャッチボールしよう」「鬼ごっこしよう」と俺の袖を引っ張って駆け回る。その小さな体は病気のことなど忘れさせるほどエネルギーに満ち溢れていた。

その日も俺たちは近所の大きな公園でピクニックをしていた。俺が作った少しばかり彩りの悪い卵焼きとタコさんウインナー。楓が焼いてきてくれた甘くて香ばしいバタークッキー。翼はその二つを交互に頬張りながら「おいしい」と声を弾ませる。

「健太兄ちゃんの卵焼き、しょっぱい。楓ちゃんのクッキー、甘い。しょっぱくて甘くて美味しい。」

そんな謎の食レポに俺と楓は顔を見合わせて笑った。その屈託のない笑い声は、まるで高校の教室で友達とバカ話をしていたあの頃に戻ったような気分にさせた。

「なんだか高校の頃を思い出すね。」

不意に楓がぽつりと呟いた。

「そうか?」
「うん。文化祭の時覚えてる?うちのクラス焼きそば屋さんやったじゃない?健太君、文句も言わず1日中ずっと鉄板の前で焼きそば作ってくれてたよね。みんながサボりたがる一番大変な役回りだったのに。」

「よく覚えてんな、そんなこと。」

まさか楓がクラスの隅にいた俺のことなど気にも止めていなかったと思っていたから、少し驚いた。

「覚えてるよ。健太君って昔からそう。目立たないけど、いつも誰かが嫌がることを黙ってやってくれてた。だからみんな、なんだかんだ頼りにしてたんだよ。」

「お前こそすごかっただろ。クラス中を走り回って看板作ったり呼び込みしたり、誰よりも頑張ってたよな。」

俺の言葉に楓は少し照れたように「そんなことないよ」と笑う。その笑顔は昔と少しも変わらない。あの頃俺はいつも少し離れた場所から彼女を見ていた。友達に囲まれて笑う姿、夕日の中で教科書を読む横顔。その笑顔一つで俺の灰色だった一日が少しだけ色づくような気がしていた。まさか10年という時を経てこうして隣に座り同じ空を見上げることになるなんて。あの頃の俺に言ってもきっと信じないだろう。

「お前の笑顔は昔も今も変わらず太陽みたいだな」という、口が裂けても言えない言葉を、俺は青い空と一緒に心の中でそっと飲み込んだ。芝生の上に寝転んで見上げる空はどこまでも青くて高い。シャボン玉が風に乗ってキラキラと光りながら空に溶けていく。本当に穏やかな時間だった。でもこの時間がとても貴重で儚いものだということ、俺は知っている。翼が時折、誰にも気づかれないようにそっと胸の辺りを押さえていること。笑顔の合間にふっと遠くを見るような大人びた表情をすること。この幸せな時間はいつか終わるかもしれない。

「大丈夫か?」

ふと翼を見つめる楓の横顔があまりに切なげに見えて、つい口にしていた。

「え?」
「いや、お前、時々すげえ悲しい顔してるから。」

俺の言葉に楓は少し驚いたように目を丸くして、それからふわりと微笑んだ。

「わかる?まあな。そっか。あの子見てるとね、姉さんのこと思い出すんだ。」

楓は芝生の上で飛行機の真似をして走り回る翼に愛しそうな目を向けた。その瞳は過去の思い出と現在の現実を宿していた。

「翼の父親、つまり私の義兄さんなんだけど、翼がまだ本当に小さい頃に事故で先に行っちゃって。それからずっと姉さんが女手一つで翼を育ててたんだ。無理して、いつも笑ってた。でもその無理がたたったのか、姉さんまで後を追うように病気になっちゃって。」

楓の声は淡々としていた。だがその声音が、彼女がどれほど深い悲しみを乗り越えてきたかを物語っているようだった。

「姉さんね、亡くなる前に私の手を握って言ったの。『翼のことお願いね。あの子を一人にしないで。あの子が私がこの世界にいたっていうたった一つの証だから。あの子の中に私は生き続けるから』って。両親を二人とも失ってしまった翼。それに加えて生まれつきの重い病気。親戚はみんな『両親もいない病気の子なんて、うちではとても』と腫れ物に触るように距離を置いた。施設に預けるべきだという残酷な声もあった。でも私は一人だけその声に真っ向から反対したの。私は姉さんの最後の言葉を希望だと思ったの。だから決めたんだ。私がこの子の母親になるんだって。」

「大変じゃないって言ったら嘘になるけど、でも後悔はしてない。その子の笑顔が私にとっても生きる希望だから。」

そう語る楓の横顔は悲しいだけじゃない。凛とした強さに満ちていた。俺は改めて彼女の心の深さと、その肩に背負ったものの重さにただただ胸を打たれるばかりだった。

そんな穏やかな空気を引き裂くように、不釣り合いな高級車のエンジン音がすぐそばで止まった。見ると公園の脇道に止まった黒塗りのセダンから、高木がわざとらしい笑顔を浮かべて降りてくるところだった。

「やあ、奇遇だな、こんなところで会うなんて。」

たまたま通りかかったというにはその服装はあまりに出来すぎだった。高価なジャケットを羽織り、いかにもなエリート然とした姿で俺たちのレジャーシートに近づいてくる。翼が俺の後ろにさっと隠れた。

「翼君、また入院するんだって。大丈夫、僕がついているからね。今度の部屋もまた眺めのいい個室を取ってあげるから、心配しないよ。」

高木は楓の隣にためらいなく腰を下ろすと、さも優しい主治医であるかのように言った。その言葉は親切というより、無言の圧力に聞こえた。

「そ、そんな、そこまでしてもらわなくても本当に大丈夫だから。大部屋で十分。」

楓が恐縮しきった様子で慌てて断る。これ以上彼に借りを作りたくないという気持ちが痛いほど伝わってきた。だが高木はその楓の言葉を手で優しく制した。

「いいんだよ。だってその方が翼君も周りに気兼ねなく過ごせるだろ。夜中に咳込んだり苦しがったりしても、他の患者さんに気を遣わなくて済む。何より翼君のためなんだ。それに、もしよかったら入院する前に一度うちに翼君を連れておいでよ。一緒にご飯でも食べよう。うちのシェフが翼君の好きなもの何でも作ってくれるから。」

「そんな、そこまでしてもらわなくても本当に大丈夫だから。」

翼と楓が重なるようにしてもう一度遠慮の言葉を口にする。だが高木は気にもせず楓の肩に慣れ慣れしく手を置いた。

「何言ってるんだよ。将来俺の家族になるかもしれないんだから。これくらい当然だろ。」

「あ、勝手に言わないで!」

楓がはっきりと拒絶の声を上げた。その声は震えていた。高木はその反応が意外だったのか一瞬だけ不快そうに眉をひそめたが、すぐにまた余裕のある笑みに戻った。

「まあそう照れるなって。でもそれが一番みんなが幸せになれる方法だと思うけどな。少しは現実を見ろよ。これから翼君をお前一人でどうやって育てていくつもりだ?病院の付き添いでまともな仕事もままならないだろう。」

その言葉はナイフのように冷たく、楓が必死に築いてきた心の壁を突き刺した。そして高木は嘲笑の色を隠そうともせず、俺に顎をしゃくった。

「まさかクリーニング屋にでも頼るつもりか。ああ、なるほどな。お前は楓の新しいシッター候補ってわけか。それなら今の無職同然の暮らしでも少しは役に立つってもんな。良かったじゃないか、水上。仕事が見つかって。」

「失礼よ。健太君はそんなんじゃない!」

楓は自分のことを言われた時とは比べ物にならないくらい激しい怒りを瞳に宿して高木を睨みつけた。その剣幕に高木は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにまた人の神経を逆撫でするような勝ち誇った笑みを浮かべた。

「まあせいぜい仲良くおままごとでもやってろよ。」

高木は俺たちが反論するのを待つまでもなく、愉快でたまらないといった様子で笑いながら背を向けた。そして高級車のドアを開けると、最後に一度だけこちらを振り返り手を振って見せた。エンジン音が遠ざかっていく。後に残されたのは踏みにじられた芝生と、凍りついた空気だけだった。

高木が去った後、芝生の上には気まずくて重い沈黙が落ちた。楽しいピクニックの空気はもうどこにもない。

「ごめん。あんなところ見せて。」

楓が無理に作った笑顔で謝った。

「あいつが言ってたこと、本当なのか?また入院するって。」

俺の問いに、楓はこくりと頷く。その瞳から見るみる光が失われていく。

「うん。検査の結果があまり良くなくて、来週からまた入院することになったの。今度は少し長くなるかもしれないって。ねえ、健太君、あの子のお見舞いに来てくれる?」

その声は懇願に近かった。

「当たり前だろう。退院するまで毎日でも行ってやる。だからお前も一人で抱え込むな。」

俺は自分に誓うように言った。その言葉がどれほどの慰めになったのか。隣に座る楓の肩が小さく震えているのが、夕暮れの光の中で分かった。

「私、健太君のこと、シッターだなんて一度だって思ったことない。私、健太君のこと…。」

楓は俺の目をじっと見つめたまま言葉を続ける。続く言葉を俺は息を詰めて待っていた。心臓の音だけがやけに大きく耳に響く。その一言が俺たちの関係を永遠に変えてしまうかもしれない。それでも俺は聞きたかった。

「おい、健太兄ちゃん。楓ちゃん。何してるの?僕、お腹空いちゃったよ。」

砂場から翼が無邪気な声を上げながらこちらに駆け寄ってきた。その声に二人は同時にはっとし、弾かれたように視線をそらす。楓の顔は夕日よりもずっと赤く染まっていた。俺もどうしていいか分からず、乱暴に頭をわしわしと撫でて照れを隠すしかなかった。言葉にならなかった思いが、気まずさと温かさになって二人の間に漂っていた。

週末が来るのを待てず、俺は平日の仕事を終えた足で翼の入院する高木総合病院へと向かっていた。作業着を脱ぎ、クローゼットの奥にしまい込んでいた一番まともなジャケットを羽織る。それを見た母さんが心配そうな顔で俺の背中に声をかけた。

「健太、大丈夫なの?その病院に行って…。」

母さんの言いたいことは痛いほど分かった。俺があの場所からどんな思いで逃げ出してきたのか。母さんは全てを知っている。俺の心の奥にある分厚い傷のこと。

「ああ、大丈夫だよ。何かをしに行くわけじゃない。ただ顔を見に行くだけだから。」

俺は努めて明るくそう答えた。

翼の病室は高木の宣言通り個室だった。窓からは町の夜景が見下ろせる一番いい部屋だが、その華やかさがかえって翼の孤独を際立たせているように見えた。ベッドの上にいた翼は俺の顔を見るなりぱっと顔を輝かせた。

「健太兄ちゃん、来てくれたんだ。」

「ああ、いい子にしてたか?」

「うん。でもちょっとだけ退屈だった。」

翼はそう言って笑うが、その顔色は明らかに悪く、声にも張りがない。それでも俺に会えた喜びで必死に元気なふりをしているのが分かった。俺は買ってきたばかりの新しいプラモデルの箱をそっとテーブルに置いた。しばらく翼と話していると、楓が不安そうな顔で病室に戻ってきた。

「健太君、来てくれたんだ。ごめんね。今、主治医の先生からお話があるって呼ばれてて。」

「そうか。」
「もし、もしよかったら健太君も一緒に聞いてもらえないかな。私、一人だとちゃんと話が聞けるか不安で。」

その頼みを俺に断れるはずがなかった。

通されたのは「面談室」と書かれた小さな部屋だった。そこに待っていたのは高木ではなく、白髪の混じった人の良さそうな初老の医師だった。胸の名札には「小児科部長 内藤」とある。

「翼君の現在の容体ですが。」

内藤部長はレントゲン写真をライトボックスにかけながら厳しい口調で説明を始めた。薬による治療は限界に近づいており、心臓の機能も徐々に低下していると。このままでは危険な状態です。残された道はやはり外科的なアプローチしかないと。

「その外科的アプローチというのは、具体的にどのような術式を想定されているんですか?」

しまったと思った時にはもう遅かった。俺の口から出た言葉は、ただのクリーニング屋が使うにはあまりに専門的すぎた。楓が驚いたように俺の顔を見る。内藤部長も怪訝そうな顔で眼鏡の奥から俺をじっと見つめた。

「失礼ですが、ご主人は医療関係の方ですか?」

「あ、いえ、前に知人が少し似たような症状でして、その時に色々と自分で調べたものですから、つい。」

俺はしどろもどろに誤魔化した。内藤部長はまだ少し腑に落ちない様子だったが、それ以上は追求せず重いため息をついた。

「そうですか。おっしゃる通り、この症例で最も効果が期待できるのは心室形成術とベントを同時に行う、極めて難易度の高いオペです。ですが、それができる腕を持った小児心臓外科医が今この病院にはいない。国内を見渡しても数えるほどしかいないのが現状です。」

その瞬間だった。バタンと面談室のドアが乱暴に開けられ、一人の看護師が血相を変えて飛び込んできた。

「大変です!翼君の容態が急変。心停止の恐れがあります!」

俺たちは言葉を失った。一瞬の静寂の後、内藤部長が「すぐ行く!」と叫び、部屋を飛び出していく。俺と楓もその後を追った。

翼の病室の前にはすでに数人の医師や看護師が集まり慌然としていた。アラーム音がけたたしく廊下に響き渡っている。翼は青白い顔でぐったりとベッドに横たわっていた。

「除細動器準備、急げ!」
「血圧、これ以上下がるな!」
「だめだ。薬への反応が弱い。もう打つ手がない。」

医師たちの慌てた声が飛びかう。その輪の中に高木の姿もあった。だが彼は何もできず、ただ呆然とモニターを見つめているだけだった。顔は絶望に染まっていた。

「これ以上の蘇生は困難だ。手術してもリスクが高すぎる。」

他の医師たちも次々と匙を投げていく。楓がその場に泣き崩れた。

「翼、いや、いやあああ!」

その叫びが俺の心を突き刺した。もう時間がない。俺の頭の中で、かつて叩き込まれた知識と経験が猛烈なスピードで回転を始める。バイタルサイン、考えられる原因、取るべき術式、その手順、リスク。全てがクリアに見える。できる?いや、俺にしかできない。俺は泣き崩れる楓の肩にそっと手を置き、医師たちの輪の中に静かに、しかし力強く割り込んだ。

「俺ならできるかもしれない。やらせてください。」

その場にいた全員が奇怪な顔で俺を見た。高木が信じられないものを見るような目で俺を睨みつけた。

「お前、バカか?クリーニング屋の不束者が何様のつもりだ。ここはお前のような素人が首を突っ込んでいい場所じゃない。出ていけ!」

高木のヒステリックな声が廊下に響く。だが、俺はもうひるまなかった。俺はまっすぐに高木を見据えて、はっきりと告げた。

「俺は小児外科医だった。」

一瞬、廊下が静まり返った。楓が息を飲むのが分かった。高木は一瞬だけ虚を突かれた顔をしたが、すぐにまた嘲笑と怒りに満ちた表情に戻った。

「知ってるさ。だが、お前は医療ミスを犯して現場から逃げたんだろう。俺はお前が逃げ出したあの時もずっとここで研究を続けてきたんだ。患者と向き合ってきたんだ。逃げたお前に、今更何ができるって言うんだ?」

その通りだ。俺は逃げた。だが、もう逃げない。俺と高木が睨み合う。その張り詰めた空気の中に、重厚な声が響いた。

「彼に任せてみよう。」

声の主は、いつの間にかそこに立っていた。この病院の院長であり、高木の父親でもあった。その場にいる誰もが「なぜ」と院長に視線を向ける。高木も「父さん、正気か!」と叫んだ。院長は慌然とする周囲を意に返さず、まっすぐに俺だけを見つめていた。その目は全てを見通しているようだった。

「君は水上健太君だろ?5年前、札幌の学会で君の執刀オペを見たことがある。あの技量はまさに神業だった。今の翼君を救えるものがいるとすれば、それは君しかいない。」

「しかし父さん、こいつは医療ミスを…。」

なおも食い下がる高木を、院長は鋭い一瞥で制した。

「その件の内情も私は知っている。だが、そんな話は後だ。今は一秒も無駄にできん。水上君、翼君の命、君に託す。やってくれるか?」

俺は力強く一度だけ頷いた。

「はい。」

振り返ると、楓が涙で濡れた顔のまま祈るように俺を見ていた。その瞳に俺はもう一度心の中で誓う。必ずお前の元へ翼を連れて帰ってくると。俺は看護師に導かれるまま、手術室へと続く扉の向こう側へと足を踏み出した。

数年ぶりに浴びる無影灯の強烈な光、消毒液と血液の匂い。モニターが刻む不規則でか細い電子音。その全てが俺の体の奥底に眠っていた外科医・水上健太を容赦なく叩き起こした。

「執刀医の水上です。よろしくお願いします。」

マスク越しにそう告げると、手術室にいたスタッフたちの間に戸惑いと不審の空気が流れた。クリーニング屋のジャケットを脱ぎ、緑色の手術着に着替えただけの男。だが俺がメスを握った瞬間、その空気は一変した。最初は震えていた。5年というブランクはあまりに重い。だが翼の小さな体にメスを入れた瞬間、指先が、脳が、体の全ての細胞があの頃の感覚を鮮明に思い出したのだ。もつれた糸を解きほぐすように、もろく傷ついた心臓へとアプローチしていく。モニターの数値、出血量、助手の動き。全てがスローモーションのように、しかし恐ろしいほどの解像度で頭の中に流れ込んでくる。

「メス、早く。監視、1ミリ右。吸引、絞れ。」

俺の口からは自分でも驚くほど冷静で的確な指示が次々と飛び出していく。最初は疑いの目で俺を見ていた看護師たちが、次第にその動きに引き込まれ、やがてその目に驚嘆の色が浮かぶのが分かった。

「すごい。なんだこのアプローチは?教科書にはないぞ。」
「血管の走行がまるで絵を描くようだ。」

ガラスの向こう側で見守っているであろう楓の顔が脳裏をよぎる。もう二度とあんな顔はさせない。その一心だけが俺を突き動かしていた。

数時間に及ぶ手術の最後の縫合を終え、俺が静かに「終了です」と告げた時、手術室は誰からともなく漏れた安堵のため息と小さな歓声に包まれた。翼の心臓は力強く、そして穏やかなリズムを取り戻していた。

手術室の扉が開き、俺がふらつく足で廊下に出ると、そこで祈るように待ち続けていた楓が弾かれたように顔を上げた。俺の姿を認めると、彼女はもつれる足で駆け寄り、言葉にならない嗚咽をもらしながら俺の腕にすがりついた。

「翼は?翼は?」
「ああ、大丈夫だ。あいつ、最後までよく頑張ったよ。」

俺がそう言うと、楓は「よかった。ありがとう、本当にありがとう」とただそれだけを繰り返し、子供のように泣きじゃくった。その温かい涙が、数時間に及ぶ手術で凍りついていた俺の心をゆっくりと溶かしていく。その時だった。俺たちの様子を少し離れた壁際に寄りかかって複雑な表情で見ていた高木が、静かに近づいてきた。感情を押し殺したような低い声だった。

「楓さんも。」

その言葉に、俺と楓は顔を見合わせる。高木はそれ以上何も言わず、踵を返して歩き出した。俺たちはまるで何かに引かれるように黙ってその背中を追うしかなかった。

高木が俺たちを連れて行ったのは院長室だった。重厚なドアを開けると、中では院長が全てを悟ったような顔で静かに待っていた。

「さすがだね、水上君。腕は少しも衰えていない。見事なオペだった。」

院長が心からの賛辞の言葉をかけてくれた。だが、高木は納得がいかないという顔でテーブルを睨みつけていた。やがて彼は絞り出すように言った。

「説明してください。そして水上、お前もだ。あの日、お前の身に一体何があったんだ?」

院長は静かに頷くと、ゆっくりと語り始めた。

「彼の元教授はね、私の古くからの友人なんだ。彼は今でもひどく後悔している。酒を飲むたびに私に同じことを言うよ。『私は日本の宝を自分の保身のためにドブに捨ててしまった』とね。『彼を追放してしまったことで、日本の小児医療は5年、いや、10年は後退するだろう。それほどの才能を私は潰してしまった』と。それが彼の口癖だった。」

院長の言葉に、俺はただ目を伏せるしかなかった。俺の脳裏にあの日の光景が蘇える。5年前、俺は今よりもずっと若く、そして傲慢だった。自分の腕に絶対の自信を持ち、怖いものなど何もないと信じていた。あの日も難しい手術のはずだった。俺は指導的立場にあった教授と共にそれを成功させるはずだった。しかし、ほんの一瞬の油断だった。教授の手元がわずかに狂った。大動脈を傷つけてしまったのだ。致命的なミス。俺はとっさにそのミスをカバーし、持てる技術の全てを注ぎ込んで患者の命をつなぎ止めた。奇跡的に患者は助かった。だが犯されたミスは隠しようもなく、術後のカンファレンスで問題になった。みんなが教授を責めた。その時、教授は俺の前に泣き崩れた。

「水上君、頼む。私には妻とまだ小さい子供たちがいるんだ。この地位を失ったら家族は路頭に迷ってしまう。頼む。」

その姿に、俺は何も言えなくなった。「家族」という言葉の重み。俺にはまだ守るべきものはなかったが、その重さは知っていた。俺は全てを被ることを決めた。俺一人ならいくらでもやり直せる。そう信じていた。いや、信じていたんじゃない。そう過信していたんだ。自分の腕があれば、どんな病院でも欲しがってくれるだろうと。若さゆえに「神の手」なんて呼ばれ、傲慢になっていたのかもしれない。だが現実は甘くなかった。一度ついた「医療ミスを犯した医師」というレッテルは想像以上に強力だった。「患者を見捨てた」「ミスを教授になすりつけようとした」「遺族を金で黙らせようとした」と、黒い噂には尾ひれがつき、俺が次の職を探そうとする先々でその噂が待ち構えていた。結局、誰も俺を雇ってはくれなかった。俺は自分の腕を過信し、世間を甘く見た結果、自らの手で医師としての生命を断たれることになったんだ。

院長が全てを語り終えた後、部屋は重い沈黙に包まれた。楓が信じられないという顔で俺と院長を交互に見ている。その沈黙を破ったのは、高木だった。

「バカか、お前は。」

それは吐息というより悲鳴に近かった。高木はわななと震えながら、俺の胸倉を掴まんばかりの勢いで立ち上がった。

「そんな理由で?たったそれだけの理由で、お前は全部を捨てたのか?お前のその手は、もっとたくさんの子供を救うためにあったはずだろ。なのに…。」

高木はそこで言葉を切ると、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「昔からお前が嫌いだった。いつも涼しい顔して、俺がどれだけ努力しても届かない場所に、お前はいつも簡単に立っていた。俺はお前にどうしても勝てなかった。だから、お前のことをずっと認められなかったんだ。」

その告白に、俺は何も言えなかった。だが俺もずっと言えなかったことがある。

「俺はお前が羨ましかったよ。高木。」

「なんだと?」

怪訝な顔をする高木に、俺は正直な気持ちを伝えた。

「正直に言うと、最初はお前の家柄が羨ましかった。恵まれた環境で何の苦労もなくエリートの道を歩いているんだと勝手に思い込んでたけど、違ったな。お前はそれにあまんじないで、必死に努力してた。俺が現場を去った後もずっと患者と向き合い続けてきた。研究も続けてきた。それは誰にでもできることじゃない。そして、今日のオペだってそうだ。お前が術前に翼君の心臓の負担をギリギリまで抑える的確な内科的アプローチを続けてくれたおかげで、俺はかなり手術がやりやすかった。心機能を安定させるためのあの投薬の判断。あれは医師としてのお前の卓越した技術と知識がなければ絶対にできなかったことだ。はっきり言って、お前のあの処置がなかったら、翼君の心臓はメスに耐えられなかった。オペは失敗していたかもしれない。」

俺の言葉に、高木ははっと息を飲んだ。その目から、長年彼を縛り続けてきた嫉妬や劣等感という名の鎧が、ガラガラと崩れ落ちていくのが分かった。

「やっぱりお前はすごい医者だよ。」

やがて彼はふっと自嘲するように笑うと、「叶わねえな、お前には」とだけ言って、その場に崩れるように座り込んだ。俺たちの間にあった10年越しの分厚い壁が、ようやく消えてなくなった。俺は静かに高木に手を差し出した。彼は一瞬だけ躊躇った後、その手を強く握り返した。それはただの握手ではなかった。二人の男がようやく互いを認め合い、そして共に未来へ歩き出すための契りだった。

あれから3ヶ月の月日が流れた。季節は厳しい冬を超え、柔らかな日差しが降り注ぐ春を迎えていた。翼は驚異的な回復を見せていた。俺が施した外科的処置と、高木が率いる内科チームの的確な術後管理。その二つが合わさった結果、翼の経過は極めて良好だった。定期的な検診は必要だが、もう二度とあの暗い病室に縛りつけられることはないだろう。主治医の内藤部長は「この先もきっと大丈夫ですよ」と太鼓判を押してくれた。今、目の前ですっかり元気になった翼が公園の芝生の上をどこまでも駆け回っている。

「健太兄ちゃん、サッカーしよう!」

その声は空に高く響き渡っていた。そして俺の人生もまた、大きな転機を迎えていた。あの日以来、院長から何度も説得を受け、俺は再び白衣を切ることを決意した。高木総合病院に新設される小児心臓血管外科の部長として正式にスカウトされたのだ。「君の濡れ衣は私が責任を持って晴らす」という言葉通り、院長は俺の元教授に連絡を取り、真実を公表するよう強く働きかけてくれた。数週間後、元教授は主要な医学誌に、過去の医療過誤が自分自身のミスによるものであったことを認め、水上健太医師の名誉を著しく毀損したことを謝罪する声明を発表した。彼は全ての役職を辞し、臨床の現場からも身を引いたという。復讐を望んだわけではなかった。だが、俺の心に深く突き刺さっていた棘が、ようやく静かに抜けていくのを感じた。

その日の夕方、病院の屋上庭園で俺と楓、そしてすっかり元気になった翼の三人は、心地よい風に吹かれながら穏やかな時間を過ごしていた。そこへ高木がやってきた。以前の彼とはまるで別人のように、その表情は穏やかだったが、どこかまだ俺たちとの間にぎこちない空気が漂っていた。彼が何かを言い出そうとしたその時だった。翼が高木の白衣の裾をちょいちょいと引っ張ったのだ。

「高木先生、今まで僕のこといっぱい助けてくれてありがとう。」

翼は満面の笑みでそう言った。高木は少し驚きながらも照れくさそうにする。だが、翼の言葉にはまだ続きがあった。

「でもね、翼はね、楓ちゃんが本当に好きなのは健太兄ちゃんだと思うんだ。だから、楓ちゃんのこと、健太兄ちゃんにお願いしてもいい?」

その場にいた大人三人が完全に凍りついた。俺も楓も、ただ呆気に取られて言葉を失う。一番衝撃を受けているはずの高木は数秒間何も言えずに翼を見つめていた。やがて彼はふーっと長い息を吐くと、天を仰いで乾いた声で笑い出した。それは悔しさも悲しさも、そして諦めも全てがごちゃ混ぜになったような、不思議な笑い声だった。

「そうか。そうか。翼君には全部お見通しだったか。まったくな。先生も本当は分かっていたんだけどな。ただ認めたくなかっただけで。男っていうのは引き際が難しくてな。」

そして彼は最後に、自分の気持ちにけじめをつけるように楓にまっすぐ向き直った。

「楓、俺は高校の時からずっと君のことが好きだった。自分の気持ちを押し付けて君を苦しめた。できれば翼君とも本当の家族になりたかったと思っていた。だが、俺の完全な自己満足だったな。本当にすまなかった。」

それは彼の最初で最後の本気の告白だった。楓はもう迷わなかった。しっかりと彼の目を見つめ返し、深く静かに頭を下げた。

「ごめんなさい。あなたの気持ちには答えられない。でも、高木君が翼を支えてくれたこと、心から感謝してるわ。本当にありがとう。」

はっきりと、しかし誠実に告げられたその言葉に、高木は「だよな」と小さく呟くと、今度こそ本当に吹っ切れたような清々しい表情になった。彼は俺の肩をぽんと一つ叩くと、

「あとは頼んだぞ。」

とだけ言って、今度こそ本当に夕日の中へと去っていった。その背中は、失恋した男の、少しだけ寂しくて、最高に格好いい背中だった。

「ねえ、健太君。」

高木が去った庭園で、楓が俺の名前を呼んだ。

「あの日の公園での話の続き、聞いてもらってもいいかな?」

俺は黙って頷いた。心臓の音がまた少しだけ速くなる。楓は一度ぎゅっと唇を結ぶと、少し早口で、でも一言一言を確かめるように話し始めた。

「私、健太君のこと、ずっと高校生の時から好きでした。」

その声は少し震えていた。

「文化祭の時、みんながサボりたがる中で、健太君だけが一日中黙々と焼きそばを焼いてくれてたでしょ。ソースの匂いを体中に染み込ませて。そういう不器用だけど、誰よりも優しいところが、昔からずっとずっと好きだったの。」

まさか10年越しの告白のきっかけが焼きそばだとは思わなかった。俺はあまりの不意打ちに「焼きそば?」と間の抜けた声しか出せない。だが、顔を真っ赤にしながらそれでも必死に思いを伝えようとしてくれる彼女の姿が、たまらなく愛しかった。俺は震えそうになる手を伸ばし、彼女の繊細な手をそっと握った。

「俺もだよ。ずっとお前のことが好きだった。」

やっと言えた。俺たちはどちらからともなく微笑み合った。それはどんな言葉よりも確かな、愛の始まりだった。その甘い空気を読んだのか、読まなかったのか。少し離れた場所で遊んでいた翼がとてとてとこちらに駆け寄ってきた。そして俺と楓が手をつないでいるのを見ると、目をキラキラと輝かせた。

「あれ?楓ちゃん、健太兄ちゃんと結婚するの?」

子供ならではのストレートな問いに、俺と楓は顔を見合わせて固まる。翼はそんな俺たちの様子などお構いなしに、最高のアイデアを思いついたという顔で言った。

「そうだ。楓ちゃんと健太兄ちゃんが結婚したら、健太兄ちゃんが僕のお父さんになるの!」

そして「やった、やった」とその場でぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。その純粋すぎる祝福に、俺と楓を包んでいた気恥ずかしい空気は一瞬で吹き飛んでしまった。俺たちは顔を見合わせ、今度こそ腹の底から幸せな笑い声をあげた。

もう一人じゃない。これからは三人で。俺は翼の小さな手と、そしてもう二度と離さないと誓った楓の手を、強く強く握りしめた。夕日が、新しく生まれ変わった家族の姿をどこまでも優しく照らしていた。

人生は時に残酷で理不尽だ。俺はたった一度の過ちで全てを失ったと思っていた。夢も、誇りも、未来さえも。暗くて長いトンネルの中をただ一人で歩いているような、そんな5年間だった。逃げることは楽なようで、実は一番自分を傷つける。現実から目を背け、過去に蓋をしても、その傷は決して癒えることはない。だけど、俺は知った。どんなに深い絶望の中にいても、誰かのためにたった一歩でも前に踏み出す勇気が、自分自身の凍りついた心をも溶かしてくれることがあるのだと。一人では到底乗り越えられない壁も、信じてくれる誰かがいれば、支えてくれる仲間がいれば、いつか必ず未来へと続く扉に変わるのだと。

あの日、俺が捨てたはずの白衣に、今日もう一度袖を通す。それは過去の栄光を取り戻すためじゃない。俺を信じてくれた楓と翼のために。俺を認めてくれた高木というライバルのために。そして何より、これから出会うであろう小さな命たちのために。俺はもう逃げない。夜明けの光が差し込む手術室で、俺はまっすぐに前を見据えた。未来への一歩は、今始まったばかりだ。

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