鍵を開けると、廊下に水が広がっていた。薄く茶色がかった水が、402号室のドアの下の隙間から滲み出し、自分の玄関のタイルにまで染み込んでいる。黒川融像は、68年の人生で培ってきた秩序が崩れる音を、靴の底に伝わる冷たさとして感じた。
毎朝、彼は引き出しの中の白いワイシャツの折り目を確かめる。妻が亡くなって5年、一度も袖を通すことはないが、折り目だけは守り続けている。それが彼にとっての朝の礼拝だった。年金と駐輪場の仕事を合わせても月に20万円足らず。家賃に光熱費、薬代を引けば、一日の食費は660円ほどになる。それでも、計算することで不安を数字の中に閉じ込めておくことができた。
402号室には、白鳥千代という72歳の老女が住んでいる。2年前に引っ越してきて以来、言葉を交わしたことは一度もない。ただ、掲示板で名前を見たことがあるだけだった。彼女の部屋からは、数週間前から異臭が漂い始めていた。酸っぱいような、腐敗したものが密閉された空間で変成していくような匂い。黒川はそれに気づかないふりをして、毎日をやり過ごしていた。
12月初旬のある朝、ゴミ置き場で自治会の班長・渡辺に話しかけられた。「黒川さんも、白鳥さんの件はご存知ですよね。私たち日本人はお互いに助け合ってこそでしょう。黒川さんは管理職だったと聞いていますし、ああいう方の扱いにも慣れていらっしゃるんじゃないかと思って」黒川は無表情で頭を下げ、その場を離れた。自分はただの隣人だ。関係ない。
しかし、その夜、コンビニの軒先で白鳥を見かけた時、彼は足を止めてしまった。真冬なのに薄いコートを着て、電気料金の滞納通知を握りしめ、どこも見ていない目で立っていた。思考という機能そのものが停止しているような目だった。「寒くないですか?」と聞くと、彼女は「ああ、寒いですね」と、まるで今気づいたように答えた。それだけだった。
翌日、廊下の水を見つけた時、黒川は引き返した。管理会社に電話する代わりに、自ら402号室のドアをノックした。鍵はかかっておらず、ドアを開けた瞬間、長い時間をかけて変成し続けた空気が流れ出てきた。部屋の中は、天井まで届きそうな新聞紙の束、プラスチックコンテナ、スーパーの袋、ペットボトル、弁当の空き容器で埋め尽くされていた。洗面台の下のパイプが外れ、水が吹き出していた。
部屋の奥で、白鳥千代は膝を抱えて座っていた。「主人がもうすぐ帰ってきますから、これでも食べながら待ってください」彼女は白い粉を吹いた饅頭を差し出した。この老女の世界の中では、この状況が普通なのだと黒川は理解した。彼は何も言わずに、自分の部屋から雑巾を持ってきて水を拭き始めた。パイプにビニール袋を巻きつけ、床に染み込んだ水を吸い取った。仕事には20分遅刻した。
その夜、彼は初めて、スーパーでサーモンのおにぎりを128円で買った。そして、402号室のドアの前にそっと置いた。次の日も、その次の日も。ドアの前に置いた袋が翌朝には消えているのを確認して、生きていることを知った。手帳の食費の欄には、毎日小さな括弧書きの数字が並んでいった。110円、128円、98円、135円。1週間で700円を超えていた。自分の日当たりの食費よりも多い。
その頃、黒川の右目の視界は、霞がかったようにぼんやりし始めていた。眼科に行く金はなかった。市役所に相談に行ったが、担当者は書類に目を落としたまま言った。「ご家族または法定代理人の方はいらっしゃいますか?ご本人の同意なしに行政側から強制的に介入することは難しいんです。特別養護老人ホームの待機者は300名を超えていて、即座の入所は現実的ではありません」黒川は尋ねた。「あの人が家事を起こすか、人を傷つけるか、そのどちらかが起きなければ動かないということですか?」担当者は、周知に近い表情を一瞬浮かべたが、すぐに事務的な顔に戻った。
4日後、黒川の携帯電話が鳴った。沼津市立病院からだった。白鳥が駅の構内で倒れているのを駅員が発見し、救急搬送されたという。滞納と栄養失調の疑いがある。所持品の中に、黒川の名前と電話番号が書かれた紙が入っていた。
病院で、担当者の田中から入院の初期費用として5万円を預かってほしいと言われた。5万円は、黒川が新しい暖房器具を買うために毎月少しずつ封筒に積み立てていた金額だった。今使っている電気ストーブは7年前に買ったもので、もう温まりが弱くなっている。黒川はトイレに入り、鍵を閉め、蓋を閉じた便座に座った。市役所の担当者の言葉が頭の中で繰り返された。誰もが言い訳を準備している。その言い訳の隙間から人が一人落ちていく。彼は立ち上がり、田中のところに戻った。「手続きを教えてください」と静かに言った。ATMで5万円を引き出し、入院費用の仮払いを済ませた。久しぶりに会社員時代の印鑑を押した。
白鳥の顔は、一度も見なかった。手続きを終えて、そのまま病院を出た。
5日後、白鳥が一時的な介護施設に移ったという連絡があった。そして3日後、管理会社から書面が届いた。402号室の廃棄物の全量処分を2週間以内に完了しなければ、契約解除の手続きを進めるという内容だった。担当者に電話をすると、「事情は分かりましたが、建物の管理上、期限の延長は難しい状況でして」とだけ言われた。
黒川は、大型ゴミ袋とゴム手袋を買い、土曜日の朝、402号室に立った。鍵は病院から受け取っていた。重い空気の中、彼は入り口の側から順にゴミを袋に詰めていった。15分で1袋。2袋目は少し早くなった。何かを考えるのをやめて、ただ手を動かす時間は、今の彼には貴重だった。3日目、窓際の隅のゴミの山を崩していくと、その下から小さな青いノートが出てきた。ビニール袋に包まれ、テープで丁寧に口を止めてあった。周りのゴミが変色している中で、このノートだけは乾いた状態を保っていた。
中を開くと、家計の記録が丁寧な文字で書かれていた。それが途中から乱れ始めた。「今日は何日?」という問いが5回も繰り返されていた。最後の方のページに、最初のページと同じ丁寧な文字で書かれた短い文章があった。「今日、401号室の黒川さんがドアの前に落ちていた手紙を拾って持ってきてくれた。何も言わずに渡してくれて、また自分の部屋に戻っていった。この団地で私の顔を見て鼻をつまむ人は、この人だけだ。もし私がいつか全部忘れてしまっても、どうか神様、この人に迷惑だけはかけないようにしてください。」
黒川は、ノートを読み終えて目を上げた。夕方の光が、1cmだけ開けた窓から床に細く伸びていた。彼は壁際まで歩き、背中を壁に預けてしゃがみ込んだ。白鳥が最初に座っていたのと同じような格好だった。カーディガンの下の肩が、静かに小刻みに震えた。音はなかった。声もなかった。彼はしばらくその姿勢でいた後、立ち上がり、ノートをビニール袋に戻してコートのポケットに入れた。それから、残りのゴミを黙々と袋に詰めた。
その後1時間で、部屋は空になった。廊下には14袋のゴミが積み上げられた。黒川は部屋の真ん中に立ち、何もなくなった畳を見た。自分の部屋と全く同じ間取りが、鏡で映したようにそこにあった。彼は電気を消してドアを閉めた。
その夜、沼津では珍しく本物の雪が降っていた。黒川は窓のそばに立ち、雪が屋根の端に積もっていくのを見ていた。カーディガンのポケットには、あの青いノートが入ったままだった。5万円は戻っていない。今月の暖房は、弱運転の電気ストーブで乗り切ることになる。食費の括弧書きの出費は、来月からはなくなる。彼の計算は、すべて元に戻るはずだった。しかし今夜、窓の外の雪を見ながら、黒川優像の目には、いつもの空洞のような諦めがなかった。自分の中の何かを、今日初めて使った。そういう感触だった。彼は布団に入り、目を閉じた。眠りが来るまで、それほど時間はかからなかった。



