胃がしふ子の視線が、千鶴の背後にある生活支援相談窓口のプレートに一瞬留まった。その文字は大きく、見間違えるはずがなかった。千鶴の胸は止まるような感覚に襲われた。
胃がしの表情が、何かを読み取った時の人間の表情に変わった。驚き、それを隠そうとする動き、その下に複雑な何かが一瞬で組み合わさって顔に出た。長年の付き合いで、千鶴が一度も見たことのない表情だった。
千鶴の手が反射的に動き、持っていた書類を胸の前で抱きかかえた。バッグにしまう時間もなかった。ただ、とにかく書類が見えないようにしなければという反射だった。しかし、それ自体がすでに何かを見せていた。
「あら、黒川さん」
胃がしの声には明らかな動揺があった。動揺を隠そうとしているのも分かった。千鶴は頭を下げた。
「いえ、少し書類の手続きを」
それ以上は言えなかった。胃がしがもう一度、千鶴の後ろのプレートを見た。今度は一秒ほど視線を止めた。戻した時、その目には千鶴が最も恐れていたものが宿っていた。知ったという確信だった。
「そうですか。では、お気をつけて」
胃がしはそれだけ言って、廊下の先へ歩いていった。千鶴はその背中を見ていた。歩き方は変わらなかった。何事もなかったかのようにも見えた。しかし、千鶴には分かっていた。胃がしは今見たことを記憶した。町内会の組長として、この情報が必要になる場面を、あるいは誰かに話す場面をすでに想定しているかもしれなかった。
足が動かなかった。廊下の真ん中で、千鶴は一歩も動けなかった。頭の中で何かがすごい速さで回転しているのに、体だけが完全に止まっていた。今夜、胃がしが誰かに話すかもしれない。来週の買い物の帰りに、誰かがすれ違い様に声を落とすかもしれない。それが広まる速さは、千鶴が予測するより必ず早い。
千鶴はようやく一歩を踏み出した。まっすぐ前を向いたまま、出口に向かって歩いた。自動ドアを抜けると、冬の外気が一気に顔を打った。立ち止まらなかった。ただ役所から遠ざかることだけを体が求めていた。
気づくと海沿いの道に出ていた。風が正面から吹きつけてきた。足元を見ると、雪が溶けかけて薄い水膜ができていた。千鶴はガードレールに片手をついた。海を見た。冬の海は灰色で、水平線の向こうまで一面に広がっていた。
考えることをやめると、体の奥から何かが上がってくる感覚があった。悲しみというより、疲れに近かった。長い時間、ずっと何かを抑えていて、それが今少し緩んでいる感じだった。緩んでいるのに、何も出てこなかった。泣けなかった。声も出なかった。ただ力が抜けている。それだけだった。
家に着き、玄関のドアを閉めた瞬間、外の世界が遮断されたような感覚があった。千鶴はコートを脱がずに、しばらく玄関に立っていた。台所に入り、椅子に座った。バッグから法テラスのパンフレットと石田の名刺を取り出し、テーブルの上に置いた。
役所の職員、石田は言っていた。息子さんへの扶養照会が必要になる、と。物件を換価してから、と。千鶴はそれらの言葉を思い出した。剣一に役所から手紙が届く。それがどういうことを意味するか、千鶴はすぐに想像した。剣一がその手紙を冬に見せる。冬が何か言う。あるいは言わずにただ冷たくなる。そのどちらにしても、千鶴と剣一の間の距離がもう少し広がる。
胃がしに見られた。その事実は変わらない。何をしても変わらない。千鶴は立ち上がり、やかんを火にかけた。お湯が湧くのを待ちながら、ティーバッグをマグカップに入れた。いつもの動作だった。体が覚えている動作だった。
お湯が湧き、注いだ。マグカップを両手で包むと、手のひらに温度が伝わってきた。冷えていた指先がじわじわと温まってくる感覚があった。千鶴はそのまましばらくお茶を飲まずに、マグカップを持っていた。温度だけを感じていた。他のことは少しの間考えなかった。
通知書が届いたのは、2月の第一週の火曜日のことだった。千鶴は朝の六時にいつも通り窓を開けた。外は雪が積もっていた。雪の上に足跡はまだ一つもなかった。朝食を終え、食器を洗い、台所を拭いた。午前九時を少し過ぎた頃、千鶴は郵便受けを確認した。広告の折り込みが二枚と、白い長形封筒が一通入っていた。差出人のところに、株式会社写真は審判と印刷されていた。
封筒を手に取った。重さはいつもと変わらなかった。しかし、その薄さが今回は特別な意味を持っていることを、千鶴は開ける前から理解していた。台所に戻り、椅子に腰を下ろした。封筒の糊付けフラップをゆっくりと剥がした。中から書類を取り出した。二枚あった。一枚目には「競売開始決定通知」と書かれていた。
千鶴所有の不動産について、競売手続きの開始が決定されたこと。二週間以内に物件を明け渡すための準備を始めること。千鶴は二枚の書類を読み終えてから、テーブルの上に置いた。しばらくそのまま動かなかった。何かが終わったと思った。しかし、その何かが何なのかを言葉にしようとするとうまくいかなかった。
翌日から、千鶴は動き始めた。まず市営住宅の申し込み窓口に電話をした。役所に行った日に石田が渡したパンフレットの中に、高齢者向けの市営住宅の案内が入っていた。状況を確認すると、町の別の地区に一室空いているとのことだった。家賃は月に二万三千円。小さな一Kで、エレベーターのない三階建ての二階だった。
電話を切ってから、千鶴はその数字を頭の中で計算した。年金が月八万四千円。週二日の仕事が続けば月に三万円前後。合計で十一万円程度。家賃を払って食費と光熱費を引けば、残るのは四万円台になる。銀行への返済義務は、この家が競売にかけられた後に清算されるはずだった。まず住む場所を確保することが先だった。
次に荷物のことを考えた。この家に引っ越してきたのは剣一が小学校に上がる前の年だった。それから三十年近く、夫と二人で暮らし、剣一が巣立ち、夫が亡くなり、千鶴一人になっても、この家の中のものはほとんど変わらなかった。食器棚。和ダンス。夫の書棚。どれも動かしたことがなかった。
市営住宅の一Kに運べる量は限られている。千鶴は部屋を歩き回りながら、一つ一つのものに視線を当てた。食器棚の中の食器は、普段使いのもの以外は持っていかない。夫の書棚の本はほぼ全て残していく。縁側の飾り棚にある置物は捨てる。和ダンスは大きすぎて運べない。衣類だけを取り出してまとめる。判断は思ったより早かった。
感じないわけではなかった。しかし、感情を展開している時間がなかった。二週間以内に出なければならない。市営住宅の入居手続きも必要だった。捨てるものを分類して処分の手配もしなければならない。やるべきことが順番に並んでいて、それを一つずつこなすことだけが今の千鶴にできることだった。
荷造りを始めた。台所から始めた。よく使う鍋とフライパン一枚と、使い慣れた包丁と普段使いの食器を選んだ。残りは新聞紙に包んでダンボールに入れ、玄関脇に積んだ。次の日も、その次の日も、千鶴は少しずつ荷造りを続けた。
剣一が子供の頃に描いた絵のファイルが出てきた。クレヨンで描いた家の絵があった。赤い屋根と黄色い窓。人物が三人。大きさの違う棒人間として描かれていた。一番大きいのがお父さんで、真ん中がお母さんで、一番小さいのが自分と、どこかに書いてあったのを千鶴は覚えていた。千鶴はそのページを一枚だけ取り出した。残りのファイルは処分するものの箱に入れた。取り出した一枚だけを手元に残した。
作業の合間に、胃がしから電話があった。千鶴はすぐには出なかった。出ても出なくても、胃がしは何かを知っている。出ないことで疑念を膨らませるよりも、出る方がいいかもしれなかった。
「はい。黒川です」
「あら、よかった。出てくれていらしたの」
胃がしの声だった。いつもとほんの少し違う声の質があった。
「最近どうされているかと思って。先日役所でお見かけして、なんか大変そうだったから」
千鶴は一瞬だけ間を置いた。隠す必要はもうないかもしれなかった。いや、隠すことがもう意味を失っている気がした。
「実は、家を出なければならなくなりました。息子の借金の保証人になっていたもので、家が」
電話の向こうが静かになった。胃がしが何か言おうとして止まった気配があった。
「今月中に別の場所に移ります。長い間、お世話になりました」
「黒川さん」
胃がしの声が普段より低くなった。
「なんでもっと早く言ってくれなかったの?」
千鶴は何も言わなかった。
「言えなかったのよね。そうよね。あなたはそういう人だから」
短い沈黙があった。
「引っ越し先は決まってるの?」
「市営住宅に申し込みました。別の地区ですが、入れていただけそうで」
胃がしの声が、何かをこらえているような質感を帯びた。
「落ち着いたら、連絡して」
「ありがとうございます」
電話を切った後、千鶴はしばらく受話器を手に持ったままでいた。胃がしが「なんでもっと早く言わなかったのか」と言った。それは責めているのではなかった。しかし、答えは千鶴自身にもうまく言えなかった。言えなかったのではなく、言わないことが千鶴の生き方だったからだ。誰にも見せない。きちんとしている自分だけを見せる。それが千鶴の習慣であり、誇りであり、呪いだった。
引っ越しの日は二月の半ばになった。当日の朝は五時に目が覚めた。布団の中で天井を見ていた。この天井をあと何時間か見ることができる。色が黄ばんでいた。雨漏りを一度直した後が薄く残っていた。三十年近く、毎晩この天井を見ていたのに、そのことに意識したことはなかった。
いつも通り六時に窓を開けた。今日の外は曇っていた。雪は降っていなかったが、空の色が重く、後から何かが来るような気配があった。千鶴は三十秒窓を開け、閉めた。最後だった。明日からは別の部屋の窓を開ける。
台所で最後の朝食を作った。冷蔵庫の残り物を全部使った。豆腐と卵ともやしの少し残ったものをまとめて鍋に入れ、薄い出汁で煮た。食べながら、千鶴はこの台所を見回した。タイルの目地が細かく黒ずんでいるのが見えた。毎週こすって掃除しても、目地だけは完全には白くならなかった。それでも擦り続けた。
食器を洗った。最後なので、丁寧にいつもより時間をかけて洗った。その食器はダンボールの中にしまった。午前九時に運送屋が来た。二人の男性が黙って運んだ。運び出せないものは残していく。和ダンスと夫の書棚と台所の棚と縁側の置物台。これらはこのまま置いていく。競売で家が売れれば、新しい所有者が処分するか、千鶴に連絡が来るかもしれなかった。
運送屋が荷物を運び出し終えるまで約一時間かかった。その間、千鶴は部屋の隅に立って物が運び出されていく様子を見ていた。物がなくなるにつれて、部屋が空洞になっていく感じだった。畳には家具の足跡が残っていた。物はなくなっても、そこに何かがあったという証拠だけが残っていた。
千鶴は台所に戻り、最後に引き出しを開けた。銀行からの督促状と競売開始の通知書が入っていた。それをバッグに移した。引き出しを閉めた。玄関に行き、上着を着た。コートを羽織り、ショルダーバッグを肩にかけた。手に持つのは、小さな布のトートバッグだけだった。中には今日すぐ必要なものが入っていた。財布と鍵と着替えが一組と、目薬と、剣一が描いた一枚の絵。
玄関のドアを開けた。外は曇っていた。千鶴はドアの前に立ち、振り返った。廊下が暗かった。照明は朝のうちに全部消してある。窓からの光だけが薄く入って、ガランとした廊下を照らしていた。靴箱の上の鏡が見えた。三十年。毎朝その鏡で髪を確認した。今も癖で視線がそこに向いた。千鶴は前を向いた。ドアを閉めた。鍵を回した。
歩き始めた。引っ越し先の市営住宅までは、バスで三十分ほどかかった。今日は一番近いバス停から乗った。バスが来た。乗り込み、座席に腰を下ろした。窓の外に、千鶴がずっと暮らしてきた街の景色が流れていった。スーパーの前を通った。値引きシールを待って立っていたことを思い出した。このスーパーにはもう来ない。図書館の前を通った。建物が見えると体が少し反応した。来月からの勤務は、新しい住所から通えるかどうかを確認しなければならなかった。続けられるなら続けたかった。
バスが別の地区に入った。景色が変わった。少し新しい建物が多い場所だった。バス停で降り、地図を確認しながら歩いた。五分ほどで三階建ての住宅の建物が見えた。外壁は薄い黄色で、年数が経って色がくすんでいた。管理人室で鍵を受け取った。二階の二〇五室だった。
ドアを開けた。中に入った。六畳一間と小さな台所、ユニットバスが奥にあった。窓が一つ、南側に向いていた。壁は白く塗られていたが、所々に薄い傷があった。暖房器具はエアコンが一台あった。千鶴は部屋の真ん中に立って、部屋を見た。小さかった。しかし、小さいことは今の千鶴には何の問題もなかった。一人で暮らすには十分だった。窓の方に歩き、外を見た。向いに別の建物があった。その向こうに遠く低い山の稜線が見えた。海は見えなかった。
午後になって運送屋が荷物を届けてきた。千鶴はダンボールを開け始めた。台所のものから順番に出して棚に並べた。いつも使う鍋をコンロの横に置いた。包丁を引き出しに入れた。食器を棚に並べた。見慣れたものたちが、見慣れない場所に並んでいく。
夕方になった。千鶴は外に出た。近所を少し歩いて、コンビニの場所を確認した。コンビニに入り、夕食のものを買おうと思って棚を見た。弁当が並んでいた。値引きシールはまだ貼られていなかった。時計を見ると夕方の五時だった。値引きが始まるのはまだ早い時間だ。千鶴は弁当を一つ手に取った。鮭の弁当だった。五百八十円。値引きシールはない。定価だった。千鶴はそれをカゴに入れた。
値引きシールが貼られるのを待つべきかどうか。そう考えた自分に気づいた。しかし、今日だけは待たなくてもいいかもしれなかった。カゴを持ってレジに向かった。会計を済ませ、店を出た。外は暗くなっていた。街灯がついていた。知らない町の知らない街灯だったが、明るさは同じだった。
部屋に戻り、弁当の蓋を開けた。鮭の切り身と白飯と漬け物とほうれん草のおひたしが入っていた。温めなかった。レンジはまだダンボールの中に入ったままだった。箸を手に取り、食べ始めた。鮭の味がした。塩が少し強かった。白飯は冷えていたが、それほど気にならなかった。食べながら窓の外を見た。向いの建物の窓にいくつか明かりがついていた。誰かが夕食を食べている。千鶴はそう思った。
洗い物がなかった。箸だけを洗って、台所のタオルで拭いた。部屋に戻り、布団の横に座った。静かだった。以前の家も静かだったが、この静かさは少し質が違った。以前の家では三十年分の生活の音の記憶が静けさの中にあった。ここにはまだ何もない。新しい静けさだった。
千鶴はダンボールの上に立てかけておいた絵を見た。剣一が子供の頃に描いた、クレヨンの家の絵。赤い屋根、黄色い窓、三人の棒人間。剣一は今、東京にいる。子供がいて、妻がいて、電話に出ない生活を送っている。千鶴が今ここに来たことも知らないだろう。知らせなかった。知らせることで何かが変わるとは思えなかったし、知らせないことで何かが変わるとも思えなかった。
千鶴は立ち上がり、窓のカーテンを引いた。エアコンのスイッチを入れた。暖房だった。以前の家ではほとんど使わなかった。ストーブの代わりに、ここにはエアコンがある。電気代がどのくらいかかるかはまだ分からなかった。しかし、今夜だけは使うことにした。
布団に入った。天井を見た。白かった。傷も染みもなかった。以前の家の天井は黄ばんでいた。雨漏りの跡があった。しかし、あの天井には三十年分の時間があった。ここにはまだ何もない。目を閉じた。エアコンの音がした。低い安定した音だった。少しずつ温かくなっていく。
今日一日のことを考えた。布団を畳んだこと。朝食を食べたこと。荷物が運び出されたこと。ガランとした居間に立ったこと。バスに乗ったこと。この部屋の鍵を受け取ったこと。弁当を定価で買ったこと。どれも小さなことだった。しかし、今日はそれだけのことで一日が終わった。
明日は荷物の残りを片付けなければならない。管理規約を読まなければならない。図書館への通勤方法を確認しなければならない。目薬を買い足さなければならない。やることは明日もある。明後日もある。千鶴は目を閉じたまま、しばらくそのことを考えていた。やることがあるということ。それだけのことが、今夜の千鶴には何か確かなものに感じられた。
家を失い、息子との距離は縮まらないまま、この小さな部屋に来た。しかし、明日の朝、この部屋の窓を開けることができる。六時に、いつも通り。外の空気が入ってくる。それがどんな空気かはまだ分からない。しかし、開けることはできる。それだけが今夜確かなことだった。



