「もう申し訳ございませんでした。私が悪いんです。あの、謝ります。お詫びは何でもしますから」
取引先の社長令嬢が顔面蒼白で、涙目になりながら、定食屋の主人である俺に許しを請うている。俺や俺の店のことを「どこにでもいる料理人」「気臭く暗くじめじめした冴えない店」と散々こき下ろし、挙げ句には「こんな冴えない店が美味しいなんて言う人の気が知れない。客が味音痴なだけ」とお客様までも馬鹿にしてきた人物とは思えない姿だった。
「社長就任前に取引先を整理したいと言って、うちとの契約を一方的に切ったのはあなたの方ですよね?」
「だって……だって、知らなかったから……」
泣きながら縋るように言う言い訳に、俺は呆れ返る。やはり自分の都合が悪くなったから謝罪しているだけで、根本的な部分は何も変わっていないようだ。俺は冷静に「お引き取りください」と告げて、泣いて抵抗する社長令嬢を店から追い出した。そして彼女は、父親の会社からも追い出されることになる。
俺の名前は桜井直樹。東京の外れの町で母と妻と定食屋を経営している。今年で50歳になるが、毎日体を動かす仕事をしているおかげか、健康そのものだ。
「そういえば商店街の会合があるんだった」
「ああ、私が行くわよ」
「あ、お願いしていいですか?」
「もちろんよ。任せなさい」
10年前に町に戻って以来、俺の生活は平和だ。嫁姑の確執など絵空事のように思えるほど、妻のさえと母の仲の良さ。それを見ながら、俺は調理場で腕を振るう。
俺とさえは町に帰って定食屋を再建している。元々定食屋だった店だ。俺は小さな頃から定食屋を遊び場にしながら育った。俺が20歳の時に亡くなった父は、店を自分の命と言っていた根っからの料理人。全ての料理を自分で作り、厨房の掃除まで毎日完璧に行う。父はとにかく定食屋に自分の人生を捧げて、病に倒れた。俺が高校2年の夏に倒れた父は、闘病生活の後に亡くなった。
「どうにか店は続けたいんだけどね」
「母さん、分かるけど、無理はしないでくれ」
父が亡くなるまでの間、店には父の後輩の料理人が来てくれていた。父が復帰する日をみんなで夢見て店を維持していたが、それは叶わずに終わる。
「お父さんのお店だから、これで良かったのかもしれないわね」
父が亡くなり店を閉じると決まった時、母はそう呟いた。後継ぎの料理人を立てることは難しく、母だけで店をやるのは不可能。そして俺の遊び場だった定食屋は、閉店した。
「俺も料理人になるよ」
俺は高卒後の進路に調理系の専門学校を選び、母にそう告げた。胸のうちには、いつか定食屋を再建するという思いがあった。専門学校で学んだ俺は、都内や地方のレストランや料亭で修行を重ねた。自分で決めた道ではあったが、職人の道は厳しい。寝ずに働き、技術不足を叱られ、心が折れてもおかしくない局面はいくらでもあった。それでも現在にまでたどり着いたのは、生まれ育った定食屋への思いがあったから。俺を育てた両親の姿と、店で嬉しそうな顔を見せていたお客さんたち。いつか自分が思い出している光景を取り戻す、それだけを支えに俺は修行生活を乗り切った。
「いやあ、直樹君が戻ってきてくれてよかったね」
「ええ、本当に、私もこんな日が来るとは」
「そうだよね。大将がいなくなってもう二度と本当にうまいものは食えないと思ってたから」
「まあ、そんな……ありがとうございます」
「直樹君、これからも末永くね」
「ああ、もう、それはこちらこそ」
10年前、40歳でさえと町に戻った。そして俺の念願だった実家の定食屋をもう一度回転させた。実家の1階が店舗だったのだが、そこを掃除して改装しての再スタート。回転の瞬間、込み上げるものがあったのを覚えている。さえと母は本当に泣いていた。そして昔をよく知る常連客の人たちの中にも、涙を流して喜ぶ人がいた。
喜んでくれる人たちのために働こうと決意して、それから10年。それはもう、あっという間の日々だった。お客さんに育ててもらったとしか言いようがないが、古くからの常連と新規のお客さんに囲まれ、俺は料理人として調理場に立ち続けている。
ある平日の開店前、俺は店の取引先の食品会社の担当者を待っていた。定食屋を始めて以来の付き合いがある会社には、店に調味料や食材を下ろしてもらっている。
「すみません。お忙しいところ」
「おお、いえ、今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ。あの、今日は大人数でお伺いしてしまいまして、失礼いたします」
「おお、そんな」
この日の食品会社の訪問はいつもと少し違っていた。俺は担当から事前に、社内の人事編成の変更と新体制の紹介のために数人の社員を伴うという連絡を受けていた。そしてその社員の中には、次期社長の工藤さんという人がいるというのも知らされている。聞けば工藤さんは現社長の娘さんだそうで、かなりやり手だと説明された。
実際に対面した工藤さんは、パンツスーツに身を包み、背筋の伸びた隙のない雰囲気を漂わせる人だった。
「私、工藤ゆき子と申します。初めまして」
「直樹です。この定食屋の店長を務めております」
担当者の引き合わせもそこそこに、工藤さんと挨拶を交わす。名刺を差し出し、硬い声で名乗る工藤さんは、同じく名刺を差し出した俺を値踏みするような目で見ていた。それから特に何を言うでもなく、工藤さんは店の中をぐるりと見回した。時に鼻を小さく鳴らし、首をかしげながら目を伏せる。
「あの、店に何かありましたか?」
工藤さんの仕草や表情が好ましいものではないのは分かっていた。それでも笑顔で訪ねてしまったのは、不運だったのかもしれない。だがまさか工藤さんが本音だけをぶつけてくるなど、想像もできなかったのだ。
「何かと言われてもね。ただ、年季の入りすぎた冴えない店だと思っただけ」
「え……ああ、そうですかね」
「ええ。担当から、町で人気の定食屋、桜井さんはかつての名店を再建した凄腕と聞きましたけど、なんだか本当なのか怪しいものだと」
工藤さんは真顔で俺を見下ろすかのごとく、店をこき下ろす。「年季を重ねた定食屋」「人気臭く暗くじめじめした空間」だと鼻で笑った。あらかじめ知らされていたという店の歴史も「誇るのは恥だ」と言い切り、吐き捨てられる。ついでに俺の経歴も「どこにでもある」と一刀両断されてしまった。
「ああ……いや、これは手厳しい」
「そうでも言わないと、現実をご理解いただけないかと」
「現実ですか?」
愛想笑いをどうにか絞り出した俺に、相変わらず真顔の工藤さんは追い打ちをかけた。
「ええ、現実です。この店はただの街の定食屋であって、それ以上の価値はない」
「ええ」
「どんなに褒めそやされても、ただのお世辞ですよ。それか、お客さんは味音痴なだけ」
「あの、それはどうかと」
「いえ、そうに決まってます。こんな冴えない店が美味しいだなんて言う人の気が知れない」
とことんまで毒を吐く工藤さんに対して、俺が言えることはなくなった。自分と店とお客さんへの暴言に呆れ果て、言い返すのも無駄だとブレーキがかかる。ふと周りを見れば、工藤さんの部下にあたる担当者と付き添いの数人が顔色を失っている。会社の現社長の娘であり次期社長という人物に逆らえる人は、この場の中にはいないらしい。それだけは俺にも分かった。
「私としては、社長就任前に業務内容を整理しようと考えていまして」
静まり返った空間に、工藤さんの張りのある声が響く。工藤さんは自らの立場をはっきりと口にして胸を張った。
「これからの事業に不要と思われる取引先の整理。まずはそれを行うべきと考え、動いているんです」
「整理ですか」
「ですので、本日は桜井さんとの取引を継続するかどうか、判断をしようとこちらに」
なるほど。笑みを浮かべながら、工藤さんは店に来た理由を俺に説明する。俺が何を考えているのか、そんなことを気にする素振りすら見せずに、自分の言いたいことだけを伝える。
「これからの我が社に必要なのは、確実で堅実なフォーマットを持つ会社なんです。我が社と同じような株式会社が適任」
工藤さんはここである有名レストランチェーンの名前を出した。そして散々俺の定食屋とレストランチェーンを比較して笑う。
「小さな街の、寂れかけた商店街の中の冴えない定食屋。それと、全国で清潔でホスピタリティの行き届いたレストランを展開する会社。どちらが素晴らしいでしょうね」
「ああ、それは、比較するのも何というか……」
気持ちを高ぶらせている工藤さんに、俺は苦笑いするしかなくなった。部下たちはどうかと思い目をやれば、全員が俯いて小さくなっている。俺の視線に気づいた担当者だけは、声を出さずに俺に小さく頭を下げていた。
「これからそのレストランチェーンを運営する会社との取引が決まるかと」
工藤さんはどこまでも上機嫌で、自分が勝ち取ろうとしているレストランチェーンとの契約と今後の取引について自慢する。その取引額はうちの定食屋の何百倍になるだろうかという、10億円。経営者として、俺は工藤さんの口の軽さに呆れる。言っていいことと悪いこと以前の問題が、自分の目の前で繰り広げられているのだ。
「それで今後についてですが」
「ああ、ええ」
「桜井さんとの取引は、今日を持って終了となります」
工藤さんのペースについていけず、ぼーっとしてしまった俺に、非常な宣告がなされた。
「あなたのようなどこにでもいる料理人との、見すぼらしい取引はここまで。今日でやめさせてもらいます」
「おお……はい。そうですか。わかりました」
工藤さんに言わされたと言ってもおかしくない。というか、俺も心の底からそれしか言いたい、言えることはなかった。工藤さんからの一方的で傲慢で自分勝手な取引中止の宣言を、俺は素直に受け入れた。
「お分かりいただけて何よりです」
最後の最後まで工藤さんは笑顔を崩さなかった。顔色と表情をなくして人間かどうかも怪しいほど気抜けきった部下たちを気遣いもせず、工藤さんだけは上機嫌だ。
「うちとの取引が終われば、この店も自動的に終わりなんでしょうね。こんなところと取引したがる会社なんて、あるわけないでしょうから」
店を出る間際まで、工藤さんの暴言は止まらなかった。俺は見送りの言葉もかけず、礼の挨拶もしなかった。ただ工藤さん一行を見送った後、1人で店に引き返してきた元担当には、気遣いの声をかけた。
「申し訳ありませんでした」
ひたすら詫びる元担当者を励ます。
「いや、悪いのはあなたじゃないですから。大丈夫? 分かってますよ」
元担当者の肩を叩きながら、俺はこれから何をすべきか、工藤さんによって鈍らされてしまった頭にスイッチを入れた。
工藤さんの来襲の翌日、俺はいつも通りの開店準備を進めた。しかし頭の中では、去っていく工藤さんに代わる食品会社を見つけなくてはという喫緊の問題も横たわっている。
「いくつか話をしてみようと思う会社もあるんだけど」
「そうだな。できたら今度は、横柄じゃない会社がいいな」
「あんな会社、早々ないと思うけど」
「ああ、それもそうか」
俺は調理場で、さえは店の中を掃除しながら、笑い合う。店の中にあったのは俺とさえの会話だけ。母は銀行と役所に用があって出かけている。開店前の静かな時間が流れている。
そう思っていたところで、店の扉が勢いよく開けられた。
「ああ、いた」
迷いなく、とんでもない勢いで店の引き戸を開けたのは、工藤さんだった。調理場の俺と目が合うなり、挨拶もなしに、髪を振り乱したままこちらに突進してくる。冷や汗か脂汗か、高潮した顔に汗を浮かべている。
「この前話したレストランチェーンとの契約が、破談になったのよ!」
突然の来店にあっ気にとられる俺とさえを気にすることもなく、工藤さんは声を荒げる。
「オーナーの桜井の指示だって! ご存知じゃないですか? 定食屋をしている桜井って言われて、冗談じゃない! 10億を返しなさいよ!」
調理場から出た俺の鼻先に、一気に全てをまくしたてる工藤さんが迫る。
「あんたがチェーンのオーナーって、どうなってるのよ! おまけに、大事な契約を断るなんて何なのよ! 説明しなさいよ!」
「説明も何も、工藤さんが今お話になった通りですが」
「はあ?」
「ですから、私がレストランチェーンのオーナーであり、定食屋の店長でもあって、まあ、ここもオーナーですよ」
俺はため息をつき、自分からは下がらない工藤さんに代わって、一歩後ろに下がった。先日の工藤さんの仕打ちの後、俺は頭をフル回転させて、自分に打てる手を打った。工藤さんご自慢の有名レストランチェーンとの大型契約。それに関する内情をペラペラと喋られた時点で、俺の腹は決まっていた。翌日になり、工藤さんが契約破棄の顛末を知って俺のところに来たわけだが、俺からすれば、全部工藤さんの言う通りだ。
俺は例のレストランチェーンのオーナーで、経営や営業に関与する権限を持っている。レストランチェーンの大元になる店は、俺が30歳の時に開店していた。修行が一区切りして、そのまま地元に戻ろうとしていたのだが、専門学校時代の友人に誘われて店をやることになった。定食屋の改装費を貯めるためにと考えていたものの、そんな小さな動機が噛み合うほどに、店が当たった。
「最初は都内のおしゃれな町の、気軽なビストロでしたけどね。店のフォーマットがチェーン向きだったおかげで、ああなりました」
飲食ビジネスの専門家になっていた友人のアドバイスと、極力自分の料理のこだわりを徹底しない店作りが功を奏したのか、店は店舗を増やすことに成功した。創業から10年で、小さなビストロは関東圏と中部地方に店を展開するようになった。今後は九州にも出店を計画していて、オーナーとしては嬉しい限りだ。
俺が今の立場、会社の株主として経営方針と営業にアドバイスをするという形に収まったのは10年前。地元で定食屋を再開するにあたり、現場に立つのは定食屋一本にした。料理の仕事は地元で、飲食系企業のビジネスマンとしての顔は会社で見せる。
「工藤さん、昨日のあなたは、私が誰かご存知なかったようで。とは言っても、私が誰か分かった上でも、あの場で内情を明かされてしまうようではね」
「あ、それは、怒られることかもしれない。厳密な守秘義務というのもなかったかもしれない。それでもね、口が軽い。口を滑らすというのは良くない」
定食屋をこき下ろされたことも俺の怒りに触れていた。そしてそれと同時に、工藤さんが業務に関する機密を人に触れ回る姿勢が許せなかった。俺がどこの誰であろうが、会社の内情や秘密を簡単に明かすなど、今後どうなるか分かったものではない。
「ですから、私はあなたとはビジネスにおける信頼と安定した関係を気づけないと判断して、契約を打ち切る決断をしたんですよ」
前日、工藤さんが出て行ってすぐに俺は電話を入れていた。レストランチェーンの社長と営業関連の部署に話を通して、工藤さんの会社との契約交渉からの撤退を命じた。
「まあ確かに、ここは古い店を直しただけの定食屋。私だって、どこにでもいる料理人だ。でもね、仕事への責任や人との信頼関係は、軽んじてはならないと思ってやっているんですよ」
俺にはまだ会社を守る責務がある。慎重に誠実に生きていかねばならないのだから、その妨げになるものは遠ざける。俺の答えに、工藤さんは下を向いて項垂れていた。真実を知り、衝撃に耐えられない自分の行いを悔やんでいるのだろう。何が正解か俺には測り知れなかったが、工藤さんは顔を上げると、俺にすがった。
「もう申し訳ございませんでした。私が悪いんです。あの、謝ります。お詫びは何でもしますから。契約交渉の再開を、それだけお願いします」
謝罪の勢いそのままに土下座しそうになる工藤さんを、慌ててさえが止めた。
「あの、何でもします! これからは気をつけます。桜井様のお気に召すように、私、しっかりと口の硬い社長になります!」
いや、あのね。取り乱して、子供じみたことを言う工藤さんに、こちらも脱力しそうになる。だが俺も気を引き締めて、工藤さんに最後の意思を告げた。
「あなたが何と言おうと、私の決断は変わりませんよ。それに、申し訳ないが、あなたが変われるとは思えない」
「そんなことありません!」
「いや、もう結構です。これでお引き取りください」
泣いて俺に許しを請う工藤さんを店から出すのに、少々手こずった。最後は工藤さんの背中を押して出した。
「嵐のような人って、ああいう人なのかな?」
店に戻ったさえの呟きに、俺は深く頷いた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「もう、謝罪はいいですよ」
「いえ、そうはいきません。あれだけの失礼を働いておきながら」
「ああ、悪いのはあなたじゃない」
一連の騒動が過ぎ去り、俺はまた工藤さんの会社との契約再開を選択した。工藤さんの会社と言ったが、社長令嬢だったあの工藤さんはもういない。次期社長として息巻いて振る舞い続けたお嬢様は、父親から全ての権限を剥奪されたのだ。
「そうだ。今はもう、会社のどこにも居場所はありません。社長は完全にお嬢さんを追放されて」
「そうですか」
工藤さんが俺の店で奔放に振るまったあの日、顔色を失っていた元担当者は、再び担当者として復帰した。彼は俺に何度もあの日の出来事について詫びると、工藤さんがどうなったのかも報告した。そして彼は、もう一度チャンスをと俺に真摯に願い出てくれた。俺はその熱意に答えると決めて、今日の再契約に至った。
「それから、これは私からお伝えしますが、例のレストランチェーンも、交渉を再開させていただきました」
「ああ、担当から聞いております。こちらも是非、末永く」
「それはもう、こちらからもお願いいたします」
あの出来事を簡単に水に流せないと思っていたが、定食屋の担当者の態度や、工藤さんの父である会社社長の丁寧な謝罪を受けて、俺も考え直した。誠実さを軸に、徹底した守秘義務を課して、例の10億の取引についても話を復活させた。担当者と握手を交わしながら、今後について思いを巡らせる。いつか自分の体が動かなくなるか、頭が働かなくなるか。自分が人をむやみやたらに振り回して迷惑をかけてしまう。そうなる前に、俺は潔く身を引きたい。そんなことを思いながら、俺はまず目の前にある仕事に向き合おうと気を引き締めた。



