「そんなお金出せませんよ。」
嫁の冷たい声が廊下から聞こえてきたのは、激しい咳で目が覚めた朝のことでした。私は森下ゆみ子、65歳。たった一度、医療費の相談をしただけなのに。
「高が風邪でしょう。市販薬で十分じゃないですか。龍やとしおりの習い事代だって毎月8万円かかるんですから」
子供の習い事は即決なのに、私の通院費は却下。この差は一体何なのでしょうか。
私は震える手で枕元のティッシュを掴み、咳を抑えました。
「母さんも働いてるんだから、自分のことは自分でしなよ」
息子の啓一の声も聞こえてきます。亡くなった夫と2人で建てたこの家で、今や私は厄介者扱いです。固定資産税も光熱費も私が払っているのに、まるで居候のような扱いを受けています。
「お母さん、咳がうるさいですよ。静かにしてください」
亜美が眉をひそめながら言いました。私は咳をすることさえ許されないのです。
—
私の1日は毎朝朝5時に始まります。29年間変わることのない朝の日課。まだ暗い台所で息子と孫たちの弁当を作り、朝食の準備を整え、洗濯機を回してから7時にはスーパーへ向かいます。精肉部での8時間の立ち仕事は、65歳の身体には正直きついものでした。それでも私は休むことなく働き続けてきたのです。
月収18万円。そのうち15万円をこの5年間ずっと家計に入れ続けてきました。私が自分のために使えるお金はわずか3万円。それさえも孫の誕生日プレゼントや家族の必要なものに消えていきます。
夫が5年前に亡くなってから負担はさらに重くなりました。この家の固定資産税は年間10万円、光熱費は月3万円。屋根の修繕、外壁の乗り換え、給湯器の交換など、累計300万円を超える維持費は全て私の貯金から負担してきたのです。啓一が結婚する時は祝い金として200万円。孫のゆあが生まれた時の出産費用60万円、しおりの時の50万円も私が支払いました。家族のためならどんな出費も惜しみません。
それなのに今では、亡き夫と2人で必死に建てたこの家で、居候のような扱いを受けています。
「お母さんの分の残り物でいいですよね。味もよくわからないでしょうから」
夕食時、亜美は平然とそう言います。リビングにも私の居場所はなく、テレビを見ることさえ遠慮しなければならない。まるでこの家の主は息子夫婦で、私は寄生している老人のような扱いでした。
—
給料日の朝、私はいつものように銀行から18万円を下ろしてきました。
「母さん、今月分お願い」
啓一が当たり前のように手を差し出してきます。私は無言で15万円を渡しました。残った3万円を財布にしまおうとした時、亜美が横から口を挟んできます。
「お母さん、ゆあの英会話教室、新しいコースが始まるんですけど、追加で3万円かかるんです」
「でも、これは私のお小遣いよ。それに通院費だってかかるし」
「通院費?高が風邪の薬代でしょう。ゆあの英語教育は将来への投資なんです。5歳の今が一番大切な時期。お母さんの病院代なんて無駄遣いですよ」
将来への投資。その言葉を聞くたびに私の胸は痛みます。子供たちの習い事代に毎月、英会話に3万円、水泳に2万円、ピアノに2万円、塾に1万円、合計8万円もかけているのに、私の医療費は無駄と切り捨てられる。
それから啓一が固定資産税の納付書を私の前に置きました。
「20万円。母さんの名義なんだから当然だろ」
名義は私でも、この家の主導権は完全に息子夫婦が握っているのに。そんな理不尽な現実に、私はただ頷くことしかできません。
—
数日後の夕食時、私の咳はさらに悪化していました。激しい咳が止まらず、箸を持つ手も震えています。食卓で咳込んだ私に、亜美が顔をしかめて言いました。
「お母さん、汚いから向こうで食べてください。子供たちに移ったらどうするんですか?」
私は言われるがまま台所の隅に移動しました。家族だの温かい食卓から、私だけが追い出されたのです。
「母さん、うるさいよ。ゆあが絵本読めないじゃないか。咳をするなら自分の部屋でしてくれ」
自分の部屋。2階の一番奥にある6畳の部屋。この家には他に3つも空き部屋があるのに、私に与えられたのは最も狭く日当たりの悪い部屋でした。かつて物置きとして使っていた部屋に、私の荷物が押し込まれているのです。
「バーバ、大丈夫?」
心配そうに近づいてきた3歳のしおりに、亜美が鋭い声で言いました。
「しおり、バーバは病気だから近づいちゃだめよ。移るから」
しおりは怖がって私から離れていきました。その小さな後ろ姿を見て、私の心は引き裂かれそうになります。
—
夜、リビングから聞こえてきた会話に私は凍りつきました。
「正直、お母さんがいなくなったら楽になるんだけど。毎月15万円もらえるだけで、顔も見なくて済むなら最高なのに」
「ま、もう少しの辛抱だよ。母さんももう65歳だ。あと何年もつかな」
「そうね。お母さんが死んだら、この家も土地も全部私たちのものよね」
「当然だろう。俺は一人息子なんだから。財産は全部俺のものだ」
「ゆあやしおりの教育費ももっとかけられるわね。今は月8万円だけど、小学校に上がったらもっと必要になるし」
私は階段の影でその会話を聞いていました。震える手を支えながら涙をこらえます。私の死を待ち望む息子夫婦。この家で、私はもう生きている価値さえないのです。
—
翌朝、朝食の準備をしていると亜美がキッチンに入ってきました。
「お母さん、言い忘れてましたけど、来月から食費も別にしますから」
「え…食費も?」
「はい。お母さんの分は自分で用意してください。だって私たち家族とは別ですから」
「でも光熱費も固定資産税も全部私が…」
「それは当然でしょう。お母さんの家なんですから。それにお母さんはお金だけ入れてくれればいいんです」
「母さん、正直に言うけど、もう母さんの役割は終わったんだよ。俺たちは自立した家族なんだ。母さんはただのATMでいいんだよ」
ATM。私は人間ではなく、お金を出す機械。29年間働き続け、家族のために尽くしてきた私が、ただの現金自動預け払い機だというのです。
「ゆあ、しおり。おいで。バーバは病気で汚いから、もう一緒にご飯食べないの。わかった?」
「うん。ママ。バーバ、臭いもんね」
5歳のゆあが無邪気に答えます。
「そうよ。ゆあは賢いわね。英会話の先生も褒めてたわよ」
亜美は息子を褒めながら、私を見下すような視線を向けてきました。
「お母さん、ゆあの英会話の発表会、来月あるんですけど、来ないでくださいね。他のお母さんたちに汚いおばあさんがいるって思われたら困りますから」
息子家族が私を汚いと言い、孫たちも私を避けるようになっていく。激しい咳が再び襲ってきました。胸を抑えながら私は自分の部屋へと向かいます。階段を登る足取りは重く、まるで自分の墓場へ向かっているような気分でした。
その時、階段の下から亜美の声が聞こえてきました。
「あ、そうそう。この家、お母さんがいなくなったらリフォームして貸し出そうと思ってるんです。月に10万円くらいの家賃収入になりますよ。お母さんも早く楽になった方がいいんじゃないですか」
もう限界かもしれない。そう思いながら私は部屋のドアを閉めました。外からは家族の楽しそうな笑い声が聞こえてきます。その中に私の居場所はもうないのです。
—
その日の昼過ぎ、私は偶然息子夫婦の決定的な裏切りを知ることになります。体調が悪化し、早退して帰宅した私は、リビングから聞こえてくる電話の声に足を止めました。亜美がスピーカーにして誰かと楽しそうに話しています。
「ママ、今月も10万円振り込んでおいたから」
「え、いつものように旦那の給料からじゃなくて、お母さんの給料から出してるから大丈夫よ」
私の給料から。義母への仕送りが、私の働いて稼いだお金で行われていたのです。
「でも亜美、それってお姑様のお金でしょう?」
「何言ってるの?ママ。お母さんなんてただのATMよ。ママは大切な家族だけど、あの人は他人も同然」
「それにもうすぐ全部手に入るから。あの人65歳で体もボロボロ。咳もひどいし、そう長くはないと思うわ。死んだらこの家も土地も預金も全部私たちのものよ」
私は壁によりかかりながら震える足で立っていました。私が必死に働いて稼いだお金が、亜美の実家に流れていたなんて。
電話を切った後、啓一が入ってきます。
「亜美、また実家に送金したのか」
「え、10万円、いつも通りよ」
「ま、妻の親を大切にするのは当然だろう。俺の母親と違って亜美の母親は品があるし。一緒にいて楽しいからな」
啓一の言葉に、私の心臓は激しく痛みました。実の息子が私よりも義理の母を大切にしている。この家で私は、本当に必要とされていないのです。
—
翌日、とうとう私は倒れてしまいました。激しい咳と高熱で意識がもうろうとする中、啓一に連れられて病院へ行きます。診察室で医師は深刻な顔をして言いました。
「森下さん、これは肺炎の一歩手前です。このままでは命に関わります。すぐに入院が必要です」
「入院ですか?」
「はい、最低でも1週間は必要です。点滴治療をしないと重篤な状態になる可能性があります」
診察室を出ると、啓一が不機嫌に言います。
「入院?そんな金あるわけないだろう」
「でも、お医者様が命に関わるって」
「大げさなんだよ。医者ってのは入院させたがるんだ。いくらかかると思ってるんだ」
すると亜美も同じような反応でした。
「入院なんて大げさじゃないですか?風邪薬なら薬局で1000円くらいで買えますよ」
「でも肺炎になりかけていると…」
「お母さん、入院なんてしたら誰が家事をするんですか?私は子供たちの世話もあるんです」
結局、私の入院は却下されました。命に関わると言われても、息子夫婦にとって私の命よりも入院費の方が重いのです。孫の習い事には月8万円、亜美の実家には月10万円送っているのに、私の入院費は出せないなんて。
—
その夜、私は預金通帳を確認していました。退職金の積み立てが800万円。これまでコツコツ貯めた貯金が500万円。合計1300万円。これはいざという時のために誰にも言わずに貯めてきたお金です。老後の医療費や介護が必要になった時のために。
通帳をバッグに入れ眠りに着いたのですが、深夜、物音で目が覚めました。時計を見ると午前2時過ぎ。誰かが1階で何かしている音が聞こえます。
私は静かに部屋を出て、階段の上から下を覗きました。リビングの明かりがついています。そっと階段を降りて物陰から様子を伺うと、信じられない光景が目に飛び込んできました。
なんと啓一と亜美が、私のバッグを漁っていたのです。財布を開け、中身を確認しています。
「あった。通帳よ。なんだ、隠し金あるじゃない。1300万円もあるわよ」
「本当か?すごいな。こんなに貯めてたのか?」
「これ、全部もらいましょうよ」
「そうだな。でも今すぐは無理だろう」
2人は私の個人情報を書いたメモを探し始めました。
「そもそも、この家も土地もいずれ俺たちのものだしな。母さんが死んだらすぐに売却して、新しい家を建てよう」
「そうね。こんな古い家、リフォームするより売った方がいいわ。土地だけでも2000万円くらいになるでしょう」
「合計で3300万円か。ゆあやしおりの教育費も心配ないな」
「お母さんには悪いけど、早く死んでくれた方が私たちのためよね」
「まあ、あの咳の様子じゃそう長くはないだろう。入院させなかったのは正解だったな。無駄な治療にお金使うくらいなら、俺たちが有効に使った方がいい」
私は階段の影で全身を震わせながらその会話を聞いていました。息子夫婦は私の死を願っている。いや、積極的に早めようとしているのです。必要な治療を受けさせず、私が苦しんでいるのを知りながら、お金のために見殺しにしようとしている。
「はあ、ATMの暗証番号も調べておかないとね。お母さんが急に死んだらお金が下ろせなくなっちゃう」
「そうだな。明日、それとなく聞き出してみるか」
2人は通帳を元の場所に戻し、証拠を残さないよう注意深く片付けを始めました。私は音を立てないようそっと自室に戻ります。ベッドに倒れ込むと、涙が止まりませんでした。悲しみ、怒り、絶望、裏切られた痛み。全ての感情が混ざり合い、胸が張り裂けそうです。
でも、涙が乾いた後に残ったのは、冷たい決意でした。
「もう限界だわ」
私はつぶやきました。それは諦めの言葉ではありません。復讐を決意した者の静かな宣言でした。今までたくさん家族のために尽くしてきた。結婚資金も出し、孫の出産費用も払い、この家の維持費も全て負担してきた。それなのに私は人間扱いすらされていない。
もういい。もう十分です。
私はメモ帳を取り出し、震える手でペンを握りました。これから何をすべきか、冷静に計画を立て始めます。窓の外は真っ暗でした。でも私の心には、冷たく澄んだ決意の光がともっています。もう誰にも、私を踏みにじることはできません。
—
翌朝、私は高熱でうなされながら目を覚ましました。体温計は38度を示しています。激しい咳で胸が痛み、呼吸をするのも苦しい。このままでは本当に死んでしまう。息子夫婦の思惑通りになってしまう。
絶対に負けない。
震える手で携帯電話を握り、タクシーを呼びました。息子家族はまだ誰も起きていません。私は音を立てないようそっと家を出ました。
「どちらまで?」
「総合病院までお願いします」
昨日とは別の病院です。息子夫婦に知られないよう、離れた場所にある病院を選びました。救急外来で診察を受けると、医師は深刻な表情を浮かべます。
「これは危険な状態です。すぐに入院してください」
「入院はできません。家庭の事情で」
「わかりました。では外来で集中的に治療しましょう。今日から1週間、毎日通院してください。朝一番に点滴をして、強力な抗生物質を処方します」
「ありがとうございます」
点滴には2時間かかりました。その間、私は今後の計画を頭の中で整理します。世帯分離、口座変更、職場の相談、そして家からの脱出。
「森下さん、今日の治療費は8000円です」
「はい」
私は震える手で財布からお金を出します。高額ですが、命には変えられません。息子夫婦が高が3万円と切り捨てた通院費で、私は命をつなぐことができるのです。
—
病院を出ると、そのまま市役所へ向かいました。点滴のおかげで少し楽になったとはいえ、まだ熱があります。待合室で何度も咳込みながら順番を待ちました。
「世帯分離の手続きをしたいのですが」
「お客様、大丈夫ですか?顔色が悪いようですが」
「大丈夫です。どうしても今日手続きをしたいんです」
「同じ住所で別世帯にされる理由は?」
「息子夫婦とは、もう家族として生活できません」
職員は複雑な表情を見せましたが、それ以上は聞きませんでした。
「これで手続きは完了です。新しい住民票です」
「ありがとうございます。これで私はもう他人ですね」
新しい住民票を見つめながら、私は深く息をつきました。森下由美子、世帯主。この肩書きがこれほど心強く感じられる日が来るとは思いませんでした。
次に法務局へ向かい、この家の登記簿を取得します。改めて確認すると、土地も建物も私の単独名義。亡き夫が「お前の名義にしておけば将来安心だから」と言ってくれた言葉を思い出しました。今になって、夫の先見の明に感謝せずにはいられません。
ありがとう、あなた。私は心の中で夫に語りかけました。
—
午後、銀行での手続きは体力的に最も辛いものでした。待合室で激しく咳込む私に、他の客が距離を取ります。それでも私は順番を待ち続けました。ようやく個室に案内されると、担当者に事情を説明します。
「まず新しい口座を開設したいのです。そして現在の口座から全額を移動させてください」
「全額ですか?」
「はい、全てです。あと給与の振り込み先も新しい口座に変更したいのです」
「承知いたしました。お手続きにはこちらの用紙を提出してください」
新しい通帳とカードを受け取った時、安堵感で涙が出そうになりました。
—
銀行を出ると、そのまま職場へ向かいます。スーパーの事務所で田中店長は私の姿を見て驚きました。
「由美子さん、顔が真っ青じゃないですか?」
「店長、お話があります」
私は全てを正直に話しました。息子夫婦からの経済的虐待、通院費の拒否、財産を狙われていること、そして私の死を願われていること。店長は涙を浮かべながら聞いてくれました。
「由美子さんがそこまでお辛かったんですね。住み込みで働ける場所を探していただけませんか?」
店長はすぐに系列店に連絡を取ってくれます。
「隣町の店舗でちょうど住み込みの精肉担当を探していました。部屋は個室で、すぐに入居できます」
「本当ですか?来週から部屋に入れます」
「新しい人生の始まりですね、由美子さん」
それと、もう一つお願いがあります。私は明日から1週間、朝の出勤を2時間遅らせていただけませんか?病院で点滴を受けてから出勤したいんです。
「もちろんです。由美子さんの体が第一です。治療費は大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
—
帰り道、最後に不動産屋に立ち寄りました。体調はぶり返してきていますが、これだけは確認しておきたかったのです。
「この家と土地、売却したらいくらになりますか?」
「立地も良いですし、土地も広い。2500万円から3000万円は確実です」
「ありがとうございます」
「売却をお考えなら、いつでもご連絡ください」
家に帰るともう限界でした。靴を脱ぐのも一苦労。階段を登るのに手すりに掴まりながら、1段ずつ。自室にたどり着くと、そのままベッドに倒れ込みました。
「お母さん、夕ご飯は?」
「今日は作れません」
「はあ?何言ってるんですか?」
もう相手をする気力もありません。私は処方された薬を飲み、目を閉じました。明日からまた病院に通い、点滴を受けながら残りの準備を進めなければなりません。
あと6日。6日後には全てが変わります。息子夫婦は今まで当たり前だと思っていたものを全て失うでしょう。そして私は自由と尊厳を取り戻すのです。
窓の外はもう暗くなっていました。階下から家族の話し声が聞こえてきます。啓一が文句を言いながら出前を取っているようです。
「全く、お母さんたら風邪くらいで寝込んで。風邪くらい」
その言葉を聞きながら、私は静かに微笑みました。もうすぐです。もうすぐこの地獄から解放されるのです。
—
1週間後の朝。私は新しい家への引っ越し準備を終えていました。連日の点滴治療のおかげで体調も回復し、今日がこの家での最後の日です。荷物はすでにまとめ、引っ越し業者も午後に来る手配を済ませていました。
朝食時、いつものように亜美が言いました。
「お母さん、ゆあの英会話の月謝、今日が引き落とし日なんです。3万円お願いします」
「出せません」
「は?」
「そんなお金出せませんよ」
私は亜美がかつて私に言った言葉を、そのまま返しました。
「何を言ってるんですか?いつも払ってもらってるじゃないですか」
「世帯が別ですから、お金を渡す筋合いはありません」
啓一が新聞から顔をあげました。
「母さん、何を言ってるんだ?」
「1週間前に世帯分離の手続きをしました。私たちはもう、法的に他人です。それに来月の給料から振り込み先も変更しています。もうあなたたちに渡すお金は1円もありません」
「ふざけるな。生活費はどうするんだ?」
「知りません。ご自分たちの収入でやりくりしてください」
「母さんの収入を当てにして生活してるんだぞ」
「当てにしないでください。私はATMだったんでしょう?でも、ATMにもパスワードがあります。そして、口座を変更する権利もあるんです」
その時、郵便受けに何かが投函される音がしました。亜美が取りに行って戻ってくると、顔面蒼白になっています。
「固定資産税の納付書…20万円…延滞金付きで…」
「ええ、そうでしょうね。前回の納付書、私は払いませんでした。世帯が別なので、私が払う理由はありません」
「なんで俺たちが払うんだよ」
「あなたたちが住んでいる家でしょう。私は今日出ていきますから」
「出ていく?!」
亜美が絶句しました。
「ええ、新しい職場の寮に移ります」
「ちょっと待って。まさか…」
亜美が慌てて口を押さえます。
「ああ、そうでしたね。私の給料から月10万円、亜美さんのお母様に送っていたんでしたね。大切な家族だからって。でも私は家族じゃないから、通院費3万円も『そんなお金出せません』と言われました」
それは1週間前、私が扁桃炎にかかっていた時のことです。覚えていますか?
まだパジャマ姿のゆあとしおりがリビングに入ってきました。
「ママ、どうしたの?」
「バーバ、大きいカバン持ってる!」
しおりが私のスーツケースに気づきました。
「バーバね、今日から別のところに住むの」
「なんで?」
ゆあが不思議そうに聞きます。
「バーバは病気で汚いから近づいちゃダメって、ママが言ったでしょう」
「でもバーバ、汚くないよ」
その時、3歳のしおりが爆弾発言をしました。
「ママ、バーバのお金全部とろって言ってたよ」
「しおり!?」
「だって本当だもん。パパと一緒に夜話してた」
「バーバが死んだら家もらえるって、パパ言ってた」
「ママはバーバの通帳こっそり見てた。泥棒みたいだった」
「違う!そんなことしてない!嘘つき!」
亜美の絶叫が家中に響き渡りました。子供たちは母親の剣幕に怯えて泣き出します。
その時、玄関のチャイムが鳴りました。タイミングよく引っ越し業者が来たのです。
「森下様、お荷物を運び出させていただきます」
「お願いします」
作業員が次々と私の荷物を運び出し始めました。その様子を見て、啓一が慌てます。
「待て。母さん、本気か?」
「ええ、これは内容証明郵便です。1ヶ月以内にこの家から退去してください」
「なんだと?」
「この家は私の名義です。私には、住まわせたくない人を退去させる権利があります」
「俺は息子だぞ」
「息子?私をATM扱いし、死を願い、預金を狙う人が息子ですか?」
騒ぎを聞きつけて、近所の人たちが集まってきました。
「森下さん、大丈夫?すごい叫び声が聞こえたけど」
開いた玄関から、亜美の取り乱した姿が丸見えでした。
「お母さん、お願いします。今までのこと、全部謝ります」
「謝る?私の通院費3万円を『そんなお金出せません』と言った人が?」
「出します!いくらでも出します!」
「そんな余裕、あなたたちにあるの?15万円の生活費がなくなって、固定資産税20万円も払えなくて、亜美さんの実家への仕送り10万円もできなくて、ゆあの英会話代3万円も払えない。どこにそんなお金があるんですか?」
亜美は絶望的な表情で崩れ落ちます。近所の人たちがひそひそ話し始めました。
「息子さん夫婦、お母さんをATM扱いしてたの?」
「病気なのに治療費も出さなかったなんて、ひどい話ね」
亜美の面目は完全に潰れました。いつも上品ぶっていた仮面が、近所中に剥がれ落ちたのです。
私は最後に言いました。
「この家は売却する予定です。3000万円になるそうです。新しい持ち主が決まったら、強制的に出て行ってもらいます」
「母さん!」
啓一が叫びましたが、私はもう振り返りません。孫たちの頭を優しく撫でて、私は29年間暮らした家を後にしました。
「バーバ、また来るね」
引っ越しのトラックに乗り込んでいると、後ろから亜美の絶叫が聞こえてきます。
「どうするのよ!どうやって生活するのよ!」
完全勝利。これが「そんなお金出せません」と私を見捨てた者への、正当な報いでした。1週間前、通院費を拒否された瞬間から始まった静かな復讐が、ついに完結したのです。
—
3ヶ月後、私は新しい生活にすっかり慣れていました。隣町のスーパーの寮は八畳一間の小さな部屋でしたが、私にとっては天国のような場所です。朝、目覚ましの音で起きると、まず感じるのは深い安堵感。もう誰の顔色も伺わなくていい。自分の時間を、自分のために使えるのです。
「おはようございます、由美子さん」
職場では皆が温かく迎えてくれました。
「今日も頼りにしてますよ」
店長の言葉に、私は心から嬉しくなりました。29年の経験は伊達ではありません。新しい職場でも、私の技術は高く評価されていました。
「由美子さんがいてくれて、本当に助かります。精肉の売上が20%も上がりましたよ」
「そんな、私なんか」
「いえいえ、由美子さんの作る総菜は絶品だって、お客様からも評判なんです」
認められる喜び。必要とされる幸せ。家族から奪われていたものを、職場の仲間が与えてくれます。
体調もすっかり回復していました。
「森下さん、最近顔色がいいですね」
「ええ、咳も出ませんし、食欲もあります」
「それは良かった。ちゃんと通院して薬を飲み続けた成果ですね」
通院費を惜しまず、自分の健康を第一に考える。当たり前のことが、こんなにも幸せだとは思いませんでした。1ヶ月にかかる通院費3万円。かつて「そんなお金出せません」と拒否された金額で、私は健康を取り戻したのです。
そして何より嬉しいのは、実家からの家賃収入でした。結局売却はせず、不動産屋の仲介で子育て世帯の若い家族に、月15万円で貸し出すことができたのです。皮肉なことに、私が息子夫婦に渡していた金額と同じ。でも今度は確実に、私の口座に振り込まれます。
「これで老後の心配もありませんね」
銀行の担当者が言いました。通帳の残高は着実に増えています。給料18万円と家賃収入15万円、合計33万円の月収は、一人暮らしには十分すぎる金額です。
—
一方、息子夫婦の生活は一変していました。ある日、職場の同僚が教えてくれたのです。
「由美子さんの息子さん夫婦、大変みたいよ」
「そうなんですか?」
「駅前の古いアパートに引っ越したって。家賃8万円の2DKらしいわ。奥さんもパートを始めたらしいけど、子供の世話もあるからフルタイムでは働けないみたいね」
私からの15万円。それに固定資産税の滞納金も重くのしかかっていることでしょう。
夕方、寮の自室に戻るとテレビでニュースが流れていました。
「高齢者への経済的虐待が社会問題になっています。家族という名のもとに、高齢者の年金や貯金を搾取するケースが増えています。専門家は、高齢者にも財産を守る権利があると指摘しています」
まさに私が経験したことでした。その通りだと、私は深く頷きます。私の決断は間違っていなかった。息子夫婦という名の人に屈しない勇気を持てたことを、今は誇りに思います。実の息子夫婦であっても、私をATM扱いし、死を願うような人間に情けをかける必要はなかったのです。
私は窓の外を眺めました。春の訪れを告げる桜が、ちらほらと咲き始めています。新しい季節の始まり。私の新しい人生も、これから花開いていくでしょう。
もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、勇気を出して立ち上がってください。年齢は関係ありません。自分の人生を取り戻すのに、遅すぎることはないのです。家族という名の呪縛に縛られて、自分を犠牲にし続ける必要はありません。あなたには幸せになる権利があります。自分を大切にする権利があります。そして、理不尽に対して「ノー」という権利があるのです。
必ず道は開けます。私がそうだったように。一歩踏み出す勇気さえあれば、新しい人生が待っています。


