「無責任すぎるだろ。家庭を放り出したりして。やっぱりお前は母親失格だな」と、夫は私の実家の玄関で怒鳴った。七年間、帰らない夫と口も聞かない娘の間で、家庭を守ろうと必死だったのに。彼は「他人のお前は黙ってろ」といつも言い、娘を盾に離婚を拒否してきた。そんな夫が、今度は「娘を連れて来い」と叫んだ。娘の腕を掴み、無理やり玄関に引きずり込む。その時、私の背後から父の重い声が響いた。私は、もう決めてい…

「無責任すぎるだろ。家庭を放り出したりして。やっぱりお前は母親失格だな」と、夫は私の実家の玄関で怒鳴った。七年間、帰らない夫と口も聞かない娘の間で、家庭を守ろうと必死だったのに。彼は「他人のお前は黙ってろ」といつも言い、娘を盾に離婚を拒否してきた。そんな夫が、今度は「娘を連れて来い」と叫んだ。娘の腕を掴み、無理やり玄関に引きずり込む。その時、私の背後から父の重い声が響いた。私は、もう決めてい...

「もうこの家には母さんは必要ない」

その言葉が鋭い刃物となって、私の心を真っ二つに切り裂いた。

年末の夜。私は台所で、家族が集まる宴の準備に追われていた。四十数年間、毎年欠かさず続けてきた行事だ。今年で最後かもしれませんね。そう言った時、胸の奥に言いようのない不安が広がっていた。

隣の部屋から、息子の幸介と嫁の七海の声が聞こえてきた。

「今日こそはっきりさせようよ」
「親戚の前で言えば、母さんも諦めがつくだろう」

私の手が止まった。耳を澄ませたが、それ以上の会話は聞こえてこなかった。

やがて親戚たちが到着し始めた。不思議なことに、誰も私と目を合わせようとしない。挨拶もそこそこに席につく。何か良くないことが起きようとしている。

宴が始まり、私はいつものように料理を運んだ。席に着こうとすると、七海が言った。

「お母さんは、そちらの端の席でお願いします」

指さされた先は、一番隅の席だった。四十二年間、この家の主婦として中心に座ってきた私が、なぜ端に追いやられなければならないのか。しかし私は黙って移動した。

「お母さん、この煮物、味が薄いですよ」
「お箸も、今時こんな作り方する人いませんよ」

七海の言葉が胸に突き刺さる。幸介も同調するように頷いている。

「母さんも年だから、味覚が鈍ってきたのかな」

親戚たちの視線が私に集まった。同情なのか、哀れみなのか。どちらにしても、私にとっては屈辱だった。長年積み重ねてきた献身が、まるでなかったかのように扱われる。この理不尽な状況に、私の心は少しずつ、しかし確実に怒りで満たされていくのだった。

宴が進むにつれ、七海の私への批判はエスカレートした。

「そういえばお母さん。この間のPTAの集まりで、お母さんの服装のことが話題になっていましたよ。あの古臭い着物の姿で現れた時、みんな驚いていました。正直、恥ずかしかったです」

私が大切にしている着物は、亡き夫との思い出の品だった。それをこんな風に言われるなんて。

「おい、それは言いすぎじゃないか?」

親戚の一人が口を開きかけたが、幸介が遮った。

「いや、僕も同感です。母さんの価値観はもう時代遅れなんですよ。料理の味付けも、家事のやり方も、全部古い」

私の手がかすかに震え始めた。三十八年間、教師として子供たちを育て、退職後は家族のために尽くしてきた私の人生が、全否定されているような気がした。

「そうそう。この間も近所の奥様方と話していたんですけど、お母さんが作る料理って、本当に時代遅れで恥ずかしいんです。お客様をお招きする時は、必ず私が作り直さないといけなくて、本当に困っているんです」

嘘だった。先週も、七海の友人たちが私の手料理を絶賛していたばかりだ。なぜこんな嘘をつくのだろう。

「母さんもそろそろ自覚した方がいいですよ。もう年なんですから、無理しないで。家事も料理も、若い七海に任せて、母さんは休んでいればいいんです」

「でも私はまだ……」

「最近、物忘れも激しくなっているじゃないですか。この間も、ガスの火を消し忘れて、危うく火事になるところでした」

それも嘘だった。私は一度もそんなミスをしたことはない。

「認知症の検査を受けた方がいいんじゃないですか」

その言葉が発せられた瞬間、部屋の空気が凍りついた。まだ六十八歳。頭もはっきりしているのに、なぜそんなことを言われなければならないのか。

「そうだね。母さん、一度病院で見てもらった方が安心かもしれない」

息子までもが七海の言葉に同調する。親戚たちは誰も私をかばってくれない。ただ気まずそうに視線をそらすばかりだ。

その時、幸介の従兄弟が口を開いた。

「でも、おばさんはまだまだしっかりしているように見えますけど」

かすかな希望の光だった。しかし、その光もすぐに消されてしまう。

「見た目だけじゃ分からないんですよ。一緒に生活している私たちだから分かるんです。日に日に症状が進んでいるんです。同じことを何度も聞いたり、約束を忘れたり」

全て出たらめだった。私の記憶力は、むしろ人一倍優れているくらいだ。

「本当に心配なんです。お母さんのことを思えばこそ」

七海の白々しい演技に、私の怒りは頂点に達そうとしていた。しかし、ここで感情を爆発させれば、それこそ認知症の症状として扱われかねない。私は必死に怒りを抑え込んだ。

宴は重苦しい雰囲気の中で続いた。親族たちは次第に私を避けるようになった。まるで何かが感染するとでも思っているかのように。私は完全に孤立していた。

長い夜が続いた。重苦しい空気の中、幸介が突然立ち上がった。その表情は、何か重大な決意を秘めているように見えた。

「母さん、みんなの前で言うけど」

私の心臓が大きく鼓動を打った。

「ずっと言おうと思っていたんだ。母さんには感謝している。今まで本当によくやってくれた。でも」

幸介の言葉が一瞬間を置いた。

「もうこの家には、母さんは必要ない」

その言葉は、鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。必要ない。長年この家のために生きてきた私が、必要ないと言われたのだ。

「母さん、これは僕たち夫婦で決めたことです。母さんも年だし、これからは自分の人生を楽しんで欲しい。だから」

幸介は一呼吸を置いて、決定的な言葉を放った。

「早く出てってください」

時が止まったような気がした。親戚たちの間にどよめきが起こる。しかし、誰も幸介を止めようとはしなかった。

「何を言っているの、幸介」

私の声は震えていた。

「母さん、分からないんですか? もう僕たちは母さんの世話をする余裕がないんです。七海も仕事で忙しいし、子供たちの教育にもお金がかかる。正直、母さんの存在が負担になっているんです」

負担。その言葉が胸に突き刺さる。教育費八百万円を援助し、結婚してからも様々な援助をし、孫の世話を一手に引き受けてきた私が、負担だというのだ。

「そうですよ、お母さん」

七海が畳みかけるように言った。その手には何やら資料のようなものが握られている。

「実は、いくつか施設のパンフレットを用意してあります。どこも評判の良い施設ですから、きっとお母さんも満足されると思います」

施設。その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。私を施設に入れようというのだ。まだ健康で、自立した生活ができる私を。

「でも、私はまだ元気です。認知症でもありません」

「認知の人は、自分が認知症だと認識できないんですよ」

幸介の言葉は、医者のような口調だった。

「だから早めに対処することが大切なんです。施設なら専門のスタッフもいるし、同年代の友達もできる。母さんのためを思っての決断なんです」

私のため。その言葉がどれほど空々しく響くことだろう。

「月々の費用は私たちが負担しますから、心配しないでください。もちろん、お母さんの年金と貯金も使わせていただきますけど」

私の財産まで狙っているのです。怒りで頭が真っ白になりそうだった。

「断ります。私はこの家を出るつもりはありません。ここは私の家でもあるのです」

「母さん、土地も家も、僕の名義になっているんですよ」

幸介の冷たい言葉が私を打ちのめした。確かに数年前、相続税対策として名義を変更していた。まさか、それがこんな形で使われるとは。

「母さん、わがままを言わないでください」

七海の声に苛立ちが混じり始めた。

「私たちだって、こんなこと言いたくないんです。でも、お母さんのためを思えばこそ」

「もういいです」

私は七海の言葉を遮った。これ以上、偽善的な言葉を聞きたくありませんでした。親戚たちはただ黙って成り行きを見守っている。きっと事前に根回しされていたのだろう。この宴は、私を追放するための舞台だったのだ。

「一週間以内に出て行ってください。それまでに施設を決めないなら、僕たちが勝手に決めますから」

私は息子の顔をじっと見つめた。あの可愛かった幸介は、もうどこにもいなかった。目の前にいるのは、母親を平然と追い出そうとする冷酷な他人だった。

私はゆっくりと立ち上がった。膝が少し震えていたが、それを悟られないよう背筋を伸ばして立った。部屋中の視線が私に集まる。泣き叫ぶか、懇願するか、あるいは怒りを爆発させるか。きっとそんな反応を期待していたのだろう。しかし、私は一言も発しなかった。幸介とも、七海とも、親戚の誰とも目を合わせることなく、ただ前を向いて立っていた。

長い沈黙が流れた。

「母さん……」

幸介が不安そうな声を出した。私の無言の態度に戸惑っているようだった。それでも私は黙っていた。言葉にすれば、きっと感情が溢れ出してしまう。四十二年間の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡っていた。幸介を生んだ日のこと。初めてママと呼ばれた時の感動。運動会で一等賞を取った時の誇らしげな顔。大学合格を知らせに来た時の輝く笑顔。全ては過去のものになってしまった。

「母さん、何か言ってください」

七海の声にも、わずかな動揺が感じられた。彼女たちは、私が取り乱すことを想定していたはずだ。それなのに、この静けさ。きっと計算外だったのだろう。

私は深く息を吸い込み、できるだけ平静な声で言った。

「わかりました」

たった一言。それだけだった。幸介と七海は顔を見合わせた。あまりにもあっさりとした返事に、戸惑ったようだった。

「本当に、分かってくれたんですか?」

幸介の声には安堵と同時に、かすかな不安が混じっていた。私は答えなかった。ただ静かに席を立ち、部屋を出ようとした。

「母さん、どこへ?」

「少し片付けをしてきます」

それだけ言って、私は部屋を後にした。廊下を歩く私の足音だけが静かに響いていた。

寝室に入ると、すでに用意してあったスーツケースが目に入った。実は、この日が来ることをどこかで予感していたのかもしれない。大切な写真、思い出の品、最低限の着替え。すでに荷造りは済んでいた。

タンスの奥から、一冊の古い手帳を取り出した。長年の付き合いがある人たちの連絡先がびっしりと書かれている。教師時代の教え子たち、PTAで知り合った保護者たち、地域活動で親しくなった方々。その中には、今では社会的に大きな影響力を持つようになった人たちも少なくない。会社経営者、政治家、医師、弁護士。みんな、私のことを「幸恵先生」と慕ってくれる人たちだった。

特にある会社の会長夫人とは、四十年近い親友だった。彼女の息子が不登校になった時、私が親身になって相談に乗ったことがきっかけで、深い友情で結ばれていた。その会社は、偶然にも幸介の勤務先の最大取引先だった。

私は手帳を静かに閉じた。今はまだ、何もしません。ただ静かに去るのです。

荷物を持って廊下に出ると、幸介が立っていた。

「母さん、本当に出ていくの?」

今更、何を言っているのだろう。さっきあれだけはっきりと追放を宣告したくせに。

「幸介。もう『母さん』と呼ばれることもないのでしょう。あなたの望み通りにします」

「母さん……」

幸介の表情に一瞬、迷いのようなものが見えた。しかし、後ろから七海が現れると、再び冷たい表情に戻った。

「お母さん、タクシーを呼びましょうか?」

七海の申し出を、私は静かに断った。

「結構です。自分で行きます」

玄関に向かう途中、振り返ることはしなかった。ただ最後に、玄関で靴を履きながら一言だけ言った。

「さようなら」

その時、私の目に宿った光を、幸介たちは見ただろうか。それは悲しみでも、怒りでもない。もっと深い何か。決意。そう、硬い決意の光だった。

玄関のドアを開けて外に出ると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。星空が美しく輝いている。私は一度も振り返ることなく、その場を後にした。長年暮らした家を、静かに去った。

タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げた。以前から、もしもの時のために準備していたアパートだ。車が走り出すと、不思議なことに心が軽くなっていくのを感じた。長年背負っていた重荷を、やっと下ろすことができたような気がした。

車窓から見える町の明かりが次第に遠ざかっていく。同時に、私の中で何かが静かに、しかし確実に動き始めていた。復讐。いいえ、それは復讐というより、当然の報いを与えることでした。私を散々利用し、用済みになったら簡単に捨てる。そんなことが許されるはずがありません。

携帯電話の電源を切りました。しばらくは、誰とも連絡を取るつもりはありません。時限爆弾のカウントダウンは、すでに始まっていたのです。

年が明けて三日目の朝。幸介は慌ただしく出社の準備をしていた。

「今日は、大事な会議があるから遅くなるかも」

七海に声をかけながら、幸介は母親のことなどすっかり忘れていた。あれから連絡は一切ない。きっとどこかの施設に入ったのだろうと、勝手に解釈していた。

会社に到着すると、部長から緊急の呼び出しがあった。

「幸介君、ちょっと来てくれ」

部長の表情はただならぬものだった。会議室に入ると、社長以下役員が勢揃いしている。

「どうしたんですか?」

「君も知っているように、我が社の最大取引先は宮下商事だ」
「はい。売上の四割を占める重要な取引先です」
「その宮下商事から、今朝、契約解除の通知が来た」

幸介は自分の耳を疑った。

「契約解除? なぜですか? 何か問題でも?」

「理由は明かされていない。ただ『信頼関係の崩壊』とだけ書かれていた」

信頼関係の崩壊。その言葉が、幸介の胸に重くのしかかった。

「宮下商事との窓口は君だったね。何か心当たりはないか?」

「いえ、全く。年末にも挨拶に伺いましたし、何の問題もなかったはずです」

その時、秘書が慌てて入ってきた。

「社長、宮下商事の会長夫人から、幸介さんに伝言があります」

秘書はメモを読み上げた。

「『幸恵先生を大切にしない人とは、お付き合いできません』とのことです」

幸介の顔から血の気が引いた。幸恵先生。それは、母の名前だった。

「幸介君、君のお母さんは元教師だったね?」

社長の鋭い視線が幸介に向けられた。

「はい……宮下会長夫人と知り合いだったのか?」

幸介は必死に記憶をたどった。そういえば、母が時々「宮下さん」という友人の話をしていたような……。

「君、まさか……」

部長の言葉を最後まで聞く前に、幸介の携帯が鳴った。七海からだった。

「もしもし」
「大変なことになったわ! うちの実家から、絶縁するって連絡が来たの!」

七海の声はパニック状態だった。

「絶縁?!」
「私の母が言うには、お母さんが昔、母の命を救ってくれたんですって。それなのに、私たちがお母さんを追い出したって聞いて、怒っているのよ!」

幸介の頭は真っ白になった。母が七海の母親の命を救った? そんな話、聞いたことがない。

「詳しく話してくれ」
「今、そんな場合じゃないでしょ! 実家からの援助が止まったら、住宅ローンが払えなくなるじゃない!」

確かに、住宅ローンは七海の実家からの援助があって、なんとか支払っていた。それが止まれば……。

「どうするのよ! 私の実家は、もう一切援助しないって! あなたの会社も危ないんでしょう!」

「落ち着いて話そう」
「落ち着いてなんかいられない! 全部あなたのせいよ! お母さんを追い出すなんて言い出したのは、あなたじゃない!」

それは違った。追い出そうと言い出したのは、七海の方だった。しかし、今更そんなことを言い合っても仕方ない。幸介は震える手で、母に電話をかけた。しかし、何度かけても繋がらない。

翌日、会社では緊急会議が開かれた。最大取引先を失った今、大幅なリストラは避けられない。そして真っ先にリストラ候補に上がったのは、問題を起こした幸介だった。

「君には、責任を取ってもらう必要がある」

社長の冷たい言葉が、幸介を打ちのめした。

家に帰ると、七海の姿はなかった。テーブルの上に、置き手紙があった。

「実家に帰ります。離婚については、後日連絡します」

幸介は手紙を握りしめた。全てを失った。仕事も、家族も、家も。必死になって母の居場所を探した。親戚に聞いても、誰も知らないと言う。まるで煙のように消えてしまったかのようだった。

ようやく、母の友人の一人から連絡先を聞き出すことができた。幸介はすぐに電話をかけた。一回、二回、三回。ようやく、母の声が聞こえてきた。

「もしもし」

その声は、驚くほど平静だった。

「母さん! どこにいるんだ? 何が起きてるんだ?」

幸介の声は、掠れていた。

「幸介ですか? どうかしましたか?」

「どうかしたも、何もない! 会社も、家も、全てがめちゃくちゃだ!」

「そうですか」

母の声は、他人事のように淡々としていた。

「母さんが何かしたんだろう! 宮下商事も、七海の実家も、みんな母さんと関係があるんだろ!」

「私は何もしていませんよ。ただ、私がいなくなったことを知った方々が、それぞれ判断されただけです」

「嘘だ! こんな偶然があるはずない!」

「偶然ではありません。人との繋がりは、目に見えない糸で結ばれているのです。その糸を、あなた方が切ってしまっただけです」

幸介は言葉を失った。

「母さん、勘弁してくれ。何とかしてくれ。このままじゃ、本当に全てを失ってしまう」

「もう、私は家族ではないと言われましたから」

母の言葉は、冷酷だった。年末の夜、自分が母に言った言葉が、そのまま帰ってきたのだ。

「あれは……あれは、感情的になって……感情的に人を傷つけていいのですか? 親を公衆の面前で侮辱し、追い出してもいいのですか?」

幸介は答えることができなかった。

「幸介、あなたは私に『早く出てって』と言いましたね。私はその通りにしただけです」

「母さん……」

「もう、お互い他人です。他人に頼るのは、おかしいのではないですか?」

電話はそこで切れた。幸介は呆然と立ち尽くした。全ては、自分が巻いた種だった。母を軽んじ、侮辱し、追い出した。その報いが、今、自分自身に帰ってきたのだ。

窓の外では、冬の冷たい風が吹いていた。年末の夜、母を追い出した時と同じような、冷たい風だった。

春の訪れと共に、私の新しい生活は穏やかな輝きを見せ始めていた。小さなアパートの窓から見える桜並木が、満開の花を咲かせている。一人暮らしを始めて三ヶ月。最初は戸惑うこともあったが、今では自由な生活を心から楽しんでいた。

「幸恵先生、今日もお元気そうですね」

隣に住む西川さんが、笑顔で声をかけてくれた。このアパートの住人は、みんな温かい人ばかりだ。

「ええ、今日は友人たちとお花見の予定なんですよ」

昼過ぎ、約束の場所に着くと、懐かしい顔ぶれが集まっていた。教師時代の同僚、PTAで知り合った保護者の方々、地域活動の仲間たち。みんな、私のことを心配して集まってくれたのだ。

「幸恵先生、本当にお元気そうで、安心しました」

宮下商事の会長夫人、典子さんが真っ先に駆け寄ってきた。

「典子さん、この度は……」

「いいえ、当然のことをしたまでです。幸恵先生のような素晴らしい方を粗末に扱う人とは、お付き合いできません」

典子さんの言葉に、胸が熱くなった。

「それにしても、息子さんがあんな人だったとは思いませんでした」

別の友人が、嘆かわしそうに言う。

「いえ、幸介も昔は優しい子だったんです。ただ、どこかで道を間違えてしまったのでしょう」

私は静かに微笑んだ。怒りや憎しみは、もうなかった。ただ、少し寂しいだけだった。

「ところで、幸恵先生」

典子さんが改まった様子で言った。

「実は、お願いがあるんです。うちの会社で、新入社員の教育をしていただけませんか? 先生の人を育てる力を、是非生かしていただきたいんです」

思いがけない申し出に、私は驚いた。

「でも、私はもう六十八歳ですよ」

「年齢なんて関係ありません。先生の経験と知識は、何者にも代えがたいものです」

周りの友人たちも、口を揃えて賛成してくれた。

「幸恵先生なら、きっと素晴らしい人材を育ててくれますよ」
「私の会社でも、是非お願いしたいくらいです」

温かい言葉に包まれながら、私は新しい人生の扉が開いていくのを感じた。桜の花びらが春風に舞っている。まるで、私の再出発を祝福してくれているかのようだった。

「今年が、一番幸せな春です」

私の言葉に、みんなが優しく微笑んだ。

その頃、幸介はどうしていただろうか。小さなアパートの一室で、一人寂しく暮らしていた。会社は解雇され、家は差し押さえられ、妻とも別れた。全てを失った今、ようやく母の存在の大きさに気づいたのだ。

「母さん……」

薄暗い部屋で、幸介は古いアルバムを見つめていた。そこには、幸せだった頃の家族写真が並んでいる。母に抱かれて笑う幼い自分。運動会で一緒に走る母。大学の入学式で誇らしげに立つ母。どの写真にも、愛情深い母の姿があった。その母を、自分はなんと粗末に扱ってしまったのだろう。

携帯を手に取り、母にメールを送った。

「母さん、ごめん。本当にごめん。もう一度、やり直させてください」

しかし、返事はなかった。既読にはなるが、返信は来ない。

七海はどうなっただろうか。実家に戻ったものの、両親からは冷たく扱われていた。

「幸恵さんは、私の命の恩人なのよ。その人を追い出すなんて、あなたはなんて恩知らずなの!」

母親の叱責に、七海は何も言えなかった。今更ながら、義母の偉大さを思い知らされたのだ。

私の方と言えば、新しい仕事にも慣れ、充実した日々を送っていた。宮下商事での仕事は、とても楽しいものだった。若い社員たちは、私のことを「幸恵先生」と慕い、熱心に学んでくれる。

「先生のおかげで、仕事の意味が分かるようになりました」
「人との接し方、本当に勉強になります」

彼らの成長を見守ることが、私の新しい生きがいになった。

ある日、会社の休憩室で新聞を読んでいると、見覚えのある会社名が目に入った。幸介が勤めていた会社だった。

「神戸商事、民事再生法を申請」

記事によると、最大取引先を失った後、経営が急速に悪化したとのことだった。私は静かに新聞を置いた。因果応報。まさに、その言葉通りのことが起きたのだ。

夕方、アパートに帰ると、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人は、幸介だった。震える手で封を開けると、便箋にびっしりと文字が書かれていた。謝罪と後悔、そして許しを乞う言葉で埋め尽くされている。私は手紙を最後まで読み、静かに引き出しにしまった。返事を書くつもりはなかった。許すも許さないも、もう関係ない。私は私の人生を、幸介は幸介の人生を生きていく。それだけのことだった。

その夜、私は日記を開いた。

「人を公然と侮辱し、傷つけた者は、必ずその報いを受ける。これは世の中の真理なのかもしれません。でも、復讐が目的ではありませんでした。ただ、自分の尊厳を守りたかっただけです。息子夫婦には、この経験を通じて、人を大切にすることの意味を学んでほしい。それが、母としての最後の願いです」

私は今、本当に幸せです。自由で充実した毎日を送っています。支えてくれる友人たちがいて、生きがいのある仕事もある。これ以上、何を望むことがあるでしょうか。

もし、これを読んでいる方の中に、理不尽な扱いを受けている人がいたら、伝えたいことがあります。我慢し続ける必要はありません。自分の尊厳は、自分で守るものです。静かに、しかし毅然とした態度で、自分の道を選んでください。正義は、必ず実現されます。因果応報という言葉があるように、人の行いは必ず自分に帰ってくるものです。だから、恐れないでください。あなたには、幸せになる権利があるのですから。

日記を閉じて、窓の外を見た。春の夜空に、星が輝いている。人生は、まだまだこれからです。私は穏やかに微笑んだ。六十八歳。決して若くはありませんが、新しい人生を楽しむには、十分な時間があります。明日は、新入社員の研修があります。彼らに、仕事の技術だけでなく、人として大切なことも伝えていきたい。それが、教師として生きてきた私の使命なのかもしれません。

電話が鳴った。典子さんからだった。

「幸恵先生、明日の研修の件ですが……」

仕事の話をしながら、私は思った。人生には、いろいろなことが起こります。裏切りも、悲しみも、怒りも。でも、それを乗り越えた先には、必ず新しい幸せが待っている。私の物語は、決して特別なものではありません。きっと、多くの人が似たような経験をしているでしょう。大切なのは、自分を失わないこと。そして、どんな時でも、尊厳を持って生きることです。

春の夜は、静かに更けていきました。私の新しい人生は、まだ始まったばかりです。

もう一つの物語もお届けします。

「娘は絶対に俺の味方なんだよ」

夫は私に向かってよくこう言った。それが真実かどうかを確かめる術は私にはない。なぜなら、娘は私と話をしてくれないからだ。

離婚歴があり、一人娘がいる夫と結婚して約七年。温かい家庭を築くべく、夫にも娘にもたくさん話しかけ、いつでも変わらぬ態度で接してきた。しかし、夫はいつも家におらず、帰ってこない日もたびたびあった。娘は、私が話しかけても反応はなく、まともに言葉を交わすこともできていない。さらに、父子の関係も悪化しており、娘は父親である夫に対して反抗的な態度を見せる。家の中は、いつも冷え切った状態だった。

このままでは良くないからと、夫に娘としっかり話すように言うのだが。

「娘と俺は血が繋がってるんだよ。どんだけ怒っても、親子なんだから嫌われるわけないだろ」

夫はいつもそう言うのだ。そんなことはないと私がいくら言っても、聞く耳を持たない。それどころか「お前は他人だけどな」と笑うのだ。

七年頑張ったけれど、結局、私は一人で実家に戻った。夫からの連絡は全て無視した。私が七年の間にされてきたことを、そのまま返してやっただけだ。すると、夫は実家に乗り込んできた。

「無責任すぎるだろ。家庭を放り出したりして。やっぱりお前は、母親失格だな」
「家族を捨てるとか、最低な母親だな、マジで」

夫は私の目の前で口汚く罵ってくる。そうして喚いていた夫だったが、私の背後からの声に硬直した。

「どっちが最悪なんだか」

私は黒美。都内の営業事務として働く三十二歳。夫の誠と娘のニャンコと三人で暮らしていたが、実は実家に戻ってきている。なんとか耐えてきたのだが、もう限界だった。心を決めて、今ここにいる。

仕事の関係で出会った夫と結婚したのは、今から七年前。一回り上の彼とお付き合いを始めて少しして、離婚歴があり、小学三年生の娘がいるということを告げられた。そして、彼は私と結婚したいと思っていると言った。当時の私は二十代半ばで、周囲もまだ結婚する人は多くなく、ましてやこんな複雑な事情を抱えた交際をしている友達もいなかった。だから、友達にも相談しづらく、私は一人で悩むしかなかった。

彼は、私とずっと一緒にいたいから結婚しようと、何度も熱心にプロポーズしてきた。プロポーズ自体は嬉しかったけれど、その先を考えるとどうしても不安が大きい。突然、小学生の母親になるなんて想像もできないし、離婚歴についても気になる。だから、私はその全ての不安や疑問を夫にぶつけたのだ。何度も何度も話し合った。時には話し合いがヒートアップすることもあった。でも、私の疑問や不安に対して適当にごまかすようなことをするなら、結婚なんてできないと思ったのだ。

時間をかけて話し合い、私は彼と結婚することを決めた。しかし、不安や疑問はゼロにならなかったし、大喜びで結婚するわけではなかった。私が結婚を決めた大きな理由は、自分が母子家庭で育ったからだ。

私の母は、私が小学校に入ってすぐ病気で亡くなっている。家庭の中から母親がいなくなる悲しさも、忙しそうにしている父にこれ以上頼ることはできないという寂しさも、私の中に薄れることなく残っている。きっと、彼の娘もそういう感情を抱いているはずだ。夫と元妻は性格の不一致で別れたそうなので、亡くなったわけではないが、母子家庭という点では私と一緒だ。きっと、通じる部分が多くあるはず。

結婚すると決めた後、彼から娘を紹介された。小学三年生はまだ幼い。どこか不安そうな彼女を見て、私がそばにいてあげなければと思った。あの頃の自分を、彼女に投影していたことは否めない。でも、寂しさは絶対にあるはずだ。私は彼女に寄り添い、絶対的な味方になろうと決めた。

突然現れた他人を、母親として受け入れることは難しいかもしれない。でも、母親の役割を受け持つ大人の女性として、私を頼ってくれたらいい。私自身も、父子家庭という編成の家庭で過ごすことに憧れがあり、家族で賑やかに楽しく生活したいと思っていた。結婚によって、その理想の形が出来上がる。あとは時間をかけて馴染んでいけるように頑張るだけだ。

そうして、私は結婚した。結婚のタイミングで中古のマンションを購入し、夫と娘と三人の新生活が始まった。娘との関係は、やはりそううまくは進まなかった。しかし、それは覚悟の上だ。どんな時でも、丁寧に娘と向き合い、味方でいることを心がけて日々を送っていた。

むしろ、本当に困ったのは娘よりも夫だ。夫はある時突然カメラにはまり、高価なカメラやレンズを買っては撮影に出かけるということを繰り返すようになったのだ。休みの日に一人で出かけて夜まで帰ってこなかったり、平日も早々に仕事を終えてカメラを持って深夜まで出歩くことが当たり前になっていった。あまりにも家庭を顧みない様子に、苦言を呈したことも一度や二度ではない。私と娘が仲良くなれるように間をしっかり取り持って欲しいと結婚前から話していたはずなのに、その約束も反故にされている。

しかし、夫は「娘の卒業式や入学式で綺麗な写真を撮るためだ」と言い張って、行動を改めることはなかった。夫のカメラ熱はどんどん増していき、とうとう勤めていた会社を辞めて、フリーのカメラマンになると言い出した。当然、私は反対した。その時、娘は中学校に入学したばかりで、これからどんどんお金が必要になってくる。マンションのローンもある。これまで勤めてきた会社からの給料よりもカメラマンとしての収入が多くなることは期待できない。だって、夫はただのカメラ好きの素人なのだ。

結局、「これまでと同じ金額を家に入れるから問題ないだろう」と言い捨てて、夫は会社を辞めた。さらに撮影と称して、これまで以上に家を開けることが増えていった。そんな様子を見て、娘も父親を避けるようになっていった。

結婚して分かったことだが、夫は娘に対する態度が雑で、自分の機嫌が良い時は娘に「最近学校はどうだ」と話しかけることもあるが、機嫌が悪い時は娘に話しかけられても無視したりする。ずっとこんな調子だったとしたら、娘はどれだけ生き苦しかっただろうと思う。娘が幼い時だったら従うだけだっただろうが、今や娘も思春期真っ只中で、いわゆる「うざい父親」を無視するようになったのだ。機嫌の良い夫が娘に話しかけても、無視して部屋にこもったりする。それに怒った夫が娘を怒鳴りつけても、「父親すんな」と呟いて家を出て行く。正直なところ、そう言われて当然の父親だと思う。娘に対しての接し方もそうだし、そもそも家にいないのだ。そんな父親が気分次第で接触してきても、相手をしたくないと思うのも仕方ない。

実際、そうやって娘と揉めた後も、夫はすぐに出かけてしまうのだ。娘としっかり話し合うこともせず、そのまま時間が過ぎた頃、また同じことを繰り返す。そのせいで娘の態度はどんどん硬化していくのに、夫はいつも自分の気分で娘に接するのだ。娘がどんどん父親を軽蔑してしまっていることが見て取れるから、私から夫に娘とちゃんと話をするべきだと進言したこともある。私が間に入って、父子で話し合う機会を設けようとしたのだが、夫はまともに話を聞こうともしない。

「娘と俺は血が繋がってるんだよ。どんだけ怒っても、親子なんだから嫌われるわけないだろ」

何度言われても、夫はこう言う。親子関係は、好き嫌いの簡単な言葉で済まされるようなものではない。親子という関係だからこそ簡単に離れることはできないだろうが、そこに信頼がなければ、それは呪縛と変わらなくなると、私は思う。

「話しかけている娘を無視するのも、気分次第で怒鳴りつけたり大きな音を立てて脅すのも、場合によっては虐待だよ」

「別に殴ったりしてないだろ」

「手を出すだけが虐待じゃないよ。いつか、本当に離れていかれるよ」

「血が繋がっているから平気だって言ってんだろ。お前は他人だけどな。だから娘は絶対に俺の味方なんだよ」

私が何を言っても、夫の考えは変わらないらしかった。そしていつも最後には、「お前は他人だけどな」と言ってくるのだ。そんなわけないと思うのだが、自信を持って言い切ることもできずにいる。なぜなら、娘は私のことも避けているからだ。年齢的にも反抗期の真っ只中にあり、親と話したくない年頃だからというのも一因だとは思う。ただ、確かに元を正せば、私と娘は他人なのだ。夫が言うように、血の繋がりさえあれば何でも許されるとは思わないけれど、血の繋がりもない私は、あんな風に強気に出ることもできない。

私は娘には何の落ち度もないと思っている。夫の態度はひどいものだし、無視したくもなるだろう。娘からしたら、私の態度だって、父親の再婚相手であることを考えたら不思議でもない。私にできることは、娘にしっかり向き合うことだけだ。無視されたとしても、避けられたとしても、私は娘の味方でい続ける。家族が帰ってくる家庭を守り、夫とも娘とも対話することは諦めない。

そう思い続けて、七年。夫は相変わらず家にいることの方が少なく、撮影のためだと言い訳をして好き勝手に飛び回っている。娘は高校生になり、家で口を開くことはほとんどなく、自分の部屋にいるばかり。三人暮らしのはずなのに、この家の中で言葉を発するのは私一人だ。

ずっと頑張ってきたけれど、私もただの人間だったようだ。温かい家庭を築きたいとひたすらに抱き続けてきた思いも、さすがに尽きた。いくら打たれても壊れない鋼の心なんてものはなく、ぽっきり折れた心は、もう治りそうもなかった。

私は一人で実家に戻り、夫からの連絡にも一切反応しなかった。

私が家を出て実家に戻ってから一週間が経過した週末、夫が実家にやってきた。スマホへの連絡を全て無視していたから、しびれを切らしたのだろう。どうせ、家事をする人間がいなくて不便だとか、その程度の理由だろうけれど。

「なんの用よ」

とりあえず玄関には入れてやった。しかし、靴は脱がない。家の中に入れてやる義理もない。

「無責任すぎるだろ。家庭を放り出したりして。やっぱりお前は、母親失格だな」

夫は私を指差しながら大声で言う。もともと大声で私を罵倒してくる人だった。最初はやっぱり怖いと思ったし、娘にも怒鳴る父親を見せたくなかったから、怒らせないようにしなければいけないと思っていた。だから、逆らうことをせず、夫の意見を受け入れてきた。でも、そんな我慢はもうやめだ。

「家庭をほっぽり出してフラフラしてるのは、どっちよ?」

「俺は仕事もあるから」

「私だって仕事してるわよ。それに加えて家のことまでしてるって、負担が偏りすぎだと思わないの?」

「家のことは、お前の仕事だろうが」

「そんな法律ないわよ」

「うるせえ。娘の面倒も放棄しやがって。最悪の母親だな」

本当に、どの口が言っているのだろう。父親のくせに、どれだけ娘を顧みてこなかったと思っているのか。自覚は全くないようだが、この男こそ、父親失格だ。

「母親としても妻としても役立たずな奴は、もう離婚だ」

夫が真っさらな離婚届を私の目の前に突き出しながら言う。わざわざ持ってきたのか。そうね、離婚しましょう。

「え?」

「細かいところは弁護士を入れるとして、届けだけはすぐに出せるわね」

「離婚だぞ。バツがついてもいいのか?」

「あんたと夫婦でいるよりは、断然まし」

夫は、私が離婚を嫌がると思っていたらしい。私の返答に、言葉を失っている。私がどんな考えで実家に帰ってきたと思っていたのか。むしろ、離婚届を持ってきてくれてありがたいと思っているくらいなのに。

「う、入ってこい」

突然、夫が玄関の扉を開け、外に身を乗り出す。そうして引っ張り込んできたのは、娘のニャンコだった。腕を掴んで無理やり玄関の中に引きずり込み、夫の横に立たされた。

「おい、『離婚して欲しくない』って言いや。身の周りの世話する奴がいなくなったら、不便だろ」

夫が大声で娘に言うが、娘の顔が歪む。近い距離で大きな声を出されたせいもあるだろうが、きっと掴まれた腕が痛いのだ。

「痛そうにしてるじゃない。その手を離しなさいよ」

私も我慢できなかった。夫は、娘を盾にすれば私が戻ってくると考えたのだろう。そのためだけに、わざわざ連れてこられたのだ。それも多分無理やりに。痛みに顔が歪むほど腕を強く握ることもそうだが、娘を都合のいい手段として扱ったことが許せない。

「う、うるさいな。お前が悪いんだぞ」

パッと手を離した夫が、慌てたように言う。

「私が悪いわけないでしょ。悪いのは、あなただけよ。だから離婚するって言ってるの」

「おい、お前、七年間やってきたの? 何なんだよ、今更」

「あんたが七年経っても変わらないからよ」

「家族を捨てるとか、最悪の母親だな、マジで」

「どっちが最悪なんだか」

私の後ろから低い声がして、目の前の夫がビクッと肩を振わせた。リビングのドアを開けて出てきたのは、私の父だ。今日は父も仕事が休みだったので、家にいたのだ。ここは私の実家なのだから、父がいても何もおかしくはない。

「夫婦の問題だろうと思って黙っていたが、娘さんまで巻き込んでいたとはなあ。だったら、私も話し合いに参加させてもらおう。黒美、二人を上がってもらいなさい」

父は穏やかに話しているが、怒りを抑えていることが丸わかりだ。目の前の夫は、震え上がっている。私の父は元自衛官で、退職後は警備会社に入社して、今も勤めている。元々身長が高く、今も体を鍛えていて、逞しい体付きをしているので、迫力のある外見をしている。そんな私の父に対して、夫は苦手意識があるらしく、結婚当初から私の実家には来たがらなかった。

とはいえ、この家のあるじである父が上がるように言っているのだ。招き入れられた夫は、苦虫を噛み潰したような顔で、のそのそと進んでいった。改めてダイニングテーブルに四人で着席する。誰も喋らない時間が流れ、空気が凍りばてている気がする。

「私は当初、黒美の結婚には反対だったんだ」

口を切ったのは、父だった。

「一回りも年上の男で、しかもある程度大きくなった子供がいるという話を聞いた時には、どうやって諦めさせるかを考えたものだよ」

「はあ」

とため息をつきながら、父が言う。これは本当の話だ。結婚しようと思っているという話をした時、「お父さんの正直な気持ちとしては、賛成できない」とはっきり言われた。しかし、母なき後、黒美には寂しい思いや我慢をさせてしまった。黒美が賑やかな家庭を築きたいと願う気持ちまでは、否定できなかったのだ。

父は、私を育てるために一生懸命働いてくれた。幼い頃は祖父母もたまに来てくれていたし、父も私を気にかけてくれていた。母との思い出も記憶の中に残っているし、自分が孤独だったとは思っていない。ただ、父が私に対して申し訳ないと思っていることは分かっていた。確かに、他の家の様子を目にしたり、友達との会話の中で何気なく「うちのママがさ」という言葉が出てくると、時より胸の中を風が吹き抜けるような感覚になることもあった。本来そこにあったピースが一つ欠けてしまったという喪失感は、完全に消えることはないものだ。

だからこそ、私は楽しく温かい家庭を築きたいと思ったのだ。私の希望はもちろんのこと、娘のためにも、そういう家庭を作っていこうと思った。私のそんな気持ちを父が汲んでくれたことは、私も気づいていた。だから、余計に夫との関係が悪化していることは言えなかった。この結婚を歓迎していなかった父に相談したら、「それ見たことか」と思われるんだろうなとか、心配させてしまうなと思ったからだ。それに、私も簡単に諦めたくはなかった。自分の決断に自信を持ちたかった。結果として無理だと痛感し、こうして実家に身を寄せることになってしまったが。

「だから君には『黒美を守り、幸せにすると約束して欲しい』と言ったし、君は『約束します』と答えたはずだ。それなのに、この低調はどういうことかな?」

父が、向かいの席に座る夫に言う。背筋を伸ばし、低く圧の強い声で話す父の声からは、怒りがにじみ出ている。夫は視線を下げたまま肩をすくめて硬直し、何も言えずにいる。

「君は離婚届を持ってきていたな。この場でそれを書きなさい。娘はやり直すつもりは全くないようだから」

「お父さん、お前にそう呼ばれる筋合いはない」

ビリビリと空気が震えるほど大きな声で、父が言う。その迫力に顔面蒼白になった夫は、慌てたように握っていた離婚届をテーブルの上に出した。父の指示に従い、私が用意をしておいたペンで記入欄を埋めていく。全ての記入が済み、あとは提出するだけの状態になった離婚届を見た時に、やっと肩の力が抜けた気がした。

「この場で、今後のことも話し合ってしまったらどうだ?」

そして、父が言う。確かに、協議で離婚できるなら、それに越したことはない。

「親権は俺が取るからね」

夫が必死の形相で口を開いた。

「俺は、血の繋がった父親だから当然だろ」

「お前は、孤独に生きていけよ」

口元を歪めて笑い、そんなことを言う。この男は、相変わらずだなと思っていたら、私の向かいの席に座っていた娘が立ち上がり、座っていた椅子を持って私の隣にやってきて、私と並んで腰を下ろした。

「私、お母さんについて行くから」

そして、呆然としている夫に向かって、娘がはっきりと言う。「お母さん」と口に出して呼ばれたことで、じわじわと胸の中に感動が広がっていく。

一方、夫は大慌てだ。

「はあ? そいつ他人だぞ。勝手に家を出ていくようなやつだし」

「あんたよりは、ずっと頼りになるし、優しいよ」
「お前だって、あいつのこと嫌ってたじゃん!」

「あんたのことは嫌い。お母さんのことは、嫌ってない」

娘の本音を聞いた夫が、言葉を失っている。

夫は知らなかっただろうが、私が家を出る前、娘とはしっかり話をすることができていた。それをきっかけに、私はあの家を出ると決めたのだ。

少し前のこと、娘の下校時刻頃に大雨が降った日があった。私はその日、有給消化のために休みを取っていて、家にいたのだ。外は雨の勢いが強く、窓に雨粒がバチバチと当たる音がしていた。徒歩と電車で帰ってくる娘がかわいそうだなと思った私は、ダメ元で娘にメッセージを送った。

「雨がひどいから、学校まで車で迎えに行こうか?」

いつも通り無視される可能性の方が高いけれど、私から娘への接し方は、いつ、どんな時も変えないように心がけていた。しつこくすることはしないけれど、話しかけることはやめない。娘が私に何かを話そうと思った時に、話しかけにくいと感じないように。

「お願いします」

私がメッセージを送って五秒以内に、娘から返信が来て驚いてしまった。これまで、メッセージであっても答えがないことは当たり前だったし、こんなに早く返信が来たことなんて、今までなかったから。

「今から行くから、学校に着いたら連絡入れるね」

若者らしい返事に、小さく笑いが漏れた。車を走らせて、娘が通う高校の正門近くに停車する。スマホで娘に到着した旨のメッセージを送り、しばし待つ。すると、激しい雨の中、傘を差した娘が姿を表した。助手席のドアを開けて、乗り込んでくる。少ししか歩いていないはずなのに、制服が濡れている。やはり、迎えに来てよかった。

「お帰り」

「ただいま」

声をかけたら、控えめにだが返事が返ってきた。そのことに、またこっそりと驚く。ここ数年、娘から私に向かって、連絡事項以外の言葉が届けられたことはなかったのだ。メッセージなどの文字では、質問に対する答えが送られてくることもあったが、直接こういう会話をするのは、久しぶりなのか思い出せないほどだ。

「寄りたいところとか、ない?」

「ない」
「じゃ、帰ろ」

私はアクセルを踏み、家に向かって車を走らせた。実は内心、とても喜んでいる。娘がちゃんと会話をしてくれていることが、高揚するくらい嬉しい。でも、喜んで騒いだら嫌がるかもしれない。せっかく返事をしてくれているのに、また話せなくなったら悲しい。だから、私はこれまで通り、余計なことは話しかけずに黙って運転することにした。舞い上がりそうなほど嬉しい気持ちはぐっと抑え込む。いつも通りを心がけよう。

「あのさ」

しかし、驚いたことに、今度は娘から話しかけてきた。

「今日は、大雨だからか。いや、こういうことが起こるから大雨なのか。とにかく落ち着いて。いつも通りの声で返事をしなければ」

「ん?」

「パパと、離婚しないの?」

「え?」

いつも通りの声で、と思っていたのに、娘からの突然の爆弾発言に声が裏返ってしまった。

「えっと、今のところ、そういう予定はないかな?」

「家に、いないじゃん。離婚しても、変わらなくない?」

これは、どういう意図なのだろう。娘は、離婚して欲しいのだろうか。父親のことが大好きというわけではないだろうが、父の不在の家の中で、私と二人で暮らすのは生き苦しいとかだろうか。

「どうせまた、不倫してるよ、あいつ」

冷たい声で、娘が言う。夫が不倫しているかどうかよりも、「また」という言い方が気になった。

「心当たりがあるってこと?」

「女がいる時の行動パターンだし。それに……」

子供は、親をよく見ているものだ。どうせ子供だからと舐めてかかっているのは、親ばかりだ。きっと娘も、父親の様子に気を揉んでいたのだろうが、言いにくそうにしているのは、どういうことだろう。

「ママと離婚した時も、あいつ不倫してたのに、隠してたし」

「ママ」というのは、夫の元妻のことだろう。私が夫から聞いた離婚の経緯は、「お互い多忙ですれ違いが大きくなり、修復不可能になった」ということだった。それなのに、実は不倫していたということか。

「私を引き取ったのも、養育費をもらうためだし。女を家に連れてきた時に、話してたの聞いた」

夫が元妻と離婚したのは、娘が保育園の年中の時だったと聞いている。そんな幼い時に、大人の汚い面を知ってしまったというのか。しかも、よりによって父親だ。

「お母様とは、定期的に会ったりしてるの?」

「何回かはあったけど、すぐ会わなくなった。『ママが再婚するから、もう会えないよ』って言われたけど、今となっては、それが本当かどうか分かんない」

夫が娘にそう言ったということだろう。再婚したから会えなくなるということはないはずだが、本当に元妻がそう言ったのかもしれないし、夫が嘘をついて母子の面会を辞めさせた可能性もある。きっと娘も、その可能性を感じているのだ。夫ならやりそうだと思った。「めんどくさい」とか、「母親の方に行きたいと言わせないため」とか、そんな理由で。

この子は、幼い頃からどれだけ傷ついてきたのだろう。大人の都合で振り回されて、唯一頼れるはずの父親はあんな風で。娘の気持ちを考えると、胸が痛くなる。

「小さい頃なんだから、お母様に会いたかったでしょ」

「ママに会いたいって言うと、すっごく怒られたから、私も言わないようにしてた」

本当に、クズな父親だ。子供の気持ちを、何だと思っているんだ。夫への怒りで、ハンドルを握る手に力がこもる。

「ずっと無視してて、ごめんなさい」

突然、娘が謝ったことで、驚いて顔を横に向けそうになってしまった。運転中だからなんとか耐えたけれど、ものすごい衝撃だ。

「え、何で謝るの?」

「私が懐ついちゃったら、絶対あいつ機嫌が悪くなるから。そしたら、そっちに攻撃が向いちゃうから」

「そんなこと考えてたの?」

涙が出そうだった。私が夫と結婚したのは、娘が小学校四年生になるタイミングだった。そんな幼い子供が、私のために考えて動いたというのか。娘を守っていこうと思っていたけれど、守られていたのは私の方だった。

「最初がそんなんだったから、今更どうやって話しかけたらいいか分かんなくて。車で迎えに来てくれるって言った時に、車の中なら話せると思ったんだよね」

少し笑いながら言った娘の言葉が、本当に嬉しかった。諦めなくて良かった。時間はかかったけれど、通じ合うことができた。

「離婚していいよ。あんな人、いない方がいいじゃん」

きっと、娘も私に話しかけるのは勇気が要ったことだろう。それでも、私のことを思ってくれて、離婚を進めるために話してくれたのだ。確かに、離婚してもいいと思う。今更、夫に対して何かを期待することなどないし、できない。

「けれど、そうしたら、この子は……」

「離婚したら、私と一緒に来る?」

私が言ったら、娘が息を飲んだ気配がした。確かに、私と娘の間に血の繋がりはないけれど、血が繋がっている父親があれでは、一緒にいても辛いばかりだ。

「学生の間だけでもいいし、働き始めたら一人暮らししてもいいしね。できる? 血が繋がってないのに」

「できるよ。子供の意思が優先される年齢になってるからね。義理でも、親子なんだから関係ない」

娘は未成年だから親権は発生するけれど、十五歳以上の場合、子供本人の意思が優先される。だから、娘が父親を見放すこともできるのだ。

「一緒に行きたい」

小さな声で、娘が言う。今度こそ、私が娘を守る番だ。

「よし、じゃあ、作戦会議しなきゃ」
「そうだね。頑張ろうね」
「うん。お母さん」
「ん?」
「ううん。なんでもない」

私と娘はそうして同盟を組み、離婚するため、離婚後のためにたくさん話し合ってきた。今日、この場に娘が連れて来られたのは予想外だったが、結果は変わらない。話し合った通り、娘は私の隣に来てくれた。

「ということなので、あなたは一人で帰ってくれる?」

私がそう言うと、夫はブルブルと震えながらこちらを睨んでいた。

「なんだよ、お前ら。そうやって組んで、俺だけ仲間外れにするとか、性格悪すぎだろ」

また、夫が意味の分からないことを言い始めた。この男は、自分は悪くないのに、いつでも自分だけがかわいそうな目に合っていると本気で思っているのだ。自分以外が悪くて、いつも嫌な目に合わされているから攻撃的になるといったところだろうか。もはや、行き過ぎた妄想か自己催眠か。ここまで自分が可愛い人間を、初めて見たかもしれない。

「ふざけんな。赤の他人についていくとか、ありえないだろ。黙って親の言うこと聞いてればいいんだよ。さっさとこっちに来い。帰るぞ」
「黙れ」

夫が喚き続けていたが、父の一言でぴたりとその口が閉じた。私や娘には強く出るくせに、父には一切対抗できない姿が、本当に情けない。自分より弱く見える存在をいびることで優位に立ったつもりでいるのだろう。本当は、器の小さい男なのだ。

「離婚届は書いてもらったし、今日はもう上がっていただこうか。もちろん、一人でな」

「え? あ、あの」

「この子が、娘と一緒にいると言うなら、この子は私の孫になる。面倒は見るから、安心するといい」

「いや、俺が親なんで」

「話は聞いてるよ。家に帰ってこない夫が、親だなんて言えるな」

「えっと、仕事とかで……」

夫は、この家のことが何も分かっていないようだ。ここは、母が亡くなってから、父子家庭だった私が住んでいた家だ。もう二十年以上も前の話になるが、父は、それからずっと、どんなに忙しくても、私と時間を作るようにしてくれていた。そんな父が、夫の言い訳に負けるはずがない。

「とにかく、今日は帰ってくれ。黒美たちが迷惑している。離婚届は、来週中に提出するように。私も、娘のために、できる限りのことをするつもりだ」

父は、夫が何か言う前に、ぐいっと立ち上がった。その迫力に、夫も何も言えず、帰っていった。

「さて、邪魔者は帰ったし、夜は美味しいものでも食べに行くか。歓迎会だ」

にっと笑っている父の姿に、私と娘も顔を見合わせて笑った。週明けには娘の学校もあるし、できればこの週末のうちに、家から荷物を多少持ってきたいところだ。今は、私も娘も荷物を持っているし、どうせ夫は家にいないだろうから、後で取りに行くとしよう。これから迎える新生活のために、やらなければいけないこと、調べなければならないこと、動かなければいけないことが、盛りだくさんだ。それでも、未来は明るい。娘の笑顔が、その証拠だ。これからは、穏やかに楽しく暮らしていけたらいい。そう思っていたのだが。

夫が私の実家に突撃してきたのが、ちょうど一週間前。なぜか、次の週末である今日も、夫は実家に来た。

「俺は、騙されたんだよ」

「はあ? 知らないわよ」

今日、父は仕事でいない。娘はいるが、二階の部屋から出てこないように言い含めてある。だから、リビングに招き入れた夫とは、顔を合わせることはないはずだ。先ほどインターホンが鳴り、カメラで見てみたら、夫だった。今度は何しに来たのかと思い、追い返してやろうと勢い勇んで対応したのだが、「情けない声ではあるが、話だけでも聞いてくれ」と何度も言うものだから、とりあえず家の中に入れてやった。外で騒がれても迷惑だし、「帰れと言って帰らなかったら、警察を呼べ」と父からも言われているので、いざとなったらそうするだけだ。

夫はリビングのソファーに座るなり、喋り始めた。カメラを盗まれたといった趣旨の話をダラダラと続けていたので、細かいところを掴みながら話を聞いていくと、要するに、不倫相手の家に高いカメラを置いていたのだが、カメラと共に不倫相手が消えたということらしい。私と離婚することになったし、不倫相手と結婚しようと思ってプロポーズしたら、嬉しいと言っていたそうだ。しかし、直後から連絡がつかなくなり、昨日家に行ってみたら、すでに引っ越した後だったと。彼女が消えたこともショックだが、何より、カメラを持ち去られたことがショックで仕方ない様子だ。

「このカメラが好きだって言うから買ったし。いつも見ていたいって言うから、預けてたのに。いくらしたと思ってんだよ、あのカメラ」

本当に、私には関係ない。

「そんな話をしに来たわけ?」

「いや、あのさ、やっぱり俺たち、やり直せないかなって」

「はあ?」

この男、本格的にどうかしてしまったようだ。不倫していたと自己申告しておいて、やり直したいとは何事か。

「カメラ盗んでいなくなるような女はもうごめんだし、ちゃんと家にも帰るからさ」

「一人であの家の家賃払えないからでしょ」

図星だったようで、夫が口をつぐんで動かなくなった。フリーのカメラマンとしての収入だけで生活していくのは、難しいのだろう。だったらアルバイトでもすればいいと思うし、一軒家のこと、家賃の安い家に引っ越せばいいのだ。私に払わせようと思っているなんて、虫が良すぎるにも程がある。

「絶対にやり直すことなんてない。弁護士から連絡が行くから、待っててください」

「なんでだよ。俺は騙されたんだぞ」

「不倫してたくせに、何言ってんの?」

はっきりとそう言ってやれば、夫は一瞬言葉に詰まった。

「え、だから、その女が悪いやつだから」

「不倫相手の金を当てにしてたのに、なくなったから、私のところに来たんでしょ。本当、意味分かんない。もう帰って」

「カメラ盗まれた俺が、かわいそうだと思わないのか。お前には人の心がないのかよ」

この人は、どこまで行っても自分だけが被害者なのだ。周りのことなんて、何も見えていない。

「自ら不倫してるって白状してくれて、ありがとう。慰謝料請求させてもらいますから」

「汚ねえぞ。そんなもん払わないからな」

「弁護士さんにお願いするから、そっちと話して」

実は、今の会話は全て録音済みなのだ。こっそりレコーダーを忍ばせていた。不倫の自白がしっかり記録されていることだろう。

「もう帰って。警察呼ぶわよ」

「やってみろ。そんな騒ぎにしていいのか?」
「じゃ、するね」

スマホを取り出して操作し、耳に当てる。

「あ、おい」
「あの、不法侵入と言いますか、我が家に座っている人がいまして……」

「ふざけんなよ」

夫が脱兎のごとく逃げていく。ドタバタと走り、玄関から出ていった音を確認して、スマホを耳から離した。実際は、警察に電話なんてしていない。たかが小さい男だから、脅しだけでも効果はあると踏んでいたが、想像以上だった。

にも、これで夫の不倫行為の証拠となる自白も手に入った。そろそろ本格的に、弁護士さんに依頼をするとしよう。

一方、夫の不倫相手に関しては、どこの誰なのか分からなかった。引っ越しをしてしまって、夫ですら居場所が分からないということなので、慰謝料請求を諦めようと思っていた。しかし、夫がうちに来た時の会話をこっそり聞いていた娘は、「盗まれた」というそのカメラを調べ出したのだ。夫はそのカメラの名称を口にしていたため、レコーダーの音声で確認して探し出したらしい。しかも、「購入を考えている」と出品者に連絡を取り、やり取りを進める中で、名前と住所を知ることができたのだ。さらに娘は、カメラから辿って不倫相手のSNSアカウントも発見。過去投稿を探ることで、不倫相手が夫が既婚者だと知りながら交際していた事実を見つけ出してくれた。

これらを携えて、弁護士に正式に依頼をし、二人に慰謝料を請求することができた。その後、弁護士さんから聞いた話では、不倫相手は夫のところに殴り込み、「自分の慰謝料もお前が払え」と要求したそうだ。しかし、当然夫がそんなことを承諾するはずもなく、「これを売ればいいだろう」と、不倫相手のブランドバッグを持って逃げようとしたらしい。カメラを盗まれたからやり返したかったのかもしれないが、弁護士さんが苦笑しながら話すのを聞いて、本当に情けないと思った。

弁護士さんの尽力により、夫と不倫相手の両方から、ある程度の慰謝料を取ることができた。財産分与も行って、無事今回の騒動の幕引きとなった。

私と娘、そして父は、新しい場所で生活を始めた。本当は私と娘の二人で引っ越すつもりだったのだ。しかし、娘が「おじいちゃんも一緒に行こう」と誘ったことで、父の定年退職を待って、三人で引っ越すことにした。元夫があの家を知っているし、万が一の危険がないとも言い切れない。父も私たちと一緒に行くと言ってくれたので、あの家は売りに出すことにした。父の退職金、私の収入、慰謝料などの臨時収入で、新たな生活は順調にスタートできた。

娘とは、話さなかった期間の分を取り返すように、たくさん話し、一緒に出かけたりして、仲良く過ごしている。少々変則的な形ではあるが、子供の頃から望んでいた、三人以上の家族で構成される温かい家庭を作り上げることができた。毎日が楽しくて、たくさん笑っている。これが、幸せな家庭なのだと実感できている。

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