夫がリビングで、私の生命保険の受け取り人を自分に変更したと、家族に語っているのを聞いたのは、結婚式をサボって寝室で横になっていた時でした。三年前、誠実で優しかったはずの夫は、今、義両親と一緒に、私を事故に見せかけて殺すための計画を笑いながら話し合っています。「あとは事故が起きるのを待つだけだよ」という夫の声が、壁越しに聞こえてきたのです。私は震える手で、ある番号をプッシュしていました。父に……

夫がリビングで、私の生命保険の受け取り人を自分に変更したと、家族に語っているのを聞いたのは、結婚式をサボって寝室で横になっていた時でした。三年前、誠実で優しかったはずの夫は、今、義両親と一緒に、私を事故に見せかけて殺すための計画を笑いながら話し合っています。「あとは事故が起きるのを待つだけだよ」という夫の声が、壁越しに聞こえてきたのです。私は震える手で、ある番号をプッシュしていました。父に…...

「あいつの生命保険、受け取り人を俺に変更しておいたから。あとは事故が起きるのを待つだけだよ」

リビングから聞こえてきた夫の声に、私は寝室のベッドの上で凍りついた。今朝、学生時代の友人の結婚式に出かけるはずだった。しかし急な体調不良で予定をキャンセルし、誰にも知らせずに寝室で横になっていた。夫と義父母は、私が家にいるとは夢にも思っていない。

「ふふふ。楽しみね。あの子が消えれば、この家もあの子の父親が持っている莫大な財産も、全部私たちのものよ」

義母の喜びに満ちた声が、壁一枚隔てた私の耳に刃物のように突き刺さる。私は息を殺し、涙をこらえながら、そのおぞましい会話のすべてを記録し始めた。

「本当に大丈夫なの?警察に怪しまれたりしないかしら」
「大丈夫だよ、母さん。あいつの父親はもうすぐ定年を迎えるしがない警察官だ。現場の知識なんてたかが知れてる。ちょっとした不注意の事故に見せかければ、疑う余地なんてないさ。あいつは俺を信じきってるし、疑うはずがない」

夫の言葉に、私は奥歯を噛みしめた。しがない警察官。父のことをそんな風に思っていたなんて。父は長年、組織犯罪対策課で恐れられてきたプロの刑事だ。こいつらは、何ひとつ分かっていない。

「お前もそうだよ。まあ、あの嫁も中身は空っぽのお嬢様だしな。死んで役に立つなら、それが一番の親孝行ってもんだ」

義父の声が響く。空っぽのお嬢様。結婚してから三年間、私がどれだけ彼らに尽くしてきたと思っているのだろう。節約して、義母の介護の準備まで進めて、夫の心のために人脈作りまで手伝ってきた。そのすべてが、彼らにとっては利用価値のある獲物に過ぎなかったのだ。

怒りで指先が震える。しかし、ここで飛び出してはいけない。確実に一網打尽にするためには、証拠と準備が必要だ。私はボイスレコーダーを起動させたまま、父からの返信を待った。父には今日、体調が悪くて家にいることを事前にLINEで伝えてあった。そして今、この会話の内容を断片的に送った。

画面が明るくなる。父からの返信は短く一言だけだった。

「三分で着く。そのまま動くな」

その力強い言葉に、私は一瞬だけ安堵した。しかし、リビングの会話はさらにエスカレートしていく。

「あいつの通帳の暗証番号も聞き出したのか」
「ああ、誕生日に設定してあったから簡単だったよ。バカな女だ」

夫の嘲笑う声。私の心は完全に冷え切った。愛していたはずの男が、これほどまでに見にくい怪物だったなんて。

「さあ、あいつが帰ってくる前にシャンパンでも開けて、前祝いをしようじゃないか」

彼らは勝利を確信している。自分たちがこれから迎える結末が、いかに悲惨なものになるかなど、誰も想像せずに。

私は立ち上がり、クローゼットから一枚の書類を取り出した。それは父から念のために持っておけと言われていた、ある重大な証拠だった。

時計の針が刻一刻と父の到着を告げようとしている。あと数分。あと数分で、この狂った宴は終わる。私は寝室のドアの前に立った。震えは止まっていた。代わりに、冷徹なまでの冷静さが私を支配していた。

さあ、地獄へようこそ。義父様、義母様、そして夫よ。

私は低くつぶやき、ドアをゆっくりと開けた。

——

私が夫と結婚したのは、今から三年前のことだった。共通の知人の紹介で知り合った彼は、誠実そうで優しく、私の話をいつも穏やかな笑顔で聞いてくれる人だった。

「君の飾らない性格が好きだよ。君と温かい家庭を築きたいんだ」

その言葉を信じて、私は彼との結婚を決めた。父は私が選んだ人なら間違いはないだろうと、少し照れ臭そうに笑って応援してくれた。

結婚してからは、義父母との同居が始まった。私の実家から近い場所に、父が私の将来のためにと用意してくれた土地に、夫がローンを組んで家を建てた。とはいえ、頭金のほとんどは私の貯金と父からの多額のお祝い金で賄われたものだ。

私は専業主婦として、慣れない家事と義母の世話に奔走した。義母は「リナさんは本当の娘みたいね」と言って私の手料理を喜んで食べてくれた。義父も酒を飲むといい嫁をもらって夫は幸せ者だと目を細めていた。私はその言葉を疑いもしなかった。

毎朝早く起きて家族全員の食事を作り、掃除に洗濯、庭の手入れ。節約のために自分の服を買うのも我慢して、少しでもローンの繰り上げ返済に回そうと努力してきた。すべてはこの家族の幸せのためだと思っていた。

しかし、壁の向こうから聞こえてくる今の会話は、私の三年間の努力と愛情を容赦なく粉砕した。

——

「それにしてもさ、あの土地、本当にいい場所よね。リナの父親が警察のコネか何かで安く手に入れたのかしら。あんな一等地、普通は手に入らないわよ」
「ふん。あの頑固者がどうやったかは知らんが、リナがいなくなれば、あの土地も家も相続であいつのものになるんだ。あいつは一人だからな。親父の退職金も保険金も、全部俺たちの懐に入る」
「そうだよ。だからこそ早いうちに片付けなきゃいけないんだ。リナに気づかれたら面倒だからね。あいつ、最近少し勘が鋭くなってる気がするんだ」

夫の声には、かつての優しさのかけらもなかった。

私はリビングのすぐ隣にある寝室で、床に座り込んだまま動けずにいた。膝がガクガクと震え、吐き気が込み上げてくる。私が今日友人の結婚式に行っていると信じきっている三人は、完全に油断していた。大声で笑い、シャンパンを開ける音が聞こえる。それは私の死を祝うための乾杯だったのだ。

「中卒上がりの無能な女だと思ってたけど、まさか警察官の娘だったとはね。でも、その肩書きも死んでしまえばただの元警察官の遺族という看板になるだけだ。利用できるものは全部利用して捨てる。これが一番効率がいいんだよ」

夫が吐き捨てた「中卒上がり」という言葉に、私は一瞬息が止まった。私は病気の母を看病するために、一度高校を中退している。その後、母を見送ってから受験を受けて大学を卒業した。夫はその過去をいつも「苦労したんだね。偉いよ」と励ましてくれていた。それを裏では笑っていたなんて。

私の心の中で何かが音を立てて壊れた。悲しみは一瞬で消え、代わりにマグマのような怒りが静かに、しかし確実に湧き上がってきた。

利用できるものは全部利用する、ですって。

私は静かに寝室にある小さな金庫を開けた。そこには父から「もし何かあったらこれを使いなさい」と渡されていた、一通の封筒が入っている。中身は、夫が隠していたある裏の顔を証明する書類の数々だった。父は夫の不審な動きに、私よりもずっと前から気づいていたのだ。それでも私が夫を信じているうちはと、黙って見守ってくれていた。

「リナ、男を見る目は養わなきゃいかんが、もしお前が傷つくようなことがあれば、俺が全力で叩きつぶしてやる」

父のその言葉を思い出し、私は唇を噛みしめた。

リビングでは、さらに具体的な犯行計画が話し合われていた。

「今度の連休、山へドライブに行こうって誘うよ。ブレーキオイルを少し抜いておけば、峠道でさよならだ」
「あら、名案ね。事故なら保険金も倍増するんじゃない?」
「ああ、完璧な計画だよ」

私はスマートフォンを手に取り、録音ボタンを確認した。今の会話はすべて記録されている。これ以上の証拠はない。

私は深呼吸を一度し、寝室のドアのレバーに手をかけた。これから私が踏み出す一歩は、地獄への招待だ。私を裏切り、殺そうとした三人に、私がどれほど警察官の娘として強く育てられたか、身をもって教えてやる。

ガチャリと、ドアを開けた。

リビングの照明が眩しい。ソファに座り、シャンパングラスを掲げていた三人が一斉にこちらを振り返った。

「え、リナ…?」

夫の顔から血の気が引いていくのが目に見えるようだった。

「お帰りなさい、夫さん。義父様、義母様。シャンパン、美味しそうですね」

私は冷たい微笑みを浮かべ、部屋の真ん中へと歩み寄った。

「リナ、お前、結婚式に行ってたんじゃないのか」

夫が椅子を蹴り飛ばすような勢いで立ち上がった。手に持っていたシャンパングラスが床に落ち、高価な絨毯に赤黒い染みが広がっていく。まるで彼らが企てていた不吉な計画の結末を暗示しているかのようだった。

「体調が悪くてね、途中で引き返してきたの。寝室で休んでいたけれど、リビングが随分と賑やかだったから、つい聞き耳を立ててしまったわ」

私は一歩、また一歩と彼らとの距離を詰めていく。義母は顔を真っ青にしながらも、必死に作り笑いを浮かべようとしていた。

「あら、リナさん、お帰りなさい。今の話、聞いてたの?違うのよ。これはその…テレビドラマの話をしていただけなのよ」

義父は鼻で笑い、見え透いた不機嫌な顔を隠そうともしなかった。

「ふん。聞いていたなら仕方ないな。追い出せ。隠しても無駄だ。どうせこいつには何もできやしない」

「リナ、お前な、家の中でこそこそ隠れて人の話を聞くなんて、育ちが知れるぞ。やっぱり中卒の母親に育てられた子は、礼儀も何もないんだな」

夫が吐き捨てた言葉。それは私の実母を侮辱するものだった。母は病床にありながらも、私にどんな時も誠実でありなさいと教えてくれた。その母を、この男は平然と踏みにじったのだ。

私は何も言わず、彼の目を見つめ返した。怒鳴る価値さえない。ただ静かに、彼らという人間を心の底から軽蔑していた。

「なんだその目は。黙ってないで何か言ったらどうなんだ。この役立たずの寄生虫が」

夫が声を荒げる。彼にとって私の沈黙は予想外だったのだろう。いつもの私なら、泣いて謝るか、おどおどして機嫌を取ろうとしたはずだ。しかし、今の私の中に彼への愛情は一滴も残っていない。

「寄生虫ですか?私はようやく口を開いた。その声は自分でも驚くほど落ち着いていた。この家を建てるための頭金、誰が出したと思っているの?毎日の食費も光熱費も、私の貯金から出している分がどれだけあるか、忘れたの?」

「うるさい。あれは警察官の娘としての貯蓄金だろうが。だったらこの家の主人である俺がどう使おうが、俺の勝手だ」

夫は顔を真っ赤にして怒鳴ってくる。酒の臭いと混じった怒りが、猛烈に不快だった。

「義母様も、私の介護を楽しみにしているとおっしゃっていましたよね。でもその実態は、私の保険金で贅沢することだったなんて、呆れて言葉も出ません」

私が義母に視線を向けると、彼女は逆切れしたように叫んだ。

「当たり前じゃない。あなたみたいな何の取り柄もない女と、うちの優秀な息子が結婚してあげたのよ。それくらいの対価を払うのは当然でしょう。感謝して死になさいよ」

義母の言葉は、もはや人間のそれではない。欲望にまみれた獣の咆哮だった。

「分かりました。それが皆さんの本音なのですね」

私は再び沈黙した。リビングの大きな掛け時計が、規則正しく時を刻む。三人は私を囲むように立ち、私を威圧しようとしている。しかし、私は恐怖を感じていなかった。なぜなら、スマートフォンの画面が父との通話が繋がっていることを示していたからだ。父は、このおぞましい会話のすべてをリアルタイムで聞いている。

「リナ、もういい。お前は今日、この家を出ていけ。離婚届は後で送ってやる。もちろん慰謝料なんて一円も払わないし、この家からも身一つで出て行ってもらうからな」

「出ていくのは私ではなく、あなたたちの方だと思いますけれど」

「はあ?何をバカなことを言ってるんだ。この家は俺名義だぞ」

夫が鼻で笑ったその時――

ドンドンドンドン!

玄関のドアを激しく叩く音が響き渡った。それはただの来客ではない。中で黙を言わせない権力を持った者たちの足音だった。

「誰だ?こんな時間に」

義父が慌てて立ち上がろうとした。私は時計を見た。父に連絡してからちょうど三分。

「来たわね」

私が小さくつぶやいた瞬間、玄関から「警察だ!開けなさい!」という大声が響いた。三人の顔が一瞬で土気色に変わった。

しかし、これはまだ彼らにとっての悪夢の入り口に過ぎなかった。

——

「警察?リナ、まさかお前、本当に警察を呼んだのか?バカか!夫婦喧嘩に警察なんて、恥ずかしい真似しやがって」

夫は震える手でテーブルの上のシャンパングラスを隠そうとしながら、私を怒鳴りつけた。

「いいか、リナ。お前の親父は定年前のしがない平警官だろう。現場で泥臭くパトロールしてるだけの、出世コースから外れた無能な男だ。そんな男に泣きついたところで、俺たちをどうこうできると思ってるのか?」

彼の言葉はもはや理性を失っていた。私の父を無能と呼び、私たちの家族の絆をみっともないと切り捨てる。その醜悪な姿を、私はただ静かに見つめていた。

「黙ってないで何か言えよ。結局お前は自分一人じゃ何もできないんだな。中卒上がりの母親に甘やかされて育ったから、困ったらすぐお巡りさんのお父さんに泣きつく情けない女だ。俺がお前と結婚してやったのは、単なるボランティアだよ。お前みたいな何の価値もない女、俺がいなきゃ生きていけないだけなんだからな」

夫の口から次々と溢れ出す侮辱の言葉。それはこれまで彼が隠し持っていた、私に対する本音のすべてなのだろう。

義母も夫に同調するように笑みを浮かべた。

「そうよ、リナさん。警察官の娘なんて言っても、所詮は公務員の平社員じゃない。私たちの息子は一流企業の期待の若手なのよ。お父様に頼んで、こんな恥ずかしい騒ぎはすぐに収めてもらいなさい。近所の目があるんだから」

義父も鼻で笑いながらタバコに火をつけた。

「警察が来たところで、証拠も何もないだろうが。夫婦の痴話喧嘩にいちいち首を突っ込むほど、警察も暇じゃないだろう。おい、息子よ、さっさと玄関に行って追い返してこい」

三人は父がただの町の警察官だと信じきっている。私が何を言っても、彼らの傲慢なプライドがそれを否定し、自分たちの優位性を保とうとしていた。

私は唇を固く結んだまま、沈黙を貫いた。彼らの言葉の一つ一つを心に刻みつける。それが後で、彼らを地獄へ突き落とすための何よりの燃料になるからだ。

「黙ってるのは図星だからか。ああ、そうだよな。お前には何も言い返せないよな。だって事実なんだから」

夫は私が恐怖で声も出ないのだと勘違いしたらしい。彼は勝ち誇った顔で玄関へと向かった。

「見てろよ、リナ。お前の親父がどんな顔をして俺に謝るか。『娘が迷惑をかけました』って頭を下げさせてやるからな」

夫がリビングのドアを開け、廊下を進んでいく。義父母も余裕の笑みを浮かべて、その後に続いた。私は彼らの背中を静かに見送り、最後にリビングを出た。

玄関のドアが開く。そこには数人の男たちが立っていた。

「失礼します。通報を受けて参りました」

その声を聞いた瞬間、夫の表情が凍りついた。立っていたのは、夫が想像していたようなしがない平警官の制服姿ではなかった。黒いスーツに身を包んだ、鋭い眼光を持つ男たち。その中心にいたのは、私の父だった。

しかし、今日の父は私が知っている優しいお父さんの顔ではなかった。何人もの凶悪犯を震え上がらせてきた、伝説の刑事としての顔だ。

「お父さん…。なんでそんな大勢で?これは単なる夫婦の話し合いでして…」

夫の声が上ずっている。父の背後には、鑑識課の腕章を巻いた者や捜査一課の刑事たちが控えていた。ただの夫婦喧嘩に、これほどの人数が動くはずがない。

「君、君が私のことをどう思おうと勝手だが、一つだけ勘違いしているようだ」

父は夫の目をまっすぐに見据えて、低く重みのある声で言った。

「私は確かに定年前だが、しがない平警官ではない。警視庁捜査一課・殺人捜査の係長だ。そして、ここにいる者たちは私の部下たちだよ」

警視庁捜査一課。夫の膝が目に見えて震え始めた。一流企業に勤める彼なら、その肩書きがどれほどの重みを持つか理解できないはずがない。

「それから、リナの母親のことだが。あいつは中卒なんかじゃない。私の仕事のために学歴を隠して、潜入捜査を支えてくれた優秀な元同僚だ。君に侮辱される筋合いはない」

父の一言一言が、夫のプライドを粉々に砕いていく。しかし、本当の衝撃はこれからだった。

「さて、君たちがリビングで話していた計画、すべて記録させてもらったよ。殺人予備及び保険金詐欺未遂の容疑で、同行願おうか」

父の合図と共に、後方に控えていた刑事たちが一歩前に踏み出した。

「な、何を言ってるんですか?証拠なんてあるわけないじゃないですか。ただの冗談ですよ。冗談!」

夫が必死に叫ぶ。しかし父は静かに微笑んだ。

「証拠なら、すでにある」

私は手に持っていたスマートフォンと、寝室から持ち出した封筒を父に手渡した。

「ええ、すべてここにあるわ」

私は夫の目を見て、はっきりと言い放った。夫の顔が、今度こそ完全に絶望に染まった。

だが、彼らがまだ知らない事実は、これだけではなかったのだ。

——

「お父さん、捜査一課、殺人予備…。冗談も休み休み言ってくださいよ」

一瞬の静寂の後、夫が突然狂ったように笑い出した。その笑い声は玄関ホールに不気味に響き渡り、刑事たちの鋭い視線を跳ね返すような異様な迫力を持っていた。

「いいか、お前、本当に爪が甘いな。お父さんを巻き込めば勝てると思ったのか?残念だったな。警察が証拠だと言っているその録音、そんなものが法廷で通用すると思っているのか?」

夫は一歩前に踏み出し、私の目を真っ正面から見据えた。その瞳には先ほどまでの怯えは微塵もなく、狡猾な計算高さだけが光っている。

「お父さん、よく聞いてください。妻は最近、精神的に不安定だったんです。育児のプレッシャーや家事のストレスで、被害妄想が激しくなっていた。私たちがリビングで話していたのは、リナを元気づけるためのサプライズ旅行の計画ですよ。不謹慎な冗談を交えたかもしれないが、それは単なる男同士、家族同士の軽口だ。殺意なんてあるわけがない。何を勝手なことを…」

「何を勝手なことを言ってるの!」

私が思わず声をあげると、夫は待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべた。

「ほら、またそうやって感情的になる。お父さん、妻は通院もしているんですよ。ほら、これを見てください」

夫がポケットから取り出したのは、一枚の診断書だった。そこには、私の名前と「重度の心身衰弱による被害妄想の疑い」という文字が並んでいた。

「いえ、何これ?私、こんな病院行ったことない」

目の前が真っ暗になった。その診断書は、私が以前風邪をこじらせて、夫に連れて行かれた個人病院のものだった。あの時、彼は「知り合いの医者だから安心だよ」と言っていた。その裏で、こんな卑劣な工作をしていたなんて。

「リナさん、診断書が悪いのよ。あなたが夜中に一人で叫んだり、私たちに包丁を向けようとしたりするから、私たちは怖くて、ああやって防衛策を話し合うしかなかったんじゃない?」

義母が今度は涙を拭うふりをしながら声をあげた。その演技は完璧で、まるで私が凶暴な嫁であるかのような印象を周囲に植えつけていく。

「お父さん、信じてください。この子は自分の父親が警察官であることを利用して、私たちを落とし入れようとしているんです。これは権力の乱用です。私たちは被害者なんです」

義父も便乗して、刑事たちに向かって指を差した。

玄関先の空気は一変した。父の部下である刑事たちの顔に、一瞬の迷いが生じる。いくら上司の娘の訴えとはいえ、正式な診断書と家族三人の証言が一致しているとなれば、慎重にならざるを得ない。

「リナ、大丈夫だ。俺を信じろ」

父が私の肩を抱き寄せ、低くつぶやく。しかし、夫の追撃は止まらなかった。

「さらに、これだけじゃない。リナはこの家の土地を勝手に担保に入れて、多額の借金を作っているんです。その額、三千万円。借金の取り立てから逃れるために、僕たちを犯人にでっち上げて、自分だけ逃げようとしているんですよ」

三千万?そんな借金、知らないわ。私は一円も借りてなんていない。

私は叫んだが、夫は冷徹に書類を突きつけてきた。そこには確かに、私の署名と実印が押された借用書のコピーがあった。

実印?そうだ。三ヶ月前、「将来のために家族の信託口座を作ろう」と言われて、彼に実印を預けたことがあった。あの時、私は彼を心から信じていたのだ。

「リナ、これが現実だ。お前は精神を病み、多額の借金を背負い、家族を落とし入れようとした犯罪者予備軍だ。お父さんも、こんな娘のためにキャリアを棒に振るつもりですか?今なら、家族内の『あるふざけでした』で済ませますよ。どうします?」

夫が父に詰め寄る。父は無言でじっと書類を見つめていた。その沈黙が、私には何年も続く地獄の時間のように感じられた。

私を信じてくれる人は、もう誰もいないの?父でさえ、この偽造された事実の前に屈してしまうの?

私は足元が崩れ落ちるような絶望感に襲われ、その場に崩れ落ちそうになった。三人の勝ち誇ったような笑い声が、耳障りに響く。

夫が私の耳元で、警官たちに聞こえないほどの小声で囁いた。

「ざまあみろ。お前は今日から、狂った借金まみれの女だ。お前の親父もろとも、社会的に抹殺してやるよ」

冷たい汗が背中を伝う。しかし、夫はまだ気づいていなかった。私が沈黙していたのは、絶望していたからではない。父が私に送っていた、合図があったからだ。

父の手が、私の肩を強く握りしめた。それは反撃の準備は整ったという、合図だった。

——

「息子君、面白い話だったよ。君が用意したその書類、そして診断書、すべてが我々にとって決定的な証拠になることを、君はまだ知らないようだね」

父の目が、獲物を追い詰めた猛獣のように鋭く光った。

「リナ、もういいぞ。見せてやれ。君たちが一番隠しておきたかった、あの意外な人物からのプレゼントをね」

私は震える手で、ポケットの中からもう一台の小型の録音機とは違う、ある装置を取り出した。

「夫さん、あなたがその診断書を書かせたお医者様。実は、私の高校時代の親友のお父様なのよ」

夫の顔から、一瞬にして余裕が消え去った。

「親友の父親…?」

「そうよ。あなたが私を連れて行った日、クリニックの院長の山下先生は、私の親友の美咲のお父様。私が高校を中退して苦労していた時も、美咲と一緒にずっと私を支えてくれた恩師のような人なの」

私はゆっくりと立ち上がり、夫の突きつけてきた偽造診断書を指先で弾いた。

「あなたが山下先生のところへ行って、『妻がノイローゼ気味で自傷行為の恐れがあるから、診断書を測ってほしい』と泣きついた時、先生はすぐに私に連絡をくれたわ。『リナちゃん、旦那さんが変なことを言い出したよ』ってね」

夫の顔が見る見るうちに、土色から白へと変わっていく。

「そんなはずないわ。先生は多額の謝礼を受け取ったはずよ…」

義母が言ってはいけないことを口走った。

「謝礼?ああ、あの封筒に入っていた五十万円のことかしら。それは今、証拠品として警察に預けてあるわ。山下先生は、あなたが持ってきたその偽の診断書の依頼、すべてを記録し、あなたが無理やり署名を求めた時の音声もしっかり録音してくれていたのよ」

私は父から受け取った別のタブレットを操作した。そこから流れてきたのは、夫の聞くに堪えない卑劣な声だった。

「先生、いいですか?あいつはもうすぐ事故で死ぬんです。その時に、精神的不安定だったという公的な記録があれば、警察の捜査も甘くなる。これは持ちつ持たれつの関係です。五十万じゃ足りないなら、後で保険金から上乗せしますから」

リビングに、夫の生々しい殺意が響き渡る。後に控えていた刑事たちの目が、一斉に鋭くなった。

「そ、それはディープフェイクだ!捏造だ!先生が俺を嵌めたんだ!」

夫が必死に叫ぶが、その声は空気に響くだけだった。

しかし、私の切り札はそれだけではなかった。

「夫さん、あなたは私のことをずっと、学歴のない無能なお嬢様だと思っていたわね。私が母の看病のために高校を中退したことを、ずっとバカにしていた」

私は一歩、夫に歩み寄った。彼が反射的に後ずさりする。

「でもね、私は大学を卒業した後、父の進めもあってある資格を取ったの。公認不正検査士。企業の不正や横領、資産の隠匿を暴くための専門資格よ。あなたが私に隠して作っていた複数の隠し口座。そして、私の実印を悪用して借り入れた三千万円の行方。結婚生活の裏で、私が独自に調査済みよ」

三人の顔が驚愕に染まる。彼らにとって私は、ただの便利で大人しい家畜に過ぎなかったはずだ。しかし、私が夜な夜なパソコンに向かっていたのは、家計簿をつけていたからではない。夫とその家族が私の背後でどれほど汚い金を動かしているか、その証拠の地図を作っていたのだ。

「中卒上がりの無能な女。あなたが私をそう呼ぶたびに、私は確信したわ。あなたは相手を肩書きでしか判断できない。本当の意味で無能な人だって」

私は冷たく言い放った。夫は言葉を失い、金魚のように口をパクパクさせている。

「リナ、お前、いつから…いつから俺を疑っていたんだ?」

「結婚して半年後よ。あなたが寝言で別の女性の名前を呼んだ時から。それも調査済みよ。あなたがこの家の土地を担保にして借りた三千万円、そのほとんどはあなたの不倫相手である川村さんという女性のマンション購入金と、彼女との派手な遊び代に消えているわね」

夫の身体が激しく震え出した。義父母も初耳だったのか、夫を凝視している。

「息子よ、それ、本当なの?私たちの老後の資金にするって言ってたじゃない!」

義母が夫の腕を掴んで揺さぶる。

「うるさい!今はそんなことどうでもいいだろう!」

夫が母親を突き飛ばした。家族の絆。彼らが誇っていた私を排除するための結束は、金と裏切りという真実の前に、あっけなく崩壊を始めた。

「リナ、お前…よくも…よくも俺をここまで騙してくれたな」

夫の目が、血走ったゾンビの色に染まる。彼は開き直ったように、玄関に飾ってあった重厚な置き物を手に取った。

「証拠がなんだ?お前の親父がなんだ?ここで全員消してしまえば、死人に口なしだ」

逆上した夫が、私に向かって置き物を振り上げた。しかし、私は一歩も引かなかった。私の背後には、日本でも有数のプロの刑事である父と、その精鋭たちがいる。

「息子君、やめなさい。君の負けだ」

父が静かに、しかし絶対的な威圧感を持って告げた。その瞬間、夫の動きが止まる。

しかし、この時私たちはまだ気づいていなかった。義父が背後でこっそりとスマートフォンを操作し、ある外部の勢力に連絡を取っていたことに。

——

「ふん、警察がなんだ?俺たちのバックに誰がいると思っているんだ?」

義父の低い声が、混乱する玄関ホールに響いた。事態は単なる家族の犯罪を超えて、さらなる大きな闇へと拡大しようとしていた。

「バックに誰がいる?」父が低く、いぶかしげな声を漏らした。

義父は震える手で持っていたスマートフォンを力強く握りしめ、顔に醜悪な笑みを浮かべていた。先ほどまでの警察を前にした怯えはどこへやら。今の彼には、最強の盾を手に入れた者の傲慢さが溢れている。

「お父さんよ。あんたは確かに捜査一課の人間かもしれない。だが、この世には法律よりも重い力ってものがあるんだよ。あんたのような真面目腐った公務員には、一生理解できない本物の権力というやつがな」

義父は玄関のホールに並んでいた刑事たちを一人一人見下すように見つめた後、私に向かって言い放った。

「リナ、お前もだ。父親が警察官だからって、俺たちを追い詰められると思ったか。甘いんだよ。この家の土地も、息子が借りた金も、すべてはもっと大きな計画の一部に過ぎないんだ」

その時、家の外で複数の重厚な車のエンジン音が響いた。夜の静寂を切り裂くように、黒塗りの高級セダンが三台、我が家の前に急停車した。刑事たちが一斉に警戒体制に入る。父の部下の一人が「外を確認してきます」と駆け出したが、入れ違いに玄関のドアが乱暴に開け放たれた。

入ってきたのは、仕立てのいいスーツを着た、屈強な男たちだった。その中心に立つのは、白髪混じりの短髪に、彫りの深い顔立ちをした初老の男。その瞳からは、数多の修羅場をくぐり抜けてきたような鋭く冷徹な光が放たれている。

「正尾君、随分と賑やかじゃないか。私の名前を出して警察を呼ぶとは、よほどのことがあったのか」

その男が現れた瞬間、義父はまるで主君を迎える家臣のように、深々と頭を下げた。

「権藤先生、申し訳ありません。お忙しいところ。実は、この家を不法に占拠したこの警察官たちが、不当な介入をしてきまして…」

権藤。その名を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。地元でも有名な建設業界の裏の顔。政界とも太いパイプを持ち、邪魔な人間を手段を選ばず排除してきた、地元の名士であり怪物だ。

「権藤だと…。まさかお前たちが繋がっていたのか、あの地上げ屋の権藤と」

父の声に、かつてないほどの緊張がこもる。父は以前、権藤が関わった不正入札事件を追っていたことがあった。しかし、上層部からの謎の圧力によって、捜査は寸前で打ち切られたのだ。父にとって権藤は、法の網をすり抜ける憎き宿敵だった。

「おや、佐藤係長じゃありませんか。以前はお世話になりましたが、まだそんな現場で泥にまみれていらっしゃるとは。いい加減引退して、孫でも遊んでいればいいものを」

権藤は父を嘲笑うように、唇の端を吊り上げた。そして、その冷徹な視線が私に向けられた。

「お嬢さん、いいことを教えてあげよう。この土地はね、私が進めている大規模再開発事業の心臓部なんだよ。正尾君には、君と結婚してこの土地を手に入れ、私に譲渡するよう指示してあった。君の父親が警察官だということは、承知の上だ。むしろ、その肩書きがあった方が、周囲に疑われずに土地を動かせると思ってね」

衝撃の事実だった。私と夫の結婚。それは単なる裏切りではなく、巨大な利権を狙った土地収奪計画の鍵に過ぎなかったのだ。

「そんな…じゃあ、私と夫さんの出会いも?」

「ああ、もちろん私が仕組んだことだ。あの純情な正尾の息子なら、私の言いなりになると思ってね。三千万の借金も、川村という女も、すべては君を精神的に追い詰め、自らこの家を手放すように仕向けるための演出だよ」

権藤は平然と言い放った。夫は権藤の背後に隠れるようにして、再び鼻で笑った。

「聞いたか、リナ?俺は最初からお前のことなんて愛してなかったんだよ。お前はただの一等地のオマケだ。お前の親父がどれだけ頑張っても、権藤先生の力には叶わない。今すぐその録音を消して、離婚届に判をつけろ。そうすれば、少しはまともな慰謝料を出してやってもいいぞ」

私は言葉を失い、震える手で膝を抱えた。私が信じてきた三年間の生活。父が私のためにと用意してくれた大切な土地。それらすべてが、巨大な悪の巣窟に飲み込まれようとしていた。

父の部下たちは、権藤の放つような圧力に手が出せないでいる。警察手帳よりも、権藤という男の持つ力の方が、この場では支配的な力を持っていた。

「さあ、佐藤係長。部下を引き連れてお帰りなさい。これは民事の問題だ。警察が介入しすぎると、君の輝かしいキャリアに傷がつきますよ。『明日の長官に捜査一課係長、職権乱用で一般市民を恫喝』なんて見出しが乗ったら、困るでしょう?」

権藤が父の胸元を指先で軽く叩く。完全なる侮辱。そして、完全なる敗北の状態。義父母は勝利を確信して高を上げ、夫は私を見下すように笑っていた。

しかし、その時だった。沈黙を守っていた父が、ふっと小さく不敵な笑みを漏らしたのは。

「権藤さん、あなたは相変わらず人を脅すことに関しては天才的だが、一つだけ重大なミスをしている」

「ミス?」

「あなたは、私の娘リナが公認不正検査士だといったのを、聞いていただろう。だが、彼女がどこでその仕事をしていたかは、調べていなかったようだな」

父がスマートフォンを取り出し、画面を権藤に向けた。そこには、ある組織のエンブレムが表示されていた。

「リナ、あれを出しなさい。もう一つの証拠だ」

私はバッグの底に隠していた、ある青いファイルを取り出した。それを見た権藤の顔色が、初めて変わった。

「そ、その青いファイルは何だ?」

権藤の余裕たっぷりだった声が、わずかに低くなった。玄関ホールの空気はもはや家族の修羅場という次元を超え、国家レベルの緊張感を帯び始めていた。

私はゆっくりと、そのファイルの表紙を権藤に向けた。そこには金色の菊の紋章とともに、重厚な文字でこう記されていた。

「金融庁 証券取引等監視委員会 特別調査案件。権藤建設グループ及び関連法人における資金回流記録」

「金…融庁だと?」

権藤の顔から、さっと血の気が引いた。後ろに控えていた屈強の男たちも、動揺を隠せずにざわつき始める。

「権藤さん、あなたは私のことをただの公認不正検査士だと言いましたね。いえ、確かに資格は持っています。でも、私がどこに務めているか、あなたは最後まで調べなかった。私は金融庁の特別調査室に所属する調査官です」

私の言葉に、夫が現実を拒絶するように叫んだ。

「調査官?お前、ただの専業主婦だろうが!」

「夫さん。私が毎日『図書館やカフェに行って、家計の足しにパートを探してくる』と言って外出していた時間を、覚えている?私はあそこであなたの隠し口座から、権藤建設。そしてその先に流れる不透明な資金の動きを、すべて解析していたのよ」

私は淡々と、しかし一歩も引かずに続けた。

「私の父が警視庁の係長だということは、権藤建設にとって大きなリスクでした。だからこそ、あなたは義父さんを使って私を監視し、土地を奪うことで警察の介入を未然に防ごうとした。でも、それは逆効果だったわ。父が警察官だったからこそ、私は幼い頃から正義のあり方を学び、あなたたちのような悪党が一番嫌う数字を武器に戦う道を選んだの」

権藤はわなわなと震えながら、私の手にあるファイルを奪い取ろうと手を伸ばした。しかし、父の部下である刑事たちが電光石火の早業で、権藤の腕を抑え込んだ。

「おっと、権藤さん。証拠物件に触れるのは関心しませんな」

父が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「貴様ら!こんな一個人の家庭の問題に金融庁まで引きずり出して、ただで済むと思っているのか?私には、もっと上がついているんだ。大臣だって、俺の一言で動くんだぞ!」

権藤の怒号が響くが、私は冷静にスマートフォンの画面を操作した。

「大臣ですか?もしかして、昨日の夜に辞任届を提出された、あの川村大臣のことでしょうか?彼があなたの企業から受けていた不正献金の証拠、実は三日前、私の同僚たちがすでに本部に持ち込んでいます。今頃、そちらの捜査も始まっているはずですよ」

権藤は力なく、膝をついた。彼の誇っていた巨大な権力という盾は、私が静かに積み上げてきた数字の証拠の前に、もはや砂の城のように崩れ去ろうとしていた。

——

「リナ…。嘘だろ?お前、ずっと俺を騙していたのか?結婚して、家事をして、俺に尽くしてくれていたのは、全部…」

夫が震える声で私に問いかけてきた。その目には、私を殺そうとした時の冷酷さはなく、ただ自分たちの運命が閉ざされたことへの恐怖だけが浮かんでいた。

私は彼を軽蔑の眼差しで見下ろした。

「騙していたのは、どっちかしら?私はあなたのことを心から愛そうとしたわ。この三年間、あなたが誠実な夫に戻ってくれる可能性が万が一でもあるのなら、私はこのファイルを提出せずに、警察官の娘としてあなたを更正させる道を選びたかった」

私は一度言葉を切り、沈黙した。リビングのシャンパンの匂いが鼻につく。彼らが私の死を祝っていたあの残酷な乾杯の音。

「でも、さっきの会話を聞いて確信したわ。あなたたちに人の心なんてない。だから、私も妻であることをやめた。今この瞬間から、私はあなたたちを追い詰める調査官であり、あなたたちに復讐を誓う被害者よ」

私がそう言い放つと、玄関の外でパトカーのサイレンが響き渡った。一台や二台ではない。数えきれないほどの赤い光が、我が家の窓ガラスを赤く染めていく。

「さあ、転機の時よ、義父様」

私は父に向かって頷いた。父は鋭い口笛を吹き、周囲の刑事に合図を送った。

「権藤及び義父君、君たちは大きな勘違いをしている。これは単なる殺人未遂事件じゃない。国家を揺るがす大規模な経済事件の入り口なんだよ。我々警視庁と娘のいる金融庁の合同捜査本部の設置は、たった今承認された」

「合同捜査本部…」

義父が腰を抜かし、義母は狂ったように「私は何も知らない!この子たちが勝手にやったのよ!」と叫びながら逃げようとしたが、女性警官に即座に確保された。

「リナ、頼む。許してくれ。俺が悪かった。全部権藤に言われてやったんだ。愛してる、リナ。愛してるんだ!」

夫が私の足元にすがりついてきた。その醜い姿を見ても、私の心には一片の同情も湧かなかった。

「あなたの愛なんて、もう一円の価値もないわ」

私は冷たく足を振り払うと、父の背後へと歩んだ。

しかし、権藤はまだ諦めていなかった。彼は地面にのたうちながら、懐から小さなリモコンのようなものを取り出し、不気味に笑ったのだ。

「ふ、ふふはは。面白い。実に面白いぞ。だがな、佐藤。私はただで死ぬ男ではないと言っただろう。この家にはな、私が万が一の時のために仕掛けておいたお土産があるんだよ」

権藤の指が、そのスイッチにかかる。

「危ない!全員伏せろ!」

父の叫び声が響く。物語は、誰もが予想しなかった最悪の展開へと一気に加速していく。

——

乾いた、カチッという音が響いた。父の叫び声を受け、刑事たちが一斉に身を低くし、私も父の大きな体に守られるようにして床に伏せる。

一秒、二秒…。しかし、期待された爆発音も、炎も、何も起こらなかった。ただ、リビングの壁にかかった古い振り子時計の音だけが、皮肉なほど規則正しく刻まれている。

「な、なんだ?なぜだ?なぜ作動しない?」

権藤が狂ったように何度もスイッチを連打する。カチカチという虚しいプラスチック音が、静まり返った玄関ホールに響き渡った。

「おかしい。専門の業者に、この家の構造ごと焼き尽くすように仕込ませたはずだ。すべての証拠も、佐藤の娘も、呼び消し去るはずだったんだぞ!」

権藤の絶叫は、もはや地元の怪物としての威厳を完全に失い、ただの追い詰められた老人の悲鳴になり下がっていた。

私は父の腕の中からゆっくりと身を起こした。そして、誇りを払うこともせず、呆然自失としている権藤と、その隣で腰を抜かしている夫を冷ややかに見据えた。

「権藤さん。あなたが『専門の業者』だと思っていたのは、もしかして『山田設備』という会社ではありませんか?」

権藤の動きが、ピタリと止まった。

「な、なぜその名を…」

「その業者は三ヶ月前、金融庁の家宅捜索を受け、すでに代表が逮捕されています。彼らが請け負っていた特殊工作マニュアルリストは、すべて私たちが把握していました。あなたがこの家に、いつ、どのような回路で発火装置を仕込ませたかもね」

私は立ち上がり、壁の隅にあるコンセントプレートを指さした。

「今朝、私が家を出る前に、その装置の起爆コードはすべて解除させていただきました。あなたが握っているそのスイッチは、今やただのプラスチックのゴミですよ」

権藤の顔が、土色を通り越して真っ白になった。彼は震える手でスイッチを床に投げつけ、髪をかきむしった。

「バカな…。バカなことがあってたまるか。私は完璧だった。何十年も、こうして邪魔者を排除してきたんだ。高が警察官の娘、一人の小娘の手際で、私の王国が崩れるなど…」

その時、それまで権藤の影に隠れていた夫が、豹変したように権藤の胸ぐらを掴んだ。

「権藤先生!どうなってるんだよ!話が違うじゃないか!あんた、絶対大丈夫だって言ったよな!リナを消して土地を奪えば、俺に三億やるって言ったじゃないか!なんとかしろよ!警察を追い払えよ!」

「うるさい!この無能な若造が!」

権藤が夫を突き飛ばす。夫は床に転がり、さらに見苦しく発狂した。

「リナ!リナ助けてくれ!僕は…僕はこいつに脅されてたんだ!こいつがお前の親父さんを殺すって言うから、仕方なく!本当だよ、信じてくれ!僕は今でも君を愛してるんだ!」

夫が私の足首にすがりつこうとする。私は一歩下がって、その汚れた手を避けた。彼の言葉に、私は一言も返さなかった。ただ、その沈黙こそが彼に対する最大の拒絶であり、処刑宣告だった。

「黙れ、息子よ」

父が重々しく口を開いた。

「君の供述はすべて記録されている。『脅されていた』?嘘をつけ。君が自ら権藤に接触し、『土地を売るから、その代わりに不倫相手との逃走資金をくれ』と持ちかけた証拠のメールも、すでに復元済みだ」

夫はまるで心臓を打ち抜かれたかのように、その場に硬直した。

「それから、義父さん、義母さん。あなたたちもだ。息子の不倫を知りながらリナに隠し、彼女の保険金まで狙っていた。その強欲さが、あなたたちの家庭を終わらせる原因になったんだ」

父の言葉に、義父母はもはや反論する力もなく、ただ二人で抱き合って震えていた。

「権藤、息子、義父、義母。殺人予備、詐欺、偽造、及び組織犯罪処罰法違反の容疑で、現行犯逮捕する」

父の合図と共に、待機していた刑事たちが一斉に踏み込んだ。権藤は抵抗しようとしたが、あっけなく取り押さえられ、手錠をかけられた。夫は「嫌だ!僕は悪くない!リナ!リナぁ!」と泣き叫びながら、ずるずると引きずられて行く。

かつてこの家を支配していた偽りの家族と、巨大な悪が一瞬にして排除されていく。嵐が去った後のような静けさが、リビングに訪れた。

しかし、私はまだ本当の真実を、彼らに突きつけてはいなかった。彼らが私から奪おうとしたものが、単なる土地や金ではなかったということ。

私は父と視線を合わせた。父は優しく頷き、一通の封筒を私に手渡した。

「リナ、最後の仕上げだ」

「ええ、ありがとう、お父さん」

私は連行される寸前の夫の前に立った。

「夫さん、最後に一つだけ、あなたが一番知っておくべき事実を教えてあげるわ」

夫が、涙と鼻水で汚れた顔を上げた。

「事実?なんだよ。もう僕には何も残ってない」

「いえ、そうね。でも、あなたはあることに気づくべきだったのよ。なぜ私がこれほどまでに徹底的にあなたたちを追い詰めたのか、その本当の理由を」

私は封筒から一枚の書類を取り出した。それは、彼らが計画していた死とは真逆のある命の証だった。夫の目が、その書類の一点に釘付けになる。

そこには、洗礼されたエコー写真と「妊娠中」という文字、そして私の名前が記載されていた。

「妊…妊娠?リナ、お前…子供が…いたのか」

夫の声がかれた。その表情には、驚きと、そして言葉にできないほどの動揺が入り混じっていた。

「ええ。あなたに伝えようと思っていたわ。でも、あなたが私の体調不良を『ノイローゼ』と決めつけたあの日、私は確信したの。この子を、あなたのような怪物の父親に合わせるわけにはいかないって」

私は書類を大切に胸に抱きしめた。この小さな命を守るために、私は沈黙を守り、冷徹に証拠を集め続けてきたのだ。

「そ、そんな…じゃあ、俺たちは…自分の子供まで…一緒に殺そうとしていたのか…」

夫が膝から崩れ落ち、頭を抱えた。義母もエコー写真を見て、激しく顔を引きつらせた。

「孫…?私たちの初孫なの?」

「いいえ、違います。この子は私の子供です。あなたたちの孫ではありません」

私は氷のような冷たさで言い放った。

「あなたたちが私の命を奪おうと笑いながらシャンパンを飲んでいた時、この子も私のお腹の中で、あなたたちの言葉を聞いていた。この子が将来自分の祖父母と父親が、自分と母親を殺そうとしていたなんて知ったら、どう思うでしょうね」

義母は「ああ…ああ…」と力なく声を漏らし、そのまま玄関の壁に寄りかかるようにして崩れ落ちた。欲に目がくらみ、最も大切なはずの血の繋がりさえも自らの手で断ち切ろうとしていた事実に、ようやく直撃されたのだろう。

しかし、真実はそれだけではなかった。私はもう一枚の書類を、夫の目の前に突きつけた。

「それから、あなたが私の借金だと主張していたあの三千万円。よく見てご覧なさい」

夫が震える手で、その書類を奪い取るようにして見た。それは、彼が私の実印を悪用して作成したはずの借用書だった。

「な、なんだこれ?内容が書き変わってる…」

「書き換えたのではないわ。あなたが私の実印だと思って盗み出したのは、父が用意しておいたダミーの実印よ。そして、あなたがサインした契約書の相手は、権藤建設の息がかかった闇金なんかじゃない。父が私費捜査のために設立した、特別管理法人よ」

夫の顔が恐怖で引きつった。

「つまり、あなたが借りたつもりになっていた三千万円は、最初から警察の管理下にあった。そして、その金がどこへ流れたか。不倫相手のマンション、贅沢な遊び、権藤へのワイロ。すべての動きが、リアルタイムで警察のサーバーに記録されていたのよ」

「じゃあ…俺がやっていたことは…最初から…」

「ええ。あなたは泳がされていたのよ。あなたが権藤建設という巨大な腐敗の尻尾を掴ませてくれた、一番の協力者だったの。無能なのは私ではなく、あなただったのよ、夫さん」

私は初めて、彼の名前を呼んだ。しかし、そこにはかつての愛情も親しみも、一切なかった。ただの犯罪者に対する宣告だった。

夫は声を失って震えていた。自分が完璧な犯罪だと思い込んでいたすべてが、実は警察の手のひらで踊らされていた、滑稽なダンスに過ぎなかったのだ。

——

「佐藤係長。外の準備が整いました。権藤及び佐藤親子を、本部へ移送します」

父の部下である若い刑事が、きびきびとした動作で報告に来た。父は無言で頷き、最後に一度だけ、夫を冷たく見下ろした。

「息子君、君は最後までリナ及び、私の妻を侮辱した。その代償は、刑務所の中でじっくりと払ってもらうことになる。それから、安心しろ。君がリナに押し付けようとした借金、三千万円だが、あれは君個人の債務として、これから一生かけて返してもらうからな。警察の管理下にある金だ。逃げることは、地の果てまで追いかけても許さない」

「ひっ…ああ…あああ…」

夫はもはや人間としての形を保てないほどに、醜く泣き崩れた。

一方で、権藤は連行される間も、私を真っ正面から睨みつけた。

「小娘、お前が勝ったと思うなよ。私にはまだ外に…」

「外の仲間なら、今頃全員一斉捜査を受けていますよ」

私は権藤の言葉を遮って言い放った。

「あなたの秘書、及び海外の口座を管理していた親族。全員、私が作成したリストに基づいて、今この瞬間に身柄を確保されています」

権藤の目が大きく見開かれた。その傲慢な瞳に、初めて本当の敗北が宿った。

「さて、お父さん。私はもう大丈夫よ」

私は父の隣へと歩み寄った。父は私の肩を優しく、しかし力強く叩いてくれた。

「リナ、よく頑張ったな。お前の母さんもきっと天国で、誇りに思っているはずだ」

父の言葉に、ずっと張り詰めていた私の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。それは三年に及ぶ偽りの生活に対する、決別の涙だった。

しかし、警察官たちが彼らを車に乗せようとした、その時だった。一台のタクシーが家の前に急停車した。中から降りてきたのは、誰もが予想しなかった意外な人物だった。

その人物の姿を見た瞬間、義父が悲鳴のような声をあげた。

「あ、愛子…!なぜお前がここにいるんだ?」

現れたその人物は、冷徹な笑みを浮かべ、手に持っていたある鍵を高く掲げた。

「義父さん、まだお話が終わっていないでしょう。私のことも、忘れてもらっちゃ困るわ」

——

タクシーから降りてきたのは、背筋をピンと伸ばした、気品溢れる和服姿の女性だった。その顔立ちを見た瞬間、義父と義母はまるで幽霊でも見たかのように絶叫した。

「あ、愛子!なぜだ?なぜお前がここにいる?お前は、ずっと施設にいたはずだろう!」

義父の声は震え、その場に崩れ落ちた。

愛子と呼ばれたその女性。義父の実の妹であり、夫のおばに当たる人物は、穏やかな、しかしどこか慈悲深い笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

「お久しぶりですね、お兄様。そして、義姉さん。施設ですか?あなたたちが私を無理やり押し込み、外部との連絡を一切遮断させた、あの監獄のような場所のことかしら」

愛子さんの言葉に、連行されかけていた刑事たちも足を止め、厳粛な表情で彼女を見つめた。私は彼女の隣に、そっと寄り添った。

「愛子さん、間に合ってよかったです」

「いえ、リナさん。あなたが手を回してくれなければ、私は今頃あの冷たい部屋で、一生を終えていたでしょうね」

三人の敵たちは、混乱の極みに達していた。特に義父は、自分の実の妹を精神を病んでいると偽って隔離し、彼女が相続するはずだった広大な土地と財産を、すべて奪い取っていたのだ。

「リナ、お前…愛子と繋がっていたのか?いつからだ?いつから俺たちを裏切っていたんだ?」

夫が手錠をかけられたまま、じたばたと暴れながら叫んだ。私は彼の目を見据えて、答えた。

「裏切っていたのは、あなたたちの方よ。愛子さんから手紙が届いたのは、一年前。あなたが不倫相手と海外旅行に行っている間に、家のポストに一通の封筒が届いたの。そこには、あなたが隠していた愛子さんに対する非道な仕打ちの記録が、震える文字で綴られていたわ」

愛子さんは、施設に入れられる直前に一通の告発状を書いて、信頼できる友人に託していた。その友人が、「リナという新しい嫁がこの家に入った」ことを知り、勇気を出して私に届けてくれたのだ。

「私はね、お兄様。あなたたちがリナさんをどう扱っているか、ずっと心配していたの。私の資産を奪うだけならまだしも、この汚れなき若い女性の人生まで、自分たちの欲のために食い物にしようとするなんて。名家の恥さらしもいいところです」

愛子さんは、掲げていた鍵を義父の目の前に突きつけた。

「これは、この家にある隠し金庫の鍵ではないわ。お兄様、あなたが権藤建設と交わした本当の裏契約書類が保管されている、銀行の貸金庫の鍵よ」

「な、なぜそれを…それは、私が肌身離さず持っていたはずだ!」

義父が自分の胸元を慌てて探る。しかし、そこには何もなかった。

「お忘れですか?先週、あなたが泥酔して帰ってきた夜のこと。リナさんがお着替えを手伝った時、私は彼女に指示を出して、その鍵を預からせてもらったのよ」

愛子さんの言葉に、義父はがっくりとうなだれた。彼は自分の油断が、これほどの破滅を招くとは夢にも思わなかったのだろう。

一方で、義母は狂ったように笑い出した。

「あははは!鍵が何だっていうのよ!金庫の中身なんて、燃やしてしまえばいいわ!私たちには権藤先生がついているの!あなたたちみたいな落ちぶれた一族に、何ができるっていうの?」

「義姉さん、あなた、まだあの男を信じているの?」

愛子さんは哀れみの視線を義母に向けた。

「権藤建設の資金繰りが、すでに破綻していることも知らずに。彼らが狙っていたのは、この土地ではないわ。この土地の地下に眠っている、ある価値だけよ」

「地下の…価値?」

夫が呆然とつぶやいた。刑事たちも、そして父さえも、愛子さんの言葉に耳を疑った。

「リナさん。この家を建てる時、お兄様たちが必要以上に地下室の工事にこだわっていたのを、覚えているかしら」

「ええ、確かに。耐震補強のためだと言って、かなり深いところまで掘削して、特殊なコンクリートを流し込んでいました。私はてっきり、ワインセラーでも作るのかと思っていましたけど」

「あの地下室はね」愛子さんは冷徹な口調で真実を告げた。「権藤建設がこれまでに築き上げてきた数々の不法、そして隠蔽すべきものを埋めるための墓場だったのよ。この家そのものが、巨大な犯罪の隠れ蓑だったの」

その瞬間、現場にいた全員が息を飲んだ。警察官の娘である私が住んでいたこの家が、犯罪の証拠を隠すための巨大なゴミ捨て場だったなんて。

「だから、権藤はあんなに焦って爆破しようとしたのか」

父が低い声でつぶやいた。爆発させ、火災を起こすことで、地下に埋められたものが熱で変性し、証拠能力を失うことを狙っていたのだ。

「さあ、お兄様。すべてを話しなさい。あなたが愛子家の土地を奪い、そこに何を埋めさせたのか。そして、リナさんを殺して、その死体もすべてを闇に葬ろうとした、その全貌をね」

愛子さんの鋭い追及に、義父はついに折れた。

「ああ…。俺はただ、金が欲しかっただけなんだ。権藤に、そうすれば一生遊んで暮らせるだけの金を出すと言われて…」

「お父さん、何を言ってるんだよ!僕も…僕も被害者なんだ!知らなかったんだ!地下のことなんて!」

夫が必死に父親を責め立てる。見苦しい責任のなすり付け合いが、玄関ホールで始まった。三人の敵たちは、もはや互いを信じることもできず、ただ恐怖と絶望の中にいた。これまで私を「中卒」「無能」「寄生虫」と罵ってきた彼らのプライドは、今や見る影もない。

しかし、混乱はこれだけでは終わらなかった。

「待ってください」

私は愛子さんの背後から、一歩前に出た。

「地下に埋まっているもの。それは、不法投棄された産業廃棄物だけではないはずです。そうですよね、義父様」

私の言葉に、義父の顔が今日一番の恐怖で引きつった。

「な、なぜ、それを…」

「あなたが夜中に地下室へ降りていくのを、私は何度も見ていました。そして、あなたがいつも手に持っていた、あの小さな骨箱。あれは、一体誰のものだったのですか?」

その問いが投げかけられた瞬間、玄関ホールの気温が数度下がったような錯覚に陥った。義父の動揺は、もはや犯罪の露見を超え、もっと恐ろしい過去の真実へと踏み込もうとしていた。

——

「お前…なぜ、それを…」

義父の声は、もはや人間の言葉とは思えないほどにかれ、震えていた。先ほどまで愛子さんに遺産奪取の事実を突きつけられて動揺していたのとは、明らかに異質の恐怖が全身を支配している。

私は父と目配せをした。父は無言で頷き、鑑識官に指示を出して、リビングの奥にある地下室への隠し扉を開けさせた。

「義父様、義母様。あなたたちは、私が何も知らずにこの家で能天気に家事をしていたと思っていたでしょう?」

私は刑事が差し出す懐中電灯を手に取り、暗い地下階段へと足を踏み入れた。後ろから、手錠をかけられた義父と権藤、そして義母が、刑事たちに引きずられるようにして続いてくる。

地下室は、ひんやりと湿った空気が漂い、コンクリートの匂いと何かが混じり合った独特の異臭が鼻をついた。壁際には、権藤建設が運び込んだと思われる不法投棄物の残骸が積み上げられていたが、私の狙いはそこではない。

奥の壁。そこには、他とは明らかに色が異なる、真新しいコンクリートの補強跡があった。

「ここよ。お父さん、ここを開けて」

父の合図と共に、鑑識官たちが電動工具を使って、その壁を慎重に削り始めた。ガガガという激しい音が地下室に反響する。

「やめろ!やめてくれ!そこだけは開けるな!」

義父が刑事を振り切ろうとして暴れ出した。

「そこには呪いが埋まっているんだ!開けたら、全員終わりだぞ!」

「呪い?いいえ、義父様。そこに埋まっているのは、あなたの最大の罪よ」

私は冷たく言い放った。やがて、コンクリートの壁が剥がれ落ち、中から小さな漆塗りの骨箱が現れた。それは、私が夜中に義父が抱きしめているのを、何度も目撃したあの箱だった。

父が慎重にその箱を取り出し、蓋を開けた。そこに入っていたのは、遺骨ではなかった。何重にも厳重に梱包された、一冊の古い日記帳と、数枚の写真。それを見た瞬間、父の瞳孔が大きく見開かれ、声にならない衝撃が漏れた。

「これは…和子…?」

和子。それは、十数年前に病死したはずの、私の母の名前だ。

「リナ、待ちなさい。お前の母さんは病院で静かに息を引き取ったはずだ。私が見届けたんだぞ」

父が困惑と衝撃に揺れる中、私は日記帳の最後のページを開き、そこに記された真実を読み上げた。

「三月十四日。義父さんが持ってきた薬を飲んでから、体のしびれが止まらない。父さんには内緒にしてと言われたけれど、もう限界かもしれない。彼は私の実家が所有していたこの土地の権利書を、どこかに隠した。あの子、リナにだけは、手を出さないで」

地下室に、母の遺言が響き渡った。静まり返る中、夫は呆然と立ち尽くし、義母はガタガタと歯を鳴らしている。

「義父様。あなたは私の父が事件の捜査で家を開けている隙をつき、当時、私の母が大切に管理していたこの土地の権利を奪うために、彼女を病死に見せかけて毒殺したのね」

衝撃の事実。私がこの家に来たのは、単なる結婚ではなかった。母を殺し、土地を奪った犯人の元へ。私は自ら獲物を求めて、乗り込んだのだ。

「あははは!やったら何だっていうんだ!」

突然、義父が狂ったように笑い出した。その目は、完全に理性を失っている。

「そうだ。あの女は邪魔だったんだよ!警察官の妻のくせに、この土地の価値も知らずに守りやがって!俺が権藤さんと組んで、莫大な富を築くための足がかりにするはずだったんだ!死んで当然なんだよ、あんな女!」

義父は私に向かって唾を吐き捨てるように叫んだ。

「お前もそうだ、リナ!お前の母親と同じで、無知で愚かで、正義感だけが取り柄のバカな女だ!殺してやるはずだったのに!なぜ、なぜお前なんかが、俺の完璧な計画を!」

「義父様、あなたは最後まで、私の母及び私を侮辱するのですね」

私は一歩も引かず、義父の前に立った。その瞳には、かつてないほどの深い悲しみと、それを上回る激しい怒りが宿っていた。

「あなたが無能と罵った私の母は、死の間際まで、自分の命よりも私と父の幸せを願っていた。そして、あなたが『ゴミ捨て場』と呼んだこの土地は、母が『いつかリナが結婚した時に、家族で笑って暮らせるように』と命がけで守り抜いた場所なのよ」

私は骨箱の中にあった、もう一つの証拠を掲げた。それは、母が密かに記録していた、義父と権藤建設による二十数年に渡る土地取得の全記録だった。

「お父さん、これが母さんが残した証よ。母さんは自分が殺されることを予感して、この日記と証拠を、義父さんが一番執着するこの場所に隠したの。義父さんは皮肉にも、母さんが残した自分の首を絞める証拠を、亡霊のように二十年間守り続けていたのよ」

父は母の日記を抱きしめ、静かに涙を流していた。長年、妻を病気で救えなかったと自分を責め続けてきた父にとって、これがどれほどの衝撃だったか。

「お前たちが犯した罪は、保険金詐欺や不法投棄だけではない。二十年前の殺人、及び死体遺棄。時効は、とっくに崩壊している」

父の声は、もはや怒りを越え、静かな殺意すら感じさせる冷徹な響きを持っていた。

「地獄の底まで、私が案内してやる」

刑事たちが、錯乱する義父を力ずくで押さえつけ、階段へと引きずり出していく。義母は「私はただお金が欲しかっただけなのよ!」と叫びながら、醜く転げ落ちた。

最後に残ったのは、腰を抜かして動けなくなっている夫だった。

「リナ…。嘘だろ…。僕たちの結婚は…お前が僕を捕まえるための、母さんの復讐を果たすための…」

「いいえ」私は彼を一瞥もせずに答えた。「私はあなたを信じたかった。あなたが父親の罪を知らずに、ただ私を愛してくれる人であってほしいと、心のどこかで願っていたわ。でも、あなたは自分の手で、その最後の可能性を捨てたのよ」

私は地下室の冷たい床に転がっていた、彼が開けようとしていたシャンパンのコルクを、静かに踏みつぶした。

「さようなら、夫さん。あなたは私と、お腹の子にとって、もう存在しない人間よ」

私が地下室を去ろうとした、その時だった。連行される夫が、最後の足掻きのように叫んだ。

「待て、リナ!まだあるんだろ!お前の知らない、最後の爆弾が!権藤が仕掛けたのは、爆弾だけじゃないんだぞ!」

その不吉な叫び声が、地下室の壁に不気味に響き渡った。

——

地下室の出口へと向かう私の背中に、夫の狂ったような叫びが追いすがってきた。

「待て、リナ!まだ終わってないぞ!お前は勝ったつもりだろうが!この家が警察の捜査対象になった瞬間、お前の親父は破滅するんだ!権藤先生が仕掛けた本当の罠は、目に見える爆弾なんかじゃない!」

父が足を止め、鋭い視線を夫に向けた。

「どういう意味だ?息子君、私の破滅だと?」

夫は手錠をかけられ、地面にのたうちながら、口の端を歪めて笑った。

「教えてやるよ。この家を建てる時のローン、義父さんの名を勝手に使わせてもらったんだ。それもただのローンじゃない。権藤先生の関連会社を通じた、裏の特殊契約だ。この家が犯罪の証拠物件として差し押さえられたり、持ち主が逮捕されたりした場合、全額即時返済の義務が生じる。その額、利息を含めて五億円だ」

「五億円…」

愛子さんが横で息を飲んだ。自分たちも知らなかった事実に、驚愕しているようだ。

「そうだ。義父さんは連帯保証人になってる。この家がガサ入れを受ければ、システムが自動的に作動して、義父さんの口座資産及び退職金まで、すべてが一瞬で凍結され、没収される仕組みになっているんだよ」

夫は勝ち誇ったように続けた。

「警察官が犯罪者の片棒を担いで多額の借金を作った。そのニュースが流れれば、お前の親父は停職免職だ。刑務所に送ることはできても、お前たちの人生も道連れだ」

夫の顔は、復讐の喜びに歪んでいた。自分が助からないなら、相手も地獄へ引きずり込もうとする底なしの悪意。

「ふっ、どうだ、リナ?警察官の娘だからって、何だ?所詮、お前も身内の破滅は止められないだろう。これが権藤先生の本当の保険なんだよ」

沈黙が地下室を支配した。父の部下である刑事たちの間に、動揺が広がる。夫の言うことが本当なら、これは単なる捜査では済まない。正義を貫いた結果、一人の高潔な警察官の人生が、卑劣な罠によって粉砕されてしまう。

父はじっと、自分の手を見つめていた。その手は、長年多くの犯罪者を捉えてきた、節くれだった誇り高い手だ。

「そうか。それがお前たちの最後の一手か」

父が静かに呟いた。その声に、絶望の色はなかった。私は父の隣に歩み寄り、その大きな手をしっかりと握った。

「お父さん、大丈夫よ」

私は夫の方をゆっくりと振り返った。私の瞳には、哀れみすら浮かんでいた。

「夫さん、あなたは本当に最後まで、爪が甘いのね。私が金融庁の調査官だと言ったこと、もう忘れてしまったの?」

「な、なんだと?調査官がなんだ?契約書は本物だ!お前の親父の筆跡も印鑑も、完璧に偽造してあるんだぞ!」

「ええ、そうね。権藤建設が利用していたその関連会社名、グローバル・キャピタル・ローンのことかしら?」

夫の笑みが、一瞬で凍りついた。

「な、なぜその名前を…」

「その会社は三日前、金融庁と警察の合同捜査によって、すべての業務を停止させ、資産を凍結しました。もちろん、あなたが完璧だと思い込んでいた契約書も、履行が実行される前にすべて差し押さえよ」

私はバッグから一通の公文書を取り出した。

「これは金融庁が発行した、不正契約無効証明書。あなたが不倫相手の川村さんを使って、父の印鑑を盗み出そうとしたあの日、私はすでにその動きを察知して、父の印鑑を法的に無効なものへと登録変更していたの。つまり、あなたが偽造した契約書は、最初からただの紙くずだったのよ」

「そんな…嘘だ!川村は完全にやったと言っていた!」

「彼女もね、実は私の協力者だったのよ」

私が放った一言に、地下室にいた全員が衝撃を受けた。

「な、なんだって?川村が…協力者?」

「彼女は権藤建設に多額の借金を背負わされ、無理やり不倫を強いられていた被害者の一人だったの。私が彼女に接触し、借金の帳消しと安全な保護を約束した時、彼女は泣いて喜んでいたわ。あなたが彼女にプレゼントしたと思っていたマンションも、実は警察が用意した監視用の囮物件。あなたが彼女と過ごしていた時間は、すべて私たちの監視下にあったのよ」

夫の顔が、今度こそ完全に崩壊した。自分が愛だと思っていたもの。自分が武器だと思っていたもの。そのすべてが、私という一人の女が仕掛けた巨大な網の中の出来事に過ぎなかったのだ。

「お前は…お前という女は…最初から、俺を愛してなんていなかったのか?全部、最初から仕組んでいたのか?」

「いいえ。結婚した当初、私はあなたを信じようとした。でも、あなたが私の母の形見を笑いながら捨てた。あの夜、私は決めたの。あなたたち一族を、猫の額ほどの社会から抹殺するって」

私は最後通告を突きつけるように、夫の足元に契約書のコピーを投げ捨てた。

「あなたの言う五億円の爆弾は、今あなた自身の頭の上で爆発したのよ。夫さん。その不当な契約を企てた罪、及び不正融資の容疑。これらが上乗せされて、あなたの刑期はさらに伸びることになるわ」

夫は獣のような悲鳴を上げ、自分の頭を地面に打ち付けた。もう、彼にはすがるべき希望も、相手を道連れにする武器も、何も残っていなかった。

——

「佐藤係長、移送を開始します」

刑事たちの声が響く。義父、義母、権藤、そして夫。かつて私の世界を暗闇に変えようとした悪党たちが、次々と暗い地下室から連れ出されていく。

地上に出ると、夜明けの空が白み始めていた。冷たくも清々しい朝の空気が、私の頬を撫でる。

「リナ、本当にすまなかったな。お前に、こんな危険な真似をさせて。私は父親失格だ」

父が私の肩を抱き寄せた。

「いいえ、お父さん。私はお父さんの娘に生まれて、本当に良かったと思っているわ。お父さんが守ろうとした正義を、今度は私が、この子と一緒に守っていく」

私はそう言って、自分のお腹にそっと手を当てた。まだ見ぬ小さな命が、力強く鼓動しているのを感じる。

しかし、物語にはまだもう一つの伏線が残っていた。連行される権藤が、パトカーに乗り込む直前、私の方を振り返って不気味に微笑んだのだ。

「リナさん、おめでとう。君の勝ちだ。だが、忘れるな。この土地の下には、まだ君の知らない本当の怪物が眠っている。私の後ろに立っていた、あの男の名前を聞けば、君もその父親も、二度と夜は眠れなくなるだろうよ」

権藤の不穏な言葉。それは勝利の余韻を掻き消すような、冷たい予感となって私の心に突き刺さった。

「本当の怪物…?」

私が問い返そうとした、その時だった。一台の黒い公用車が、警察の規制線を押しのけるようにして、私たちの目の前に現れた。そこから降りてきた人物を見た瞬間、父の表情がかつてないほど強張った。

「まさか…あなたが、ここに来るとは…」

そこにいたのは、日本の中枢を動かす、誰もが知るあの男だった。黒い車から降りてきたのは、与党の重鎮であり、次期総理候補ともされる高木だった。テレビで見せる柔和な笑みは微塵もなく、そこにあるのはすべてを力でねじ伏せてきた権力者の、傲慢な横顔だった。

「佐藤係長、やあ、随分と物騒だね。私の知人である権藤君が、何やら災難に会っていると聞いて、駆けつけたのだが。これは一体、どういう説明をしてくれるのかな?」

高木はパトカーに押し込まれようとしている権藤を一瞥し、父に向かって冷徹に言い放った。その背後には、彼の秘書や屈強なSPたちが、壁のように立ちはだかっている。

「高木先生、これは正当な捜査です。権藤建設及び、ここにいる佐藤親子には、殺人予備、詐欺、組織的犯罪の容疑がかかっています。証拠も、すでに揃っております」

父が毅然とした態度で答えるが、高木は鼻で笑った。

「証拠?そんなものは、私の鶴の一声で、明日の朝には不十分として処理される。君も長く警察にいれば分かるだろう。この国には、法よりも優先される秩序があるのだよ」

高木は私の目の前まで歩み寄ると、汚いものを見るような目で私を見下ろした。

「君が、金融庁の小娘か。少しばかり数字をいじって、正義の味方ごっこか。滑稽だな。君の父親は、あと数年で退職金をもらって、穏やかに暮らすはずだった。それを君が、余計な首を突っ込んだせいで、すべて台無しにするつもりか?」

私は沈黙した。夫がパトカーの窓から、その様子を見て再び卑屈な希望の光を宿しているのが分かった。「高木先生、助けてください!僕たちは、先生のために動いていたんです!」と叫んでいる。高木は一瞥するだけで、それを無視した。

「リナさん、今すぐそのファイルを私に渡しなさい。そうすれば、お前の父親の身柄は保証してやろう。逆らうなら、君たちの家族は明日から社会的に抹殺される。警察官の娘が、証拠捏造の疑いで逮捕される。そんなシナリオを書くのは、たやすいことだ」

高木の手が、私からファイルを奪い取ろうと伸びてきた。その瞬間、私は一歩下がり、静かに口を開いた。

「高木先生、あなたは一つだけ、大きな計算違いをしています」

「何だと?」

「あなたは私を『金融庁の小娘』と呼びましたね。確かに私は調査官ですが、今回の捜査は金融庁単独の判断で行われたものではありません」

私は父と目配せをした。父が自分のスマートフォンの画面を操作すると、高木の背後にある公用車のモニター、及び私たちの周りにいるSPたちの無線機から、一斉にある音声が流れ始めた。

「権藤君、例の土地の地下には、あと三体は埋められる余裕があるな。警察の佐藤の娘を消す時は、私の秘書が手配した薬を使いなさい。病死に見せかければ、父親も手出しはできまい」

それは、高木自身が権藤と密談していた時の、あまりにも生々しい殺人の指示の声だった。

「な、なぜ私の声が…!これは捏造だ!違法捜査だ!」

高木が動転し、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「いいえ、高木先生。これは捏造ではありません。公認不正検査士として、私があなたの事務所に監査に入った際に、あなたが自ら許可した危機管理システムのテスト記録ですよ」

私はさらに追い打ちをかけるように、タブレットを掲げた。

「この録音データは、今この瞬間、鑑識の内閣官房長官、及び検察総務、両方にリアルタイムで転送されています。それだけではありません。この家の庭に設置された高感度マイクが、今夜のあなたたちの行動、及び今あなたが口にした恫喝の言葉まで、すべて記録し、インターネットを通じてライブ配信されています」

「ライブ配信…?」

高木が周囲を見渡すと、そこには父の部下たちが掲げているスマートフォンだけでなく、近隣の住民たちが窓からこちらの様子を伺い、一斉にカメラを向けている光景があった。

「視聴者はすでに、深夜にも関わらず百万人を超えています。日本の次期総理候補が、一般市民の女性を脅し、殺人を隠蔽しようとしている。その事実は、もう誰にも消せません」

「この…クソ女が!」

高木が理性を失い、私に殴りかかろうとした。しかし、その拳が届く前に、父が鉄のような強さで高木の腕をひねり上げた。

「高木義郎。公務執行妨害、及び殺人教唆の容疑で、現行犯逮捕する」

「お前!私は国会議員だぞ!私を誰だと思っているんだ!」

「誰であろうと関係ない。私の娘を、私の妻のように殺そうとした男を、私は一生許さない」

父の瞳に宿る怒りは、権力の壁を粉々に粉砕した。高木は誇り高かったはずのスーツを泥にまみれさせながら、地面に組み伏せられた。SPたちも、内閣からの緊急逮捕命令を無線で受信し、自らの主人である高木を拘束し始めた。

その様子をパトカーの中から見ていた義父、義母、権藤、そして夫。彼らの顔は、もはや絶望という言葉すら生温い、虚無そのものに染まっていた。最大の後ろ盾だと思っていた権力者が、目の前で、自分たちが一番侮辱していた「しがない警察官」と「無能な娘」によって、引きずり下ろされたのだ。

「ありえない…。こんな…こんなことって…」

夫の消え入るような声が、空気に響く。私は彼らの方を一度だけ振り返り、そして一言だけ、はっきりと言い放った。

「あなたたちが私に言ったこと、そのまま返してあげるわ。『利用できるものは全部利用して捨てる』。あなたたちが汚い手で積み上げたその権力も、お金も、すべて私が正義のために利用させてもらったわ。感謝して、その冷たい牢獄の中で余生を過ごしなさい」

その瞬間、何十台ものパトカーのサイレンが一斉に鳴り響いた。それは、悪党たちの終焉を告げる、凱旋のファンファーレだった。

——

「リナ、終わったな」

父が手錠をかけた高木を部下に引き渡し、私の元へ歩み寄ってきた。

「ええ、お父さん。本当に、終わったわ」

私は朝日が昇り始めた東の空を見上げた。母が命がけで守りたかったこの土地に、ようやく本当の平和が訪れたのだ。

しかし、警察の車が走り去り、静寂が戻った後、私は足元に落ちていたあるものに気づいた。それは、夫が最後に投げ捨てようとした、古い鍵だった。その鍵の先には、まだ私たちが知らない、最後の秘密が待っていた。

パトカーのサイレンが遠ざかり、辺りには深い静寂が戻ってきた。東の空からは、雲を金色に縁取る太陽がゆっくりと顔を出し、血塗られたような悪夢の一夜を洗い流していく。

私は玄関先のタイルの隙間に落ちていた、古びた小さな鍵を拾い上げた。それは、夫が連行される間際に、何かに怯えるようにして投げ捨てた鍵。その鍵は、あの場所の鍵だった。

「これは、あの場所の鍵ね」

私は父と一緒に、庭の隅にある大きな金木犀の木の下へと歩いた。その木は、私が幼い頃、母と一緒に植えたものだ。母はこの花の香りが大好きで、秋になると家中にその甘い香りが満ちていたことを思い出す。

「お父さん、母さんはよく言っていたわ。『一番大切なものは、目に見えないところに隠してある』って」

木の根元には、不自然に土が盛られた場所があった。父がそこを少し掘り返すと、小さな木箱が出てきた。夫が持っていた鍵を差し込むと、カチリと音を立てて蓋が開いた。

中に入っていたのは、母の筆跡で書かれた一通の手紙と、私たちが赤ん坊だった頃の古い家族写真。そして、小さな、本当に小さな、手編みのベビーシューズだった。

「リナへ。あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうあなたの隣にはいないのでしょう。そして、この家を巡る悲しい争いが、終わりを迎えたのかもしれません。私は、義父さんたちのたくらみに気づいていました。でも、私はこの場所を離れるわけにはいかなかった。ここは、あなたのお父さんが汗を流して、私たちのために守ってくれた場所だから。そしていつか、リナが大切な人と出会い、新しい命を授かった時に、この場所でその子を抱きしめて欲しいと願っていたから。リナ、どうか自分を責めないで。復讐のために生きてはいけない。あなたの目には、人を刺すための鋭さではなく、人を愛するための優しさを宿していて欲しい。このシューズは、いつか生まれてくる私の孫へのプレゼント。私は、あなたたちの幸せを、ずっとこの土の中から見守っています。愛しているわ、リナ。そして、あなたも」

手紙を読み終えた瞬間、私の目からは熱い涙が溢れ出し、止まらなくなった。隣で手紙を覗き込んでいた父も、声を殺して肩を震わせ、泣いていた。

「和子…。お前は、全部分かっていたんだな。一人で、どれほどの恐怖と戦っていたんだ…」

父は母の写真に、そっと指で触れた。

「リナ、私は今日まで、犯人を捕まえることだけが正義だと思っていた。だが、和子が残したかったのは、そんな殺伐としたものではなかったんだな」

私は母が残してくれた真っ白なベビーシューズを、自分のお腹にそっと当てた。

「ええ、母さんは、この場所を地獄ではなく、家族の場所として、私に引き継いで欲しかったのね」

——

一ヶ月後、私は夫との離婚を成立させた。彼は高木や権藤建設との癒着、及び殺人教唆、私文書偽造など、数えきれないほどの罪で起訴され、二度と日の光を拝めないほどの長い刑期を言い渡された。義父と義母も、二十年前の母の毒殺への関与が認められ、再捜査の結果、厳しい判決が下ることになった。

あの呪われた家は、一度更地にすることに決めた。地下に埋められていた不法投棄物はすべて撤去され、土は清められた。高木の失脚により、再開発計画も白紙撤回。土地は私の手元に残り、そこには今、新しい小さな家が立とうとしている。

父は警察を退職した。

「リナ、これからは、お前と、これから生まれてくる孫のために、時間を使いたいんだ」

そう言って笑う父の顔は、かつての厳しい「プロの刑事」ではなく、一人の優しい祖父の顔になっていた。

私は今、新しい家のリビングで、窓の外に広がる青い空を眺めている。お腹の中の赤ちゃんが、ポコッと力強く動いた。

「大丈夫よ。あなたには、おじいちゃんと、おばあちゃんと、お母さんがついているから」

不倫、裏切り、陰謀。見にくい大人たちの欲望に翻弄された三年間だったけれど、私は失ったものよりも、得たものの方がずっと大きいと感じている。母が命がけで守り抜いた土地と、父が取り戻してくれた真実、そして、私の中に宿った新しい命。

私はもう、隣の部屋の会話に怯えることはない。この家に流れるのは、静かな風の音と、もうすぐ聞こえてくるであろう赤ん坊の泣き声だけ。

「お母さん、ありがとう」

私は空を見上げて、小さくつぶやいた。金木犀は新しい家の庭に植えられ、今年もまた、甘く優しい香りを漂わせようとしている。それはまるで、母が「よく頑張ったね」と私を抱きしめてくれているかのような、温かい香りだった。

私は、一歩前へと踏み出した。光輝く未来へ向かって。私の物語は、ここから本当の意味で始まるのだ。

Thumbnail