「待ってください。ここは私の家です。あなたたちが勝手に住むなんて許しません」
私がようやく手に入れた夢の新築タワーマンション。穏やかな生活が始まった矢先、元義姉の鬼嫁夫婦が犬を連れ、引っ越し業者と共に現れ、勝手に荷物を運び込み始めた。古びた家具、大量のダンボール、犬用の檻。私の城はあっという間に彼らのもので占拠された。
「それにしてもすごい景色。天空の城みたい。私たちのためにありがとね」
彼女は勝手に部屋を物色し、リビングの一番いい場所に立ち、当然のように言い放つ。
「私たちの寝室は一番広い角部屋ね。あそこにするからよろしく。ワンちゃんも一緒」
ここは私の家だ。私が血の滲むような努力をしてやっと手に入れた場所なのに。
「好き勝手に言い放つ義姉に、私の怒りが頂点に達した」
私は名前を宮野さち、28歳になる。数年前までは高森さちという姓を名乗っていた。都心の一角で、ささやかながらも自分の夢だったネイルサロンを経営している。
元夫の高森光との出会いは私が24歳の時、友人に半ば強引に誘われて参加した合コンの席だった。
当時の私は念願だったネイルサロンを開業したばかりで、毎日が目まぐるしく過ぎていく。正直なところ、恋愛や結婚について深く考える余裕はなかった。
そんな状況で出会った三光広は、第一印象こそ少し頼りなげに見えたものの、彼の持つ穏やかで優しい雰囲気に、私はいつしか惹かれていった。彼は私の仕事に対する情熱を理解し、いつも穏やかに話を聞いてくれる。その優しさに、仕事で張り詰めていた私の心は癒されたのだろう。私たちは自然な流れで交際をスタートさせ、出会いから1年と経たずに結婚という道を選んだ。
今振り返れば、それはあまりにも早急な決断だったのかもしれない。相手の本質を、そして何よりも彼を取り巻く家族という存在の重さを、私は全く理解していなかったのだから。
結婚生活が始まって見えてきたのは、三光広の優しさが、時として決断力の欠如や他人への過度な依存心として現れるという事実だった。彼は自分で物事を決定することを極端に恐れる傾向があった。特にお金に関わることや将来の人生設計については、どこか他人事のように捉えているふしがあった。
私たち夫婦は共働きで、互いに多忙な日々を送っていた。私も自分のサロンを軌道に乗せることに必死で、家庭のことを十分に顧みることができない。光も忙しく働いており、二人の間には少しずつ溝が生まれていたのかもしれない。子供を持つという選択肢も、経済的、時間的な余裕のなさから考えることすらできないまま、気がつけば3年という月日が経過していた。
三広には10歳近く年の離れた姉が一人いる。三上君子さん、40歳。光がまだ中学生の頃、両親を突然の交通事故でなくし、それ以降、君子さんがたった一人で親代わりとなり、三光を育て上げたと聞いていた。
その深い恩があるからか、三広は姉である君子さんに対して絶対的に服従していた。君子さんの言葉は、光にとっては神の託宣にも等しい。どんなに理不尽な要求であっても、彼は決して逆らうことができなかった。
君子さんは五歳年上の夫、淳さんと共に輸入雑貨を取り扱う小さな会社を営んでいた。表向きは海外から仕入れたおしゃれな雑貨を扱うセンスのいい経営者夫婦。しかしその内情は火の車であるらしかった。
結婚して間もない頃から、君子さんは私たちの生活に頻繁に介入し始める。
「光、ごめんね。今月、ちょっと会社の資金繰りが厳しくて、少しだけ援助してもらえないかしら」
光は二つ返事で姉の頼みを引き受け、時には私に相談もなく、少なくない額のお金を君子さんに渡していた。それが一度や二度ではない。毎月のように様々な理由をつけては、君子さんからの金の無心は続いた。その額は徐々にエスカレートし、私たちの生活費を明らかに圧迫し始めた。
「お願いだからもうやめて。いくらお姉さんだって、これは異常よ。私たちの将来のためにも貯金しなくちゃいけないのに」
私が切実に訴えても、三光は眉を下げて困った顔をするばかりだった。
「でも姉さんには本当に世話になったんだ。俺が今こうしていられるのも姉さんのおかげなんだよ。会社も本当に大変みたいだし、俺が見捨てたら、姉さん夫婦は路頭に迷ってしまうかもしれない」
彼は姉を救済することが、育ててもらった恩に報いる唯一の方法だと固く信じ込んでいる様子であった。私には、君子さんが光の人の良さ、いやその断れない性格を利用しているようにしか思えない。このままでは私たちの家計が破綻してしまう。そう感じた私は、思い切って君子さんに直接話をすることにした。
ある週末、私は手土産を持って君子さん夫婦の自宅兼事務所を訪ねる。出てきた君子さんは、最初は愛想のいい笑顔を浮かべていた。
「君子さん、いつも光がお世話になっております。本日は少しご相談したいことがありまして」
私が切り出すと、君子さんの表情がわずかに曇る。
「大変申し上げにくいのですが、毎月の光からの仕送りについて、少しご考慮いただけないでしょうか?私たちの生活も正直あまり余裕があるわけではなくて」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、君子さんの顔から笑みが完全に消え去った。そして次の瞬間、彼女はまるで別人になったかのように激しい怒りを露わにした。
「なんですって。あなた、自分が何を言ってるのか分かってるの?この私が、この家のために、そして光のためにどれだけ苦労してきたと思ってるのよ」
君子さんの甲高い声が事務所に響き渡る。
「青二才の嫁が私に意見するだなんて、百年早いわ。あんたは高森家に嫁いだ以上、夫の家族を敬い支えるのが当然の義務でしょう。光を育てた私への感謝の気持ちが欠片も感じられないわね」
彼女の剣幕に、私は完全に押されてしまった。そして君子さんはさらに信じられない言葉で私を追い詰める。
「あんまり常識がないようなら、この私が、嫁としての躾をみっちり叩き込んであげる必要があるみたいね。覚悟なさい」
その宣言通り、その日から君子さんによる私への執拗な嫁教育が開始された。彼女はほとんど毎日のように私を自分の家に呼びつけるようになった。口実は様々だ。
「あら、さちさん、ちょうどいいところに来たわね。この山の洗濯物、お願いできるかしら?私、これから大事な打ち合わせがあるのよ」
ある時は次のように。
「さちさん、悪いけど今日の夕飯の準備お願いね。お客様が来られて手が離せないの。メニューは冷蔵庫にあるもので適当にお願い」
またある時はこんな風に。
「ちょっとさちさん、事務所の床、汚れてるわね。ちゃんと掃除しておいてちょうだい。隅々までよ」
彼女は私を完全に無料の家政婦として扱っていた。私が自分の仕事で疲れていても、体調が悪くてもお構いなしだ。断れば「嫁のくせに恩知らず」と言った暴言を浴びせかけ、精神的に追い詰めてくる。光に助けを求めても、帰ってくるのは的外れで無責任な言葉ばかりだった。
「姉さんも悪気はないんだよ。これもさちのためを思ってのことだよ。少し手伝ってあげれば丸く収まるじゃないか」
さらに君子さんの要求はエスカレートしていく。彼女は自分が飼育している大型犬ゴールデンレトリバーの散歩まで私に押し付けるようになったのだ。その犬は見た目は可愛らしいものの、全く躾がされておらず、驚くほど力が強い。散歩に連れ出すと他の犬を見れば吠えかかり、人に飛びつこうとし、突然予測不能な方向に走り出して私を引きずり倒すことも一度や二度ではなかった。私は元々動物があまり得意ではない。それでも君子さんの命令に逆らうことは許されず、私は毎日、仕事で疲れきった体に鞭打って、その巨大な犬との格闘のような散歩をこなさなければならなかった。散歩から戻ると服は泥や犬の唾液で汚れ、腕や足には引っかき傷ができていることも珍しくない。
そして、私の心を完全に打ち砕いたのが、君子さんからの授業料の請求だった。ある日、君子さんは真顔で私にこう言ったのだ。
「さちさん、こうして私が時間と労力を割いて、あなたに嫁としての心構えや家事の一切を教えてあげているのだから、それに見合った授業料を支払うのは当然のことよね」
私は耳を疑った。
「そうね。月々5万円くらいでどうかしら?私の貴重な時間を割いているのだから、本当はもっともらいたいくらいだけど、今回は特別に勉強代として負けてあげるわ」
理不尽。言葉では言い表せない。これはもはや嫌がらせや嫁いびりのレベルを超えている。明確な搾取だ。私は震える声で光に訴えた。今度こそ彼が私の味方になってくれることを信じて。
「光さん、聞いて。君子さんが私に授業料を払えって。月5万円よ。こんなのおかしいと思わない?どうにか言ってよ」
しかし光の反応は、私の最後の希望すら打ち砕くものだった。彼は困惑した表情を浮かべながらも、こう言ったのだ。
「え、授業?うーん。でも姉さんがそう言うなら、何か考えがあってのことなんじゃないかな」
彼は姉の言葉を疑うことすらしない。
「それに姉さんの家事って本当に完璧なんだよ。料理も上手だし、掃除も行き届いてるし。さちもそういうところをしっかり学んだ方が、将来のためになると思うよ。授業料だと思えば安いものかもしれないよ」
彼の口から出た言葉は、私の神経を逆撫でするものばかりだった。姉の完璧な家事?笑わせるな。君子さんが家事をしている姿など、私は一度も見たことがない。全て私か、あるいは夫の淳さんに押し付けているだけではないか。
この夫は現実が見えていないのか、それとも見ようとしていないのか。いずれにせよ、彼が私の盾になってくれることは未来永劫ありえないのだ。私は深い底なしの絶望の縁に突き落とされた気分だった。
夫にも義理の家族にも理解されず、ただ虐げられ続けるだけの日々。私の心は限界まで追い詰められていた。
そんな中、追い打ちをかけるように光の裏切りが発覚した。
ある夜、光がシャワーを浴びている間に、彼のスマートフォンにメッセージが届いたのを見てしまったのだ。ロック画面に表示された差出人の名前は見慣れない女性のもので、内容は明らかに恋人同士のような親密なものだった。
「次はいつ会える?早く光君に会いたいな」
私の頭は真っ白になった。風呂から出てきた光を問い詰めると、彼は最初こそ言い逃れようとしたが、決定的な証拠を突きつけられると観念したように、あっさりと浮気を認めた。相手は会社の同じ部署の後輩の女性だという。関係はもう半年以上も続いているとのことだった。
「ごめん、さち。本当に本当に申し訳ないと思ってるんだ」
彼は床に膝をつき、涙ながらに謝罪の言葉を繰り返した。
「一度だけの、本当に出来心だったんだ。もう彼女とは別れる。絶対に二度とこんなことはしないから。だからどうか、どうか許してほしい」
彼の涙も謝罪の言葉も、今の私の心には少しも響かなかった。その場を取り繕うための演技にしか見えず、嫌悪感すら覚える。
長年に渡る義姉からの虐げられ、それに加担し続けた夫の無神経さ、そして今回の決定的な裏切り。私の中で何かが完全に壊れてしまった。怒りと悲しみと虚しさと、様々な感情が渦巻き、私は感情の制御を失いそうだった。
私はその場で光に何も告げず、最低限の荷物だけを持って家を飛び出した。そして迷わず自分の実家へと向かう。私の両親は変わり果てた私の姿を見て驚いていたが、事情を話すと黙って私を受け入れ、「今はゆっくり休みなさい」と言ってくれた。
実家で心身を休め、今後のことを考えようとしていた矢先、私の携帯電話が鳴った。表示されたのは君子さんの名前だ。電話に出ると、予想通りの声が耳に飛び込んできた。
「もしもし。さちさん。光から全部聞いたわよ。全くあなたも大げさね。男がちょっと遊びしたくらいで、いちいち実家に逃げるなんて、大人げないにも程があるわよ」
電話の向こうで君子さんはせせら笑うように言った。
「いい?よく聞きなさい。男って生き物はね、そういうものなの。外で少し羽を伸ばしたくなる時もあるのよ。それを妻がいちいち目くじら立てて騒いでいたら、夫婦関係なんてうまくいくわけがないでしょ。出来た嫁ならね、夫の多少の過ちは見て見ぬふりをしてあげるくらいの度量が必要なのよ。寛大な心で『お疲れ様』って迎えてあげるのが、本当のいい女ってもんよ。あなたももう少し大人になりなさいな」
私は握りしめる手に力がこもるのを感じた。怒りを通り越してもはや呆れ果て、言葉も出ない。この義姉の思考回路は完全に常軌を逸している。もう無理だ。この夫とも、この義姉とも、これ以上関わり続けることはできない。私の決意は固まった。離婚。それしか私がこの地獄から抜け出す道はないのだと。
そんな私の決意を後押しするかのように、数日後、光から連絡が入った。会社から急遽、地方の支社への転勤を命じられたというのだ。期間は未定で、かなり長期になる可能性が高いという。それは私にとってまさに天の助けのように思えた。物理的に君子さんから引き離される。これ以上彼女の支配に置かれることはなくなる。私はこの機会を絶好のチャンスと捉えた。
表向きは「単身赴任ね」と夫を送り出す妻を演じつつ、水面下で離婚への準備を着々と進めることにした。弁護士に相談し、財産分与や慰謝料について抜かりなく手続きを進めた。光は私が離婚を考えていることなど夢にも思わず、能天気に転勤の準備をしていた。
光が地方へ旅立ってから半年後、私は弁護士を通じて正式に離婚を申し立て、慰謝料と財産分与についても、ほぼ私の要求通りの条件で合意を取り付けることができた。長年の苦痛に対するささやかな代償だった。
そして私は、その資金と自分のネイルサロン経営で着実に貯めてきたお金を元手に、一つの大きな決断を実行に移した。都心に新たに建設された最新鋭のタワーマンション。その最上階にある、最も眺めのいい角部屋を、私は購入したのだ。
もちろん元夫の光には一切知らせていない。これは過去との決別であり、私の新しい人生の輝かしいスタートを象徴する城だった。最新の設備、ホテルライクなコンシェルジュサービス、そして何よりも窓一面に広がる、宝石箱をひっくり返したような都会の絶景。この部屋にいると、過去の辛い記憶が遠のき、未来への希望とエネルギーが湧いてくるのを感じた。
ようやく手に入れた穏やかで自由な生活。私はこの新しい城で、自分の人生を再構築していくことを誓った。しかし、その平穏はあまりにも早く、そして唐突に破られることになった。
新しいマンションに引っ越してきて、まだ2週間ほどしか経っていない。ある土曜日の午後。部屋でくつろいでいると、突然エントランスのインターホンが鳴り響いた。モニターに映し出されたのは、信じられないことに満面の笑みを浮かべる元義姉の君子さんと、その隣で人の良さそうな、しかしどこか困惑した表情を浮かべている夫の淳さんの姿だった。そして彼の足元には、あの悪夢のような大型犬ゴールデンレトリバーが、尻尾を振っているのが見えた。
全身に鳥肌が立った。なぜ彼らがここに?私がこのマンションに引っ越したことは、誰にも教えていないはずだ。
動揺する私をよそに、彼らはオートロックをなんなく突破してきたらしい。おそらく他の住人が出入りする隙をついて侵入したのだろう。エレベーターで最上階まで上がってきた彼らは、私の部屋のドアを遠慮なく、しかし馴れ馴れしい様子でノックした。
「さちさん、いるのは分かってるのよ。開けてちょうだい」
その能天気な声に、私は吐き気を覚えた。無視することも考えたが、このまま居留守を使っても、彼らが諦めるとは思えない。私は覚悟を決め、重いドアを開けた。
ドアが開いた瞬間、君子さん夫婦は待ってましたとばかりに満面の笑みで部屋の中に足を踏み入れてきた。
「やだ、さちさん、やっぱりここにいたのね。もう引っ越したなら、ちゃんと言ってくれなきゃ」
そして私の返事を待つこともなく、彼らの後ろから引っ越し業者のユニフォームを着た男性たちが次から次へと現れ、膨大な数のダンボール箱や古びた家具、そして犬用の大きな檻などを私の部屋へと運び込み始めたのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。君子さん、淳さん、一体全体これはどういう状況なんですか?」
私は目の前で繰り広げられる信じられない光景に、声を荒げずにはいられなかった。しかし君子さんはそんな私の混乱ぶりを全く気にする様子もなく、勝手に部屋の中を見て回り始めた。豪華な調度品、最新のキッチン設備。そして窓からの絶景。その全てを、まるで自分の所有物であるかのように品定めしている。
「いやん、素敵じゃない。すごいわ、さちさん。こんなゴージャスなマンションに住むなんて、さすが私の義妹ね」
彼女はリビングの大きな窓の前に立つと、両手を広げて歓声をあげた。
「見て、淳さん、この眺め、最高よ。まるで天空の城ね。それでさ、私たちの寝室はどこかしら?そうね。やっぱり一番広くて景色がいい、あっちの角部屋がいいわよね。あそこが私たちの部屋ってことで決定ね」
彼女は何の相談もなく勝手に部屋割りを決め、引っ越し業者に指示を出し始めた。
「淳さん、業者さんに行って、私たちの荷物は全部あの角部屋に運び込んでもらってちょうだい。あ、ワンちゃんの檻もね」
「何を勝手なことを言ってるんですか?私はあなたたちがここに住むことなんて、一言も許可していません」
「あらあら、さちさんたら照れちゃって。何を今更水臭いこと言ってるのよ。弟のお嫁さんの新しい家に、お姉さん夫婦が一緒に住むのは、家族として当然のことでしょう。遠慮なんていらないのよ」
君子さんは心底私が遠慮しているとでも思っているかのように、呑気に笑っている。この人は本気で言っているのだろうか?それともわざと私をからかっているのか?
「当たり前とか遠慮とか、そういう問題ではありません。ここは私の家です。あなたたちが勝手に住む権利はありません」
「ああ、そんなに硬くならなくてもいいじゃない。それにしても、よく私たちの引っ越しに合わせて、この素敵な部屋を用意してくれたわね。感心しちゃった」
君子さんはさらに信じられないことを言い出した。
「数日前にね、たまたまこの辺りを車で通りかかったのよ。したら、見覚えのあるあなたが、このピカピカのタワーマンションから出てくるのが見えたの」
彼女はまるで探偵のように私の行動を監視していたらしい。
「あらあらと思って、すぐに可愛い弟の光に電話してさ、『もしかして引っ越したの』って聞いてみたわけ。そしたら『姉さん、よくわかったね。実は最近、さちが新しいマンションに引っ越したんだよ』なんて、あっさり白状するじゃない」
君子さんは得意満面の笑みを浮かべている。
「もう光もさちさんも、この私に隠し事は絶対になしなんだから。これからはここで、家族仲良く一緒に暮らしていきましょうね」
あの男は、私がここに引っ越したことを、何のためらいもなく姉に漏らしていたのだ。彼なりの親切心だったのかもしれない。あるいは何も考えていなかっただけか。どちらにせよ、彼の軽率な行動がこの悪夢のような状況を引き起こしたことは間違いない。私の怒りはもはや限界に達していた。
しかし、ここで感情的になっても状況は悪化するだけだ。私は深呼吸をして冷静さを取り戻そうと務めた。そしてポケットからスマートフォンを取り出し、迷うことなく110番通報を発信した。
「もしもし、警察でしょうか?○区のタワーマンション最上階の者ですが、現在、私の自宅に許可なく侵入してきた不審な男女がおり、勝手に荷物を運び込んでいます。不法侵入です。すぐに来てください」
私の冷静な通報に、さすがの君子さんも一瞬顔色を変えた。しかし彼女はすぐにいつもの傲慢な態度を取り戻し、私を嘲笑うかのように甲高い声をあげた。
「ちょっとさちさん、本気で言ってるの?警察を呼ぶだなんて、いたずらが過ぎるわよ。私たちは家族でしょ。家族が一緒に住むことに何の問題があるって言うのよ。不法侵入だなんて、そんな馬鹿げた話。警察だって相手にしないわよ」
君子さんは自分たちの行為が法的に問題があるとは微塵も考えていないようだった。夫の淳さんも隣で「まあまあ、君江、落ち着いて」と弱々しく言うだけで、全く頼りにならない。
私は通話を終えたスマートフォンを静かにテーブルに置くと、凍りついたような表情の二人に向き直った。
「君子さん、淳さん。あなた方は根本的な勘違いをされています」
そして決定的な事実を、冷徹に告げた。
「私と、あなたの可愛い弟である光さんは、もう法的な夫婦関係にはありません。私たちは今からちょうど1ヶ月前に、正式に離婚が成立しているのです」
その言葉はまるで強力な爆弾のように、リビングの空気を震わせた。君子さんと淳さんの顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。特に君子さんは、信じられないという表情で金魚のように口をパクパクさせている。
「り、離婚なの?何それ?う、嘘でしょ?だって光は、そんなこと一言も私に……」
君子さんの声はか細く震え、途切れ途切れになっていた。やはり光は姉に離婚の事実を隠していたのだ。世間体を気にしたのか。姉からの激しい詰問を恐れたのか。理由は分からないが、彼の隠蔽が今この場で最悪な形で露呈した。
「そ、そんなの絶対に嘘よ。ありえないわ。あなたが光を無理やり言いくるめて、勝手に離婚届を出したんでしょ。そうに決まってる。可哀想な光」
君子さんは激しく動揺しながらも、現実を受け入れようとせず、ヒステリックに私を非難し始める。私はもはや何の感情も動かなかった。ただ、この不毛なやり取りを早く終わらせたい一心で、鞄の中から、役所で取得しておいた離婚届受理証明書のコピーを取り出した。
「これが、私たちが正式に離婚したことを証明する書類です。どうぞ、ご自身の目でしっかりとご確認ください」
私はそれを、震える君子さんの目の前に突きつけるように差し出した。君子さんは半信半疑と言った様子でその書類をひったくるように受け取ると、食い入るように文字を追った。そこに記された私と光の名前。そして離婚届が正式に受理された日付。動かぬ証拠を目の当たりにして、君子さんの顔は見る見るうちに蒼白になり、わなわなと体が震え始めた。それでも彼女は、最後の抵抗を試みるかのように叫んだ。
「こんな書類、何も偽造できるわ。私は信じない。光がこの私に黙って、あなたと離婚するなんてこと、絶対にありえないんだから」
彼女が捨て鉢な言葉をまき散らしている、まさにその時。タイミングがいいのか悪いのか、部屋のインターホンが再び鳴った。モニターを確認すると、そこには柔和な笑顔を浮かべた紳士的な男性が立っていた。
「な、何なのよ、今度は。一体誰なの?」
不審がる君子さんを無視して、私はエントランスのオートロックを解除し、玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは、私の現在の婚約者であり、若くして複数の会社を経営する実業家、佐島洋介さんだった。
「じゃあさ、約束通り少し早めに来てみたよ。引っ越しの片付け手伝おうと思ってね。おや、リビングにお客様がいらっしゃっているようだね」
洋介さんは、リビングから聞こえてくる君子さんの怒鳴り声と、部屋の中に積み上げられた見慣れない荷物に気づき、少し驚いたように眉をあげた。
私がリビングで待つ洋介さんに、これまでの信じられないような経緯と現在の状況を手短に説明すると、彼は聡明な人なので、すぐに全てを理解してくれた。彼の表情からは、驚きと共に、君子さんたちに対する明確な不快感と怒りが読み取れる。
洋介さんは私を安心させるように優しく肩に手を置くと、リビングの中央に進み出て、呆然と立ち尽くす君子さんと淳さんに向き直った。そして普段の温厚な雰囲気とは打って変わって、低く、しかし言葉に言い表せない毅然とした口調で告げた。
「初めまして。私、佐島洋介と申します。さちの婚約者です。率直に申し上げますが、あなた方には即刻、この部屋から全ての荷物と共にご退去いただけますでしょうか?」
洋介さんの堂々とした態度と、「婚約者」という言葉に、君子さんと淳さんは完全に気圧されたようだった。
「こ、婚約者ですって?さちさん、ど、どういうことなのよ。説明なさい」
君子さんは混乱と動揺を隠せない様子で私に説明を求めてきた。私は洋介さんの隣に立ち、改めてきっぱりと告げた。
「説明します。先ほど申し上げた通り、私と光さんは1ヶ月前に離婚しました。その後、以前から仕事上のパートナーとして親しくさせていただいていた洋介さんから真剣なお付き合いのお申し出を受け、私たちは婚約いたしました」
そして事実を説明した。
「このタワーマンションは私一人のものではありません。将来の結婚生活を見据えて、私と洋介さんが互いの資金を出し合い、共同で購入したものなのです」
あまりにも淡々と話す私に、二人とも目を見開いて無言で聞いている。
「ですから、君子さん、淳さん。あなた方には、このマンションに居住する法的権利も、所有権も、一切存在しません。ここはもう高森家とは何の関係もない場所。私と、私の婚約者である洋介さんの、新しい家なのです」
私の、そして洋介さんの断固たる宣言。共同購入という事実。新しい婚約者の存在。これらの情報によって、君子さんはようやく自分たちの計画がいかに無謀で見当違いなものであったかを、骨身に染みて理解し始めたようだ。しかし彼女の図々しさは、私の想像をはるかに超えていた。彼女は次の瞬間には悲劇のヒロインのような表情を作り、涙ながらに訴え始めたのだ。
「そ、そんな、ひどいわ、さちさん。私たちはもう、今の家も解約してしまって、行く当てもないのよ。このままでは、私たち夫婦とこの可愛いレオンは、路頭に迷ってしまうわ。お願いだから、少しの間だけでもいいから、ここに置いてもらえないかしら。ねえ、お願い」
その見え透いた泣き落としに、私と洋介さんはもはや何の感情も動かされなかった。自業自得だ。計画性のない身勝手な行動の結果だろう。君子さんは私たちの冷淡な反応を見て、泣き落としが通用しないと悟ったのか、再び逆上した状態になり、スマートフォンを取り出した。そして先ほどと同じように、元夫の光に電話をかけ始めた。今度はスピーカーフォンにして、その会話を私たちにも聞こえるようにしている。
「もしもし、光。あんた、どういうことなのよ。さちさんに新しい男がいただなんて。しかも、あのタワマンも二人で買ったんですって。あんた、それでも私の弟なの?」
電話の向こうから、光の狼狽したような情けない声が聞こえてくる。
「ごめん、姉さん。俺も知らなかったんだ。さちにそんな人がいたなんて」
「あんたの浮気が原因で離婚したって、本当なの?この大事な時期に、なんてことをしてくれたのよ」
「う、ごめん。本当に俺が悪かったんだ。出来心で、つい……」
光は姉からの激しい詰問に、ただただ謝罪を繰り返すばかりだった。自分の浮気が離婚の原因であることを、あっさりと認めている。
電話を切った君子さんは、怒りに顔を歪ませながら、それでもなお責任転嫁しようと試みた。
「聞いたでしょ。元を正せば、光の浮気が原因なのよ。でもね、それだって突き詰めれば、さちの妻としての至らなさ、辛抱のなさが招いた結果なのよ。大体、あなたは妻として、光にちゃんと尽くしてきたの?家のこともろくにせず、仕事ばかりして。だから光も寂しくて、外に癒しを求めたんじゃないの?」
私はもう、この義姉だった女性とまともな会話をすること自体が時間の無駄だと感じていた。しかし、彼女のあまりにも身勝手な言い分には、反論せずにはいられない。私は冷めた笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「そうですね、君子さん。私には到底、あなたの理想とするような出来た嫁にはなれませんでした」
私はちょっと申し訳なさそうな顔をしながら、こう言った。
「毎日家をピカピカに磨き上げ、三食手の込んだ料理を用意し、洗濯物は寸分の狂いもなく畳み、常に夫の顔色を読み、夫の家族には無条件で服従し、自分のことよりも家庭を最優先する。そんな、まるで昭和時代の貞淑な妻のような存在には、私には逆立ちしたってなれません」
そんな皮肉たっぷりの言葉に、君子さんは一瞬、満足げな表情を浮かべた。自分が理想の妻像を体現しているとでも言いたげな顔だ。しかし、その自信に満ちた表情は、隣にいた淳さんの、静かだが重い一言によって、もろくも崩れ去ることになる。
「君江、お前、自分のことを言っているのか?」
それまでどこか遠い世界の出来事のようにぼんやりと成り行きを見守っていた淳さんが、低い声で呟いた。
「お前が、いつそんな完璧な家事をやったことがあるんだ」
淳さんは君子さんの目をまっすぐに見据えて続けた。
「家の掃除も、洗濯も、毎日の料理も、ゴミ出しだって、全部俺がやっているじゃないか。お前は家ではソファーに寝転がってテレビを見ているか、スマホをいじっているか、それだけだろう。それどころか、俺が作った料理に文句をつけ、掃除の仕方が悪いと罵倒し、俺を下僕のようにこき使ってるだけじゃないか」
淳さんの静かな、しかし確信に満ちた暴露。それは君子さんの虚像を打ち砕く強烈な一撃だった。
「あ、淳さん、あなたいきなり何を言い出すの?そ、そんなことないわよ」
君子さんは顔面蒼白になりながら必死で否定しようとするが、淳さんの口はもう止まらない。
「いや、それだけじゃない。さちさん、聞いてください。この人は、夫に尽くすどころか、夫の稼ぎと会社の金を、別の男に注ぎ込んでいるんですよ」
「え、別の男?」
「ええ。最近、夜遅くに派手な格好をして出かけることが増えたんです。最初は仕事の関係かと思っていましたが、どうやら違うらしい。ホストクラブにいる若い男に入れ上げているようなんです」
淳さんは苦しい表情で続けた。
「おそらく、この人が経営している輸入雑貨屋の売上金も、かなりの額がそのホストへのプレゼント代や飲食代として横領されているはずです。私も薄々感づいてはいたんですが……」
淳さんの口から語られたのは、君子さんの不倫と、会社の資金横領という二重の裏切りだった。私は以前から感じていた違和感の正体にようやく思い当たった。君子さんの会社経営が不審だと聞いていたが、彼女自身の暮らしはむしろ良くなっているように見えた。豪華なブランドバッグやアクセサリーを身につけ、エステや美容院にも頻繁に通っている様子だった。そして、私が以前無理やり手伝わされていた会社の経理処理の中で見つけた多額の使途不明金。あれは経営不振によるものではなく、彼女がホストに注ぎ込むために使い込んでいた金だったのだ。
「そうだったんですね。だから、光さんにあんなにお金の無心を……」
全ての辻褄が合った。君子さんは、弟から毟り取った金と会社の売上金を、自分の快楽のために使い込んでいたのだ。
「ち、違う、違うわよ。淳さん、出鱈目を言わないで。私がそんなことするわけないじゃない」
君子さんはもはや錯乱状態に陥り、金切り声を上げて否定している。しかし、その狼狽ぶりは、淳さんの言葉が真実であることを如実に物語っていた。
「出鱈目じゃない。俺はお前がそのホストと親密そうにホテルに入っていくのを、この目で見たんだぞ。お前は俺のことも、会社のことも、そして光のことも、ずっと裏切っていたんだ」
淳さんの怒りは頂点に達し、彼は感情を爆発させた。
「もう許さないぞ、君江」
淳さんは近くにあった君子さんの高級ブランドバッグを掴むと、床に叩きつけた。中身が散乱し、高価な化粧品や財布が転がり出る。
「きゃあ、何するのよ、私のバッグが」
君子さんも逆上し、淳さんに掴みかかった。二人はリビングの中央で、互いを罵り合い、殴り合い、髪を掴み合う壮絶な夫婦喧嘩を始めたのだ。君子さんは床に落ちていた犬用の重い金属製の食器を掴むと、淳さん目がけて振り下ろそうとする。淳さんも近くにあった観葉植物の大きな鉢を持ち上げ、君子さんに投げつけようとしている。部屋の中は物が壊れる音、怒鳴り声、犬の怯えた鳴き声が入り混じり、まさに修羅場と化していた。
私と洋介さんは、あまりの凄まじさに言葉もなく、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。この狂った夫婦を止める術はもうない。そう思った時、玄関のドアが勢いよく開き、数名の制服警官が部屋に駆け込んできた。先ほど私が通報した警察が、ようやく到着したのだ。
警察官たちは、リビングの破壊し尽くされた惨状と、鬼のような形相で暴れ回る君子夫婦を見て、一瞬言葉を失っていた。
「何をしているんですか!全員、動きを止めなさい!」
警察官たちが必死で二人を静止しようとする。しかし、興奮しきった君子さんと淳さんは、警察官の制止も聞かず、なおも暴れ続けようとした。結局、二人は公務執行妨害も加わり、その場で厳しく取り押さえられをかけられた。そして、不法侵入と器物損壊、傷害未遂などの容疑で、現行犯逮捕されたのだ。
パトカーの後部座席に押し込められ、連行されていくその姿は、もはや哀れとしか言いようがなかった。彼らが自分たちで招いた、当然の結果だった。
後日談となるが、逮捕された君子さんと淳さんは起訴され、裁判の結果、共に実刑判決を受けたという。不法侵入、器物損壊に加え、淳さんが決定的な証拠を提出した、君子さんによる会社の業務上横領の罪も認定された。夫婦関係も完全に破綻し、二人は刑務所で離婚手続きを進めていると聞いた。彼らが気づき上げてきたとされる、見せかけだけの成功と幸福は、こうして完全に崩壊したのだ。
そして、元夫である光のその後も、やはり悲惨なものだった。姉夫婦が逮捕され、仕送りの要求がなくなった後も、彼の浪費癖とギャンブル依存は治らなかったのだ。彼は私との離婚で得たはずの財産分与もあっという間に使い果たし、そして生活費に困窮した彼は、最も手を出してはいけない最後の手段に打って出た。勤務先の会社の口座から、事業資金を不正に引き出し、横領してしまったのだ。
もちろん、そんな犯罪行為が発覚しないはずがない。彼はすぐに会社を懲戒解雇され、刑事告訴される寸前まで行ったが、被害額を全額返済することを条件に、なんとか告訴だけは免れたらしい。しかし、その弁済のためには、僅かばかりの貯金を全て吐き出し、さらに消費者金融からも多額の借金を背負うことになったそうだ。金も信用も失った彼を、最後まで支えてくれる人間はいなかった。彼が入れ上げていた浮気相手の女性も、光が全てを失ったと知るや、「あなたとは、お金があるから付き合っていただけ。もう用はないわ」と冷たく言い放ち、最終的に、彼の周りにいたかつての人たちの全員が、彼の元を去っていったという。まさに因果応報。彼が私にしてきた仕打ちを考えれば、同情の余地などどこにもない。
全ての嵐が過ぎ去り、私の人生には、ようやく本当の意味での平穏と、そして輝かしい光が差し込んできた。私は心から信頼し、愛することのできる男性、洋介さんと正式に再婚を果たした。私たちはあのタワーマンションで、穏やかで満たされた新しい生活を送っている。洋介さんは事業家として世界中を飛び回ることもあるが、どんなに忙しくてもいつも私のことを第一に考え、深い愛情で私を包んでくれる。私の経営するネイルサロンも、洋介さんの的確なアドバイスやサポートのおかげもあり、ますます順調に成長していった。
そして、私のお腹の中に新しい命が宿り、家族が増える。私は愛する夫と、これから生まれてくる子供と共に、この手で掴んだ幸せを、何よりも大切に育んでいこう。そう強く心に誓うのだった。



