新料理長が俺の足元に積まれた野菜の段ボールを蹴飛ばした。中から傷んだ葉物が転がり出る。俺はそれを見つめながら、ようやく決心が固まった。
「もうお前の作った野菜なんていらない。今日で貧乏農家とは契約終了だ」
そう吐き捨てるように言われた瞬間、頭の中が真っ白になった。
俺の名前は矢野り馬。都心近郊で野菜農園を営む農家の長男だ。幼い頃から3歳違いの弟と畑で遊び、おやつ代わりに採れたての胡瓜やトマトをかじって育った。農業大学では有機栽培を学び、卒業後は両親や従業員たちと一緒に、より美味しい野菜作りに励んでいる。
早朝から日が暮れるまで休む間もなく働く毎日だが、不満はない。うちの野菜は日本一美味しいと自負しているし、その誇りがあったからこそ、長年苦労を重ねてこられた。
ある日、契約レストランの料理長である西畑さんが農園を訪れた。西畑さんのレストランは都内のオーガニック料理専門の三つ星店で、使う野菜は全てうちの農園のもの。大口の取引先であり、俺たちにとって大切なパートナーだった。西畑さんはいつも畑の様子を見ながら新しいメニューの話をしてくれて、試作のデザートを持ってきてご馳走してくれる、気さくな一流シェフだ。みんな彼の来訪を心待ちにしていた。
だが、その日の西畑さんは様子が違った。
「レストランは新しい料理長に引き継ぐことになりました。両親の介護のために、故郷に帰ることにしたんです」
西畑さんは父の手を握り、目に涙を浮かべながら言った。
「レストランには料理を楽しみにしているお客様がたくさんいます。私が帰った後も、どうか引き続きよろしくお願いします」
俺たちは寂しい気持ちで西畑さんを見送り、彼の期待を裏切らないよう美味しい野菜を作り続けると心に誓った。
翌週、真っ赤なオープンカーで乗り付けてきた男が新料理長の片山だった。上質なスーツを着こなした男は、挨拶もそこそこにこう言い放った。
「野菜ハウスを見せてくれ」
俺は慌てて彼を案内した。片山さんはビニールハウスの中に入るなり、嫌悪感を露わにした。
「臭い。よくこんな場所で働けるな。設備も壊れそうだし、うちのレストランに恥をかかせるようなことはしてくれるなよ」
彼は畑の周りをじろじろと眺め、「私には無理だ。靴が汚れる」と嫌味を残して帰って行った。西畑さんとは全くタイプの違う人物に、俺はその後の付き合いを考えてため息をついた。
それからというもの、片山さんの無茶な要求が続いた。新メニューのためにと予定より一週間も早い出荷を要求され、対応に追われる日々。言葉を濁す俺に、片山さんは電話越しに怒鳴り散らす。
「おい、俺の言うことが聞けないのか?三つ星の一流レストランが、お前らみたいな貧乏農園と契約してやってるんだぞ。いいから言う通り持ってこい」
「無茶を言わないでください。明日は無理です」
「おい、この役立たずが」
吐き捨てるような言葉とともに電話は切られた。俺は受話器を握りしめたまま、込み上げる怒りをどうすることもできなかった。
父は俺の様子に気づき、玄関に座って手招きをした。俺が電話の内容を話すと、父は黙って最後まで聞いてくれた。
「最近無理なことばかり言ってくるし、俺だって怒鳴りたいよ。嫌な役目をさせてしまって悪かったな」
そう言って、父は俺の肩を優しく叩いた。
母は過労で入院していた。最近の片山さんの要求に対応するため、無理をしていたのだ。父は病院に向かうと言い、笑顔を見せて出かけて行った。
それから一週間後、かぼちゃが予定通り最高の状態で収穫できた。このかぼちゃを見れば、さすがの片山さんも喜んでくれるだろう。そんな淡い期待を抱きながら、俺はトラックに積み込み作業をしていると、片山さんから連絡が来た。
「ちょうど積み込みをしているところです。間もなくお届けします」
俺がそう伝えると、片山さんは鼻で笑うような口調で言った。
「オタクのかぼちゃはもういらない。キャンセルだ。今日で、芋臭い貧乏農家とは契約終了させてもらうよ」
俺は一瞬固まった。たった今、トラックに積んだばかりのかぼちゃ。今朝みんなで収穫した、大切な野菜たち。
「どういうことですか?よく事情を聞かせてください」
「オタクの野菜はコスパが悪い。高い金を払って買ってやってたのに融通も効かない。そんな臭くて汚い野菜は使えないよ。どこかの田舎料理にでも使ってもらえ」
俺は愕然とした。苦労して育てた野菜が「臭くて汚い」だって?大切に育てたものを何だと思っているんだ。西畑さんとの五分の関係を守りたい一心で、ここまで我慢してきたのに、もう限界だった。
「いいですよ。契約は終了にしましょう。ただし、後悔しても知りませんよ」
「後悔するわけないだろう。それじゃあ、お達者で」
片山さんは最後まで俺を舐めたような口調だった。
その後の出荷予定だったかぼちゃは、他のレストランや直売所に連絡して、格安だったが何とか捌くことができた。有機栽培のうちの野菜は、どこに出しても喜ばれる。自信はあった。片山さんのレストランと取引ができなくても、大丈夫だと。
それから一か月ほどが過ぎた。畑で作業をしていると、業務用らしき車が畑のすぐ近くに停まった。運転席から降りてきたのは、なんと片山さんだった。今回は霊のオープンカーではなく、作業着のようなシャツとスラックス姿だ。
「おい、またお前たちと再契約してやるぞ。俺たちと取引できなくて困っていただろう」
相変わらずの偉そうな態度で、植えたばかりの苗を踏みつけながら畑へ入ってくる。
「すみません。そこに入らないでください」
俺が慌てて止めようとすると、彼は知らん顔で「このおんぼろ農園からまた野菜を買ってやると言ってるんだ。ありがたく思え」と大声を張り上げた。
俺は呆れつつ、片山さんのそばに立って上から見下ろすように言った。
「最近、レストランの客入りが悪いそうですね。この業界は情報が回るのが早い。うちの農園と取引が終わってから、味が落ちたと口コミが広がり、客も激減したと聞いています」
片山さんは下を向いて黙っている。どうにもならなくなって、ここに来たのだろう。
「再契約はしません。お断りします」
「はぁ?なんでだよ。うちは三つ星だぞ。オタクにとっては大口の取引先だったんだろう。契約切られて苦しいんじゃないのか。強がるなよ」
「強がってなんていませんよ。確かに大口の取引先でしたが、うちの野菜を使いたいというレストランは他にもありますから、別に問題ありません」
「こんなおんぼろ農園の野菜に、そんな需要があるわけないだろ」
「うちの野菜はブランド野菜として取引されてまして、どこよりも味にこだわっています。前の西畑料理長は、うちの味を信頼して契約してくれていたんです。うちの農園は昔から有機栽培をしていて、俺の大学での研究を生かし、ブランド野菜として評価を受けるまでになりました」
片山さんは顔色を変え、慌て出した。
「私は何も知らなかったんだ。今までの非礼は謝る。頼むから、昔からのよしみでまた契約してくれ」
彼は俺の手を取ろうとしたが、俺は振り払って睨みつけた。
「以前、俺に言ったことを忘れたのですか。うちの野菜は臭くて汚いはずでしたよね。あなたなんかに、うちの野菜で料理して欲しくない。もうこのレストランと取引することもありません」
片山さんはしょんぼりと、すごすごと帰って行った。もう二度と、うちの農園に姿を現すこともないだろう。
その後、片山さんのレストランは値段を変えたり、ビュッフェ形式にしたりとあれこれ試みたが、客足は戻らなかった。他の取引先にも同様にひどい態度を取っていたらしく、従業員たちも次々と辞めていったという。人手も材料もなくなり、最後は店を開けることすらできず、あっけなく閉店に追い込まれた。片山さん本人がその後どうなったかは、風の噂でイタリアへ料理修行に行ったと聞いただけで、詳しいことは分からない。
それから数か月後、西畑さんから連絡があった。両親の介護は必要だったが、思ったより体調が良いので、実家の近くで食堂をオープンする決心をしたという。
「小さいですが、いい場所も見つけて話を進めています。しかし、オタクの野菜がないと店はやっていけない。お願いできますか?」
俺はもちろん二つ返事でOKを出した。あのレストランには西畑さんの料理を受け継ぐ者がいると思っていたから、閉店と聞いた時は少し辛かった。だから、また西畑さんの料理を食べられると思うと、ワクワクした。
ある朝、俺は作業着ではなく白いシャツを着た。今日は西畑さんの新しい食堂のプレオープンの日だ。
「冷たいお茶でも飲む?」
居間にいる父と母に声をかけると、父はソワソワしながら言った。
「それはいいから、注文リストを確認してくれないか」
「さっき確認したから大丈夫だよ」
俺は上着を着て、携帯を鞄に入れた。
「そうね。色々あったから、最後に西畑さんの料理をいただいたのは一年以上前よ」
母もワンピース姿を鏡に映して嬉しそうだ。すっかり元気になり、元通りの生活を送っている。
従業員たちも到着し、みんなで思い出話に花が咲いた。その時、玄関の扉が開いて弟が入ってきた。
「なんだお前。今日は都合が悪かったんじゃなかったのか?」
「そうだったんだけど、予定が変わったから急いで来たんだ。一緒に行ってもいいだろう?」
「連絡くらいしろよ。料理は人数分しかないぞ」
俺がわざと驚いて見せると、母が笑いながら言った。
「今日は大勢の人を呼びたいから、料理はたくさんあるし、飛び入りも大歓迎って西畑さんがおっしゃっていたわよ」
「なんだ、よかった。驚かせるなよ」
みんなで笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだ。子供の頃、大学で有機栽培の研究をしていた時、実家の農園で働き始めた時、ブランド野菜として評価されるようになった時。嬉しいことも嫌なことも、全部頭の中に浮かんできた。
そうだ。俺は子供の頃から、うちの野菜の大ファンだ。何があろうと、これからも美味しい野菜を作っていく。窓から見える野菜畑を眺めながら、俺は改めて決心を固めた。



