夜の静寂を切り裂いた息子の叫びが、私の心臓を凍りつかせた。
「もう限界なんだ。出て行ってくれ。」
剣吾の手が私の腕を掴み、容赦なく玄関へと引きずっていく。必死に懇願する私の声は届かない。
「剣吾、桜が起きてしまうわ。お願い、静かにして。」
5歳の桜を寝かしつけたばかりの深夜。まさか実の息子にこんな仕打ちを受けるなんて。
「うるさい!今すぐ消えろって言ってんだよ!」
玄関のドアが開き、冷たい風が頬を撫でる。次の瞬間、私の体は外へ突き出され、コンクリートの地面に倒れ込んだ。膝から伝わる痛みよりも、心に突き刺さる息子の拒絶が何倍も激しく私を苦しめた。
これは、5年間孫の世話を押し付けられ続けた私が、ついに実の息子に家から追い出された夜の出来事だ。しかし、この夜が私の人生を大きく変える転機になるとは、この時誰も予想していなかった。
冷たい地面に倒れた私は、ゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払う。不思議なことに涙は出てこなかった。代わりに、心の奥底から静かな決意が湧き上がってくるのを感じた。
「助かったわ。」
小さく呟いた言葉が夜の空気に溶けていく。バッグから携帯電話を取り出し、ある番号にかけた。
「もしもし、高橋先生でしょうか。岡本です。ついにその時が来ました。」
そう、私は準備していたのだ。この日が来ることを覚悟して。
全ての始まりは5年前に遡る。桜が生まれた時、私は心から幸せだった。愛する息子夫婦と孫と同じ屋根の下で暮らせる。夫を亡くしてから10年、やっと掴み取った新しい家族の形だった。二世帯住宅の頭金500万円も喜んで出した。剣吾の笑顔が見たくて。
「あゆみさんのお母さん、桜のこと少し手伝っていただけますか?」
「もちろんよ。可愛い孫ですもの。」
その時の私はまだ何も知らなかった。この「少し手伝って」という言葉が私の人生を地獄へと変えていくとは。毎日12時間休みなしの育児労働が5年間も続くとは想像もしていなかったのだ。
「少し手伝って」のはずが、気づけば全ての育児を任されていた。朝5時に起きてみんなの朝食を作り、夜は桜の寝かしつけ。2階ではあゆみさんが朝までぐっすり眠っている。
「お母さん、桜泣いてますよ。早く!」
あゆみさんの声が2階から聞こえてくる。私は慌てて桜の元へ駆けつけた。
「よしよし。おばあちゃんが抱っこしてあげるからね。桜はお利口さんだもの。」
「今だけ、今だけ頑張れば。」そう自分に言い聞かせる日々が続く。しかし1年が経ち、2年が経ち、3年が経っても状況は変わらなかった。桜は5歳になり、もう幼稚園に通っている。それでも送り迎え、食事、お風呂、寝かしつけ、全て私の仕事だ。1日平均12時間の育児労働、週7日休みなし。5年間で、時給1500円で換算すれば約3200万円の無償労働になる。でも、可愛い孫のため、息子夫婦も仕事で大変だから。そう思いながら疲れ果てた体を引きずる毎日だった。
状況が変わり始めたのは、桜の5歳の誕生日パーティーの日だ。あゆみさんのご両親も招待され、豪華な料理が並んでいた。しかし、私の席はない。
「あの、私も座って…」
「お母さん、料理の補充お願いしますね。得意でしょう?」
剣吾も笑顔で頷く。あゆみさんのお母様と楽しそうに談笑する2人を見て、胸に冷たいものが走った。私は家族ではなく、ただの便利な人なのではないか。そんな疑念が心に芽生え始めた。
その疑念はすぐに確信へと変わっていった。あゆみさんは私に毎日のようにキャラ弁を要求してくる。
「お母さん、桜のお弁当キャラ弁でお願いしますね。」
「あゆみさん、でも今日はちょっと時間が…」
「え?時間ないって?お母さん仕事してないでしょう。他に何するんですか?」
言葉が喉に詰まる。朝5時から深夜12時まで働いているのに、暇な老人に見えるのだろうか。剣吾も同じだ。ワイシャツのアイロンが雑だといってため息をつきながら言う。
「母さん、もっとちゃんとかけてくれよ。」
「ごめんなさい。桜の世話で時間が…」
「母さん、1日中家にいるんだからそのくらいできるでしょ。」
私の時間はいつの間にか奪われていた。友人からランチの誘いが来ても、桜の幼稚園のお迎えがある。趣味のコーラスサークルも、あゆみさんから「孫より趣味が大事なんですか」と言われて辞めるしかなかった。月に1度の同窓会も行けなくなり、友人からの誘いは次第に絶えていく。一方であゆみさんは頻繁に友人とランチに行き、週末には温泉旅行を楽しんでいる。
「お母さん、今週末友達と温泉行くので桜のことよろしくお願いしますね。」
「でも私も実は友人との約束が…」
「はあ?孫より友達が大事なんですか?おばあちゃんなのに信じられない。」
剣吾もすかさず言う。
「母さん、あゆみの言う通りだよ。頼むよ。」
気づけば私には何もなかった。友人との時間も趣味の時間も自分の時間も、全てを奪われ、透明人間のように扱われる日々。
そんなある日、私が桜に絵本を読んでいると、あゆみさんが突然やってきて絵本を取り上げた。
「お母さん、その読み方古くないですか?今は違う読み方があるんですよ。」
「え、でも桜は喜んでくれているわ。」
「喜んでるように見えるだけです。時代についていけてないんですよ、お母さん。」
「時代遅れ」という言葉が胸に突き刺さる。さらに追い討ちをかけるように、息子夫婦は私を認知症扱いし始めた。
「母さん、昨日頼んだことやってくれた?」
「昨日何も頼まれていないわよ。」
「また忘れてる。母さん大丈夫?最近物忘れ多いよ。」
でも本当に聞いていないのだ。あゆみさんが心配そうな顔で言う。
「認知症の初期症状じゃないですか?ちゃんと病院行った方がいいですよ。」
私は物忘れなどしていない。彼らは意図的に私を認知症に仕立て上げようとしていたのだ。なぜならその方が都合がいいから。認知症の母親の面倒を見ているという口実ができるから。
家族写真を撮る時、カメラマンが言った。
「ではご家族全員で…」
「あ、お母さんはいいです。家族写真なので。」
あゆみさんの言葉に心臓が止まりそうになる。私は家族じゃないの。剣吾が慌てて取りなす。
「母さん、ほら、恥ずかしがらないで。写真苦手でしょ。」
違う。私は外されたのだ。シャッターが切られた瞬間、何かが心の中で音を立てて崩れていくのを感じた。私は透明人間になった。いや、違う。都合のいい時だけ使われる道具になったのだ。育児が必要な時は「おばあちゃん」、それ以外の時は邪魔な他人。これが5年間私が置かれた立場だった。
ある日、私は1階の自分の部屋で休んでいた。疲れ果てた体を横にして。2階から剣吾とあゆみさんの会話が聞こえてくる。桜の部屋に設置してあるベビーモニターを通じて、2人の声が鮮明に届いてくるのだ。
「ねえ、お母さんいつまでいるの?」あゆみさんの声が夜の静寂に響く。
「まあ、桜の世話してくれてるし。」剣吾の返事に、あゆみさんがため息をつく気配が伝わってきた。
「それはそうだけど、桜ももうすぐ幼稚園も卒園だし。確かに正直…もう邪魔なのよ。私たちの家なのにいつも気を使わなきゃいけないし。」
その言葉が胸に突き刺さる。私は布団を握りしめ、息を潜めて会話に耳を傾けた。
「でも母さんが頭金500万出してくれたし。」
「あら、それって5年前でしょう。もう十分元は取ったわよ。」
元を取った?私は商品なのでしょうか?あゆみさんの声が続く。
「計算してみて。年間毎日12時間ベビーシッター雇ったら月30万はかかるのよ。5年で1800万円。大儲けじゃない。」
「そう考えると確かに。」
剣吾が同意する声に心臓が凍りつく。これが私の息子なのだろうか。
「もう用済みなのよ。早く追い出さないと。」
追い出す。言葉の1つ1つが鋭いナイフのように心を切り裂いていく。私は商品だったのだろうか?愛する息子の口から出た言葉が信じられなかった。
翌日から状況は一変する。露骨ないやがらせが始まったのだ。自分の部屋の鍵が開かない。剣吾に尋ねると何でもないように答える。
「あ、防犯のために変えたんだ。母さんの分は作ってないけど。」
「でも私の部屋なのに。」
あゆみさんが冷たく言い放つ。
「お母さんの部屋?ここは私たちの家ですよ。勘違いしないでください。」
食事の時間になっても私の分は用意されていない。剣吾とあゆみさんの前には豪華な料理が並んでいるのに、私の前に置かれたのは小さなおにぎり1個だけだ。
「あの、私の分は…」
「あ、お母さんは年だから少ない方がいいかと思って。」
あゆみさんの笑顔に背筋が凍る。これは虐待だった。
私の私物も勝手に捨てられ始めた。大切にしていた夫の写真立てさえ、気づいた時にはゴミ袋の中だ。嫌がらせは日に日にエスカレートしていく。
ある日、私が桜に絵本を読んでいると、あゆみさんが突然やってきて私を引き離した。
「お母さん、桜に変な癖つけないでください。」
「変な癖?ただ絵本を…」
「あなたの古臭い価値観を押し付けないでって言ってるの。」
剣吾も険しい顔で言う。
「母さん、もういい加減にしてくれよ。」
「け、私は何か間違ったことをした?」
「間違ったこと全部だよ。全部。もう母さんは用済みなんだよ。」
あの夜聞いた言葉が、今度は私に向かって投げつけられる。
「そうよ。あなたがいると邪魔なの。さっさと出て行ってくれない?」
「出ていけって?ここは私も住んでいるのよ。」
「住んでいる?勘違いするな。これは俺たちの家だ。母さんは居候なんだよ。」
剣吾の言葉に膝から力が抜けていく。居候?私を育ててくれたあの優しかった剣吾が、こんな言葉を母親に投げつけるなんて。
その夜、私が桜を寝かしつけていると、剣吾が月明かりに照らされて部屋に入ってきた。
「母さん、話がある。」
「剣吾、桜が起きてしまうわ。」
「俺はもう限界なんだ。母さんには明日にでも出て行ってもらう。」
「明日?そんなの急じゃない…」
「もう十分だろ。10年も世話になったんだから。」
世話になった?私が世話をしてきたのではないのでしょうか。混乱する私の心に、剣吾の冷たい視線が突き刺さる。
数日後の深夜、桜を寝かしつけた私に剣吾が再び詰め寄ってきた。今度は怒りで顔を真っ赤にしている。
「もういい加減にしろよ!」
「剣吾、桜が起きてしまうわ。静かに。」
「うるせえ!もう限界なんだよ、俺は!」
剣吾の手が私の腕を掴む。力強く、容赦なく。
「痛い!剣吾、何をするの?」
「出ていけ!今すぐ出ていけって言ってんだよ!」
引きずられ、玄関へと連れて行かれる。ドアが開き、私の体は外へと押し出された。よろめき、コンクリートの地面に倒れ込む。膝から伝わる痛みよりも、心に突き刺さる息子の拒絶が何倍も激しく私を苦しめた。
振り返って懇願する私に、息子はドアを閉めただけだった。バタンという音が、私と息子の間に立ちはだかる壁のように響く。冷たい地面に座り込んだまま、私は夜空を見上げた。星が綺麗だ。でもその美しさが、今の私にはあまりにも残酷に感じられる。
その時、私は悟った。もうこの家族に居場所はない。いや、最初からなかったのかもしれない。そして、バッグから携帯電話を取り出した。
冷たい地面から立ち上がった私は、服についた埃を静かに払う。涙は出てこなかった。代わりに、心の奥底から冷静な決意が湧き上がってくるのを感じる。バッグから携帯電話を取り出し、登録してある番号を押した。コール音が3回鳴った後、落ち着いた男性の声が聞こえてくる。
「もしもし、高橋法律事務所です。」
「高橋先生でしょうか。岡本です。ついにその時が来ました。」
「岡本さん、わかりました。では明日午前中に事務所にいらしてください。全ての書類を用意しておきます。」
「ありがとうございます。5年間の記録、全てをお渡しします。」
電話を切り、タクシーを呼ぶ。運転手さんが心配そうに声をかけてくれた。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。むしろ、やっと自由になれました。」
ホテルに到着し、部屋に入った私はバッグからUSBメモリを取り出す。パソコンを開き、画面に映し出される膨大なファイルを1つ1つ確認していった。実は3年前から、息子夫婦の態度が露骨に変わり始めた時から、私は全てを記録し始めていたのだ。弁護士の高橋先生に相談したのもその頃だ。
「岡本さん、万が一の時のために証拠は全て残しておいてください。日記でも写真でも音声でも構いません。」
先生の言葉を守り、私は記録し続けた。この日が来ることを、どこかで感じていたから。
画面に映る記録の数々。まずは日記。毎日の詳細な記録が3年分蓄積されている。育児時間は毎日12時間、1095日間続いた。合計1万3140時間。家事労働も含めれば、さらに膨大な時間になる。次に音声記録。これは無断録音ではない。桜の部屋に設置してあるベビーモニターやリビングの防犯カメラの音声だ。あの夜の会話もしっかりと記録されていた。
「もう用済みなのよ。早く追い出さないと。」
「計算してみて。5年で1800万円。大儲けじゃない。」
あゆみさんの声がスピーカーから流れてくる。他にも数々の暴言が記録されていた。
写真と動画の記録も充実している。家族写真から外される場面。私の前に置かれた小さなおにぎり1個と、息子夫婦の前に並ぶ豪華な料理。捨てられた私の私物。変えられた部屋の鍵。全てが証拠として残されている。医療記録も重要だ。疲労による通院記録と、「認知症ではない」という医師の診断書。息子夫婦が私を認知症扱いしていた証拠になる。そして金銭記録。二世帯住宅の頭金500万円の振り込み記録。毎月の生活費負担、桜への教育費・玩具費の支出記録。全てが私の貢献を証明していた。
さらに、今夜の暴力の証拠も確保している。ホテルに来る前に近くの夜間診療所で診察を受けたのだ。剣吾に掴まれた腕には、くっきりとした痣が残っている。医師は驚いた様子で診断書を書いてくれた。
「これは明らかな暴行の痕跡ですね。警察に届け出ることをお勧めします。」
診断書を手に、私はホテルへ向かったのだ。
パソコンの画面を閉じ、もう1つの重要な書類を取り出す。それは二世帯住宅の土地の登記簿だ。所有者の欄には、私の名前が記されていた。あの二世帯住宅の土地は、夫が残してくれた大切な財産だ。息子のために無償で貸していた。しかし契約書は作っていない。口約束だけだったのだ。
高橋先生は以前こう言ってくれた。
「岡本さん、この土地はあなたのものです。建物は息子さんの名義ですが、土地の使用契約書がない以上、あなたはいつでも返還を求めることができます。その場合、息子さんは建物を撤去して土地を明け渡す必要があります。もちろん撤去費用も息子さんの負担です。」
その時の私はまだ迷っていた。でも今夜の暴力で、全てが決まったのだ。高齢の母親に暴力を振るうという、許されない一線を息子は越えてしまった。
通帳も確認する。預金残高は2500万円。別の通帳には定期預金3000万円。夫が残してくれた保険金と、私の退職金だ。経済的には十分に自立できる。枕元に携帯電話を置き、明日の弁護士事務所の予約確認画面を見つめた。午前10時。全てが動き出す時間だ。
ベッドに横になりながら、私は静かに呟く。
「剣吾、あゆみさん。あなたたちは大きな間違いを犯しました。私を追い出したこと。いえ、それよりも私を殴ったこと。高齢の母親に暴力を振るうという、取り返しのつかない過ちを犯したのです。」
暴力は証拠として決定的だ。診断書があり、医師の証言もある。これで準備は完璧になった。明日、全てが動き出す。息子夫婦はまだ何も知らない。自分たちがどれほど恐ろしい状況に陥ったのかを。土地の所有権、5年間の労働債権、そして暴力。3つの切り札が私の手の中にある。
窓の外を見ると、夜が明け始めていた。東の空がうっすらと輝いていく。新しい1日の始まり。そして、私の新しい人生の始まりでもある。目を閉じると、不思議と心が落ち着いていくのを感じる。5年間の苦しみ、理不尽、屈辱。全てに決着をつける時が来た。もう2度と誰にも屈することはない。その言葉を胸に、私は静かに眠りについた。
翌朝、二世帯住宅のリビングには穏やかな朝の光が差し込んでいた。剣吾とあゆみさんがコーヒーを飲みながらソファーでくつろいでいる。
「あー、すっきりしたわね。」あゆみさんが大きく伸びをする。
「君、昨夜は少し強引だったかもしれないけど…」
「何言ってるの?あれで良かったのよ。もう私たちの邪魔をする人はいないんだから。」
桜が2人に近づいてくる。
「ねえ、おばあちゃんはどこ?」
「おばあちゃんはね、ちょっと旅行に行ったんだよ。」剣吾が優しく答える。
「そうそう。長い長い旅行にね。」
2人は顔を見合わせて笑った。
その時、剣吾の携帯電話が鳴る。
「はい…、岡本ですが。」
「岡本剣吾様ですね。私、弁護士の高橋と申します。」
「弁護士?何の用ですか?」剣吾の顔色が変わる。あゆみさんが不安そうに夫を見つめた。
「岡本洋子様の代理人としてお電話しています。」
「母さんの?」
剣吾は慌ててスピーカーフォンに切り替える。あゆみさんも身を乗り出して電話の内容に耳を傾けた。
「まず、昨夜の暴力行為についてです。診断書を確認しましたが、明らかに傷害罪が成立します。高齢者への暴力は厳重に処罰されます。警察への被害届も検討しています。」
あゆみさんが小声でつぶやく。
「警察?嘘でしょ…」
高橋弁護士の声が続く。
「次に、5年間の労働債務についてです。育児労働1万3140時間、家事労働1万950時間、時給1500円換算で、総額4920万円以上の未払い労働です。」
「よ、4920万円…」剣吾の声が震える。
「そんな払えるわけないじゃない!」あゆみさんが叫ぶ。
「お支払いいただけない場合は法的手続きを取らせていただきます。給与の差し押さえも視野に入れています。」
剣吾とあゆみさんは顔面蒼白になった。しかし弁護士の言葉は続く。
「そして、最も重要な件ですが、こちらの土地について…」
「土地?これは俺の…」
「いいえ、違います。この土地は岡本洋子様の所有です。」
「え、嘘…」2人の声が重なる。
「登記簿を確認しましたが、土地の所有者は岡本洋子様。建物は剣吾様の名義ですが、土地は洋子様のものです。使用契約書もありませんから、洋子様はいつでも土地の返還を求めることができます。つまり、建物を撤去して土地を明け渡していただくことになります。」
剣吾の手から携帯電話が滑り落ちそうになる。
「建物を撤去?この家を壊すってこと?」あゆみさんの声が裏返る。
「はい。もちろん建物の撤去費用もあなた方の負担です。およそ500万円程度かと思われます。」
長い沈黙が流れる。リビングの時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いた。
「こ、この家のローン、まだ2500万円残ってるのに…」剣吾がつぶやく。
「家を壊して、ローンだけが残るってこと?」
「それはあなた方の問題です。なお、土地の明け渡し期限は3ヶ月とさせていただきます。それまでに建物を撤去し、土地を更地にして返還してください。」
電話が切れた。剣吾とあゆみさんは呆然とその場に立ち尽くす。
「どうしよう…どうしよう…」あゆみさんがパニックになり始める。
「家のローン2500万円。撤去費用500万円。労働代金4920万円。合計…7900万円以上。払えるわけない。」
剣吾が床に座り込む。
「あなたの会社の年収600万でしょう。私のパート収入入れても年に100万。合わせて800万。税金引いたら手取り400万くらい。7900万円なんて…12年以上かかる。いや、生活費考えたら20年以上。」
2人は絶望的な表情で顔を見合わせた。剣吾が震える手で母親の携帯番号を押す。コール音が3回鳴った後、洋子の冷静な声が聞こえてきた。
「何かしら。」
「母さん…弁護士から電話があって…本当なの?」
「本当よ。全て事実です。」
「お願いだ母さん。話し合おう。昨日のことは悪かった。」
「話し合い?今更ですか?5年間、私の話を1度でも聞いてくれましたか?」
あゆみさんが電話を奪い取る。
「お母さん、お願いです。私たちどうすればいいんですか?」
「さあ、どうすればいいんでしょうね。私も5年間同じことを思っていました。」
「謝ります。本当にごめんなさい。だから許してください。」
洋子の声には一切の感情が感じられない。
「あゆみさん、昨日あなたは何と言いましたか?『お荷物は早く出ていけ』でしたね。では、私からも言わせていただきます。お荷物には土地も家も必要ありません。」
剣吾が再び電話に出る。
「母さん、頼む。桜のことを考えてくれ。」
「桜のこと?5年間私がどれだけ桜を愛して世話をしてきたか、あなたは知っているはずです。でもあなたたちは私を『用済み』だと言いました。それはあゆみさんも。剣吾、あなたも昨日こう言いましたね。『俺たちの家だ。母さんは居候だ』と。では、私も言いましょう。私の土地に、あなたたちは居候です。さっさと出て行ってください。」
電話が切れる。剣吾は何度もかけ直すが、もう繋がらない。
「出ない…母さんが電話に出ない…」
「どうしよう…どうしよう…」あゆみさんが頭を抱えて座り込む。
「私たち終わったのよ。家もお金も全部。」
桜が不安そうに2人に近づいてくる。
「ママ、パパ、どうしたの?おばあちゃんに会いたいよ。」
「うるさい!今それどころじゃないの!」あゆみさんが叫ぶ。
桜は驚いて泣き出した。泣き声がリビングに響く。剣吾は無力感に襲われ、ただ座り込んでいるだけだった。
数日後、二世帯住宅には撤去業者が下見に来た。
「建物の撤去費用はやはり500万円ほどかかりますね。」
業者の言葉に剣吾は唸るだけだ。会社でも剣吾の様子がおかしいことに同僚が気づく。
「岡本さん、大丈夫ですか?最近元気ないですね。」
「ああ、ちょっと家庭の事情で…」
言葉を濁す剣吾だが、心の中では絶望が広がっていくばかりだ。あゆみさんもパートから帰ってくると、ただソファーに座り込んでため息をつく。
「フルタイムで働かないと…でも桜の世話は誰が?保育園に預けるしかない。保育園代もかかるのよ…お母さんが無料でやってくれてたことが、どれだけありがたかったか。」
今更言っても、2人の間に重い沈黙が流れるだけだ。
そして1ヶ月後、剣吾とあゆみさんは小さなアパートに引っ越した。二世帯住宅は更地になり、ただ広い土地だけが残っている。アパートの狭い部屋で、桜が寂しそうにつぶやく。
「おばあちゃん、どこ行ったの?」
剣吾は答えることができない。あゆみさんもただ涙を流すだけだ。
「ごめんね。ママとパパが悪かったの。」
悔やんでも、もう遅い。人は失って初めて、その大切さに気づく。これが理不尽な行いへの、当然の報いだった。
あれから1ヶ月が経った。私は新しいマンションで1人暮らしを始めている。明るい日差しが差し込む広いリビングで、久しぶりに入れた紅茶の香りを楽しんでいた。インターホンが鳴り、友人たちが訪ねてくる。数年ぶりの再会だ。
「洋子さん、本当に大変だったのね。」友人が心配そうに言う。
「ええ、でも今は本当に自由で幸せです。」
「お孫さんのこと、心配じゃない?」
「もちろん心配です。でも私にできることはもうありません。桜には申し訳ないけれど、私自身を守ることも大切だと気づいたんです。」
友人たちは優しく頷いてくれた。温かい会話が心を癒してくれた。翌週、私は5年ぶりにコーラスサークルに復帰する。
「洋子さん、お帰りなさい!」メンバーたちが笑顔で迎えてくれる。
久しぶりに声を合わせたハーモニーが、体の中を温かく満たしていくのを感じた。これが本当の幸せだったのだと、今なら分かる。
一方、息子夫婦は小さなアパートでの生活を始めていた。剣吾は会社で必死に働き、あゆみさんもフルタイムで働き始めている。桜は保育園に預けられ、寂しそうな表情を浮かべていた。ある日、アパートの狭い部屋であゆみさんがつぶやく。
「あの時、本当にバカだったわ。母さんにどれだけ助けてもらっていたか…失って初めてわかった。」
剣吾も頷く。
「おばあちゃんに会いたいよ…」桜の言葉に、2人は何も答えることができない。悔やんでも、もう遅いのだ。
私の経験は決して特別なものではない。多くの高齢者が家族から理不尽な扱いを受けている。「家族なんだから我慢しなさい」「親なんだから当たり前」。そう言われて自分を犠牲にし続けている方が、たくさんいらっしゃるだろう。でも私は声を大にして言いたい。理不尽には屈してはいけません。我慢することが美徳なのではありません。自分の尊厳を守ることこそが大切なのです。家族だからこそ感謝し合い、尊重し合うべきです。家族だから何をしてもいい、ということではありません。
私が学んだこと。それは、自分を守る権利は誰にでもあるということ。そして、理不尽な行いには必ず報いが来るということ。もしあなたも今理不尽な扱いを受けているなら、どうか1人で抱え込まないでください。相談できる人を見つけてください。弁護士でも友人でも、誰でもいいのです。そして記録を残してください。言葉でも写真でも日記でもいいのです。いつかその記録があなたを守ってくれます。
私は5年間苦しみました。でも今は自由で幸せです。窓辺に立ち、外の景色を眺める。公園では子供たちが楽しそうに遊んでいた。その姿を見て桜のことを思い出す。桜には申し訳ないことをしたかもしれない。でも、私が壊れてしまったら、誰も幸せにはなれなかったでしょう。自分を大切にすること。それが結果的に周りの人も大切にすることに繋がるのです。
あなたにも必ずそんな日が来ます。理不尽に負けないでください。自分を大切にしてください。



