夫の転勤でこの田舎町に来て三年。隣の家の主婦に「よそ者」と陰で言われているのを知ったのは、もう半年前のことだ。彼女は笑顔で挨拶してくるくせに、私の育て方、掃除の仕方、果ては夫の仕事まで、町内の井戸端会議で笑いものにしていた。決定的だったのは、公民館の役員決めで彼女が言った一言。皆の前で、こう言ったんです。「どうせいつか東京に帰るんでしょ?…

夫の転勤でこの田舎町に来て三年。隣の家の主婦に「よそ者」と陰で言われているのを知ったのは、もう半年前のことだ。彼女は笑顔で挨拶してくるくせに、私の育て方、掃除の仕方、果ては夫の仕事まで、町内の井戸端会議で笑いものにしていた。決定的だったのは、公民館の役員決めで彼女が言った一言。皆の前で、こう言ったんです。「どうせいつか東京に帰るんでしょ?...

「これを持ちまして、白峰総合病院の経営権譲渡の全手続きが完了となります。新理事長、田桐誠様、よろしくお願いいたします。」

弁護士が書類を両手で掲げて頭を下げた。俺はそれを受け取り、軽く頷いた。向かいの席には旧経営陣が並び、皆、安堵と警戒が入り混じった顔をしていた。

「皆さん、長らくお疲れ様でした。今日からこの病院は新しい形で続いていきます。」

俺の名は田桐誠。医師であり、投資家でもある。東京で十五年、メスを握りながら傾いた医療法人をいくつも立て直してきた。だが、この白峰総合病院だけは、他のどの案件とも違った。

俺の父はこの町で生まれた。若い頃に町を出て、二度と戻らないまま死んだ。父は晩年、酒を飲むたびに白峰の話をした。山の話、川の話、そしてこの病院で世話になった祖父の話を。

この病院の話が持ち上がった時、俺は迷わなかった。赤字続きの地方病院。医師は高齢化し、設備は二十年遅れている。ビジネスとしては最悪に近い案件だった。それでも俺は手を挙げた。

会議室を出ると、廊下の壁紙が剥がれかけているのが目についた。床には所々に黒い染みが残っている。古い建物特有の、紙と埃と消毒液の匂いがした。

事務の高瀬が小走りで追いかけてきた。体は細く、いつも少し背を丸めて歩く男だ。

「理事長、ご案内します。各部署の責任者がお待ちしております。」

「ありがとう、高瀬さん。まずは現場を全部見せてください。隠さなくていい。悪いところを先に知りたいので。」

高瀬は一瞬目を泳がせた。それから小さく頭を下げた。

「承知しました。」

外来のロビーは、午前の終わりだというのにまだ人で埋まっていた。順番を待つ人たちが長椅子の上で背を丸めている。受付の女性は電話と書類を捌くのに必死で、汗を拭く暇もなさそうだった。資料では外来一日平均三百人。医師は常勤五人。数字を見ただけで現場が回っていないのは明らかだった。

その時だ。ロビーの隅の長椅子で、一人の女性が前のめりになって咳き込んだ。細い肩が震え、額に汗が浮いている。俺は反射的に近寄った。

「大丈夫ですか? 胸が苦しいですか?」

「大丈夫です……少し息が……」

唇の色が薄い。指先が冷たくなっている。心臓に何かを抱えている人間の顔だった。俺は近くの看護師を呼び、彼女を診察室まで運ばせた。処置の合間に簡単に話を聞いた。名前は立花詩織。三十五歳。東京から取材で来たという。

「立花さん、心臓のことはご存知ですね。何か診断は受けていますか?」

「拡張型心筋症だと東京の医師に言われています。今日は……つい、発作で。本当にすみません。ご迷惑を。」

「迷惑なんかじゃない。具合が悪い人がいたら見るのは当たり前です。」

詩織はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。細い目に、奇妙な強さがあった。弱っている人間の目ではなかった。

「先生、一つ伺ってもいいですか? 今日、ここの理事長になられた方ですよね。」

「ええ、そうです。」

「どうして、こんな病院を買われたんですか?」

「こんな病院」という言い方に、一瞬ドキリとした。だが、攻めるような声ではなかった。何かを確かめようとする声だった。

「父の故郷だからです。それと、ここがまだ潰れていないからです。」

「潰れていない、ですか?」

「ええ。続いているうちは、まだ直せる。」

詩織は俺の顔をしばらく見ていた。それからゆっくりと言った。

「私の母は、二十年前この病院で亡くなりました。手術中の事故でした。」

ロビーの喧騒が、ふっと遠くなった気がした。

「お母様の名前を聞いてもいいですか?」

「立花み子です。執刀したのは山田上一先生。今、医師会の会長をされている方です。」

俺はその名前を頭の中で繰り返した。山田上一。買収交渉の時から何度も聞いた名前だった。地元医師会の会長で、白峰総合病院の元外科部長。最後まで買収に反対していた男。

「先生。私は母のことを記事にするために、ここへ来ました。山田先生のことをずっと取材してきました。先生がこの病院を買われたと聞いて、迷ったんです。お話しすべきかどうか。」

俺は黙って彼女の言葉を聞いていた。

「話してくれてよかった。立花さん、今日はまず体を休めてください。話の続きは、また落ち着いてから聞かせてもらいたい。」

詩織は頷いた。立ち上がる時、足元が少しふらついた。俺は腕を出して支えた。

その夜、俺は理事長室で書類の山と向き合っていた。窓の外はもう真っ暗だ。町の灯りが、思ったよりずっと少ない。ドアがノックされた。顔を出したのは内科医の三栖だった。五十歳。この病院に二十年以上いると言う痩せた男で、いつも疲れた目をしていた。

「夜分にすみません。挨拶が遅くなりました。」

「いえ、こちらこそ。座ってください。」

「理事長は、改革をされるおつもりですか?」

「改革という言葉は好きじゃないんです。直せるところを直す。それだけです。」

「古い話まで掘り返されますか?」

俺は手を止めて三栖の顔を見た。彼は俺の目を見なかった。

「掘り返さないと直せないものなら、掘ります。先生、何か気になることがあるなら、いつでも来てください。話を聞きます。」

三栖は何も答えなかった。ゆっくりと頭を下げて、部屋を出ていった。

入れ替わるように高瀬が書類を抱えて入ってきた。その顔は、昼間より青白く見えた。

「過去十年分の診療実績をまとめておきました。それと、二十年前以前の記録については、一部保管庫の奥にしまわれたままになっておりまして……」

「高瀬さん、それも全部出してください。今すぐじゃなくていい。順番に、確実に。」

「はい、分かりました。」

高瀬は書類を置いて、しばらく動かなかった。

「高瀬さん。」

「はい。」

「あなたは長くここにいるんですよね。」

「二十五年になります。」

「だったら、色々見てきたはずだ。何か思い出したことがあれば教えてください。攻めるためじゃない。直すためです。」

高瀬は深く息を吐いた。

「承知しました。少し時間をください。」

一人になった部屋で、俺は窓の外を見た。自分の顔が窓ガラスに薄く映っていた。立花み子。山田上一。二十年前の手術。父が話していた白峰は、もう少し明るい町だったはずだ。俺は湯呑みに残った冷たい茶を一口飲んだ。苦かった。

朝の七時、俺は地下の診療記録保管庫に立っていた。蛍光灯の一つが切れかけて、チカチカと点滅している。棚は天井まで届き、年代ごとに古いカルテが詰まっていた。高瀬が鍵束を手にして、俺の前に立っていた。昨夜よりさらに顔色が悪い。

「理事長、お呼び立てして申し訳ありません。ご自分の目で見ていただきたく。」

「いえ、こちらから見たいと言ったんだ。気にしないでください。それで、どの棚ですか?」

高瀬は奥の棚を指さした。平成十五年と書かれた札が張ってある。彼はその中ほどから、一冊の分厚いファイルを取り出した。

「これが二十年前の手術記録です。執刀医、山田上一。患者、立花み子。これを見ていただけますか?」

俺はファイルを受け取り、机に広げた。麻酔記録、術中経過、術後経過。一通り流すように目を通した。表面上は矛盾のない記録だった。だが、何かが妙だ。

「高瀬さん、この筆跡、後半だけ違うように見えるんだが。」

「はい。私もそれが気になっておりまして。」

高瀬は別の薄い封筒を取り出した。中から出てきたのは、同じ日付の別の用紙の控えだった。紙は黄ばみ、端がすり切れている。

「これは当時の看護記録の控えです。手術記録と内容が一致するはずなのですが。」

俺は二枚を並べて見比べた。出血量の数値が、二倍近く違っていた。時刻の流れも、看護記録の方が三十分ほど長い。つまり、手術はもっと荒れていた。そして、誰かが記録を整えた。

「これ、いつから気づいていたんですか?」

「ご遺族が説明を求められた直後です。私は当時まだ事務の下働きで、控えを片付けていました。本来なら廃棄するはずの看護記録の控えを、私は捨てられませんでした。お母様の顔を見ていましたので。」

高瀬の声は低く震えていた。彼はずっとこれを抱えて、ここで勤めてきたのだ。

「高瀬さん、あなたを責めるつもりはない。当時、声を上げるのは簡単な話じゃなかったはずだ。今見せてくれたことに、礼を言います。」

「礼などいりません。私は見て見ぬふりをしてきた人間です。あの娘さんが、お母様の死を背負って生きてきたことを思えば……」

高瀬は俯いた。俺はファイルを閉じ、両方を金庫にしまった。

その日の午後、俺は院内の個室で、詩織と向き合っていた。机の上に、使い込まれた黒い表紙のノートが置かれている。

「お時間をいただいてありがとうございます。先生、これをお見せします。私が三年かけて集めた、山田先生に関する取材記録です。」

「拝見します。立花さん、無理に開かなくていい。話せる範囲で構いません。」

「いえ。ここまで来て、隠す理由はありません。」

ノートには細かい字でびっしりと書き込みがしてあった。山田が関わった手術の一覧。関係者の証言。家族への聞き取り。死亡事例が、母のみ子だけのものではないことがすぐに分かった。似た経緯のケースが三件あった。いずれも術中の出血対応に問題が疑われていた。いずれも最終的には「術後の合併症」で処理されていた。

「これは、一つの病院の話ではないということですか?」

「山田先生は白峰を出た後、隣町の系列病院でも何件か。記録は薄められていますが、看護師の証言が残っています。皆さん、もう退職されている方ばかりです。話を聞けたのは、その方々が自分の中で長年片付かなかったからだと思います。」

俺はノートをゆっくり閉じた。彼女の三年間が、そこに収まっていた。息の続かない体で、東京と白峰を行き来した三年だ。

「立花さん、一つ聞いていいですか? あなたは復讐がしたいんですか? それとも、母親のために真実を残したいんですか?」

「どちらでもあります。それをずっと自分でも分けられずにいました。でも、最近思うんです。母は山田先生を裁いてほしいわけじゃないかもしれない。母が望むのは、私が私の名前でこれを書き切ることだと。」

詩織の目がわずかに潤んだ。彼女はゆっくりと胸に手を当て、息を整えた。

「立花さん、あなたの体のことはちゃんと見させてください。記事を書き切るまで、倒れてもらっちゃ困る。それはお母さんのためでも、私のためでもあります。」

「先生、ご自分のために、とおっしゃるんですか?」

「ええ。あなたが書かなければ、私はこの病院を本当の意味で直せない。記録の改ざんは、医療の根を腐らせてしまう。」

詩織はしばらく俺を見ていた。それから深く頭を下げた。

その晩、診察棟の灯りはほとんど落ちていた。俺は理事長室で一人、湯呑みに茶を注いでいた。ドアが小さく叩かれた。返事を待たずに、内科の三栖が入ってきた。

「理事長、少しお時間を。」

「どうぞ、座ってください。茶でいいですか?」

「結構です。立ったまま話させてください。」

三栖は窓の前に立った。手を後ろに組み、夜の町を見ている。

「二十年前、私はまだ研修を終えたばかりでした。立花み子さんの手術に、第二助手として入っていました。」

俺は湯呑みを置いた。何も言わず、続きを待った。

「術中、出血が止まらなくなりました。山田先生は止血の手順を間違えられた。私はそれを目の前で見ていました。指摘するべきだったのに、私は黙っていました。先輩医師に逆らうことが怖かったんです。あの方は、医師会で力を持ち始めていた頃でした。」

三栖の声は淡々としていた。だが、肩がわずかに震えていた。

「手術が終わった後、記録は山田先生が書き直されました。私の名前は第二助手として残っています。つまり、私は改ざんに立ち合った人間です。理事長、私は二十年、毎朝この病院に通いながら、立花さんの命日を勝手に数えてきました。今日が、それを話せる最後の機会だと思いまして。」

俺は立ち上がった。三栖の前まで歩き、彼の顔を見た。

「三栖先生、話してくれてありがとうございます。あなたを軽蔑する気はない。二十年黙ったまま、それでもここで患者を見続けたあなたを、私は知らないわけじゃない。問題は、これからどうするかです。」

「証言します。記録に残る形で、いつでも。」

「ありがとう。立花さんにもいずれ会ってもらいたい。あの人はあなたを攻めには来ない。私はそう思っています。」

三栖は深く頭を下げた。

俺は窓の前に立った。夜の町に、ぽつりぽつりと灯りが残っている。高瀬が保管した看護記録。詩織のノート。三栖の証言。三つが揃った。山田上一に会いに行く時が来た。

医師会館の応接室は、思ったより狭かった。壁には歴代会長の写真が並び、その一番端に山田上一の顔があった。若い頃の写真と今の彼。目の鋭さだけは、変わっていない。山田は奥のソファに座り、足を組んでいた。五十八歳。俺が部屋に入っても、立ち上がらなかった。

「田桐先生。買収のお祝いも言えていなかった。今日は何のご用ですかな?」

「単刀直入に申し上げます。二十年前の立花み子さんの手術記録について、お話を伺いに来ました。」

山田の眉が一瞬だけ動いた。それから彼はゆっくりと笑った。

「ああ、あの件ですか。気の毒なことでした。術前の心臓に、手術中の負担が重なりましてな。あれは不幸な合併症だ。記録にもそう残っているはずですが。」

「手術時の執刀医記録の後半と、看護記録の控えを並べてみました。出血量、時刻、全て食い違っています。山田先生、あなたが書き直された。そうですよね?」

俺は鞄から二枚のコピーを取り出し、机の上に並べた。山田は目を落としたが、表情は動かなかった。

「古い紙の話ですな。当時は記録の様式も今ほど整っていなかった。執刀医の記録と看護師の控えが違うことなど、よくあったことです。」

「三栖が証言してくれました。あの日、止血の手順が違っていたと。記録が書き直されたことも、見ていたと。」

山田の頬がわずかに引きつった。

「三栖君が。あの男はずっと私の病院で働いてきた。今更、何を言い出すつもりだ?」

「今更じゃない。二十年ずっと抱えてきた話です。それと、立花み子さんの娘さんが三年かけて取材を続けて来られた。あなたが関わった他の事例も、いくつか名前が上がっています。」

俺は淡々と話した。責めるつもりはなかった。責めても、母親は帰ってこない。

「田桐先生、あなたは東京で何件も病院を立て直してきたと聞いている。だったら分かるはずだ。地方の医療は、綺麗ごとでは回らん。私はこの地域の医療を四十年支えてきた。それを今更、一枚の紙で覆えそうというのか。」

「覆えそうとは思っていません。ただ、立花み子さんの死は合併症ではなかった。それを記録に残し直したい。娘さんがそれを必要としているんです。」

山田はしばらく黙っていた。それから深く息を吐いた。肩から力が抜けるのが見えた。

「あの娘さんは、お元気ですか?」

「心臓を患っておられます。お母様と同じ場所です。」

山田は目を閉じた。俺はそれ以上、何も言わなかった。

三日後の夜だった。俺が理事長室で報告書をまとめていると、内線が鳴った。受付の声が上ずっていた。

「理事長、立花さんがロビーで倒れられました。意識はありますが、呼吸が……」

俺は階段を駆け降りた。ロビーの長椅子の前に、詩織が横たわっていた。唇が紫色に変わりかけている。

「立花さん、分かりますか? 聞こえますか?」

「先生……ノート……」

彼女の手は黒い表紙のノートを、きつく握っていた。俺は看護師に指示を出し、処置室に運ばせた。心電図、酸素、点滴。この人をここで失うわけにはいかない。三栖が俺の顔を見て、何も言わずに頷いた。そして処置室に入り、循環器の応援に回った。

夜の処置室を、田端という女性が動かしていた。二十年勤めたベテランの看護師だ。彼女は詩織の手を握りながら、低い声で話しかけ続けた。

「立花さん、聞こえる? お母さんに似てるね。あの日も、私ここにいたのよ。あなたのお母さんの手も、こうやって握ってたの。」

詩織の指がわずかに震えた。田端の目から涙が一つ落ちた。

「今度はね、絶対に、離さないからね。約束する。」

俺は処置を続けながら、田端の声を聞いていた。二十年。この人もまた、抱えていたのだ。看護師として、何もできなかった夜のことを。俺の指は止まらなかった。止めるわけには、いかなかった。

明け方近く、呼吸が落ち着いた。酸素の数値が、ゆっくりと戻っていった。俺は処置室を出て、廊下の壁に寄りかかった。廊下の向こうから足音が近づいてきた。山田だった。コートも着ず、寝巻きのような服のままだった。誰かが彼に連絡したのだ。おそらく三栖が。

「あの娘さんは、どうした?」

「峠は越えました。今夜はもう、大丈夫です。」

山田は壁に手をついた。そのまま、ずるずると床に座り込んだ。六十近い男が、子供のように肩を落としていた。

「田桐先生。私は明日、医師会に辞表を出します。立花み子さんの件は、記録の訂正に私の名前で署名します。他の事例についても、調査に応じます。」

「分かりました。」

「娘さんに合わせてもらえますか? 落ち着かれてから、いつでもいい。謝って済む話ではないことは分かっています。それでも、私は二十年前にやるべきだったことをやります。」

俺は彼の隣にしゃがんだ。言葉は出てこなかった。ただ、白い廊下の灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。

それから半年が過ぎた。病院の壁紙は張り替えられ、ロビーには新しい長椅子が入った。診療の電子化が始まり、古い紙の山は少しずつ整理されていった。詩織の記事は東京の雑誌に載った。母の名前と、二十年の沈黙について書かれた長い記事だった。山田の名前も、三栖の名前も、田端の名前も、そこにあった。責める文章ではなかった。記録する文章だった。

詩織は心臓移植の待機リストに登録され、東京の病院に通いながら、この町にも月に一度来ていた。来るたびに母の眠る霊園に寄り、それから病院の俺の部屋に顔を出した。

その日、詩織は窓際に立って山を見ていた。顔色は、出会った頃よりずっといい。

「先生、私、この町に家を借りようかと思っています。東京と半分ずつで。書きたいことが、まだあるんです。」

「いいですね。この町の春は、思ったより長いですよ。父が言っていた通りだった。」

詩織は、ほんの少しだけ笑った。出会った頃には見せなかった笑い方だった。

廊下を高瀬が書類を抱えて通り過ぎた。背中が、以前より少しまっすぐになっていた。三栖が外来から戻ってきて、詩織に軽く頭を下げた。詩織も、頭を下げ返した。

俺は窓の外を見た。父が話していた山が、そこにあった。雪は消え、山肌が柔らかく光っていた。

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