嘘をつくとき、人は何かを守ろうとしている。それが愛する人のためであれ、長年かけて築いてきたものへの執着であれ、自分でも気づかないうちに手放せなくなったもののためであれ。森山安子(63歳)は、自分がもうどれだけの間そうやって生きてきたのか、正確には思い出せなかった。
埼玉県の外れにある古い団地で、夫の秀夫(66歳)と二人で暮らしていた。建物は昭和40年代に建てられたもので、廊下の手すりは錆びつき、エレベーターは一基しかなく、雨の日には壁の染みが濃くなった。安子は背中が少し丸くなっていた。ベージュのカーディガンは袖口が毛立ち、右肘のあたりがうっすら白くなっていた。何度も洗ったからだ。捨てようと思いながらも捨てられない。新しいものを買うという行為そのものが、どこか後ろめたかった。
夫の秀夫は今年の1月、会社を「やめさせられた」。早期退職の勧奨だった。課長補佐として30年以上勤めたが、50代の半ばを過ぎると重要な仕事から外され、退職を促す面談を3回受けた。3回目に提示された条件に、秀夫は何も言わずにサインした。翌朝の食卓で、「会社をやめることにした」とだけ言った。安子は何も言えず、コーヒーカップを持ったまま窓の外の曇り空を見ていた。
退職後、秀夫は毎日スーツを着て出かけるようになった。図書館でビジネス書を読んでいると言い、顧問の仕事を探していると言った。しかし、3月になり、4月になっても仕事は決まらなかった。安子はそれについて何も言えなかった。秀夫はプライドの高い人だった。それはかつて家族を養うための強さだったが、今は自分が何者であるかということに異常なくらい執着する形に変わっていた。
6月の初旬のある夜。安子はスーパーの半額シールを目当てに、閉店間際の店内にいた。同じ団地の知り合いに見られるのが恥ずかしくて、値引きコーナーに直接並ぶことができない。他の客が群がるのを待って、弁当のパックを手に取る。幕の内弁当が490円から245円になっていた。それと、酒のおにぎりが2個入ったパック。レジを済ませ、エコバッグに詰めながら合計金額を暗算した。723円。家に戻ると、秀夫はソファでテレビを見ながら居眠りをしていた。安子が弁当の中身を白い皿に移して出すと、秀夫はため息混じりに言った。
「最近は総菜ばかりだな」
「手間のかかったものが食べたい。煮物とか、ちゃんとした夕飯というのは、家の中に落ち着きが出る気がするんだよ」
安子は箸を止めたが、すぐに動かして、「はい、今度作ってみます」と答えた。
食事の後、一人で食器を洗いながら、安子は頭の中で数字を並べていた。今月の収入はパートの給与7万2000円と秀夫の年金14万円。合わせて21万2000円。そこから家賃、光熱費、国民健康保険料、通信費を引くと、残りは8万円ほど。その中で食費、日用品、医療費、予期せぬ出費をすべて賄わなければならない。冷蔵庫を開けた。卵が4個、豆腐が1丁、もやし。あと3日はなんとかなる、と安子は思った。
翌朝、ゴミ捨て場で二階の吉田さんの奥さんに会った。世間話の後、奥さんが何気なく尋ねた。
「ところで、旦那様はその後どうされてるんですか?」
安子の胸の奥で何かが収縮した。それでも、口元には笑みを作った。
「ええ、おかげさまで。いくつかお話をいただいておりまして。ある企業から顧問のお声がけをいただいていて、近いうちにお返事をする予定なんです。主人も、もう少し条件を確認してから決めたいと言っておりまして」
「ああ、そうですか。良かったですね」
吉田さんの奥さんは笑顔で言った。安子も笑った。笑いながら、胃が静かにきつく締まっていくのを感じていた。それは何年も続いている感覚だった。緊張する時、嘘をついた時、誰かに何かを隠している時に出てくる感覚。
その日、仕事に行く前に郵便受けを確認すると、薄茶色の横長の封筒が入っていた。左上には区の名前と「税務課」という文字。安子はそれをエプロンのポケットに入れ、仕事に向かった。昼休み、休憩室で一人になった時、封筒を開けた。中には2枚の紙。一枚は役所の言葉で書かれた通知文書。そしてもう一枚には、数字が並んだ表と、追加徴収の合計額が書かれていた。
22万7000円。
安子はその数字を3回確認した。パート給与の2か月分に相当する金額だった。納付期限は8月末。一括か、3回に分けての分割払いが可能と書かれていた。手が少し震えていた。指先に力を入れようとしたが、うまく入らない。夫には言えなかった。言えば秀夫は傷つき、その傷が怒りに変わることを、長年の経験から知っていた。息子は大阪で会社員をしており、去年結婚したばかりで、子供も近々生まれると聞いていた。そこへ母親が22万円の話を持ち込むことは、どうしてもできなかった。
安子は封筒を押入れの奥の箱の中に隠した。しかし、見えない場所に置いても、数字は消えなかった。朝目が覚めた時、仕事中に廊下を拭いている時、秀夫の食事を盛る時、その数字は水の底に沈む石のように、いつも頭のどこかにあった。
封筒を受け取った翌週の月曜日、安子は病院の田中主任に声をかけた。先月、夜間の清掃スタッフが不足していると話していたのを覚えていたのだ。
「先月おっしゃっていた夜間の清掃の件ですが、もし人手が必要でしたら、私でよければ入れていただけますか?」
田中主任は少し驚いた顔をした。「夜は遅いですよ。終わりが午前1時を過ぎますし、体がきつい人もいますから」
「大丈夫です」
安子は即答した。そうして安子の週3回の夜間シフトが始まった。夜の9時から翌朝の1時まで。帰宅は1時半を過ぎ、横になるのが3時近く。朝は6時半に起きる。以前から眠りは浅かったが、さらに短くなった。
6月の終わり頃、息子の洋から電話があった。夜の9時半過ぎのことで、安子はちょうど夕食の片付けをしていた。「最近どう?」と聞かれ、「ええ、おかげさまで」と答え、息子に対してだけ使う柔らかい声で応えた。洋は仕事が忙しいこと、部署が変わって残業が増えたこと、そして妻の体調が優れないため、長距離の移動は今年は控えたいと彼女が言っていることを話した。それから少し間を置いて言った。
「今年のお盆の仕送りなんだけど……ちょっと難しいかもしれない。来年子供も生まれるし、今年は家の頭金も動かした。親父たちは年金もあるし大丈夫だと思うけど、ごめん」
安子は洋が言い終わるより先に答えた。「大丈夫よ。気にしないで。お父さんもお母さんも本当に困っていないから。年金がちゃんと入っているし、生活は落ち着いているの。あなたはなおさんのこと、ちゃんとしてあげて。それが一番大切なんだから」
洋はしばらく黙っていた。「本当に大丈夫?」と一度だけ聞いた。「大丈夫よ」と、安子はもう一度笑いを混ぜて言った。電話を切った後、安子は台所の床に座り込んだ。泣きたいわけではなかった。ただ立っているより座っている方が楽だった。息子を安心させることは、子供の頃から安子の仕事だった。今もそれと同じことをしていた。違うのは、今回はそれを自分の力だけではどうにもならない気がしていることだった。
7月に入った。ある日の午後、町内会長の野村という人物が夏祭りの協賛金を集めに来た。目安額は3万円。安子が「今月は少し家計が厳しくて」と断りを入れようとした時、ちょうど秀夫が帰宅した。「ああ、野村さん、お久しぶりです」と笑顔で手を差し出し、「うちはもちろんですよ」と言いながら、上着の内側に手を入れた。安子は秀夫の手が内ポケットに向かうのを見て、胸の奥で何かが縮んだ。秀夫は財布から1万円札を3枚取り出し、野村会長に差し出した。あの財布は、安子が電気代の引き落とし口座に入れるために先週引き出してきた現金が入っているものだった。3万円。電気代のために用意していた3万円が、安子が何も言えないまま、夏祭りの協賛金として消えていった。秀夫は「野村さんはいい人だよ」と満足そうに言った。安子は何も言えなかった。
その夜、安子は夜間シフトに向かう準備をしながら、電気代の引き落とし口座の残高を確認した。不足していた。財布の中の現金は4200円だけだった。
食事中、安子はついに切り出した。「先日、区から通知が来ていまして。住民税と保険料の追加の請求なんですが」と。秀夫の表情が変わった。「いくらだ」と低い声で言った。「22万7000円です」と安子が答えると、秀夫は「なんでそんなことになるんだ」と声を大きくした。安子が年金の計算方式が変わったせいだと説明すると、秀夫は「それは役所のミスじゃないのか」と言った。安子は、市役所で確認してきたこと、ハローワークに登録すれば保険料の減免を申請できる可能性があることを伝えた。すると秀夫の顔が変わった。
「俺に公共職業安定所へ行けと言っているのか」
「制度を使うためだけで、恥ずかしいことでは……」
言いかけた時、秀夫が箸をテーブルに叩きつけた。音が台所まで響いた。
「俺はまだ仕事を探している最中だ。それを役所に行って失業者として登録するなんてことが、できるか」
声が震えていた。怒りの震えだった。40年近く、安子は秀夫が怒るたびに「すみません」と言ってきた。今も、その言葉が喉の手前まで来ていた。でも今日は違った。安子はゆっくり立ち上がり、秀夫の目を正面から見た。
「私が市役所へ行ったのも、夜の仕事を入れているのも、全部この問題をどうにかしようとしてのことです」
秀夫は少し黙った。夜の仕事という言葉に引っかかったようだった。「夜の仕事とは何だ」「病院の清掃の夜間シフトです。週に3回、夜の9時から入っています」
秀夫は何も言わなかった。知らなかったのだ。知ろうとしていなかった。安子はもう一度、ゆっくりと言った。「私たちには今、お米を買う分のお金しかありません」
その言葉が部屋に落ちた。秀夫の顔が赤くなり、耳のあたりまで赤く染まった。それは秀夫が怒る時の色だった。
「言い訳をするな。家の金のことをちゃんと管理しているのはお前だろう。やりくりするのが下手なんじゃないか」
安子が「そうではありません」と反論する間もなく、秀夫は立ち上がり、リビングの傘立てから傘を取った。「少し冷静になって考える必要がある。竹内に連絡して相談してみる。あいつは経営の知識があるから、何か策があるかもしれない」そう言って、玄関の扉が閉まった。
安子はテーブルの前に立ったまま、しばらく動けなかった。秀夫の椅子の前に箸が転がっていた。拾ってテーブルに置き、しゃがんだ。秀夫が箸を叩きつけた時、床に塩の粒がいくつか落ちていた。安子はそれを指先でそっと一粒ずつ集め、手のひらに乗せ、シンクに流した。冷たい水が指の間を流れていく感触だけが、今この瞬間に確かに存在しているものだった。水を止め、タオルで手を拭いて食卓に戻った。秀夫の分の食器を下げ、自分の皿だけを残して一人で食べた。味噌汁はぬるくなっていたが、飲んだ。
秀夫が帰ってきたのは10時を過ぎてからだった。安子はお茶を出した。しばらく二人とも何も言わなかった。秀夫がカップをテーブルに置き、言った。「……ハローワークのことは、少し考える」安子は何も聞かなかった。「少し考える」が何を意味するのか、分からなかったからだ。
その数日後、安子は駅の近くの質屋に立っていた。ガラスの扉の向こうに、時計や指輪が並ぶガラスケースが見えた。安子は扉を押した。店員に買い取りをお願いし、鞄から小さな袋を取り出した。中には、38年間外したことがなかった結婚指輪、母から譲り受けたブレスレット、使わなくなったイヤリングが入っていた。指輪を外した時、するりと抜けた。38年分の習慣がその動作にあった。こんなに小さかったのかと思った。店員はルーペで確認し、値段を書いた紙を差し出した。指輪が9800円、ブレスレットが6200円、イヤリングが1500円。合計1万7500円。思ったより少なかったが、文句を言う立場ではなかった。「お願いします」と安子は言った。書類にサインし、現金を受け取って店を出た。薬指に何もない感触が、歩きながらずっとあった。軽いのに、何かが消えたような感触だった。
その日の夕方、夜間シフトの前に出かけようと支度をしていた安子は、台所の棚の上、秀夫のスマートフォンの充電器の隣に見慣れない封筒があることに気づいた。通販会社の名前が印刷された、開封済みの封筒。中を確認すると、クレジットカードの明細書だった。利用明細の一番上、7月4日の日付で、腕時計のブランド名と思われる英語の文字列と金額が書かれていた。9万8000円。安子はその数字をもう一度見た。明細の下の方には今月の請求合計額と現在の利用残高。カードの利用限度額に対して、残りの利用可能額はほぼゼロになっていた。安子は明細を袋に戻し、元の位置に置いた。胃がまた締まった。今度はいつもより深いところだった。今朝、指輪を売って受け取った1万7500円。そして今、クレジットカードで使われた9万8000円。数字が頭の中で並んで、消えなかった。
翌朝、仕事の前に郵便受けを確認すると、白い封筒が一通入っていた。クレジットカード会社からのもの。開けると、カードの利用が限度額を超えたため、一時的に利用が停止されているというお知らせだった。超分については速やかにお支払いいただくよう、という文言が続いていた。安子は紙を折り、封筒に戻し、テーブルの上に置いた。腕時計の箱の隣に、二つが並んだ。怒りという感情が来るかと思ったが、来なかった。悲しみも、泣きたいという気持ちも、特になかった。ただ、疲れていた。もっと長い時間をかけて積み重なってきた何かが、今朝のこの瞬間に一つの形になったという感覚があった。
寝室のドアが開く音がした。秀夫が台所に入ってきて、安子が椅子に座っているのを見て足を止めた。「どうした」と秀夫は言った。安子は秀夫を見て、それからテーブルの上の二つのものを見た。秀夫もそれを見た。少し間があった。秀夫が椅子を引き、座った。腕時計の箱を手に取り、蓋を閉めた。
「カードが止まっています。超分のお支払いが必要です」と安子は言った。秀夫はしばらく机の上を見ていた。「あれは……安くはないが、ちゃんとしたものを一つ持っていれば、仕事の場でも信頼感が出る。顧問として人と会う時、身につけるものは重要だ」と言った。安子は秀夫の顔を見て、静かに言った。「竹内さんからの話は、まだ来ていないんですよね」秀夫は黙った。安子は続けた。「昨日、私は指輪を売りました。結婚指輪です。質屋で1万7500円でした」
部屋が静かになった。秀夫は安子の左手を見た。薬指に何もなかった。秀夫は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。口が少し開いたまま、閉じた。また開いた。安子は立ち上がり、鞄を持った。「仕事に行ってきます」と言って、玄関に向かった。
その日の昼間のパートを終えて帰る途中、安子はスーパーに寄った。魚コーナーの冷蔵ケースの前に立った時、知っている声が聞こえた。吉田さんの奥さんと、もう一人の女性。話し声が近づいてきて、「あら、森山さん」と吉田さんの奥さんに声をかけられた。安子は振り返り、頭を下げた。少しの間があって、吉田さんの奥さんの視線が動くのを感じた。安子の持っている籠と、これから選ぼうとしていた魚のコーナー。その隣でもう一人の女性が、声を潜めて言った。「あのケースの前の、値引きシール」。冷蔵ケースの橋の方には、黄色い半額シールの貼られたパックが並んでいた。安子はさっきまで、そのシールを見ながら迷っていた。魚の切り身は少し高い。でも足の荒なら半額になっている。手を伸ばしかけたところで、吉田さんの奥さんの声が聞こえたのだった。安子は手を引っ込めた。「ちょっと他のものも見てきます」と言って、その場から離れた。
帰り道、足が重かった。体ではなく、足の底の方が重かった。家に帰ると、秀夫がいた。何も言わなかった。秀夫も何も言わなかった。夕食の準備をしながら、安子はスーパーでのことを思い返していた。吉田さんの奥さんの目線。もう一人の女性がこっそり言った言葉。料理をすることは頭の中を静かにする効果があった。手を動かしていると、考えることが少し遠くなる。夕食ができた頃、秀夫が台所に入ってきた。「今日は魚か」と聞き、安子が「足ですけど」と答えると、秀夫は「そうか」と言って椅子に座った。二人で食べた。会話はなかった。食事が終わって、秀夫が一度だけ言った。「今日、ハローワークのサイトを少し見た。登録の手順を確認した。来週行ってみようと思う」安子は手を止めなかった。スポンジで皿を洗い続けた。それから、ゆっくり「そうですか」と言った。
それから3日が経った7月の最終木曜日の朝。夜間シフトから帰ってきた安子が玄関を開けると、廊下に光が差し込んでいた。秀夫がもう起きていて、台所でコーヒーを入れていた。「今日、行ってくる」と秀夫は言った。「ハローワークに。朝一番に行く。仕事を探すというより、書類上の手続きとして。それで保険料の申請ができるなら、やっておいた方がいい」安子はコーヒーを一口飲んだ。「そうですね」と答えた。秀夫は窓の外を見ていた。しばらくして、秀夫が言った。「指輪のことだが……時計を返品するつもりだ。まだ箱がある。購入から2週間以内なら返品できると書いてあった。返品して、カードの超分に当てる」安子はその言葉を聞いた。本当にそうなるかどうかは分からない。でも、その言葉が今朝ここで出たということは、秀夫が昨日のどこかで一人でその箱と向き合っていた時間があったということだった。「分かりました」と安子は言った。
コーヒーを飲み終え、安子は少し横になった。3時間ほど眠った。起きると秀夫はもう出かけていた。テーブルの上に、腕時計の箱はなかった。昼食を一人で食べながら、この1か月のことを順番に思い返していた。封筒を受け取った日、夜間シフトを申し出た日、息子の電話、市役所の番号札、秀夫が3万円を差し出した瞬間、スーパーでの吉田さんの奥さんの目線、指輪を外した朝。一つ一つが遠い出来事のように感じられた。
秀夫が帰ってきたのは昼の2時を少し過ぎた頃だった。スーツではなく、薄い色のシャツとズボンに、少し古いウォーキングシューズ。「手続きは終わった。時計の返品も済ませた。駅前の郵便局から送った。着いたら返金の手続きに入るらしい」と秀夫は言った。安子はお茶を出した。二人でしばらく黙ってお茶を飲んだ。外でセミの声がした。
その日の夕方から、安子は体の異変を感じ始めた。胃の閉まる感覚はいつものことだが、今日は閉まるというより重くなる感じだった。食欲もなかった。夜間シフトのある日で、病院に着いてから田中主任に「少し体が重い気がする」と伝えた。田中主任は安子の顔を見て、額に手を当てた。熱はないようだった。「無理しないでください。今夜は廊下の簡単なところだけにしておきましょう」と田中主任は言った。帰り道、体が重いというより、前に進む理由を体が探しているような感覚だった。
翌朝、目が覚めると秀夫が早く起きていて、台所から音がしていた。出ていくと、秀夫がご飯を炊いていた。「体の具合が悪そうだったから。横になっていろ」と秀夫は言った。しばらくすると、テーブルの上に、ご飯と温め直した味噌汁と昨日の残りの煮物が並んでいた。秀夫が作ったとは言っても、ご飯を炊いて残り物を温め直しただけだった。でも、並んでいた。二人で食べた。静かな朝だった。セミの声が昨日より少し多い気がした。
食器を洗いながら、安子は今朝の光景を思い返していた。そして、その日の午後、久しぶりに押入れを整理しようという気持ちになった。奥のダンボール箱を引き出し、あの茶封筒を取り出した。中身を確認すると、数字はまだそこにあった。22万7000円。安子はその紙をもう一度、丁寧に読んだ。以前に読んだ時とは少し違う目で読んでいた。以前はこの数字が全部自分にのしかかってくるものとして読んでいた。でも今日は少し違った。まだ解決したわけではない。でも、秀夫のハローワークの登録証が台所の棚にあり、時計の返金の話があり、定期を崩すという言葉があった。まだ何も終わっていないが、1か月前とは少し違う場所に立っていた。安子は通知書を折り直し、茶封筒に戻した。今度は押入れの奥ではなく、台所の引き出しに入れた。見えるところに置いた。
夕方、秀夫が帰ってきた。手にコンビニの袋を持っていた。中にプリンが2個入っていた。「安子の分も買ってきた。体の具合が悪そうだったから」と秀夫は言った。安子はしばらくその袋を見つめ、「ありがとうございます」と言った。夕食の後、二人でプリンを食べた。テレビをつけずに食べた。プリンはコンビニで売っているごく普通のもので、特別に美味しいわけでも高級なわけでもなかった。でも、一口食べて、安子は少しだけ目が暑くなった。泣いたわけではなかった。ただ、少しだけ暑くなった。それだけだった。
片付けをしていると、秀夫が台所に来て「皿を拭こうか」と言った。安子は少し驚いたが、「お願いします」と言ってタオルを渡した。秀夫はぎこちなくタオルを受け取り、洗い終わった皿を拭き始めた。拭き方は少し雑だったが、安子は何も言わなかった。二人で台所に立って、洗い物をした。それが何かを解決したわけではなかった。追加徴収の金額は変わっていない。カードの超分もまだ口座に戻っていない。明日も、来月も、同じように数字を数えながら生きていく日が続くことは変わらなかった。でも今夜だけは、二人で台所に立っていた。それだけが今夜の確かなことだった。
リビングに戻ると、秀夫がソファに座って少し居眠りをし始めた。安子は窓の近くの椅子に座り、外を見た。夜の中庭に、街灯が一本オレンジ色の光を落としていた。その光の周りを、小さな虫がぐるぐると飛んでいた。遠くで電車の音が聞こえた。最終電車に近い時間の電車だと思った。乗っている人たちは、今日もそれぞれの重さを持ってどこかへ向かっているのだろう。音が遠ざかり、静かになった。ソファで秀夫の寝息が聞こえ始めた。安子は立ち上がって毛布を一枚持ってきて、秀夫の肩にかけた。それから電気を少し暗くし、自分も椅子に戻った。窓の外の街灯の光は、変わらずそこにあった。何かが終わったわけではない。何かが始まったとも言いきれない。ただ今夜だけは、ここにいることがそれほど苦しくなかった。それだけで、今夜は十分だった。安子は目を閉じなかった。ただそこに座って、夜の中庭を見ていた。



