「ねえ、母さん。言い忘れてたんだけどさ。」
電話の向こうから聞こえてきた息子の軽い声に、私は嫌な予感がした。久しぶりの電話なのに、その口調があまりにも軽すぎた。
「何を言い忘れたの?」
「娘が生まれたんだ。もう3日前になるかな。」
私の手からスマートフォンが滑り落ちそうになった。初孫が生まれた。3日前に。しかも「言い忘れた」だと?
声が震えるのが自分でもわかった。
「言い忘れた?初孫の誕生を3日間も言い忘れるってどういうこと?」
36年間、助産師として2000人以上の赤ちゃんを取り上げてきた。命の誕生がどれほど特別な瞬間か、誰よりも知っている。なのに実の孫の誕生を、まるで買い物リストの1項目のように後回しにされた。
「バタバタしててさ。エリナの実家の人たちが来ててさ。あ、そうだ。お祝い金なんだけど、30万円くらいが相場らしいから振り込んでおいて。」
私の中で何かが音を立てて崩れていった。孫の様子は?名前は?写真は?そういうことは一切聞かれず、ただお金の話だけ。
「お祝い金の話より先に、言うことがあるんじゃないの?」
「名前はいろは。色どる派って書いて、いろはって読むんだ。じゃ、また。」
電話は切れた。何も言えなかった。私はしばらく切れた電話を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
夫に話すと、夫も信じられない様子だった。
「なんだって?俺も聞いてないぞ。俺たちにとって初孫だろう。なんで黙ってたんだ?」
私たち夫婦は顔を見合わせた。どちらも同じ気持ちだった。裏切られたような、寂しいような、やりきれない思い。
ふと思い立って、私はSNSを開いた。エリナのアカウントは非公開だったが、エリナの母親のアカウントは公開されていた。そこには信じられない投稿があった。
「誕生♡みんなで立ち合えて感動でした。いろはちゃん、3200gの元気な女の子。娘夫婦を家族みんなでサポートできて幸せです。」
写真には、病室で赤ちゃんを囲むエリナの家族全員の笑顔。まるでこれが本当の家族だと言わんばかりに。
私は震える手で、これまでの通帳を取り出した。息子夫婦への援助の記録が、全て残っていた。
結婚資金として300万円。その時、息子は満面の笑みで言った。「母さんのおかげで式が挙げられるよ」と。マイホームの頭金500万円。エリナも一緒に頭を下げて、「お母さん、本当にありがとうございます」と涙を流していた。そして毎月5万円の生活援助。もう7年間、1度も欠かさず振り込んできた。計算すると420万円。合計1220万円。
私たち夫婦の老後資金を削って、息子夫婦の幸せを願って送り続けたお金。これだけ支えてきたのに、だった。
涙がこぼれそうになった時、電話が鳴った。信吾からだった。
「母さん、さっきの電話の続きなんだけど。」
「なんでそんな冷たい声なの?」
「初孫の誕生を3日間も知らせないで。冷たいのはどっちかしら?」
「だから言ったじゃん。バタバタしてたんだって。」
電話の向こうで、エリナの声が聞こえた。
「信吾、誰と電話してるの?」
「母さんだよ。」
「ああ、お母さんね。お祝い金の話はした?今してるところ。」
そして、はっきり聞こえた。
「お母さんには後でいいわよ。どうせお金だけ出してくれればいいんだから。」
私の手が震えた。お金だけ。私たちはお金を出すだけの存在。
「エリナ、声が聞こえてるわよ。」
信吾の慌てた声がしたが、もう遅かった。
「もういいわ。私は電話を切った。」
すぐにLINEが来た。
「母さん、誤解だよ。」
「エリナも悪気はなかったんだ。」
誤解?悪気がない?あの言葉のどこに誤解の余地がある?
続けてメッセージが来た。
「それより、お祝い金の件よろしく。相場を調べたら30万円だった。エリナの実家は100万円包んでくれたよ。」
100万円。そして私たちには30万円の要求。しかも「それより」という言葉。謝罪よりもお金の話が優先。
夫が私の肩に手を置いた。
「かずえ、信吾たちは変わってしまったんだ。」
私は過去を思い出していた。3年前、信吾が結婚する時に言った言葉。
「いつか子供が生まれたら、母さんが最初に孫を抱いてよ。だって母さんは命の専門家だから。きっと上手に抱っこしてくれるでしょう?」
エリナも言っていた。「お母さんは助産師さんだから心強いです。色々教えてくださいね。」
全部嘘だったのか?いや、最初は本当だったのかもしれない。でも、お金を受け取ることが当たり前になって、感謝の気持ちが薄れていったのだろう。
再びSNSを見ると、エリナの母親の投稿が続々とアップされていた。
「エリナも頑張りました。うちの家族みんなで支えています。本当の家族の絆を感じる瞬間。」
本当の家族。その言葉が胸に刺さった。じゃあ私たちは偽物の家族なの?
義母のSNSのコメント欄には、親戚や友人からの祝福のメッセージが並んでいた。その中に見覚えのある名前があった。私の妹だった。
「おめでとうございます。」
妹も知っていた。信吾は私の妹にも知らせていたのに、実の母親には知らせなかった。
「かずえ、もう十分じゃないか。」
夫の言葉に、私は頷いた。私は家族じゃなくて、ただのATMだったのね。
翌朝、信吾から新たなLINEが届いていた。
「母さん、お祝い金の件、早めに頼むね。それともう1つ相談があるんだけど。」
相談?今更何を相談するというのだろう。続きを読んで、私は息を飲んだ。
「いろはの学資保険を始めたいんだ。月3万円でお願いできる?エリナの実家も同額出してくれるって。」
月3万円、年間36万円、18年間で648万円。今までの援助に加えて、さらにこれだけの金額を要求してくる。しかも「お願いできる?」という軽い調子。
「あといろはの洋服とベビー用品。エリナの実家がブランド物を揃えてくれたんだ。うちからも何か買ってもらえる?10万円分くらいでいいから。」
「10万円分くらいでいいから。」この言葉の軽さに、私の怒りは頂点に達した。
夫に話すと、温厚な夫も顔を真っ赤にした。
「なんだと。孫の誕生を知らされるのも待ったなしだったのに、そんな金の無心か。」
もう一度エリナの母親のSNSを確認すると、新しい投稿があった。
「娘夫婦と初孫を囲んで幸せな時間。信吾君も本当にうちの子供みたい。これが本当の家族ってものよね。」
コメント欄には、さらに衝撃的な内容があった。
「信吾君のご実家は遠方なのかしら?」というコメントに対する返信。
「いえいえ、来るまで30分の距離ですよ。でもお忙しいみたいで。」
私たちが忙しくて行けないことになっている。真実は違う。私たちは呼ばれなかった。存在を言い忘れられたのだ。
さらにスクロールすると、妊娠中の投稿もあった。8ヶ月前の日付。
「娘の妊娠が分かりました。初孫です。家族みんなで大切に見守っていきます。」
エリナの実家は妊娠当初から知っていた。「家族みんなで」書いている。私たちはその「みんな」に入っていなかった。
私は過去のLINEを遡った。この8ヶ月間、妊娠の報告は一切なかった。それなのに、いつも通りの金銭の無心は続いていた。車の車検代が高くて15万円振り込んで。固定資産税の支払いで20万円必要。エリナの実家との付き合いでお金がかかるから援助して。
妊娠を隠しながら、お金だけは要求し続けていた。私たちは孫ができたことも知らずに、ただお金を送り続けていた。
信吾からまたLINEが届いた。
「そういえばお宮参りは来月だから、エリナの実家と一緒にやるけど、母さんたちは都合が会えば来てもいいよ。」
都合が会えば来てもいいよ。まるでついでのような扱い。お宮参りという大切な行事に、「都合が会えば」という表現。
さらに衝撃的なLINEが届いた。信吾からではなく、エリナからだった。初めての直接のメッセージ。
「お母さん、信吾から聞きました。お祝い金と学資保険の件、よろしくお願いします。私の実家は本当に良くしてくれて、100万円のお祝いは他に、ベビーカーもチャイルドシートも全部買ってくれました。お母さんたちも負けないくらいお願いしますね。」
「負けないくらい」まるで競争のような言い方。そして、一言も謝罪はない。妊娠を知らせなかったことも、出産を言い忘れたことも。
私は静かに立ち上がった。もう決めていた。
「かずえ、大丈夫か?」
「大丈夫。むしろ今、とてもはっきりしたわ。」
36年間、他人の赤ちゃんを取り上げ、家族の喜びを分かち合ってきた。でも実の息子は、私をその喜びから完全に除外した。「言い忘れた」という一言で片付けられる程度の存在。お金だけ出していればいい存在。妊娠も知らされず、ただATMとして機能していればいい。それが息子夫婦にとっての私だった。
「もう十分よ。私も言い忘れることにするわ。援助のことを。」
夫が頷いた。
「そうだな。俺たちにも自分の人生がある。孫の顔も見られない。妊娠すら教えてもらえなかった。祖父母がなぜ、お金だけ出し続けなければならないのか。答えは簡単だ。その必要はない。全くない。」
その日の午後、私は銀行へ向かった。足取りは軽く、迷いはなかった。
窓口の女性が笑顔で迎えてくれた。
「宮原様、いつもありがとうございます。今日はどのようなご要件でしょうか?」
「定期預金の解約と、自動送金の停止をお願いします。」
担当者は少し驚いた様子を見せた。
「自動送金は毎月5万円を7年間続けていらっしゃいますね。本当に停止されますか?」
「はい、お願いします。」
手続きをしながら担当者が言った。
「差し支えなければ、息子さんへの送金でしたよね。何かありましたか?」
私は静かに微笑んだ。
「息子に初孫が生まれたんです。」
「まあ、おめでとうございます。」
「でも生まれて3日後に『言い忘れてた』と連絡が来たんです。だから私も援助のことを言い忘れることにしました。」
担当者の表情が凍りついた。
「それは…ひどいですね。」
手続きが済み、私は通帳を確認した。7年間で420万円。結婚資金300万円、マイホーム頭金500万円。合計1220万円。これだけの金額を援助してきて、帰ってきたのは「言い忘れた」という言葉だった。
銀行を出ると、夫から電話があった。
「かずえ、俺も決めたよ。信吾名義の生命保険を解約する。受け取り人も変更だ。」
「あなたも?」
「当たり前だ。初孫の報告を言い忘れた息子に、財産を残す必要はない。」
夫の言葉に、私は救われた気がした。
家に戻ると、スマートフォンでLINEを開いた。信吾とエリナからのメッセージが並んでいる。お金の催促ばかり。私は短く返信した。
「お祝い金30万円は振り込みました。これが最後の援助です。」
すぐに既読がついた。そして信吾から電話がかかってきた。
「母さん、『最後』ってどういう意味?」
「文字通りの意味よ。」
「え、ちょっと待ってよ。学資保険は?毎月の援助は?」
私は深呼吸をして、静かに言った。
「信吾、あなたに言い忘れてたことがあるの。私も言い忘れてたわ。もう援助はしないって。」
「それとこれとは話が違うでしょ。」
「違わないわ。孫の誕生を言い忘れるような間柄に、お金を出す必要はないもの。」
電話の向こうで、信吾がエリナに何か説明している声が聞こえた。そしてエリナの怒った声。
「なんで説得できないの?お金がないと生活できないじゃない。」
その言葉を聞いて、私は確信した。やはり私たちはただの金づるだった。
「母さん、とにかく1回会って話そうよ。」
「8ヶ月間も妊娠を隠して、出産も知らせなかったのに、今更?それに、いろはちゃんの顔も見せてもらえない。祖母がなぜお金だけ出さなきゃいけないの?」
信吾は言葉に詰まった。
「でも、家族だろ。」
「家族?エリナさんのお母様のSNSには『本当の家族』って書いてあったわ。私たちは本当の家族じゃないのね。」
「母さん…」
「お祝い金は振り込んだわ。じゃあね。」
私は電話を切った。すぐにまた着信があったが、出なかった。
夕方、私は36年間勤めた病院の同僚に会った。定年まであと2年だが、今も現役で働いている。
「かずえさん、初孫が生まれたって聞いたわよ。」
「えぇ。でも、複雑なの。」
事情を話すと、同僚は憤慨した。
「信じられない。かずえさんがどれだけ息子さんに尽くしてきたか、私たち皆知ってるのに。」
「でも、これで良かったのかもしれない。自分の人生を取り戻すきっかけになったから。」
その夜、夫と2人で今後の計画を立てた。
「月5万円の援助がなくなれば、年間60万円。それだけあれば旅行にも行けるな。」
「温泉にも行きたいわね。かずえの好きな陶芸教室にも通えるだろう。」
私たちは久しぶりに自分の未来について語り合った。息子夫婦への援助に追われて、忘れていた夫婦の時間だった。
寝る前、最後にLINEを確認すると、信吾から20件以上のメッセージが来ていた。
「母さん、本気?生活できなくなる。」
「いろはのためにも考え直して。」
「エリナも謝るから。」
最後のメッセージは脅しのようだった。
「このままだと、本当に縁を切ることになるよ。」
私は静かに返信した。
「縁を切る?もう切られてたじゃない。妊娠も出産も知らせない。それが縁を切るってことでしょう。」
既読はついたが、返信はなかった。私はスマートフォンの電源を切った。
1ヶ月後の朝、夫の携帯電話が鳴った。信吾からだった。
「お父さん、母さんが電話に出ないんだ。振り込みもされてない。どうなってるの?」
夫はスピーカーにして、私にも聞こえるようにした。
「信吾、お前が言い忘れたからだろう。」
「それとお金は関係ないでしょ。来月のローンが払えないんだよ。」
「ローン?自分たちの収入で払えないローンを組んだのか。」
「母さんの援助があるから組んだんだよ。」
夫の声が冷たくなった。
「初孫の誕生を言い忘れる息子に、援助を続ける親はいない。お父さんまで?お前たちが選んだんだ。俺たちを家族から除外することを。」
電話が切れた。
その日の午後、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、エリナが赤ちゃんを抱いて立っていた。生まれて初めて見る孫の顔。でも、私の心は覚めていた。
「お母さん、お願いします。」
エリナの目は必死だった。
「せめていろはの顔を見てください。可愛いでしょう?」
確かに可愛い赤ちゃんだった。でも、今更だった。
「なぜ私たちに何の報告もしてくれなかったの?」
「すみません。本当にすみません。」
「何を謝ってるの?妊娠を8ヶ月間隠してたこと?出産を知らせなかったこと?それとも『お金だけ出してくれればいい』って言ったこと?」
エリナの顔が青ざめた。
「あれ、聞こえてたんですか?」
「全部聞こえてたわ。」
「本心じゃないんです。つい口が滑って…」
「口が滑って出る言葉こそ、本心でしょう。」
エリナは泣き始めた。赤ちゃんも泣き出した。
「お母さん、お願いします。実家も援助できないんです。年金生活で余裕がなくて。」
「100万円のお祝いは、意見をくれたんじゃなかったの?」
「あれは…見栄を張った嘘なんです。実際は10万円で…」
嘘の上塗り。どこまで私たちを馬鹿にするのだろう。
「もう帰って。いろはちゃんには罪はないけど、あなたたち夫婦とは関わりたくない。」
私はドアを閉めた。エリナの鳴き声が聞こえたが、心は動かなかった。
その夜、信吾が1人でやってきた。
「母さん、話を聞いてくれ。」
「玄関先でなら。」
私は家には上げなかった。
「母さん、本当に困ってるんだ。来月からローンが払えない。」
「自分たちの収入で払える家を買えばよかったのよ。」
「母さんの援助があると思ったから…」
「私の援助に依存して生活設計をしたの。それがそもそもの間違いよ。」
信吾は頭を下げた。
「謝るから。お願いだから援助再開して。」
「謝る?何を?妊娠を隠してたこと?出産を知らせなかったこと?」
「え…」
「なぜ隠してたの?」
信吾は口ごもった。
「エリナが…母さんには内緒にしてって。」
「理由は?」
「エリナのお母さんが『まだ教えない方がいい』って…。それにお金の無心ばかりで気まずくて…。でも生まれたら報告しようと思ってて…それで言い忘れた。」
信吾は黙った。
「信吾、あなた覚えてる?結婚式の時、なんて言った?『母さんには真っ先に孫を合わせたい』って言ったわよね。覚えてる?」
「…あれは本心だった。」
「過去形ね。今は思ってないのね。」
信吾の目から涙がこぼれた。
「母さん、俺が悪かった。でも、このままじゃ本当に家を失う。」
「それはあなたたちの問題よ。」
「母さんは助産師だろ。命を大切にする仕事だろ。いろはの未来を考えてくれよ。」
私は怒りが込み上げてきた。
「命を大切に?36年間、私は他人の赤ちゃんの誕生に立ち合ってきた。でも実の孫の誕生は知らされなかった。それなのに、今更『命を大切に』なんて言わないで。」
「母さん…」
「1220万円。これまでの援助総額よ。このお金があれば、小さい家なら買えたわ。」
「そんな…計算ばかり…」
「事実よ。この金額に見合う感謝や思いやりを、1度でも感じたことある?」
信吾は答えられなかった。
「帰りなさい。もう遅いから。」
「待ってよ、母さん。」
私は玄関のドアを閉めた。鍵をかける音が、静かな夜に響いた。
翌日、私のSNSにエリナの母親から友達申請が来ていた。承認すると、すぐにメッセージが届いた。
「娘夫婦がお世話になっています。1度お会いできませんか?」
私は返信した。
「お断りします。私たちは『本当の家族』ではないようですから。」
すぐに返信が来た。
「あの投稿のことですか?あれは…」
「言い訳は結構です。あなたは8ヶ月間、娘の妊娠を知っていた。私たちには知らせないように言ったのは、あなたでしょう。」
「そんなこと…」
「信吾から聞きました。『お母さんがまだ教えない方がいいって』と。」
もう返信はなかった。
1週間後、信吾から最後のLINEが来た。
「家を手放すことになった。エリナの実家に引っ越す。もう連絡しない。」
私は返信した。
「そう。元気でね。」
既読はついたが、返信はなかった。
夫が私の肩を抱いた。
「かずえ、これで良かったんだ。」
「えぇ、分かってる。」
「俺たちには、俺たちの人生がある。」
36年前、信吾を産んだ時、私は幸せの絶頂にいた。小さな我が子を胸に抱いて、この子のためなら何でもすると誓った。でも、親の愛情は無限ではない。一方通行の愛情には限界がある。感謝も敬意も愛情もない相手に与え続けることはできない。
「言い忘れた。」その一言が全てを終わらせた。でも、それは同時に私の新しい人生の始まりでもあった。
3ヶ月が過ぎた。私の生活は驚くほど変わっていた。月末になって援助金の工面を心配することもない。その代わりに、私は自分のための時間を過ごしていた。
「かずえ、今日は陶芸教室だろう。」夫が朝食を準備しながら言った。最近、夫も料理を手伝ってくれるようになった。
「えぇ、今日は花瓶を作るの。玄関に飾りたくて。」
「いいね。俺も今日はゴルフの打ちっぱなしに行くよ。」
月5万円の援助がなくなって、私たちの生活に余裕が生まれた。金銭的にも、精神的にも。
陶芸教室で講師の先生が言った。
「宮原さん、最近作品に勢いが出てきましたね。何かいいことがありましたか?」
「えぇ、自分の人生を取り戻したんです。」
「素敵ですね。作品にもその喜びが現れています。」
土をこねながら、私は思った。36年間、命を取り上げる仕事をしてきた。でも今は、土から新しい作品を生み出している。これも1つの創造だ。
ある日、病院の元同僚とランチをした。
「かずえさん、本当に綺麗になったわね。」
「そう?」
「顔色もいいし、笑顔が増えた。」
「重荷を下ろしたからかしら。」
皆、事情を知っていた。
「息子さん、まだ連絡ないの?」
「ないわ。でも、それでいいの。」
「強いわね。」
「強いんじゃない。ただ、自分を大切にすることを覚えただけ。」
その日の夕方、スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。
「もしもし。」
「あの…宮原かずえさんですか?」
若い女性の声だった。
「はい。そうですが…」
「私、エリナの妹の美咲と申します。」
エリナの妹?何の用だろう。
「姉夫婦のことで、お詫びとご報告があって…」
「お詫び?」
「はい。姉たちが実家に転がり込んできて、全て白状しました。ひどい話です。私からも謝らせてください。」
「あなたが謝ることじゃないわ。」
「でも、許せなくて。実は…母も姉たちの共犯だったんです。」
「共犯?」
「はい。母は最初から『かずえさんたちには妊娠のことを知らせない方がいい』と言っていたそうです。『お金だけもらっておけばいい』って。」
私は息を飲んだ。
「それで母は『信吾君の実家は忙しくて』って書いていましたが、本当は知らせるなと姉に指示していたんです。でも姉夫婦がお金に困ってかずえさんに泣きついたら、援助を切られたと。」
「そうだったの。」
「母は最初、姉たちが勝手にやったことだと言い張っていました。でも姉が『お母さんが知らせない方が言ったじゃない』と暴露して…」
エリナの妹は続けた。
「父が激怒しています。『妻も娘も人として最低だ』って。」
「お父様は知らなかったのね。」
「はい。父はかずえさんたちにも会いたがっていたそうです。でも母と姉が結託して阻止していたみたいで。」
「そう…。」
「今、姉夫婦は実家からも追い出されそうです。父が『金の亡者には家にいる資格はない』って。」
「大変ね。」
「かずえさん、1つお願いがあります。」
「何かしら。」
「いろはちゃんには罪がないので、もしかしたらいつか会ってあげてください。姉夫婦とは関わらなくていいので。」
「…考えてみるわ。」
「ありがとうございます。それと、父がかずえさんに直接謝罪したいと言っています。」
「それは結構よ。もう終わったことだから。」
「分かりました。本当にすみませんでした。」
電話が切れた。夫に報告すると、複雑な表情を見せた。
「お母さんまで共犯だったのか。」
「えぇ。最初から嵌められていたのね。」
「でも、これで真実が明らかになった。因果応報だ。」
私たちはしばらく黙っていた。
1週間後、病院から連絡があった。
「宮原さん、実は相談があって…」看護部長からだった。
「若い助産師の指導をお願いできませんか?非常勤でいいので。」
「指導?」
「宮原さんの経験を、次の世代に伝えて欲しいんです。」
私は少し考えて、引き受けることにした。
初日、若い助産師たちが目を輝かせて聞いてくれた。
「宮原先生、2000人以上も取り上げたんですか?」
「えぇ。1人1人が特別な瞬間だったわ。」
「私たちも宮原さんみたいな助産師になりたいです。」
その言葉に、私は新しい生きがいを感じた。実の息子には必要とされなかったけど、ここには私を必要としてくれる人たちがいる。
夫も充実した日々を送っていた。
「かずえ、来月の旅行の予約したぞ。温泉宿だ。」
「まあ、楽しみ。」
「結婚35周年記念だからな。奮発したよ。」
35年。長かったような、あっという間だったような。
「これからは、俺たちの時間を大切にしよう。」
夫の言葉に、私は頷いた。
そんなある日、スーパーで偶然信吾に会った。いろはを抱いた信吾はやつれていた。
「母さん、元気にしてた?」
「なんとかね。」
私はいろはを見た。可愛い女の子だった。でも、私の心は動かなかった。
「いろはちゃんも大きくなったわね。」
「うん。もう6ヶ月。」
気まずい沈黙が流れた。
「母さん、あの時は本当にごめん。」
「もういいわ。」
「エリナとは…離婚することになった。」
私は驚いたが、表情には出さなかった。
「そう。」
「お金のことで喧嘩ばかりで…。エリナの実家も俺たちを追い出して…。」
「大変ね。」
「お母さんも共犯だったって、エリナが暴露したんだ。それでお父さんが激怒して…。」
「知ってるわ。美咲さんから連絡があったから。」
信吾は驚いた。
「みさきちゃんが…」
「えぇ。信吾、私はもう前に進んでいるの。あなたも前を向いていきなさい。」
「でも…いろはには会ってほしい。」
「いつか機会があればね。」
私はそう言って、その場を離れた。振り返らなかった。
家に帰ると、夫が待っていた。
「どうした?顔色が悪いぞ。」
事情を話すと、夫は私を抱きしめてくれた。
「辛かったな。」
「うん。でも大丈夫。私の選択は間違ってなかった。」
夕食の時、夫が言った。
「かずえ、俺たちは幸せだよな。」
「えぇ。本当に。」
「金では買えない幸せがある。」
「そうね。自分を大切にしてくれる人と過ごす時間。それが1番の幸せ。」
私は今、心から思う。「言い忘れた」という言葉が私の人生を変えた。あの屈辱的な瞬間がなければ、私は今も息子夫婦のATMを続けていただろう。自分の人生を犠牲にして、感謝もされない援助を続けていただろう。
でも今は違う。私には私の人生がある。夫との穏やかな時間、新しい趣味、若い世代への技術の継承。全てが充実している。
36年間の助産師人生で学んだこと。それは、命の誕生は奇跡だということ。でも、もう1つ学んだことがある。自分の人生も同じくらい大切だということ。親だからと言って無限に与える必要はない。感謝のない相手に尽くし続ける必要はない。自分を大切にすることは、決して悪いことではない。
初孫の誕生を言い忘れた息子。お金だけ出してくれればいいと言った嫁。彼らが私に教えてくれたのは、本当の家族の意味だった。本当の家族とは、お金で繋がるものではない。心で繋がり、互いを尊重し合うもの。それがなければ、血が繋がっていても他人同士。
私は今、本当に自由だ。心も時間もお金も、全て自分のために使える。これが本当の幸せというものかもしれない。いろはには、いつか会うかもしれない。でもそれは私が決めること。義務でも責任でもない。私の意思で、私のタイミングで。
「言い忘れた」から始まった物語。でも、終わりは新しい始まり。私の第2の人生は、今輝いている。



