61歳の誕生日の夜、黒川竜平は手に汗を握りながら、スマートフォンの銀行アプリをじっと見つめていた。残高表示の数字は、何度確認しても変わらなかった。普通預金は42万円。住宅ローンの残債は3200万円を超えている。それなのに、この日まで竜平は気づかないふりをしてきた。いや、正確には、見ないようにしてきたのだ。
スーツをまとい、部下を引き、誰の目にも成功者と映っていた男。その男が、どのようにして自らの虚像に足をすくわれていったのか。ここにその全貌を記す。
26年6月、東京・港区の高層マンション17階。朝5時半、竜平は決まってランニングウェアに着替え、外に出た。5kmのコースを、呼吸を乱さずに走る。60歳を超えても、体だけは若い頃と変わらなかった。むしろ、意識して鍛え続けてきた分、同年代の男たちよりよほど引き締まっていると自負していた。
走り終えると熱いシャワーを浴び、丁寧に制毛量を馴染ませた黒髪を整えた。白髪は一本も見当たらなかった。それは染毛のおかげだったが、竜平はそのことを誰にも言わなかった。妻の千鶴にさえも。
朝食はトースト1枚とブラックコーヒー。クローゼットには、青山の仕立て屋で作った7着のビスポークスーツが並んでいた。竜平はその日の気分と天気を見て、どれを選ぶかを考える。それだけで5分かかった。服に費やすこの時間が、彼にとっては一種の儀式だった。
会社は中堅の放送資材メーカー「太陽パッケージ」。本社は大阪にあり、竜平が率いる東京支社は、取引先への営業と物流管理が主な業務だった。部下は14名。「支社長」という肩書きは、竜平にとって単なる職名ではなかった。それは自分がこれまで積み上げてきた全ての証明だった。
しかし2026年の春頃から、フロアの空気はどこか違っていた。円安と物価上昇が続き、取引先の中小企業は発注を減らし、売上は前年比で11%落ちていた。本社からは月に一度、数字の改善を求めるメールが届く。竜平は勤めて泰然とした顔を保った。部下の前では難しい顔を見せてはならない。それが自分のルールだった。
接待費の予算はすでに上限に張り付いていたが、竜平は自腹で差額を埋めることもあった。その自腹が、少しずつ首を締めていた。
2026年6月、竜平は61歳になった。妻の千鶴が小さなケーキを用意してくれたが、竜平の頭の中はすでに別のことでいっぱいだった。深夜1時を過ぎた頃、千鶴が寝室に引いた後、竜平はリビングに一人残り、月に一度だけ確認すると決めていた銀行口座を開いた。普段は見ないようにしていた。見てしまうと気持ちが萎えてしまうと分かっていたから。
数字を見た瞬間、竜平は息を止めた。支出を全て合計すると、毎月3万円から5万円のマイナスになっていた。それをカードのリボ払いでごまかしてきた。今年の7月に定年退職を迎えれば給与は止まる。再雇用の契約は会社側から打診されていたが、給与は現在の3分の1以下になる。年金の受給開始は65歳。その4年間をどう乗り切るか、竜平はまともに考えたことがなかった。正確には、考えようとしなかった。
その夜から竜平は眠れなくなった。日中は変わらず支社長として振る舞った。だが、昼休みにトイレの個室に入ると、壁に背をもたれ、目を閉じた。頭の中では数字だけが動いていた。足りない。どうやっても足りない。
6月下旬のある夜、竜平はプライベート用の古いスマートフォンを引き出しの奥から取り出し、ある名前を検索した。宮島誠治。10年前、大阪本社に務めていた同期の男だった。仕事はできたが、上司への媚び方が不器用で、役員との確執から左遷され、最終的には会社を去った。竜平は当時、その経緯を聞かされながら、内心では「うまくやれなかった側の話」だと思っていた。
検索を続けると、物流系の会社のウェブサイトが引っかかった。代表者の名前のところに「宮島誠治」とあった。
翌日、竜平は古い名刺に印刷された携帯番号にメッセージを送った。10年ぶりの突然の連絡であることを詫びながら、「近いうちに一度会いたい」とだけ書いた。その夜、返信が来た。短い文だった。「いいですよ。来週の水曜日、浜松町でどうですか?」
水曜日の夜、浜松町の居酒屋。宮島はユニクロのグレーのTシャツに、無地のノーアイロンスラックス、靴はスニーカーという姿で現れた。10年で体格がっしりしていたが、顔の印象は記憶の中よりも穏やかになっていた。緊張した様子がまるでない。
料理が届き、会話が一度途切れた時、宮島が静かに言った。「突然連絡してくるからには、何かあったんでしょう。」
竜平は否定しようとしたが、宮島の目がそういう言い訳を受け付けない落ち着きを持っていた。竜平は言葉を飲み込み、低い声で言った。「資金の流れが、少し苦しくなっている。」
竜平は言葉を選びながら話した。定年まであと少しだということ。再雇用の条件が想定より悪いこと。ローンがまだ残っていること。金額の具体的な数字は出さなかった。プライドがそれを許さなかった。
宮島は最後まで聞いてから、一口飲んで言った。「それは全部、誰のためにやってきたんですか?」
竜平は答えに詰まった。宮島はそれ以上は掘り下げなかった。ただ「何か方法を探しているなら、選択肢はある。すぐに答えを出さなくていい。次に会う時に聞かせて欲しい」と言って、財布から現金を出し始めた。竜平が反射的に自分が払うと言うと、宮島は少し笑い、「でも半分は出させてください」と言って、使い込まれた旧札を2枚テーブルに置いた。竜平はその紙幣を見た。宮島の財布の厚みは、竜平のそれとは比較にならなかった。
翌朝、竜平は会社に行く前に駐車場に寄った。そこには黒いドイツ車がとまっていた。月々のリース料が7万8000円だった。ハンドルを握りながら、ふと思った。この車に乗る時、自分は誰を意識しているのか。その日の午後、会議が終わった後、竜平は一人で会議室に残り、窓の外を見た。東京のビル群が夕方の光を受けていた。外から見れば、自分は立派な部屋に立派なスーツで立つ支社長に見えるはずだった。そのギャップが、初めてひどく恥ずかしいものに感じられた。
翌週の火曜日、宮島から「ランチでもどうですか?」とメッセージが届いた。せかしてもいない。ただ扉を開けておくという意思表示だった。竜平は迷った。宮島に会うということは、助けを求めるということだった。30年以上、誰かに助けを求めた記憶がなかった。それは、スーツの下の自分を丸裸にされるような感覚だった。だが、竜平は短く返信した。「来週の火曜日でお願いします。」送信ボタンを押した瞬間、何かが小さく動いた気がした。
翌週の火曜日、新橋の路地裏にある定食屋。宮島が指定した店だった。のれんに「日替わり定食 800円」と書かれた紙が貼られていた。竜平は一瞬、場所を間違えたかと思った。店内は狭く、テーブルが4つ。カウンターに6席。昼時で満席に近く、スーツ姿の会社員たちがそれぞれ黙々と箸を動かしていた。竜平は自分のスーツが油の匂いを吸ってしまわないか、一瞬心配した。
宮島はカウンターの端に座っていた。今日もTシャツだった。竜平が近づくと、宮島は振り向いて軽く顎で隣の席を示した。「どうぞ」とだけ言った。
宮島が先に口を開いた。「先週の話、もう少し聞かせてもらえますか。具体的な数字でいいですよ。」竜平は低い声で話した。住宅ローンの残債がおよそ3200万円であること。毎月の返済と生活費を合わせると手取りをわずかに上回る支出になっていること。カードのリボ払いの残高が110万円を超えていること。話しながら、竜平は自分の声が思ったより安定していることに気づいた。
宮島は最後まで黙って聞き、それからようやく竜平の方を向いた。「それで今すぐ収入を増やしたいのか、それとも支出を減らす方法を探しているのか、どちらですか?」
竜平は「両方」と答えた。宮島は小さく笑った。「そりゃそうですね」と言い、箸を置いた。
「聞いてもいいですか。黒川さんが今まで一番時間を使ってきたのは何ですか?」
「仕事」と竜平は答えた。
「もっと具体的に」
竜平は考えた。放送資材の営業、材質の選定、コスト計算、取引先との価格交渉、新素材の調達ルート。30年かけて積み上げてきた知識だった。
それを言うと、宮島は頷いた。「今、環境関連素材の仲介をやっている業者が足りていません。特に、リサイクル対応の放送材を調達したい中堅メーカーは多いが、どこに当たればいいか分からない。逆に素材を持っている側も、買い手が見つからずに困っている。黒川さんはその両方を知っているはずです。ブローカーですよ。買いたい側と売りたい側をつなぐ。差額をもらう。それだけです。会社の外で個人として動く場合、最初は知り合いの紹介から始めるのが一番早い。黒川さんには30年分の業界の顔がある。それは今の会社に帰属しているわけじゃない。黒川さん自身の財産です」
そして、宮島は条件を一つだけ付けた。「今の会社に在籍しているうちはやらないこと。就業規則に副業禁止があるはずだし、競業避止の問題もある。退職してからやる。あるいは退職の目途をつけてから準備する」
竜平はその言葉に、わずかに表情が変わった。退職してから、というのは4年間の空白を認めることだった。宮島はそれを見越したように言った。「でも焦りは禁物です。焦って動いて、変な話に乗るのが一番危ない」
その日の夕方、竜平は一人で駐車場に向かった。黒いドイツ車に乗り込み、エンジンをかけた。翌朝、竜平は出勤前に中古車買い取りの相場を調べた。現在のリース車両を買い取り売却する場合、手元に残る金額はおよそ120万円になるという計算だった。
2日後、竜平は千鶴に「車を変えようと思う」と言った。千鶴は少し間を置いてから「どんな車に?」と聞いた。
「軽にしようと思う」と竜平は言った。千鶴の表情がわずかに変わった。しかし千鶴は追求しなかった。なぜとは聞かなかった。ただ「環境のことを考えてね」と小さく頷いた。その頷き方が、竜平には少し痛かった。
1週間後、竜平は中古車ディーラーで白い軽自動車を現金で買った。走行距離が5万kmを超えた、3年落ちの車だった。ガソリンを満タンにしても、リース車の1回の洗車代より安かった。
6月の終わり、竜平は古いスマートフォンを使って、かつての取引先の担当者に連絡を始めた。会社のメールではなく個人のアドレスから。内容は当たり障りのないものだった。「最近、リサイクル素材の動向が面白いことになっていますね」というような書き出しで始め、「もし情報交換できれば」と結んだ。返信は思ったより早く来た。3通送って、2件から翌日中に返信があった。
7月に入ると、竜平は定年を迎えた。退職後の最初の2週間、竜平は何もしなかった。正確には何もできなかった。毎朝同じ時間に目が覚め、スーツを着ようとして、どこにも行くところがないと気づいた。
3週目に入った頃、竜平は動き始めた。かつての取引先と個人として情報交換を続ける中で、一件の話が浮かんだ。食品メーカーが生フィルムの代替素材を探しているという話だった。竜平にはその素材を扱っている中部地方の中小メーカーに顔があった。竜平は双方に連絡を取り、間に立った。価格交渉に時間はかかったが、最終的に取引が成立した。竜平の取り分は、契約金額の3%だった。振り込まれた金額を確認した時、62万円だった。
最初は純粋な驚きだった。それからすぐに、別の感覚が来た。もっとできる、という感覚だった。竜平はその夜、宮島に短いメッセージを送った。「一件まとまりました」と。宮島からは翌朝、「良かったですね。焦らず続けてください」とだけ帰ってきた。竜平はその返信を読んで、少し物足りなさを感じた。もっと驚いて欲しかった。もっと賞賛されて欲しかった。
8月の第1週、かつての同業者から連絡があった。倉田という男で、以前は別の放送資材メーカーで営業部長をしていたが、数年前に独立していた。メッセージの内容は、あるパーティへの招待だった。業界関係者と投資家が集まる非公式の懇親会で、新しいビジネスの情報交換の場だという説明だった。竜平は最初、気乗りしなかった。しかし、「投資」という言葉が目にとまった。竜平は翌朝、倉田に参加する旨を返信した。
当日の夕方、竜平は久しぶりにノーアイロンのスーツを着て港区まで行った。会場となる店は、外から見ると普通のビルの1階だったが、中に入ると照明が落とされた落ち着いた空間で、革張りのソファが並んでいた。倉田が迎えに来て、すぐに別の男を連れてきた。
「柴田と言います。フィナンシャルアドバイザーをしています」と、30代半ばに見える男は言った。スーツは高かった。顔立ちは整っていて、声はよく通った。
柴田はすぐに話し始めた。「最近、脱炭素関連のプロジェクトへの資金需要が急増していますね。特に南米のバイオマスエネルギー開発は、日本から出た資金の運用先として非常に注目されている」と。柴田の話し方は滑らかで、論理的に聞こえた。「ただし、こういったプロジェクトは参加できる人数に制限がある。今月末に締め切りがある案件があって、月利20%が保証されている。私のお客様の中でも、すでに大手の方が何人か参加されています」
竜平は「月利20%」という言葉を聞いた時、胸の中で何かが反応した。少しだけ警戒する気持ちも来た。しかし、その警戒はすぐに「自分は素人ではない」という感覚に押し流された。30年間ビジネスをしてきた人間だ。詐欺師は分かる、という根拠のない自信があった。
「今夜は何も決めなくていいですよ。ただ、ご興味があれば、来週詳細をお送りします」と言って、柴田はにこやかに別のグループの方へ向かった。
帰り道、軽自動車のシートに座りながら、竜平はああいった場に久しぶりに出ると、自分がまだその世界に属せるような気になると感じていた。帰宅すると、テーブルの上にラップをかけた夕食の皿が置いてあった。竜平はそれを電子レンジで温め、一人で食べた。食べながら柴田の言葉を頭の中で繰り返した。月利20%。1000万円を入れれば毎月200万円、3000万円なら600万円。計算すること自体がおかしいという気持ちもあった。しかし、計算を止められなかった。
翌日の午前中、竜平は宮島にメッセージを送った。「昨夜あるパーティで投資案件の話を聞いた。南米の再生エネルギー関連で月利20%という案件があると聞いた。どう思いますか?」
宮島からの返信は、30分も経たないうちに来た。「やめてください」と書いてあった。一言だけだった。
「なぜですか?」と竜平は返した。宮島の返信はまた短かった。「月利20%が本物なら、その人間は銀行から借りています。銀行の金利は今でも数%です。なぜ彼らは素人から高い金を集める必要があるんですか?」
竜平はその返信を読んだ。論理としては正しかった。しかし、腹のうちでは「でも自分が見た限りでは怪しくなかった」という感覚が残っていた。「もう少し詳細を聞いてみます」と竜平は返した。宮島からの返信はなかった。
3日後、柴田から詳細な資料が添付されたメールが届いた。PDFを開くと、南米のある国のバイオマス発電プロジェクトのスキーム図が載っていた。図表は整っていて、日本語が混在していた。竜平はその資料を1時間ほどかけて読んだ。文書の作りは丁寧で、竜平には判断の根拠がなかった。
翌日、竜平は柴田に会った。銀座の小さなオフィスだった。柴田は資料を使いながら改めて説明した。竜平は質問した。「為替リスクは?」「ヘッジしています」「プロジェクトの実態は確認できますか?」「現地の写真と現地法人の登録書類があります」竜平は書類を眺めた。ポルトガル語で書かれた公的な書類に見えた。「このプロジェクトに参加できる最低金額はいくらですか?」柴田はわずかに間を置いてから「3000万円から受け付けています。ただ、今月末の締め切りに間に合わせるには、今週中にお返事をいただく必要があります」と続けた。
3000万円という数字が、竜平の中で別の数字と重なった。住宅ローンの残債とほぼ同じ額だった。
夜、千鶴が寝てから、竜平はリビングの電気を暗くしてソファに座った。宮島の「やめてください」という言葉が何度も浮かんだ。同時に、柴田の穏やかな声と整った資料も浮かんだ。なぜ宮島の言葉に素直に従えないのか。答えは分かっていた。62万円の仲介報酬では足りない、という感覚があった。それは金額の問題というより、速度の問題だった。このペースで仲介を続けても、ローンを返し終わるのに何年かかるか。もう1つの感情もあった。柴田のあのオフィス、受付の女性、綺麗に製本された資料。そういうものに囲まれた時、竜平は一種の安堵を感じていた。自分がまだその世界の人間として扱われている、という感覚だった。
明け方近く、竜平はスマートフォンを取り出し、柴田のメールに返信を書き始めた。送信ボタンを押してから、竜平は目を閉じた。宮島の返信がなかったことを、もう一度思い出した。
翌週の月曜日、竜平は再び銀座のオフィスを訪れた。今度は竜平の方から質問を用意していた。柴田はにこやかに迎えた。全ての回答に対して、追加の書類や資料が出てきた。竜平にはその書類の中身を精査する専門知識がなかった。しかし、それを認めることが竜平にはできなかった。
最後に柴田は静かに言った。「黒川さんのような業界経験を持つ方が判断されるなら、この案件は非常に相性がいいと思います。エネルギーと流通、両方は知っている人はそう多くない」その一言が、竜平の残っていた抵抗を緩めた。
その日の夕方、竜平はオフィスのデスクで、震える手でボールペンを持った。契約書は5ページあった。最後のページに署名欄があった。竜平はペンを動かし、自分の名前を書いた。字はいつもより強かった。書類を柴田に渡すと、柴田はそれを受け取り、「ありがとうございます」と笑顔で言った。
エレベーターの中でドアが閉まるのを見た。鏡に自分の顔が映った。表情がなかった。銀座の夜の通りに出て、竜平は少しの間立ち止まった。いつの間にか、また雨が降り始めていた。軽自動車に乗り込み、エンジンをかけた。自分が何をしたのか、やっと静かに考えた。しかし、考えてももう戻れないという感覚だけが来た。戻れないのなら、進むしかない。アクセルを踏んだ。
8月に入ると、竜平の一日は決まったリズムを持つようになった。朝5時半に起き、走り、シャワーを浴びる。変わったのはその後だった。朝食を食べながら、竜平は2台のスマートフォンを交互に確認した。1台は千鶴も番号を知っているメインの端末。もう1台は引き出しの奥に隠してあった古い端末で、仲介の連絡と柴田とのやり取りに使っていた。
午前中は仲介の連絡に費やした。30年積み上げたものは体に染み込んでいた。午後になると、柴田から送られてくる経過報告のメールを読み、内容を理解しようとした。グラフが添付されていた。竜平にはその数字が本物かどうかを確かめる手段がなかったが、毎回綺麗にまとめられた書類が自分を安心させた。
夜、千鶴と夕食を食べた。竜平は今日の仕事の話を千鶴にしなかった。千鶴も聞かなかった。2人の間に、以前はなかった薄い幕のようなものが張りつつあることを竜平は感じていたが、それを言葉にしなかった。
眠れない夜が続いた。午前2時、3時に目が覚めることも増えた。鏡の中の自分を見ると、目が重そうだった。頬が少し落ちていた。しかし、翌朝になると体は動いた。アドレナリンだけで動いているような感覚があった。ある朝、ランニングの途中で急に足が重くなった。立ち止まって、路肩に手をついた。息が少し乱れていた。1分ほどするとそれが引いた。竜平は再び走り始めた。気にしないことにした。
8月の半ば、柴田から電話がかかってきた。竜平は古い端末を持ってトイレに入り、扉を閉めてから応答した。「先月分の配当が確定しました。来週の初めに指定口座へ振り込みます」金額は60万円だった。竜平は様式便器の蓋の上に座り、その数字を頭の中で繰り返した。3000万円の出資に対して月利20%であれば600万円になるはずだった。しかし柴田は「初月は手数料と現地コストの清算があるため、配当は段階的に増えます。今月は60万円。来月からは正規の計算に戻ります」と説明していた。竜平はまた頷いた。60万円でも、仲介で稼いだ額と同じだった。何もしていないのに、一ヶ月で同じ金が入ってきた。
宮島に報告したい衝動があった。しかし、思いとまった。宮島は最初からやめろと言っていた。今更うまくいっていると伝えることが、なぜか恥ずかしかった。その代わり、竜平は柴田に電話した。「来月の配当の見込みはどうですか?」「来月からは正規レートでお支払いします。3000万の20%、600万です」竜平は電話を切った後、窓の外を見た。600万円。毎月600万円が入れば、ローンも返せる。その夜、竜平は久しぶりによく眠れた。
9月の第1週、柴田からメッセージが来た。「重要なご連絡があります。お電話は良いですか?」竜平はすぐに折り返した。柴田の声はいつもより少しだけ早かった。「黒川さん、実は政府の方針で、来月から海外への資金送金規制が強化されます。今のプロジェクトのポジションを維持するために、今月末までに追加の資金を入れていただく必要があります。今のポジションのままでは規制の適用対象になってしまう可能性があります。枠を維持するために、今週金曜日までに3000万円の追加出資をお願いしたいと思います。今のお客様は皆さん対応されています」
「今週金曜日」という言葉が引っかかった。急すぎると思った。しかし、すぐに「規制の話は本当にあり得る」とも思った。竜平は「少し考えさせてください」と言った。「分かりました。ただ、金曜日の17時が締め切りです」と言って、柴田は電話を切った。
3000万円。今の自分にはない金額だった。しかし、方法はあった。マンションを担保に借入れをする。不動産担保ローンなら、短期間で資金を作れる。
翌日の午後、竜平が出かけている間に、千鶴は寝室のクローゼットを整理していた。季節の変わり目で、夏物を奥にしまおうとしていた。クローゼットの下段に竜平のジャケットが何着か畳んで置かれていた。それを動かそうとした時、その下に薄いファイルが挟まっているのに気づいた。千鶴はそれを取り出した。クレジットカードの明細だった。数ヶ月分。最新のものは先月の日付だった。利用残高の欄に、117万円という数字があった。リボ払いの残高が、月を遡って記録されていた。一番古いものは3年前の日付だった。千鶴はファイルを閉じ、元の場所に戻した。それからクローゼットを閉め、台所に戻り、夕食の準備を始めた。
竜平が帰宅したのは夜7時を過ぎた頃だった。食卓についてもしばらくは何も起きなかった。千鶴が口を開いたのは、食事が終わりかけた頃だった。「クローゼットを整理しようとしたら、カードの明細を見ました」
竜平は箸を置いた。「100万円以上。ずっと隠していたんですね」
竜平はテーブルの木目を見た。「仕事のためだ。接待とか会社のために使ってきたんだ。それが積み重なって」
千鶴は少しの間竜平を見た。それから静かに言った。「私に相談して欲しかった」
竜平は何かが傷ついた。相談できなかったのは千鶴を心配させたくなかったからだ。そう言いたかった。しかし、本当のことを言えば、千鶴に見せたくなかったのは自分の失敗だった。それを認めたくなかった。
「大丈夫だ。今、別の収入がある。ちゃんと返せる」
「別の収入? どんな?」「仲介の仕事を始めた。放送資材の。うまくいってる」
千鶴は何も言わなかった。箸を持ったまま、テーブルを見ていた。「信じてほしい」と竜平は言った。千鶴は顔をあげなかった。「分かりました」とだけ言った。
その夜、2人は同じベッドで眠ったが、千鶴は竜平の方を向かなかった。いつもは少し体を傾けて寝る千鶴が、その夜は背中を向けていた。その背中が、竜平にはひどく遠く見えた。
翌朝、柴田からメッセージが届いていた。「金曜日まであと3日です。ご確認いただけましたか」竜平はそのメッセージをトイレの中で読んだ。3000万円をどうやって作るか。不動産担保ローンの審査には時間がかかる。もっと早い方法がいる。竜平は千鶴名義の印鑑と実印がどこにあるかを知っていた。以前、マンションを購入した時に使った実印だった。
火曜日の朝、千鶴が買い物に出た。マンションに竜平一人になった。竜平はしばらくリビングで立っていた。動けなかった。頭の中で何かが叫んでいた。やめろ、という声だった。その声を、別の声が押しのけた。手段がない、という声だった。竜平はクローゼットの奥に手を入れた。実印の入った桐の小箱があった。テーブルの上に置き、あらかじめ用意していた書類を取り出した。抵当権設定の申請書類だった。千鶴の署名欄があった。竜平はペンを持った。手が震えていた。震えたままペンを動かし、千鶴の名前を書いた。字は千鶴本人のものとは似ていなかったが、銀行の窓口担当者がそこまで見ることはないだろう。印鑑を押した。書類を折りたたみ、封筒に入れた。
翌朝、竜平は近くの銀行の窓口に行った。スーツを着て行った。窓口で担当者に書類を出した。担当者は若い女性だった。書類を確認し、奥に入った。10分後、担当者が戻ってきた。「確認のご連絡を、ご本人様にさせていただいてもよろしいでしょうか?」竜平の心臓が一泊早く打った。「奥様のご連絡先は」と担当者は続けた。竜平は表情を変えずに「今日は妻が体調を崩していて。本人確認はこちらの書類で足りますでしょうか」と続けた。担当者はしばらく書類を見て、また奥に戻った。10分後、担当者が戻り、「今回は書面確認で対応させていただきます。審査完了後、営業日以内に振り込みます」と言った。
3日後、竜平の口座に3100万円が振り込まれた。その日の昼前に竜平は柴田に電話した。「振り込めます」柴田は「ありがとうございます。口座番号を教えます」と続けた。振り込み先は法人口座だった。会社名は柴田の名刺に書かれていた会社名とは少し違った。竜平はそれを一瞬おかしいと思ったが、「グループ会社だろう」と自分に言い聞かせた。振り込み金額を入力した。3000万円。確認画面が出た。竜平はそれを見た。送信ボタンを押した。
翌日の木曜日、竜平は仲介の電話をしていた。電話を一本かけ終え、次の番号に手をかけた時、見慣れない番号から着信が入った。「太陽パッケージ投資者の人事部からです」と名乗った。竜平は立ち上がった。「退職後の活動について確認したいことがある。本社の法務部から連絡が来ている」
電話は法務部の別の担当者に変わった。要件は明快だった。竜平が退職後に、在職中に取引のあった複数の企業と個人として仲介業務を行っていたことが判明した。退職時の誓約書には競業避止義務の条項があった。「これは違反に当たる可能性があります。正式な書面を送ります。顧問弁護士を通じて、損害賠償請求の可否を検討する場合があります」
電話が終わった。竜平はスマートフォンを手に持ったまま立っていた。仲介の収入は、これ以上続けられない。止めるしかなかった。柴田への入金はすでに終わった。毎月の配当だけが、唯一の収入源になった。
その翌日の土曜日、千鶴は郵便受けを取りに行った。一通、見慣れない封筒があった。差出人は銀行名だった。宛名は、千鶴本人の名前だった。千鶴は封筒を開けた。中に入っていたのは、抵当権設定に関する通知書だった。マンションを担保に3100万円の借入れが設定されたことを知らせる内容だった。書類の署名欄を見た。自分の名前が書いてあった。しかし、自分は書いた覚えがなかった。自分の実印だった。
竜平がコーヒーカップを2つ持ってリビングに入ってきた。千鶴が立っていた。竜平はその手の中の書類を見た。一瞬、2人の間の空気が止まった。
「これは何ですか?」千鶴は言った。声は低かった。震えていた。「私の名前が書いてあります。私の印鑑を押してあります。でも私はこんなものを書いた覚えがありません」
「説明してください。今すぐ」
竜平は息を吸った。「投資をした。まとまった資金が必要で、担保を使った」
「私に黙って。この家を担保に入れたんですか? 私の名前を使って。私は何も知らなかった。なぜ?」
竜平はテーブルを見た。顔を上げられなかった。千鶴は少しの間何も言わず、書類をテーブルの上に置いた。それからゆっくりと言った。「全部、話してください」
竜平は話した。仲介の仕事を始めたこと。柴田という人間に会ったこと。南米のプロジェクトに出資したこと。3000万円を振り込んだこと。それをどうやって調達したかを、最後に話した。
千鶴は最後まで黙って聞いた。「なぜ話してくれなかったんですか?」千鶴は言った。声が震えていた。
「心配させたくなかった」と竜平は言った。
千鶴は少しの間言葉を受け取っていた。「心配させたくなかったのではなく、知られたくなかったんでしょう。今まで何十年もずっとそうだった。何かまずいことが起きると、私には知らせなかった。車を変えた時も、理由を言わなかった。カードの明細を隠していた時も、この家のことも。私に相談しなかったのは、私を信用していないからじゃないですか」
「そうじゃない」と竜平は声を出した。「じゃあ、何のためですか?」竜平は言葉に詰まった。顔が熱くなった。「この家のためだ」と竜平は言った。声が大きくなっていた。「俺がずっと稼いで、みんなを食わせてきた。それがどれだけ大変だったか。体裁を保つことがどれほど大変だったか、分かるか」
千鶴は竜平を見た。「体裁。誰のための体裁ですか? 私はこんな部屋じゃなくてもよかった。この物件もこのマンションも、あなたが決めた。私は意見を言う前に、もう契約が終わっていた。剣二の学校だって。あなたは私たちのためにやってるという。でも本当は、自分が恥ずかしくないようにやってきただけじゃないですか」
竜平は椅子の背もたれを両手で掴んだ。「俺はこの家のために全部やってきたんだ。それが何が悪いんだ」
千鶴は一歩後ろに下がった。しばらく沈黙があった。千鶴は静かに言った。「私は今夜、剣二と話します。これからのことを」
千鶴は剣二を連れて、その夜はマンションに戻らなかった。剣二の友人の家に泊まる、と短いメッセージだけが来た。
夜になって、竜平は柴田に電話した。しかし、柴田の電話は呼び出し音が鳴り続けた。繋がらなかった。メッセージを送った。「ご連絡ください」と書いた。返信は来なかった。
翌朝、目が覚めた。ソファの上だった。柴田からの着信も返信もなかった。もう一度電話した。今度は声が変わった。「おかけになった番号は、現在使われておりません」という、無機質な自動音声が流れた。もう一度かけても、同じ音声が流れた。
竜平は洗面台の前に立った。鏡の中の自分が見えた。何かが剥がれ落ちた顔だった。3000万円が消えていた。その事実が、ゆっくりと体の中に落ちてきた。
だが、まだ何かあるはずだ。誤解かもしれない。銀座のオフィスに行けば、柴田はいるはずだ。竜平はシャツを着替え、ジャケットだけ羽織って外に出た。
柴田のオフィスが入っていたビルに着いた。エレベーターで6階に上がり、廊下に出た。右手にガラス張りのドアがあったはずだった。しかし、そこには何もなかった。ドアはあった。しかし、ガラスの向こうに家具がなかった。受付のカウンターがなかった。革張りのソファがなかった。壁に貼ってあったロゴのシールも剥がされていた。ドアは鍵がかかっていた。廊下の奥にいた清掃員の女性に尋ねると、こう言った。「ここは先週の終わりに退去されましたよ。引っ越し業者が来て、中にあるものを全部運び出していきました」
3000万円は消えた。今度はその事実が体の芯まで届いた。竜平はしばらく銀座の通りを歩いた。どこへ行くという目的もなかった。コーヒーショップに入り、窓際の席に座った。スマートフォンを出して柴田の番号にもう一度かけた。使われていないという音声が流れた。メッセージアプリを開いた。既読がついていた。しかし返信はなかった。プロフィール画像が、灰色のデフォルト画像に変わっていた。
その週の金曜日、竜平の元に太陽パッケージの本社から書留が届いた。2枚の紙が入っていた。1枚は法律用語のならぶ通知書で、退職後の競業避止義務違反が確認されたこと。具体的な取引先の名前と取引の事実が記載されていた。もう1枚は、損害賠償請求の可能性について言及した文書だった。竜平はそれを読んだが、感情が動かなかった。驚きもなかった。ただ、紙の上の文字が目に入ってきた。
土曜日の昼前、インターフォンが鳴った。千鶴だった。「少し荷物を取りに来ました」竜平は扉を開けた。千鶴は竜平の顔を一瞬見て、そのまま寝室に向かった。20分ほどで千鶴がキャリーケースとバッグを持ってリビングに戻ってきた。玄関で靴を履きながら、千鶴は言った。「銀行から封書が来ていましたよ。テーブルの上に置いてあります」千鶴は鍵を一本、玄関の棚の上に置いた。カチッと小さな音がした。それから扉を開け、出ていった。
千鶴はスペアキーを置いて行った。もう戻らないという意思表示ではなく、ただそこに置いた。その曖昧さが竜平にはかえって重かった。
マンションに一人になった。食欲がなかった。夜、眠れなかった。宮島に連絡しようかと何度か思った。しかし、スマートフォンを手に取るたびに止まった。宮島はあの時、「やめてください」と言った。竜平はそれを無視して進んだ。今更何と言って連絡すればいいのか、言葉が見つからなかった。
10月の頭に入ったある夜、竜平は夕食代わりのカップラーメンを食べ、ソファに横になっていた。その時、中心部に鋭い痛みが来た。最初は食べすぎかと思った。しかし、痛みは引かなかった。むしろ少しずつ強くなっていった。台所まで歩き、水を飲んだ。逆に痛みが波のように強くなった。竜平は台所の床にしゃがみ込んだ。体の中に何かが溜まっていくのを感じた。何かが破裂した。口の中に鉄の味がした。嘔吐感が来た。間に合わなかった。床に暗い色のものが広がった。赤かった。
本能で、リビングまで這うようにして戻り、スマートフォンを掴んだ。119番を押した。救急です」と竜平は言った。声が枯れていた。サイレンの音が遠くから近づいてきた。救急隊員の男が声をかけた。「意識はありますか」「あります」「お名前は」「黒川竜平です」「ご家族に連絡しますか?」竜平は少し間を置いた。「妻は…別居中です」「緊急の連絡先はありますか?」竜平はまた間を置いた。宮島という名前が浮かんだ。他に浮かばなかった。これだけのことが起きて、連絡できる人間が一人しかいなかった。その一人は、竜平が無視した忠告をくれた男だった。
次に意識が戻った時、天井が白かった。看護師が入ってきて言った。「胃の出血があって、内視鏡で処置しました。もう出血は止まっています」竜平はベッドの上で天井を見た。誰もいなかった。病室に自分一人だった。
夕方、扉が開く音がした。宮島が入ってきた。コンビニの袋を持っていた。Tシャツ姿だった。宮島は竜平のベッドの脇に来て、椅子を引いて座った。竜平の顔を見て、少しの間何も言わなかった。「大丈夫ですか」とは聞かなかった。宮島は袋からペットボトルのお茶を出して、ベッドサイドのテーブルに置いた。それだけした。
「救急の人から連絡がありました」と宮島が言った。「入院費はとりあえず私が立て替えておきました。落ち着いてから考えてください」
竜平は何も言えなかった。「ありがとうございます」と言った。声が枯れていた。宮島は頷いた。それ以上は何も言わなかった。説教もしなかった。後悔の言葉を求めもしなかった。ただそこにいた。そのことが、竜平には何よりも重かった。
竜平は4日間入院した。4日目の午前中、医師が来て退院の話をした。「しばらくは消化の良いものを食べてください。アルコールと刺激物は控えてください」宮島が迎えに来た。軽自動車で来ていた。病院の駐車場で宮島の車に乗り込んだ。「どこへ行きますか?」と宮島は聞いた。竜平はマンションの住所を言おうとして止まった。あそこに帰っても、千鶴もいない。剣二もいない。食べるものもない。「少しだけ、何か食べられる場所によれますか?」と竜平は言った。
宮島が連れて行ったのは、病院から少し離れた場所にある小さなラーメン屋だった。竜平は塩ラーメンを頼んだ。待っている間、竜平は口を開いた。「全部、話します」宮島は「どうぞ」と言った。竜平は話した。柴田のこと、3000万円のこと、千鶴の名を使ったこと、千鶴が出ていったこと。ラーメンが来ても、食べながら話し続けた。宮島は食べながら聞いた。口を挟まなかった。
話し終えた時、宮島はしばらくどんぶりの底を見ていた。それから顔を上げた。「弁護士に相談した方がいい。千鶴さんの名義の件は、刑事上の問題になる可能性があります。弁護士を通じて整理した方がいい」「柴田の件は、警察ですか?」「詐欺として立件されるかどうかは、証拠の問題もある。ただ、黒川さんが3000万円を取り返せる可能性は低いと思っています」それは冷たく言ったのではなかった。ただ、正直に言った。竜平はその言葉を受け取った。3000万円は戻ってこない。それをきちんと受け入れたのは、この瞬間が初めてだった。
10月の末、銀行から通知が届いた。担保設定した物件について返済が滞っているため、売却手続きを開始することがあるとの予告書だった。11月に入り、弁護士に相談した。宮島が紹介してくれた人間だった。弁護士はいくつかのことを整理した。千鶴の名義を使った書類の件は、千鶴が被害届を出さない限り刑事事件にはならない可能性が高い。しかし、民事上の損害賠償は別問題だと説明した。また、「任意売却」という選択肢があると説明した。銀行と交渉して、競売より有利な条件で物件を売却し、残債を整理する方法だと。最終的には物件を手放すことになります、と弁護士は言った。
マンションを失う。17階のあの眺めを。35年かけて手に入れたはずのもの。しかし、不思議なことに予想したほどの痛みがなかった。もうずっとそうなるとは覚悟していたのかもしれなかった。
11月の初め、マンションに戻ると、玄関に一通の封筒が床に置かれていた。千鶴の字で「竜平」と書いてあった。開けると、短い手紙だった。「弁護士を通じて、正式に手続きをしたいと思います。剣二のことは、2人で話し合いたい。ただ、今は難しいので、少し時間をください」それだけだった。
竜平は椅子に座り、しばらくの間その手紙を見ていた。謝る言葉は持っていた。しかし、謝るだけでは足りないことも分かっていた。竜平は手紙を封筒に戻し、引き出しの中に入れた。
11月の中旬、任意売却の手続きが始まった。竜平は書類に署名するだけの役割になっていた。以前なら自分が全てを決定する立場だった。今は、他人に整理してもらう立場だった。その楽さを、竜平は驚くほど穏やかに受け入れていた。
12月の初めに、物件の引き渡しが決まった。竜平は少しずつ片付けを始めた。クローゼットを開けると、スーツが7着並んでいた。全て仕立てのものだった。竜平はそれを1着ずつ取り出し、ダンボール箱に立てかけた。食器棚には、千鶴が選んだ食器が残っていた。白いシリーズで、同じデザインで統一されていた。竜平はそれを眺めた。荷物を整理しながら、この部屋に越してきた日のことを思い出した。20年前だった。引っ越し当日の昼に、千鶴がコンビニのおにぎりを買ってきて、ダンボールの上に広げて食べた。そのことだけは、なぜかはっきり覚えていた。
引き渡しの前日。竜平はマンションで最後の夜を過ごした。次に住む場所は、埼玉の外れに見つけた6畳一間のアパートだった。月々の家賃は3万8000円だった。リビングのソファは、大きすぎて持っていけなかった。竜平はそのソファに最後の夜も座った。照明をつけていなかった。外の夜景だけが部屋を薄く照らしていた。明日からここではなくなる。17階の眺めが、コンビニのおにぎりの朝食が、エスプレッソマシンのコーヒーが、仕立てのスーツが、全部なくなる。それがどういうことか、今夜になってようやく体で感じていた。しかし、怒りではなかった。悲しみとも少し違った。重かったものが、ここに置いていけるという感覚に少し近かった。竜平は窓に近づき、夜の東京を見た。遠くまで光が続いていた。「俺はこれからどうなるんだろう」と竜平は思った。答えはなかった。しかし、その問いが恐怖ではなく、初めてただの問いとして浮かんでいた。
埼玉県の外れにある木造アパートは、駅から歩いて18分かかった。部屋は6畳一間だった。南向きの窓があったが、すぐ前に別の建物の壁が迫っていて、日が差し込む時間は一日のうちに2時間もなかった。壁は薄かった。竜平は荷物を運び込んだ。ダンボールが8個。それだけで部屋の半分が埋まった。スーツは2着だけ持ってきた。残りは処分した。エスプレッソマシンは持ってこなかった。荷物を置き終えて、竜平は床に座った。椅子がなかった。61年生きてきて、6畳一間とダンボール8個。それが今の自分の全てだった。竜平はその事実を、不思議と重くは感じなかった。ただ確認した。そういうものとして受け取った。
翌朝、竜平は5時半に目が覚めた。体の習慣は変わっていなかった。着替えて外に出た。駅までの18分の道を、今日は走った。合計で36分。以前の5kmのコースより短かったが、足は動いた。体はまだ動くのだ、という気持ちを持った。それだけで、その朝は十分だった。
朝食は昨日コンビニで買ってきたパンを1個食べた。インスタントコーヒーを作った。マグカップは、引っ越し前日に100円ショップで買ってきた白いカップだった。今日から何をするか考えた。仕事を探さなければならなかった。竜平は手元のスマートフォンで求人サイトを開いた。61歳という年齢を入力すると、表示される件数が一気に減った。それでもいくつかあった。警備員、清掃員、工場の軽作業、配送ドライバー、マンションの管理人。竜平はリストを眺めた。配送ドライバーの欄に目が止まった。「夜間の中型トラック運転」という項目だった。普通免許で可、ただし準中型以上の免許があれば優遇、と書いてあった。竜平には、かつて業務で使っていた準中型免許があった。会社の車両を運転するために取った資格だった。応募ボタンを押した。
2日後、面接の日程を知らせるメールが来た。面接会場は埼玉市内の物流センターだった。竜平はグレーのスーツを着た。残してきた2着のうちの1着だった。待合室には、すでに受験者が3人いた。60代とおぼしき男性が2人、40代らしい男性が1人。3人とも、スーツではなく綺麗な普段着に着替えていた。竜平だけがスーツだった。少し浮いているかもしれない、と竜平は思った。
担当者は30代の男性だった。履歴書をしばらく見た。「放送資材の会社で30年。支社長まで務めた」と書いてある。それが今なぜここに来ているのか、という疑問が担当者の顔に浮かんでいるのが竜平には分かった。「定年退職後に、自分で少し仕事しご通してみたのですが、うまくいかなかった部分があって」と竜平は言った。それ以上の説明はしなかった。担当者も深くは聞かなかった。「夜間の配送は、体力的に大丈夫ですか?」「毎朝走っています」と竜平は言った。担当者は少し間を置いてから、「来週から研修という形で入ってもらえますか」と言った。竜平は頭を下げた。「よろしくお願いします」その言葉が口から出た時、少しだけ肩の荷が軽くなった。
研修初日、竜平は夜の9時に物流センターに着いた。エプロンと手袋を渡され、名前を書いたシールをエプロンの胸に張った。「黒川」と書かれた白いシールだった。担当の先輩ドライバーは、田辺という40代の男だった。無駄口を叩かなかった。「まず積み込みから覚えてもらいます」と田辺は言った。倉庫に入ると、天井が高く、棚が続いていた。ダンボール箱が積み上げられていた。田辺がダンボールを一つ持って、竜平に手渡した。重かった。15kgほどある。それをトラックの荷台に積む。向きと順番がある。配達先に近い順に積んでいく。竜平は黙ってやった。1箱積んで、また倉庫に戻り、次の箱を取る。それを繰り返した。汗が出た。エプロンの背中が湿った。
2時間ほどで積み込みが終わった。出発は日付をまたぐ少し前だった。助手席に乗り込み、田辺の運転を見た。センターを出ると、深夜の幹線道路に出た。1件目の配達先は、埼玉県内の倉庫だった。田辺が手慣れた様子で荷物を下ろした。竜平も手伝った。2件目に向かう車内で、田辺が言った。「最初はきついですけど、慣れます」竜平は「そうですね」と答えた。
3週間が経った頃、竜平は一人で配達に出られるようになっていた。ルートは決まっていた。センターを出て、首都高を走り、いくつかの倉庫と工場を回り、夜明け前に戻ってくる。毎晩、同じルートだった。
ある夜、積み込みをしていると、ダンボールのラベルを見た。ラベルには取引先の名前が印刷されていた。見覚えのある名前があった。かつて竜平が支社長として取引していたメーカーだった。竜平がルートを作り、価格交渉をし、関係を育ててきた取引先だった。ダンボールの表面をよく見ると、放送材のメーカー名も印刷されていた。「太陽パッケージ」と書いてあった。竜平がかつて務めていた会社だった。自分がかつて売っていた放送材を、今は配送している。竜平はその事実を、トラックの前で立ちながら受け取った。笑えるような、笑えないような感覚があった。しかし、恥ずかしくはなかった。不思議と、恥ずかしくなかった。ダンボールを荷台に積んだ。丁寧に向きを揃えて積んだ。
深夜の首都高をトラックで走った。竜平はハンドルを握りながら、ふと思った。この道を以前は黒いドイツ車で走ったことがあった。日曜の昼に、どこかへ行こうとして、特に行く場所もなくて、ただ走ったことがあった。あの時の車の静粛性と、今のトラックのエンジン音はまるで違った。しかし、どちらも同じ道を走っていた。違うのは、今は荷物を積んでいるということだった。誰かに届けるものを持って走っている。それだけのことが、以前との一番大きな違いのように思えた。
ラジオをつけた。深夜の番組は、リスナーからのメッセージを読むコーナーだった。仕事がうまくいった話、子どもが生まれた話。別れた恋人のことを今でも考える話。それぞれが短く読まれた。竜平はそれを聞きながら、アクセルを踏んだ。自分の話を誰かに送ってみたいとは思わなかった。ただ、世の中にはこれだけの話があるんだな、と思いながら走った。
月が変わり、初めての給料が振り込まれた。竜平は明細をスマートフォンで確認した。夜間手当などで、手取りが22万4000円だった。以前の月収と比べると3分の1以下だった。しかし、この22万円は、誰の名にも使っていなかった。誰かを欺いてもいなかった。自分の体を動かして、自分で稼いだ金だった。竜平はその数字をしばらく見た。ここから毎月少しずつ返していく。抵当権の整理に弁護士が動いてくれていた。今後の返済スケジュールがまだ完全には確定していなかったが、大枠は見えてきていた。15年かかるかもしれない。20年かかるかもしれない。しかし、0ではなかった。
竜平は生活費の内訳を紙に書いた。家賃3万8000円、食費1万5000円、光熱費と通信費で合わせて1万2000円、交通費と雑費で5000円。合わせて7万円。残りの15万円を返済に当てていく。紙を眺めた。数字が綺麗に収まっていた。以前のリボ払いの泥沼とは、まるで別の世界だった。
ある夜、配達から戻って部屋に入った時、竜平はテーブルの上に一枚の紙を広げた。コンビニで買ったメモ用紙だった。ボールペンを取り出した。千鶴への手紙を書こうと思った。弁護士を通じた連絡は続いていたが、竜平本人から千鶴に直接の言葉を届けていなかった。「千鶴」と書いた。それから少しの間止まった。「今、埼玉で夜間の配達の仕事をしている。体は動いている。借金の返済を始めた。時間はかかるが、続けるつもりでいる。君に黙っていたこと。名前を使ったこと。謝っても取り消せないことは分かっている。それでも謝りたい。すまなかった」最後に一つだけ加えた。「剣二のことを、よろしく頼む」封をして、千鶴が今いる場所の住所に宛名を書いた。弁護士を通じて知った住所だった。翌朝、ポストに入れた。返事が来るかどうかは分からなかった。来なくても、それはそれで仕方のないことだと竜平は思った。届けることができただけで、今は十分だった。
1月の半ば、宮島から連絡が来た。「近くを通るけど、少し寄っていいですか?」竜平は「構いません」と返した。宮島は夕方に来た。自転車だった。アパートの前に自転車を止め、竜平の部屋のインターフォンを押した。竜平が扉を開けると、宮島は室内を一度だけ見た。それから竜平の顔を見た。「ちゃんとしてますね」と宮島は言った。竜平は少し笑った。「6畳ですが」と言った。宮島は上がり込んで、床に直接座った。椅子がないことを気にする様子がなかった。竜平もその隣に座った。インスタントコーヒーを作って出した。宮島はそれを受け取り、一口飲んだ。「うまいですね」と言った。「そうでもないと思いますが」と竜平が言うと、宮島は笑った。今日は笑った。「前にあった時より、顔が軽くなった気がします」と宮島は言った。竜平は少し考えてから、「そうかもしれません」と言った。
しばらく2人で黙っていた。隣の部屋のテレビの音が、うっすら聞こえた。「仕事はどうですか」と宮島が聞いた。「体は動いてます。荷物を積むのが最初きつかったが、慣れてきた」と竜平は言った。宮島は頷いた。それから言った。「俺も最初の仕事は、配達回収の手伝いでしたよ。会社を辞めてから、知り合いの手伝いで1年くらいやってた」竜平はその話を聞いた。宮島がそういうところから始めたことを、今まで知らなかった。宮島の会社が今あるのは、そういう場所から積み上げたからだったのか、と思った。聞いておけばよかった、と竜平は思った。もっと早く、ちゃんと聞いておけばよかった。その言葉は口に出さなかった。ただ頷いた。
宮島はもう1口コーヒーを飲んで、立ち上がった。「また連絡します」と言い、靴を履いた。竜平は玄関まで見送った。扉を開けると、外は暗くなっていた。宮島は自転車のライトをつけ、またがった。「じゃあ」と言って走り出した。竜平は扉の前に立ち、その背中が遠ざかるのを見た。寒い夜だったが、少しの間そこに立っていた。
2月に入ったある朝、郵便受けを確認すると、一通の封筒が入っていた。差出人の欄を見た。「黒川剣二」と書いてあった。竜平は封筒を部屋に持ち帰り、テーブルの上に置いた。着替える前に封を開けた。便箋1枚だった。「お父さんへ。元気ですか? 僕は今大学のゼミが忙しい。母は今のところ落ち着いています。2人で色々話しました。まだ整理できていないことも多いけど、父が働いているということは聞きました。返事を書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。それだけです。剣二より」と書いてあった。
竜平は便箋を持ったまま、窓の外の壁を見た。「返事を書くかどうか迷いましたが、書くことにしました」という一文が、竜平には重かった。迷った上で書いた。それだけのことが、今の竜平には十分すぎるほどだった。竜平はすぐには返事を書かなかった。何日か言葉を考えた。1週間後、短い返事を書いた。「元気でいる。仕事を続けている。それだけでいい。返事をくれてありがとう」と書いた。投函してから、竜平はまたいつものように仕事に向かった。
春が近づいてきた。竜平は毎朝走り続けていた。ルートは少しずつ変わっていた。最初は駅までの往復だったが、今は住宅街の外れにある小さな公園を回るコースにしていた。公園には池があった。朝の6時頃、その池の前を通ると、鳥がいることがあった。白い羽で、水際に立って動かなかった。竜平が近づいても逃げなかった。ただじっとしていた。竜平は走りながらそれを見て、一度だけ止まったことがあった。鳥は竜平を一瞥して、また水面を見た。竜平はまた走り始めた。その日の朝は、なぜかその鳥のことが頭に残った。
3月に入ったある夜、配達のルートを走っていると、見覚えのある交差点を通った。信号で止まった。左手に古ぼけた集合住宅が並んでいた。千鶴と剣二が今住んでいるアパートが、この近くのはずだった。信号が変わった。竜平はアクセルを踏まなかった。後ろから車が来る気配がなかった。竜平は少しの間、止まっていた。千鶴の部屋は、この通りを入って右に折れた先にある、と弁護士の書類の住所から知っていた。竜平はハンドルを左に切った。トラックで入るには細い路地だったが、ゆっくり進んだ。集合住宅の前に来た。2階建てで、外廊下に洗濯物が干してあった。竜平は車を一瞬止め、建物を見た。部屋番号は分かっていた。2階の窓に、光があった。誰かがいた。起きていた。千鶴か、剣二か。あるいは2人ともか。竜平はその光を、少しの間だけ見た。降りて行こうとは思わなかった。今の自分には、あの扉を叩く資格がなかった。資格を取り戻すには、もっと時間が必要だった。何年かかるかは分からなかった。しかし、今夜ではなかった。竜平は前を向いた。トラックをゆっくり動かし、路地を出て、元の道に戻った。
次の配達先に向かう前に、竜平はダッシュボードの上に置いておいた封筒を取った。昨夜のうちに用意していたものだった。今週の給料から封じた現金だった。全部ではなかった。しかし、今の自分が出せる精一杯の額だった。取り返して戻り、集合住宅の前に停車した。エンジンを切らなかった。ハザードランプをつけて、外に出た。郵便受けの列があった。部屋番号のシールが貼ってあった。千鶴の部屋番号の受け口に、封筒を入れた。封筒の表には何も書いていなかった。差出人もなかった。ただ、中に小さなメモを入れてあった。「少しずつ返していく」と書いただけだった。竜平は郵便受けから手を離し、トラックに戻った。ハザードを消し、アクセルを踏んだ。また夜の道に出た。
その夜の最後の配達が終わったのは、夜明け前の4時過ぎだった。センターへの帰り道、首都高の登りルートに乗った。東の空が、少しだけ色を変え始めていた。まだ暗かったが、暗さの質が変わっていた。夜の黒とは違う、薄い灰色になっていた。竜平はラジオをつけなかった。エンジンの音だけが聞こえた。ハンドルを握りながら、今夜の自分のことを考えた。あの光のついた窓を見たこと。郵便受けに封筒を入れたこと。それが良かったかどうかは、まだ分からなかった。受け取ってもらえるかどうかも分からなかった。ただ、できることをしただけだった。今の自分が、今夜できることを。
空がさらに明るくなった。東の方角に、うっすらとオレンジが混じり始めた。竜平はその色を見ながら、ふと気づいた。今、体がどこも痛くなかった。眠れない夜が続いていた頃は、いつもどこかが張っていた。頭の後ろか、肩か、胸の内側か。今夜はそれがなかった。疲れてはいた。体は確かに疲れていた。しかし、今感じているこの疲れは、以前の疲れとは違っていた。以前の疲れは、体とは別のものが疲れていた。何かを維持しなければならない、という疲れだった。見えを保ち、体裁を整え、数字をごまかし、自分を大きく見せ続ける。その疲れだった。今の疲れは、体だけだった。
センターが見えてきた。駐車場にトラックを止め、エンジンを切った。静かになった。朝の空気が入ってきた。3月の朝はまだ冷たかった。竜平は少しの間、運転席に座ったままでいた。コンビニで買ってきたおにぎりが、ダッシュボードの上にあった。海苔の巻かれた塩結びだった。1個だけ買ってきていた。竜平はそれを取り、袋を開けた。一口食べた。冷たかった。米が少し硬かった。それでも食べた。窓の外、東の空が白んでいた。オレンジは少し薄くなり、代わりに全体が明るくなってきた。雲の端が光を受けて、白銀色に輝き始めていた。竜平はおにぎりを持ったまま、その空を見た。
35年かけて手に入れたものが、全部なくなった。名刺も、肩書きも、スーツも、車も、マンションも、家族も。手元に残っているのは、6畳一間と、1台の中古の自転車と、今月の給料の残りだけだった。それでも、なぜか今この瞬間、竜平は息ができていた。胸が締めつけられていなかった。何かを証明しようとしていなかった。誰かに見せようとしていなかった。ただ、夜明けの空の前に一人で座って、冷たいおにぎりを食べていた。それだけのことが、ひどく自由だった。
おにぎりを食べ終え、袋を丸め、センターのゴミ箱に捨てに行こうと思った。竜平はドアを開けた。外に出た。3月の冷たい空気が体に当たった。空はもう、完全に明るくなりかけていた。竜平は少しの間、そこに立った。誰もいない駐車場の真ん中で、一人で立って、朝の空を見上げた。何かが変わったとは思わなかった。何かが始まったとも思わなかった。ただ、今日という日がまた来た、と思った。それだけだった。竜平は歩き出した。ゴミ箱に向かって、一歩ずつ歩いた。



