「ちょうどいい。10円くれてやるよ」そう言って社長は、机の上に10円玉を投げつけた。「拾え。あれがあんたの退職金だ」誇りを持って40年働いてきた会社で、突然の解雇通告。年寄りが給料をもらいすぎだと言われ、これまでの貢献を全て否定された。反論すれば、怒鳴られて追い出されるだけだった。しかし、あの日だけは引き下がれなかった。長年管理してきたシステムと、自分の痕跡を全て抹消することを選んだ。あの夜…

「ちょうどいい。10円くれてやるよ」そう言って社長は、机の上に10円玉を投げつけた。「拾え。あれがあんたの退職金だ」誇りを持って40年働いてきた会社で、突然の解雇通告。年寄りが給料をもらいすぎだと言われ、これまでの貢献を全て否定された。反論すれば、怒鳴られて追い出されるだけだった。しかし、あの日だけは引き下がれなかった。長年管理してきたシステムと、自分の痕跡を全て抹消することを選んだ。あの夜...

「ちょうどいい。10円くれてやるよ」

哲夫社長は真っ赤な顔でそう言うと、ズボンのポケットから10円玉を取り出し、俺に向かって投げつけた。硬貨は床に転がり、どこかへ消えた。

「拾え。あれがあんたの退職金だ」

長年、会社のために尽くしてきた俺への、最後の仕打ちだった。

俺の名前は岡田五郎。60歳を目前に控えた技術者だ。地元の優秀な中小企業で、金属加工の技術者として40年近く働いてきた。現社長の哲夫さんは、先代の社長が急死した後、後を継いだばかりだった。

先代の社長は、まさに一代で会社を大きくした人物だった。時代の変化を読み、勝負を仕掛け、成功者として生き残ってきた。そんな社長は、決して傲慢ではなかった。若い経営者との交流を積極的に図り、新しいものを次々と試す。いつまでも探求心を失わず、その姿勢を工場の誰もが尊敬していた。

俺もその一人だった。仕事に必要なのは、社長のような堅実さと学びを忘れない精神だと信じていた。自分のために頑張り、社長に恩返しをしたいと思って働いてきた。

しかし、その日々は突然終わりを告げた。先代の社長が事故で急死したのだ。雨の深夜、高速道路で大型トラックに巻き込まれた。出張先からの帰り道だった。社長が3代目を誰にするか、生前に決めていなかったこともあり、自然と後を継ぐのは長男の哲夫さんだという空気があった。

哲夫さんは、最初は父に似ているところがあると思っていた。しかし、それはこちらの思い込みだった。哲夫さんは、先代とは正反対の性格だった。

「どうしてこんなに人件費をかけるんだ。うちの業務のほとんどは外部委託でもいい。オートメーション化できるラインも多い」

哲夫さんは社長のそばで修行しながら、ことごとく父と対立していた。技術や特許の漏洩になりかねないと止められても、哲夫さんは野心をむき出しにしていた。海外の企業や買収会社と繋がろうとしたこともあった。先代に止められていたが、哲夫さんの強い意志は変わらなかった。

そして、哲夫さんは社長に就任した。するとすぐに、自分の力を思う存分に振るい始めた。

「いいか? あんた方は今の時代にはいらないんだ。今は人の代わりに機械とコンピューターが何でもしてくれる。あんた方は頭が古いから、そんなこと知らないだろうけどな」

相手が誰であっても、哲夫さんは顎を上げて人を見下してものを言った。固定給を廃止して完全出来高払いにすると発表した時も、勝ち誇った笑みを浮かべていた。しかし、その計画は手続きや制度の変更の手間を前に消えていった。根気が続かなかったのだ。

代わりに取り入れたのが、罰則制度だった。ミスや怠慢があれば減給。些細なことにも処分を下すようになった。

「不必要な残業ばかりじゃないか。悪いけど残業代は出さない。それに減給だ」

納期が迫っているから残業しているのに、哲夫さんはそんな非常な宣告をした。スケジュールに余裕がないのは人員不足や取引先の追加要望が原因だった。しかし、哲夫さんには関係なかった。ただ処分を下せればそれで良かったのだ。

会社の中には、異様なムードが漂った。仕事への意欲が下がり、製造ラインの稼働率も落ちた。そして、退職者が増え始めた。

「岡田さん、今月でここを出ます」

「え、そうなのか」

「はい。ここにいても給料が下がるだけで。ちょうどいい転職先が見つかったので」

若い人たちは特に、明るく亡くなってしまった将来に絶望したのだろう。中堅やベテランクラスの社員でも、転職活動をしている人は多かった。しかし、俺は転職するつもりはなかった。金属40年という数字にこだわりがあったし、何より自分を見出してくれた先代のためにも、会社にいたかった。どんな状況でも結果を出せば、会社のためになる。それが先代への恩返しになるはずだと信じていた。

しかし、俺がターゲットにされる時が来た。

「岡田さん、あなた、空気読んでやめる気はないですかね?」

「それはどういう意味でしょうか」

「いや、うちの会社は65歳を定年にしてるんだけどね。まあ、60歳で定年の会社もまだ多いわけじゃない。だから、あなたもその辺りの流れを取り入れてくれないかなと思って」

「もし私の働きが足りていないというのであれば、その時は潔く退職させていただきます。ですが、明確な理由がないのであれば、その提案を聞くことはできません」

「じゃあ、はっきり言わせてもらうね。理由は、年寄りが給料をもらいすぎてるからだよ。あんたが一人で人件費を圧迫してるんだ」

「私が人件費を圧迫しているですか?」

「ああ。父がどれだけ評価していたのか知らないけどな。年寄りのくせに贅沢しすぎなんだよ」

「でしたら、給料を下げていただいて構いません。私はしっかりと給料分は働いてきたつもりです」

哲夫さんは、俺の待遇が良すぎると口を曲げた。営業成績やこれまでの業績に際立つ部分がないのになぜ高給なのか、疑問も持たないのかと問いかけた。

俺は、自分のプライドを込めて反論した。

「私はこれまで、会社を支える部門の一員として影ながら励んできました。それを恥じるつもりはありません」

「やめる気はない。そういうことか」

哲夫さんは半ば怒りの様子で、最後通牒を突きつけた。

「待遇への変更はいくらでも伺います。ですが、退職は受け入れることはできません」

俺が退職を突っぱねると、哲夫さんは怒鳴り声をあげた。

「ああ、そう。それなら首にしてやるよ。分かってるな。首だ。退職金は出さない」

「社長、それはあんまりでは。私を解雇しようにも、正当な理由はないでしょう」

「俺は、あんたが人件費を吊り上げてると言ったよな。それが理由だ。それから、俺の方針に意義を唱えたからな。それも理由だ」

俺の反論を、哲夫さんは怒りに任せて叩き落としていった。そして、あの言葉を放ったのだ。

「ちょうどいい。10円くれてやるよ」

10円玉が床に転がった。哲夫さんは吐き捨てるように言った。

「拾え。あれがあんたの退職金だ」

「社長、あなたなんて人なんだ」

「黙れ。あんたはもう社員じゃないんだ」

俺が怒りに震えて立ち上がると、哲夫さんは大声で吐き捨て、部屋を出て行こうとした。そして、最後に振り返った。

「今すぐ出て行け。それからな、あんたの痕跡やら資料は全部破棄していけ。処分の手間までかけるなよ」

哲夫さんの口元に戻った独特の微笑みに、俺の忍耐力は完全に限界を超えた。何を言われても会社のためと保ってきた精神が、一気に崩れていった。

そして、俺は一心不乱に、金属40年の全てを打ち壊した。自分の資料一切。かつて先代社長の肝入りで開発した、工場の製造ラインと生産管理に関するコンピューターシステム。先代が社外からエンジニアを招き、社内でも社員を選抜して構築した、会社の心臓部とも言えるシステムだった。俺はその開発で今で言うSEの技術を身につけ、長年システムの管理責任者を務めていた。開発当時の忙しさや苦労を思い出すと、今でも胃が痛む。それでも、会社を成長させた分岐点になる仕事に関わったという誇りは深かった。

そんな俺の会社人生の全てが詰まったものを、削除した。同僚たちに迷惑をかけるというためらいもあったが、哲夫さんの言うことを聞こうという、少しの悪意が働いた。

俺は数時間かけて、会社にいた自分の痕跡を消去した。誰に挨拶をすることもなく帰宅し、家族と急な退職とこれまでをねぎらう会を開いた。

翌日、予想していた時間に電話が鳴った。落ち着いて出ると、電話口で哲夫さんが叫んでいた。

「おい、あんた何しやがった?」

「何とは、何でしょうか?」

「とぼけやがって。システムを消しやがったな」

「はあ。何をおっしゃっているのか」

俺は、哲夫さんの言うことの核心には触れず、とぼけ続けた。何か言われたら、「一切を消し去れという社長の希望を叶えただけです」と答えるつもりだった。

「冗談じゃねえ。最後の最後まで使えない男だ」

俺が知らぬ存ぜぬを貫き通すと、哲夫さんの我慢は限界に達したようだった。捨てゼリフを吐くと、電話を切られた。

仲間への申し訳なさが込み上げたが、それは少しずつ消えていった。俺は携帯を握り直し、電話帳を開いた。そして、会社と会社に関係する全部の連絡先を、全て消去した。

あの騒動から3ヶ月後、俺が勤めていた会社は、後方もなくなった。哲夫さんが混乱したシステム停止の余波で、最後は慌ただしく倒産したのだ。システムが止まり、工場の製造ラインはダウン。業務は完全に中断を余儀なくされた。おまけに、一部事務システムにも削除の影響が出た。

会社は息の根が止まったも同然となり、世間からの信用も失った。

かつての同僚が、システム提唱した時の心境を苦笑しながら明かしてくれた。

「いや、岡田さんがシステムに手心を加えたと思ってましたけど、もうそれはどうでもいいなと思ってましたよ」

システムの管理責任者だった俺しか、削除しようとは考えない。だから騒動は俺によって引き起こされた。責任は深く考えずとも分かったと言ったが、俺を責める気にも、哲夫さんに可能性を指摘する気にもならなかったそうだ。

「まあ、あの時には会社をやめようと決めてましたからね」

哲夫さんが仕切る会社に愛想が尽きていた元同僚は、流れに身を任せることにしたのだ。そして、そんな決断をしていたのは彼だけではなかった。当時会社に残っていたほとんどの社員が、退職の意思を持っていた。誰もがトラブルの解決に消極的になり、あの時混乱していたのは哲夫さんだけだったという。

トラブル解決の道筋が立たない中で、社員は一斉に退職。倒産の最後の決め手はそれだった。

会社と自分の立場と職を失う形になった哲夫さんは、親族から吊し上げられた。代々続く会社と工場を潰し、世間からの信用を裏切った。その責任を問われ、親族から絶縁された。頼るところもなく、今は日雇いと単発の仕事で食いつぐだけ。プライドもへしられ、かつての傲慢さは見る影もないらしい。

一方、俺は転職先を得た。退職から1ヶ月後、どこから事情を聞いたのか、先代の娘の裕子さんから連絡があったのだ。知り合いのベンチャー企業で、経験のある技術者を探している会社があると聞かされた。先代はかつて、裕子さんに俺を「優秀で物覚えのいい人間だ」と言っていたそうだ。

「父の自慢だった岡田さんを、是非紹介したいと思いまして」

裕子さんは俺に転職を持ちかけ、その裏事情もしっかりと教えてくれた。紹介する会社は、裕子さんの勤務先の銀行が支援している。俺の転職話だが、反面は裕子さんが得を得る機会でもあった。

「すみません。私の利益の部分もあるんです。ただ、岡田さんにも悪い話ではないと思いましたので」

申し訳なさそうな裕子さんに、俺は感謝を伝えた。

そんな経緯があり、俺は現在、若い技術者たちに囲まれて第二の会社人生を始めている。知識と経験を伝えながら、逆に若い人たちから最新の技術について学ぶこともある。いくつになっても学びがあるというのは嬉しい限りだ。

体と頭が動く限り、俺は誰かの期待に答えていきたい。今は心の底からそう思い直している。

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