新年会の会場で、酔いつぶれた上司が突然、俺の顔にケーキを投げつけてきた。「無能は帰れ!私のような有能な社員だけがこのパーティーに参加できるのよ!」と叫びながら。俺は何も言い返せず、ただクリームで視界が塞がれるのを感じていた。すると、スーツ姿の女性が俺を守るように立ちはだかった。「この人は私の夫です」と。その瞬間、上司の顔色が変わった。俺の妻が、この会社の社外取締役だったことを、その場の誰も知…

新年会の会場で、酔いつぶれた上司が突然、俺の顔にケーキを投げつけてきた。「無能は帰れ!私のような有能な社員だけがこのパーティーに参加できるのよ!」と叫びながら。俺は何も言い返せず、ただクリームで視界が塞がれるのを感じていた。すると、スーツ姿の女性が俺を守るように立ちはだかった。「この人は私の夫です」と。その瞬間、上司の顔色が変わった。俺の妻が、この会社の社外取締役だったことを、その場の誰も知...

ふ瀬部長が俺にケーキのクリームを投げつけた瞬間、会場が凍りついた。顔にベッタリとクリームが付き、視界が塞がれる。「無能は帰れ。私のような有能な社員だけがこのパーティーに参加できるのよ」と、酔いつぶれた目で彼女は喚き散らす。

俺の名前は佐川弘樹。学習教材を販売する会社の営業社員で、同時に塾講師も務めている。勤務先が経営する学習塾は、小学校受験から難関高校や大学を目指す生徒向けのハイクラス進学塾だ。塾によってはレベルに合わせた教材を用意し、中学生で高校終了程度の学力を身につける子もいる。しかし、俺たちの塾は中学1年生ならその学年で習う科目だけを中心に、みっちり教え込む方針だ。

生徒には鉛筆と消しゴム、ノートを用意してもらい、ひたすら書かせる。定着させるためだ。タブレットをタップするだけの指導はしない。それが俺のメソッドだった。

俺の生い立ちは決して恵まれたものではなかった。家の事情で通信制の大学を卒業し、働きながら大学生をしていた。親が離婚し、かなりぶっ飛んだ母親と2人暮らしになった以上、俺が家計を支える必要があった。母親は突然思いつきで北海道へ車を買いに行ったり、ホエールウォッチングのために沖縄へ出かけたりする。そのくせ収入源はパートタイムの仕事だ。真面目に働くので2人で暮らすにはなんとかなったが、突然の思いつきで1週間も休むので正社員にはなれないらしい。その結果、俺が路頭に迷うことが増えていった。

高校だけは授業料が安い公立校を選び、奨学金を利用してなんとか卒業した。大学へ行きたかったが、入学金の捻出ができなくなった。奨学金の申し込みに必要な書類を持って、母親が韓国へ出かけてしまったからだ。高校の先生と相談し、働きながら大学に行くことを勧められた。俺はスーパーで働きながら通信制の大学で勉強し、教員免許を取得した。

だが、教員採用試験にはこごとく落ちた。ここで流れ着いたのが塾講師の仕事だった。俺が培ってきた勉強法を伝授すると、点数が伸びた生徒が増えた。暗記科目でも歌や語呂合わせで覚えられるよう工夫し、一緒に歌ったり、振りをつけて踊ったりしながら覚えさせた。体を使って覚えた勉強はテストの時もうまく引き出せる。こうして培った俺のメソッドは密かな人気となり、弊社の塾は全国に80校ほど展開するまでになった。

塾の講師は皆弊社の社員で、バイト講師は1人もいない。人気講師を全国の塾へ派遣し、生の講義やリモート授業も行っている。俺はいつも人気アンケートで上位3人の中にランクインしていた。北の方の都市に在籍し、5つの塾で講師を務めている。中には俺の授業を受けたいと新幹線を使って来る生徒もいる。

塾講師の仕事は自分にとって天職だと思っていた。だが、俺の指導法に異論を唱える人物が現れた。「今時、書いて覚えるなんて、ちゃんらおかしいわ」と言うのは、先日人事移動で西の方の都市から転勤してきた事業部長のふ瀬だった。

俺のメソッドは本当にシンプルで、言葉にして話すなど日常的にできることが中心だ。最近は学生が各々タブレットを所有しており、タブレットで解くドリルやワークブックが主流である。それなのになぜ紙と鉛筆にこだわるのか、本当に学力向上しているのか疑わしいと、ふ瀬部長は言う。

ふ瀬部長は塾が開発したアプリのプロジェクトメンバーとして活躍した経歴を持つ。会員を募り、サブスクで毎日学習ドリルを1問ずつ提供するというものだ。継続すればポイントが溜まり、スペシャル問題を手に入れたり、アバターを着せ替えたりもできる。毎日1問ずつ解けばいいという手軽さから会員がうなぎのぼりに増えていった。ふ瀬部長は業績を獲得したという自負があり、上から目線で抑えつけてくる。

しかし、その業績はプロジェクトメンバー全員に授与されたものであり、ふ瀬部長1人の手柄ではない。しかも、最近ではユーザー側がマンネリ化し始めているようだ。少し難易度を下げた問題が出題されるので簡単に解けるからつまらないとか、毎月お金をかけているのにバカバカしいなどの声も届く。人間は常に新しいものを求める。ふ瀬部長はそのことに気づいていない。周りも指摘しないので、自分が優位に立っていると思い込んでいる。古いものは悪だと言わんばかりに、俺に難癖をつけてくる。

「ちょっと、生徒たちにまだ鉛筆を持たせているの?」
「鉛筆を持つのは当たり前でしょ。それに俺が持たせているのではなく、生徒たちが自主的に持っているんですよ。ノートに覚え書きをしたり、まとめたり。人それぞれの勉強方法があるでしょう」
「あなたのクラスのリナちゃん、もう3週連続でテストの点数が落ちてるわよ。そんなんじゃ担当講師失格だからね」

こんな風に、ことあるごとに俺を失席させる。ふ瀬部長はなんとかして俺に思い知らせたいようだ。しかし、そんなことでへこたれる俺ではない。

ふ瀬部長は力技に出るようになった。教室に踏み込んで俺を呼び出すこともあった。「佐川君、ご家族から電話」と言っておきながら、俺が教室の外に出ると「ああ、切っちゃったんだったわ」と言ってバックヤードに引っ込んでいく。エスカレートしてくると、コーヒーに砂糖をどっさり入れられたり、俺が愛用している鉛筆の芯を全て折られたりと、今時子供でもしないような悪質な嫌がらせも多発した。

ふ瀬部長は決して自分がやったとは言わない。この都市で働く人間は限られている。生徒のせいにはできない。俺が使用している部屋で起こっているので、嫌がらせをする人間は絞られていく。さすがの俺も参ってしまった。今日、俺のテキストのページの間に噛み終えたガムが挟まっていたのだ。ここまで来るとさすがに悪質だ。

俺はそのせいで職場を休んでしまった。家で妻のかずみが入れてくれた熱いコーヒーを飲みながら、愛犬の悪と遊んでいた。「なんかあった?」と妻は聞いてくる。彼女の勘は鋭い。多分、ある程度のところまで見抜かれているだろう。だが、かずは俺の悩みをストレートに受け止め、自分のことのように感じてしまうところがある。テキストに挟まれていたガムのことを思い出し、打ち明けたい気持ちはあったが、さすがにこれは酷だと思って言葉を濁した。

「クラスで受験を決めたんだけど、親御さんと生徒さんの希望のギャップがあってね。揉めてきたんだ」
「そうだったのね。今日はゆっくり体を休めてちょうだい。これからは土日も休みもない毎日になるでしょう」

彼女はそれ以上追及しなかった。俺は職場の仲間に相談した上で、本部の窓口にふ瀬部長の件を相談することにした。しかし、状況は改善されることなく年末を迎える。ガムよりひどいことはなかったが、嫌がらせは日常茶飯事だった。それを聞かされる同僚たちもさすがに辟易していた。

受験生にとって、クリスマスや冬休みはもちろんない。だが、この塾では正月だけは家庭に戻って体を休めることも勉強の1つとしている。その大切な1日で、会社全体の新年会が模様される。受験期を乗り越えるための士気を高めるのだ。この日ばかりは他の都市で働く講師たちも集まるので、情報交換の場にもなる。俺も久々に会える先輩講師から話を聞きたくて、気持ちが浮き立っていた。

新年会は本社がある首都圏の駅前のホテルで開かれる。俺は一足先に家を出て、久々の1人旅を楽しむことにした。新幹線に1時間ちょっと乗車するだけだが、それでも気分が変わる。クロークに荷物やコートを預けて会場に入ると、同期の講師と久々に再会した。「お互い、受験環境の変化についていけなくなっているよね」と笑い合い、明日からまた頑張ろうと気合いを入れる。

そんな風に仲間と話をしていると、奥の方に異様な空気を放つ場所があるのに気がついた。その場所から人がいなくなり、小声で何やら話し合う人々が出てきた。ふとその方向を見ると、女性が1人ウェルカムドリンクを何倍もらげている。ああ、ふ瀬部長か。静まり返ったその場に、俺の声だけが響き渡ってしまった。慌てて口を抑えたが、ふ瀬部長はこちらを認めて歩み寄ってくる。

「ちょっと、あんたなんでここにいるのよ。今回もテストの点数が悪かったリナちゃんのフォローもできない無能は呼んでないのよ。無能は帰れ。ふざけんな」

俺の顔を見て、ふ瀬部長は叫ぶ。ウェルカムドリンクですでに酔い潰れており、目が座っている。俺は短いため息をついた。

「リナちゃんはまだ幼稚園に通っている4歳児ですよ。小学校5年生の英語の問題で、テストも何もないでしょ」

リナちゃんは小学生対象のクラスに特例で通っている幼稚園児だ。親御さんが教育熱心で、スペリオールクラスで勉強している。他の教科はクリアできているが、英語だけはビギナーズクラスでの学習が必要だと判断された。テストの点数が下がったことで失席される謂れはない。

「あんたのその物言いが癪に触るのよ」
「何がですか?」
「書籍を出したからって、調子に乗ってるんじゃないの?」

絡み酒かよ。俺は頭を抱える。西の都市にいる同僚が近づいてきて、ふ瀬部長がなぜヤサグレているのかを耳打ちしてくれた。サブスクで提供しているタブレット用学習アプリの利用率が落ちていることから、本社でも手を入れることになったらしい。そのプロジェクトメンバーにふ瀬部長の名前がないことを、今日初めて知ったという。俺がふ瀬部長について本社の窓口に相談すれば、人事も介入するだろう。実は俺が相談する前から、ふ瀬部長についてパワハラを訴える社員が多く、北の方の都市へ移動させられたことが理由らしかった。

「ムカつく。ムカつく。ムカつく。鉛筆よりアプリの方が断然いいに決まってるでしょ」

俺は一言も発していないのに、ふ瀬部長は立パーティー用の食事を俺に投げつけてきた。俺の顔にケーキのクリームがベッタリとつく。「無能は帰れ。私のような有能な社員だけがこのパーティーに参加できるのよ」と、子供の泣き声のような感覚で、ふ瀬部長は手当たり次第に物を投げつけてくる。

「お止めなさい。見苦しい」

俺が視界を塞いだクリームを拭い取ろうとした時、凛とした女性の声が響いた。聞き覚えのある声だと思ったら、そこにはスーツ姿の妻か、俺を守るように立っていた。

「何よ、あんた。その無能を庇ったって意味ないわよ」
「この人は私の夫です。無能だろうが何だろうが、庇うのは当たり前です」
「何よ。無能は奥さんに知られていないってことなの?」

かずはハッと気づいて俺の方を向き、「ごめんね」と小声で謝った。夫の知られざる姿を妻に見せてしまったと気にしたようだが、俺は全く気にならなかった。

その時、状況を見た社員たちがふ瀬部長を取り押さえる。

「ふ瀬部長、こちらの方は社外取締役の佐川さんだぞ。うちの会社が傾きかけた時に力添えを頂いたコンサルタントだぞ」

かずは元々経営コンサルタントとして起業し、働いていた。この塾が経営不振に陥った時に、立て直しを主導したのが彼女だ。俺とかずはこの出会いで結婚に至った。かずは経営コンサルティング会社の社長として、この塾の社外取締役も務めている。だから妻がこの場所にいても何ら不思議はない。

「ふ瀬さん、あなたについては人事部やパワハラ窓口からも報告が来ています。ご自身が西の方の都市から北の方の都市へ移動された理由は、ご存知ないようですね。それに大切な新年会の席を台無しにしたのよ。今日しかない講師たちの休みを無駄にしたの」

ここまで言われて、ふ瀬部長は急に酔いが覚めたようだ。しっちゃかめっちゃかになったテーブルの上の食事。クリームやソースだらけになっている俺。視線を投げる社員たち。そして、ふ瀬部長と真正面から対峙している社外取締役の俺の妻。顔面蒼白の状態で足元をフラつかせながら、ふ瀬部長はその場を去ってしまった。

会場はめちゃくちゃだし、食事を新たに作ってもらうこともできず、新年会は開催時刻前に中止を余儀なくされた。会場への損害賠償などは全てふ瀬部長に請求するよう、人事部の連中が怒り狂いながら話をしていた。

ふ瀬部長はその後、無断欠勤が続いたため会社から懲戒解雇処分が下された。会社はふ瀬に対し損害賠償請求の訴訟を起こしたが、本人は裁判に現れることもなく敗訴した。クリーニングと破損した重機や食器について30万ちょっとの支払いを命じられたが、今のふ瀬には支払い能力がないようだ。差し押さえなどの強制執行があったとか何とか聞くが、噂の域を出ないので俺はどうなったか知らない。

社員全員の前で無能と罵られた俺は、名誉毀損の訴えを起こしてもいいと法務担当に言われた。「理由は何であれ、懲戒解雇されたんだから、そこは問いませんよ」と。俺が訴えたら、かずの知られざる姿が際立ってしまう恐れがあり、そこは納めることにしたのは事実だ。

かずはその事件について俺に話をすることは一切しなかった。口にすれば、かずとの格差がまざまざと見せつけられてしまうからだ。彼女は経営者で、その他に肩書きがいくつかある。俺はただの営業社員だ。妻の方が稼ぎがいいというのはちょっと悔しいが、彼女はそんなことを一言も口に出さないので本当に助かっている。だから、いつも通り幸せな夫婦生活を続けている。

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