「どうせボロ屋みたいなものだったでしょう。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は一瞬止まった。
3ヶ月の入院生活を終えて、やっと自宅に戻ってきた。タクシーの窓から見えたのは、瓦礫の山と更地だった。37年間、看護師として働き続け、夫と二人で築き上げた思い出の詰まった家が、跡形もなく消えていた。
「母さん、驚いた?でも大丈夫だよ。新しい家を建ててるから。」
息子の新一は、まるで良いことをしたかのような顔で私を見つめていた。
「そうですよ、お母さん。私の両親と一緒に住めるなんて、きっと楽しいですよ。」
嫁のさやも、当然のような口調で言い放った。
私は瓦礫を見つめながら、なぜか心の奥で静かな笑みが浮かぶのを感じた。
「ありがとう。本当にご苦労様。これで全てが楽になったわ。」
その時の私の表情を見た息子夫婦は、きっと感謝されていると思ったことだろう。でも、私の心に宿ったのは、全く別の感情だった。
なぜ私がこんなに冷静でいられたか、それには深い理由があった。
—
私、安藤みつ子は23歳から看護師として働き始めた。朝5時に起きて弁当を作り、夜勤明けでも家事をこなした。それが37年間の私の日常だった。
夫は新一が10歳の時に病気で亡くなった。それからは女手一つで息子を育てた。
「母さん、今日も遅いの?」
幼い新一が寂しそうに聞いてきた時のことを、今でも覚えている。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも、この子のために頑張らなければと、自分に言い聞かせた。
医大への進学を希望した時、学費の工面は本当に大変だった。でも、息子の夢を叶えてあげたかった。6年間で1200万円以上かかった。さらに、結婚する時には500万円を援助した。
「母さん、本当にありがとう。」
その時の新一の笑顔が私の支えだった。息子の幸せが私の幸せ。そう信じて生きてきた。
ところが3ヶ月前、交通事故にあった。横断歩道を渡っている時、信号無視の車にはねられた。肋骨を3本骨折し、内臓にも損傷があった。
入院中、新一は最初の1週間だけ顔を見せた。その後はぱったりと来なくなった。さやに至っては、一度も見舞いに来なかった。退院の日も迎えは来なかった。一人でタクシーを呼んだ。そして、家に戻ってみれば、あの光景だった。
瓦礫の前で呆然としている私に、新一が説明を始めた。
「母さんが入院してる間に決めたんだ。どうせボロ屋だったし、建て替えは必要だったでしょ。」
ボロ屋。息子の口から出た言葉に、胸が締め付けられた。
確かに築40年の家は新しくはなかった。でも、大切に手入れをしていた。壁の塗り替えも5年前にしたばかりだった。でも新一は、私に一言の相談もなく。
「母さんは入院してたじゃないか。それに、どうせ反対されるのは分かってたし。」
さやが横から口を挟んできた。
「お母さん、古い考えに縛られてたら何も進みませんよ。私たちが決めたことなんですから、素直に受け入れてください。」
「母さんの意見なんて聞く必要ない」とでも言わんばかりの態度だった。
「ところで、家の中のものはどうしたの?」
私が尋ねると、新一はあっさりと答えた。
「あ、全部処分したよ。どうせ古いものばかりだったから。」
処分。その言葉が頭の中で響いた。
「父さんの写真は? 形見の腕時計は?」
「そんな古いもの取っておいても仕方ないでしょ。全部ゴミとして出したよ。」
ゴミ。夫との思い出が詰まった品々を、息子はゴミと呼んだ。結婚式の写真も、新一が生まれた時の産着も、家族旅行の思い出も、全てがゴミとして捨てられた。
「母さんの着物もあったでしょ。あれは私の母から譲り受けた大切なものよ。」
「着物? あ、あんな古臭いもの誰も着ないでしょ。全部処分業者に引き取ってもらったよ。」
母から娘へ、母から私へと受け継がれてきた着物。それも失われた。
私は震える声で聞いた。
「仏壇は? お父さんの位牌は?」
「あ、それは新しい家に置く場所がないから、お寺に預けることにしたよ。」
置く場所がない。新しい家には、夫の居場所すらないということだった。
「でも、毎日手を合わせていたのに。」
「母さん、そんな古い習慣にこだわってもしょうがないよ。」
さやが得意げに新しい家の説明を始めた。
「私の両親は1階の南向きの大きな部屋にしました。日当たりも風通しも最高なんです。12畳もあって、専用のトイレとミニキッチンもついてます。」
「じゃあ、私の部屋は?」
「お母さんは2階の北側の部屋です。6畳ですけど、1人なら十分でしょう。」
北側の6畳。それも、元々は物置きとして設計された部屋だと後で知った。
「トイレは2階にもありますから、階段を降りて1階のも使えますし。」
私の足は、まだ事故の影響で完全には回復していなかった。階段の登り降りは辛かった。でも、そんなことは考慮されていなかった。
「あと、生活費のことなんだけど。」
新一が切り出した。
「母さんの年金、月18万円あるよね。それと貯金も3000万円くらいあるはずだ。」
私の財産を、まるで自分のもののように話していた。
「新しい家のローンが月15万円なんだ。母さんの年金で払ってもらえると助かる。」
「でも、それじゃあ私の生活費は?」
「残りの3万円あれば十分でしょ。食事は皆で一緒だし。」
「3万円で病院代も薬代もあるのよ。」
「どれくらい貯金から出せばいいでしょ? それにお母さんの貯金があれば、ローンの頭金をもっと増やせたのに。今からでも遅くないから、通帳と印鑑を渡してください。」
通帳と印鑑を渡せ。まるで強盗のような要求だった。
「ちょっと待って。私の同意もなく家を壊して、勝手にローンを組んで、その支払いを私にさせるの?」
新一の顔が不機嫌になった。
「何言ってるんだよ。親が子供の家のローンを手伝うのは当然でしょ。」
「でも、これは私の家じゃない。さやさんのご両親との同居でしょう。」
さやが声を荒げた。
「何が不満なんですか? 私の両親だって家族でしょう。それに、私の両親はちゃんと生活費として月10万円入れてくれるんです。」
月10万円。さやの両親は余裕があるようだった。なのになぜ私だけが、年金のほぼ全額を取られるのか。
「母さんには他に収入ないでしょ。だから年金を出すのは当然。」
「でも、さやさんのご両親の方が部屋も待遇もいいのはおかしくない?」
「私の両親は大切なお客様ですから。」
お客様。私は客ではなく、ただの財布だった。
「早く通帳を渡してよ。母さんが持ってても仕方ないでしょ。」
新一の言葉に、私は呆然とした。37年間必死に働いて貯めたお金を「仕方ない」と言われた。
「それは私の老後の資金よ。」
「もう63歳でしょ。十分老後じゃない。」
さやが鼻で笑った。
「それにお母さんが亡くなったら、どうせ新一さんが相続するんですから、今渡しても同じことです。」
亡くなったら。まるで私の死を待っているような言い方だった。息子夫婦にとって、私はもう用済みの老人でしかなかった。
—
その夜、私は近くのビジネスホテルに泊まることにした。瓦礫となった自宅には、当然泊まれなかった。新一たちはさやの実家に滞在していた。
翌日の昼過ぎ、新しい家の建築現場を見に行った。もう基礎工事は終わり、柱が立ち始めていた。随分前から計画していたことは明らかだった。
現場の隣にあるプレハブ小屋から声が聞こえてきた。新一とさや。そして、さやの両親の声だった。私は小屋の影に隠れて、聞き耳を立てた。
「あの女、いつまで生きるつもりなんだろうな。」
新一の声だった。あの女。それは私のことだった。
「そうよね。早く死んでくれれば、全財産が手に入るのに。」
さやが同調した。
「でも、看護師だったから健康管理はしっかりしてる。」
「そうね。」
さやの母親が言った。
「だから困るんですよ。下手したら80歳、90歳まで生きるかもしれない。」
新一が渋い声で言った。
「そんなに長生きされたら、こっちが先に参っちゃうわ。」
さやも嫌そうな声を出した。
私は耳を疑った。息子が私の死を願っていた。
「でも、今回の事故でだいぶ弱ったんじゃないか。」
さやの父親が言った。
「それが案外元気なんですよ。頑丈なんです。あの人、頑丈。」
まるで害虫のような言い方だった。
「通帳と印鑑に入れないとね。」
さやの母親が言った。
「大丈夫です。もう逃げられませんから。家もないし、行く場所もない。結局、私たちに頼るしかないんです。」
さやが自信たっぷりに言った。
「それに、もし認知症にでもなってくれれば、成年後見人になって全部管理できます。」
新一の言葉に、私は震えた。息子は私が認知症になることまで期待していた。
「あの人の貯金は、本当に3000万円もあるのか?」
さやの父親が聞いた。
「もっとあるかもしれません。37年も看護師やってて、質素な生活してましたから。」
「それだけあれば、私たちの老後も安心ね。」
さやの母親が言った。私たちの老後。私の金で、さやの両親の老後まで面倒を見るつもりだった。
「母さんには悪いけど、俺たちにも生活があるからね。」
新一が言い訳のように言った。
「悪いことないでしょ。親が子供の面倒を見るのは当然よ。」
さやが言った。
「それにしても、よく家の解体を決断したわね。」
さやの母親が感心したように言った。
「入院中がチャンスだと思ったんです。どうせ反対されるに決まってましたから。」
新一が答えた。
「思い出の品とか、うるさく言われなかった? 全部処分したって言ったら、ショック受けてたわよ。でも、もう遅いからね。」
さやが言った。私の大切な思い出を捨てたことを、笑いながら話していた。
「そういえば、あの人の旦那さんはどんな人だったんだ?」
さやの父親が聞いた。
「25年前に死んだんですよ。俺が10歳の時かな。保険金とか入ったんじゃない?」
「それが、大した額じゃなかったんです。せいぜい500万円くらい。」
「それじゃあ、あの貯金は全部自分で貯めたのね。」
「そうみたいです。ケチケチして貯めたんでしょう。」
ケチケチ。私が爪に火を灯すように節約して貯めたお金を、そう表現した。
「でも、感謝しないとね。そのお金で新しい家が立つんだから。」
さやの母親が言った。
「感謝? 冗談じゃないですよ。」
新一が吐き捨てるように言った。
「俺を育てたのは親の義務です。学費を出したのも当然のこと。感謝する必要なんてない。」
私は胸が張り裂けそうだった。あんなに苦労して育てたのに、「当然」と言われた。
「それに、正直言って迷惑だったんです。」
新一が続けた。
「迷惑?」
「苦労して育てたとか、お金をかけたとか、恩着せがましいじゃないですか。」
恩着せがましい。私は一度もそんなことを言った覚えはなかった。
「確かにそうね。私の親なんて何も言わないもの。」
さやが言った。
「それが普通ですよ。なのにあの人は、いちいち昔の苦労話をする。」
私がいつ苦労話をしただろうか。思い出話をしただけだった。
「ま、もうすぐ片付くだろ。」
さやの父親が言った。
「片付く?」
「だって、家もない。金もない。頼る人もいない。結局、あんたたちの言いなりになるしかないでしょう。」
その通りだった。私にはもう行く場所がなかった。
「それに、もし反抗的な態度を取ったら、施設にでも入れればいい。」
さやの母親が冷たく言った。
「施設なんてお金かかるでしょう。安いところならいくらでもあるわよ。月10万円くらいの。」
「それなら年金で払えますね。残りの8万円は私たちがもらえばいい。」
新一が計算するように言った。さやも便乗した。
私はもう聞いていられなかった。静かにその場を離れた。
足がふらついた。息子に裏切られた衝撃で、まっすぐ歩けなかった。
ホテルに戻る道すら、新一の言葉が頭の中で繰り返された。
「早く死んでくれれば。」
「感謝する必要なんてない。」
「迷惑だった。」
息子は私を母親とは思っていなかった。ただの金ヅルとしか見ていなかった。
37年間必死に働いて、息子のために全てを捧げてきた。でも、それは全て無駄だった。息子にとって私は、邪魔者でしかなかった。
涙が止まらなかった。でも、悲しみと同時に別の感情も湧いてきた。怒りだった。激しい怒りが私の心を支配し始めた。
—
ホテルの部屋で、一晩中考えた。このまま息子夫婦の言いなりになるわけにはいかなかった。
翌朝、私は妹のけい子に電話をかけた。けい子は隣町に住んでいた。
「姉さん、退院したのね。どうしたの? 声が暗いけど。」
私は事情を全て話した。家が解体されたこと、息子夫婦の態度。そして、昨日聞いてしまった会話のことも。
「信じられない。新一君がそんなことを。」
けい子も驚いていた。
「それで姉さん、これからどうするの?」
「実は、あなたに聞きたいことがあるの。」
私は3年前のことを思い出していた。
「覚えてる? 3年前、私があなたに頼んだこと。」
「ああ、あの土地の件ね。」
そう。私は3年前、ある理由で土地の名義を妹に変更していた。夫が亡くなった後、新一の金遣いが荒くなってきたことを心配していた。息子のために、土地だけは守ろうと思った。
「まだそのままよね。」
「もちろん。姉さんから預かってる大切な土地だもの。登記簿もちゃんと保管してあるわ。」
私は安堵の息をついた。新一は知らなかった。土地の名義がすでにけい子になっていることを。
「それともう1つ、確認したいことがあるの。」
私は銀行の貸金庫のことを思い出した。夫の遺言書が、まだ貸金庫にあるはずだった。
夫は亡くなる前に遺言書を作成していた。その中には、ある情報が含まれていた。新一のことを心配していた夫が、最後に残してくれた保険だった。
—
その後、私は弁護士事務所を訪れた。知り合いの看護師から紹介してもらった、相続問題に詳しい弁護士だった。
「安藤さん、大変な目に遭われましたね。」
弁護士の田中さんは、私の話を真剣に聞いてくれた。
「まず、土地の件ですが。3年前に妹さんに売却されたということですね。」
「はい。正式な売買契約書もあります。」
私は契約書のコピーを見せた。司法書士を通じて作成した、完璧な書類だった。
「これは完全に有効です。つまり、息子さんたちは他人の土地に勝手に家を建てたことになります。」
「それは、どういうことになるんですか?」
「建物を撤去して、土地を更地に返還しなければなりません。妹さんが要求すれば、ですが。」
私は頷いた。けい子とはすでに話がついていた。
「次に、ご主人の遺言書ですが。」
田中弁護士は、遺言書のコピーを読み上げた。
「『息子の新一が、母親であるみつ子に対して不幸を働いた場合、一切の財産を相続させない。その場合、全財産はみつ子の判断に委ねる。』」
夫は生前、新一の性格を心配していた。まさかこんな形で役立つとは思わなかった。
「この『不幸』の定義ですが、今回のケースは明らかに該当します。」
「本当ですか?」
「無断で家を解体し、財産を狙い、暴言を吐く。これ以上の不幸はありません。裁判でも認められる可能性は高いです。」
私は涙が出そうになった。夫があの世から私を守ってくれているような気がした。
「それともう1つ、重要なことがあります。」
田中弁護士が続けた。
「息子さんたちが組んだ住宅ローンですが、土地を担保にしているはずです。」
「でも、土地は妹の名義なのに。」
「そうです。つまり、違法な契約の可能性があります。これは大問題になりますよ。」
私は驚いた。新一たちは確認もせずにローンを組んだのだろうか。
「銀行もきちんと確認しなかったんでしょうか?」
「息子さんが『相続予定』とでも言ったのかもしれません。いずれにせよ、大変なことになります。最悪、詐欺に問われる可能性もあります。」
詐欺。息子が犯罪者になるかもしれなかった。
「私はどうすればいいでしょうか?」
「まず、証拠を全て揃えましょう。録音があれば最高ですが。」
録音。私はスマートフォンを取り出した。
「実は、昨日の会話は録音してあります。」
プレハブ小屋での会話を聞いた時、途中からスマートフォンで録音していた。医療現場で証拠を残す習慣が、こんな時に役立った。
「素晴らしい。これで完璧です。」
田中弁護士は自信に満ちた表情を見せた。
「安藤さん、勝てる見込みは十分あります。息子さんたちには、一銭も渡さずに済みます。」
「でも、息子なんです。」
一瞬、迷いが生じた。
「息子さんは、あなたを母親だと思っていますか?」
田中弁護士の言葉が胸に突き刺さった。
「……思っていません。」
「なら、遠慮する必要はありません。法は、正義の味方です。」
その通りだった。もう情けは無用だった。
—
夕方、けい子から電話があった。
「姉さん、準備できたわよ。いつでも立ち退き請求できる。」
「ありがとう。それより、姉さんの体は大丈夫? うちに来る?」
妹の優しさが身にしみた。真の家族とは、血の繋がりだけではないと実感した。
その夜、私は決意を固めた。
明日、全てを明らかにする。新一とさやに、本当の恐ろしさを教えてやる。37年間、看護師として戦ってきた私を甘く見た代償を受けさせてやる。
—
翌朝、私は新一に電話をかけた。
「母さん、どこにいるの?」
「話があるから、建築現場に来て。さやさんとご両親も一緒に。」
「何の話? まさか、また文句?」
「大切な話。30分後に。」
私は電話を切った。
建築現場に着くと、すでに新一が待っていた。さやの両親も一緒だった。朝の光の中で、建てかけの家が不気味に見えた。
「で、何の話?」
新一が苛立った様子で聞いた。
「まずは、これを見て。」
私は土地の登記簿謄本を差し出した。
「何これ?」
新一が書類を見た。その顔色が、みるみる変わった。
「所有者……けい子さん?」
「そうよ。この土地は3年前に妹に売却済みなの。」
「嘘だ。聞いてない。」
新一が叫んだ。
「聞かれなかったから、言わなかっただけよ。」
私は昨日の新一の言葉を、そのまま返した。
「つまり、あなたたちは他人の土地に勝手に家を建てたことになるわね。」
さやの顔が青ざめた。
「そ、それじゃあ、この家は違法建築です!」
私の後ろから声がした。田中弁護士が来ていた。
「私は安藤さんの代理人弁護士、田中です。この件について説明させていただきます。」
田中弁護士が書類を広げた。
「土地の所有者であるけい子さんから、正式な立ち退き請求が出ています。」
「立ち退き? 冗談だろ!」
さやの父親が声を荒げた。
「冗談ではありません。1ヶ月以内に建物を撤去して、更地にして返還してください。」
「でも、もう3000万円もローンを組んだんです!」
新一が必死に訴えた。
「それはあなた方の問題です。他人の土地に無断で建築した責任は、全てあなた方にあります。」
田中弁護士は冷静に答えた。
「しかも、調べたところ銀行への申請書類に虚偽の記載がありました。」
「虚偽の記載?」
「土地を『相続予定地』として申請していますね。しかし、実際は他人の土地だった。」
新一の顔が土色になった。
「お母さん、助けてください!」
さやが私にすがりついてきた。
「他人に助けを求めるなんて、おかしいでしょう。あなたたちが言ったのよ。私は他人だって。」
「私、私たちは家族じゃ……」
「あなたたちが言ったのよ。私は外の人だって。」
さやは言葉を失った。
「それともう1つ、伝えることがあるの。」
私は遺言書のコピーを取り出した。
「これは夫の遺言書。新一、あなたには相続権がないことが書いてある。」
「なんだって!」
新一が遺言書を奪うように見た。
「『息子の新一が、母親であるみつ子に対して不幸を働いた場合、一切の財産を相続させない。』」
新一の手が震えていた。
「不幸って何のことだよ!」
「自分の胸に聞いてみなさい。」
私はスマートフォンを取り出した。
「これを聞けば分かるわ。」
昨日録音した音声を再生した。
「あの女、いつまで生きるつもりなんだろうな。」
「早く死んでくれれば、全財産が手に入るのに。」
新一とさやの顔が真っ青になった。さやの両親も凍りついていた。
「俺を育てたのは親の義務です。感謝する必要なんてない。」
「正直言って、迷惑だったんです。」
音声が終わると、その場は静寂に包まれた。建築現場で働いていた職人たちも、作業の手を止めて見ていた。
「これが、あなたの本心よね。」
私は新一を見つめた。新一は目をそらした。
「母さん、あれは……」
「言い訳はいらない。もう、全て終わりよ。」
田中弁護士が続けた。
「この録音は、親不孝の決定的証拠です。遺言書の条項は、完全に有効です。」
「でも、ローンはどうなるんだ?」
新一が叫んだ。
「それも大問題ですね。」
田中弁護士が書類を見せた。
「あなたは土地を担保にローンを組んでいます。しかし、土地はあなたの所有ではない。これは虚偽です。最悪の場合、詐欺で告発される可能性があります。銀行も黙っていないでしょう。」
新一の顔から血の気が完全に引いた。
「銀行には、すでに通知済みです。明日にでも銀行から連絡が来るはずです。ローンの一括返済を求められるでしょう。」
「一括返済? 3000万円を!?」
「そうです。虚偽申請によるローンは、即座に全額返済が原則です。」
さやが、その場に膝から崩れ落ちた。
「そんな……お母さん、助けて!」
新一が懇願した。
「あら、私はもう『早く死んで欲しい女』でしょう。」
私は冷たく言い放った。
「それに、私の貯金を狙っていたようだけど、残念ね。全額、別の口座に移したから。」
「別の口座?」
「ええ。あなたたちが絶対に手を出せない、信託口座よ。」
実は昨日、全額を信託銀行の特別口座に移していた。私が生きている間は、誰も引き出せない仕組みだった。
さやの母親が口を開いた。
「みつ子さん、新一さんは息子さんでしょう。そこまでしなくても……」
「息子?」
私はきっぱりと言った。
「私には息子はいません。私を母親だと思わない人を、息子と呼ぶ必要はありません。」
さやの父親が、新一に詰め寄った。
「おい、どうするんだ!? うちの娘も連帯保証人になってるんだぞ!」
「連帯保証人ということは、さやさんも同じ責任を負いますね。」
田中弁護士が説明した。
「つまり、夫婦で3000万円の借金を背負うことになります。」
新一は完全に打ちのめされていた。
田中弁護士が最後通告を出した。
「1ヶ月以内に立ち退かない場合、法的措置を取ります。強制執行もあり得ます。」
「1ヶ月!? そんな短期間で!?」
「それと、建物の解体費用も当然あなた方の負担です。概算で500万円程度かかるでしょう。」
さやが泣き崩れた。
「3000万円のローンに、解体費用500万円……そんなの無理に決まってる!」
私は静かに言った。
「これが、親を軽んじた報いよ。」
新一が最後の望みをかけて言った。
「母さん、俺が悪かった。謝るから、許してくれ。」
「謝る? 今更。」
私は首を横に振った。
「あなたは言ったわね。『感謝する必要なんてない』って。なら、謝罪も必要ないでしょう。でも、もう遅いのよ。全て、あなたたちが選んだ道。」
私は背を向けた。
「あ、そうそう。言い忘れていたけど。」
振り返って、付け加えた。
「私、来週からけい子の家でお世話になることにしたの。本当の家族のぬくもりを感じながら、幸せに暮らすわ。」
「母さん、待って!」
新一が追いかけてきた。
「本当に悪かった! 土下座でも何でもする!」
新一は本当に土下座した。でも、私の心は微動だにしなかった。
「35年間、私はあなたのために全てを捧げた。でも、あなたは私を邪魔者と呼んだ。あれは、酔った勢いでも何でもない、本心でしょう。」
私は土下座する新一を見下ろした。
「もう二度と、私の前に現れないで。」
—
その日の夕方、新一から何度も電話があった。でも、私は一切出なかった。着信は100件を超えた。メッセージには「助けて」「お願い」「死んでしまう」という言葉が並んでいた。でも、私の心は動かなかった。
数日後、さやの両親から連絡があった。
「娘夫婦が大変なことになっています。なんとか……」
「申し訳ありませんが、私には関係ありません。」
私は電話を切った。
1週間後、新一とさやは離婚した。さやの両親が娘を連れて帰ったらしい。多額の借金を背負った新一と一緒にいる理由がなくなったのだろう。
新一は、一人で安アパートで暮らし始めた。借金返済のため、昼も夜も働いているという。医師の資格も、信用を失った今、まともな病院では使えなくなった。
因果応報。まさにその通りだった。親を粗末にした者の末路だった。
—
あれから3ヶ月が経った。
私は妹のけい子の家で、穏やかな日々を送っていた。けい子の家は庭付きの平屋で、私には離れの和室を用意してくれた。朝日が差し込む、明るい部屋だった。
「姉さん、朝ご飯できたわよ。」
けい子の優しい声で目が覚める。これが本当の家族のぬくもりだと、毎朝感じていた。
「今日は病院の検診でしょう。送っていくよ。」
けい子の夫も、実の姉のように接してくれた。新一とさやからは一度も見舞いすら受けなかった入院生活とは、天地の差だった。
庭には小さな家庭菜園を作った。トマトやキュウリを育てながら、土に触れる生活は心を癒してくれた。37年間の看護師生活では味わえなかった、ゆったりとした時間が流れていた。
「みつ子おばあちゃん、これ見て!」
けい子の孫が絵を見せてくれた。私と一緒に野菜を収穫している絵だった。
「上手に描けたわね。」
孫は私を、本当のおばあちゃんのように慕ってくれた。新一が小さかった頃を思い出した。あの頃の新一は、純粋で優しい子だった。どこで道を間違えたのだろうか。
ある日、けい子が教えてくれた。
「新一君のこと、風の噂で聞いたわ。」
新一は今、コンビニで深夜バイトをしているらしかった。医師免許は持っていても、信用を失った今、まともな病院では働けなかった。借金返済で、1日15時間働いているそうだ。
「3500万円の借金。ローンと解体費用を合わせた額だった。月々の返済は25万円。コンビニバイトと日雇い労働で、ギリギリ払っているというわ。」
昼は工事現場で肉体労働。夜はコンビニ。休みは月に2日だけらしい。
けい子の言葉に、複雑な気持ちになった。でも、同情はしなかった。
「さやさんとは離婚して実家に戻ったけど、連帯保証の借金は残ってるから、そっちも大変みたい。一切会っていないそうよ。」
さやの両親も、娘の借金返済を手伝っているらしい。あんなに偉そうにしていた人たちが、今は借金に追われる日々だった。老後の蓄えも、全て借金返済に消えたという。
「さやさんも働き始めたそうよ。スーパーのレジで。」
医者の妻として優雅に暮らしていたさやが、今はレジ打ちをしているとは。
「かわいそうだと思う?」
けい子が聞いてきた。
「思わないわ。」
私は正直に答えた。
「自分で蒔いた種は、自分で刈り取るもの。それが人生の道理よ。」
けい子は頷いた。
「姉さんは強いわね。」
「強くなったの。裏切られて、初めて目が覚めた。」
—
夕方、私は仏壇に手を合わせた。けい子が、夫の位牌を引き取ってくれていた。
「あなた、見ていてくれたのね。」
夫の遺言書が、私を救ってくれた。きっと、こうなることを予感していたのだろう。生前、夫は新一の金遣いの荒さを心配していた。
「新一には気をつけろよ。」
その言葉の意味が、今になってわかった。
テレビでニュースを見ていると、高齢者を狙った財産トラブルの特集をしていた。親の財産を狙う子供たち。その実態は、まさに私が経験したことだった。
「親を軽んじる子供が増えています。しかし、親にも正当な権利があります。理不尽な要求には、毅然とした態度で臨むべきです。」
その通りだと思った。
統計によると、高齢者の財産を狙う家族間トラブルは年々増加している。キャスターの言葉が続いた。
「親も、自分を守る準備が必要な時代になったということですね。」
私の物語は、決して特別なものではない。全国に、同じような苦しみを抱えている高齢者がいるはずだ。でも、諦めてはいけない。理不尽に屈してはいけない。正義は必ず勝つ。私が、その証明だった。
37年間、看護師として多くの患者さんを見届けてきた。その中で学んだことがある。人生の最後に残るのは、お金でも地位でもない。愛情と感謝の心だけだった。
新一はそれを忘れてしまった。親への感謝を忘れ、金銭欲に目がくらんだ。その結果が、今の惨状だった。
私は、これまでのことを記録した。この経験を、同じ境遇の人たちに伝えたかった。
「親不孝には必ず天罰が下ります。でも、親孝行には必ず幸せが訪れます。」
そう書いた。
「理不尽に屈しない勇気を持ちましょう。正当な権利を主張することは、決して悪いことではありません。」
ペンが進んだ。
けい子の家族は、私を温かく迎えてくれた。血の繋がりより、心の繋がりの方が大切だと実感した。
「姉さん、今日は鍋にしようか。」
けい子の提案に、私は笑顔で頷いた。
「いいわね。みんなで囲む鍋は、格別よ。」
家族団欒の夕食。これが、私が本当に求めていたものだった。
けい子の夫が言った。
「みつ子さんが来てくれて、家が明るくなりました。子供たちも、おばあちゃんができて喜んでます。」
けい子も微笑んだ。こんな温かい言葉を、新一からは一度も聞いたことがなかった。
窓の外では、秋の虫が鳴いていた。平和で穏やかな時間が流れていた。
私は今、本当に幸せだった。財産を守り、尊厳を守り、そして本当の家族の愛を手に入れた。
新一のことを思い出すこともある。でも、もう心は痛まない。彼は彼の選んだ道を歩んでいる。私は私の道を歩む。それでいいと思った。
人生は長いようで短い。63歳の私には、まだまだ時間がある。その時間を、本当に大切な人たちと過ごしたい。
私の勝利は、理不尽に屈しなかった証だった。同じような境遇の方々に言いたい。諦めないで、戦う勇気を持って。正義は必ず勝つから。
親を欺くものに、幸せは訪れない。これは永遠の真理だ。
因果応報という言葉がある。良い行いには良い報いが、悪い行いには悪い報いが返ってくる。新一とさやは、まさにその実例だった。
私の物語が、誰かの勇気になれば幸いだ。理不尽と戦い、勝利を掴む勇気を与えられれば、これほど嬉しいことはない。
今日も、けい子の家には笑い声が響いていた。これが、本当の家族の形だった。



