重く垂れ込めた鉛色の雲が冬の空気を一層冷たくしていた。家庭裁判所の無機質な正面玄関から一歩踏み出すと、身を切るような風が高橋あずさの着古したコートの隙間から容赦なく忍び込んでくる。手にしていた一枚の紙切れ、離婚届の控えが、かさりと虚しい音を立てた。
隣で元夫となった斎藤健太が大きく伸びをしながら、感慨の声をあげた。
「ああ、清々した。まるで10年分の重りが落ちたみたいだ。ここの空気はこんなにうまかったのか。」
健太はまるでゴミでも見るかのような無礼な視線をあずさに向け、鼻で笑う。その顔には、長年の重荷から解放されたという安堵と、あずさに対する憎悪が見苦しく浮かんでいた。
あずさはカサカサに乾いた唇をきつく噛みしめた。臨月を迎え、大きく突き出た腹部がまるで鉛の塊のように重く、腰をまっすぐに伸ばすことさえ苦痛だった。コートの裾を握りしめる手の甲は痩せこけ、痛々しいあかぎれが走っている。ただ、じっと健太を見つめ返すことしかできなかった。
「なんだよ。その目は、まだ俺に恨みでもあんのか。」
健太はポケットに手を突っ込むと、小銭を軽薄に鳴らした。あずさは震えそうになる声を必死に絞り出した。
「後悔しないの。このお腹の子は、あなたの血を引いた、あなたの子供なのよ。」
「くだらねえ。」
健太は忌々しげに顔を歪め、あずさの膨らんだ腹を指差した。
「裁判でも言ったはずだ。その気味の悪い話はもううんざりなんだよ。養育費だの慰謝料だの、一銭とも払う気はねえからな。何も持たずに嫁に来たくせに、どこから金が出ると思ってんだ。」
「お金なんていらない。あなたみたいな父親、この子には必要ないわ。」
「そりゃ好都合だ。せいぜい勝手に産んで、勝手に育てるんだな。」
プライドをひどく傷つけられたように感じた健太は、無作法に足元のコンクリートに唾を吐きかけた。その仕草が、まるで今のあずさの価値そのものであるかのように思えて、彼女の心臓は鋭い氷の刃で突き刺されたような痛みに襲われた。
健太は車のキーを取り出すと、あずさに聞こえよがしに大声で電話をかけ始めた。スピーカーから漏れる高い女の声に、健太の表情が途端にとろけるように緩む。
「あ、みさ? おう、今終わった。うん、反抗してきた。これでも俺たちの世界だ。すぐそっちに行くよ。ああ、何かうまいもんでも予約しといてくれた?」
鼻歌交じりに電話を続けながら、健太は階段を軽やかに降りていく。その背中が完全に視界から消えるまで、あずさは詰めていた息を細く長く吐き出した。全身の力が抜け、膝がガクガクと震える。今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだったが、奥歯を強く噛みしめ、必死に耐えた。
その時だった。裁判所の車寄せの方から、重低音のような重厚なエンジン音が響き始めた。あずさが顔を上げるより早く、黒々と輝く最高級リムジンがハザードランプを点滅させながら、まるで獲物を見定めているかのように滑り込んできた。周囲にいた人々が、何事かと足を止める。リムジンの車列は、まるであずさのためだけに用意された舞台装置のように、彼女の目の前で寸分の狂いもなくぴたりと停車した。
何が起きているのか、あずさには全く理解できなかった。次の瞬間、先頭車両のドアが静かに、しかし威圧的に開いた。中から現れたのは、高価なブラックスーツに身を包んだ屈強な体格の男たち。彼らはまるで訓練された兵士のように一糸乱れぬ動きで次々と降車すると、あずさを護衛するようにその左右に完璧な二列の壁を形成した。あまりに非現実的な光景に、足を止めた通行人たちが息を飲んで見守っている。駐車場に向かっていた健太も、まだ携帯を耳に当てたまま、その場で凍りついていた。あんぐりと開いた口が、彼の動揺を物語っている。
あずさが呆然と立ち尽くしていると、二台目のリムジンの後部座席のドアが内側からゆっくりと開かれた。静寂がまるで張り詰めた糸のように裁判所の広場を支配していた。男たちが作り出した道の先、開かれたドアの奥に広がる深い闇を、誰もが息を殺して見つめている。あずさの心臓が不安と恐怖で激しく鼓動を打っていた。
リムジンの深い闇の中から、磨き上げられた革靴が静かにアスファルトを踏んだ。続いて現れたのは、金髪を隙なく整え、まるで彫刻のように厳格な表情をした初老の男だった。その男がまとう空気は、周囲のざわめきを一瞬で凍てつかせるほどの威圧感を放っていた。
男――総天グループ秘書室長、黒田――は、まるであずさ以外の人間は存在しないかのように、まっすぐに彼女を見つめていた。その鋭い視線に射抜かれ、あずさは思わず一歩後ずさる。黒田は迷いのない足取りであずさの元へ歩み寄ると、彼女の数歩前でぴたりと足を止め、背筋を伸ばしたまま腰を直角に折り曲げた。それはビジネス上の会釈ではない。心の底からの敬意と忠誠を示す、九十度の最敬礼だった。
「お嬢様、お迎えが遅くなり、大変申し訳ございません。」
腹の底から響くような重く明瞭な声が、裁判所の広場にこだました。「お嬢様」――その言葉が誰に向けられたものか、周囲の人々が理解するのに数秒を要した。そして、その視線が一斉に見すぼらしいコートをまとった臨月の女、あずさへと注がれる。あずさ自身も目の前で起きていることが信じられず、ただ瞬きを繰り返すばかりだった。
黒田に続いて、整列していた十名のボディガードたちも寸分の狂いもなく一斉に頭を下げ、声を揃えた。
「お嬢様、お待たせいたしました。」
遠くでその光景を目の当たりにした健太は、電話の相手も忘れ、ただ口を半開きにして立ち尽くしていた。昨日まで自分に頭を下げ、顔色を伺って生きていた女が、今や屈強な男たちに囲まれている。健太の足がわなわなと震え始めた。
あずさが呆然と黒田を見つめていると、彼はゆっくりと顔を上げた。
「会長が首を長くしてお待ちでございます。」
そう言うと、黒田はあずさが着ていた使い古しのコートにそっと手をかけ、慎重に脱がせた。そして、どこから取り出したのか、最高級の白いファーが縁取られたケープを、ふわりと彼女の肩にかける。温かく柔らかな感触が、冷え切ったあずさの全身を優しく包み込んだ。それは今まで感じたことのないような、上品で気品のあるぬくもりだった。
「お腹のお子様はお元気でいらっしゃいますか? すっかり冷え込んでまいりました。さあ、早く車内へお入りください。」
黒田は恭しくリムジンの後部座席のドアを開けた。中には柔らかな光を放つ本革のシートがしつらえられ、広々とした空間が広がっている。あずさは肩にかけられたケープに視線を落としたまま、小さく頷いた。
その一連の流れを、悪夢にでも見舞われたかのように目を白黒させて見つめていた健太の脳裏に、一つの考えが電撃のように走った。――そうか。そういうことか。金がない、金がないと嘆いていたくせに、とっくに別の男に乗り換えていたのか。健太の顔が瞬時にどす黒い別の色に染まった。身寄りのないあずさに、こんな高級車が迎えに来る理由など一つしかない。どこかの金持ちの爺の愛人か、パトロンでも見つけたに違いない。そうでなければ説明がつかない。
途端に恐怖は怒りへと変わった。
「おい、高橋あず!」
健太は獣のような叫び声をあげ、あずさの方へ駆け寄ろうとした。しかし、あずさは彼に一瞥もくれなかった。それどころか、黒田に支えられ、まるで女王のように誇らしげな足取りでリムジンのステップに足をかける。
「おい、聞こえねえのか? そんな車に乗り込みやがって、いい加減にしろよ。このビッチが!」
健太が裏返った声で鳴り立てた。その瞬間、二人の黒服のボディガードが巨大な壁のように彼の行手を阻んだ。鋭い眼光に射抜かれ、健太は思わず短い悲鳴を漏らし、後ずさる。
「な、なんだお前ら! 人様の夫婦の問題に首を突っ込むんじゃねえ!」
恐怖と怒りにかられた健太は、ポケットから震える手でスマートフォンを取り出した。そして、リムジンに乗り込むあずさの姿を像を込めてカメラに収める。
「いいぞ。それでいい。証拠だ。お前がどれだけ節操のない汚い女か、世間中にばらまいてやるからな。」
撮った写真を確認し、健太は歪んだ笑みを浮かべた。あずさを乗せたリムジンの窓が静かに上がっていく。黒いスモークが掛かったガラスの向こうに、あずさの冷たい横顔が見えたのが最後だった。やがて五台のリムジンは、あっという間に裁判所の駐車場から走り去っていく。健太は遠ざかる車のテールランプを見送りながら、再び地面に唾を吐きかけた。
「けっ、バカみたいに大げさな行列作りやがって。どうせ年寄りの慰み物になって、すぐに捨てられるのが落ちだ。せいぜい上手い飯食って、せいぜい長生きしろよ。」
彼は耳にスマートフォンを当て直すと、今しがた収めた写真を浮気相手のみさに送信した。
「みさ、今とんでもないもん見ちまったよ。写真を送ったから見てみろよ。あの高橋あずさって女、どっかのじじい会長の愛人になったみたいだぜ。傑作だろう。」
健太は嘲笑いながら自分の車に乗り込んだ。無人の裁判所の前には、あずさがリムジンに乗り込む際に脱げ落ちた、一足のすり切れたスニーカーだけが、まるで彼女が捨ててきた過去の象徴のように、ぽつんと残されていた。
――時は三年前へと遡る。
総天グループ本社最上階に位置する会長室。重厚なマホガニーのデスクの向こうで、父・高橋剛さんが重い沈黙を保っていた。夜景を背負うその姿は、まるでこの国の経済界を支配する王のように異彩に満ちている。その前に高橋あずさは、決然とした表情で立っていた。
「お父様、私は今日限りでこの家を出て行こうと思います。」
剛の眉がわずかにピクリと動いた。
「これからは、高橋あずさというただの一個人の名前だけで生きていきたいのです。私の背景を見て群がってくる人々、お金の匂いに引き寄せられるハイエナたち。もううんざりなんです。」
「その頑固さはわしに似た。」
剛さんはため息と共に静かに口を開いた。その声には怒りよりも深い疲労と、娘を案じる親心が滲んでいた。
「だが、覚えておけ。お前が飛び込もうとしている外の世界は、お前が想像しているよりもずっと冷たく厳しい場所だ。一度捨てたものを、再び拾い上げることはできんぞ。」
父の警告を背中で受け止めながら、あずさは静かに会長室を後にした。自室に戻った彼女は、ウォークインクローゼットに並ぶ目も眩むようなブランドバッグや宝飾品の数々を、無心でダンボール箱に詰めていった。それはこれまでの総天グループ令嬢・高橋あずさという偶像を、一枚一枚はぎ取っていく作業のようだった。代わりに、先日こっそりと商店街で買い揃えた安価で実用的な服をスーツケースに満たしていく。全てを捨てて、本当の自分を見つけたい。肩書きや財産ではなく、私という人間そのものを愛してくれる人に出会いたい。その一心だけが彼女を突き動かしていた。
総天グループの令嬢という鎧を脱ぎ捨てたあずさは、都心から少し離れた場所にある小さな中小企業に経理担当として入社した。斎藤健太と出会ったのは、その会社だった。当時の健太は真面目で、どこか朴訥とした印象の青年だった。派手さはないが、仕事に対する真摯な姿勢は周囲からも評価されていた。
あずさが慣れない仕事に戸惑い、深夜まで一人で残業をしていた夜のことだった。ガチャリとオフィスのドアが開く音がして、あずさはびっくりと肩を震わせた。そこに立っていたのは、帰ったはずの健太だった。
「高橋さん、まだいたんだ。お疲れ様。」
彼は少し照れくさそうに笑いながら、あずさのデスクに歩み寄ってきた。その手には、自販機で買ってきたのであろう温かい缶コーヒーが握られている。
「これ、よかったら。夜はまだ冷えるから。」
「あ、ありがとうございます。斎藤さん。」
差し出された缶コーヒーを受け取ると、じんわりとしたぬくもりが冷え切ったあずさの指先から心にまで染み渡っていくようだった。その日から健太は、ことあるごとにあずさを気遣ってくれた。難しい仕事で頭を抱えていると、「手伝おうか」と声をかけてくれる。昼休みには手作りの粗末なお弁当を広げながら、「高橋さんは何が好きなの?」と他愛もなく話しかけてくる。彼の周りには、あずさがこれまで生きてきた世界にあったような打算や下心といったものが、一切感じられなかった。持っているものは多くないかもしれない。しかし、この人には真心がある。あずさがそう信じるのに、多くの時間は必要なかった。健太のその飾らない優しさに、あずさは次第に心を開いていった。
「高橋さんって、なんだかお嬢様みたいだよね。」
ある日、健太にそう言われて、あずさの心臓がどきりと跳ねた。
「そ、そうですか? 私なんて普通の、どこにでもいる人間です。」
「そうかな。でもすごく品があるよ。それに、どこか寂しそうだ。俺でよかったら、いつでも話聞くからさ。」
そう言って笑う健太の笑顔は、あずさにとってまるで冬の日差しのように温かかった。この人なら、本当の私を見てくれるかもしれない。この人となら、お金や家柄に縛られない本当の幸せを築けるかもしれない。その淡い希望こそが、家族の猛反対を押し切ってまで、あずさを健太との結婚へと突き動かす原動力だった。剛さんは最後まで結婚に反対した。
「男を見る目がないぞ、あずさ。あの男の目の奥には、満たされない渇望とどす黒い嫉妬が渦巻いている。お前を幸せにはせん。」
しかし、恋は盲目だった。父の言葉はただの偏見と嫉妬にしか聞こえなかった。
「お父様は、私の幸せを邪魔したいだけでしょう。」
そう言い放ち、あずさは父との間に決定的な亀裂を作ってしまった。
豪華なホテルの結婚式ではなく、区役所の簡素なホールで挙げた結婚式。あずさの親族は一人もいなかった。その空っぽの席を見て、鼻でせせら笑う斎藤エツ子の不満顔を、あずさは今でも鮮明に覚えている。
「まあ、なんてことでしょう。よりによって身寄りのない女を嫁に迎えるなんて。私の前世に、どんな罪があったっていうのかしら。」
対面に聞こえよがしに投げつけられるエツ子の声。あずさはウェディングドレスの裾を強く握りしめ、ただ俯くことしかできなかった。隣に立つ健太は、母を止めるどころか、困ったように遠くの空を見つめているだけだった。あの時、すでに悲劇の種は巻かれていたのだ。これから始まる生活が地獄そのものであることなど、この時のあずさは知るよしもなかった。彼女はまだ、健太が差し出してくれた缶コーヒーのぬくもりだけを信じていたのだから。
結婚生活は文字通り地獄だった。健太の事業が些細なことで傾くたびに、その矛先は必ずあずさに向けられた。まるで夫の不運の全てが、彼女という疫病神のせいであるかのように。
「あんたが来てから、うちの健太の運気が下がったんだよ。」
義母・エツ子の怒号が新居の壁に反響する。その声はまるで耳元で叫ばれているかのようだった。
「食事くらい、ちゃんと作ったらどうなんだ?」
ある日の夕食時、健太はちゃぶ台を激しく叩きつけながら、あずさに掴みかからんばかりの勢いで怒鳴った。あずさが恐る恐る蓋を取った飯釜からは、鼻をつくような酸っぱい匂いが漂ってくる。茶碗の隅には青緑色のカビがうっすらと浮き、炊き上がった米は黄色く乾燥し、ひび割れていた。添えられていたのは、数匹の干し魚と醤油の小袋だけだった。
「お、お母さん、このご飯、少し傷んでるみたいなんですが……」
あずさが恐る恐るそう指摘すると、エツ子の顔は見る見るうちに般若のような形相に変わった。
「あ? だ、だと? この嫁が、この米が痛んでいると? 私が若い頃は、こんなもん食べたくても食べられなかったってのに。どの口がそんな贅沢なことを抜かすんだ。」
「い、いえ、そんなつもりでは……」
「お前はこの家の人間じゃないんだ。私たちが慈悲で食わせてやってるんだということを、よく理解しろ!」
エツ子の怒涛のような罵声は止まらない。健太もその場にいたが、ただ困ったように視線を彷徨わせるばかりで、母を静止しようとはしなかった。
「ちょっと、あんた! 腹の子を言い訳にするんじゃないよ!」
エツ子はあずさの傍らに置かれた、わずかに膨らんだ腹に指を突きつけた。
「生むまいが、どうでもいいんだよ。あんたが来てから、健太の会社は傾く一方だ。全く、なんてついてないんだ、お前は。」
この言葉は事実とはかけ離れていた。健太の事業の失敗は、元をたどれば彼自身の無謀な投資と、みさという女性にそそのかされた詐欺紛いの計画にあった。しかしエツ子はそれを一切認めようとせず、全てをあずさのせいにした。
「こんな不運な嫁、追い出してしまわないと、うちの運まで全部吸い取られちまう。」
エツ子はそう吐き捨てると、台所から一袋の塩を持って戻ってきた。そして、吐き気をもよおして洗面所に駆け込んだあずさの後ろから、容赦なくその塩を浴びせかけたのだ。
「ほら、これで厄払いだ。不運なやつは、塩を巻くのが一番なんだよ。」
白い塩の粒があずさの濡れた髪や肩に、雪のように降りかかった。あずさはただ涙をこらえ、腹を抱えてうずくまるしかなかった。
その夜、健太が仕事から帰宅した。ドアを開けた途端、部屋中に充満したのは酒と苛立ちの混じった、蒸せ返るような臭いだった。健太はネクタイを乱暴に緩めると、それを床に投げ捨てた。リビングの壁には、数日前に差し押さえの通知書が何枚も貼り付けられていた。弁護士事務所から送られてきた債権者たちの無言の脅しだった。
「ああ、もうだめだ。何をやってもうまくいかねえ。」
健太はソファに苛立たしげに蹴りを入れると、荒い息を整えた。あずさは震える足で健太に近づいた。
「あなた、大変なのね。お水どうぞ。」
そう言ってコップに水を差し出す。しかし健太は、あずさの手をまるで虫を払うかのように乱暴に振り払った。コップが床に落ち、ガラスが砕け散る。破片があずさの足元に飛び散った。
「お前は一日中家にいて、何をしてやがるんだ。俺が外で必死こいて働いてるっていうのに。」
健太は怯えた表情で立ち尽くすあずさを睨みつけながら、さらに続けた。
「母さんの言う通りだ。お前と出会ってから、俺の人生はめちゃくちゃになった。」
「あなた、ひどい。私だって、一人でこの子を抱えて、どうやって生きていけばいいっていうの?」
あずさの声は恐怖で震えていた。
「うるせえ! 赤ん坊を言い訳にするんじゃねえ。」
健太はあずさの膨らんだ腹に剣呑な視線を投げかけると、顔を背けた。その時、健太のスーツのポケットから、けたたましい着信音が鳴り響いた。画面に表示された名前は「みさ」。健太はあずさの顔をちらりと盗み見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべて電話に出た。
「あ、みさ? おう、家にいるよ。なんだよ、やめてくれよ、帰って来たばかりでもう疲れたんだよ。……そうだ、あの投資の話、どうなったんだ? 父さん、乗り気なんだ。本当か? ありがとう。みさ、やっぱりお前しか頼りにならねえよ。」
先ほどまで怒鳴り散らしていた男が、まるで別人のように甘い声色で話している。あずさの心臓が嫌な予感と共に締めつけられた。
「誰、なの? その女。投資の話って……」
あずさが震える声で訪ねると、健太は電話を切ると、あずさに向かって意地の悪い笑みを浮かべて歩み寄った。
「さあ、誰だろうな。お前なんかとはレベルが違う、大事な人だよ。」
彼はみさとの関係を、まるで誇示するかのように続けた。
「みささんの家は、とてつもなく金持ちなんだ。彼女の家が、俺の会社に投資してくれることになったんだよ。」
「あなた、私を騙してたの? 浮気……?」
「はっ、笑わせるな。これはビジネスだ。ビジネスだろう。それに正直、金持ちの娘と一緒になる方が、俺の人生にとってずっと有益じゃないか。」
健太は茶色くくしゃくしゃになった封筒を掴み出すと、テーブルに叩きつけた。それは離婚協議書だった。そして、その下にはもう一枚の紙が添えられていた。――親権放棄に関する書類だ。
あずさの手が小刻みに震え始めた。
「な、なにこれ?」
「拇印を押せ。慰謝料も養育費も、俺は払わねえ。子供の親権も、お前が取るんだ。俺は払う気もないし、払えねえ。いいな。」
「斎藤健太、あなたって本当に最低の屑よ。」
「なんだと? 俺は父親だぞ。俺の子だという証拠でもあるのか? お前みたいな寝なし草が、どこから来たかも知らんのに、どうやって信用しろって言うんだ。」
「でたらめを……」
健太はテーブルを蹴り飛ばし、食器が飛び散った。その音に、部屋にいたエツ子が慌てて飛び出してくる。
「あらあら、どうしたの? 健太、またあの女に何かされたの?」
「母さん、こいつ、俺の子だって言ってるんだ。でも俺の子じゃないって言うんだ。なんだっていい加減にしなさいよ、あんた! さっさと拇印を押せ。今すぐだ。さもないと、その腹の子がどうなるか、分かってんだろうな。」
健太の目は、すでに理性を失った獣のような光を宿していた。あずさは震える指先で、腹の中の小さな命を守るようにそっと腹を撫でた。そして、震える指を、机の上に置かれていた印肉につけた。父に背き、全てを捨てて選んだこの男。その男に、これほどの辱めを受けるとは。あずさは、ゾッとするほど冷静な自分に気づいた。彼女は、怒りと屈辱にまみれた健太の顔を睨みつけ、その赤い指先を、親権放棄の書類に強く押し付けた。
「これでいいんでしょう。」
それは彼女の最後の抵抗であり、そして、全てを捨てる覚悟の証だった。
「これで……いいんでしょう。」
あずさの声はか細く、それでいて怨嗟のような響きを持っていた。その瞳の奥には、もはや一点の愛情も残ってはいなかった。
健太はひったくるようにその書類を奪い取ると、満足そうに歪んだ笑みを浮かべた。
「ああ、そうだ。最初からそうすりゃいいんだよ。」
彼はその紙をエツ子に見せびらかす。
「母さん、見たか? これでようやく厄介払いができたぞ。」
「まあ良かったわね、健太。これでうちの家も安泰よ。」
エツ子は喜悦の声をあげ、あずさを蔑んだ目で見下ろした。
「さあ、用が済んだなら、とっとと出て行きな。あんたの荷物はこれだけだろう。」
健太はあずさが嫁ぐ時に持ってきた、たった一つの古びたスーツケースを玄関の外へ蹴り飛ばした。ガラガラと安っぽい音を立てて、スーツケースが冷たい廊下に転がる。
「ま、待って。靴、暗い……」
あずさが言いかけた言葉は、健太の怒号によって遮られた。
「うるせえ! グズグズするなら、お前の顔なんてもう二度と見たくねえんだよ!」
健太はあずさの腕を乱暴に掴むと、まるでゴミでも捨てるかのように、玄関の外へと突き飛ばした。バランスを崩したあずさは、なす術もなく冷たいコンクリートの床に手をつく。裸の足の裏から、突き刺すような冬の冷たさが容赦なく染み上がってきた。
「二度と俺たちの前に現れるなよ。この疫病神が!」
背後で玄関のドアがものすごい音を立てて閉められた。重い鉄の扉があずさと、かつて家族だった者たちとの間を無慈悲に隔てる。ガチャリと鍵が閉まる音が、夜闇に大きく響いた。ドアの向こう側から、健太とエツ子の解放されたような笑い声と、スピーカーフォンの女の高い声が漏れ聞こえてくる。
「あー、すっきりした。みさ、おう、やっと全部片付けたよ。明日からは俺たちの新しい人生の始まりだ。」
「あら、まあ。お母様も、明日は美味しいものでもご馳走しますわね。」
「嬉しいわ、みささん。あんたこそ、私たちの本当の娘よ。」
冷たいコンクリートの床に座り込んだまま、あずさは腹を抱え、声にならない慟哭を漏らした。悔しさ、悲しみ、そして裏切られたことへの燃えるような怒り。様々な感情が嵐のように渦巻き、涙となって頬を伝う。しかし、その涙は絶望の色だけではなかった。暗闇の中、俯いていたあずさの顔が、ゆっくりと上がる。涙に濡れたその瞳には、闇の中で静かに、そして鋭く、まるで研ぎ澄まされた刃のように光を宿していた。
斎藤健太、斎藤エツ子、そして桜井みさ。心の中でその三人の名前を繰り返し刻み込む。あなたたちが私から奪ったもの。私とこの子にした仕打ち。あずさはそっと自身のお腹に手を当てた。すると、それに答えるかのように、お腹の中で小さな命が不思議なほど力強く動いた。
「大丈夫よ。私が必ずあなたを守るから。」
それは無力な被害者としての涙ではなかった。全てを奪われ、どん底に突き落とされた一人の女が、たった一つの守るべきもののために、母親として、一人の人間として立ち上がることを誓った瞬間だった。赤い拇印は屈辱の証ではない。過去を断ち切り、新たな戦いを始めるための血の契約。閉ざされたドアの向こうで響く、愚かな者たちの笑い声を聞きながら、あずさは静かに立ち上がった。裸足のまま、冷たい廊下を一歩また一歩と進んでいく。その足取りには、もはや一点の迷いもなかった。彼女の本当の人生は、この絶望の底から今始まろうとしていた。
――それから半年という月日が流れた。
斎藤健太の事務所は、もはや見る影もなかった。誇りっぽい空気が淀み、床には飲み干されたエナジードリンクの空缶やカップ麺の容器が散乱している。机の上に山と積まれた書類は、そのほとんどが赤字で特急催促された、死刑宣告のような紙切れだった。その静寂を破り、ドアが破られんばかりの勢いで開いた。
「よう、斎藤社長。まだ生きてたか?」
黒いジャージ姿の屈強な男たちが、土足で事務所に殴り込んでくる。先頭に立つ男の腕からはドス黒い入れ墨が覗いていた。――闇金業者の取り立てだった。
「ひ、ひい兄貴! お待ちしておりました。」
健太は椅子から転げ落ちるように立ち上がると、愛想笑いを浮かべて男たちに駆け寄った。
「待ってたよ。とっくに期限は過ぎてんだよ。」
大柄な男は健太の胸ぐらを掴み上げると、机の上に叩きつけた。ガシャンと書類の山が崩れ落ちる。
「さっさと金出せや。これ以上待てねえぞ。」
「も、もう少しだけ。あと少しだけお待ちください! 今月末には必ずでかい契約が決まるんです。そうすれば、元金も利息も全部まとめてお返ししますから。」
「まだそんな寝事を言ってんのか。このガキは。」
男は呆れたように舌打ちすると、部下たちに顎をしゃくった。
「おい、目ぼしいもん全部持ってけ。」
その号令一下、男たちは事務所の備品を片っ端から破壊し始めた。パソコンのモニターが床に叩きつけられ、高い音を立てて砕け散る。ファイリングされていた書類の束が、まるで吹雪のように舞い散る。健太は机の下に這いつくばり、頭を抱えてただ震えることしかできなかった。
その阿鼻叫喚の最中だった。壁にかけられた古びたテレビから、けたたましい速報のチャイムが鳴り響いた。
「次のニュースです。資産家を装い、中小企業の経営者らから数十億円を騙し取ったとして、桜井みさ容疑者が、本日未明、フィリピンへ逃亡したことがわかりました。警察は国際手配を……」
健太は雷に打たれたように顔を上げた。テレビ画面に映し出された、ピクセル化された女の顔写真。それは紛れもなく、彼の愛人であり、会社を救う唯一の命綱だと信じていた桜井みさだった。
「み、みさ……?」
健太は這うようにして机の下から出ると、テレビの前に駆け寄り、その画面をガタガタと揺さぶった。
「嘘だ! 嘘だと言ってくれ! 俺の金は! 俺の工場を売った金はどうなるんだよ!」
健太の絶叫が、破壊音の鳴り響く事務所にこだました。その声を聞いた闇金業者のリーダーが、呆れたように吐き捨てる。
「なんだこいつ。最後の砦だった工場まで売っ払っちまったのか。こりゃもう一文も出ねえな。兄貴、どうします?」
「撤収だ。こんなところにいても時間の無駄だ。行くぞ。」
ついさっきまで暴れ回っていた男たちが、まるで潮が引くように事務所から去っていく。破壊され尽くした残骸の中に、健太だけがぽつんと取り残された。彼はその場に崩れ落ち、自らの髪をめちゃくちゃにかきむしった。全てを失った。あずさを追い出し、手に入れようとした富も名声も、愛人さえも、全てが幻だったのだ。もはや破産は免れない。いや、それだけでは済まない。闇金業者に追い詰められ、路頭に迷うだけならまだいい。詐欺に加担した共犯者として、警察に追われる可能性すらあった。終わりだ。何もかも。絶望が冷たい泥のように、健太の全身を飲み込んでいく。涙さえも、もう出なかった。
散乱した書類の海の中で、ただ虚空を見つめていた彼の脳裏に、ふと一つの可能性が電撃のように蘇った。――いや、まだだ。まだ一つだけ道が残されている。これは限りなくゼロに近いが、唯一の起死回生の策。国内トップ企業・総天グループとの下請け契約を勝ち取ること。あの巨大企業の下請けに潜り込むことさえできれば、どんな銀行も、どんな業者も、手のひらを返したように頭を下げるだろう。それが、破産を回避し、地獄の底から上がるための、最後のそして唯一の道だった。
健太は何日も洗っていなかった髪に油をなすりつけ、シワだらけのスーツに無理やり腕を通した。鏡に映った自分の顔は、死人のように青ざめ、生気がない。それでも彼は乾いた唇を舐め、無理やり広角を上げて笑みを作った。
「やれる。俺ならやれる。斎藤健太は、口だけは達者なんだ。あの総天グループの会長だって、俺のプレゼンを聞けば一発で惚れ込むはずだ。」
自己暗示にも似た言葉をつぶやきながら、健太は震える手でブリーフケースを掴んだ。彼はまだ知らない。その先に待つのが希望ではなく、彼自身が作り出した、さらに深く暗い絶望の縁であることを。
東京の中心に、天を突き刺すようにそびえ立つ総天グループ本社ビル。その威容は、まるでこの国の経済そのものを擬人化したかのような、圧倒的な存在感を放っていた。斎藤健太はそのビルの足元で、自分が蟻のようにちっぽけな存在に思え、思わず喉を鳴らした。
磨き上げられた大理石のロビーは、まるで巨大な神殿のようだった。高い天井から吊されたシャンデリアが放つ光が床に反射して、健太の目を眩ませる。行き交う社員たちは皆、寸分の隙もない高級スーツに身を包み、自信に満ちた足取りで静かに歩いていた。彼らから見れば、着古したスーツで油汗を浮かべる健太は、明らかに場違いな侵入者だった。突き刺さるような無言の視線が、健太の背中を焼く。
「俺だって社長なんだ。俺だって……」
誰に言うでもなくつぶやき、縮こまりそうになる背筋を無理やり伸ばすと、インフォメーションデスクへと向かった。
「あ、あの、私、大河コーポレーションの代表、斎藤健太と申します。本日、戦略企画本部長様とお約束を……」
受付の女性は健太の見窄らしい姿に一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに完璧なビジネススマイルに戻り、手元の端末を操作した。
「斎藤健太様ですね。確認が取れました。最上階ペントハウスフロア専用のエレベーターをご利用ください。」
最上階、ペントハウス。その言葉の響きだけで、健太の心臓は期待と恐怖で激しく跳ねた。案内された専用エレベーターは内壁が鏡面仕上げになっており、そこに映る自分の情けない姿から、思わず目をそらしたくなる。静かにドアが閉まり、滑るように上昇を開始した。耳がキーンとなり、体がふわりと浮き上がる感覚。それはまるで、天国か地獄か、まだ見ぬ場所へと魂だけが引き上げられていくような、既視感のある感覚だった。
「大丈夫だ、大丈夫だ。」
健太はプレゼン資料を握りしめる手に汗が滲むのを感じながら、何度も自分に言い聞かせた。
「俺の技術は本物だ。このプレゼンさえ成功すれば、全てをひっくり返せる。あの女を追い出したことも、全て正解だったということになるんだ。」
チーンという涼やかな音と共に、エレベーターの扉が開いた。目の前に広がっていたのは、雲の上に広がる別世界だった。床には深い絨毯が敷き詰められ、壁には現代アートの作品が静かに飾られている。そして、会議室の前には、見覚えのある顔が立っていた。半年前、裁判所の前で見た、あの銀髪の初老の男。しかし、極度の緊張状態にあった健太の脳は、その事実を正しく認識することができなかった。ただ総天グループの重役に違いないと判断し、慌てて腰を低くした。
「あ、あの、こ、こんにちは。私、斎藤と申します。本日はよろしくお願いいたします。」
男――秘書室長の黒田は、値踏みするような冷たい視線で健太を上から下まで一瞥すると、感情のかけらも見せない声で短く答えた。
「……お待ちかねだ。」
黒田が重厚なマホガニーの両開き扉を音もなく開く。健太はごくりと唾を飲み込み、震える足で一歩、中へと踏み入れた。
そこは、王の謁見室とでも言うべき空間だった。部屋の奥は一面のガラス張りになっており、眼下には東京の街並みがまるでミニチュアのように広がっている。長いテーブルの中央、その絶景を背にするように、巨大な革張りの椅子が一つ置かれていた。椅子は窓の方を向いており、そこに座っているであろう人物の姿は、逆光のシルエットとなってはっきりと見えない。健太はこの部屋の主こそが、自分の運命を握る戦略企画本部長なのだと確信した。彼はバッグを床に置くと、椅子の背もたれに向かって、人生で最も深く丁寧な九十度の敬礼をした。
「は、初めまして! 私、大河コーポレーションの代表取締役を務めております、斎藤健太と申します! 本日はこのような貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます!」
必死に声を張り上げる。自分の声が静まり返った部屋に虚しく響いた。
「弊社の技術力は、業界でも随一と自負しております! し、一度チャンスをいただけましたら、この身を粉にして、会長様、そして本部長様のために……」
健太は頭を床につけんばかりの姿勢で、しばらくの間相手の反応を待った。しかし、椅子からの返答はない。ただ空調の低い唸りだけが、彼の耳に届いていた。
――どうしたんだ? 不審に思い、健太が恐る恐る顔を上げようとした、その瞬間だった。
ギィィ……と、まるで時が止まったかのような、静寂の中に不気味に響く機械音。窓の外を向いていた巨大な椅子が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらに向かって回転を始めた。健太は呼吸することさえ忘れ、その椅子に釘付けになった。シルエットの輪郭が少しずつ、その姿を表そうとしている。彼の人生の全てが、この一瞬にかかっていた。
ギィィ……ギィィ……と、革張りの椅子の軋む音が、斎藤健太の心臓の鼓動と不気味に共鳴していた。ゆっくりと、まるで拷問のように時間をかけて、巨大な椅子が回転してくる。逆光だったシルエットが、徐々に室内光を受けて、その輪郭を明らかにしていく。優雅にまとめられた髪。上質なシルクのブラウスに、品のあるデザインのジャケット。そして、ゆったりと組まれた両手は、膨らんだ腹部の上にそっと置かれていた。
――健太の呼吸が止まった。
その人物が完全にこちらを向いた瞬間、健太は自分の目を疑った。全身の血液が逆流し、脳が理解を拒絶する。ここに座っていたのは、彼が半年前に、疫病神だと蔑み、一文無同で追い出した、元妻・高橋あずさ、その人だったからだ。
「な……ぜ……」
声にならない声が、乾いた喉から漏れ出た。目の前にいるのは確かにあずさだった。しかし、それは健太の知っているあずさではなかった。いつも俯き、おどおどとしていた弱々しい女の面影は、どこにもない。そこにいたのは、絶対的な自信と気品を全身から放ち、まるで女王のように椅子に腰をかける、見知らぬ女だった。
「な、ぜ、お前が、ここに……」
健太は幽霊でも見たかのように数歩後ずさり、床に置いていたブリーフケースに足をぶつけた。ガシャンと音を立ててケースが開き、必死で準備してきた契約書類が無残に床へと散らばる。あずさはそんな健太の狼狽を、冷たい、それでいてどこか面白がるかのような瞳で見つめている。その唇の端に浮かんだ微かな笑みは、健太のプライドを容赦なく切り刻んだ。
健太の脳裏に、半年前の裁判所での光景がフラッシュバックした。黒塗りのリムジン、九十度に頭を下げる男たち。あの時は、どこかの金持ちの爺の愛人になったのだと断定した。――そうだ。そういうことか。混乱した脳が、彼にとって最も都合のいい結論を導き出した。途端に、恐怖はどす黒い怒りへと変わった。
「はっ、なるほどな。大した出世じゃないか。あのリムジンは本物だったってわけか。どこの会長様の寵愛を受けて、こんな場所までのこのこ入り込んできたんだ?」
健太は唾を飛ばしながらデスクに詰め寄った。恐怖が怒りに転化し、箍が外れる。
「ふざけるなよ。おい、高橋あずさ、正気か? ここは総天グループだぞ。日本の経済を動かす、神聖な会議室なんだ。お前のような、薄汚い女が座っていい椅子じゃねえんだよ。」
健太はバンッと手のひらで、重厚なマホガニーのデスクを叩きつけた。その振動でペン立てのペンが数本倒れる。
「会長様にでも取り入って、何でも許されるとでも思ってんのか? 今すぐそこをどけ! 本部長様がお見えになったら、お前なんかじゃ済まされねえぞ。掃除に来たんなら、黙って床でも磨いてろ!」
獣のように吠える健太に対し、あずさは眉一つ動かさなかった。それどころか、まるで愚かな虫の鳴き声でも聞くかのように、ふうっと鼻で笑って見せた。その侮蔑に満ちた態度が、健太の怒りの炎にさらに油を注ぐ。
「何がおかしい!?」
「……お話は、すみましたか?」
ようやくあずさが静かに口を開いた。その声は、かつてのあずさのものとは比べ物にならない、びんと張りつめた冷たい響きを持っていた。
「斎藤健太社長。随分と威勢がいいのですね。ですが、その汚い口を閉じて、その節穴の目をかっぽじって、よくごらんなさいな。」
「なんだと?」
あずさはまるで慈雨のようにすっと指を伸ばした。その白磁のような指先が、デスクの上に置かれていた、ずっしりと重そうなクリスタルの塊に触れる。
「ここは私の仕事場です。そして、私はあなたのような害虫を駆除する立場にある。」
「狂ってやがる! お前は本当に頭がおかしくなっちまったんだな! 俺は今日、契約を取り付けに来たんだ。お前なんかに、俺の人生の邪魔はさせん!」
健太はそのクリスタルの塊を掴み、床に叩きつけてやろうと手を伸ばした。その瞬間、あずさは指先でその塊をすっと健太の方へ引いた。磨き上げられたデスクの上を、クリスタルのネームプレートが氷の上を滑るように、音もなく健太の目の前へと滑ってくる。
――シュッ。
それはまるで死刑宣告を告げるギロチンの刃のように、健太の指先でぴたりと止まった。健太の視線が、そのネームプレートに刻まれた黄金に輝く文字に吸い寄せられる。そこに何が刻まれているのか。その文字が持つ意味を理解した時、健太の世界から全ての音が消えることになる。
黄金に輝く、冷たい文字の列。健太の視線が、その一つ一つの文字を、まるで初めて見る象形文字でも解読するかのように、必死で追った。
――総天グループ 戦略企画本部長 高橋あずさ
健太の脳は、その文字列が意味する内容を理解することを拒んだ。頭の中で警報がけたたましく鳴り響き、視界がぐらりと歪む。
「ありえない……。そんなバカなことが……。これは何かの手の混んだいたずらだ。そうだ、そうに違いない。あの女が俺を落とし入れるために仕組んだ、悪質な罠なんだ……。」
「な、なんだこれは! 人をバカにするのも大概にしろ!」
健太はネームプレートを床に叩きつけようと、再び手を伸ばした。
「地獄に落ちたお前が本部長だと? 笑わせるな! どこでこんなものを偽造してきたんだ!」
その時だった。背後で、重厚なマホガニーの扉が、音もなく、しかし圧倒的な存在感を伴って開かれた。健太が弾かれたように振り返ると、そこに立っていたのは、テレビの経済ニュースでしか見たことのない、伝説の経営者。この総天グループを一代で築き上げたカリスマ会長、高橋剛、その人だった。その後ろには、あの銀髪の秘書室長・黒田が能面のような表情で控えている。
剛は、床に散らばった書類を踏みつけ、ネームプレートに手を伸ばしている健太には、まるで道端の石ころでも見るかのように一瞥もくれなかった。彼の視線は、ただ一人、部屋の奥に座る娘にのみ注がれていた。剛はゆっくりとした、しかし威厳に満ちた足取りであずさの元へ歩み寄ると、その肩にそっと手を置き、慈しむように優しく声をかけた。
「あずさ、体は大丈夫か? 無理はするなと、あれほど言っただろう。」
その親密な光景と、穏やかな声。健太の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい音を立てて一つにはまっていく。高橋あずさ。総天グループ会長、高橋剛。偶然だと思っていた同姓。信じ込んでいた偶然。裁判所の前に現れた、不自然なまでの大げさな迎え。全てが一本の線で繋がった。健太が無価値な石ころだと思って捨てた女は、日本経済界の頂点に君臨する王が、何よりも慈しむ、唯一無二の姫君だったのだ。
「あ、ああ……ああ……」
喉から空気が漏れるような音しか出ない。剛はようやく、仏でも見るかのような冷たい視線を、床に這いつくばる健太に向けた。その瞳には、一欠片の感情も浮かんでいない。それが逆に、健太の心臓を氷の矢で貫いた。
「……私の娘が、随分と世話になったそうだな。」
重低音のような、低く冷徹な声。その一言が、健太の精神を支えていた最後の糸を、無慈悲に断ち切った。健太の膝から力が抜けた。ドサリと音を立てて、彼はその場に膝から崩れ落ちる。まるで操り人形の糸が切れたかのように、腰砕けになって床にへたり込んだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。正気に返った健太は、獣のような叫び声をあげながら、這うようにして剛の足元に必死に手を伸ばした。
「か、会長! 申し訳ございませんでした! 私は何も知らずに……! あずささんがあの会長のお嬢様だとは夢にも思わず……! どうか、どうかお許しを……!」
しかし、その哀れな手が、剛の靴に触れる寸前、黒田が素早く、その手を足で払いのけた。命乞いの相手が違うと悟った健太は、今度はあずさに向かって懇願した。
「あずさ! 頼む! 俺が悪かった! 俺の目が曇っていたんだ! あの、みさって女に騙されて……! もう一度やり直そう! 俺たちの、お腹の子のためにも、なあ!」
あずさは、床に這いつくばる男を、ただ静かに、冷たく見下ろしていた。その瞳には、まるで遠い国の虫でも観察しているかのように、何の感情も映してはいなかった。その沈黙が、健太にとっては何よりも残酷な答えだった。
剛は、床に散らばった健太のプレゼン資料の束を、無言で拾い上げた。健太はそこに一筋の光を見た。もしかしたら、話くらいは聞いてくれるのかもしれない、と。しかし、その淡い期待は、次の瞬間、粉々に粉砕される。剛はその書類の束を、デスクの脇に静かに鎮座する大型の業務用シュレッダーの投入口へと、ゆっくりと差し込んだ。
――ウィイイイイン……
健太の耳に、無機質で残酷な機械音が突き刺さる。彼が起死回生をかけ、眠る間も惜しんで作り上げた最後の希望が、鋭い刃によって無惨に切り刻まれ、細かな紙吹雪となって吐き出されていく。
「ああっ……!」
健太の絶望の叫びが、広大な会議室に虚しく響き渡った。砕け散った希望の紙吹雪が、ヒラヒラと、まるで彼の愚かな人生を嘲笑うかのように、静かに床へと舞い散っていく。剛はシュレッダーの停止ボタンを押すと、床に突っ伏して涙を流す健太に、最後通告を言い渡した。
「消えろ。二度と、その汚い顔を私の前に見せるな。」
シュレッダーが吐き出した紙吹雪が、まるで降り積もる雪のように床に積もっていく。斎藤健太は、その無惨な残骸の中心で、ただ嗚咽を漏らすことしかできなかった。剛の「消えろ」という言葉は、死刑宣告そのものだった。会社も、金も、社会的信用も、全てがこの一瞬で消え去ったのだ。
――終わりだ。何もかも。
絶望が全身を支配し、意識が遠のきかけた。その時、健太の視界の端に、あずさの膨らんだ腹部が映った。ゆったりとしたジャケットの上からでも分かる、新しい命の確かな膨らみ。――そうだ。まだだ。まだ終わっていない。俺には、まだ最後の切り札が残されているじゃないか。
健太の目に、再び狂気じみた光が宿った。彼は床に這いつくばったまま、まるで救いを求める罪人のように、あずさに向かって手を伸ばした。
「ま、待ってくれ、あずさ……!」
その声は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「わ、悪かった! 俺が全て間違っていた! だが、これだけは聞いてくれ! 俺たちは夫婦だったんだ! そして……そして、そのお腹のこの子の父親は、この俺なんだぞ!」
最後の、そして唯一の拠り所。血の繋がりという、決して断ち切ることのできない絆。健太は、それに必死にすがりつこうとした。
「そうだろう? 俺たちの赤ちゃん……! 俺は、この子の父親なんだ! あずさ、頼む! この子のためにもう一度だけチャンスをくれ! 俺は生まれ変わる! 一生かけて、お前とこの子に償いをするから!」
獣のような叫びをあげながら、健太はあずさの足元にまで這い寄ろうとした。しかし、あずさは仏像から身を遠ざけるように、すっと椅子を後ろに下がった。その瞳には、哀れみも、同情も、一切浮かんでいない。彼女は静かにデスクの引き出しを開けると、中から一枚の古い封筒を取り出した。そして、その中から一枚の書類を抜き取り、まるで汚れたゴミでも捨てるかのように、健太の顔めがけてひらりと投げ捨てた。
「父親ですって?」
紙が力なく、健太の膝の上に舞い落ちる。健太が震える手でその紙を拾い上げた瞬間、息を飲んだ。紙の中央、本来「父」という文字が記されるべき場所には、半年前に自分自身が無理やり押させた、おぞましいほど鮮やかな赤い拇印が押されていた。――親権放棄届。彼があずさを追い出すために使った、切り札そのものだった。
「こ、これは……」
「覚えていないとでも言わせるつもり? 『俺の子だという証拠でもあるのか』『養育費を払いたくないから、お前が押せ』。そう言ったのは、どこの誰だったかしら。」
あずさの声は、絶対零度の氷のように冷たかった。彼女はかつて健太から浴びせられた言葉を、一言一句、そのまま彼に突き返した。
「この書類は、あなたが私を放り出した時に、スーツケースの中に丁寧にしまっておいたわ。あなた自身が、父親であることを放棄した、何よりの証拠よ。」
健太の心臓は、巨大な鉄球で打ち砕かれたかのような衝撃に襲われた。過去の自分の愚かな言動が、巨大なブーメランとなって時を超え、今の自分の喉元を無慈悲に切り裂いたのだ。
「し、違う! あれは……あれは酒によって……つい……! 本心じゃなかったんだ! 頼む、あずさ……」
「黙りなさい。」
あずさの声が、鋭く健太の命を遮った。
「あなたに、父親を名乗る資格はない。この子は、私の子よ。法律上も、そして血の繋がりにおいても、あなたはもう、ただの赤の他人。」
「あずさ! お願いだ! 会社が潰れたら、俺は刑務所に行くことになるんだ! 助けてくれ! 一度だけでいい! 見逃してくれ!」
健太は床に額を何度も叩きつけ、血が滲むのも構わずに懇願した。総天グループの御曹司という、目の前にぶら下がっていた億万長者の宝くじを、自らの手で破り捨ててしまったという事実が、彼を狂わせた。そのあまりの哀れな姿に、剛はもう耐えられないといった様子で、黒田に目配せをした。
「今すぐ、叩き出せ。」
黒田が無機質に短く指示を出すと、ほぼ同時に会議室の扉が勢いよく開け放たれた。屈強な体格の警備員が二人、部屋に殴り込んでくると、健太の両腕を背後にねじり上げ、容赦なくその身柄を拘束する。
「うわっ、な、何をする!? 離せ! 俺はここの孫の父親だぞ! 総天グループの御曹司だ!」
健太は、もはや意味をなさない言葉を撒き散らしながら必死で抵抗した。しかし、鍛え上げられたプロの警備員には、なす術もなかった。剛は、引きずられていく健太の背中に、最後の言葉を吐き捨てた。
「誰が、お前の子だ。聞き間違えるな。」
警備員たちは、まるで荷物でも運ぶかのように健太の体を引きずり上げていく。その際、彼の片方の革靴が脱げ飛んで、床を転がった。
「あずさー! 俺を見捨てるのか! 刑務所には行きたくない! あずさー!」
ドアの外へと引きずり出されながら、健太はあずさに向かって必死に手を伸ばした。しかし、その手は空を切るだけだった。あずさは、ただ冷たい表情で、その一部始終を静かに見つめていた。健太の断末魔の叫びが、廊下の向こうへと遠ざかっていく。やがて、エレベーターの扉が閉まる無機質な音が響き、会議室には再び静寂が訪れた。
ビルから、ゴミのように放り出された健太は、本社前の冷たいアスファルトの上に、大の字になって転がっていた。破れたスーツ。血の滲む額。片方だけになった靴。その姿は、ホームレスよりも惨めだった。
「うう……ううう……」
うめき声をもらし、天を仰ぐ。つい三十分前まで、人生の大逆転を夢見ていた場所が、今ははるか遠い世界のように思えた。みさ、あずさ、そして自分自身の愚かな行い。後悔しても、もう遅い。健太がアスファルトに拳を叩きつけた、その時だった。ポケットの中で、携帯電話がけたたましく振動した。画面に表示された名前は『母さん』。
「も、もしもし? 健太!? 大変よ! またあの男たちが来たの! 家に張り紙を貼り付けて……今度は家を明け渡せって! どうしよう、健太!」
エツ子の追い詰められた声を聞きながら、健太はゆっくりと目を閉じた。――全てが終わった。いや、まだだ。本当の地獄は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
――その夜、東京の空には、巨大な穴が開いたかのようだった。
バケツをひっくり返したような豪雨がアスファルトを叩き、町の音を全て飲み込んでいく。時折、空を引き裂くように稲妻が走り、その青白い閃光が、総天グループ会長・高橋剛の邸宅の重厚な鉄門を不気味に照らし出した。その門の前で、傘も差さずにずぶ濡れになった二人の人影が、狂ったように叫び声をあげていた。――斎藤健太と、その母エツ子だった。
「開けろ! 高橋あずさ! この人でなしが! 私の可愛い孫を返さんか!」
エツ子の声は、雨音に負けじとヒステリックに響き渡る。濡れた白髪が顔に張り付き、その形相はもはや人間のそれではなかった。彼女は冷たい鉄の門扉を拳で何度も叩きつけ、絶叫を繰り返した。
「どこに隠したんだ!? 健太の血を引いた、斎藤家の跡取りを!」
その隣で、健太もまた、正気を失った獣のように吠えていた。
「あずさ! 聞こえているんだろ! 俺だ! 健太だ! 話があるんだ! 頼むから門を開けてくれ! 血を分けた親子を引き裂くなんて、そんなことをして、天罰が下らないとでも思っているのか!」
ペントハウスのリビングで、あずさはインターホンのモニターに映るその醜悪な光景を、無表情で見つめていた。画面の中の二人は、もはや彼女の知る人間ではなく、欲望と狂気に取り憑かれた亡霊のように見えた。そばに控えていた家政婦が、心配そうに声をかける。
「お嬢様、警察に通報いたしましょうか?」
あずさはそっと自身の腹を撫でながら、静かに首を横に振った。
「いいえ、その必要はないわ。ただの物乞いですから。放っておけば、そのうち疲れてどこかへ行くでしょう。」
しかし、二人の狂気は、あずさの予想をはるかに超えていた。あずさはインターホンの受話器を手に取り、冷たく言い放った。
「警備室ですか? 正門前で不審者が騒いでいます。即刻、排除してください。」
その声が門の外のスピーカーから漏れ聞こえたのだろう。健太の顔色が変わった。
「おい、あずさ! まさか警察を呼ぶんじゃないだろうな!」
彼は足元に転がっていた手頃な大きさの石を拾い上げると、門扉の横に設置されたインターホンカメラに向かって、それを振り上げた。
「この門を開けないなら、俺はここで死んでやる! いいのか? 明日の朝刊には、『総天グループ令嬢、元夫を自殺に追いやる』……そんな見出しが、デカデカと載ることになるぞ!」
エツ子も、それに続く。
「そうだとも! 私も一緒に死んでやる! 嫁に殺された義母として、世間の同情を買ってやるわ!」
あずさは、深くため息をついた。このまま放置すれば、彼らは本当に何をしでかすかわからない。警察を呼べば、騒ぎはさらに大きくなるだろう。マスコミが嗅ぎつければ、生まれてくる子供の未来にまで、暗い影を落とすことになりかねない。――終わらせなければ。自分の手で。この鎖を。切った過去との縁を、完全に断ち切らなければならない。
あずさはソファからゆっくりと立ち上がった。臨月を迎えた体は鉛のように重く、少し動くだけでも息が切れる。
「お嬢様! 行けません! お体に触ります!」
家政婦が慌てて駆け寄り、あずさを止めようとした。
「大丈夫よ。私が、終わらせてくる。」
その声には、揺るぎない決意が宿っていた。
「お父様には、絶対に内緒にして。心配をかけさせたくないの。」
あずさは玄関ホールに置かれていた一本の傘を手に取ると、家政婦の静止を振り切り、思い足取りで玄関のドアへと向かった。外では依然として雨風が荒れ狂い、二人の悪意に満ちた絶叫が響き渡っている。それは危険な賭けだった。しかし、母親として、我が子の未来を守るためには、避けては通れない最後の大仕事だった。冷たいドアノブに手をかける。その向こうには、憎悪と狂気の嵐が渦巻いている。それでも、あずさは行かなければならなかった。全ての因縁に終止符を打ち、新しい命と共に光の中へと歩き出すために、あずさは静かに息を吸い込むと、思い切って玄関のドアを、自らの手でゆっくりと開いた。
冷たい夜の空気と、激しい雨の匂いが一気に彼女の全身に突き刺さる。門の外で繰り広げられる地獄へと、彼女は一人、その重い体を引きずるようにして歩みを進めていった。あずさが傘を手に玄関を出ると、門扉の隙間からその姿を認めたエツ子が、高い悲鳴のような声をあげた。
「出てきたわ! あの女! 出てきたわよ!」
健太も、待ってましたとばかりに叫ぶ。
「あずさ! あずさ、俺だ! 話を聞いてくれ!」
あずさは、警備員に目配せをして、通用口の小さなドアを静かに開けさせた。その瞬間、待ち構えていたエツ子が、獲物を見つけた獣のように敷地内へ殴り込もうとする。あずさはその前に立ちはだかり、氷のように冷たい視線で二人を制した。
「何のご用でしょうか? これ以上騒ぐなら、威力業務妨害で通報します。」
「どこまで偉そうにすれば気が済むんだ! この女!」
エツ子はあずさの毅然とした態度に逆上し、唾を飛ばさんばかりの勢いでまくし立てた。
「ここはどこだと思ってるんだ! あんた一人の家じゃないだろう! 私の可愛い孫がお腹にいるんだから、私にも権利があるんだよ!」
健太も、エツ子の後ろから、苦笑いを浮かべてあずさに近づく。その目は欲望と浅ましさで、ぎらぎらと濁っていた。
「ああ、母さん、落ち着いて。……あずさ、頼むよ。母さんも、孫に会いたくて、こんなことになってるんだ。話し合おう。なあ?」
「お気持ちは、ごもっともですが。」
あずさは静かに、しかし言い聞かせるように言った。
「もう、あなたたちと話すことは、何もありません。お帰りください。」
「そんなこと言うなよ! 俺が悪かったのは認める! でも、俺は父親だ! 父親なんだよ、あずさ!」
「父親は、死んだと申し上げたはずです。」
あずさの冷たい拒絶に、健太の顔が見る見るうちに引きつっていく。彼は本性を現したように、あずさの腕を乱暴に掴んだ。
「おい、高橋あずさ! 人が優しく言えば、付け上がりやがって。会長の娘だからって、それが何だ? 俺の種を盗んだんだから、それなりの代償は払ってもらうぞ!」
「その汚い手を、離しなさい。」
あずさが力を込めて健太の手を振り払う。その反動で、健太は雨に濡れた芝生の上で、よろめきともなく悔しさに顔を歪める。その光景を見たエツ子の目つきが、瞬時に変わった。
「こ、この……! この雨の中、私の大事な健太を突き飛ばすなんて!」
エツ子は、濡れて滑るのも構わずに駆け寄ると、あずさの髪の毛を思い切り掴み、引っ張った。あずさの手から傘が滑り落ち、地面に乾いた音を立てて転がる。激しい雨が、容赦なくあずさの顔と体を叩きつけた。
「お、お母さん! やめて!」
健太が慌てて叫ぶが、すでにエツ子は理性を失っていた。彼女はあずさの髪を掴んだまま、狂ったようにその体を揺さぶる。
「よくも……よくも、私の健太の人生をめちゃくちゃにしてくれたな! お前さえいなければ……! 今日こそ、お前とここで差し違えて死んでやる!」
あずさは、両手で必死に腹部を庇い、抵抗した。しかし、振りし切る雨水で濡れた玄関ポーチの大理石の階段は、まるでスケートリンクのように滑りやすくなっていた。エツ子がありったけの力を込めて、あずさの体を突き飛ばした、その瞬間――。
あずさの足が、つるりと、滑りやすい大理石の上を滑った。
「きゃあっ!」
あずさの悲鳴が、激しい雨音にかき消される。世界がスローモーションになった。体が宙に浮き、重力に逆らえないまま、背後にある五段の階段へと吸い込まれていく。迫りくる、硬い大理石の角が、闇夜にはっきりと見えた。
――ドンッ。
という、鈍く重い音。あずさの背中と腰が、階段の角に叩きつけられた。息が詰まる。肺から全ての空気が強制的に絞り出され、声が出ない。そのまま彼女の体は、最後の段まで転げ落ち、冷たい石畳の上に、無惨に打ち捨てられた。
一瞬の静寂。やがて、あずさの口から、苦痛に満ちたうめき声が漏れた。
「うう……おおお……」
――中が。
あずさは本能的に、下腹部に手を伸ばした。この瞬間、焼けるような、内側から体を引き裂かれるような激痛が全身を貫いた。背骨が砕けたかのような衝撃が走り、意識が遠のきそうになる。そして、足の間に、ぬるりとした生温かい液体が溢れ出すのを感じた。雨に混じって、それは鮮やかな、おぞましいほどの赤色をしていた。
――血。
血だ。鮮やかな赤い血が、あずさの体の下に広がっていく。健太が、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。エツ子も、ようやく事の重大さに気づいたのか、わなわなと震えながら自分の両手を見つめ、口元を覆った。
「わ、私は……私は何もしてない! あ、あんたが勝手に転んだんだ!」
「母さん! 逃げるぞ! 警察が来たら、俺たちまで殺されちまう!」
健太はエツ子の腕を掴むと、開いたままになっていた通用口のドアから、脱兎のごとく逃げ出そうとした。しかし、その行く手を、邸宅の中から駆けつけてきた屈強な警備員たちが、巨大な壁となって阻んだ。彼らは即座に健太とエツ子を取り押さえる。健太は泥水の中に顔を押し付けられ、エツ子はその場にへたり込んで泣き喚いた。
「離せ! 俺は被害者だ! あの女が殺そうとしたんだ!」
「人殺し! あんたら、人殺し!」
エツ子の金切り声が、虚しく雨音に掻き消される。その時、玄関のドアが勢いよく開き、高橋剛が、わざわざ寝室着のまま飛び出してきた。彼は、階段の下で血の海に倒れている娘の姿を認め、絶叫した。
「あずさ! あずさー!」
剛は、振りしきる雨の中を駆け寄り、血まみれの娘のそばに膝をついた。あずさの顔は、すでに紙のように真っ白で、唇は青紫色に震えている。彼女の白い産着のシャツが、あっという間に赤黒く染まっていく。
「あずさ! しっかりしろ! 目を開けろ!」
徐々に薄れゆく意識の中、あずさは必死に腹の子を案じていた。剛は震える手であずさの頭を抱きかかえる。
「運転手に連絡しろ! 救急車だ! 早く!」
側近の絶叫が、ペントハウス中に響き渡った。――あずさのまぶたが、まるで鉛のように重く下がってくる。暗転していく視界の中で、今まで感じていたお腹の子の胎動が、ふと消えたような気がした。
――いや、待って。お願い。生きて。
遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえる。健太とエツ子が、犬のように引きずられていく絶叫も聞こえる。しかし、あずさの耳には、ただ、ザーッと振りしきる冷たい雨の音だけが響いていた。やがて、その音も遠ざかっていく。剛の叫び声を背に、彼女の意識は、深く暗い闇の中へと沈んでいった。
――けたたましいサイレンの音が鳴り響き、大学病院の救急外来の自動ドアが、激しく開かれた。
「緊急搬送! 三十代女性、妊娠三十八週! 階段からの転落による外傷性ショック!」
嵐のように運び込まれるストレッチャーの上で、高橋あずさは酸素マスクを着けられ、その顔は死人のように真っ白だった。付き添う医療スタッフの白衣は、彼女から流れ出る血で赤黒く染まっている。
「あずさ! あずさ、しっかりしろ!」
血まみれのまま、高橋剛がよろめきながら後を追う。
「ご家族の方は、ここまでです。外でお待ちください。」
手術室の赤いランプが灯る重い扉の前で、看護師が非情に剛の行く手を阻んだ。バタンと閉ざされた扉の向こうに、娘の命は吸い込まれていった。剛は力なく壁に手をつき、その場に崩れ落ちた。
「先生……どうか、娘を……娘を助けてください……」
その声は、もはや日本経済界のトップの威厳など微塵もない。ただ、娘の身を案じる、一人の父親の切実な叫びだった。
手術室内は、まさに戦場と化していた。あずさの腹部に取り付けられた胎児心拍モニターが、不規則で急速な警告音を、けたたましく鳴らし続けている。
――ピッピッピッピ……
それは、消えゆく命のカウントダウンのように聞こえた。
「胎盤早期剥離だ! 胎児心拍、六十まで低下!」
産婦人科医が、モニターを睨みつけながら叫ぶ。
「母体の出血もひどい。血圧、八十の五十。酸素飽和度も下がっていく一方だ!」
麻酔科医があずさの顔にマスクを当て、必死に呼びかける。
「奥さん! 聞こえますか? 今から緊急手術に入ります! 赤ちゃんを助けるには、あなた自身が意識を保たないと! 深呼吸して! いち、に、さん……」
薄れゆく意識の中でも、あずさは本能的に腹部を庇おうと手を伸ばした。しかし、全身を駆け巡る麻酔によって、指一本動かすことさえ叶わない。
「赤ちゃん……赤ちゃんを……」
震える唇が、声にならない祈りをつむぐ。
「分かっています。全力を尽くします。」
主治医がメスを握りしめ、あずさの腹部へと向かった。冷たい金属音と共に、緊急帝王切開が開始された。
――とある警察署の取り調べ室。
無機質な蛍光灯の下で、ずぶ濡れの服を着た斎藤健太と斎藤エツ子が、ガタガタと震えていた。その手首には、冷たい銀色の手錠がかけられている。担当の刑事が、机をバンと叩きつけた。
「いい加減にしろ! 妊娠中の女性を階段から突き落としておいて、『自分はやってない』の一点張りか! ふざけるのも大概にしろよ!」
「け、刑事さん、違うんです! 冤罪です!」
健太が、被害者面して叫んだ。
「俺は止めようとしたんです! あの女……いえ、母が、急にあずさの髪を掴んで、振り回して……!」
彼は手錠のかかった手で、隣に座るエツ子を指差した。その言葉を聞いたエツ子の目が、かっ! と見開かれる。
「な、ですって!? この親不幸者が! お前こそ、自分があずさの腕を掴んで引き倒そうとしたのを、忘れたのか! 誰のせいで、私がこんな目に遭ってると思ってるんだ!」
「母さんが、孫を返せって石を振り上げたからだろ! 俺は、ただ話し合いに来ただけなのに!」
「この恩知らずのくず! あんたを育ててやったのに、母親に罪をなすりつける気か!」
取り調べは、あっという間に醜悪な親子ゲンカと化した。エツ子は手錠のまま健太の髪を掴み、健太もエツ子の肩を突き飛ばす。その光景に、ベテランの刑事も呆れて舌打ちをした。
「ああ、なんて見事な親子だ。……茶番は、そこまでにしろ。」
刑事の声が、氷のように冷たく響いた。
「お前たちが今、かけられている容疑は、特別暴行による殺人未遂だ。もし被害者がなくなれば、お前たちは一生、刑務所の中で腐ることになる。分かってるのか?」
「殺人未遂……」
その言葉に、健太とエツ子の動きがぴたりと止まった。二人の顔から、急速に血の気が引いていく。健太が、すがるように刑事の袖に手を伸ばした。
「さ、殺人未遂……? あ、あずさは……? あずさは、本当に重体なんですか?」
「今は、緊急手術中だ。母子ともに、極めて危険な状態だと聞いている。……せいぜい祈ることだな。母も子も、無事であることを。」
その言葉に、エツ子はその場にへたり込み、子供のように泣きじゃくった。
「ああ……おしまいだ……私の人生……。大企業の令嬢を……殺しちまった……」
――再び、病院の手術室。緊張は最高潮に達していた。
床には、血に染まったガーゼが山のように積まれている。
「出血が止まらない! 輸血パック持ってこい! 急げ!」
主治医の額から、滝のような汗が流れる。メスが入り、子宮が露わになる。そこは、すでに胎盤がはがれ落ち、血で満たされていた。
「胎児を出すぞ! 時間がない!」
医師が慎重かつ迅速な手つきで、赤ん坊を胎嚢から取り上げた。羊水と血液にまみれた、小さな小さな命。しかし、手術室を満たすはずの、力強い産声は、どこからも聞こえなかった。ぐったりとした赤ん坊は、紫色に変色し、ひくりとも動かない。
「呼吸してない! 小児科、急いで!」
待機していた小児科医が赤ん坊を受け取ると、蘇生台へと走った。口や鼻にチューブを差し込んで異物を吸引し、小さな背中を懸命にこする。
「赤ちゃん、息をして! さあ!」
しかし、赤ん坊からの反応はない。その間にも、あずさの状態は急速に悪化していた。モニターから、高い警告音が鳴り響く。
――ピーッ、ピーッ。
「心停止の危険あり! 血圧、六十まで低下! エピネフリン準備!」
「だめだ。母体も、持たないぞ……」
手術室前の廊下で、剛はその絶望的なやり取りを聞き、壁に背中を持たせ、ずるずるとその場に崩れ落ちた。彼は血に濡れた自分の手を見つめ、人生で初めて、神に祈った。
「神様……どうか、娘を……娘をお助けください……。私が、どんな罰でも受けますから……。どうか、あずさと、あの子……」
涙と鼻水にまみれた祈りが、天に通じたのか。絶望的な沈黙が支配する手術室で、誰もが諦めかけた、その時だった。
「……おぎゃあ……」
か細い。しかし確かな産声が、死の淵にあった静寂を引き裂いた。死んだように動かなかった赤ん坊の小さな胸が、まるで燃え尽きたロウソクに再び火が灯ったかのように、上下し始めたのだ。
「生きてる! 赤ちゃんが、呼吸を始めたぞ!」
小児科医が、歓喜の声をあげた。
「おぎゃあ……おぎゃあ……!」
まるで『ママ、僕はここにいるよ』と叫ぶかのように、赤ん坊は力いっぱい泣き叫んだ。そして、奇跡は連鎖した。その産声に応えるかのように、あずさのモニターの警告音が、次第に静かになっていったのだ。
「母体の血圧が戻っていく……。九十の六十……バイタル安定しました。」
主治医が安堵のため息をつき、その場にへたり込んだ。
「……助かった。二人とも、助かったんだ。」
手術室の外で、その一部始終を等身大のように聞いていた剛は、信じられないという顔で立ち上がった。その時、手術室の扉が軋みながら開き、マスク姿の看護師が出てきた。
「先、先生……! あずささんは……! 赤ん坊は……!」
看護師は、目元の汗を拭うと、疲労の中にも確かな喜びを浮かべた表情で言った。
「おめでとうございます、会長。奇跡です。お母様は、峠を越えました。そして……息子さんも、元気に泣いています。本当に、本当によく、乗り越えられました。」
剛は、その場に、膝から崩れ落ちた。腰の力が抜け、もう、立っていることさえできなかった。彼は床に両手をつき、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
「ありがとう……ありがとう……あずさ、よく頑張った……」
病院の廊下に響き渡ったのは、総天グループ会長の威厳ある声ではなかった。ただ、娘と孫の無事を心から喜ぶ、一人の父親の魂の慟哭だった。
――手術から、五時間が経過していた。
回復室の静寂を破り、高橋あずさは、重く張りついたようなまぶたを、困難な努力の末に持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井の蛍光灯と、その光がやけに眩しく、思わず目を細める。頬をくすぐる消毒液の特有の匂いと、腕につながれた点滴の管が、自分がまだ生きているという現実を突きつけてきた。乾いた喉から、うめき声が漏れる。
「……あずさ! 気がついたか! 私が、分かるか!?」
その声に、あずさはゆっくりと視線を横に向けた。ベッドの脇でうたた寝をしていた父、剛さんが、今まさに飛び起きたところだった。その目は泣きはらし、声はうるんで震えている。剛は、あずさの冷たい手を、自身の温かい両手で、必死に包み込んだ。あずさは、乾き切った唇を何度か動かし、か細い声で、一番に聞きたかったことを尋ねた。
「……お父様……赤ちゃんは……? 私たちの赤ちゃんは、生きてる……?」
「生きてる! 生きているとも!」
剛は、何度も何度も力強く頷いた。その目から溢れていた涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。
「とても元気だ。お前が、命がけで守り抜いたんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、あずさの瞳から、一筋の熱い涙が頬を伝い、枕に染みを作った。安堵と、必死に耐え抜いた感慨が、全身を駆け巡る。
「……会いたい。今すぐ、あの子に会いたい。」
「分かっている。そう言うだろうと思って、車椅子を用意させておいた。」
点滴スタンドを押しながら、剛の助けを借りて車椅子に移る。手術跡が、まるで体を引き裂くかのように激しく痛んだが、あずさは歯を食いしばって耐えた。我が子に会えるのなら、どんな痛みも乗り越えられる気がした。
NICU(新生児集中治療室)の透明なガラス窓の向こうには、数えきれないほどの保育器が並んでいた。あずさの車椅子は、その中でも一番奥にある、最も小さなベッドの前で止まる。そこには、小さな、本当に小さな命が、全身にチューブをつながれ、必死に呼吸を繰り返していた。大人の拳ほどの頭。木の枝のように細い手足。その痛々しい姿に、あずさは口元を覆い、嗚咽を漏らした。
「赤ちゃん……ここにいたのね。……ごめんね。ママが守ってあげられなくて、本当にごめんね。」
まるで母親の声が聞こえたかのように、保育器の中の赤ん坊の小さな指先が、ぴくりと動いた。そして、閉じられていたまぶたが、わずかに開き、ガラス越しのあずさの方を向いたような気がした。その一瞬の視線の交錯に、あずさの胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。それは、母という名の、決して尽きることのない泉だった。
「お嬢様、こちらへ。」
背後から、秘書室長の黒田が静かに声をかけた。その手には、分厚い封筒が握られている。あずさは涙を拭うと、黒田の方へ顔を向けた。ほんの数秒前までの、母の慈愛に満ちたまなざしは消え、そこには氷のような冷徹さが宿っていた。
「どうなりましたか?」
「斎藤健太は、特別暴行及び詐欺の容疑で、逮捕状が請求されました。留置場に入れられる際、錯乱して暴れだし、現在は独房に隔離されているとのことです。」
黒田は淡々と報告を続けた。
「また、母親の斎藤エツ子ですが、警察署の留置施設でショックによる発作を起こし、認知症の初期症状と診断され、現在は警察病院へ移送されております。」
あずさは、ふん、と鼻で笑った。
「支離滅裂な言い訳をして、情状酌量を狙うつもりでしょう。決して、手心を加える必要はありません。」
「もちろんです。病院には、監視の者を配置済みです。それから……こちらが、斎藤健太の弁護士から送られてきた示談の申し入れ書でございます。『親権は完全に放棄し、慰謝料等も一切請求しないので、寛大な処置を』と……」
黒田が差し出した書類を、あずさは身もよじらせずに手で払いのけた。数枚の紙が、力なく床に散らばる。
「示談? ……黒田さん、法務チームに伝えなさい。示談には一切応じないと。そして……告訴状の準備を。私が、自ら書きます。あの者たちには、法律で定められた最大限の刑罰を与えなさい。刑務所の中で、おいて死んでもらいます。」
「畏まりました。お嬢様のお心のままに、手配いたします。」
黒田は、深く頭を下げた。あずさは再び、ガラスの窓に視線を戻した。保育器の中で、小さな体は、生きようと必死にもがいている。あずさはそっとガラスに手のひらを当て、優しく囁いた。
「希望……。この子の名前は、希望よ。お母さんの、たった一つの希望。」
「希望か。良い名前だ。」
剛が、幸福に微笑みながら相槌を打った。あずさは黒田に、もう一つ命令を下した。
「出生届の手続きを、すぐに。名前は……高橋希望。」
そして、彼女は一呼吸置いて、きっぱりと言い放った。
「……父親の欄は、空欄でお願いします。この子に、父親など、最初から存在しなかったのですから。」
――そして、季節は巡った。
退院の日。病院のロビーは、総天グループ令嬢の出産と、元夫との訴訟の進展を聞きつけた報道陣で、ごった返していた。
「奥様! 今回の事件について、一言!」
「元ご主人の裁判は、どのように進められるおつもりですか!?」
嵐のように焚かれる無数のフラッシュが、目を突き刺す。かつてのあずさなら、怯えて身を隠しただろう。しかし、今の彼女は違った。くるみに包まれた息子・希望をその胸にしっかりと抱きしめ、彼女は報道陣の前に、凜として立った。そして、全てのカメラのレンズを真っすぐに見据える。その瞳には、もはや一点の迷いもなかった。
「罪を犯したものには、必ずその代償を払わせます。皆様、どうか最後まで、お見届けください。」
その短く、しかし力強い言葉に、あれほど騒がしかった記者たちが、一瞬、水を打ったように静まり返った。――彼女の本当の戦いが、今、幕を開けたのだ。
――一年後。
都内最高級ホテルのグランドボールルームは、入口から所狭しと並べられた生花で埋め尽くされていた。天井からは巨大なシャンデリアが七色の光を放ち、財界のトップたちがシャンパングラスを片手に歓談している。総天グループ創立十周年記念式典。それは、日本の経済史そのものを祝うかのような、華やかで荘厳な宴だった。
「それでは、皆様。これより総天グループの新たな未来を牽引する、高橋あずさ新副会長の就任スピーチへと移らせていただきます。皆様、盛大な拍手でお迎えください。」
司会者の張りのある声と共に、壮大なオーケストラのファンファーレが会場に鳴り響く。ステージ後方の巨大な扉がゆっくりと開くと、全ての視線がそこに注がれた。まばゆいスポットライトを一心に浴びて、高橋あずさが歩み出てくる。その腕には、ちょうど一歳の誕生日を迎えたばかりの息子・希望が、しっかりと抱かれていた。
会場から、めきめきと嵐のような拍手が湧き起こった。純白のパンツスーツに身を包んだあずさの姿は、凛として、あまりにも美しい。大きなスクリーンには、幸せそうに微笑む親子の姿が、クローズアップで映し出された。あずさは演台の前に立つと、マイクを手に取った。そのまなざしは、かつてのどんな瞬間よりも強く、そして穏やかだった。
「皆様、こんにちは。高橋あずさです。本日は、この記念すべき日にお集まりいただき、誠にありがとうございます。」
その声は静かだが、会場の隅々まで染み渡るように響いた。腕の中の希望は、好奇心いっぱいの大きな瞳で客席を見回している。その愛らしい姿に、あちこちから笑みがこぼれた。
「この一年は、私にとって、あまりにも過酷な冬の季節でした。しかし、その厳しい寒さがあったからこそ、私は今、こうして強く立つことができています。そして、私の息子、この希望が、私に『春』という名の光を運んできてくれました。」
あずさは、希望の小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
「これからの総天グループは、ただ利益を追求するだけの企業ではありません。人々の暮らしに寄り添い、人を大切にする企業となります。生まれや見た目といった背景ではなく、一人ひとりの誠実さや能力が正当に評価される社会。その実現のために、私が先頭に立って戦うこと、ここに誓います。」
心の底から絞り出されたそのスピーチに、客席の最前列で見ていた父・剛さんは、目を潤ませながら、誰よりも大きな拍手を送っていた。その顔は、誇らしい娘の姿に、この上ない喜びに満ちていた。
――時刻は、同じ頃。
都心から離れた刑務所。薄暗く、じめじめとした雑居房。汗とカビの匂いが充満するその部屋の隅で、一人の男がうずくまっていた。囚人番号、三八四〇番。――斎藤健太だった。その姿は、一年前とは比べ物にならないほど痩せ衰え、生気のない瞳は、虚空を彷徨っている。
「おい、三八四〇番! いつまでサボってやがる! さっさと水を組んできやがれ!」
腕に刺青を入れた大柄な囚人が、健太の脇腹を容赦なく蹴りつけた。
「わ、はい! ただいま!」
健太は慌ててプラスチックのピッチャーを掴み、立ち上がった。その時、壁にかけられた古いテレビから、聞き覚えのある声が流れてきた。
『……私の息子、この希望が、私に『春』という名の光を運んできてくれました……』
健太の動きが、凍りついた。彼はまるで何かに取り憑かれたかのように、ゆっくりとテレビ画面に顔を向ける。そこに映っていたのは、宝石のように輝くあずさと、天使のように微笑む希望の姿だった。
「……あずさ……」
ピッチャーが手から滑り落ちた。水が床にこぼれるのも構わず、健太はよろよろとテレビに歩み寄る。画面の中のあずさは、彼の知る女ではなかった。あの疫病神だと見下していた女が、今や日本の頂点でスポットライトを浴びている。そして、その腕に抱かれた子供。――自分の子ではないと拒絶した、我が子が、あんなにも愛しく、健やかに笑っている。
「希望……俺の、息子……」
健太は震える手を伸ばし、冷たいブラウン管に触れた。しかし、その指先に伝わるのは、ぬくもりではなく、硬いガラスの感触だけだった。彼の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「俺の……父親の席は、そこだったはずなんだ……」
「あずさ……俺は、ここにいる……。ここから出してくれ……俺が、悪かったんだ……」
健太の慟哭が、狭い房内に響き渡った。その様子を見ていた大柄な囚人が、いやらしい笑みを浮かべて近づいてくる。
「ああ? うるせえな。なんだ、このガキ。急に気でも狂ったか?」
「あ、兄貴! あの、人、俺の妻なんです! あの子は、俺の息子なんです! 本当なんです!」
健太が囚人のズボンにすがりついて懇願するが、帰ってきたのは、容赦ない蹴りだった。
「ハンマーで頭でも打たれたか? 総天グループの副会長がお前の妻なら、俺はアメリカ大統領だ。このボケが!」
「本当なんです! 信じてください!」
健太は隅に蹴り飛ばされ、他の囚人たちの冷たい嘲笑に包まれた。彼は冷たいコンクリートの床にうずくまり、ただ泣きじゃくる。画面の中で輝くあずさと、奈落の底にいる自分。――自分が蹴り飛ばした幸福が、どれほど偉大なものだったのかを、彼はこの瞬間、骨の髄まで思い知らされていた。しかし、もう、何もかもが手遅れだった。
――ほう、とある介護施設の薄暗い一室。
ベッドの上で、脳梗塞の後遺症で半身不随となった斎藤エツ子が、寝たきりになっていた。気づけば背中は丸まり、見舞いに来る家族は、一人もいない。エツ子はうつろな目で、天井から吊されたテレビをぼんやりと見上げていた。ニュースチャンネルは、あずさのスピーチを生中継していた。
『……生まれや見た目といった背景ではなく、誠実さや能力が評価される社会……』
その言葉が、かつてあずさに塩を撒き、罵倒した自分自身の心臓に、鋭い棘のように突き刺さる。エツ子の焦点の合わない目が、ゆっくりと見開かれた。歪んだ唇が、唸り声にならない絶叫をあげる。
「ああ……ああああああっ!」
動く方の手で、必死にベッドのシーツをかきむしる。崩壊と怒りで胸が張り裂けそうで、息ができない。
「おばあちゃん! また騒いで! 静かにしてください!」
うんざりした様子の介護士が駆け寄ると、乱暴にカーテンを引き、テレビの画面はエツ子の視界から消えた。暗闇の中に閉じ込められた彼女の耳には、もはや自分が発する獣のようなうめき声だけが、虚しく響いていた。
――再び、ホテルの式典。
スピーチを終え、ステージを降りたあずさを、剛が両腕を広げて迎えた。
「よくやった、あずさ。本当に、立派だったぞ。」
「お父様……。お父様がいてくださったから、ここまで来れました。」
剛は、希望の頭を優しく撫で、目を細めた。
「あぶっ、あぶあぶっ。」
希望が、剛の頬に手を伸ばし、あやすように声をあげる。あずさは、その希望のふっくらとした頬にキスをした。
「希望。さあ、これからは、幸せになろうね。ママが、約束するわ。」
「きゃっきゃっ!」
希望が、まるで母親の言葉を理解したかのように、満面の笑みを浮かべた。その笑い声がマイクに乗り、会場全体を温かい幸福感で包み込む。窓から差し込む夕日のように柔らかな日差しが、あずさと希望を祝福するように、優しく照らしていた。あずさは我が子を抱き直すと、会場の出口へと、力強く歩き出す。巨大な扉が開かれ、その向こうには、まばゆいばかりの光の世界が広がっていた。――過去の傷に縛られない、新しい高橋あずさの人生が、今、この瞬間から始まろうとしていた。



