高級レストランの個室で、息子の嫁エリカが冷ややかな目で言った。「お義母様の席は、ここにはございませんから。」
今日は夫の古希祝い。息子夫婦が主催してくれた家族だけの食事会のはずだった。なのに、エリカは申し訳なさそうな、しかしどこか勝ち誇ったような表情で私に近づいてきた。
「お義母様、本当に申し訳ないんですけど、私の母の意向ですので」
私はエリカのことを実の娘のように大切に思ってきた。なのに、なぜ私だけがこんな扱いを受けなければならないのか。
「あなた、これは一体どういうことなの?」
震える声で隣の夫に助けを求めたが、夫は目を合わせようともしない。
「仕方がないだろう。向こうのご両親もいらしているんだから、空気を読んでくれ」
息子の健二も困り果てた顔で言った。「母さん、今日は悪いけど帰ってくれないか。また今度、別の機会を作ろう」
その瞬間、私は家族という話から完全に除外されてしまったことを悟った。
私の名前は田中かず子、68歳。35年間、美容師として朝から晩まで必死に働き、息子の教育費も今住んでいるマイホームの頭金も、全て私が稼いだお金で賄ってきた。
レストランを追い出され、一人駐車場へ向かう道すがら、これまでの35年間の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。結婚当初、夫は田舎出身のサラリーマンで、生活は決して楽ではなかった。私は家計を支えるため、毎朝5時に起きて弁当を作り、保育園に子供を預けてから出勤。仕事が終われば急いで迎えに行き、夕食の支度をして寝かしつけ。夫は仕事が忙しいと言って、家事も育児も全て私一人に押し付けた。
それでも健二の教育だけは妥協したくない。その一心で働き続けた。幼稚園から大学までの教育費、総額1200万円は全て私の美容師としての収入から捻出した。通帳の残高は減る一方だったが、息子の成長だけが私の生きがいだった。
10年前、健二がエリカを連れて来た時のことを今でも鮮明に覚えている。「お母さん、僕たち結婚したいんだ」という言葉を聞いて、本当の娘ができたようで嬉しくてたまらなかった。結婚式の費用として500万円を援助し、心から祝福した。「エリカさん、これからは家族よ。何でも相談してね」と言った時の彼女の笑顔が、今となっては虚しく思い出される。
私は一体、何のためにこれまで必死に頑張ってきたのだろうか。
レストランを出て駐車場に向かっていると、エリカが小走りで追いかけてきた。
「お義母様、本当にごめんなさい。でも、お義父様がいらっしゃると、うちの母が気を使うんです。家柄が違うって」
「家柄が違う?どういう意味かしら?」
問い返すと、彼女は悪びれもせず答えた。
「母が言うには、うちは代々大手企業の重役を排出している家系で、お義母様はその美容師さんでしょう。だから話も合わないだろうって」
私は息を飲んだ。35年間、誇りを持って続けてきた仕事。そんな風に見下されていたなんて。
「エリカさん、美容師という仕事がそんなに恥ずかしいの?」
尋ねると、「いえ、そういうわけでは…でも、母の意向ですので」と彼女は最後まで自分の意見を言わず、そっとレストランに戻っていった。
車に乗り込み、ハンドルを握りながら最近の出来事が次々と思い出された。そういえば、おかしなことが増えていたのだ。3ヶ月前の孫の運動会、家族席が用意されていたはずなのに、なぜか私だけ一般席に案内された。椅子が足りなくてと言っていたが、彼女の両親はしっかりと家族席に座っていた。2ヶ月前の孫の誕生日会もそうだ。招待されたはずなのに、当日になって「子供の友達が増えちゃって」とキャンセルの連絡があった。後でSNSを見たら、エリカの家族は全員参加していて、高級ホテルでの豪華なパーティーの写真がずらりと並んでいた。
1ヶ月前から、家族のメッセージアプリでのやり取りも変わった。私のメッセージは既読無視が当たり前。健二に直接聞いても「忙しくて見てなかった」の一点張り。なのに、エリカの母親のメッセージには即座に返信している。
今日、全ての謎が溶けた。私は家柄が違うから、家族として扱われていなかったのだ。
信号待ちで停車していると、スマートフォンが鳴った。夫からのメッセージだった。「俺はレストランに残る。まだ食事中だから」
私を追い出しておいて、自分だけ楽しく食事を続けている。夫までもが私の味方ではなかった。
どうしても納得がいかず、私は車をUターンさせた。レストランの駐車場に戻り、少し離れた場所に車を止めて建物を見つめた。個室の窓から、楽しそうに談笑する家族の姿が見える。私がいなくても、何の問題もないかのように。
ちょうどその時、エリカの両親が外に出てきて煙草を吸い始めた。窓を少し開けると、会話が聞こえてくる。
「それにしても、よく我慢してるわね。エリカも」
「何がだ?」
「だって、お義母さんが美容師でしょう。うちは代々一流企業の重役の家系なのに、恥ずかしくないのかしら」
「確かに、俺の親戚に合わせる時も、向こうの職業は言いにくいよな」
私の手が震え始めた。ハンドルを握る力が入らなくなるほどに。そこへエリカも外に出てきた。
「あら、エリカ。お義母さんは帰った?」
「はい。ママに言われた通りに」
「そう、良かった。だって、うちの親戚に合わせたらどう思われるか分からないもの。美容師なんて、人の髪を切るだけの仕事でしょう」
エリカが小さく笑った。「そうですよね。正直恥ずかしくて。健二さんの会社の人たちにも、お義母さんの職業は内緒にしてます。『お義母様は何をされてるんですか?』って聞かれたら、『もう引退されて』ってごまかしてます」
「賢い子だわ。階級の違いはどうしようもないものよ。私たちのような家柄と庶民とは、住む世界が違うのよ」
「でも、お金は出してくれるんでしょう?」
「ええ、そこは助かってます。結婚式の時も500万円出してくれてたし、この前も子供の塾代15万円、全額出してくれました」
「それならいいじゃない。お金だけ出してもらって、あとは距離を置けば。使えるものは使わないと」
「本当にそうですね。美容師でも、お金だけは持ってるみたいだから」
三人は笑いながらレストランに戻っていった。
車の中で涙が頬を伝った。利用者として必死に働いて息子を育て、家族を支えてきた35年間。それが「恥ずかしい」「家柄が違う」と言われ、ただのATMのように扱われるなんて。私の存在価値は、お金でしかなかったのだ。
家に戻ると、夫は先に帰っていてリビングでテレビを見ていた。まるで何事もなかったかのように。
「お前、さっきのことだけど、なんだまだ根に持ってるのか」
「根に持つって?私だけ追い出されたのよ。あなたの古希祝いなのに」
「仕方ないだろう。向こうの親も来てるんだから。エリカ君の父親は大手企業の取締役だぞ。そういう人たちと、美容師のお前じゃ話も合わないだろう」
夫の口から出た言葉に、私は凍りついた。
「あなたもそう思ってたの?私の仕事を恥ずかしいと?」
「恥ずかしいとは言わんが、向こうの家とは釣り合わないのは事実だろう。俺だって片身が狭いんだ。『奥様は何をされてるんですか?』って聞かれた時、『美容師です』なんて言いづらくてな」
「じゃあ、何て言ってるの?」
「専業主婦って言ってる」
私の中で何かが音を立てて崩れていった。35年間、朝から晩まで働いて家計を支えてきた私の存在を、夫は「専業主婦」という嘘で塗り潰していたのだ。
「あなた、知ってたのね。エリカさんたちが私を見下してることも、息子がそれを容認してることも」
「まあ、息子の立場もあるしな。エリカ君の実家は金持ちだし、将来のことを考えたら、あっちの機嫌を損ねるわけにはいかんだろう」
「私より、エリカさんの実家の方が大事なのね」
「そういうわけじゃないが。現実を見ろよ。お前ももう年なんだから。美容師なんていつまでも続けられないだろう。大人しく引退でもしてればいいんだ」
引退。まるで私がもう終わった人間だと言わんばかりだ。
「一つ聞かせて。この家のローンは、誰が払ってきたと思う?」
「そりゃ、俺の給料からだろう」
「嘘ばっかり。あなたの給料じゃ足りなくて、毎月私が補填してたでしょう?それに頭金の800万円は全額、私が出したじゃない」
夫は黙り込んだ。図星だからだ。
「それに健二の教育費1200万円も、結婚式の資金500万円も、全部私のお金よ。あなたは何を出したの?」
「俺だって働いてきただろう」
「働いてきた?毎晩飲んで帰ってきて、休日はゴルフ。家事も育児も全部私に押し付けて、それで働いてきたって?」
夫は立ち上がった。「もういい。お前みたいな美容師と結婚したのが、そもそもの間違いだったんだ」
その言葉を聞いて、私の心は不思議なほど冷静になった。もう怒りさえ感じない。
私は書斎に向かい、金庫から重要書類を取り出して、一つ一つ確認し始めた。まず、この家と土地の権利書。震える手でページをめくった。所有者、田中かず子。間違いない。この家も土地も、私の名義だ。夫は「二人の家だ」と言っていたが、実際には私一人の単独所有だった。
次に通帳を確認した。普通預金2800万円、定期預金8500万円、外貨預金1200万円。現金だけで1億2000万円を超えている。さらに証券口座も確認した。国内株式1億3000万円、投資信託5000万円、外国株式2000万円。老後口座だけで2億円。さらに個人年金保険や生命保険なども合わせると、私の総資産は3億円を超える計算になる。
書類を見つめながら、私はうっすら笑みを浮かべた。ただの美容師がこれだけの資産を築いていたなんて、家族の誰も知らない。知ろうともしなかった。
鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。確かに年は取ったが、その顔には35年間の努力の証が刻まれている。この手は、何万人もの人を美しくしてきた誇り高い手だ。35年間、ただの美容師として見下されてきた私。でも、本当の私を誰も知らない。
鏡の中の自分に向かって、私は静かに微笑んだ。「今まで本当によく頑張ったわね。でも、もう我慢しなくていいのよ」
その瞬間、私の中で決意が固まった。家族という名の差別主義者たちに、思い知らせてやる時が来たのだ。
私はスマートフォンを手に取り、番号をタップした。「もしもし、田中です。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
電話の相手は、長年の付き合いがある不動産業者だ。「実は、家と土地を売却したいと思って」
向こうで相手が驚く気配が伝わってきた。「田中さん、あの一等地の物件ですか?今なら相当な値段がつきますよ。周辺の相場から考えると、土地だけで2億は下らないでしょう」
「そう、それくらいになるのね。建物も含めれば、もっと行くかもしれません」
「でも、ご家族は…」
「家族のことは気にしないで。私の名義だから、私の一存で決められるわ」
「分かりました。では、早速査定の手配をさせていただきます」
電話を切った後、私は次の行動に移った。銀行への連絡、証券会社への確認。そして何より重要な、新しい住まいの手配。全ては新しい人生のために。家柄が違うと言われた美容師がどれだけの力を持っているか、もうすぐ彼らは思い知ることになるだろう。
書斎でスマートフォンが鳴った。先ほど連絡した不動産会社からだ。
「田中様、先ほどはお電話ありがとうございます。査定の件で早速動きました。建設会社の社長と連絡が取れまして、以前からのご希望通り即金で購入したいとのことです。金額は土地が2億3000万円。建物を含めて2億5000万円でいかがでしょうか?これは破格の条件です」
私は即答した。「その条件で結構です。すぐに契約を進めてください」
「承知いたしました。では、1時間以内に司法書士と一緒にお伺いします」
「急で申し訳ありませんが、今月中に済ませたいのでお願いします」
電話を切ると、私は必要な書類を準備し始めた。権利書、実印、委任状。全て私の手元にある。
次に銀行の担当者に電話をした。「田中です。先日相談していた件ですが、本日中に実行したいのですが」
「承知いたしました。3億2000万円の資産移動の件ですね。新規口座への振り込み手続きは、オンラインでも可能ですが」
「それでお願いします。パスワードとワンタイムキーで認証しますので」
夫は相変わらずリビングでテレビを見ている。二階の書斎で、妻がこんな大きな決断をしているとは、夢にも思わないだろう。
私は静かに寝室に向かい、最小限の荷物をスーツケースにまとめた。下着、化粧品、数着の着替え、そして一番大切な美容道具。思い出の品々は、後でゆっくり整理すればいい。今はこの家から離れることが先決だ。
パソコンを開き、オンラインバンキングにログインした。普通預金、定期預金、外貨預金、証券口座。全ての残高を確認し、新しい口座への振り込み手続きを進める。金額が大きいため、何度も確認画面が表示されたが、迷いは全くない。
「送金を実行しますか?」
「はい」
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。不動産会社の人たちが来たのだ。夫は来客に少し驚いた様子だったが、「仕事の関係ですか」と興味なさそうに視線をテレビに戻す。
応接間に通した三人は、不動産会社の社長、司法書士、そして買い主の建設会社の代表だった。「田中様、夜分に申し訳ありません。この物件を何年も探していましたので」と建設会社の社長は恐縮していた。
「いえ、むしろ好都合です。すぐに契約を進めましょう」
司法書士が書類を広げる。売買契約書、登記関係書類、全て完璧に準備されていた。
「引き渡しはいつに?」
「1ヶ月後で…」
「いいえ、1週間後にしてください。それまでに、私たちは出ていきます」
「1週間ですか?」
三人は顔を見合わせたが、私の真剣な表情を見て、それ以上は聞かなかった。契約書にサインをし、実印を押す。手付金として、その場で5000万円が振り込まれることになった。
家を手放すことができ、不思議と解放感が湧いてくる。来客を見送った後、私はもう一度書斎に戻った。スーツケースにもう少しだけ荷物を追加する。家族の写真。いや、もう必要ない。
午後8時、そろそろ息子たちが帰宅するだろう。私はダイニングテーブルに封筒を置いた。中には、家の売却契約書のコピーと簡単な手紙が入っている。
「お望み通り、家柄の違う美容師は消えます。なお、この家は1週間後に引き渡しとなります。家も土地も私の名義でしたので、私の判断で売却しました。35年間、ありがとうございました。田中かず子」
スーツケースを持って玄関に向かうと、夫がようやく気づいた。
「おい、どこへ行くんだ?」
「ちょっと、実家に顔を出してきます」
「実家?お前の実家なんてもうないだろう」
「あら、そうでしたね。じゃあ、友人のところに」
「いつ帰る?」
「さあ、いつになるかしら」
夫は面倒臭そうに手を振る。まさかこれが最後の会話になるとは思ってないだろう。
タクシーに荷物を積み込んだ。運転手に行き先を告げる。「都心のホテルまでお願いします」
車が走り出すと、35年間住んだ家が遠ざかっていった。あの家で、私は必死に家族を支えてきた。でも、もう終わりだ。
スマートフォンを見ると、銀行から入金完了の通知が届いていた。3億2000万円。これが、35年間美容師として働き続けた私の財産だ。家柄が違うと言われた美容師が、これだけの資産を持っていたこと。家族はどう思うだろうか。もうすぐ分かる。あと1時間もすれば、家族みんなが私の手紙を見るだろう。そして、全ての真実を知ることになる。
車窓から夜景を眺めながら、私は新しい人生の第一歩を踏み出していた。
午後10時、都心の高級ホテル。その最上階のスイートルームで、大きな窓から見える東京の夜景を眺めながら、私はソファに深く腰を下ろした。手には、ルームサービスで頼んだ赤ワインのグラス。35年間、こんな贅沢をしたことはない。
「美味しい」
一口飲んで、その芳醇な味わいに驚いた。いつも家ではスーパーの特売品ばかり。家族のために節約することが当たり前だったから。でも、もうその必要はない。
バッグの中でスマートフォンが振動し始めた。画面を見ると、夫からの着信。もう始まったのね。私は笑みを浮かべながら着信を無視した。一件、二件、三件。着信履歴だけが増えていく。今頃、家では大騒ぎだろう。テーブルに置いてきた手紙を見て、パニックになっているはずだ。
正直に言えば、少し心が痛んだ。35年間連れ添った夫。必死に育てた息子。でも、その痛みよりも、今日受けた屈辱の方がずっと大きかった。「お義母様の席はありません」エリカのあの言葉がまだ耳に残っている。そして、それを当然のように受け入れた夫と息子の態度も。
私はもう一度ワインを口に運んだ。スマートフォンの振動が止まない。今度は健二から、そしてエリカからも。画面には通知が次々と表示される。健二から13件の不在着信、エリカから28件、夫から31件。メッセージも続々と届いている。私は深呼吸をして、電源を切った。
静寂が部屋を包む。やっと静かになった。35年間、いつも誰かのために動いていた。でも、今、私には時間がある。誰にも邪魔されない、私だけの時間が。
バスルームに向かい、買っておいたバスオイルを湯船に入れた。ラベンダーの香りが広がる。これも、初めて自分のために買ったもの。お湯に浸かりながら、今日の出来事を振り返った。不動産会社との契約。あの時の社長の驚いた顔。「本当によろしいんですか?ご家族は」「家族のことは考えなくていいです」そう言いきった自分に、今でも少し驚いている。でも、後悔はしていない。銀行での手続きも、思っていたよりスムーズだった。これで、私の人生は私のものになったのだ。
風呂から上がり、バスローブを羽織って再びリビングに戻ると、充電器に繋いでいたもう一台のスマートフォンが鳴っていた。仕事用の番号だ。
「はい、田中です」
「社長!やっと繋がりました」
電話の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。私の美容室の店長、理子だ。
「理子さん、どうしたの?こんな時間に」
「実は、明日の予約の件で。あの大物女優さんから、社長にカットしてもらいたいって」
「ああ、そう。じゃあ11時でいいかしら?」
「はい、お伝えしておきます。それと社長、最近お疲れみたいですけど、大丈夫ですか?」
理子の優しい気遣いに、胸が熱くなる。「ありがとう。でも、もう大丈夫よ。明日からは、今まで以上に仕事に打ち込めそう」
「本当ですか?良かったです。では、明日お待ちしてます」
電話を切った後、私はプライベート用のスマートフォンの電源を入れた。予想通り、着信履歴は100件を超えていた。ため息をついて、私は電話に出ることにした。
「はい」
「母さん!やっと出た。どういうことだ?なんで家を売ったんだ?」
健二の怒鳴り声がスピーカーから響く。昔なら、息子の大声に縮こまっていたかもしれない。でも、今は違う。
「あら、健二。楽しい食事会は終わったの?」
「そう、そんなこと聞いてるんじゃない。家を勝手に売るなんて…」
「勝手に?」
私は鼻で笑った。「私の家を私が売って、何か問題でも?」
「母さんの家じゃないだろう。俺たちの家だ」
「あら、違うわよ。登記を確認した。あの家は最初から私の名義。土地も建物も、全て私のものよ」
「で、でも、家族の家だろう」
「家族?」
その言葉を聞いて、私の中で何かがプツンと切れた。「私は家族じゃないんでしょう?お母様の意向で、除外されたじゃない。あれ、健二。あなたも言ったわよね。『母さん、今日は帰ってくれないか?』って」
沈黙が流れた。健二が何か言いかけたが、言葉が出てこないようだ。そこへ、エリカの声が割り込んできた。電話を奪う音が聞こえ、エリカの必死な声が響く。
「お義母様、お願いします。こんなことしないでください。家を売るなんて、私たちどこに住めばいいんですか?」
「知らないわ。家柄の違う美容師には、関係ないことでしょう?それは、あなたのママが言ってたじゃない。階級の違いはどうしようもない、って。だから、違う階級の私は出ていくことにしたの」
エリカが泣き始めた。電話越しにも、すすり泣く声が聞こえてくる。「お義母様、本当にごめんなさい。私が悪かったです」
「何が悪かったの?」
「全部です。義母様を除外したことも、職業で差別したことも…」
「でも、もう遅いわね」
私は腕時計を見た。もう11時近い。「あ、そろそろエステの時間だわ。また今度ね」
「待って!お義母様!」
エリカの必死な声を無視して、私は電話を切った。すぐにまた着信が入るが、今度は電源を切る。静寂が再び部屋を包んだ。
私はソファに深く身を沈めて、天井を見上げた。35年前、夫と結婚した時、私には夢があった。温かい家庭を築いて、幸せに暮らすこと。そのために必死に働いてきた。美容師として独立することも考えたが、家族のためにと我慢した。いや、正確には違う。独立して成功していることを、家族には隠していたのだ。なぜなら、社長のお母さんではなく、普通のお母さんとして愛されたかったから。
でも、それは間違いだった。彼らは私を愛していなかった。ただ、都合のいい存在として利用されていただけ。
涙が一筋、頬を伝った。でも、それは悲しみの涙ではない。解放の涙だった。
私は立ち上がり、自分で作っていた書類を広げた。3店舗の美容室の売上表、スタッフ名簿。これが私のもう一つの顔。家族が知らない、経営者としての私だ。
明日から、本当の意味で自由になる。誰かの母でも妻でもない、田中かず子として。
もう一度シャンパンのボトルを開けた。今度は、祝福だ。「35年間、お疲れ様でした」
グラスを高く掲げて、私は自分自身に乾杯した。窓の外では、東京の街がきらめいている。明日から始まる新しい人生が、今から楽しみでならない。
1ヶ月後、私は都心の高級マンション、その最上階から朝日を眺めていた。60階建てのタワーマンション。ここから見える景色は、まるで私の新しい人生を象徴しているかのようだ。リビングには真っ白なイタリア製のソファ、キッチンには最新の調理器具。そして、壁一面の本棚には、ずっと読みたかった本がぎっしりと並んでいる。35年間、自分のために使うお金なんてなかった。でも、今は違う。
朝食を済ませ、私は身支度を整えた。今日は大切な日だ。タクシーで向かった先は、表参道にある私の店「ルミエール」。フランス語で「光」を意味する、私の美容室チェーンの一号店だ。
ガラス張りの店内に入ると、スタッフたちが一斉に顔を上げた。
「社長、おはようございます」
「みんな、おはよう」
私はただの美容師ではない。15年前に独立し、今では都内に3店舗を構える美容室チェーンのオーナーだ。表参道、銀座、そして六本木。どの店も予約が3ヶ月先まで埋まっている人気店だ。従業員は総勢45名。みんな私が一から育てた優秀なスタイリストたち。
「社長、あの大物女優さんがお見えです」
受付のミキが告げた。誰もが知る大女優。私の顧客の中でも、特に大切な方の一人だ。
「かず子さん、会いたかった」
個室に入ると、彼女は親しみを込めて抱きついてきた。「最近お店にいらっしゃらないから、心配してたのよ」
「ごめんなさい。ちょっと家庭の事情があって。でも、もう大丈夫」
「ええ、完全に解決しました」
私は微笑みながら彼女の髪に触れた。この感触、この仕事が、私は本当に大好きだ。
カットをしながら、彼女が言った。「かず子さん、知ってる?業界では『魔法の手』って呼ばれてるのよ」
「大げさよ」
「本当よ。だって、かず子さんにカットしてもらうと、気まで上がるって評判なんだから」
私たちは笑い合った。35年間、美容師として働いてきて良かった。そう思えた。
施術を終えて戻ると、秘書のゆりが報告してくる。「社長、先月の売上ですが、3店舗合計で8500万円でした」
「順調ね」
「はい。特に六本木店が好調で」
昼食はスタッフたちと一緒に取った。みんな、私を支えてくれる大切な仲間たちだ。
「社長、最近すごく生き生きしてますね」
店長の理子が言った。
「そう?」
「はい。なんか、吹っ切れたような感じで」
さすが、私が最も信頼するスタッフだ。
午後3時、スマートフォンが鳴った。番号を見ると、夫からだ。この1ヶ月、何度も電話がかかってきている。息子からも、嫁からも。でも、私は一度も出ていない。今日は、なぜか出てみる気になった。
「はい、かず子」
「やっと出てくれたか」
夫の声は、以前とは打って変わって弱々しいものだった。
「何か用?」
「あのな、俺が悪かった。謝る。だから、戻ってきてくれないか?」
「今さら?家もなくなって、君たちはエリカの実家に転がり込んでるんでしょう?俺は会社の寮にいる。情けない話だが…それで、頼む。やり直そう。俺が間違ってた。お前の仕事を恥ずかしいなんて…」
「違うでしょう」
私は冷たく言い放った。「私の仕事が恥ずかしいんじゃない。私という存在が邪魔だったのよ。一緒になって、私を追い出したでしょう?それは、もういいの。私は今、とても幸せだから」
そして、電話を切った。もう、振り返る必要はない。
夕方、最後の顧客を見送った後、私はスタッフたちを集めた。
「みんな、ちょっと聞いてほしいことがあるの」
全員が注目する中、私は話し始めた。
「私ね、美容師であることを恥ずかしいと言われたことがあるの」
スタッフたちは驚いた顔をした。
「でも、私は美容師であることを誇りに思ってる。人を美しくする仕事。人を笑顔にする仕事。こんな素晴らしい職業はないわ。だから、みんな自信を持って。私たちは誇り高い美容師なのよ」
拍手が起こった。温かい拍手が。
世の中には、まだ職業差別が存在する。「高が美容師」「所詮は髪を切るだけ」。そんな偏見を持つ人たちがいる。でも、真の価値は肩書きではない。その人がどれだけ情熱を持って仕事に取り組んでいるか、どれだけの人を幸せにしているか。それこそが、本当の価値なのだ。
マンションに戻った私は、ベランダから夜景を眺めていた。今、私は本当に自由だ。家族という名の差別から解放されて。風が心地よく、頬を撫でていく。
35年間の結婚生活。それは決して無駄ではなかった。息子を育て、家庭を守り、そして美容師として成功を収めた。全てが、今の私を作っている。でも、もう我慢する必要はない。差別や偏見に屈することなく、自分の価値は自分で決める。それが、私が35年かけて学んだことだ。
明日も、たくさんのお客様が待っている。「魔法の手」と呼ばれる私の技術で、また誰かを笑顔にできる。それだけで、十分に幸せだ。
私は美容師、田中かず子として、これからも誇りを持って生きていく。



