「お母さん、もう本当に消えてほしいよね。」
薄い壁越しに聞こえてきた嫁の声に、私は手にしていたカップを落としそうになった。今日は私の六十八歳の誕生日。朝の静けさの中で、一人でコーヒーを飲んでいた時だった。
「ああ、母さんにはもう限界だよ。消えてくれたらどんなに楽か。」
息子の声が続いた。私の胸に鋭い痛みが走る。三十五年前、夫を亡くしてから必死で育てた一人息子。百貨店で朝から晩まで働き、教育費を捻出し、結婚の時には貯金を援助もした。その息子が今、私の存在を否定している。
「邪魔なだけなのよ。いるだけで空気が悪くなるし。」
「分かるよ。でも追い出すわけにもいかないし。何か方法があるはずよ。このままじゃ私たちの生活が。」
二人の会話は続いていたが、私はもう聞いていなかった。ただ窓の外を見つめながら、静かに微笑んでいた。不思議と怒りはなかった。むしろ、すべてが明確になったような、妙な清々しささえ感じていた。
そう、これが本音なのね。私は立ち上がり、鏡に映る自分の顔を見つめた。深く刻まれたシワも、白くなった髪も、六十八年生きてきた証。でも息子夫婦にとって、私はただの消えてほしい存在でしかない。ならば、望み通りにしてあげましょう。
私は唇に再び静かな微笑みを浮かべた。
あの日のことを今でも鮮明に覚えている。三十五年前、夫が事故で突然いなくなった日。当時まだ三歳だった優一を抱きしめながら、私は泣きながら誓った。
「お母さんが必ず守るから。絶対に幸せにして見せる。」
それから私の戦いが始まった。百貨店の販売員として朝八時から夜九時まで立ち仕事。足はパンパンに腫れ、腰は悲鳴を上げていた。でも優一のためなら、どんな辛さも耐えられた。
「母さん、今日も遅いの?」
「ごめんね。でも優一が大学に行けるように、母さん頑張るから。」
私立中学、高校、大学の学費、総額千四百万円。自分の服は何年も同じものを着回し、美容院にも行かず、すべてを息子に注いだ。そして七年前、優一が結婚する時。
「母さん、マイホームの頭金が足りなくて。」
「大丈夫よ。八百万円あるから。これで幸せな家庭を築いて。」
老後のために必死で貯めた貯金だったが、迷いはなかった。息子の幸せが私の幸せだったから。
「ありがとう、母さん。雪と大切にするよ。」
「お母さん、本当にありがとうございます。」
あの時の二人の笑顔を信じていた。まさか七年後、同じ口から「消えてほしい」なんて言葉が出るとは、夢にも思わなかった。
四十二年間百貨店で築いた信用も、顧客との絆も、すべては家族のためだった。でもその家族は、私を邪魔者と呼ぶ。
窓の外では朝日が登り始めていた。新しい一日の始まり。そして、私にとっては新しい決断の日になるのかもしれない。
息子夫婦との同居が始まったのは三年前。還暦を迎えた私に、優一が提案してきた。
「母さん、一緒に住もう。一人じゃ心配だし。」
あの時は嬉しかった。息子が私を気遣ってくれていると思った。でも実際は違った。同居して一ヶ月も経たないうちに、雪の態度が変わり始めた。
「お母さん、朝ご飯の支度、六時にお願いできます? 優一が早いので。」
最初は快く引き受けた。息子のためならと思って。でも要求は日に日にエスカレートしていった。朝六時起き、朝食の準備、弁当作り、洗濯、掃除、夕食の準備。気がつけば一日八時間以上、家事に追われていた。六十八歳の体には正直きつかった。
「お母さん、今日の味噌汁、薄くない? もっとちゃんと作ってよ。」
「掃除の仕方が雑。やり直して。」
「洗濯物の畳み方が違う。私のやり方、覚えて。」
雪の小言は止まらなかった。そして最も驚いたのは、食事の扱いだった。
「お母さんの分は自分で用意してください。私たちとは別で。」
「え? でも私が作った料理なのに。」
「材料費は私たちが出してるんだから、当然でしょう。」
自分が作った料理を、一人キッチンの隅で立って食べる。まるで飯使いのような扱いだった。
そして二年前、さらに衝撃的な要求が突きつけられた。
「お母さん、家賃として月八万円お願いします。」
「家賃? 実の息子の家なのに?」
「光熱費もかかってるし。食材費として月五万円。その他で三万円。合計十六万円です。」
私の年金は月十八万円。十六万円も払えば、手元には二万円しか残らない。そんな老後の蓄えも必要なのに。
「じゃあ働けばいいじゃない。まだ動けるでしょう。」
優一も黙って、雪の隣で頷いていた。あの時の絶望感は今でも忘れられない。仕方なく百貨店でパートとして週三日働き始めた。四十二年勤めた職場で、今度は店員として。
「ふみ子さん、お元気そうで何より。」
「あら、原さん、息子さんと同居されて幸せそうね。」
みんなにはそう答えていた。本当のことなど言えるはずもなかった。
家での扱いは、さらにひどくなっていった。
「お母さん、また物忘れ? 認知症じゃないの? 病院行った方がいいんじゃない?」
私が少しでも何か忘れると、すぐに認知症扱い。実際は雪が物を場所を変えただけなのに。
「お母さんの服、古臭いわね。恥ずかしいから、外に出る時は気をつけて。」
「その話し方も時代遅れ。若い人の前では黙ってて。」
人格否定の言葉が日常的に飛び交うようになった。
ある日、友人が訪ねてきた時のことだ。
「すみません、今日は都合が悪いので。」
雪が玄関で追い返していた。
「私の友人なのに。」
「この家の主人は優一です。勝手に人を呼ばないでください。」
もはや、私にはこの家に居場所などなかった。
「母さん、ちょっと静かにしてくれる? テレビの音が聞こえない。」
咳をしただけで文句を言われる。
「お母さんがいるだけで空気が重くなるのよね。本当、目障りだわ。」
雪は平気でそんなことを言うようになった。優一は止めるどころか同調していた。
「母さん、雪の言う通りだよ。もう少し気を使ってくれないか?」
息子のその言葉が、私の心に最後の釘を打った。私は一体、何のために生きているのだろう。朝から晩まで家事をして、パートで働いて、それでも邪魔者扱い。四十二年間必死で働いて、息子のためにすべてを捧げてきた人生は、一体何だったのだろう。
鏡に映る自分の顔はすっかりやつれていた。でも心の奥底では、何かが静かに燃え始めていた。
朝のコーヒーの時間に聞いてしまった「消えてほしい」という言葉。それから数時間が経っていたが、私の心は不思議なほど静かだった。
朝食の準備をいつも通りに終えて、二人を待った。壁越しに聞いた会話を知らないふりをして、平然を装った。
「おはよう。」
優一が席に着いた。雪も続いて座る。まるで何事もなかったような顔をしている。
「ねえ、今日なんだけど。」
私は勇気を出して切り出した。本音を知った今、それでも息子がどう反応するか確かめたかった。
「今日、私の誕生日なの。」
一瞬の沈黙。雪が顔を上げた。
「だから何?」
冷たい声だった。予想はしていたが、面と向かって言われると胸が痛んだ。
「いえ、別に特別なことを期待してるわけじゃないけど。」
「知らないし、興味もないわ。」
雪はそう言って、また食事に戻った。優一も何も言わない。
「優一、あなたも忘れてたの?」
「母さん、朝からそんな話やめてくれる? 仕事で忙しいんだ。」
さっき聞いた本音を知っているだけに、息子の態度がより残酷に感じられた。
「そうね。ごめんなさい。」
私は席を立ち、キッチンの隅で自分の朝食を取った。冷めた味噌汁が、今日は特に味気なく感じた。
午前中、リビングの掃除をしていると、雪が友人と電話をしているのが聞こえてきた。
「そうなの? お母さんの誕生日らしくて、面倒くさいのよね。無視してるけど、しつこくて。早く消えてほしいわ。」
今朝の会話と同じ言葉。やはり本音だったのだ。
午後になって、私は思い切って提案してみた。どこまで残酷になれるのか、確かめたかった。
「今日の夕食、少し特別なものを作ってもいい? 自分のお金で材料買うから。」
雪が眉をひそめた。
「何のために?」
「誕生日だから。せめて夕食くらいは。」
「お母さん、いい年して誕生日なんて祝ってどうするの? 恥ずかしくない?」
そう言って、雪は見下すように笑った。雪の笑い声が、私の決意をより固いものにした。
夕方、百貨店時代の同僚から電話があった。
「ふみ子さん、お誕生日おめでとう! 今度お祝いしましょうね。」
「ありがとう。でも大丈夫よ。」
電話を切った後、この温かさと家の中の冷たさの差に、改めて現実を突きつけられた。
夕食の時間になった。いつも通りの質素な食事を並べる。二人は何事もなかったように食べ始めた。私は最後の確認として、一緒に座らせてもらおうと思った。
「あの、今日だけ一緒に。」
「はあ?」
「誕生日だから。せめて一緒に。」
雪が箸を止めた。
「お母さん、本当にしつこいわね。」
そして雪が立ち上がった。顔が真っ赤になっている。
「いい加減にしてください! 誕生日、誕生日ってうるさいんです!」
突然の怒鳴り声。でも私は冷静だった。むしろ、これで良かったとさえ思った。
「お母さん、はっきり言います。本当に消えてほしいんです。」
今朝、壁越しに聞いた言葉を、今度は面と向かって言われた。
「目障りなんです。邪魔者なんです。いるだけで不愉快なんです。」
「雪、言いすぎだよ。」
優一が形だけ止めようとしたが、雪は止まらなかった。
「何が言いすぎよ。あなただって、そう言ってたでしょ。消えてくれたら楽だって。」
優一が口ごもった。そして観念したように言った。
「確かに。母さんがいなければ、もっと自由になれるけど。」
息子も本性を現した。
「聞いた? 優一だってそう思ってるのよ。」
「お母さん、もういいでしょう。出ていってください。」
「出ていくって? どこに?」
「どこでもいいです。施設でも何でも。とにかくこの家から消えてください。」
雪の言葉が続く。
「今まで我慢してきたけど、もう限界なんです。お母さんの顔を見るだけで気分が悪くなる。」
優一も頷いた。
「母さん、正直に言うよ。もう一緒に暮らすのは無理だ。」
「でも私はあなたのために――」
「母さん、もういいんだ。僕たちも自分たちの生活がある。」
息子の顔を見つめた。三十八年間、必死で育てた息子。でもそこにいたのは、恩知らずの他人だった。
「分かったわ。」
私は静かに立ち上がった。不思議と涙は出なかった。今朝から覚悟していたから。
「お母さん?」
雪がいぶかしげに見ている。私の落ち着きぶりが不気味だったのだろう。
「希望通り、消えます。」
私は静かに微笑んだ。朝と同じ、静かな微笑み。
「本当に消えてあげます。でも覚えていてください。消えてほしいと願ったこと。必ず後悔する日が来ます。」
「何それ? 脅し?」
「いいえ、ただの予告です。」
私はゆっくりと自分の部屋に向かった。背中に二人の安堵のため息が聞こえた。
部屋に入り、ドアを閉めた。そしてクローゼットから一冊のファイルを取り出した。この家の権利書、銀行の通帳、保険証書、そして百貨店時代からの人脈リスト。四十二年間、コツコツと積み上げてきたもの。今朝「消えてほしい」と聞いた時から、これを使う時が来たと悟っていた。
窓の外はもう暗くなっていた。六十八歳の誕生日。人生最悪の誕生日が、人生最高の転機になる。私は確信していた。
鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。そしてまた、静かに微笑んだ。
さあ、消えてあげましょう。でも、私が消えるということの本当の意味を、あなたたちはまだ知らない。
その夜、私は音を立てないようにゆっくりと準備を始めた。深夜二時、家中が寝静まっているのを確認してから、私は静かに動き始めた。
まず、自分の部屋の金庫から重要書類を取り出した。実家の権利書、土地の登記簿、そして様々な契約書。すべて確認していく。実家の名義は私、栗原ふみ子。土地も同じく私の名前。これは亡き夫が残してくれた唯一の財産だった。優一は知らないが、結婚の時に名義変更を進めたのに、「面倒だから後で」と言ってそのままになっていた。
次に銀行の通帳を確認する。百貨店の退職金の一部と、パート代をコツコツ貯めた三百万円。息子たちにはない口座だ。さらに生命保険の証書。受取人は優一になっているが、これも変更する必要がある。
そして一番大切なもの。百貨店時代の顧客名簿と私の人脈リスト。四十二年間で築いた人脈。弁護士、税理士、不動産業者、そして百貨店の現役幹部たち。皆、私を「ふみ子さん」と呼んで慕ってくれる人たちだ。
携帯電話を手に取り、登録されている番号を確認する。明日から連絡を取る人たちのリストを、頭の中で整理した。
次に、この家の住宅ローンの書類を見つけた。優一の名前で組んだローンだが、連帯保証人の欄に私の名前がある。残債はまだ二千万円以上。私が保証人から外れたら、銀行は優一に一括返済を求めるかもしれない。これも持っていきましょう。
私は書類を鞄に入れた。静かにリビングに移動する。壁に飾られた家族写真を見つめた。幸せそうに笑う、昔の私たち。でも、もうこれは幻想だ。写真から、夫との思い出の写真だけを抜き取った。
キッチンの引き出しを開ける。そこには私が管理していた家計簿があった。三年間、すべての支出を記録していた。私が払った十六万円の内訳、私がした家事労働の時間、すべてが記されている。これも証拠として持っていく。
あら、これも私のものだったわね。食器棚の奥から、亡き夫の形見の茶碗を取り出した。優一も雪も価値は知らないが、これは有名な陶芸家の作品。百貨店の鑑定では五十万円の値がついた。
階段を上がり、優一たちの部屋の前を通る。中から寝息が聞こえてきた。ぐっすり眠っているのね。消えてほしい人がいなくなって、清々しく眠れることでしょう。私は皮肉な微笑みを浮かべた。
自分の部屋に戻り、荷造りを始めた。必要最小限の衣類、大切な宝石類、そして思い出の品々。四十二年間働いた百貨店の永年勤続表彰の盾も、忘れずに入れる。
そして最後に、手紙を書き始めた。
優一へ。
ご希望通り、消えることにしました。これで邪魔者はいなくなり、自由になれることでしょう。ただし、私が消えるということは、私に関するすべてが消えるということです。実家は私の名義です。土地も同じく私のものです。近日中に正式な手続きを取らせていただきます。住宅ローンの連帯保証人からも外れます。銀行にはすぐに連絡を入れる予定です。今まで払っていた月十六万円はもちろん停止します。家事労働もすべて終了です。私の人脈、信用、すべて私と共に消えます。百貨店と優一の会社との取引にも、多少影響があるかもしれませんが、それは仕方ありませんね。
「お荷物」「邪魔者」「消えてほしい」。この言葉、よく覚えておいてください。言葉には必ず責任が伴います。最後に一つ。親不幸な息子を育てたのは、私の責任です。でも、恩を仇で返す人間と暮らす義務はありません。さようなら。もう二度と会うことはないでしょう。
追伸。雪さん。お母さんの顔を見るだけで気分が悪くなるとおっしゃいましたね。もう見なくて済みますよ。良かったですね。
栗原ふみ子
手紙を封筒に入れ、テーブルの上に置いた。時計を見ると午前四時になっていた。もうすぐ夜が明ける。新しい人生の始まりだ。
最後にスマートフォンで写真を撮った。この家の外観、リビング、そして自分の部屋。すべて証拠として残しておく。
玄関に向かう途中、もう一度振り返った。もう、これは私の家ではない。私を消えてほしいと願う人たちの家だ。
「さようなら。」
小さく呟いて、私は静かにドアを開けた。外はまだ暗かった。タクシーを呼んでおいた場所まで、スーツケースを引いて歩く。運転手が荷物を積み込んでくれる間、私は最後にもう一度家を見た。窓から漏れる小さな明かり。あそこで息子夫婦はまだ眠っている。私が消えたことにも気づかずに。
「お客さん、どちらまで?」
「ホテルまでお願いします。」
高級ホテルの名前を告げた。百貨店時代の上顧客として、特別料金で泊まれる場所だ。
タクシーが走り出した。バックミラーに映る家が、どんどん小さくなっていく。
これでいいのよ。私は自分に言い聞かせた。六十八歳の誕生日の夜に下した決断。後悔はない。
明日の朝、息子夫婦が起きた時、すべてが始まる。私の復讐が静かに幕を開ける。
翌朝七時、アラームが鳴り響いた。雪は眠い目を擦りながらリビングへ向かう。
「お母さん、いない。手紙がある。」
雪の叫び声に、優一は飛び起きた。リビングに駆け込むと、テーブルの上に封筒が置かれていた。震える手で開封する。
「何これ? 実家が母さんの名義? 土地も? 嘘でしょ?」
雪が青ざめた。慌てて金庫を確認すると、権利書が消えていた。
「この家も――連帯保証人から外れるって。」
「まずい。住宅ローンが――」
優一の顔から血の気が引いた。残債は二千万円以上。連帯保証人がいなくなれば、銀行は一括返済を求めてくる可能性がある。
その時、優一の携帯が鳴った。
「栗原様でしょうか? みずほ銀行の田中です。連帯保証人の栗原ふみ子様から、保証人解除の申し出がありまして――」
「ちょっと待ってください! 母が勝手に――」
「いいえ、正式な手続きです。つきましては、新しい保証人を立てていただくか、一括返済をお願いすることになります。」
「一括返済なんて無理です!」
「では、一週間以内に新しい保証人をご用意ください。できない場合は、法的処置を取らせていただきます。」
電話を切った優一は、膝から崩れ落ちた。
「どうするの? 二千万円なんて――」
「母さんに謝って、戻ってもらうしか――」
優一は母の携帯に電話をかけた。
「母さん、どこにいるんだ?」
「あら、優一、おはよう。」
ふみ子の声は、驚くほど穏やかだった。
「今すぐ帰ってきてくれ。話し合おう。」
「話し合う? 昨日はっきり言ったでしょう。消えてほしいって。」
「あれは言いすぎた。謝るから。」
「謝る? 六十八歳の誕生日に消えてほしいと言われた母親に、謝れば済むと思っているの?」
ふみ子の声が冷たくなった。
「お願いだ、母さん。保証人のままでいてくれ。」
「お荷物が保証人? おかしな話ね。」
「母さん――」
「優一、私はもうあなたの母親ではありません。昨日、あなたがそう決めたのよ。」
電話が切れた。
「どうだったの?」
「だめだ。完全に怒ってる。」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「栗原様、弁護士の佐藤です。栗原ふみ子様の代理人として参りました。」
スーツ姿の男性が立っていた。母の代理人――。
「はい。栗原様のご実家と土地の件で、お話があります。」
リビングに通された弁護士は、書類を取り出した。
「この不動産は栗原ふみ子様の所有物です。つきましては、一ヶ月以内に売却の予定です。」
「売却? 実家は俺の名義になったはずだ。」
「いいえ。登記を確認してください。所有者はふみ子様です。」
弁護士は登記簿の写しを見せた。確かに、所有者は栗原ふみ子になっている。
「そんな馬鹿な――」
「また、ふみ子様は息子さん夫婦から月十六万円を徴収されていたそうですね。その上、無償で家事労働を強いられていた。これは経済的虐待に当たる可能性があります。」
雪が口を挟んだ。
「虐待なんて大げさな――」
「では、法廷で争いますか? ふみ子様は三年分の詳細な記録をお持ちです。」
二人は黙り込んだ。
「ただし、ふみ子様は寛大な提案をされています。市場価格での買い取りを希望されるなら、検討する――と。」
「いくらだ?」
「土地と建物合わせて、四千五百万円です。」
四千五百万円。優一は絶句した。住宅ローンの残債と合わせたら、六千五百万円。とても払える金額ではない。
午後になって、さらなる追い打ちが掛かった。優一の会社の上司から電話があった。
「栗原、ちょっと問題が起きてな。」
「何かありましたか?」
「山中百貨店との取引の件だ。向こうから見直しの話が出ている。」
「え? なぜ――?」
「お前の母親。あそこに元社員だろう。しかも上顧客だったらしいな。それが百貨店の部長から聞いたんだが――お前、母親をひどく扱ってたそうじゃないか。」
「それは家庭の問題で――」
「家庭の問題じゃ済まないんだよ。向こうは、親不幸な人間とは取引したくないと言ってる。」
優一は言葉を失った。
「とりあえず、明日出社したら詳しく話す。」
電話を切った優一に、雪が詰め寄った。
「どうなったの?」
「会社の取引先が――母さんの影響で――」
「まさか、首になるの?」
分からない。そう答えるのが精一杯だった。
その夜、二人は必死でふみ子に電話をかけ続けた。しかし、電話は通じなかった。
翌日、優一は会社で厳しい叱責を受けた。百貨店の取引は、会社の売上の三割を占める重要なものだった。
「お前のせいで会社が大損害だ。」
「申し訳ありません。」
「母親の問題を解決しろ。できなければ、人事も考える。」
家に帰ると、雪が泣いていた。
「近所の人たちが、みんな知ってるのよ。お母さんを追い出したって――」
「誰が言いふらしたんだ――」
「お母さんの友人たちよ。私、買い物にも行けない。」
二人の生活は、完全に破綻し始めていた。
三日後、ついに優一は土下座する覚悟を決めた。ふみ子が滞在しているホテルを必死で探し出した。百貨店の関係者から聞き出したのだ。
ロビーで待っていると、ふみ子が現れた。高級な服を着て、優雅に歩いてくる姿は、家にいた時とは別人のようだった。
「母さん――」
「あら、どなた?」
ふみ子は冷たく言った。
「母さん、お願いだ。戻ってきてくれ。」
「戻る? どこに? 私の家は売却予定ですが――あなたの家も、保証人がいなくなったから住めなくなるでしょう。」
「俺の家は、保証人さえ見つかれば――」
「あら、保証人、見つかるかしら?」
優一は膝をついた。
「土下座するから、許してくれ――」
「土下座? みっともないわね。」
ふみ子は振り返りもせずに言った。
「お願いします! 会社も首になりそうなんです!」
「それは自業自得でしょう。」
「母さん、息子を見捨てるのか?」
「息子? 私に息子なんていません。消えてほしいと言った他人が、いるだけです。」
雪も駆けつけてきた。
「お母さん、私が悪かったです。お願いします――」
「お母さん? 誰のことかしら。私はあなたの義母ではありません。」
「お願いします。家を追い出さないで。保証人を探せばいいじゃない!」
「保証人になってくれそうな人が、いないんです――」
「あら、お荷物だった私が保証人だったなんて、皮肉な話ね。」
ふみ子は静かに笑った。
「これが因果応報というものよ。人を粗末に扱えば、必ずその報いが来る。」
「もう一度だけチャンスを――!」
「三年間、毎日のように私を侮辱し続けたあなたたちに――」
ふみ子の声が厳しくなった。
「『目障り』『邪魔者』『消えてほしい』『いるだけで空気が悪くなる』。一つの言葉、ゆっくりと口にした。これらの言葉を浴びせ続けた人間が、今更何を言うの?」
「反省してます! 本当に――」
「反省? 保証人が必要だから? 家を失いたくないから? それを反省というの?」
ふみ子は二人を見下ろした。
「あなたたちは何も分かっていない。本当に失ったものが何か。」
「母さん――」
「四十二年間で築いた信用と人脈。それがどれほどの価値があるか、これから思い知ることになるでしょう。」
そう言って、ふみ子はエレベーターに向かった。
「待ってください!」
優一が叫んだが、ふみ子は振り返らなかった。エレベーターが閉まる直前、ふみ子が言った。
「さよなら。消えた人間に、未練はありません。」
扉が閉まり、二人は呆然と立ち尽くした。
あれから三ヶ月が経った。私は今、都心の高級マンションで暮らしている。百貨店から声がかかり、顧問として週三日勤務することになったのだ。年収は八百万円。パート時代とは雲泥の差だ。
「ふみ子さん、今日もお綺麗ですね。」
百貨店の社員が声をかけてくれる。四十二年間の経験を生かし、接客指導や顧客対応のアドバイスをする仕事は、とても充実している。
「栗原顧問、本日の会議の資料です。」
「ありがとう。確認しておくわね。」
顧問室から見える景色は素晴らしい。あの狭い部屋で、狭い思いをしていた日々が嘘のようだ。
昼休み、百貨店の同僚たちとランチに出かけた。
「ふみ子さん、顧問の誕生日パーティー、場所決まりましたよ。」
「六十八歳の誕生日も、一緒に祝ってもらえるなんて――」
「当然ですよ。遅い誕生日祝いになってしまいましたが――ふみ子さんは、私たちの宝ですから。」
温かい言葉に、心が満たされる。血は繋がっていないけれど、この人たちこそが本当の家族だと感じる。
夕方、弁護士の佐藤さんから連絡があった。
「栗原さん、実家の件ですが、買い手が見つかりました。」
「そう、よかった。」
「四千八百万円での売却です。処分費を引いても、四千五百万円は手元に残ります。」
「ありがとうございます。」
「それと――息子さんご夫婦の件ですが。」
私は静かに聞いた。
「結局、家を追い出されて、今は安いアパート暮らしだそうです。」
「そう――」
「離婚寸前という話も聞きました。」
「それは残念ね。」
本心から残念だと思った。息子の幸せを願って、すべてを捧げてきたのに。結果がこれでは――。
奥様の雪さんは、義母がいなくなってすべてが狂ったと言っているそうです。
今更気づいても、遅いわね。
翌日、百貨店で思いがけない人物と再会した。
「母さん。」
優一だった。やつれた顔で、見苦しい格好をしている。
「どなたかしら?」
「母さん、僕だよ。優一だよ。」
「ああ――以前、息子だった人ね。」
私は冷たく言った。
「母さん、もう一度だけ話を――」
「ここは私の職場です。部外者は出て行ってください。」
「五分でいいから――!」
「警備員を呼びますよ。」
優一は肩を落とした。
「会社、首になったんだ――」
「自業自得でしょう。」
「雪とも、離婚することになった――」
「それで?」
「母さん、僕が間違ってた。本当にごめん。」
今更の謝罪に、心は動かなかった。
「あなたは私に『消えてほしい』と言った。その願いは叶ったでしょう。」
「後悔してる――!」
「後悔? それは保証人がいないから? お金がないから?」
優一は答えられなかった。
「本当に後悔しているなら、これから自分の力で生きていきなさい。親に頼らず、一人で。私はもうあなたの母親ではありません。あなたが、そう決めたんです。」
私は踵を返した。
「待って――母さん――!」
「二度と来ないでください。次は本当に警察を呼びます。」
その日の夜、マンションで一人、ワインを飲みながら窓の外を眺めた。夜景がキラキラと輝いている。六十八歳で始まった新しい人生。辛い選択だったけれど、後悔はしていない。
翌週、百貨店の仲間たちと温泉旅行に出かけた。
「ふみ子さん、本当に若返ったわね。半年前とは別人みたい。」
「そうかしら。」
鏡を見ると、確かに表情が明るくなっていた。呪縛から解放されて、本来の自分を取り戻したのかもしれない。
「ねえ、ふみ子さん。――息子さんのこと、後悔してない?」
親しい同僚が聞いてきた。
「後悔? ――そうね。息子をああいう人間に育ててしまったことは後悔してる。でも、縁を切ったことは――それは後悔していない。人を粗末に扱う人間と一緒にいる義務はないもの。」
皆が頷いた。
「親子でも、限度があるわよね。」
「ふみ子さんは十分すぎるほど尽くしたわ。これからは自分のために生きていいのよ。」
温かい言葉に、涙が出そうになった。
旅館の部屋で、ふと昔のアルバムを開いた。幼い頃の優一の写真。あの頃は純粋で優しい子だった。どこで、間違ってしまったのだろう。でも、もう過去は変えられない。私にできるのは、これからの人生を大切に生きることだけ。
新しい手帳を開き、これからの予定を確認する。来月は海外旅行。再来月は歌舞伎鑑賞。その次は――やりたいことが山ほどある。六十八歳からでも、人生は輝かせることができる。
あなた、見ていてね。天国の夫に語りかけた。
私、やっと自由になったの。あなたが残してくれた家も、ちゃんと活用したわ。これからは――自分のために生きていくから。
携帯が鳴った。百貨店の後輩からだ。
「ふみ子さん、明後日のランチ、イタリアンでいいですか?」
「もちろん。楽しみにしてるわ。」
電話を切って、改めて思った。血の繋がりだけが家族じゃない。私を大切にしてくれる人、私が大切にしたい人。それが本当の家族なのだ。
最後にもう一度、優一のことを思った。いつか、本当の意味で反省する日が来るかもしれない。でも、それを待つつもりはない。私には、私の人生がある。
「消えてほしい」。あの残酷な言葉が、逆に私を解放してくれた。皮肉なものだ。でも今は心から言える。
ありがとう、優一。あなたのおかげで、本当の幸せを見つけることができた。
窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。六十九歳まであと九ヶ月。きっと、素晴らしい誕生日になるだろう。本当の家族に囲まれて、心から祝福される誕生日に。
これが私の選んだ道。そして――私の勝利。理不尽に屈しない強さを手に入れた。今はもう、何も怖くない。



