同僚と入ったカフェで、私は夫の浮気現場に鉢合わせした。隣の席で、夫・かずとは若い女性にこう言っていた。「妻は2年前に亡くなったから、この後うちに来ていいよ」
私はぶち切れた。過去2回、彼を許したことがある。2度目は「離婚する」と宣言したのに、まだ懲りていなかった。私は復讐を決意した。だが、本当の悪人の存在にはまだ気づいていなかった。
私は滝沢美紀、35歳。夫のかずとは優しくて頼れる人だが、正確に大きな問題があった。特に困っているのは責任転嫁をするところだ。生活費を使い込んだ時は「私が話を聞かなかったからだ」と主張した。浮気を問い詰めると「女性の方から迫ってきた」と言い訳する始末。「全部あいつのせいだ。俺に責任を押し付けやがったんだよ」と、何を聞いても絶対に自分に非はないと語った。
最初は信じていたけれど、今は疑いの目を向けてしまう。私を愛しているという彼の気持ちも嘘だったのかもしれないと思えるようになっていた。
そんな私たちの出会いは仕事の席だった。当時かずとが務めていたのは精密機器を取り扱う会社。地元では有名で、大手企業との取引もあったと聞いている。私は勤務する小さなデザイン事務所とは縁がないと思っていた。しかし、何を間違ったのか私の会社に仕事の依頼が来る。内容はパンフレットのデザインだった。対応したのは上司の鮫島直美。私が入社した時には彼女はすでに会社のエースだった。社長の娘だから多少は遇されていたところがあると思う。それでも実力はあると感じていた。
来たのはかずとだけ。彼は私たちにも丁寧に頭を下げて帰っていった。「ちょっと来て」と直美が私に手招きをする。「この仕事、あなたが担当しなさい」と手にしていた資料を渡してくる直美。私は受け取りながら聞き返した。「え、いいんですか?」「ええ、あの人、私の嫌いなタイプだったから」と直美は不愉快そうに顔をしかめる。「そういう問題じゃないの。適当な話し方をするところが嫌なのよ」と。
こうして私はかずとと仕事をすることになった。大きな企業との仕事は初めてだ。私は構えていたが、面倒な修正もなく仕事はあっさりと終わった。「お疲れ様でした」「こちらこそありがとうございました」と挨拶を交わしたところで、かずとが名刺を差し出す。「裏に個人的な連絡先が書いてありますから」と。慌てて名刺を裏返すと、そこにはボールペンで携帯電話の番号が書かれていた。「仕事じゃなく個人的な連絡先なので。今は恋人もいないし、今日でもいいですよ」と迫られる。連絡待っていますね、と言われ、流れで誘われたことに驚いてしまう。心のどこかで妙に手際がいいと思いつつも、どうしても彼が気になった。結局数日後に私の方から連絡し、交際することになった。
結婚したのは交際3年目の春だ。年齢的にも20代半ばを過ぎ、そろそろと考えていた時のプロポーズだった。思い返せば、かずとはかなり手慣れていた気がする。気づけたら良かったのだが、私はそのまま彼と結婚してしまった。当然結婚後は苦労させられることになる。
最初の仕事の後もかずとの会社からは定期的に仕事の依頼があった。ただ担当者は変わる。私は数回に1度くらいの割合で対応していた。それが長く続いていたのだが、結婚した途端、私に仕事が回ってこなくなる。「夫婦で担当すると変な噂になるかもしれないでしょ」と直美はそう話した。確かに妙な憶測を呼ぶのは困る。仕事には真摯に取り組んでいるが、会社側の配慮だと受け入れることにした。
そんなある日のことだ。他の人の仕事が詰まっていて、ついに私が担当になった。久しぶりだと思いながらかずとの職場を訪ねる。出迎えてくれたのは、受付の若い女性と口をきく彼の後ろ姿だった。そっと近づき、背後から彼の耳を思いきり引っ張る。「痛いだろう」と。「何するんだ?」と勢いよく振り返るかずと。私と目が合い、急に黙った。「痛いのは私の心よ。新婚なのに、なんで女性に声をかけているのかしら」と問い詰める。「あ、いや、ちょっと挨拶をな」と言い訳するかずと。私は彼の後頭部を軽く叩いた。「何が挨拶よ。いい加減にしなさい」と。
帰宅後、かずとを問い詰める。彼はヘラヘラと笑いながら言い訳を始めた。「いや、あれは本当に話していただけで」「その割には受付の女性は嫌そうな顔をしていたわよ。公的に誘ってたんじゃないの?」「は、俺はそんなことはしねえよ。お前だって知ってるだろう」と自信満々に説明されると、そうだったような気もする。少し考えた私はため息をつき、「勘違いだとしても迷惑そうだったらやめるべきじゃない?」と伝えた。「そうよね」と彼は静かに頷いた。「とにかく次からは勘違いされないようにしてね」と念を押すと、「わかった」と不服そうに返事をした。これで話は終わった。
しかし、中途半端に注意したことが裏目に出る。私がそう気づいたのは2ヶ月ほど後だった。ちょうどかずとが出張から戻った日の夜のことだ。玄関先にキャリーバッグを置いた彼は疲れた顔で部屋に入ってきた。彼が風呂に入っている間、私はキャリーバッグを開け、中に入っていたお土産の紙袋を探った。すると、一番底にレシートが入っていた。ゆっくりと開いた途端、思わず「あっ」と声が出てしまう。私がレシートだと思ったのは、ホテルの領収書だった。利用したのはダブルルームで、人数は2名。どう考えても同僚と一緒に泊まったとは思えなかった。
かずとがお風呂から上がってくるのを待つ。彼がリビングに入ってきた途端、私は冷たい口調で尋ねた。「これ、誰と泊まったの?」「は?誰って?へ」と目を見張るかずと。私は追及した。「どうしたの?かずと一緒に出張へ行ったのは誰なのかしら?」「これは俺が1人で」と言い訳をする。「じゃあどうして焦っているの?顔色も悪いし汗も描いているわ」と指さすと、「今はその風呂上がりだから」と苦しい言い訳。「じゃあもう1つ。上司の方の連絡先を教えて。一緒に出張に行った人のことを聞くから」と言うと、かずとの表情が固まる。「いや、でもほら、外部に漏らすわけにはいかないし」と慌てる。私は確信した。彼の出張が嘘だったということを。
「どうなの?素直に謝れば許すかどうかを考えてあげるけど」と伝えると、かずとは顔をあげて「ごめん。その出来心で」と白状した。「出来心?出張じゃなかったってことかしら?」「はい」と項垂れる。詳しく問いただすと、一緒に行ったのはキャバクラ勤務の女性だそうだ。浮気相手というより、相手にお金があるとアピールしたかったとのこと。旅費を全て負担し、ダブルルームに泊まったのも女性だけ。「じゃあかずとはどうしたの?」「俺はシングルルームに」と声が小さくなる。実際、彼は自分が宿泊したシングルルームの領収書を財布から出した。確かに日付は同じ。彼の話は事実だろう。
「話は分かったわ。あとはお母さんにも聞いてもらいましょう」と言うと、かずとは急に慌て始めた。「お母さんを呼ぶつもりか?」と。私は平然と頷いた。「あなたがしたのは浮気も同然。ここで許したらまた同じことをするでしょ」と。翌日の夜、義母が来ていた。かずとは玄関で正座させられていた。義母が「反省よ。ほとんど犯罪という感じのことをしたんだから」と睨みつける。義母は「誠意を示してもらわないといけないわよね」と言い出した。「ミキさんが欲しいものを買いますので許してください」とかずとが言うと、義母は「でも次はないわよ。私が許さないから」と厳しい言葉を飛ばした。義母のお説教が始まり、終わったのは2時間後のことだった。かずとは私に頭を下げた。「ミキ、本当に悪かった。許してくれ」「分かった。今回はミのようなものだし許すわ。その代わり次はないわよ」と伝えると、彼は泣きそうな顔で頷いた。
今回の騒ぎの後、かずとは人が変わったように真面目になった。夜遊びは一切しないし、休日は家事を手伝ってくれる。そんな時に誘われたのが義母が指導する華道教室だった。以前から興味があった私は2つ返事で参加し、すぐにのめり込んでいった。そんな私を見たかずとは眉を潜めていた。「なんで急に」とからかうような口調にむっとする。「何を趣味にしても私の勝手でしょ。浮気が趣味の人よりはな」と返すと、「お前、終わったことを蒸し返すなよ」と彼は少し引いていた。「そうね。1度目は私にも落ち度があったから許しただけ」と私が言うと、彼はよそを向き、自室にこもってしまった。何か妙だ。違和感を覚えるが、その正体は分からなかった。
違和感の正体に気づいたのは、結婚5年目の記念日だった。私はいつもより早く仕事を切り上げ、スーパーであれこれと食材を買った。少し奮発して普段は買わない高いワインなども手に入れた。帰宅すると、かずとが携帯電話をいじりながら缶ビールを飲んでいた。「結婚記念日だから」と早く帰ってきたのかと思うと嬉しくなる。しかし、彼は「結婚記念日。今日だっけ?」と軽く言った。少しがっかりしたが、本当の絶望はその次に訪れる。「結婚記念日だからじゃなくて、仕事をやめたから家にいるんだよ」と彼は平然と言った。仕事をやめた。どうやら経理担当者が不審な請求書を見つけ、調査が始まったらしい。そのうちの1つの担当者がかずとで、架空請求に関与していたと疑われた。彼は「疑われて腹が立っただけだ」と言い、退職届を叩きつけたという。「退職届は撤回するの?」「撤回するわけがないだろう」と。私は深いため息をついた。
翌日、私はかずとに電話をした。「寝ている場合じゃないでしょ。仕事を探してよ」と言うと、「分かってるよ。明日から探すから。平気だって。俺は優秀だから」と呑気に話す。私は声を荒らげた。「あのね、危機感を持ちなさいよ。なんであなたも私も30代。この年で再就職は難しいの知ってるでしょ?」と強く言ってみるが空振りに終わる。私はそのまま義母に連絡を入れた。義母が激怒したのは言うまでもない。私は会社の上司・直美に「家でトラブルがあり、午後から休みをもらえませんか」と伝えると、彼女は「あら、あの人やめちゃったの?」と口元に笑みを浮かべた。随分と嬉しそうに見える。直美は私を嫌っている。最近仕事で私の方が褒められることが多いからだ。
帰宅すると、義母と義父がかずとを問い詰めていた。「黙っていないでなんとか言いなさい。どういうことなんだ」と義父が怒鳴る。「だから俺は悪くないの。会社の連中が俺を疑うから」とまた責任転嫁している。すると、義母の携帯電話が鳴った。電話を終えた義母は怒鳴った。「この嘘つき。何が疑われたよ。私の華道教室の生徒さんの中にあんたの会社の関係者の奥さんがいるの。この人の話だと、あんた横領していたそうじゃない?どうなの?」と。かずとはドモドモしている。どうやら架空請求で会社のお金を横領しようとして失敗し、責任を取らされる形で会社をやめたらしい。「ミキさん、離婚してもいいわよ。こうなったら」と義母は言った。横領は犯罪だ。許せるようなことではない。しかし、ここで見捨ててもいいのだろうか。心の中に迷いが生じる。
「ごめんミキ。俺が悪かった。横領って言うけど、少し多めに請求して小遣いにしようと思っただけで」とかずとが謝る。「お金がないならどうして私に言わないの?」と聞くと、「恥ずかしいし、お前には浮気の件で迷惑もかけたし」と。心苦しかったということか。「素直に言っておけばよかったのよ」私が深呼吸をして言うと、「分かってる。本当に悪かった」と彼は謝る。「どんなに謝っても許さない。横領は犯罪だから離婚するわ」と宣言した瞬間、かずとは涙を流した。「待ってくれよ。謝るから離婚だけは」とすがる。「いやよ。もう決めたことだから」と冷たく突き放す。けれど最後にこう言ってあげた。「ただ離婚届はすぐに出さないわ。落ち着いて考える時間が欲しいから。その間にあなたがどう変わるか私に見せて」と。
かずとは一変した。再就職先は義母に紹介してもらったタクシー運転手に決定。不満もあったと思うが、彼は何も言わなかった。今は真面目に働いている。私はいつでも離婚できる覚悟を決め、少しだけ仕事の量を増やした。1人になっても暮らしていけるようにするためだ。月日は流れ、いつの間にか私たちの結婚生活は10年を迎えていた。
記念日が近づいたある日、私はかずとに「結婚記念日はどうする?」と聞いてみた。「そうだな。今年は旅行でもするか。最近はインバウンドの客も多くて随分と稼げているからな」と。タクシー運転手は恩恵に預かれる仕事の1つらしく、彼の給料にも余裕が現れていた。「じゃあ俺が計画を立てるから、ミキは言う通りにするだけ。どうだ?」と。「当日のサプライズってこと?」「まあそうだな。いいアイデアだろ」と2人で笑い合った。結婚日が待ち遠しくて仕方がなかった。
それから数日後、私は同僚の石渕佳子と昼休みにカフェへ行った。おしゃれなカフェで、ランチが1000円ぽっきり。デザートにコーヒーもついているらしい。私たちはそのカフェに入り、入口に近い席に案内された。猫の置き物に目を引かれていると、隣の席から聞き覚えのある声がする。「この店、いいだろう。最近の俺のお気に入りなんだ」と。この声は、かずとだ。ゆっくりと視線を横に向けると、棚の隙間の向こうに見えたのはかずとの横顔だった。彼の目の前には見知らぬ若い女性がいた。かずとは彼女に笑いながら話しかけている。「どう?この店は気に入った?みずほ?」「ええ、とっても。よかった」と女性は答える。女性の名前はみずほというようだ。彼女とはどういう関係なのだろうか。徐々に苛立ってきてしまう。「この店、ランチもうまいんだけど、今日はやめておこうか」「え、どうして?」「この後一緒に買い物をして、2人で作るのはどう?」との言葉に、私の眼光が鋭くなる。これは浮気確定だ。完全に頭に血が登った。しかし、今問い詰めたところで言い訳は可能だ。できれば言い逃れができない状態になるまで待ちたい。「ミキ、どうするの?」と佳子が聞いてくる。「もう少し様子を見るわ」と小声で返した。すると、かずとが決定的な言葉を漏らす。「なあ、そろそろ本気で付き合おうよ」と。「え、でも指輪してるし、奥さんがいるんじゃないの?」とみずほが聞き返すと、彼は笑いながら答えた。「妻は2年前に亡くなったから、この後うちに来ていいよ」と。「そうなんだ。じゃあ行こうかな」「決まりだな。うちで楽しもうか」とヘラヘラするかずとの隣の席で、私はぶち切れだった。
同僚と入ったカフェで夫の浮気現場に出くわすなど、どんな確率だ?「悪いけど先に出るわ。あれの監視してて」と顎で隣の席を示す。「オッケー。任せて」と佳子が頷いたところで、私はそっと店を出た。かずとを許したのは過去2回。2度目の時は離婚すると宣言したのに、まだ懲りていなかったのは驚きだ。さすがに堪忍袋の緒が切れた。泣いて謝っても絶対に許さない。立ち直れないくらいに叩きつぶしてやる。一生抜け出せない地獄の底でもがけばいい。かずとに復讐すると決めた私だったが、本当の悪人の存在にはまだ気づいていなかった。
色々と考えつつ急いでカフェから離れる。店が見えなくなったところで、私は義母に電話をかけた。「もしもし。お母さんですか?実は、最高のお仕置きでかずとを出迎えてあげたいんです。協力してください」と要件を伝えると、義母は快諾してくれた。続けて直美へ電話をかけ、体調不良で早退させてほしいと伝えた。彼女は「体調不良よ、本当に?」と疑ってきたが、「はい。すみません」と演技を交えて話すと、「まあいいわ。うちはブラック企業じゃないし。有給消化でいいのね」と許可が出た。タクシーに飛び乗り、急いで帰宅する。途中で佳子から電話がかかってきた。「今2人が店を出たところ。買い物をしてから家に行くとかなんとかそんな話をしていたわよ」と。「分かったわ。ありがとう」と伝え、電話を切った。
自宅マンション前に到着すると、義母と待ち合わせていた。「すみません。急に呼び出して」「いいのよ。バカ息子がやらかしたんだから」と呆然とする義母。2人で一緒に家に入り、手分けして部屋を掃除した。ベッドメイクに浴室の掃除も怠らない。最後に戸棚からワイングラスを出し、丁寧に磨いておいた。そうして1時間ほどが経っただろうか。ふと窓の外を見ると、自宅マンションの前にタクシーが止まった。窓から様子を伺うと、降りてきたのはカフェで見たみずほという女性だった。タクシーの運転席にはかずと。彼は身を乗り出しみずほに「あれ?車を止めてくるからちょっと待ってて」と言い、しばらくすると戻ってきた。彼はみずほの肩を抱くと耳元でささやくように何かを話す。「やだもう」とみずほがかずとを叩く。彼は嬉しそうに笑っていた。覚悟しなさい。あなたが笑えるのはそれが最後だから。
玄関の方から鍵の音が聞こえてきたのは数分後だった。すぐにガチャっと扉が開く。同時にかずとの声がした。「さあ、入って。1人だけどちゃんと片付けて」と。「そうね。ちゃんと掃除をしておいたわよ」とかずとと義母がセリフを被せる。ぎょっとしたのはかずとだ。目の前にいる義母を見て口をパクパクさせる。「どうしたの?かずと」「あれ?なんで母さんが?」と震えるかずとを見据えた義母は堂々と言い放った。「親が訪ねてきたら何か困ることでもあるのかしら?」と。「別にそんなことはないけど」ともごもごするかずと。その背後でみずほが首をかしげた。「誰ですか?」「あ、親。俺の」「ああ、お母様ですか?初めまして。私、かずさんとお付き合いをしている萩原みずほと申します。よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げるみずほ。「あら、ご丁寧にありがとう。でもどの程度のお付き合いなのかしら」と義母が問い返す。「はい。結婚を前提に」とみずほは無邪気に微笑みながら答えた。「そう。聞きにくいけれど、大人の関係かしら?」と義母。「いえ、まだ。でも今日はそのつもりで来ました」とみずほはあっけらかんと話す。それを聞いた義母はこちらを振り返った。「録音できたかしら、ミキさん」「はい」としっかりと手にしていた携帯電話を見せながら、私は姿を表した。私を見た途端、かずとは真っ青になっていた。「え、妹さんですか?」とみずほが聞いてくる。私は作り笑いを見せた。「残念だけど妹じゃなくて妻です。そこの嘘つき男の」と。「へえ」と顔を引きつらせるみずほ。ゆっくりとかずとの方を見る。「奥さん、2年前に亡くなったって言いませんでしたか?」「あ、うん」「じゃあ、この人は?」とこちらを指さすみずほ。私は笑顔で意義を唱えた。「違うわよ。今も健在。10年前に結婚した妻です」と。
「分かりやすく言えば、その男が嘘をついたのよ。あなたと浮気をするために私が亡くなったことにしたの。そうよね、かずと」と言うと、「あ、えっと」とこの後に及んでまだ言い訳をするつもりらしい。私はかずとを無視してみずほに言ってあげた。「どちらを信じるかはあなたの自由よ。でも、奥さんがいるなら、もしこのまま関係を続ければ浮気になる。それは嫌だという雰囲気だった。問題ないわよ。すぐに妻じゃなくなるから」と。「え?」「この後、離婚届を提出するつもりなの。だから遠慮しなくていいわよ。ベッドメイクも終わってるし、お風呂も掃除してあげたからね」と話しかけながらかずとを睨みつける。気づけば彼は青ざめていた。義母が「離婚とか冗談だよな?」と聞くと、あまりにも抜けた返答に私は呆れ、つい鼻で笑ってしまった。「本気に決まっているでしょ。悪いけど、彼女と楽しむ前に離婚届にサインしてくれるかしら?」と義母が取り出した離婚届をかずとに突きつけた。私の分のサインは終わっている。今し方かずとが帰宅するのを待つ間に書いたからだ。後はかずとのサインと印だけだ。「はい。早くサインしてくれる?」と強引に離婚届を手渡す。すると、みずほが後ずりした。「あの、私はこの辺で」「あら、もう帰るの?」「あ、はい。お邪魔みたいなので」とゆっくりと玄関の外へと向かうみずほ。私は急いで飛び出し、彼女の腕を掴んだ。「待った。あなたにはまだ話があるの」と。
「あなたには慰謝料を請求するんだから」と言うと、みずほは目を見張った。「え?慰謝料?」「悪いけど、あなたこの人が既婚者だって知っていたでしょう」と私はかずとを指さす。みずほは顔を引きつらせた。「いえ、知りませんでした。知っていたらここに来ませんよ」と。「普通ならそうね。でも、知らなかったという言い訳は通じないわよ」と私はかずとの左手を掴んだ。「この人の左手のこれ、何か分かるわよね」と結婚指輪を指さす。「あなたは最初、かずとに『指輪してるし、奥さんがいるんじゃないの』って言っていたわよね。これって気づくチャンスがあったということになると思わない?」と。既婚者との浮気でも、浮気相手が独身だと嘘をついていた時は慰謝料の請求が難しくなってしまう。ただし、結婚していると気づく機会があれば別だ。今回のように結婚指輪をしているというのはまさにそうだった。「既婚者だと疑ったから、あなたはかずとに聞いたのよね。それを深く追求しなかったのはあなたの過失よ。浮気の慰謝料を請求されても文句は言えないわ」ときっぱりと言い放つと、みずほは悔しそうに顔を背けた。「でも私お金とかないし」「そんなことは関係ないわ。あなたが無理なら、かずとに払わせればいいだけよ」と。かずとは強く反論した。「なんだよ、俺が。この女も同罪だろ」「同じだからよ。浮気は2人の責任なので、2人で慰謝料を払えってこと。かずとから総額の7割をもらえば、みずほからもらえるのは3割まで。だから、彼女が払えないならかずとに払ってもらうことになるわ」と説明すると、「なんだよ、それ」と彼は声を荒らげた。
次の瞬間、義母が彼を怒鳴りつけた。「浮気をしたあんたが言うことじゃないでしょ。悪いことをした自覚はないの?大体、前にも浮気をしたでしょう。同じことを繰り返しておいて、自分に非がないという言い方はやめなさい」「でも」「でもじゃないわよ。まずは反省しなさい」と. かずとは完全に意気消沈し、無言で俯いた。私は「ま、そういうことだから、2人には慰謝料を払ってもらうわね。弁護士を通じて正式に慰謝料を請求するから覚悟しなさい」と告げた。かずとは悔しそうによそを向く。「かずと、離婚届にサインしたの?」「したよ。ほら」と投げやりな態度で離婚届を放り投げる。しっかりとサインと押印されていた。「じゃあこれは私が預かるわね」「勝手にしろ」とかずとは完全に逆ギレしていた。私は「じゃあ出ていって」と彼を見ながら外を指さした。彼は首をかしげる。「は、なんで」「離婚するからよ」「いや、だからなんで俺が出ていくんだよ。離婚するなら出ていくのはそっちじゃないか」と。私はため息をついた。「あのね、この部屋の家賃、知ってる?」「え?知らねえけど」「月8万円。私に慰謝料を払うあなたが出せる金額?」と。「でもお前だって毎月払うのは難しいだろう」「そうね。だから引っ越し先が見つかったら出ていくわよ。できるだけ早く引っ越し先を見つけるつもりだ。それまでの間住めればいいと思っていた」「じゃあお前が出て行ってもいいだろう。どうせ引っ越すなら」「構わないけど、あなたは行き先が決まっているから」と言いながら隣にいる義母を指す。険しい表情の彼女は低い声で言った。「あんたは実家に戻りなさい。その腐った根性を叩き直してあげるから」「は、マジで?」「ええ、ほら、さっさと部屋の荷物をまとめなさい」と義母がかずとを怒鳴りつける。悲鳴のような妙な声を上げたかずとが寝室へ飛び込んだ。その背後を私は笑いながら見つめていた。
かずとが部屋に入った後、義母がこちらを向く。「そっちは任せてもいいかしら?」「はい」「じゃあ、かずとにカツを入れてくるわ」と腕まくりをした義母がかずとの部屋へ行く。私はみずほの方へ向き直った。「さて、連絡先を教えてくれるかしら?」「はい」と観念したように頷くみずほ。彼女は自分の携帯電話を出していた。連絡先を交換した後、みずほは帰っていく。私は静かに玄関を閉めた。かずとの部屋からは義母が叱る声が聞こえる。ため息をついた後、佳子に電話をかけた。「佳子、ちょっといい?」「あ、ちょっと待って」と仕事中だったようだ。どこかの扉が開く音がして、再び佳子の声が聞こえた。「ごめん。今オフィスの外に出たところ。どうだった?」と不安そうに尋ねてくる。私は1つ呼吸をしてから答えた。「終わったわ。無事にと言っていいのかわからないけれど」「そっか。じゃあ離婚?」「まあそんな感じ。慰謝料の話とか大丈夫?」「その辺は弁護士に任せるつもり。お母さんが紹介してくれることになっているから」と。義母は「もし離婚するなら腕利きの弁護士を紹介するわよ」と言ってくれた。「いいんですか?相手が息子なのに」「息子だからよ。これ以上あなたに迷惑はかけられないわ」と。母の優しさが身にしみる。私は思わず涙を流していた。
「佳子、うちに来ない?」「がいい?」「でも早いうちに本音を打ち明けられるのは今は佳子くらいだ」と思い、悪いと思いつつ彼女を頼った。「じゃあ今夜でもいい?高いワイン買っていくから」「ありがとう。いいわよ。どうせ明日は休みだし」と。「じゃあ待ってるね」「ええ、それに話しておきたいこともあるから」と佳子。「話しておきたいこと?」と反射的に聞き返すと、「ごめん。詳しいことは後で。仕事に戻らないと」と。「そうだったわね。ごめんね。忙しいのに」「平気よ。じゃあね」と電話を切った。
数時間後、インターホンがなる。訪ねてきたのは佳子だった。約束通り高そうなワインが入った袋を抱えている。「お待たせ。早かったわね」「当然よ。仕事が終わってすぐに来たんだから。あ、これワイン。今日は私のおごりだから感謝してよね」とポンと私の肩を叩く佳子。その後、私は彼女と一緒におつまみを作った。つまみ食いをしつつワインも開ける。ひとしきり楽しんだ後はリビングへ。女2人で大騒ぎした。そうして酔いが回った頃、佳子がふとつぶやいた。「そういえば話しておくことがあるんだったわ」「何の話?」「ミキの旦那さんの浮気相手のこと」と急に真剣なまなざしになる佳子。釣られて私も真面目な顔つきになった。「あの子がどうしたの?」「名前は萩原みずほ。間違いない」と。「でもなんで苗字まで?」と私が聞くと、彼女は軽く頷いた。「簡単なことよ。実は、彼女、うちの就職試験を受けていたの」と自分の鞄からあるものを出した。それはみずほの履歴書のコピーだった。「これ、なんでここに?」「私がこれを見つけたのは偶然よ。1ヶ月くらい前かしら。整理していた古い資料の間に挟まっていたの」と佳子は話を続けた。不採用になった人の履歴書が会社に残っていること自体が妙だ。佳子は不審に思い、会社の通話履歴を調べた。すると、その中にみずほの電話番号が残っていた。社内の誰かが彼女と連絡を取り合っている。就職を餌にするなら、それなりの立場が必要だ。一般社員には無理な話。自分と同じオフィスにいて権力がある人物。それは1人しかいなかった。「直美さんが萩原みずほさんと連絡を取り合っていたんですよね」と確認する佳子。直美は顔を背けた。佳子は直美がみずほに連絡した証拠も見つけていた。「あなたが佳子を落とし入れようとした方法と同じことをして」と私は直美に伝えた。
話を聞いた後、私は愕然とした。「これ、本当なの?」「ええ、ミキはどうする?」と佳子。私は、直美がかずとに浮気相手を送り込んだことは、私を破滅させるための罠だったと確信した。「ほんの序章だったってことね」「そういうこと」と佳子。「本気で相手を追い詰める覚悟はある」「そうね。やるしかないわ。もう覚悟を決めるしかない。後戻りできないところまで来てしまったのだから」と。翌朝、私たちは携帯電話の着信音で目を覚ます。相手はどちらもかずとだった。メールには「俺が悪かった。離婚はやめて仲直りをしよう」と。思わず顔をしかめた。「都合のいいことを言う男はダメよ」「そうよね。こんなメールは削除」と全メールを削除する。すると再び電話がかかってきた。当然相手はかずとだ。「無視するとまた電話してくるわよね。はっきりと断ったら」「うん。そうする」と録音ボタンを押してから私は電話に出た。「もしもし」「あ、ミキか。よかった」「何か用事?」「用事というか、俺が悪かった。お願いだから離婚はやめてくれ」と。私は「あなたが悪いのは確かね。でも離婚はやめないわよ」と断言した。その途端、かずとの態度が一変する。「そうかよ。じゃあもういい。後悔しても知らねえからな」「あら、私を脅すつもり?録音してるわよ、これ」と言うと、かずとは笑いながら答えた。「録音が何だってんだよ。泣いて後悔しやがれ、バカ」と。子供じみた悪口ね。本当に離婚してよかったわ。電話を切られた後、私はそう思った。本当に後先考えない人ね。まあいいわ。離婚の話し合いの時にこの録音も提出してあげるから。
そうしてかずと別居してから約1週間。私はようやく引っ越し先が決まった。離婚届はもう提出している。引っ越し当日は佳子が手伝いに来てくれる。彼女と業者の力を借り、私の引っ越しは無事に終了した。改めて新居での生活を始めることになった。
翌日の月曜日、いつも通りの時間に出勤すると、少しオフィスの中が騒がしかった。何だろうと思いつつ佳子を探す。オフィスの中に彼女の姿はなかった。首をかしげた次の瞬間、背後から声がする。「おはよう」「あ、おはようございます。ちょうど良かったわ。あなたに聞きたいことがあるの。会議室へ来てくれる?」と奥にある会議室を指さす直美。不穏な空気に思わず息を飲んでいた。会議室に入った途端、彼女は入り口に鍵をかけた。「それで、何の話ですか?」と私が訪ねると、直美が険しい表情を見せた。「取引先から預かっているデータが流出したのよ。はっきり言うけど、あなたも絡んでいるんじゃない?」とバンとテーブルに資料を叩きつけるように置いた。「流出したのは精密機器メーカーのデータ。もう分かるわよね。あなたの旦那さんが前にいた会社よ」と。「申し訳ないですが身に覚えがありません。何かの間違いでは」と言い返すと、「そうね。あなたに関する証拠はないわ。データは石渕佳子が使っていたパソコンから流出したんだから」と。え、佳子?とぎょっとする。「ここ、会社のパソコンでデータを閲覧した記録が残っているわ。しかもデータを外部メモリーにダウンロードした記録もある」と。機密データにアクセスすると記録が残るようになっていた。資料を見る限り、データにアクセスしたのは佳子のアカウントだった。「確かに佳子のアカウントからアクセスされていますが、このタイミングで流出したと断言するのは早計だと思います」と言うと、「じゃあ外部メモリーにデータをダウンロードした理由は何かしら?」と。「それは」と都合のいい理由は思いつかない。仕事で使うとしても閲覧するだけで十分だからだ。「他者からデータが流出したのかも」と言うと、「流出したファイルにはナンバーがついているわ。どこからデータが漏れたのか判別できるように全て別々になっているそうよ」と。これ以上の言い訳は無理だ。「佳子は何て言ってるんですか?」「自分は知らない、その一点張りよ」と。私は「私は佳子を信じています。私にできるのはこう証言することくらいです」と自信を持って話したのだが、直美から返ってきたのは無慈悲な言葉だった。「あなたが信じるとか、そんなことはどうでもいいの。私が知りたいのは、あなたも共犯じゃないかってことだけよ」と。「違います」と強く否定する。「ま、あなたに関しては証拠もないし否定するのは構わないわ。ただし石渕佳子は別。彼女は首よ。文句はないわよね」と。「首ですって。そんな」と。「応じゃないわ。証拠があるんだから」と資料を叩く直美。私は言い返すことができなかった。「文句があるなら、あなたもやめてくれていいのよ。かずと離婚した。今簡単に仕事をやめることはできない。以前彼に言った通り、30半ばでの再就職はかなり難しいからだ」と思った。「分かったらせいぜいおとなしくしていることね」と直美は笑いながら会議室を出ていく。どうして彼女が笑っているのか私には全く分からなかった。ただ悔しさだけが残る。もしかすると、これも先日のかずとの言葉に関係しているのだろうか。かずとは「泣いて後悔しやがれ」と言った。あれは目の前の出来事のことを言っていたのではないだろうか。余計に腹が立ってきた。
かずとに問いただそうと携帯電話を取り出す。その時ちょうど電話がかかってきた。相手はかずとだ。私は急いで電話に出た。「かずと、どういうことよ」と声を荒らげる。かずとは平然と聞き返してきた。「何の話だよ」「あなたでしょ。佳子をはめたのは」「そんな女をはめた覚えはないな。お前と同じくらいの年齢のババアは俺の対象外だよ。悪いけど」と大声で笑う。私はカッとなった。「今回の件、あなたは無関係っていうのね」「大体、何の話だよ。俺はまだ」と。まだという言葉に引っかかる。想像に過ぎないかもしれないが、まだ何もしていないと言いかけたのだろう。もしそうなら、この一件はかずととは無関係だ。彼の性格を考えれば、自分の作戦だった場合には成功したことを得意げに語るはず。しかし彼は回答を拒否している。彼が無関係というのは間違いなさそうだった。だとしたら。
電話中ということを忘れて考え込む。すると腹を立てたかずとが叫んだ。「おい、何をブツブツ言ってやがる。俺の話を聞いてるのか?」「ああ、忘れてたわ。ごめんなさい」「ふざけやがって。絶対に後悔させてやるからな」と怒鳴り散らすかずと。その瞬間、あることをひらめいた。先日の佳子の話を思い出す。そっか。そういうことなのね。私を取り巻く一連の出来事が繋がった。データ流出もかずとの浮気も、目的はたった1つ。「ようやく分かったわ」と。かずとは「おい、ミキ聞いてるのか?」と怒鳴ってくるが、耳に入らない。「話は終わりよ。私に何かするつもりなら、倍返しに会うと思いなさい」と伝えると、「は?何を偉そうに?」と鼻で笑う。「何をしても後悔するのはそっちよ。覚悟しておきなさい」と最後通告とばかりに警告し、一方的に電話を切った。
すぐにある人の元へ向かう。私の考えた通りなら佳子を助けられるわ。きっと。行きついた先は社長室だ。軽くノックをすると中から声がした。「はい、どうぞ」「失礼します」「ああ、滝沢君か。どうしたのかな?」と社長の鮫島博幸が柔らかい笑顔を向けてくる。1度頭を下げてから彼に近づいた。「お話がありますが、その前に。実は離婚して、滝沢ではなくなりました」「ああ、そうだったのか。すまない」「いえ、お気遣いなく」と。それから本題を切り出した。「実はデータ流出の件です。社長は本当に佳子が犯人だとお考えですか?」と率直に尋ねてみる。少し考えていた社長だったが、わずかに視線をそらした。ためらいがちに口を開く。「私は違うと思っている」と。でしたら、と言いかけたところで社長は私に右手をかざした。「これはデータのアクセス記録だ。これを見る限りは石渕君がアクセスし、外部メモリーにデータをダウンロードしている。これを君は覆せるのか?」と少し苛立った様子で資料を指す。「覆せるかどうかは分かりませんが、彼女以外にも同じことができたという証明はできます」と私はニコリと微笑んだ。「どういうことかな?」「記録に残っているのは佳子がアクセスしている様子ではありません。使用されたアカウントが彼女のものだったというだけです。犯人はデータ流出が目的だったわけではない。本当は別の件を隠そうとしていた。佳子のデスクを調べればはっきりするはずです」と私は説明した。「どうしてそう言い切れる?」「彼女はおそらくデスクにカメラを仕掛けているはずですから」と。「カメラ?」と。
話は少しだけ遡る。1週間ほど前のことだ。かずとが家にみずほを連れ込んだ日、私は彼との離婚を決めた。その夜、佳子が家に来た時に彼女に頼んだのがこれだ。元々は彼女の持ち物を守るための提案だった。携帯電話などが盗まれた時、カメラがあれば犯人を特定できる。私はそういう使い道を考えていた。「では早速調べよう」と社長は席を立ち、佳子のデスクへ行った。机の上を探り、充電用のUSBアダプターを手にする。「おそらくこれがカメラだな」「そうですね。よく見ると前面に小さなレンズがあった。この辺に」と社長が指でレンズの辺りを触ると、ポロっと蓋が取れた。中には記録用のカードが入っている。「映像を確認しましょう」と私が言うと、突然誰かが声を張り上げた。「ちょっと何をしてるのよ」と。顔をあげると直美がこちらを指さしていた。「一体何がしたいのよ」「え、犯人を見つけたいだけですけど」と平然と答えると、ぎょっとした直美は社長の方を見た。「彼女が言った通りだ。石渕君のデスクにはカメラが仕掛けてあったんだよ」と今し方手に入れたばかりの隠しカメラを見せる社長。途端に直美が震え始めた。「カメラなんて、そんなもの」「理由なんかどうでもいいじゃないですか。これを見れば一目瞭然。データが流出した時間に誰がここにいたのか、一目で分かりますよ」「それは」と激しく動揺する直美。この時点で、もう答え合わせは終わっていた。佳子のアカウントを使いデータをコピーしたのは直美だ。ほとんど確信していたけれど、まだ証拠がない。社長が佳子のパソコンの前に座った。「待った。そんなものを信じるんですか?社長」と直美が震える声で尋ねる。社長は彼女の方を見ずに答えた。「当然だ。私は自分の目で見たものを信じたい」「でも映像が加工されている可能性もありますし」と直美は懸命に話を引き延ばそうとする。そんな彼女に社長は冷たく言った。「それは記録も同じだ。数字の改ざんより映像の加工の方が面倒だろう。そういう意味では映像の方を信じたいがね」「ですが」「お前、少し黙っていなさい。そんな反応をしていると、後ろめたいことがあると思われても仕方ないぞ」とばっさりと切り捨てられ、直美が無言で唇を噛む。もう彼女になす術はなかった。「では再生するぞ」と社長の指がパソコンのマウスに伸びる。次の瞬間、直美が叫びながら手を出した。「やめて!」と。慌てて私は直美が伸ばした腕を掴む。暴れようとした彼女だったが、すぐに数人の男性社員に取り押さえられた。
カメラの映像が再生される。最初に流れたのは昼間のオフィスの映像だ。デスクでは佳子が真剣な顔で仕事をしていた。やがて窓の外が暗くなり、彼女は席を立つ。しばらくするとカメラの前を行き来する人も映らなくなった。室内の照明が消されたのか、画面まで暗くなる。そこで終わりかと思いきや、ふとオフィスの中に明かりが灯った。画面の隅に1人の女性が姿を表す。言うまでもないが、直美だった。彼女は周囲を見回した後、佳子がいた席に腰を下ろす。そして笑いながらパソコンを操作し、最後にポケットからUSBメモリーを取り出した。パソコンに差し込み、何かをダウンロードしている。残念ながら音声は録音されていなかったけれど、映像だけでも十分な証拠だ。「言い訳はありますか?」と私が尋ねると、直美は何か言っているがうまく聞き取れない。やがて耐えかねた社長が声を荒らげた。「はっきり言いなさい、直美」「はい。その」と返事はしたものの、直美は肝心の自白をしない。私は彼女の顔を覗き込み、脅すような口調で尋ねた。「私が知りたいのは、あなたが犯人かどうかだけですよ」と。少し前、直美が口にしたセリフを返してやる。「どうなんだ」と厳しい口調で直美を問い詰める社長。やがて直美はその場に崩れ落ちていた。「私がやりました。すみません」と。直美は涙を見せている。同情を求めるための演技だろうか。偉そうな態度で私に詰め寄ってきた人間と同じとは到底思えなかった。「泣いても許しませんよ。佳子に罪を被せておいて」と。「ごめんなさい」と鼻をすする直美。社長は同情するような目を向けていた。まずいと思った私は話題を同期に移す。「それで、どうしてこんなことを」と。本当に泣いてごまかすつもりのようだ。それならと私は方針を変更した。「佳子が邪魔になったんですよね。色々と知られてしまったから」と。急に泣き止む直美。私が真相を知っていることに驚いたようだ。「大丈夫ですよ。私も全て知っています。だからもう泣いてごまかすのは無理なので諦めてください」と。「私が何か勘違いしているとでも言うの?」と泣き真似だったのか、真顔の直美が聞いてくる。私は口元を緩めて話を続けた。「あなたは私が邪魔だったんですよね。それで私を会社から追い出すために罠にはめようとした。違いますか?」「知らないわ」と視線をそらす直美。私は構わずに自分の考えを披露する。「仕掛けた罠はいくつもあるけど、最近は私の夫。え、元夫に浮気相手を送り込んだこと。そうですよね」と。「何のことかしら?」と直美は真っ青な顔でとぼけた。この様子を見ると、佳子が話してくれたことは事実らしい。
「私の夫と浮気するように差し向け、離婚に追い込みました」と言うと、社長が「まさか、離婚した原因は?」と。「ええ、元夫の浮気です。相手は萩原みずほ。うまくやられました」と。すると社長は直美に怒鳴った。「直美、お前というやつは。人様の家庭を壊すとは何事だ?」と。直美はとっさに両手で自分をかばった。「全くどう責任を取るつもりなんだ」と社長が問い詰める。「すみません。浮気をしたのはバカな元夫の責任です。ですからその点は別に気にしていません」と私が言うと、「でも」と。「いえ、本当にいいんです。問題は就職を餌に人を使ったことですよ」と携帯電話を揺らして見せる。社長は静かに頷いた。「その証拠、後で提出してもらえるかな?」「もちろんです。ただデータの方は佳子が持っているので」と。「分かった。石渕君の処分は取り消す。それと直美、お前は謹慎だ。証拠を精査した後で正式な処分を下す。いいな」と厳しい視線が直美に向けられる。目には涙を浮かべていたが、自業自得だから仕方がない。直美は悔しそうな顔で荷物をまとめると、早々にオフィスを出ていった。
「本当に申し訳なかった」と社長が頭を下げる。「私は別に。それよりも佳子に謝罪してください」「当然だ。後で直接謝罪をするよ」と。本当に良かったと胸を撫で下ろす。ただ1つだけ謎が残った。それは直美が私に執着していた理由だ。私を嫌っていることは分かった。佳子を首にすると言われた後、直美は私を見て笑っていたからだ。だが、なんとなく馬が合わないくらいなら、普通はここまでのことはしない。嫌がらせというには手が混んでいるし、他にも目的があったのではないかと疑いたくなる。
その後、会社の調査で直美がみずほと連絡を取り合っていた事実が判明する。直美が就職させると嘘をつき、みずほに色々と指示をしていたことも分かった。会社は就業規則に反する行為として直美を解雇。みずほに対しては社長が自ら謝罪したという。私が直美の関与を知ったのは例の件の2週間後だ。佳子はすでに会社に復帰しており、社長から謝罪も受けていた。
その数日後のこと、お昼休みに私は佳子にカフェへ行こうと誘われた。以前かずとの浮気騒ぎでランチを食べ損ねたあの店だ。「色々とありすぎてすっかり忘れていたわ」「びっくりしないでよ。本当に安くて美味しいから」と。そんな話をしながら例のカフェへ向かう。店に入ろうとしたところで背後から声をかけられた。「あの、ミキさんですよね」と。反射的に振り返る。少し離れた場所にポツンとみずほが立っていた。「えっと、萩原みずほです。覚えていますよね」と。「本当に失礼とは思うのですが、お時間をいただけませんか?」と。「時間って」と。相手は元夫の浮気相手だ。話すことはないと追い返すのが普通だと思ったけれど、みずほの謙虚な物言いに引っかかる。「何が目的?」と声を潜める。「あの、目的とかじゃなくて、忠告というか」と。「忠告?」と。隣にいる佳子の意見を求めた。「佳子はどう思う?」「そうね。話くらいは聞いてもいいと思うけど」と。だよね。よくよく考えれば、みずほは利用されただけだ。就職させると嘘をつかれた彼女は、かずとの浮気相手を演じていた。うちに来た時に話していたが、特に関係があったとは思えない。「先に聞くけど、かずと関係は特にありません。誘われていたのですが、なんとか断っていて」と。私の想像通りのようだ。「分かったわ。話を聞くから、一緒に食事でもしましょう」とカフェを指さす。みずほは瞳を潤ませながら頭を下げた。
店に入ると一番奥の席に案内される。3人分のランチを注文し、私はみずほに尋ねた。「それで、忠告って何かしら?」「鮫島直美さんのことです」と。直美の。「つい先日、直美は正式に解雇されている。今になって彼女の話を聞いても意味がないと思った。「それならもういいわ。彼女は首になったんですよね」と私はため息混じりに首を振る。「でも、それも彼女の想定内なんです」とみずほ。「へ?」と。みずほの言葉に目を見張った。隣の佳子が私の脇腹を肘でつついてくる。「みずほさん、どういうことか詳しく話してくれる?」「はい。あの人、私にこう言っていたんです。滝沢美紀を破滅させろ。あの女は絶対に許せない。私の男を奪ったからって」と。「男を奪った?」思い当たる節はない。確かに直美は今も独身だ。しかし、私は10年も前にかずと結婚している。浮気はしていないし、直美のそういう関係に興味を持ったこともなかった。「聞き間違いじゃないの、それ」と佳子も同じことを考えたようだ。だが、みずほは片首に否定した。「いえ、事実です。あの人、本当はかずさんが好きだったらしくて」と。「え、」とあっけに取られる。「ちょっと待ってよ。私が聞いた話だと、タイプじゃないってあの人に仕事を押し付けられたのがきっかけで」と。かずと結婚する前、私は彼と一緒に仕事をした。その仕事は直美が最初に対応したのだが、相手がタイプではないという理由で私が担当になった経緯がある。「じゃあ、あれは嘘だったってこと?」と。「その辺りの話はよく知りませんが、直美さんはこんな風に言ってました。断らないのはおかしい。何を考えているのかと」と。「じゃあ、あれは私が断ると思って仕事を振ったってこと」と。勝手な想像になるけれど、あの時点で直美はかずとに惚れていた。どうにかして気を引きたい彼女は、引き立て役に私を選ぶ。当時はまだ新人に近かった私なら、大企業とも取引があるような会社の仕事には尻込みをするだろう。そんな自分勝手な考えで直美は私を担当にした。1つ誤算だったのは私が積極的に対応したことか。大きな仕事を任され、私は舞い上がり断るどころか前のめりに受けてしまう。直美は心の中で焦っていたはずだ。結局は私がかずと結婚してしまった。悔しかったと思うが、結婚すれば普通は諦めるものだろう。それなのに直美は割り切れなかった。結婚後、私がかずとの会社の担当を減らされたのがその証拠だ。口では「変な噂にならないように配慮する」と言っていたけれど、単に私に嫉妬しただけ。「何よ、それ。じゃああなたを浮気相手として差し向けたのも、大半は嫉妬からだと思います。2人が離婚すれば自分にもチャンスがあると言っていましたから」とみずほ。「呆れた」と佳子がため息をつく。私も同じ気持ちだった。私が離婚すれば次は自分が結婚できるなど、まるでストーカーの考え方だ。
「でも、問題はその先なんです」とみずほ。「え、まだあるの?」「この間、かずさんと話し合いをしたんです。浮気の慰謝料の件で」と。「そうらしいわね」と。私もその話し合いについては聞いている。直前にかずと会っていたからだ。「かずとは私にこう言いました。お金が入るから慰謝料は自分が払う。その代わり自分に慰謝料を請求するなと」と。「お金が入る?」と。かずとはタクシー運転手のままのはず。どこからお金が入るというのか。「それで、どこからお金が入るとか彼は言ってなかった?」と尋ねると、「いや、でも1つだけ気になることが」とみずほ。「何?」と思わず前のめりになる。「私とはファミレスで会ったんですけど、店を出た直後、彼がどこかに電話をかけていて。相手は?」「分かりません。ただ、『何かを手に入れた』とか『なんとか手に入れた』と」と。考えを巡らせる。すぐに私はピンと来た。思いついたことをみずほに尋ねる。「1つ聞くけど、直美からかずと付き合うように言われた時、何か頼まれたことはなかった?」「はい、あります。実は」ととんでもない事実を暴露するみずほ。本人はことの重大さを理解していないのか平然としていた。「なるほど。そういうことか。じゃあ近いうちに連絡が来るでしょうね」「ええ、こちらも歓迎してあげましょう」と。「タイミングもいいし。多分私の予想通りの行動をしてくれるはずだわ」と佳子と2人でほくそ笑む。状況が飲み込めていないみずほはオロオロしていた。
事態が大きく動いたのは翌日の夜。仕事を終え会社を出た直後のことだ。不意にかずとから電話がかかってきた。「今、いいか?」「ええ、仕事が終わったところだから構わないわよ。何か用事?」「慰謝料を払ってやろうかと思って」と声が浮かれている。みずほの話にあった通り、お金を手に入れたようだ。「あ、そう。じゃあ振り込んでおいて」と。「なんだよ。釣れないな。元夫婦なんだし。少しくらいは付き合えよ」「お断り。大体、今はどこにいるのかしら?」と何気なく聞いてみる。すると窓を開ける音が通話口の向こうから聞こえた。「実は今、京都にいるんだ。結婚記念日にお前と泊まるはずだった最高級ホテル。そこに泊まってるから、お前を招待しようと思って」とニヤニヤする姿が目に浮かぶ。やはり思った通りだと心のどこかで安堵していた。「結構よ。それに私が行くとお邪魔じゃないの?」と引っかけをかける。その途端、ガタンと大きな音がした。慌てたかずとが何かに引っかかったのだろうか。何やら焦るような声も聞こえた。「やっぱり誰かとお泊まりの最中なのね」「うるせえ」「騙したな」「お互い様よ。せいぜい最後の夜を楽しむことね」「は?最後?」とかずとが聞き返してくる。「ええ、最後よ。じゃあね」と、あ、ちょっと待て、という声を無視して強引に電話を切る。そのまま着信拒否にした。連絡が取れると面倒だものね。呟いた後、とある人にメールを送る。返信を待たずに携帯電話を鞄にしまうと、大きく伸びをしてから家路に着いた。
1週間後、仕事終わりに佳子と会社を出ると、目の前にかずとが立ち尽くしていた。彼は私を見るなり怒鳴ってくる。「俺を騙したのか、ミキ。浮気をしたのはそっちだろ」「裏切ったのはあなたじゃない」「そんなことじゃねえ。なんだよ、これは。何の役にも立たないデータばっかりじゃないか」と手にしていたUSBメモリーを地面に叩きつける。私は笑いながら尋ねた。「何の話?私、あなたにデータを渡したこととかないわよ」「ふざけるな。お前が家に置いていたパソコンの中身だよ。なんで1つも使えるデータが入っていないんだ?」と。「私のパソコンの中身を見たの?勝手に」と問いかけるとかずとは急に黙り込んだ。「人のパソコンのデータを売ろうという方がおかしいのよ。しかも私の会社を首になったような人にね」と。すっと視線を遠くへ向ける。少し離れた場所にかずとのタクシーが止まっていた。後部座席に誰か乗っている。私と話すかずとのことを文句も言わずに待っているから、客ではないのだろう。「お前、どこまで知ってるんだ?」「全部よ。全部。あなたのタクシーに乗っているのが直美ってことも」とタクシーの後部座席の人物を指す。彼女はゆっくりと降りてきた。「気づいていたのね」「ええ、この人が京都で会ったのがあなただったから」とかずとを示しながら言う。直美は不適に微笑んでいた。「見てきたような嘘を言うのね」「見てきたわけじゃないけど、写真は見せてもらったわよ」「写真?」と首をかしげる直美。私はポケットから携帯電話を出した。そこにかずと直美の写真を表示する。「はい、どうぞ。京都の高級ホテルのラウンジにいるあなたたちよ」と。「なんでそんな写真があるのよ。あなた、私を尾行していたの?最低」と直美が睨みつける。私はため息をついた。「そんなことをするわけがないでしょ。私を撮影したのは、かずとのお父さんよ」と。「は?父さんが」と目を見張るかずと。私は大きく頷いた。「ちょうど京都からかずとが私に連絡してきた直後のことだ。電話を切った私は義父にメールを送っていた。お父さんがいるホテルにかずとと女性がいます。写真を撮ってください、って」と。「え、父さんがあのホテルに?」「ええ、お父さんもお母さんもいたわよ」と優しく微笑む。「なんでそんな偶然?」「偶然じゃないもの。あなたがケチなことをしなかったら、こんなことにはなっていないわよ」と。
「どういうことだ」と首をかしげるかずと。私はため息混じりに答えた。「彼の浮気が発覚する少し前、私たちは結婚記念日の話をしている。そこで決めたのは、かずとが旅行を手配することだった。私には秘密にしていたつもりだろうが、ダダ漏れ。理由は家に置いていたパソコンを使い、かずとが予約していたからだった」と。「とあれ、私は京都のホテルに行くことを知った。ここで私はあることを思いつく。それがサプライズのお返しだった。かずとに秘密で両親を旅行に招待しよう。家族4人で過ごせばより良い結婚記念日になる。勝手にそう考えた私は、両親の分も同じホテルを予約した」と。「こうしてあなたたちが京都のホテルに泊まった日、かずとのご両親もそこに泊まっていたというわけ。じゃあこの写真は合成でも何でもなく本物よ。疑うならお母さんを証言者として呼びましょうか」と携帯電話をかざして見せる。かずとはがっくりと項垂れた。
「さて、本番はこれから。どうして私のパソコンの中身をあなたが持っているの?勝手に盗み出した。そうよね」と同意を求める。反論は認めない。厳しい視線をかずとに向けた。「俺はそんなことしてない」と。「してない?それは困ったわね。じゃあその辺りの証拠も出そうかしら」と隣にいる佳子を振り返る。彼女はニヤニヤしながら自分のタブレットを鞄から取り出した。「ミキのパソコンがノート型ってことは知っているわよね」と佳子がかずとに確認する。さすがにこれは否定しなかった。実際、ノートパソコンくらいは一目瞭然だ。「じゃあ、カメラがついていることも分かるわよね」「カメラ?まさか」と息を飲むかずと。佳子は頷きながらタブレットを彼の方へ向けた。「勝手にパソコンを起動させたら、カメラが使用者を撮影するようにしていたの。ほら、よく見て。あなたのまぬけな顔が綺麗に映っているわよ」と。最近のパソコンのカメラは高性能だ。映像もクリアに残せる。「ち、違う。俺じゃない」と。「どう見てもあなたよ。盗んだのかは知らないけど、不正アクセス禁止法に違反しているわよね。直美が会社を解雇された理由がまさにこれだ。佳子のアカウントを使い不正にデータにアクセスした。その点をとがめられ直美は首になっている。あなたのこと告発してもいい?」と笑顔で訪ねると、かずとは懸命に首を振っていた。
「じゃああなたに聞こうかしら」と視線を直美の方へ向ける。彼女は額に汗をかいていた。「何よ、あなたは何がしたかったの?私のパソコンのデータを盗んで」「知らないわよ。データを盗んだのは彼でしょ」とかずとを指さす直美。「は?なんだよ。責任転嫁か?お前の指示だろ?金を出すから盗めって」「出鱈目を言わないで」「うるせえ。お前が言ったんじゃないか。忘れたとは言わせねえぞ」と大声をあげるかずと。互いに相手に責任をなすりつけたいようだ。「もういいわ。大体分かっているから」「嘘をつくんじゃないわよ。何も知らないくせに」「知っているわよ。あなたがかずとに惚れていたこともね。佳子」と、佳子と2人で頷き合う。途端に直美は真っ赤になった。「私からかずとを奪いたかったんでしょ。お金を出したのは気を引くため。本当はデータなんてどうでも良かった。違う?」と直美に尋ねる。彼女は口をパクパクさせるだけで何も言えなかった。「みずほから全部聞いたのよ。残念だったわね」と佳子が追い打ちをかける。私もさらに続けた。「嫉妬して私たちを離婚させたかった。仮にうまく盗み出せていれば、今度は私をデータ流出の犯人に仕立てあげるつもりだったってところかしら」と。直美にとって重要だったのはかずとの気を引くこと。データはおまけのようなものだった。「ごめんなさい。許してください」と泣き崩れる直美。恋は盲目と言うが、本当にかずとのことが好きすぎて善悪の区別もつかなくなってしまったようだ。「そう。じゃあ私はあなたを許すわけないでしょ。それはさておき、罪は罪だ。いい大人なら責任を取ってもらうしかない。しっかり反省してちょうだい」と言いながら、私は社長に電話をかけた。
会社から社長が飛び出してくる。「直美が来ているそうだな」「はい。私の自宅のパソコンからデータを盗めと、ここにいるまぬけに指示をしたそうですよ」と、逃げようとしていたかずとの襟首を掴む。「あ、おい、話せ」「話すわけがないでしょ。あなたにも罰を受けてもらうんだから」とかずとを睨みつける。先の展開が分かったのか、彼は急に静かになった。「直美、本当なのか?」「あ、その」と戸惑う直美。話の流れを考えると「見逃すところだろう」などと思っているようだ。感動話ならそういう展開でもいいかもしれない。しかし私は物語の登場人物とは違う。どんなに哀れなストーリーでも平気で裏切る小説や漫画と同じエイターだ。可哀そうとは微塵も思わない。「事実ですよ。しかも私がデータ流出の犯人になるように、盗んだデータを使うつもりだったそうですから」と。少しばかり喚起が起こったのは言うまでもなかった。「直美、お前はもう絶対に許さん。来い」「ま、待って。話します」「だめだ。この根性、叩き直してやる」と怒鳴った社長は直美を連れて駐車場の方へ向かう。そのまま自分の車に乗せ走り去ってしまった。
「さて、行っちゃったわね」「あ、そうだな。俺もそろそろ帰るとするよ」とかずとが軽く釈然とする。「は?何を言ってるのよ。あなたの行き先は1つよ」と近づいてくる車を指さした。「あれは」「はい。正解。お母さんの車よ。しっかり絞られてね」「やだ」と激しく暴れるかずと。義母が到着するまで、佳子と2人で懸命に彼を抑えつけた。翌日の私たちは腕が筋肉痛になっていた。
さて、それぞれの親に連れて行かれた後のかずとと直美の話をしておこう。まずは直美だが、彼女は社長の紹介で住み込みの仕事をさせられることになった。場所は山奥の旅館で、社長が懇意にしているところらしい。見渡す限り山と木々しかない。麓へ向かう道は1本だけで、車がなければ逃げ出すことは無理だと聞かされた。「警察に連れて行くことも考えたが、いいと思って。不正アクセス禁止法の刑罰は、100万円以下の罰金または3年以下の懲役。どう考えても山奥で住み込みの仕事をする方が辛いと私も思った。彼女が更生するかどうかは別として、十分なお仕置きになるだろう」と。またかずとには義母が新しい仕事を紹介した。義父はまだしも、義母はかなり厳しいため、警察に突き出す可能性もあると思っていた。少し拍子抜けだったが、2人に任せると決めた以上私は口出しをしない。ただどんな仕事をさせるのかが気になり、詳しい話を聞いてみた。「蟹を取る仕事だそうよ。時期になったら一緒に蟹鍋を楽しみましょう」と義母はあっけらかんと答える。その時は流したけれど、よくよく考えると随分ときつい仕事ではないだろうか。ネットで見た動画には「世界一危険な仕事」という文言まであった。彼の無事を祈るばかりである。
最後に私の話もしておきたい。直美とかずとに会った翌日、佳子と私は社長から謝罪された。色々とあったけれどもう終わったことだ。私たちは社長の謝罪を素直に受け入れた。実際、彼が悪いわけではない。しかしそのおかげもあり、変わりない社会人生活を送れていた。昼休みには佳子とカフェで食事をするくらいに。「でも大変だったわよね。私も色々と考えさせられたわ」「本当よね。もう結婚はゴリゴリだわ」とため息をつく。すると、目の前にいたみずほが口を開いた。「じゃあ婚活とか興味ないですか?」とテーブルの上に置かれたチラシ。隅の方には結婚相談所の名前が書かれている。「今私が働いている結婚相談所のイベントなんですけど、参加者が少し足りなくて困っているんですよ」と。意外とみずほはちゃっかりした子だった。先日義母に会った時に「再婚を考えてもいいと思うわよ。私たちのことは気にせずに」と背中を押されたことを思い出す。その時は「うーん」と何気なく答えたけれど、今がいい機会なのかもしれない。佳子と顔を見合わせた後、同時に返事をする。「行くわ」と。1人だったら前向きになれていなかった。本当に佳子がいてよかったと思う。笑顔で彼女の横顔を見つめると、向こうもこちらを見て微笑んでいた。



