午前二時を過ぎたホテルの廊下で、松崎千鶴は自分の胃が静かに鳴るのを聞いた。六十八歳、身長は百五十センチほど。細い体だが、背筋はピンと伸びていた。彼女は右手にステンレスの水筒を持ち、左手には薄くなったビニールのトートバッグを下げていた。中には家計簿のノートと、使い古しのゴム手袋が入っていた。
東京の私鉄沿線の駅から歩いて十分ほどの場所にあるビジネスホテル「ステイイン南浦」。乗り継ぎ客や夜勤明けの労働者が仮眠を取るための安宿だ。千鶴はここで夜間清掃員として五年働いていた。一晩に十二室から多い時で十六室。一室に使える時間は二十分が限度だった。時給は一千五十円。交通費は出ない。
午前二時を過ぎた頃、千鶴は四〇九号室の清掃を終え、カートを廊下に引き出した。次は四一〇号室だ。ノックをし、返事がないことを確認してマスターキーを差し込んだ。手早く動く。枕カバーを外し、シーツを引き剥がし、タオルを回収する。ゴミ箱を確認すると、空だった。洗面台を拭き、テレビの埃を拭き、浴槽を洗い、鏡を拭く。
手が止まったのは、ゴミ箱の脇に落ちていた紙を見つけた時だった。拾い上げると、コンビニのレシートだった。合計三千二百八十円。鶏の唐揚げ、缶ビール二本、アイスクリーム、週刊誌。千鶴はそれをゴミ袋に入れながら、ふと自分の今夜の食事のことを考えた。今日買ったのは、夜食の時間帯に三十円引きになっていたカップ麺と、スーパーの閉店間際に処分品として袋に入れてもらったキャベツの芯だった。キャベツの芯は薄く削って汁に入れた。
比べることに意味はなかった。比べたところで、どちらかが変わるわけではなかった。
その夜の仕事が終わったのは午前五時を少し過ぎた頃だった。更衣室は地下の薄暗い一角にあった。千鶴はノートを取り出し、今月の支出を確認する。家賃三万八千円、電気代四千二百円、水道代千八百円、携帯電話の基本料金千六百円。そして、兄の借金の分割払いが八千円。食費は大体六千円ほど。収入は月二十二日勤務で、八万九百円あまり。医療費はなし。趣味も交際費もゼロ。それでも、ギリギリだった。千鶴は数字を確認してノートを閉じた。バランスは取れている。崩れてはいない。それだけで、今は十分だった。
その翌週の月曜日の夕方、ホテルのオーナーが変わった。千鶴はそれを知らなかった。いつもなら仕事前に張り出されるシフト表が、その日は貼られていなかった。代わりに、更衣室のロッカーの扉に小さなメモが挟まっていた。『明日の昼十二時に事務所にお越しください。新しい運営責任者が話があります』と書いてあった。
翌日の昼、千鶴は事務所を訪ねた。中には三十代半ばほどの男が座っていた。名前は吉村と言った。黒いYシャツにダークグレーのジャケット。千鶴が名乗ると、吉村は軽く目を向けただけで、挨拶は返さなかった。ペンで書類の一点を指しながら言った。
「松崎さん、今月から夜間清掃のシフトを半分に減らします。週四日から週二日になります。よろしいですか?」
千鶴はすぐには言葉が出なかった。半分ですか、と彼女は言った。声が自分の口から出たことに少し驚いた。
「コスト削減です。夜間は学生アルバイトを入れます。安くつく」
吉村は書類から目を上げずに言った。
千鶴は頭の中で計算した。週二日、時給九百五十円、一日三時間半。月の収入は三万六千円ほどになる。家賃だけで三万八千円だ。
「あの、少しお聞きしてもよろしいでしょうか。週二日ですと、家賃の支払いが難しくなります。せめて週三日、いえ、今まで通りの週四日がどうか続けていただけないでしょうか」
吉村は少しの間千鶴を見ていた。それから椅子を引き、デスクの上にあったシフト表を手に取り、千鶴の足元に落とした。紙が滑って、千鶴のスニーカーのつま先に当たった。
「拾ってください。これが今月からのルールです」
千鶴は黙ってシフト表を拾い上げた。吉村はすでに椅子に戻り、千鶴のことをもう見ていなかった。
千鶴は事務所を出た。更衣室に戻り、ノートを取り出して来月の収入を書き込んだ。三万六千七百五十円。それから支出の欄を見た。家賃、光熱費、返済。赤字だった。何度計算しても同じだった。貯金は十四万三千円。それで乗り切れるのは三、四か月が限界だった。彼女はノートの余白に、日中の仕事を探す、と小さく書いた。
その日から、千鶴の生活に昼間のルーティンが加わった。夜勤が終わり、三時間ほど仮眠を取り、八時半に起きて求人を探しに出かける。最初の週はハローワークや図書館の求人情報をコピーした。一枚十円。三枚で三十円。ノートに記録した。
スーパーの品出し、弁当工場のライン作業、マンションの管理員補助。電話をかける時は公衆電話を使った。携帯電話の通話料を節約するためだ。一軒目は駅から二駅先のスーパーだった。週五日、午前九時から午後一時まで、時給九百八十円。「何歳ですか」と聞かれ、千鶴が六十八歳と答えると、少しの間があった。「履歴書を送ってください」という返事だったが、連絡は来なかった。二件目は年齢を聞いてすぐに断られた。三件目は書類審査で落ちた。千鶴は断られるたびに、人前では顔色を変えなかった。アパートに戻って布団の上に座った時、一度だけ大きく息を吐いた。それから、次の求人を探した。
二週間目に入ると、歩く範囲を広げた。電車賃がかかるなら歩けばいい。片道四キロも六キロも、慣れれば歩けた。スニーカーの底が薄くなってきたが、穴が開くまでは履き続ける。三週間目、ホテルの夜勤の帰りに、千鶴は一瞬足元が揺れるような感覚を覚えた。疲れているだけだと思った。仮眠が足りていない。それだけだ。
アパートに帰ると、大家の北沢から封筒が届いていた。開けると、家賃の値上げのお知らせだった。来月から四万三千円になるという。「近隣の地価上昇と管理費の増加」が理由だった。千鶴は大家に交渉しようと出向いたが、「書面の通りです」とだけ言われて扉を閉められた。
千鶴は、このままアパートに住み続けることはできないと悟った。値上がりした家賃と現在の収入では、三か月以内に貯金が尽きる。仕事も見つからない。千鶴はノートに荷物の一覧を書き出した。衣類は季節を除いて最小限に。食器は一枚。荷物はスーツケース一つとトートバッグ一つに収まる分だけ。アパートを出たのは、梅雨入り前の蒸し暑い火曜日の朝だった。
千鶴は駅前のロッカーに荷物を預け、図書館で時間を潰した。夜はネットカフェに泊まった。ナイトパックで千三百円。ブースの中は大人一人がやっと座れる程度の広さだった。こうした夜が一日、二日と続いた。ネットカフェで夜を過ごし、朝に出て、コインロッカーで荷物を持ち出し、図書館で時間を潰し、求人に電話し、断られ、また夜になる。食費は一日三百円が上限だった。
十日が経った頃、千鶴はネットカフェのパソコンで求人サイトを開いた。検索窓に「清掃パート 65歳以上 即日」と入力した。その中の一軒が目を引いた。『物流施設の検品スタッフ募集 65歳以上歓迎 体力に自信のある方 日払いのみ 即採用あり』という内容だった。掲載されていた連絡先は「マルエージェンシー」という会社名と電話番号だけだった。
翌朝、千鶴は電話をかけた。女性の声が出た。「マルエージェンシーです」と、明るくよく訓練された声だった。千鶴は事情を話した。六十八歳で、体力には自信がある。清掃の経験が五年ある。女性は丁寧に話を聞いてから、「是非一度弊社にお越しいただけますか」と言った。翌日の午前十時に訪問することになった。
事務所は商業ビルの三階にあった。すりガラスの扉をノックすると、三十代前半ほどの女性が出てきた。紺色のジャケットを着て、笑顔が柔らかかった。「松崎様ですね。お待ちしておりました」と、千鶴を中に案内した。女性はパンフレットをテーブルに置いた。
「弊社では物流倉庫の検品作業スタッフを紹介しております。時給は千二百円から始まり、慣れれば千四百円以上になる方もいらっしゃいます」
千鶴は、心のどこかで緊張していたものが少し緩むのを感じた。こんなにまっすぐに評価されたのは、随分久しぶりだった。
「ただ、弊社では研修前に登録手数料と研修費、それから現場用の制服代をご用意いただいております。登録手数料が一万五千円、研修費が二万円、制服代が一万五千円で、合計五万円になります。採用は最初のお給料から少しずつ差し引く方式もありますが、多くの方は最初にまとめてお支払いいただいています」
千鶴は頭の中で計算した。五万円。今の手元の現金は、貯金の残り全部で六万二千円ほどだった。五万円払えば、残りは一万円そこそこになる。
「すぐに採用していただけますか?」
「はい。手続きが完了すれば、来週から現場に入れます。今のご状況を考えると、できるだけ早く働き始めた方がいいですよね。弊社も松崎様のような誠実な方に来ていただきたいと思っています」
その言葉が千鶴の中でじわりと広がった。誠実な人、来て欲しい人。長い間、誰かにそう言われたことがなかった。
「わかりました。お支払いします」
その日の午後、千鶴はコインロッカーから五万円を取り出し、再び事務所を訪れた。女性は領収書を渡してくれた。「来週月曜日に電話しますので、その時に現場の詳細をお知らせします」と言った。その夜のネットカフェで、千鶴は初めて少し深く眠れた気がした。まだ何も解決していない。でも、光が見えた。そう思った。
月曜日になった。千鶴は朝から電話を待った。十時になっても、十一時になっても、電話は来なかった。十二時を過ぎた頃、千鶴の方から電話をかけた。呼び出し音が鳴り続けたが、誰も出なかった。午後になっても状況は変わらなかった。千鶴はもう一度電話をかけた。今度は、「おかけになった番号は現在使われておりません」という音声が流れた。
翌日、千鶴は事務所のあった建物に行った。扉は閉まっていた。すりガラスの扉の向こうに明かりはなく、ノックしても返事はなかった。プレートは剥がされ、壁に剥がした跡だけが残っていた。建物の一階に降り、管理会社に電話をかけた。「先週末に退去されました。解約は一か月前から申告されていたようです」と言われた。
千鶴は建物の外に出た。昼間の買い物客が行き交い、自転車が通り過ぎ、向かいのドラッグストアから明るいジングルが流れてきた。千鶴はその中に立っていた。スーツケースのハンドルを、指先が白くなるほど強く握っていた。五万円。貯金の残り一万三千円。手の中の領収書は、もはや何の価値もなかった。通りを歩く人たちは、誰も千鶴を見ていなかった。
その夜、千鶴は午後十時から公園のベンチに座っていた。ネットカフェに泊まる現金がもう足りなかった。財布の中には千二百円と小銭が少し。ナイトパックの料金は千三百円だった。百円足りない。公園は住宅地の中にある小さなものだった。ブランコと砂場とイチョウの木が一本。千鶴が座っているのは、街灯から一番遠いベンチだった。
六月の夜だった。昼間は蒸し暑かったが、日が落ちてからは風が出てきて、じっとしていると薄ら寒かった。腹が鳴った。今日食べたものは、朝にコンビニで買った三十円引きのおにぎり一個だけだった。水筒を取り出し、ぬるくなった白湯を飲んだ。胃の中に何かが入ることで、空腹の輪郭が少しだけ和らいだ。
向かいのコンビニに明かりが見えた。閉店時間が近づくと、店員が消費期限の近い商品を引き上げて値引きシールを貼り直す時間帯がある。千鶴はその時間を知っていた。午後十時を過ぎた頃、店員が店先のワゴンに商品を並べ直すのが見えた。千鶴は立ち上がり、コンビニに向かった。値引きシールの貼られた弁当が並んでいたが、一番安いものでも二百三十円。千鶴は弁当を棚に戻した。この店は、廃棄処分のトレーを店の外に出す方式ではなかった。
コンビニを出て公園に戻る途中、路地にゴミ置き場があった。透明な袋の中に、賞味期限切れの菓子パンと傷んだ野菜が入っているのが見えた。千鶴は足を止めた。袋の口はまだ縛られていなかった。手が袋の方に伸びかけた、その時。ポケットの中でスマートフォンが振動した。千鶴は手を引っ込めた。着信だった。画面を見ると、登録されていない番号だった。
「もしもし」
少しの間があった。それから、女の声が聞こえた。
「もしかして、千鶴おばさん?」
千鶴は聞き覚えのある声だと思った。しかし、誰のものかすぐにはわからなかった。
「はい。松崎ですが」
「ホナミです。柴田ホナミ。お父さんの高尾さんの娘です」
千鶴は息を飲んだ。柴田ホナミ。兄の高尾が若い頃に別れた女性との間に作った子供だ。最後に会ったのは、ホナミがまだ十代の頃だった。もう十五年も前のことになる。
「ホナミちゃん…。どうしてこの番号?」
「お父さんの古いスマホを整理していたら、おばさんの番号が出てきて。ずっと連絡しようと思っていたんだけど、なんかできなくて。おばさん、今どこにいますか? 大丈夫ですか?」
大丈夫か、と問われることの意味を、千鶴はここ数年考えたことがなかった。
「大丈夫です」
反射的に出た言葉だった。
「本当ですか。おばさん、今夜、外にいますよね。声の感じでなんかわかります」
千鶴は返事ができなかった。
「今から迎えに行きます。場所を教えてください」
「いいよ。夜中に悪いよ」
「悪くないです。場所を教えてください」
三十分ほどして、軽自動車が公園の前に止まった。運転席から出てきたのは三十代前半ほどの女性だった。ショートヘアでグレーのパーカーを着ていた。目元が、兄の高尾に似ていた。ホナミは千鶴の姿を見た瞬間、立ち止まった。スーツケースとトートバッグとコートを肩にかけた姿を、上から下まで見た。
「おばさん…。なんでこんなことに」
千鶴は何も言えなかった。ホナミが数歩近づいてきて、千鶴の肩に手を置いた。それだけで、千鶴の胸の中で何かが解けそうになった。ここで崩れてはいけない、と千鶴は思った。
「乗ってください。うちに来てください」
「迷惑をかけるよ」
「迷惑じゃないです」
ホナミはスーツケースのハンドルに手をかけた。千鶴はホナミの顔を見た。泣いていた。涙をこらえながら唇をきつく結んで、それでもまっすぐ千鶴を見ていた。
ホナミの部屋は、五階建ての新しいマンションの三階だった。クリーンな廊下、オートロック、エレベーター。千鶴が今まで住んでいたアパートとは全く別の世界だった。部屋は1LDKで、リビングには小さなソファとテレビ、きれいに片付いたキッチンがあった。ホナミはまずお風呂に入るように言った。浴槽にお湯が張ってあった。湯船に入ったのがいつ以来か、千鶴は思い出せなかった。ネットカフェにはシャワーはあったが、浴槽はなかった。お湯の温かさが肩から足先まで染み込んでいくようだった。千鶴は浴槽の中で静かに目を閉じた。泣かなかった。泣く気力も今はなかった。ただ暖かかった。
お風呂から出ると、テーブルの上に夕食が並んでいた。白米、味噌汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし。ホナミがコンビニで買ってきたものもあったが、いくつかは台所で作ったらしかった。
「大したものじゃないけど」
いただきます、と千鶴は言った。声が少し震えた。食べながら、ホナミは千鶴にゆっくり話させた。ホテルのシフトが減ったこと、仕事が見つからなかったこと、家賃が上がってアパートを出たこと。ホナミは口を挟まずに聞いていた。千鶴は、五万円を騙し取られたことも話した。領収書だけが残ったこと。ホナミはそこで初めて眉を潜めた。
「警察には行きましたか」
「行っていない。言ってもお金は戻ってこないと思って」
「それはそうかもしれないけど」
それ以上は続けなかった。食事が終わると、ホナミはリビングのソファを指した。
「今夜はここで寝てください。布団持ってきます」
「ソファでいいよ」
「布団で寝てください。おばさんは私の家族です。ソファで寝かせるわけにはいかないです」
家族という言葉を誰かに言ってもらったのが、いつ以来かもう分からなかった。千鶴は「ありがとう」と言った。それだけしか言えなかった。
翌朝、ホナミは仕事に出た。千鶴は一人で部屋に残された。まず台所を片付けた。食器を洗い、シンクを磨き、コンロを拭いた。清掃の仕事をしてきた手が自然に動いた。次にリビングを掃除した。掃除機をかけ、テーブルを拭いた。止めてもらう代わりに、自分にできることをする。それが千鶴の考え方だった。昼には冷蔵庫の残り物で味噌汁を作り、冷凍ご飯を温めた。ホナミの分もラップをかけて置いておいた。
その夜、ホナミが帰ってきてテーブルの上を見て言った。「おばさんが作ってくれたんですか」。食べながら、「おいしい」と言った。千鶴にとって、それは何か月分もの言葉のように聞こえた。
そういう日々が続いた。千鶴は毎朝部屋を掃除し、昼食を作り、ホナミが帰る前に夕食の下ごしらえをした。ホテルの夜勤が入っている日は、夕方から仕事に出て明け方に戻った。ホナミは「無理しなくていいですよ」と言ったが、千鶴にとって体を動かしていることが一番心が落ち着いた。ノートの数字も少し変わった。家賃の支出がゼロになった分、赤字の幅が小さくなった。ホテルのシフトの収入だけでも、食費と返済は賄えるようになった。完全ではないが、崩れてはいない。
二週間ほど経ったある夜、ホナミが帰宅してから少し経った頃、「おばさん、少しいいですか」と言った。ホナミはリビングのテーブルを挟んで向かいに座り、鞄の中から書類の束を取り出してテーブルの上に置いた。
「この建物に正式に住民登録してもらうための書類なんですけど。おばさんが今正式な住所を持っていないと色々不便じゃないですか? ここに住民票を移してもらえると、おばさんも色々手続きがしやすくなると思って」
千鶴は書類を見た。何ページかあって、名前を書く欄や印を押す欄があった。
「住民登録の届け出ですか?」
「そうです。あと、マンションの管理組合に出す居住者登録も兼ねているので、少し枚数が多いけど。ここにおばさんの名前と生年月日を書いてもらって、ここに印鑑を押してもらえれば大丈夫です」
千鶴は老眼鏡を取り出してかけた。書類の文字は小さかった。「連帯保証人」という欄があるのが見えた。
「連帯保証人という欄がありますね」
「それはマンションの契約関係の書類で、居住者が増えた場合の書式です。おばさんが居住者として登録されることで、一応書式上そういう欄があるだけで、実際には私が払っている家賃とは別の話です。気にしなくていいです」
ホナミの声は穏やかだった。千鶴は迷った。ホナミの顔を見た。まっすぐこちらを見ていた。二週間ずっと世話になっている、あの顔だった。千鶴は書類の束を引き寄せ、ボールペンを受け取って、名前を書く欄に「松崎千鶴」と書いた。印鑑はスーツケースの中の小さなポーチから出して押した。ページをめくって、また書いた。また押した。数ページに渡って同じ作業を繰り返した。
「ありがとうございます」
ホナミは書類を受け取り、きれいに揃えて封筒に入れた。「これで手続きができます。住所ができると、仕事の応募もしやすくなりますよ。また探してみてください。おばさんならきっと見つかります」
その夜、布団の中で目を閉じながら、千鶴はあの書類のことを考えていた。連帯保証人という文字が頭の中に残っていた。あれは本当に居住者登録の書類だったのか。千鶴はそれを最後まで読んでいなかった。読めなかった。字が小さすぎた。まあいい、と千鶴は思った。ホナミを疑うことに意味はない。こんなに世話になっているのに、そんなことを考えるのは罰当たりだ。そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
数日後の昼間、ホナミが仕事で出ている間に、千鶴は部屋の掃除をしていた。ベッドの周りの床を拭こうとして、モップをマットレスの下に差し込んだ時、何かが引っかかった。紙だった。マットレスの下に、紙の束が挟まっていた。A4サイズの紙が数枚、バインダークリップで束ねてあった。表紙に文字があった。
『金銭消費貸借契約書』
千鶴は老眼鏡をかけて、ゆっくり読んだ。貸主の名前は株式会社桜キャピタル。借主の名前は、柴田ホナミ。貸付金額は、五百万円。返済期間と利息の情報が続いていた。利息の欄を見た。年利十八パーセント。千鶴は次のページをめくった。連帯保証人の欄があった。
松崎千鶴。
自分の筆跡だった。印鑑も押してあった。自分の印鑑だった。連帯保証人は借主と同等の義務を負うという情報が太字で印刷されていた。
千鶴は書類を持ったまま、しばらく動けなかった。ベッドの脇に座り込み、ズボンを膝の上に置いて、もう一度最初から読んだ。ゆっくり一文字ずつ、間違いがないか確かめたかった。間違いであって欲しかった。しかし、何度読んでも書いてあることは変わらなかった。借入金額五百万円。連帯保証人、松崎千鶴。あの夜、ホナミが差し出した書類。住民登録と管理組合の書類だと言っていた書類。千鶴が名前を書いて印鑑を押した書類。あれは、違った。
千鶴は書類を畳んで元の場所に戻した。マットレスの下に、元通りに挟み込んだ。掃除道具を片付けて、リビングに戻った。ソファに座って水筒を取り出した。飲もうとしたが、手が少し震えていた。ボトルを両手で包んで抑えた。窓の外は昼の光が差していた。頭の中でここ数週間のことを順番に思い返した。公園でかかってきた電話。車で迎えに来てくれたホナミ。お風呂と夕食と、「家族です」という言葉。部屋を掃除して食事を作った日々。そして、書類。あの書類に署名した時、千鶴は読んでいなかった。読もうとしたが、字が小さかった。ホナミが「気にしなくていい」と言ったから、信じた。五百万円の連帯保証人に、今自分はなっていた。
ホナミが帰ってきたのは夜の八時過ぎだった。鍵が開く音がして、ドアが開いた。「ただいまです」という声がした。明るい声だった。
「おばさん、どうかしました?」
千鶴はホナミを見た。
「あの書類のことを聞いてもいいですか?」
声は静かだった。震えていなかった。
「書類というのは? 部屋の掃除をしていたら見つけました。金銭消費貸借契約書です。連帯保証人の欄に、私の名前がありました」
ホナミは少しの間千鶴を見ていた。それから、鞄をソファに置いた。椅子に座った。何かが変わった。部屋の空気の中の何かが、静かに、しかしはっきりと変わった。ホナミはしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくり顔を上げた。千鶴と目があった。ホナミの目は、千鶴が見たことのない目をしていた。泣いているわけでも、笑っているわけでもなかった。何かを計算しているような、あるいは計算が終わって結果を受け入れたような、そういう目だった。
「見たんですね」
「見ました」
また沈黙があった。
「説明してもらえますか?」と千鶴は言った。責めている声ではなかった。ただ確かめたかった。自分が読んだものが、自分の思った通りのことを意味しているのかどうか。
「借金があります」とホナミは言った。声は低く、乾いていた。「数年前から色々あって、消費者金融に手を出して。それを返すために別のところから借りて。気づいたら雪だるまになっていました。桜キャピタルは最後に借りたところです。五百万。それで全部まとめて返して、月々の返済を一本にするつもりでした。でも、利率が高すぎて、毎月の返済額が私の給料じゃ払えない額になってしまって」
ホナミは顔を伏せた。
「それで、おばさんに保証人になってもらえば、もう少し条件が良くなると思って。嘘をついて、すみませんでした」
謝罪の言葉は、思ったよりあっさりと出てきた。千鶴はその言葉を胸の中で何度か繰り返した。謝ってはいる。しかし、その言葉の重さが千鶴の受けた現実と釣り合っているかどうか、千鶴には分からなかった。
「私の名前で、五百万円の借金の保証人になっているということですね」
「はい」
「ホナミちゃんが返済できなくなった場合、私に返済が発生する」
「はい」
千鶴は一度目を閉じた。「私には、五百万円を返す力がありません。仕事は夜間清掃の週二日しかない。貯金もほぼない。五百万など、一生かけても返せない額です」
ホナミは何も言わなかった。
「それを分かった上で、私の名前を使ったんですか?」
しばらく間があった。ホナミは顔を上げなかった。
「…使い、ました」
「どうして私に電話をかけてきたんですか。あの夜、公園に迎えに来てくれたのは、最初から計画していたことですか?」
「父のスマホは本当に整理していました。おばさんの番号も本当に出てきました。でも、電話をかけたのは、おばさんが困っているなら、使えると思ったのも確かです」
使える。その言葉が静かに千鶴の胸に落ちてきた。音もなく落ちて、沈んでいった。
「でも、連れてきてからは、本当に申し訳ないとも思っていました。おばさんが一生懸命掃除してくれて、ご飯作ってくれて。それを見ていたら」、ホナミの声が少し変わった。「両方、本当のことです」
千鶴はその言葉を聞いて、しばらく考えた。両方本当のこと。使えると思った気持ちと、申し訳ないと思った気持ちが同時に存在していた。それはあり得ることだ。人間の中には、そういうものが同居することがある。だからって、許せるかどうかは別だった。
「書類をなくす方法はありますか?」
ホナミは首を横に振った。「桜キャピタルは、そういう会社じゃないです。正式な契約書でおばさんの署名と印鑑がある。私が返せなくなったら、おばさんに請求が来ます。今の返済状況は、今月は払えていません。来月も、多分払えません」
翌朝、千鶴が目を覚ました時、ホナミはもういなかった。リビングのテーブルに、「仕事に行ってきます」とだけ書かれたメモがあった。千鶴はいつも通り台所でお湯を沸かし、水筒に入れた。それからノートを出して、昨夜の会話の内容を整理して書き込もうとした。しかし、何を書けばいいか分からなかった。書くべき数字がなかった。数字ではないものをノートに書く習慣が、千鶴にはなかった。結局、何も書かなかった。
その日は夜間の仕事があった。仕事をしながら、千鶴はずっと昨夜のことを考えていた。手は動いていたが、頭の中は別のところにあった。五百万円の連帯保証人。ホナミが払えなければ、自分に請求が来る。自分には払う手段がない。払えなければ、どうなるのか。差し押さえ。しかし、差し押さえられるものは自分にはほとんどない。
仕事が終わって更衣室に戻った時、千鶴はロッカーの前に立って少し考えた。ホナミのマンションに戻るべきかどうか。あそこが今の住所になっている。荷物もある。しかし、昨夜のことがあって、あの部屋に戻ることが正しいことなのかどうか分からなかった。ただ、今夜は戻るしかなかった。他に行く場所がなかった。
マンションに戻ると、ホナミはもう帰っていた。リビングのソファに座ってスマートフォンを見ていた。千鶴が入ってくると顔を上げた。昨夜と同じ顔ではなかった。何かが整理された顔だった。
「一つ聞かせてください」と千鶴は言った。「私がここを出て行ったら、その後どうするつもりですか?」
ホナミは少し黙ってから言った。「別の保証人を探します」
「見つかりそうですか?」
「分かりません」
「私は、ここにいる間、これ以上書類にはサインしません。それだけ約束してもらえますか?」
「…わかりました」
それから三日が経った。ホナミは毎朝出かけ、夜に帰ってきた。千鶴との会話は最小限になった。食事は千鶴が作ったが、ホナミは「ありがとうございます」と言うだけで、以前のように話さなかった。千鶴も話しかけなかった。ホナミの部屋を掃除するのは、もうやめた。
三日目の夜、千鶴がホテルの仕事から帰ってきたのは明け方の五時半だった。エレベーターで三階に上がり、廊下を歩いた。部屋の前に来た時、扉の隙間から明かりが漏れていることに気づいた。鍵を開けて中に入ると、リビングの電気がついていた。しかし、ソファにホナミはいなかった。千鶴はコートを脱いで台所で水を飲んだ。それから布団を取り出そうと押入れを開けた。押入れの中が、ガランとしていた。千鶴が使っている布団と自分のスーツケースはあった。しかし、以前にあったはずのホナミの荷物が、半分ほど消えていた。
千鶴はホナミの部屋の扉の前に立った。ノックしたが、返事がなかった。もう一度ノックした。やはり返事がなかった。扉を開けた。部屋はガランとしていた。クローゼットが開いていて、中のハンガーはほとんど空だった。化粧品の並んでいた棚も、きれいに空になっていた。ベッドの上には何も残っていなかった。マットレスの下に手を差し込んだ。書類はなかった。
ホナミは、荷物をまとめて黙って出ていった。千鶴がホテルで働いている間に。この部屋の契約者はホナミだ。ホナミがいなくなったこの部屋に、千鶴が住み続ける権利はない。そして、五百万円の連帯保証人という立場は、消えていない。
朝の七時を過ぎた頃、千鶴は立ち上がった。スーツケースを押入れから出し、中身を確認した。衣類、ノート、水筒、印鑑のポーチ、全部ある。トートバッグも確認した。それだけ確認してから、千鶴は荷物をまとめてマンションを出た。外は曇っていた。朝の空気は冷たく、通勤の人たちが駅に向かって歩いていた。千鶴はスーツケースを引いて、その流れとは逆の方向に歩いた。どこへ行くかは、まだ決まっていなかった。
ホテルに戻った。正確には、ホテルの裏口から入って地下の更衣室に向かった。夜勤明けの清掃員は、次のシフトまで更衣室を使っていいことになっていた。千鶴はそのルールを使ってスーツケースをロッカーに押し込み、着替えた。床に座った。目を閉じた。眠れなかった。眠ろうとしていなかった。ただ、座っていた。
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。気づくと体が横に傾いていた。ロッカーの扉に頭がもたれていた。少し眠っていたらしかった。廊下から足音が聞こえた。聞き覚えのある足音だった。革靴の、少し引きずるような歩き方。吉村の足音だった。千鶴は息を殺した。足音は遠ざかったが、十分ほどして戻ってきて、今度は更衣室の前で止まった。扉が開いた。吉村が立っていた。
「松崎さん、あなた今日はシフト入っていないですよね」
「はい。少し休ませていただいていました。すぐに出ます」
吉村は更衣室の中を見渡した。ロッカーから少しはみ出したスーツケースが目に入った。
「まさか、ここで寝ていたんですか」
「少しだけ休んでいました」
「休んでいた。詰め所に無断で残って寝ていた。そういうことですか?」
千鶴は何も言えなかった。吉村は更衣室の外に出た。「ちょっと来てください」。千鶴はスーツケースを引いて後に続いた。吉村はロビーに向かい、真ん中で立ち止まった。チェックアウトの手続きをしている客が数組いた。フロントには若いスタッフが二人立っていた。
「皆さん、少しよろしいですか」と吉村は声を上げた。「この方は当館の清掃スタッフですが、シフトのない深夜に無断でホテルに侵入し、詰め所で寝泊まりしていたことが判明しました。電気も水道も無断で使用しています。これは不法侵入に当たる可能性があります。スタッフの皆さんも、このような行為を黙認しないよう、改めてお願いします」
フロントのスタッフが顔を見合わせた。チェックアウト中の客の一人が千鶴の方を見た。千鶴は正面を向いたまま動かなかった。吉村はスマートフォンを操作した。「警察に連絡を入れますので、松崎さんはその場で待機してください」
千鶴はゆっくりと膝をついた。タイルの床は冷たかった。手を床についた。頭が自然に下がった。
「申し訳ありませんでした」
ロビーが静かになった。吉村は少しの間千鶴を見下ろしていたが、やがて言った。
「出て行ってください。次のシフト以外で敷地内に入った場合は、本当に警察を呼びます」
千鶴はゆっくりと立ち上がり、スーツケースのハンドルを握った。頭を一度下げてから、出口に向かって歩いた。自動ドアが開いた。外の空気が体に当たった。背後でドアが閉まる音がした。千鶴は振り返らなかった。
警察署で、担当の若い警察官は礼儀正しかった。事情を聞き、メモを取り、最後に「不法侵入の事実は確認できませんでした」と言って千鶴を帰した。シフトのある清掃員が更衣室を使うことは、ホテル側が黙認してきた慣行だったからだ。
外に出ると、夜だった。十二月に入ったばかりの、風の冷たい夜だった。千鶴はコートのボタンを上まで止めて、スーツケースのハンドルを握った。財布の中には八百二十円あった。ネットカフェにも、コインロッカーにも足りない。駅の待合室で始発まで過ごそうと思い、歩き出した。
駅に向かう途中、公園の前を通った。先月、ホナミの電話を受けた公園だった。あのベンチに座っていた自分のことを、千鶴は思い出した。あの時、ゴミ袋に手を伸ばしかけたこと。そこに電話がかかってきたこと。あのまま電話に出なければよかったのか。いや、そういうことではない。ホナミがいなくても、千鶴の状況は同じだった。もっと悪かった。ただ、五百万円の保証人にはなっていなかった。
千鶴は公園のベンチに座った。あの時と同じ、街灯から一番遠いベンチだった。水筒を取り出した。今日の朝に入れた白湯は、もうすっかり冷めていた。それでも飲んだ。空を見上げた。雲が多くて、星はほとんど見えなかった。遠くに飛行機の赤い点滅が見えた。ゆっくり動いて、雲の中に消えた。
公園の向こうに川が見えた。護岸された川で、夜は水が黒く光っていた。橋の上には街灯が等間隔に並んでいた。千鶴はその橋を見ていた。長い時間見ていた。立ち上がった。スーツケースのハンドルを離した。トートバッグだけを肩にかけた。ボトルを手の中に持ったまま、歩き出した。橋に向かう道は短かった。橋の欄干に手をかけた。川の水が下を流れていた。水音はほとんどしなかった。静かな川だった。千鶴は欄干を握ったまま、川を見ていた。頭の中は不思議なほど静かだった。何かを考えているわけでも、何かを決意しているわけでもなかった。ただ、川がそこにあった。
その時。誰かが千鶴のコートの裾を掴んだ。千鶴は振り返った。小柄な女が立っていた。二十代前半ほどで、ショートコートを着ていた。顔は寒さで赤くなっていて、息が白く出ていた。
「…よかった」
女は言った。声が震えていた。千鶴はその女の顔を見た。見覚えがあった。しかし、すぐには名前が出てこなかった。
「長谷川です。ルミです。日勤の清掃スタッフの」
千鶴は思い出した。ホテルの日勤の清掃員だった。いつも黙々と仕事をしている女の子だった。数か月前、ルミが財布をなくして昼食を食べられなかった日があった。千鶴はその時、自分の割引きの弁当をルミに渡した。理由は特になかった。渡せる状況だったから、渡しただけだった。
「なんでここに」
「ロビーで見ていました。吉村さんに言われていたこと、全部聞こえていました。警察署に連れて行かれるのも見ていて、外で待っていました」
「待っていた?」
「一時間以上いました。出てきたから後を追ったら、公園に入って、それで。橋の方に歩いていくから、追いかけました」
ルミは泣いていた。声を殺して泣いていた。コートの袖で目元を抑えながら、それでも千鶴から目を離さなかった。
「大丈夫ですか? 大丈夫じゃないですよね。大丈夫なわけないですよね」
千鶴は何も言えなかった。ルミはポケットに手を入れ、アルミホイルに包まれた何かを取り出して千鶴に差し出した。
「これ、さっき買いました。駅前のスーパーで。温かいうちにもらってください」
千鶴はそれを受け取った。アルミホイルの上から、熱が掌に伝わってきた。包みを少し開けると、焼き芋が出てきた。甘い匂いがした。
「お金がなくて。もっといいものが買えなくてすみません。でも、温かいから」
ありがとう、と千鶴は言った。声が出たことに、千鶴は少し驚いた。
「私、知っている場所があります。NPOがやっている、女性のための施設です。住むところのない女性を受け入れてくれるところです。ご飯も出ます。無料で。ここから電車で三駅です。今日連絡を入れれば、今夜から入れるかもしれない。私、その施設のことを前に調べたことがあって、番号を持っています」
ルミはポケットからスマートフォンを取り出した。
「一緒に行きますか?」
千鶴は、なぜこの子が自分のためにここまでするのか分からなかった。弁当を一度渡しただけだ。それだけのことで、一時間以上警察署の外で待って、橋まで走ってきた。長い間、誰かに何かをしてもらった経験があまりにも少なすぎた。
「迷惑をかけますよ」
「かけてください。私が行きたいから行くんです。迷惑じゃないです」
千鶴はもう一度、手の中の焼き芋を見た。アルミホイルの端が少し開いていて、焦げた皮が見えていた。湯気は出なくなっていたが、まだ暖かかった。
「わかりました」
ルミはすぐにスマートフォンで電話をかけ始めた。千鶴は橋から離れて公園の方向に戻った。ベンチの脇に置いてきたスーツケースが、まだそこにあった。ハンドルを握った。イチョウの木の下で、千鶴は焼き芋を一口食べた。甘かった。久しぶりに甘いものを食べた気がした。
ルミが電話を終えて戻ってきた。「今夜入れます。部屋があるそうです」。二人で駅まで歩いた。十分ほどかかったが、ほとんど話さなかった。電車に乗った。夜遅い時間で、車内に人は少なかった。三駅で降り、住宅街の中の細い道を入ったところに建物があった。外観は普通の民家に近かった。二階建てで、玄関の脇に小さな表札があった。明かりがついていた。
インターホンを押すと、女性の声が出た。ルミが名前を言うと、すぐに扉が開いた。中に入ると、四十代ほどの女性が出迎えてくれた。野口さんという名前だと後から教えてもらった。眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「よく来てくださいました」
責めるような言葉も、同情するような過剰な言葉もなかった。ただ、それだけ言って千鶴を中に案内した。廊下を通って、小さな部屋に通された。四畳ほどの広さで、窓があり、布団が一組置いてあった。壁には何もなかった。清潔な部屋だった。
「今夜はここで休んでください。明日、色々お話を聞かせていただきます。お腹は空いていますか?」
「少しいただきました」
「では、温かいお茶だけでも」
野口さんはそう言って廊下に出ていった。ルミが部屋の入り口に立っていた。
「私、ここでまた来てもいいですか?」
「来てください」
ルミは頷いた。それから「よかった」とだけ言って、廊下に引っ込んだ。足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
千鶴は部屋の中に入って、スーツケースを壁際に立てた。コートを脱いで、窓の近くに置かれた折りたたみ椅子に座った。野口さんが戻ってきて、お茶の入ったカップを渡してくれた。白い陶器のカップで、番茶だった。両手で包むと温かかった。窓は東向きで、向かいにはアパートが立っていた。深夜で、ほとんどの窓は暗かった。一つだけ薄明かりのついた窓があった。千鶴はお茶を飲んだ。苦みと甘みが混じったような、落ち着いた味だった。
千鶴は水筒を取り出し、中に残っていた冷めた白湯を捨てた。廊下にあるやかんからお湯だけをもらって、ボトルに入れた。そして、窓の外の空が少しずつ明けていくのを眺めた。東の空の縁が藍色から淡い灰色に変わっていった。アパートの屋根の向こうに、光の気配がにじみ始めた。水筒のお湯を一口飲んだ。昨夜、橋の欄干に手をかけていたことを千鶴は思い出した。川の水が黒く光っていた。頭の中がひどく静かだった。何も考えていなかった。ただ、川がそこにあった。コートの裾を掴んだ、小さな手のことを思い出した。震えていた。
千鶴は、橋を離れてから一度も泣かなかった。泣く気力があるかどうかも、今はよく分からなかった。ただ、このお湯は暖かくて、窓の外は少しずつ明るくなっていた。それだけが、今夜確かなことだった。
その部屋は四畳しかなく、布団一枚しかなく、壁には何も貼られていなかった。お金はなく、仕事は不安定で、五百万円の問題はまだ消えていなかった。家族もなく、帰れる場所もなかった。何ひとつ解決していなかった。それでも、今夜は温かい部屋の中にいた。お湯がある。明日、話を聞いてくれる人がいる。
千鶴は目を閉じた。空が明けていく気配を、閉じたままのまぶたの裏に感じながら、ゆっくり息を吐いた。長い息だった。どこかで詰まっていたものが、少しだけほぐれるような息だった。



