朝の静かな下町の家で、二十歳の春夜は台所に立ち、慣れた手つきで弁当を作っていた。十歳の時に母を亡くして以来、春夜は弟の颯斗にとって母であり兄だった。父の裕介は交代勤務の警備員で、家のことは自然と春夜の役目になっていた。
突然、携帯電話が鳴り響いた。建設現場のアルバイトで急遽仕事が入ったという連絡だった。今日の日当があれば、今月の公共料金が払える。しかし問題があった。父の弁当を誰が届けるのか。
春夜は隣の部屋で眠っている颯斗を見た。十歳の子供に丸の内まで弁当を届けさせるのは気が引けたが、他に方法はなかった。
「颯斗、ごめんな。兄ちゃん、どうしても外せない仕事ができたんだ」
「うん、兄ちゃん心配しないで。僕が持っていくよ」
颯斗は眠い目をこじ開け、力強く答えた。春夜は弟の頭を撫でて感謝を伝え、急いで家を出ていった。
颯斗は顔を洗い、服を着替え、兄が作ってくれた弁当の風呂敷包みを両手でしっかりと抱きしめて家を出た。バスを二度乗り継ぎ、見慣れない丸の内の町を彷徨うこと一時間余り、ついに巨大なガラス張りのビルが姿を現した。グローバルテック日本支社だった。
ロビーは大理石の床に豪華なシャンデリアが輝く宮殿のような空間だった。颯斗が父親を探してキョロキョロと周りを見回していると、入口の方から聞き慣れた声がした。
「颯斗じゃないか」
警備員の制服を着た父・裕介が驚いた顔で駆け寄ってきた。顔には疲労の色が浮かんでいたが、息子を見るまなざしだけは温かかった。
「ここまでどうやってきたんだ? 兄ちゃんはどうした?」
「兄ちゃん急な仕事が入ったんだ。だから僕が来たの」
颯斗は弁当の包みを父に差し出し、にっこりと笑った。裕介の目頭が熱くなった。
「うちの颯斗は偉いな。どこか怪我はなかったか」
まさにその瞬間だった。ロビー全体が突如として静まり返った。鋭い革靴の音が大理石の床に響き渡り、人々が左右に分かれて道を開けた。白髪を綺麗に撫でつけた老人がオーダーメイドのスーツに金のカフスボタンをつけて歩いてきた。グローバルテック会長、リチャード・ホルト。全世界のテクノロジー産業を牛耳る大物だった。
彼の隣には日本人の男がぴったりと付き添っていた。本社で十五年間リチャードを補佐してきた高木専務だった。裕介は慌てて颯斗を脇へ押しやった。
「颯斗、ここでじっとしてろ。あの方はとても偉い方だから。絶対に声を出すんじゃないぞ」
しかし颯斗には父の言葉が耳に入っていないようだった。その澄んだ瞳がリチャード会長の顔に釘付けになった。少年の眉間にしわが寄る。リチャードが裕介たちの前を通り過ぎようとしたその時だった。
「おじさん」
静かではっきりとした子供の声がロビーの静寂を破った。瞬間、全ての動きが止まった。
「裏切り者が隣にいるのに、どうして一緒にいるんですか?」
ロビー全体が氷のように凍りついた。リチャード・ホルトの眉がぴくりと動いた。裕介は顔面蒼白になり、息子の口を塞ごうとした。
「申し訳ございません。社長、息子はまだ幼く分別がつきませんもので……」
裕介は深く腰を折り、繰り返し謝罪した。しかし颯斗は父の手をそっと押しのけ、リチャードをまっすぐに見上げた。
「おじさん、鼻の頭が見えますか? 鼻の頭が歪んで赤みを帯びています。それは信じていた人間に足を救われ、財産が全て流れ出ていくそうです」
リチャードは鼻で笑った。
「人相学家か。二十一世紀にもなってそんな迷信で私を脅迫するとはな。いいだろう。坊主、一つ賭けをしようじゃないか。もしお前の言う通り今日の契約が間違いで、私の周りから本物の泥棒が現れたなら、お前に一億円をやろう。だがもし間違っていたら、お前の父親は詐欺で刑務所に入ってもらうことになる」
裕介の膝から力が抜けた。しかし颯斗はなお揺らぐことなくリチャードを見つめ続けていた。
リチャードが専用エレベーターへと向かった後、残された人々の視線は一斉に裕介と颯斗へと突き刺さった。日本支社の支社長が怒りで顔を赤黒く歪めて近づいてきた。
「自分の子供にどんな教育をしたら、会長の前でそんな口を聞くんだ。今すぐその子を連れて出ていけ」
支社長は裕介に詰め寄り、警備員たちに命じた。
「この二人を今すぐ叩き出せ」
裕介は抵抗しなかった。ただ息子の手を固く握ったまま、引きずられるようにロビーを後にした。その翌日、管理部長が裕介のもとへやってきて、冷たい声で告げた。
「支社長からの指示だ。君は解雇だ。明日から来なくていい」
裕介の世界は崩れ落ちた。五年間、雨の日も雪の日も休むことなくこのビルを守ってきた。全てがたった数分で水の泡となってしまったのだ。裕介はその場に崩れるように座り込み、涙が止まらなかった。
「父さん、ごめん。僕のせいで……」
颯斗の目にも涙が溜まり始めていた。しかし少年は泣かなかった。むしろ父の手をさらに強く握りしめて言った。
「でも父さん、僕は本当に見たんだ。あのおじさんの顔に悪いものがたくさんあった。嘘はついてない」
その頃、リチャードは最上階の執務室で今日のM&A契約書を眺めていた。この契約が成立すれば、グローバルテックはアジア市場を完全に掌握することになる。数千億円規模の取引だった。しかし、ペンの先が微かに震えていた。
「サインしないでください。それをしたら、おじさんの会社は今日限りで他人のものになります」
先ほどの少年の声が頭の中で響き渡る。リチャードは自嘲気味に笑い、書類を読もうとした。しかし文字が全く目に入ってこない。無意識のうちに自分の鼻先へ手が伸びていた。
化粧室で顔を洗い、鏡を見た瞬間、リチャードの動きが止まった。彼の鼻の先に赤みを帯びた吹き出物のようなものがあった。先ほどまで間違いなくなかったものだった。
――信じていた人間に足を救われ、財産が全て流れ出ていくそうです。――
リチャードは鏡から目を離すことができなかった。心臓が早鐘を打ち始める。偶然だ。ただの偶然に過ぎない。しかしその瞳には拭い去ることのできない混乱と恐怖がゆっくりと広がっていった。
時は流れ、その日の晩餐会。都内最高級ホテルの大宴会場は華やかさの極みだった。天井から吊されたクリスタルのシャンデリアがまばゆい光を放ち、数百人もの招待客で埋め尽くされていた。リチャードは最前列の貴賓席に座っていたが、その表情はどこか重く、華やかな照明の下でも影が差しているように見えた。
隣に座っていた高木専務が心配そうに声をかけてきた。
「会長、いかがなさいましたか?」
「ああ、いいや。少し疲れているだけだ」
リチャードがペンを受け取り、書類の最終ページを開いた。署名欄の上にペン先を近づけたその瞬間だった。
――サインしないでください。これをしたら、おじさんの会社は強欲りで他人のものになります。――
午前中にロビーで聞いたあの十歳の少年の声が鮮明に響き渡った。リチャードの手が止まった。無意識のうちに自分の鼻先へ手を伸ばす。まだ熱い。
「会長、ご署名を。皆様お待ちかねです」
高木専務がやんわりと促した。彼の目には焦りの色が浮かんでいる。リチャードはペンを置いた。
「待て。この契約は保留にする」
瞬間、宴会場が凍りついた。相手企業の代表が勢いよく立ち上がった。
「会長、ご冗談でしょう。この契約のために我々がどれほど長い時間を準備してきたか、ご存知のはずだ」
高木専務が真っ青な顔でリチャードの腕を掴んだ。
「会長、何をおっしゃるのですか? 全世界のメディアが見ています。この契約を保留にすれば、グローバルテックの信用は地に落ちます。どうか……」
しかしリチャードは揺るがなかった。
「書類を最初から全て見直せ。全ての情報、全ての数値を、一問たりとも漏らさずに再確認するんだ」
リチャードは静かに席を立ち、乱れる騒ぎを背に宴会場を後にした。
執務室に戻ったリチャードは深いため息をつき、椅子に身を沈めた。自分が本当にあの重要な契約を保留にしてしまったという事実が信じられなかった。
「私は狂ってしまったに違いない」
まさにその時だった。執務室のドアが勢いよく開かれ、秘書が飛び込んできた。
「会長! たった今速報が入りました!」
秘書が震える手でタブレットを差し出した。画面には緊急ニュースの速報が表示されている。
「合併対象であったパートナー企業が巨額の粉飾決算を隠蔽するため、会計を操作していた事実が検察により発覚。パートナー企業の実際の負債額は公表されていた額の十倍以上に上ることが判明しました。もし本日合併契約が締結されていれば、企業は数千億円もの隠れ負債をそっくりそのまま抱え込むところでした」
リチャードの全身に戦慄が走った。もし自分が先ほどの書類にサインをしていたら、グローバルテックは一瞬にして破産していただろう。それを防いだのは、たった十歳の子供の一言だった。
リチャードは震える手で机の引き出しを開け、小さな手鏡を取り出した。鼻先の赤い点はまだそこにあった。あの少年は嘘をついていなかったのだ。信じていた人間に足を救われると言っていたが、パートナー企業の粉飾決算はすでに明るみに出た。しかし、少年ははっきりと「裏切り者が隣にいる」と言った。だとすれば、本当の裏切り者はまだ別にいるのかもしれない。自分のごく身近な場所に。
リチャードの眼光が鋭く変わった。
「午前中のあの少年だ。解雇された警備員の息子だ。今すぐその子を私の目の前に連れて来い。どんな手を使ってもだ」
しかし、リチャードがその少年を探し出すより先に、世間が彼を奈落の底へと突き落とし始めた。その日の夜、車内の匿名掲示板には、「会長がロビーであった十歳の子供の人相占いで契約を破棄した」という内容が溢れていた。リチャードは人相学などという言葉は一言も口にしていなかった。ただ書類を再検討すると言っただけだ。誰かが意図的にこの噂を広めている。自分を失脚させるために。
翌朝、状況は手のつけられないほど悪化していた。ニュースのヘッドラインはさらに衝撃的だった。
「グローバルテック会長に呪術経営疑惑。リチャード・ホルト、十歳児の人相占いで数千億円契約を破棄」
リチャードはデータと数値を信じて生きてきた男だった。その自分が一夜にして占い師に頼る迷信深い経営者になってしまったのだ。株価は前日からさらに深く暴落した。ニューヨーク本社からの緊急会議で、役員たちは冷たい顔で言った。
「リチャード、説明したまえ。子供の一言で数千億円の契約を破棄したというのは事実かね」
リチャードは口を開いたが、何を言うべきか分からなかった。結果的にあの契約は詐欺であり自分の判断は正しかった。しかし、なぜそのような判断を下したのかと問われれば、答えられる言葉がなかった。そして、会議が終わった後、リチャードの机の上に一枚の書類が置かれた。
「会長、職務執行停止処分が下されました」
リチャードはその書類を呆然と見つめた。自分が生涯をかけて築き上げた会社から追い出されようとしている。狂気した老人というレッテルを貼られて。
窓際に立ち、東京のスカイラインを見下ろすリチャードの瞳に、窓ガラスに映る自分の鼻先の赤い点が飛び込んできた。昨日よりも鮮やかになっている気がした。その瞬間、リチャードは悟った。自分を救う唯一の方法は、あの少年が単なる迷信ではないと証明することだけだと。
リチャードはスーツの上着を脱ぎ捨て、秘書に尋ねた。
「昨日探すように言ったあの子の住所は分かったかね?」
「はい、会長。都心から少し離れた坂の多い下町です。しかし、今お出しになれば記者たちが……」
「裏口から出られるように手配しろ。車もいらん。タクシーを一台呼んでくれ」
タクシーは丸の内の華やかな街並みを抜け、寂れた場所へと向かっていった。やがて止まったのは、都心の外れにある急な坂道の入り口だった。リチャードは狭い路地を見つめ、果てしなく続く急な階段を登り始めた。七十歳の人生でこれほど急な階段を登ったことはなかった。心臓が破裂しそうになり、額からは汗が滝のように流れ落ちる。
息を切らしながら階段を登り切った時、リチャードの目の前に古びた家が現れた。その前の小さな縁側で、二人が食事をしていた。解雇された警備員の裕介と、その息子の颯斗だった。味噌汁と漬け物、そしてご飯だけの質素な食卓だったが、颯斗は美味しそうにご飯を頬張っていた。
リチャードが一歩前に踏み出した瞬間、裕介が顔を上げた。そして、リチャードの顔を見るや手にしていた箸を床に落としてしまった。
「かっ、会長……」
裕介は飛び上がるように立ち上がり、颯斗を背後にかばった。彼の顔は恐怖で真っ白になっている。
「我々が悪うございました。二度とお近くには参りません」
しかしリチャードはその場にじっと立ったままだった。そしてゆっくりと裕介に近づいた。
「君……私が間違っていた」
裕介の目が丸くなった。リチャードは裕介の荒れた手をためらわずに掴んだ。
「君を解雇したことも、この子の貴重な言葉を無視したことも、全て私の過ちだ。どうか私を助けてくれないか」
リチャードは颯斗をまっすぐに見つめた。
「颯斗君。君の言う通り、あのサインをしなかったおかげで私の会社は救われた。だが、人々は私を狂人だという。君が私の顔から見たというあの泥棒たち。それは正確には何なんだ? この赤い点はいつ消えるんだ?」
颯斗は父の背後からゆっくりと歩み出た。口元のご飯粒を手の甲で拭い、リチャードの顔をじっと見つめる。その澄んだ瞳が企業に輝いた。ロビーで見たのと同じ光だった。
「おじさん、とりあえず中に入って。ここで話してたら、近所の人たちがみんな見ちゃうよ」
裕介が慌てて首を振った。
「い、いや、会長をこんな家に……」
「構わん。どこでもいい。話ができる場所に案内してくれ」
リチャードは古びた玄関をくぐり、狭くて天井の低い一部屋だけの家に入った。リチャードが腰を下ろすと、膝がテーブルにぶつかるほどの狭さだった。しかし、今彼にとって重要なのは、この部屋の広さではなかった。
リチャードは懐から封筒を取り出し、グローバルテック日本支社の主要な幹部たちの写真を、古びたテーブルの上に一枚一枚並べていった。颯斗はテーブルの前に正座し、まずリチャードの顔をもう一度じっくりと観察した。
「おじさん。ここのこの赤い点。これ、人相学では『家の中から火の手が上がって財産が全部燃えつきちゃう』っていう印だよ。でもね、おじさん。この家事は外から誰かが火をつけたものじゃない。おじさんが一番信じて大切にしている人が、部屋の中でこっそり油を注いで火をつけているんだ。おじさんの心をずっと痛めつけて、血が逆流するような思いをさせている人がいる。その人が泥棒だよ。おじさんの鼻にこの赤い点を作った人」
リチャードは乾いた唾を飲み込んだ。震える手で写真たちを指さした。
「颯斗君、この中に、私の背中に火をつけ、私を狂人扱いしている本当の泥棒はいるのか」
颯斗はこくりと頷き、写真を一枚一枚ゆっくりと見始めた。一枚目、日本支社長の写真。颯斗はしばらく見つめていたが、やがて首を横に振った。
「この人じゃない。目が浅すぎて大きな悪事はできない。ただ人の顔色を伺っているだけの人だ」
二枚目、財務担当役員。
「この人も違う。鼻が小さすぎて金にはがめついけど度胸がない」
三枚目、四枚目、五枚目。颯斗の小さな指が写真の上を滑っていく。そして、九枚目の写真で颯斗の指が止まった。
「この人だ」
リチャードの目が見開かれた。颯斗が指さした写真、それは高木専務だった。十五年以上自分の側で影のように仕えてきた男。息子のように信頼し、全てのビジネスを共有してきた男。リチャードがこの世で最も信頼する人間だった。
「違う……そんなはずはない。高木は私の家族同然の男だ」
しかし颯斗は揺らぐことなくその写真を指さし続けた。
「おじさん、この人の耳を見て。耳が後ろにぴったりと張り付いているでしょう。こういう耳を『反骨の相』って言うんだ。主人を裏切って後ろから刺すそうだよ。それから唇を見て。刃物みたいに薄いでしょう。唇がこんなに薄い人は、心の中に毒みたいな欲が渦巻いている。でもそれを絶対に表には出さない。おじさんの前ではすごく丁寧で忠実なふりして笑っているだけ。おじさんの鼻にこの見にくい赤い点を作ったのは、このおじさんだよ」
リチャードは目を固く閉じた。十五年間、一度として自分を失望させたことのなかった男。しかし、ふと最近の出来事が蘇った。晩餐会の場で、やけに署名を急かしていた高木専務。契約を保留にすると、真っ青になっていた彼の顔。そして、呪術経営の噂が広まり始めたのも、まさにその直後だった。ロビーでの出来事を知っていたのは、その場にいた者のみ。リチャードの心臓が刃物で刺されるように痛んだ。
「そんな……そんなことがあるのか……」
その時、小さく温かい手がリチャードの冷たい手を握った。颯斗だった。
「おじさん、悲しまないで。泥棒はもう仕事を終えている。今大声を出したら、泥棒は逃げちゃうよ。証拠も全部消して。眠ったふりをするんだ。何も知らないふり。何も気づいていないふり。そうして、泥棒が荷物を持ってドアから出ようとした瞬間に鍵をかけるんだ」
リチャードは颯斗の顔を食い入るように見つめた。十歳の子供の口から出たとは思えない言葉だった。しかし、その一言一言がリチャードの胸に深く突き刺さった。悲しみはゆっくりと沈み、その場所を冷たい怒りが満たしていった。
「颯斗君、ありがとう。君が私の目を開かせてくれた」
颯斗はにこやかに笑った。
「おじさん、今鼻の先の赤い点が少し薄くなったみたい」
リチャードは席を立ち、ドアを出る前に振り返った。
「裕介さん。君に頼みたいことがある。泥棒を捕まえるには証拠が必要だ。私を手伝ってくれるかね」
裕介は一瞬ためらったが、頷いた。
「私にできることでしたら、何なりと」
翌朝、リチャードは打ちひしがれた老人を演じて社に出社した。肩はだらりと垂れ、足取りもゆっくりとし、目はぼんやりと潤んでいる。高木専務が心配そうに駆け寄ってきた。
「会長、いかがなさいましたか?」
リチャードは力なく笑い、高木の手を握った。
「正直に言うとだが、高木専務。最近どうも記憶が途切れることがあるようだ。何を指示したかも忘れ、誰にあったかも分からなくなる。書類を見ても文字が頭に入ってこないのだよ」
高木の目に得体の知れない光がよぎった。口元がほんのわずかに、ほとんど分からないほどに釣り上がった。しかし彼はすぐに心配そうな表情を作った。
「会長、それはお疲れが溜まっているのです。ゆっくりとお休みにならなければ」
「ありがとう。やはり君しかいないな。十五年間、私のそばを守ってくれたのは君一人だけだ。私はなぜそれを忘れていたのだろうか」
高木は感激したように頭を下げた。しかし、頭を下げるその瞬間、高木専務のまなざしは冷ややかに光っていた。リチャードの鼻先にまだ残っている赤い点が、彼の目に入ったのだ。
「やはり崩壊したか。あの様子ではもう終わりだな」
高木が退出した後、リチャードはドアが閉まる音を確認した。そして、先ほどまでのぼんやりとした力ないまなざしはどこにもなかった。その場所で、冷たく鋭い眼光が取って代わっていた。演技は完璧だった。
それ以来、高木の行動は大胆になっていった。リチャードが完全に壊れたと確信した彼は、もはや遠慮なく本音を表し始めた。ある日、高木は裏路地の高級料亭で、グローバルテックのライバル企業であるネクストジェネレーションの幹部たちと密会した。日本支社の基幹技術が詰まったサーバーを丸ごと譲り渡すという提案だった。その見返りとして、高木が要求したのは合併後の新会社の代表の座だった。
「リチャード会長はもう終わりです。正気を失った老人ですよ。四日後の取締役会で売却案が通れば、全てはスムーズに移行します」
同じ頃、リチャードは執務室で、秘密のシステムを通して車内の至るところの様子を映し出していた。その一つが、高木の姿を捉えていた。
リチャードが会社の中で誰も信用していなかった。公式の秘書室も情報部も、彼らの中にすでに高木に買収されている者がいる可能性があったからだ。そこでリチャードは別の方法を選んだ。解雇された警備員・裕介。会社から追い出されたからこそ、誰の疑いも受けない人物だった。
リチャードは秘密裏に裕介をホテルへと呼び出した。
「裕介さん、君はこの会社の隅々まで誰よりもよく知っているだろう。五年間警備員として働いていたのだから、誰がいつどこへ行くのか、誰が誰と会うのか、全て見ているはずだ。高木専務が夜ごとどこへ行き、誰と会っているのか調べてくれるかね。誰にも知られずに」
「私に、そのような重要な任務が務まるでしょうか……」
「会社の人々は信用できない。だが君と颯斗君は違う。君たちだけが私の味方だ」
裕介はしばらく言葉を失ったが、脳裏に息子の顔が浮かんだ。
「……承知しました、会長」
その日から裕介は影となった。高木の黒い乗用車が会社を出ると、裕介は古びた自転車で遠くからその後を追った。時にはバスを乗り継ぎ、時には歩いて。警備員時代に培った観察眼が光を放つ。そして二日目の夜、裕介は決定的な瞬間を捉えた。丸の内のある高級料亭の裏路地で、高木が黒いスーツの男にUSBメモリを手渡す場面だった。
その夜、裕介は下町の家に戻ると、リチャードがそこで待っていた。颯斗も一緒だった。
「これをご覧ください。会長」
裕介がスマートフォンの画面を差し出すと、高木がUSBメモリを手渡す写真が鮮明に映っていた。颯斗がその写真たちをじっと見つめ、忽ち指を止めた。
「おじさん、この写真見て。この人の目尻……ずっとピクピク痙攣してる。これは、自分が仕掛けた罠に自分が落ちるんじゃないかって怖がってるんだ。でも止められない。欲が目を曇らせているから。怖くても止められないんだよ。三日後だよ、おじさん。このおじさんの悪意が頭の頂点まで登り詰める。その時が、罠を畳む日だ」
その日は、リチャードが招集した緊急取締役会が開かれる日だった。リチャードは頷いた。パズルの最後のピースが、はまろうとしていた。
だが、リチャードは何かを思い出したように、古い金色のペンダントを取り出した。中には若き日のリチャードと、一人の女性が並んで微笑んでいる写真が入っていた。
「颯斗君、君は顔を見るだけでその人の人柄も分かると言っていたね。ここにいるこの人。私が最も愛した、私の妻だ。この人の相はどうだろうか」
リチャードの目尻が赤くなっていた。颯斗はペンダントの中の写真をしばらくじっと見つめた。
「おばさんは鼻筋が通っていて目元が深いから、すごく温かい人だったんだね。でも……旦那さんが外のことばかりで、胸の中にいつも冷たい風が吹いていた。寂しかったと思う。すごく」
リチャードの息が止まるかと思った。
「でもね、おじさん。おばさんは死ぬ瞬間まで、おじさんのことを恨んでなんかいなかったよ」
リチャードの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「おじさんの顎の先に小さな傷跡があるでしょう。おばさんはこの傷跡を見るたびに胸が痛かったんだって。おじさんが一生背負っていく荷物があまりにも重すぎるんじゃないかって、心配ばかりしていた。だから恨みよりも、心配の方がずっと大きかったんだ」
リチャードはもう耐えることができなかった。両手で顔を覆い、肩を震わせて、声を上げて泣いた。妻が亡くなった日、リチャードは重要な契約の会議があり、病院へ行くことができなかった。妻の最期を見取ることができなかった。それが彼の生涯の悔いだった。金と権力を追い求めるあまり、最も大切な人を失ってしまった。その罪悪感を抱えて数十年を生きてきた。しかし、この幼い子供がたった一枚の写真を見ただけで、その全てを読み取った。
しばらく泣いていたリチャードが顔を上げた。
「颯斗君、ありがとう。本当にありがとう」
颯斗はにこやかに笑い、リチャードの手の甲をぽんぽんと叩いた。
「おじさん、泣いたら顔がずっと明るくなったみたい。鼻の先の赤い点ももっと薄くなった」
感情を落ち着けたリチャードは、颯斗の頭を撫でながら尋ねた。
「颯斗君は、将来どんな人になりたいんだい」
颯斗は少し考えてから答えた。
「僕はね、悪い人をこらしめるよりも、おじさんみたいに心が痛い人の顔を拭ってあげる人になりたい」
リチャードは胸が熱くなった。
「そうか。必ずそういう人になりなさい。私が手伝おう。君がそういう人になれるよう、私が最後まで君を守ってやる」
窓の外から月明かりが差し込んできた。狭い部屋の中に、老いた会長と幼い子供の影が一つに重なっていた。
取締役会の前日、リチャードは高木を執務室に呼び、売却最終案の書類を一枚差し出した。
「高木専務、頼みがある。私はもう自分が会社を引っ張る力がないように思えてならない。明日の取締役会で君がこの内容を直接発表してくれないか。私は君の意向に全面的に従おう」
高木の心臓が狂ったように高鳴った。これは夢か。会長が自ら退陣を申し出るという、これ以上完璧な状況があるだろうか。
「会長、本当に私をそれほどまでに信じてくださるのですか?」
「もちろんだとも。十五年間、私のそばを守ったのは君しかいないのだからな」
高木は深く頭を下げた。しかし、頭を下げるその瞬間、高木の口元には貪欲な笑みが浮かんでいた。追い落としが完全に決まったという確信があった。
ついに取締役会の日が来た。大きな円卓を囲み、十二人の役員が席についていた。ビデオ会議で繋がれたニューヨーク本社の役員たちも、大型スクリーンを通してこの場を見守っている。主賓席には、リチャード・ホルト会長が座っている。しかし、その様子は尋常ではなかった。肩はだらりと垂れ、目は焦点の定まらない様子だった。役員たちはひそひそと声を交わす。
「会長の状態は本当に悪そうだな。あれでは会議の途中で倒れられてもおかしくない」
その時、リチャードの隣の席から高木専務がすっくと立ち上がった。彼の顔には自信が満ち溢れている。後ろにぴったりと張り付いた耳が勝利を予感しているかのようにピンと立ち、薄い唇には歓喜の笑みが浮かんでいた。
「お集まりの役員の皆様。本日、この場にて重大な発表をできますこと、光栄に思います」
高木専務は机の上の書類を手に取った。
「ご覧の通り、会長のご健康状態は深刻に悪化しておられます。もはや正常な経営判断を下すことは困難な状況です。つきましては、会長より私に全権が委任されました。本日、私は日本支社の売却案を最終的に確定させたいと存じます。買収企業はネクストジェネレーション社です」
高木が書類をテーブルの上に広げ、署名に移ろうとしたまさにその瞬間だった。低く、響く笑い声が会議室に広がった。全ての視線が笑い声の主へと向かう。先ほどまで焦点の定まらずぐったりとしていたリチャードが顔を上げていた。その口元には鋭い笑みが浮かんでいる。
「高木専務。実に見事な strategy だったな」
リチャードの声が変わっていた。力なく震えていた声ではない。低く重く沈んだ、威厳のある声だった。
高木専務の顔が真っ青に変わる。
「か、会長? 急に何を……」
「君がこの数日間、何をしていたか私が知らないとでも思ったかね」
その時、会議室のドアが勢いよく開かれた。扉の前に二人の人物が立っていた。一人は中年の男。そして、その隣には小さな少年が立っていた。颯斗だった。
日本支社長が椅子から飛び上がった。
「なぜあの警備員がここにいるんだ! セキュリティ部長! 今すぐ叩き出せ!」
しかしリチャードが手を上げて制した。
「私が呼んだ者たちだ。座りたまえ」
裕介と颯斗がゆっくりと会議室の中へ入ってきた。颯斗は高木専務の前で立ち止まり、その顔を食い入るように見つめた。
「このおじさんの顔を見てください。目尻がピクピク痙攣しているのが見えますか? これは今、嘘をついているっていう印です。それから、鼻と唇の間にできた黒い筋が見えますか? これは他人のものを盗んで逃げようとしているっていう印です。このおじさんは今、この会社を盗もうとしています」
高木がカッとなって怒鳴った。
「なんだこれは! どこからこんなガキを連れてきて、神聖な取締役会をめちゃくちゃにする気だ! 警察を呼べ! これは業務妨害だ!」
しかしリチャードは動じなかった。代わりに彼がしたのは、手を上げて合図を送ることだった。会議室の一方の壁に大型スクリーンが灯り、映像が流れ始めた。丸の内のとある路地、高級料亭の裏口だった。黒い乗用車から男が降りてくる。高木専務だった。彼は周りをきょろきょろと見回し、裏口から入っていき、奥の個室で誰かと会っていた。
「この中に日本支社のサーバーの全データが入っています。研究開発資料、顧客情報、未公開特許まで、全てです。その代わり、お約束通り合併後の新会社の代表の座は私に……」
「リチャード会長はどうする?」
「ご心配なく。あの老人はもう崩壊しています。人相占いに踊らされる姿を見て、完全に終わったと思いましたよ。今がチャンスです」
会議室は凍りついた。役員たちの視線が一斉に高木へと突き刺さる。日本支社長が素早く高木から距離を取り、大げさに手を振った。
「なんと、専務! 一体どういうことですか! 私は全く存じ上げませんでした!」
高木の膝から力が抜け、その場にどさりと座り込んだ。リチャードがゆっくりと高木に近づき、崩れ落ちた彼を冷たく見下ろしながら言った。
「君は私の鼻の赤い点を見て笑ったな。『狂戦した老人だ』『人相占いに踊らされるバカ者だ』と。だが、その赤い点は今や、君自身を焼き尽くす炎となったのだ」
会議室のドアが再び開かれ、警察官たちが入ってきた。
「企業秘密漏洩及び特別背任の容疑であなたを逮捕します」
高木が連行されていった。会議室を出ていく彼の後ろ姿は、限りなく見窄らしく見えた。
リチャードは裕介の方へ歩み寄り、その手を固く握った。
「役員の皆さん。我々を救ったのは、私のデータではなかった。私の分析力でもなかった。この少年と、黙々と自分の持ち場を守り続けたこの警備員が、今日この会社を救ったのだ。私は本日を持って、裕介さんをセキュリティ部長として復職させる。いや、部長ではない。セキュリティ室長として昇進させる」
裕介の目が丸くなった。
「会長、君がいなければ、この全ての証拠を掴むことはできなかっただろう。君の功績を私は決して忘れない」
日本支社長がそろそろと近づき、恥ずかしげもなく裕介に手を差し出した。
「や、室長! 私はこうなるとは分かっておりました。やはり室長は違いますな! 私の目に狂いはなかった」
リチャードはその様子を見てふっと笑った。
「支社長、君は実に変わらないな」
支社長はその言葉が褒め言葉なのか皮肉なのか分からず、気まずそうに笑って下がっていった。
颯斗がリチャードに近づき、鼻先を指さしてにこやかに笑った。
「おじさん、もう鼻の先の点、消えてるよ」
リチャードが手を上げて自分の鼻先に触れてみた。
「本当か?」
「うん。すごく明るい太陽がおじさんの顔に登ってる」
リチャードは颯斗をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、颯斗君。本当にありがとう」
嵐が過ぎ去り、ついに晴れ渡った空が広がった瞬間だった。
数日後、グローバルテック日本支社のロビー。裕介と颯斗が並んで正面玄関から入ってきた。裕介は清潔なスーツ姿だった。ロビーにいた社員たちが、一人、また一人と席を立ち、拍手をし始めた。数日前、この場所で追い出された彼らを、今、全ての人が拍手で迎えている。
その時、エレベーターのドアが開き、リチャードが姿を表した。彼は自らロビーまで降りてきていたのだ。リチャードは颯斗の小さな手を優しく握った。
「颯斗君、行こうか」
しばらくして、取締役会が開かれた。今回は重苦しい雰囲気ではなく、むしろ和やかな空気に包まれていた。
「表を公式に発表したいことがある。颯斗君、こちらへ」
リチャードは颯斗を膝の上に乗せ、役員たちに向かって言った。
「私がこの子に約束したことがある。一億円をやると。リチャード・ホルトは約束を破る男ではない。本日、私は『計願教育財団』を設立することをここに宣言する。その財団に一億を寄付し、この子が未来を照らす人となれるよう、私が力強い追い風となろう。この財団は今後、颯斗君のように澄んだ目を持つ子供たちを守る城壁となるだろう」
裕介の目から涙が溢れた。計願教育財団。息子のための財団。一億円。想像もできなかったことだった。
全ての行事が終わった後、リチャードは裕介と颯斗を連れて建物の外へ出た。正面玄関の前にはリチャードの専用車が止まっている。リチャードが車に乗り込む直前、ふと颯斗を振り返った。
「颯斗君。君は私の顔から裏切り者を見つけ、未来を見た。では、聞きたいのだが、君自身の未来はどうなんだい? 君は将来、どんな大人になると思うのだ?」
颯斗は少し考えるような表情をした。そしてリチャードに近づき、彼の耳元に口を寄せた。そして、とても小さな声で囁いた。
リチャードの目が丸くなった。そして、やがて堪えきれないと言ったように笑い出した。
「ははは。それは実に嬉しい知らせだ。ははは」
隣にいた裕介が不思議そうな顔をした。
「颯斗、何を言ったんだ?」
日本支社長も耳をそば立てて近づいてきた。
「何とおっしゃったのですか? 私も是非」
しかし、颯斗はただニコニコと笑うだけで、リチャードも笑いが止まらない。
「それは秘密だよ」
颯斗が悪戯っぽく言った。リチャードが颯斗の頭を撫でる。
「ああ、秘密にしよう。君と私だけの秘密だ」
二人の笑い声がビル群の間に響き渡った。丸の内の華やかな高層ビルがその光を受けて輝いていた。長い嵐は過ぎ去り、そして新たな希望が始まろうとしていた。
あの日から十年の時が流れた。アメリカ、ニューヨーク、マンハッタン。天をつく摩天楼の間に、グローバルテック本社ビルが一際高くそびえ立っている。そのビルの最上階の会長室で、八十歳を目前にしたリチャード・ホルト会長が窓際に立っていた。白髪はさらに増え、しわも深くなった。しかし、そのまなざしだけは十年前と変わらず澄み切って深いものだった。
コン、コン、とノックの音がする。
「入りたまえ」
会長室のドアが開き、一人の青年が入ってきた。きちんと整えられた黒髪。清潔感のあるカジュアルなスーツ姿。堂々とした歩きと、まっすぐな瞳。何よりも目を引くのは、その澄んだ瞳だった。十年前と変わらない、深く澄み切った目。二十歳になった颯斗だった。
「会長、お元気そうで何よりです」
颯斗が微笑みながら尋ねた。声も変わっていた。十年前のか細い声ではなく、深く落ち着いた青年の声だった。リチャードの顔に、ぱっと明るい笑みが広がった。
「颯斗君、よく来たね」
颯斗はニューヨークの大学で心理学を専攻する留学生だった。近くにいることもあり、授業のない日にはこうしてリチャードを訪ね、共に時間を過ごすのが常だった。財団の仕事も合間を縫って学んでいる。卒業すれば、正式に財団へ加わり、リチャードの側で働く計画だった。
計願教育財団は、十年の間に大きく成長した。当初一億円で始まった財団は、今や数百億円の資産を持つ大財団となっている。颯斗のように特別な才能を持つ子供たち、困難な環境でも夢を失わない子供たちを支援する財団だった。
リチャードが窓の外を見つめながら言った。
「颯斗君。十年前のあの日のことを覚えているかね。あの時、君が私の耳元で囁いた言葉。『将来どんな大人になるのだろうか』と聞いたら、何と答えたか覚えているかね?」
颯斗も笑みをこぼした。
「まだ覚えていらっしゃるんですか?」
「当然だとも。あの言葉を聞いて、どれほど笑ったことか。もう一度言ってみてくれないか。あの時、何と言った?」
颯斗は、しばし十年前の記憶をたどった。東京のビルの前、温かい陽が降り注いでいたあの日。十歳の自分がリチャードの耳元で囁いたあの言葉。
「僕は、将来おじさんみたいに素敵なスーツを着て、おじさんの側で困っている人たちを助ける。おじさんの本当の友達になるんだって、言いました」
リチャードの目頭が熱くなった。あの日、颯斗はそう言ったのだ。金が欲しい、権力が欲しい、有名になりたい。そんな言葉ではなかった。ただ、「本当の友達になりたい」と。数千億円の資産を持つ世界的な財閥を前に、十歳の子供が口にしたのは、たったそれだけのことだった。その純粋さにリチャードは笑ってしまったのだ。そして同時に、胸の奥底から何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「そうだ。あの日、私は心に誓ったのだ。『我々が本当の友達なら、私が君の行末を生涯守り抜こう』と」
颯斗が頷いた。
「会長はその約束を守ってくださいました。僕が勉強できるように、夢を広げられるように、こうして側で学ばせてくださっている」
「私だけが約束を守ったのではない。君も約束を守ってくれている。忙しい学生生活の合間を縫って、こうして私を訪ねてくれるではないか。寂しくないようにと、側にいてくれる」
颯斗の目も潤んでいた。リチャードは颯斗の手を握った。十年前、下町の狭い部屋でそうしたように。
「颯斗君。今の私の顔はどう見えるかね? 十年前のように、裏切り者や泥棒が見えるか?」
颯斗はリチャードのしわの刻まれた顔をゆっくりと見つめた。八十歳を目前にした老人の顔。深いしわと白髪。しかし、その中に宿るものは全く違っていた。
「会長。人相は生まれ持った運命ではありません。会長がこの十年間、積み上げてきた善意が会長の相を変えたのです。財団を通して何千人もの子供たちを助けてこられた。困っている人々に手を差し伸べてこられた。今の会長のお顔は、まるで星人のようです」
リチャードの目から涙がこぼれ落ちた。
「生まれ持った相よりも、大切なのはその人が生涯で積み上げてきた徳なのです。会長のお顔を見ながら、僕は毎日それを学んでいます」
リチャードは何も言えなかった。ただ颯斗を強く、抱きしめた。長い時間、二人は言葉なく互いを抱きしめ合っていた。
しばらくして、リチャードが体を離し尋ねた。
「そういえば、日本の知らせは聞いているかね? お父上はどうしておられる?」
「父ですか? 元気にしていますよ。去年、セキュリティ顧問として定年退職しました。今は兄と一緒に暮らしながら、孫の面倒を見るのに忙しいそうです」
「そうか。それは良かった」
「ああ。それから、あの日本支社長、覚えていますか? あの方がまだ父を訪ねてきては御機嫌を取っていくそうですよ。毎晩のように杯を酌み交わしながら」
「ははは。あの支社長がまだそんなことを」
「はい。父が言うには、今では随分まともな人間になったと。媚びへつらう癖は相変わらずですが、心から人と向き合うことを少しずつ学んでいると」
「ほう。人は変われるものなのだな。十年一昔とは、よく言ったものだ」
二人は並んで窓際に立ち、ニューヨークの空が赤く染まっていくのを見つめた。夕日が沈んでいく。摩天楼の間に、赤い夕焼けが広がっていく。
「会長。人相は、心が顔に残す足跡のようなものなんです。良い心で生きれば良い相になる。悪い心で生きれば悪い相になる。生まれつきは重要じゃない。どう生きるかが大切なんですね」
颯斗がリチャードの手を握った。
「僕たち、これからも心を綺麗に使いましょう。そうして、世界で一番綺麗な顔で、一緒に年を重ねていきましょう」
リチャードの目元に再び涙が浮かんだ。しかし、今回は悲しみの涙ではなかった。幸せな涙だった。
「ああ、そうしよう。一緒に年を重ねていこう」
リチャードが颯斗の手を固く握り返した。二人の笑い声が会長室に響き渡った。窓の外では、ニューヨークの夕焼けがますます色濃くなっている。赤い光が、全世界を染め上げていた。十年前、東京の下町で出会った二人。世界的な財閥の会長と十歳の少年。年齢も国籍も身分も、全てが違っていた二人が、今では世界の誰よりも深い絆で結ばれていた。
澄んだ目を持つ子供と、その子供の価値を見抜いた巨人の出会い。それは偶然ではなく運命だった。そして、その運命は美しい伝説となって、永遠に語り継がれていくことだろう。ニューヨークの赤い夕焼けが、二人を温かく包み込んでいた。



