義母が私の顔を見るなり、ニヤリと笑った。
「あなたたちはここまでよ。」
何を言っているのか、最初はわからなかった。30歳の誕生日を祝うために、夫の健吾が2年先まで予約でいっぱいの高級和食店を予約してくれた。その約束を彼が覚えていてくれたことが、ただただ嬉しかった。私は久しぶりに美容院へ行き、両親と共に店へと向かった。それが、まさかこんな形で終わるなんて、夢にも思わなかった。
「どういうことですか?」
私がそう尋ねると、義母はさらに声を大きくして言い放った。
「どうって?あなたたちの予約はキャンセルしたわ。だから店には入れない。」
「大体、どうして他人のあなたたちと食事をしなくちゃいけないの?分かったらさっさと帰りなさい。」
その時、健吾が私の前に一通の書類を突きつけた。記入済みの離婚届だった。
「残念だったな。これは俺からの誕生日プレゼントだ。」
私は目の前が真っ暗になった。何が起きているのか、頭が追いつかない。
「一体どういうこと?私の誕生日を祝ってくれるんじゃなかったの?」
「祝ってるじゃないか。事業で成功した俺が、家族と一緒に高級店に入るところを見れるなんて。これ以上のおもてなしはないだろう。」
健吾はゲラゲラと笑いながら、私を落とし入れた。義両親も一緒になって、私を嘲笑っている。
「貧乏人のお前らは、その辺の牛丼でも食ってろ。」
そう言い残して、健吾と義両親は店の中へと入っていった。
でも、その直後だった。店の大将が慌てた表情で駆け寄ってきて、私の父に頭を下げたのだ。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ。」
大将は健吾たちを押しのけるようにして、私と両親を店の奥のVIPルームへと案内した。
私は小松マリ子、30歳。夫の健吾が代表取締役を務める会社で、秘書をしている。健吾と出会ったのは5年前のことだ。当時、証券会社に勤めていた私は、同僚に誘われて参加したパーティーで彼と出会った。会社員をしていた健吾は、将来的に自分で起業するという夢を持ち、資産運用にも大きな興味を持っていた。それがきっかけで、私は度々彼の相談に乗るようになり、次第に二人は惹かれ合っていった。
健吾は現実的で実直に仕事に取り組み、確実に起業への道を進みながらも、私のことをとても大切にしてくれた。私は満たされた日々を送っていた。交際から2年が経った頃、健吾がマンションを借りて起業すると言い出した。
「これからが本当の戦いだ。やるからには成功したい。だから、俺の一番近くでマリコに支えて欲しいんだ。それって、結婚して欲しいってことだ。」
会社として成功するかどうか、わからない。それでも、二人なら何があっても乗り越えていけるのではないか。そう思った私は、健吾のプロポーズを受け入れることにした。健吾の秘書として、彼が立ち上げた会社を支えてきた。
会社はIT技術を活用して事業者向けにシステム開発を行い、一般顧客のニーズを敏感に受け止めながら企業戦略を行っていくというものだ。SNSも活用しながら企業のアピールを行うと共に、そこに集まるデータ分析を自動で行うというものだった。起業してしばらくは、システムを取り入れてもらえるよう、健吾と二人で営業に回る毎日だった。門前払いされることも多く、最初は苦労の連続だったのだが、それでも二人で励まし合いながら根気よく営業を続けた。起業から半年ほどが経ち、一つ、また一つと契約してくれる会社が現れ、1年が過ぎる頃には社員を雇えるようにもなり、健吾の会社は順調に売上を伸ばしていったのだ。
しかし健吾は人を信じやすく、時に無謀とも思える投資に資金を投入しようとする。その度に、証券会社時代に培った財務知識と分析力、そして人脈を生かして投資を止めながら、着実に会社を軌道に乗せていったのだ。起業から2年が経った頃、会社には大きなチャンスが訪れた。国内でも名の知れた大企業が、開発したシステムを導入したいというのだ。これが決まれば会社は安泰だ。商談へと向かう健吾は、いつも以上に気合いが入っていた。しかし商談の席に着くと、先方からは難題が数多く提示された。それがクリアにならないと契約は手に入れられない。健吾は寝る間も惜しんでシステムの改良に努めたのである。数ヶ月に渡り、何度も先方と打ち合わせを行いながら、ついに契約にこぎつけた。健吾は晴れやかな表情を見せ、満足げに先方と杯を交わしたのだ。
先方の会社を出た瞬間、健吾は感極まったように私を抱きしめた。
「これでようやくマリコに楽をさせてやれるよ。」
起業してからというもの、苦労続きだった日々が報われた瞬間だった。健吾と一緒に頑張ってきてよかった。私は心から健吾の成功を喜んでいたのである。その帰り道、乗り込んだタクシーが信号待ちで止まると、健吾は外を見つめ「君のおかげだ」と呟いた。
「マリコがくれなかったら、この契約はなしえなかった。本当にありがとう。」
「健吾が懸命に頑張ったからよ。」
「そうだ。マリコの30歳の誕生日には、最高のお祝いをしよう。」
健吾の視線の先には、有名な高級和食店が立っている。
「嬉しいわ。でもその前に、今夜は二人で乾杯しましょう。」
この頃はまだ、私たち夫婦の仲も良く、健吾は私の意見を経営の判断材料にするほど信頼を寄せてくれていた。私がダメだと言うことはせず、現実的に経営を続けてくれていたのである。しかしその後も大きな契約を結び、会社が急成長すると、次第に健吾の様子が変わっていったのだ。それまでは質素倹約を心がけ、余計な経費もかけないようにしていたが、会社が大きくなると高級品を身につけるようになった。住んでいた家も豪邸に立て替え、自らの財力を誇示するかのように振る舞う。年商が数十億円へと跳ね上がり、経済雑誌の取材が殺到し、メディアへの露出も増えていくと、道行く人でさえ健吾に声をかけてくるのだ。それに伴い、次第に彼の態度も大きくなっていったのである。
音信不通になっていた同級生でさえも健吾に連絡してくるようになり、彼は有頂天になっていたのかもしれない。毎週末になると接待と言っては出かけるようになり、休みの日でさえ家にいないことが増えた。周囲にちやほやされ、高級車やブランド品を自由に買えるようになった健吾は、次第に自分に溺れるようになったのである。「俺は選ばれた人間だ」と万能感に酔いしれ、強引な取引や無駄遣いを繰り返す健吾に、私は苦言を呈していた。
「今はうまくいっている会社も、油断したらすぐに足元をすくわれてしまうわ。」
「ここまででかくなったんだ。何も心配なんかいらない。今は世の中が俺を必要としてるんだ。」
健吾は私の言うことなど聞く耳も持たなくなった。そればかりか、私が作る食事も「こんな質素な食事が食べられるか」と貶すようになったのだ。健吾は高級外食を好むようになり、家の食事にも妥協を許さなくなった。それでも私は、健吾に対して自分を律するべきだと厳しい助言を続けたのである。
しかし健吾は次第に、私のことを耳障りな女、過去の苦労を思い出させる邪魔者として疎ましく思うようになっていった。家に帰っても私と口をきこうとせず、すぐに自室にこもってしまう。会社に顔を出さない日も増え、ようやく出社したと思っても、すぐにどこかに出かけてしまうのだ。
「社長なんだから、ちゃんと仕事をしてよ。」
「付き合いも立派な仕事だ。いちいち社長の俺に指図するんじゃない。」
健吾はすっかり変わってしまった。社員たちへの感謝の気持ちも忘れ、自分一人で会社を大きくしたような気になって好き勝手に振る舞う健吾に、私は呆れてしまっていたのだ。
1年が過ぎた頃、健吾から突然「お前は首だ」と宣言された。
「どういうこと?」
「女は家を守ればいい。これ以上、会社の経営に口を出すな。」
健吾は会社に私は必要ないと言い放ったのだ。
「私をこの会社から追い出すつもり?」
「専業主婦にしてやるって言ってるんだ。ありがたく思え。」
私は専業主婦になんてなりたくない。これからだって会社のために働いていきたい。私がどれほど会社に残りたいと言っても、健吾は聞く耳を持たなかった。健吾がなぜ突然私を解雇したのかは分からない。私のことが本当に必要ないと思ったのだろうか。いくら考えても答えなど見つからない。それでも、社長である健吾に「首」と言われてしまっては従うしかなく、それからは家庭に入り専業主婦をするようになった。
しかし1日中家にいる私に、義両親はいい顔を見せなかった。
「仕事もしないで健吾の稼ぎで生活するなんて、恥さらしもいいとこね。」
「お前に食わせる飯はないと思え。」
義両親は私のことを寄生虫扱いし、毎日のように嫌がらせをしてくるようになった。生活費として渡されるお金はわずか1万円で、どんなに節約してもやっていけるものではない。
「たった1万円で、どうやって生活しろって言うの?」
「それを工夫するのが専業主婦だろう。質素倹約が得意なお前なら、それだけあれば十分だろ。」
健吾は私を嘲笑うように、不敵な笑みを浮かべていた。
「ただで暮らさせてもらってるっていうのに、夫に意見するなんて、なんて傲慢な嫁なの?自分の立場をちゃんとわきまえろ。」
義両親にも頭が上がらず、私の居場所はどこにもなかった。それでも、健吾がまた元の彼に戻ってくれると信じていたのだ。
数日後、亡き祖母の7回忌の法要のため、親戚一同が集まった。健吾の成功を称える声に、彼も義両親も笑顔を浮かべている。
「これでもっと良い嫁が来てくれたら良かったのに。」
義母は親戚の前でも私を貶したのだ。法事が終わり、食事の時間になると、みんなの席に精進料理が配られた。しかし、私の分は用意されていない。
「他人に食わせるものはない。家族だって思ってるなら、ちゃんと嫁らしいことしたらどうなの?」
義両親は私を貶めるため、わざと私の分の食事を用意しなかったのだ。その様子を健吾は黙って見ている。
「分かったら、さっさと親戚の皆さんにお茶でも入れてこい。」
親戚たちの冷ややかな視線が私を襲う。いたたまれなくなった私は、思わず水場へと逃げ込んだ。どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。私は健吾との離婚も考え始めたのである。
その年の秋、私の実家から果物が送られてきた。母の従兄が育てたもので、毎年楽しみにしているものだ。
「今年も旬の果物が送られてきたわ。」
「なんだって、そんなもの。」
果物を見た瞬間、健吾は「安物を持ち込むな」と、私の目の前でゴミ箱に投げ捨ててしまったのである。
「何をするの?」
「貧乏人が作った安い果物なんか、この家にふさわしくない。」
健吾は高級デパートで買ったもの以外認めないと言い放つ。
「あなたは変わってしまったのね。」
無惨に捨てられた果物を見つめながら、私は涙が溢れた。健吾はもう昔の彼には戻らないのかもしれない。まだ心の片隅に残っていたわずかな希望も、消えてしまったのである。これから先、健吾とどうしていくべきか、離婚するしかないのかと、連日頭を悩ませた。健吾への愛情が足りなくなったわけではない。それでも、連日繰り返される義両親の嫌がらせや健吾の冷たい態度に、心が壊れかけていたのだ。
そんな中、私の30歳の誕生日がやってきた。と言っても、健吾も義両親もまるで興味がないようで、「おめでとう」の一言もない。その日もいつものように変わらぬ1日を過ごしていた。しかし昼過ぎに電話がかかってきたのだ。いつもなら仕事中は一切連絡をしてこない健吾が、どうしたのかと思いながら電話に出ると、彼の明るい声が聞こえてきた。
「今日は高級和食店を予約してるから、マリコの両親も呼んでおいてくれ。」
その言葉に、私は思わず涙が浮かんだ。健吾は私との約束を覚えてくれていた。普段のそっけない態度は、仕事の忙しさのせいだったのかもしれない。
「2年先まで予約がいっぱいの有名店だ。今日のサプライズのためにずっと準備してきたんだから、ちゃんとおしゃれしてこいよ。」
「え、分かったわ。本当にありがとう。」
健吾はまだ私のことを愛してくれている。そのことが嬉しくて仕方なかった。すぐに両親にも連絡し、久しぶりに美容院にも行って、約束の時間に店へと向かったのだ。
店前に到着すると、すでに健吾と義両親が待っていた。
「やっと来たのね。相変わらずグズなんだから。」
「すみません。」
義母は私の顔を見るなり、嫌味を言ってきた。
「全員揃ったことだし、店に入ろうじゃないか。」
「そうだな。あまり大将を待たせても悪いからな。」
健吾が店の扉を開き、中へと入っていく。その後ろに義両親が続き、私が入ろうとすると、義母が突然振り返った。
「あなたたちはここまでよ。」
「どういうことですか?」
「どうって?あなたたちの予約はキャンセルしたわ。だから店には入れない。」
義母は嫌らしく笑いながら、私たちを見下したのだ。
「大体、どうして他人のあなたたちと食事をしなくちゃいけないの?分かったらさっさと帰りなさい。」
「残念だったな。これは俺からの誕生日プレゼントだ。」
健吾は記入済みの離婚届を突きつけてきた。
「一体どういうこと?私の誕生日を祝ってくれるんじゃなかったの?」
「祝ってるじゃないか。事業で成功した俺が、家族と一緒に高級店に入るところを見れるなんて。これ以上のおもてなしはないだろう。」
健吾はゲラゲラと笑いながら、私を落とし入れたのだ。
「最高の誕生日になって良かったじゃないか。」
「出来損ないの嫁のくせに、厚かましいのよ。」
義両親も健吾と一緒になって私を嘲笑している。その瞬間、私の中に残っていた健吾への愛情は、消えてなくなった。私の後ろで両親は今にも飛びかかりそうな勢いで、3人を睨みつけている。
「どうしてもここで食事したいなら、自力で稼いでまた2年後に来れば?」
「分かったわ。」
健吾に反論する気にもなれなかった。彼は会社を立ち上げた時の苦労も忘れ、すっかりお金に飲まれ、自身の力を過信し、いつの間にか最低な人間になっていたのだ。そんな人間に言い返す必要などどこにもない。私はその場で離婚届にサインをした。
「貧乏人のお前らは、その辺の牛丼でも食ってろ。」
健吾と義両親は、私たちに見せつけるように意気揚々と店に入っていった。
「大丈夫か?」
「ええ、もう何も感じないわ。」
「あなたの覚悟が決まったなら、話は早いわね。」
兼ねてより、時折り健吾との関係を相談していたからか、両親に驚きはないようだ。その時、店の奥から大将が慌てた様子で飛び出してきた。健吾は大将が自分たちを出迎えに来たと思ったのだろう。
「おお、大将、待たせたな。」
と、馴れ馴れしく声をかけている。しかし大将は健吾を無視し、まっすぐ私の父の前にやってきて頭を下げたのだ。
「お待ちしておりました。さ、どうぞ中へ。」
その様子を、健吾たちは不思議そうに眺めている。
「娘の誕生日なんだ。飛び切りうまいものを頼むよ。」
「もちろんです。お任せください。」
大将は健吾たちを押しのけて、私と両親を店の奥へと案内した。
「ちょっと待てよ。一体どうなってるんだ?」
「こちらは当店の特別なお客様です。小松様のご案内は別のものがさせていただきますので、そのままお待ちください。」
大将の言葉に、健吾は嫌な表情で眉をひそめた。実は、私の父はかつて料理界で知られた伝説の板前なのだ。店の大将にとっては雲の上のような存在で、一流の料理人であれば父の名を知らない者はいない。かつて父の元で修行していた店の大将が独立すると聞き、父は店の回転資金を全て援助した影のオーナーでもあるのだ。私が連絡した後、父は大将に電話をかけ、来店を伝えた。しかし大将の目の前で、健吾たちが私たちを排除しようとしたため、焦った大将は慌てて父を出迎えに出てきたというわけだ。
「なんでそのことを黙ってたんだ?」
「別に話すほどのことでもないでしょ。」
呆然とする健吾たちを尻目に、私と父は大将自らの案内でVIPルームへと通された。
その後、大将が運んでくる料理はどれも国宝クラスの裏メニューばかりで、繊細ながらも色鮮やかにテーブルを賑わしている。部屋の外では、義母の怒鳴り声が聞こえてきた。
「私たちにも同じ料理を出しなさい。家族なのよ。」
扉を開けると、鬼の形相で店員を睨みつけている義母がいた。
「マリコさん、あなたからもちゃんと説明しなさい。」
「どうして私が?他人と言ったのはお母さんじゃないですか?」
その時、母が遅れて入店してきた。
「しっかり提出してきたわ。これであなたは自由よ。」
母は店を離れ、役所に離婚届を代理提出してきてくれたのだ。
「これで明日から、私たちも他人ですね。」
悔しそうに顔を歪める義母を尻目に、私は扉を閉め、両親と食事を楽しむことにしたのである。大将の最高のおもてなしを受け、私は清々しい気分でいっぱいだった。30歳という節目の時を、新しい人生の第一歩にできたのだ。
食事を終え、大将にお礼を行って帰ろうとしていると、健吾の怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら店の約款に基づき、私たち3名分の当日キャンセル料を請求されたようだ。
「出されてもいない料理に30万なんて払えるか。」
「そう言われましても、当日キャンセルは全額ご請求と約款にも記載しています。」
「俺を誰だと思ってるんだ?こんな店でも潰せるんだぞ。」
健吾は大声で叫びながら、手当たり次第に店のものを壊している。
「そのくらいにしておきませんか?」
「だったら30万はなしにしろ。あいつらだってここで食事したんだ。予約がキャンセルになったわけじゃない。」
「小松様のお席は私が自らご用意したものです。小松様のご予約は6名でしたが、来店されたのは3名。当日キャンセルが発生したことに変わりはありません。」
大将がどれほど丁寧に説明しても、健吾は引き下がろうとしない。その様子を、店内にいた他の客たちも不安そうに眺めていた。
「そんな店の都合なんて、俺には関係ない。キャンセル料など払わないからな。」
「それでは応じられませんね。それでは、警察を呼ぶしかないですね。」
「なんだと?」
警察と言われ、健吾は一瞬怯んだように見える。
「それとも威力業務妨害で損害賠償を請求しましょうか。」
大将は冷静に健吾を見据え、冷たく言い放った。
「お、俺たちは客だぞ。」
「無礼な人間に、当店の格式をまたぐ資格はない。」
大将の強い言葉が店内に響き渡った。周囲からは、ひそひそと健吾たちへの非難の声が聞こえてくる。その視線に気づいた健吾は、財布からカードを取り出し、「30万くらい安いだ」と言い放った。しかし、よく見るとカードを持っている手が震えている。きっと大将の迫力に怖気づいたのだろう。支払いを済ませた健吾たちは、バツが悪そうにそそくさと店を出ていったのである。
3日後、私の実家に健吾が尋ねてきた。どういうわけか、健吾は私の顔を見るなり怒鳴りつけてきたのだ。
「お前のせいで、大変なことになったじゃないか。」
「私が何をしたって言うの?」
「これを見ろ。」
健吾はスマホを取り出し、SNSに流れている動画を見せてきた。そこには高級和食店での一部始終が映し出されていたのである。どうやら3日前に来店していた別の客の誰かが、私たちの様子を撮影していたらしい。「成金社長が支払い拒否と嫁いびり」とタイトルがつけられ、健吾や義両親の醜態が投稿されていたのだ。動画はまたたく間に拡散されたようで、健吾がカードを切る際に言った「30万くらい安いだ」という言葉が一時トレンド入りしていた。動画には多数のコメントが寄せられていたのだが、そのどれもが健吾や義両親を非難するものだったのだ。動画を見た会社の顧客や取引先たちからは「嫁いびりがあったのか」と苦情が殺到し、社員たちは連日電話対応に追われているらしい。
「お前のせいだ。責任を取れ。」
「どうして私が?自業自得でしょう。」
「お前が大人しく帰っていれば、こんなことにはなってなかったんだ。」
健吾はどうあっても私に責任を取らせたいらしい。しかし、身勝手で最低な行動を取ったのは健吾自身であり、私に責任転嫁されても困るというもの。私は毅然と、健吾に帰るように告げた。それでも健吾は帰ろうとせず、しつこく玄関に居座り続けている。その時、健吾のスマホの着信音が鳴り響いた。どうやら会社からの電話らしい。
「なんだ、今取り込み中なんだ。」
「電話に出なさいよ。」
渋々出た後、電話の相手は「社長、大変です」と焦った様子を見せている。話を聞いた健吾の顔は、みるみる曇っていった。
「話の続きはまた今度だ。」
健吾はそう言い残し、急いで帰って行ったのだ。健吾の会社で何か大変なことが起こったことは明白だった。それでも、もう私には関係のないことと、気にしないことにしたのである。
しかし数分後、国税局の査察部を名乗る数人の職員たちが、私の元を訪れたのだ。健吾にかかってきた電話は、査察が入ったことを知らせるものだったらしい。調査官は私と健吾の離婚も偽装ではないかと疑い、尋ねてきたのだとか。私は正直に離婚の経緯を話し、疑いを晴らした。健吾からは慰謝料どころか財産分与も受けていない。私の話を信じてくれた調査官は、日頃購入していた高級品のリストがあれば出して欲しいという。私はそれに応じ、結婚生活の間につけていた家計簿を提出したのだ。それを見れば、健吾がこれまでに購入した高級品やブランド品の一覧が分かる。会社に入った調査員に対し、健吾は「証拠はない」と強がっているようだが、すでに健吾の愛人から会社の裏帳簿のデータが提出されているという。
調査官によれば、兼ねてより健吾の会社に対して巨額の脱税の疑いが持たれていたらしい。裏付けを取りながら査察に入る時期を見計らっていたところ、SNSであの動画が流れたのだとか。動画を見た健吾の愛人は彼に見切りをつけ、自らの保身のために裏帳簿のデータを国税局に提供し、司法取引を持ちかけたそうだ。どうやら健吾の愛人は、彼のことを信用していなかったらしい。いざという時のための切り札として、健吾から聞いていたパスワードを使って会社の裏帳簿をコピーしていたのだ。驚いたことに、パスワードは愛人の誕生日になっていたらしい。健吾は会社が大きくなった頃から愛人と関係を持つようになり、四六時中一緒にいたいからと私を会社から追い出し、愛人を秘書に据えたのだ。人に見つかるのを防ぐため、生活費も満足に入れず、私を阻害するようになった。
健吾が態度を急変させた原因が愛人だとわかり、私は安堵した。もしかしたら私に何か原因があって、健吾が変わってしまったのかもしれない。心のどこかでそう思っていたのだ。私に落ち度があったわけではない。それが分かり、背中が軽くなったのである。その後の会社には、数億円の追徴課税が課せられた。同時に、健吾自身にも追徴課税が課せられたのだ。健吾は会社の資金を私的に流用した上に、自身の収入も過少申告していたのだとか。しばらくして、健吾の元に刑事が現れ、逮捕状を突きつけ連行していった。取り調べの中で、健吾は素直に罪を認めているという。しかし、脱税に至った経緯は身勝手なもので、罪の意識もなかったそうだ。その後、起訴され裁判にかけられた健吾は、追徴課税の即時支払いを約束したものの、悪質性が認められ、執行猶予付きの懲役と罰金が言い渡されたのである。健吾の脱税事件はSNSを大きく賑わせ、メディアでも連日報道がされた。それにより、健吾の会社との取引を停止する企業が相次ぎ、彼の会社はあっという間に倒産に陥ったのである。健吾は自身に課せられた追徴課税の支払いができず、豪邸も高級車も差し押さえられることになり、一家は家賃の安いボロアパートに引っ越したのだとか。健吾の破滅を見届けた愛人は、その後人知れず姿を消したらしい。
数ヶ月後、全てを失った健吾が私の実家を訪れた。激しく雨が降る中、傘も差さずに玄関に立っている。
「そこで何してるの?」
「すまなかった。この通りだ。」
健吾はずぶ濡れになりながら、私に土下座してきたのだ。
「もう一度やり直そう。頼む。俺は愛人に騙されていただけなんだ。」
散々私のことを頭が上がらない扱いにしたというのに、その全てを愛人のせいにして復縁を求めるとは、どこまで身勝手なのだろうか。
「頼むよ。俺にはマリコしかいない。」
健吾は必死に私の足にすがりついた。
「今更やり直すつもりなんてないわ。」
「そんな、この通りだよ。」
「健吾に感謝してるのよ。あの時、私を他人にしてくれて助かった。ありがとう。」
私はすがりつく健吾の手を振り払い、嫌味を込めてお礼を言ったのだ。私の意思が固いと分かると、健吾は大きく肩を落として去っていった。その後、再就職を試みるも、健吾を採用してくれる会社は見つからなかったらしい。義両親に嫌味を言われながら、日払いのアルバイトをしながらなんとか生活をしているそうだ。そしてSNSでは「成金社長の成れの果て」とタイトルが打たれ、健吾一家の様子が投稿されていた。そこに映る健吾の姿は見る影もなく、まるで別人のようだ。コメント欄には「自業自得だ」と辛辣な言葉が並ぶ。彼が心から反省し、心を入れ替えて前に進むことができたら、また明るい未来が待っているのかもしれないが、一度贅沢を覚えた義家族たちには、なかなか難しいのかもしれない。
その後、私は証券会社時代の知識と父のネットワークを生かして、一流店を専門とする再生コンサルタントとして独立することになった。父の料理の知識と、私の財務管理能力が掛け合わさり、次々に再生を果たす店舗が増えると、次第に依頼が増えていき、今では順調に軌道に乗っている。今日は父の古希祝い。私は高級店のVIPルームに両親を招待し、祝いの酒を酌み交わす予定だ。



