「無用になるって聞いたけど本当なの?」
「はい、そうです。」
「あっそ。だったら勝手にすればいいじゃない。挨拶なんていりません。どうせあなたは次男なんだから。」
母の冷たい一言で、私の心は一瞬にして凍りついた。
結婚の挨拶のため、緊張しながら彼の実家を訪れた私たち。義母の冷たい口調に、彼の表情が見る見るうちに曇っていくのが分かった。
その時、奥から義父がやってきて、状況を把握するとさらに厳しい言葉を浴びせかけた。
「とや、無用になるんだってな。そうか。ならばお前は今日から他人だ。俺の子は長男の太郎だけだ。」
冷徹な絶縁宣言に、私たちは言葉を失った。
家を追い出された私たちは、しばらく無言で歩き続けた。やがて彼がぽつりと言った。
「あの2人、終わったね。」
「そうね。終わったね。」
私たちは顔を見合わせて笑った。
彼らはきっとまだ知らないだろう。この絶縁宣言が、彼らに一体どんな悲惨な運命をもたらすのかということを。
—
私の名前は小川恵。28歳になる。中規模企業の佐野工業で平社員として働きながら、同期入社の恋人・佐野とやと交際している。とやは家族について語りたがらず、私も彼が佐野工業の創業者一族の次男であることを後になって知った。
「俺は次男だし、会社では普通の社員として働きたいんだよ。」
「どうして教えてくれなかったの?」
「特別扱いされたくなかったからかな。」
そんな平穏な日々が続いていたある日、創業者であるとやの祖父が突然この世を去ってしまった。会社の廊下には重い空気が漂い、社員たちは皆言葉を失っていた。
創業者の葬儀では、とやの家族の姿を初めて目にすることになる。父親は厳格だが冷たく、母親は上品だが温かみがなく、兄は傲慢な雰囲気を醸し出していた。とやは家族と距離を置いて立っており、まるで一線を引いているようにも見えた。
「これからが本当の大変さの始まりかもしれない。」
とやの不吉な言葉は、葬儀場に虚しく響き消えていった。
—
創業者の葬儀が終わってから1週間が過ぎた頃、会社に大きな変化が訪れた。社長に就任したのはとやの父である都だったが、その経営姿勢は創業者とは正反対のものだった。都は社員たちとの距離を置き、傲慢とも取れる態度で会社を当時しようとする。朝の挨拶すら返さず、廊下ですれ違っても無視するような振る舞いに、社員たちの間には不満がうまいていた。
「最近会社の雰囲気が重いよね。」
「父さんなりのやり方なんだろうけど。」
とやの表情には苦悩の色が浮かんでおり、家族の一員としての複雑な心境が伺える。
そんな中、都が下した最初の大きな決断は多くの社員を驚愕させるものだった。長男であるとやの兄・太郎を、いきなり技術開発部の部長に任命したのである。太郎は大学卒業後、明らかなコネ入社で会社に入ったばかりの新人同然だった。技術的な知識も経験も不足している太郎が、ベテラン技術者たちの上に立つことになったのだ。
この人事発表があった日の夜、とやは珍しく愚痴をこぼした。
「太郎兄さんが部長だなんて、現場の人たちが納得するわけがない。」
「確かにまだ入社したばかりなのに。」
「俺も家族だから強くは言えないけど、これは明らかにおかしいよ。」
一方でとや自身は相変わらず真摯に仕事に取り組んでおり、その姿勢は多くの社員から評価されていた。彼の仕事ぶりを見ていると、技術的な理解力も高く、人をまとめる能力にもたけている。社員たちからは「時期社長はとやさんがいい」という声が日に日に大きくなっていくのを感じた。
しかしそんな期待とは裏腹に、会社では不穏な出来事が立て続けに起こることになる。
—
技術開発部で長年働いてきた森山主人という方がいる。森山主任は創業者の時代から会社を支えてきたベテラン技術者で、多くの後輩たちから慕われている存在だった。
その森山主任がある日激怒する出来事が起こった。太郎が技術開発部の精密機械を雑に扱い、情勢が狂ってしまったのだ。その機械は創業者が大切にしていた特注品で、会社の技術の象徴とも言える存在だった。森山主任は太郎の無責任な行動に対して厳しく叱責したという。
「うるさいな。古い機械なんてどうでもいいだろう。」
「この機械がどれだけ大切なものか分からないのか。」
「俺は部長なんだぞ。人ごときが偉そうに。」
この一連のやり取りが社長の都の耳に入ると、事態は思わぬ方向へと展開した。都は息子の太郎の肩を持ち、森山主任を一方的に解雇と発表したのである。創業者の時代から会社に貢献してきた森山主任が、太郎の無責任な行動の責任を取らされる形となった。
この決定に対して技術開発部の社員たちは強い反発を示す。しかし都は社員たちの声に耳をかそうとしなかった。
とやはこの状況を見かねて、父である都に直談判を試みる。
「父さん、森山主任の解雇は撤回してください。」
「何を言っている?息子に向かって暴言を吐いた責任は重い。」
「でも森山主任は間違ったことは言っていません。」
都の表情は徐々に険しくなり、怒りが募っているのが分かった。
「会社のことを考えるなら、森山主任のような人材を失うべきではありません。」
「お前は私の経営方針に異議を唱えるのか?」
「会社の将来のために言っているんです。」
この会話の翌日、都はさらなる爆弾を投下するとやまでもが解雇される決定が下された。父親に逆らった息子への制裁として、とやは会社を去ることになったのだ。
私はこの知らせを聞いた時、怒りと悲しみで胸が張り裂けそうになった。とやは何も悪いことをしていないのに、正しいことを言っただけなのに、このような仕打ちを受けることになったのだ。
しかしとや自身は意外にも冷静だった。
「これで良かったのかもしれない。」
「どうして?」
「あの会社にいても、本当にやりたい仕事はできそうにないから。」
とやの前向きな言葉に、私は少しだけ救われた気持ちになる。
—
ところがとやが会社を去った後、私に対しても嫌がらせが始まることになった。太郎が私の存在を意識し始め、しつこく声をかけてくるようになったのである。
「恵ちゃん、今度一緒に食事でもしない?」
「お断りします。」
「とやはもういないんだし、俺と付き合えばいいじゃないか。」
「とやさんとは今でも交際しています。」
太郎の誘いを然と断り続けたが、太郎は諦める様子を見せない。むしろ私の拒絶に対して腹を立てているようだった。
そしてついに太郎は権力を乱用した報復に出る。私は突然、ほとんど仕事のない窓際部署への移動を命じられたのだ。
「お前もバカ弟と一緒に路頭に迷え。」
太郎の誹謗中傷の言葉は、私の心に深い傷を残した。
しかしこの時の私たちはまだ知らなかった。とやには別の道が開かれようとしていることを。
とやは解雇後、生活費を稼ぐためにバイトを始めていた。そのアルバイト先でとやは持ち前の能力を発揮する。作業効率を大幅に改善する提案をし、会社の利益向上に大きく貢献したのである。
アルバイト先の経営者はとやの才能に驚き、正社員としてのオファーを出してきた。
「恵、実は正社員の話をもらったんだ。」
「それは良かった。」
「でもどうしようか迷っているんだ。」
私はこの話を自分の父に相談してみることにした。私の父も会社を経営しており、何かアドバイスをくれるのではないかと思ったからだ。
父はとやの話を聞くと目を輝かせていった。
「それほど優秀な人材をよそに取られるのは惜しい。」
「どういうこと?」
「うちの会社で働いてほしいな。」
父の提案により、とやは父の会社にヘッドハンティングされることになった。とやは新しい職場でもその才能と誠実な人柄で同僚たちの信頼を勝ち取っていく。前の会社での経験も生かされ、めきめきと頭角を表した。
休日には父ととやが釣りに出かけるようになり、2人だけの時間を楽しんだ。
「今日も釣りに行くの?」
「お父さんが誘ってくれるんだ。」
「何を話しているの?」
「それは男の秘密だよ。」
とやの表情は以前よりもずっと明るくなり、本当の意味で自分らしく働けているのだと感じた。
そしてそんな充実した日々の中で、とやから思いがけない言葉をかけられることになる。
「恵、結婚しよう。君と一緒ならどんな困難も乗り越えられる気がするんだ。」
「とやさん……」
私は嬉しさで胸がいっぱいになり、涙が溢れそうになった。とやの真剣な申し出に、私は静かに頷いた。
その後、父に結婚の報告をすると、父は1つの条件を出してきた。
「とや君、お願いがあるんだ。」
「何でしょうか?」
「無用姿になってもらえないだろうか?」
とやは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になった。
「はい。喜んでお受けします。」
「ありがとう。君になら安心して恵を任せられる。」
こうして私たちの結婚話は順調に進んでいくことになる。しかし最後に残された課題があった。とやの実家への結婚挨拶である。
次男とはいえ、会社を経営している一族の息子。無用姿になると聞いたらどうなるものか。
「正直実家に行くのはあまり気が進まないんだ。」
「でも一応は報告しなくちゃ。」
「そうだね。君にも家族を紹介しておきたいし。」
私たちは覚悟を決めて、とやの実家を訪れることにした。
—
とやの実家は立派な邸宅で、門構えからして威圧感がある。玄関で出迎えたのはとやの母であるさち子だった。
「あら、とや。急にどうしたの?」
「母さん、結婚の挨拶に来ました。」
さち子の表情は一瞬で冷たいものに変わった。
「ああ。で、相手はこの女性。」
「初めまして。小川恵と申します。」
さち子は私の挨拶を無視し、とやに向かって冷たく言い放つ。
「無用になるって聞いたけど本当なの?」
「はい、そうです。」
「あっそ。だったら勝手にすればいいじゃない。挨拶なんていりません。どうせあなたは次男なんだから。」
その時、奥から父がやってきて状況を把握すると、さらに厳しい言葉を浴びせかけた。
「とや、無用になるんだってな。そうか。ならばお前は今日から他人だ。俺の子は長男の太郎だけだ。」
「父さん……」
「もう2度と家に近づくな。」
私たちは何も言い返すことができず、そのまま家を追い出されてしまった。
帰り道、とやは苦笑いを浮かべながら言った。
「あの2人、終わったね。」
「そうね。終わったね。」
私たちは手を取り合って笑い、新しい人生への歩みを進めていくのだった。
—
結婚を機に、私は佐野工業を退職することになった。新しい生活の始まりとして、父の会社で秘書として働くことにしたのである。父のサポートをしながら会社の業務を学ぶ日々は新鮮で充実していた。
とやも父の会社で順調にキャリアを積んでおり、私たちの新婚生活は幸せそのものだった。
そんなある日、父から意外な提案があった。
「恵、とや君。明日一緒に来てもらいたい会社がある。」
「どちらですか?」
「佐野工業だ。君たちには少し因縁のある会社だが。」
とやと私は顔を見合わせた。とやの実家である佐野工業に、なぜ父が訪問するのか理由が分からなかった。
「取引の件で話し合いがあるんだ。」
「取引ですか?分かりました。ご同行させていただきます。」
翌日の朝、私たちは父と共に佐野工業へと向かった。
久しぶりに見る会社の建物は以前と変わらぬ佇まいを見せている。しかしエントランスの雰囲気には、なんとなく活気が感じられなかった。
建物に足を踏み入れた瞬間、不運にも太郎とはち合わせしてしまう。太郎は私たちの姿を見つけると、明らかに不快そうな表情を浮かべた。
「なんだ、お前たちか。ここに何しに来た?」
「お仕事でお邪魔しております。」
「仕事だって?お前らみたいな無職が何の仕事だよ。」
太郎の横柄な態度は相変わらずで、私は眉を潜める。とやは冷静さを保ちながら太郎に向き合っていた。
「とっとと出ていけ。ここはお前たちの来る場所じゃない。」
「少し待ってください。私たちはきちんとアポイントを取ってます。」
「うるさい。警備員を呼ぶぞ。」
その時、奥にいた女性職員が慌てたように立ち上がった。受付の女性は父の顔を見ると、明らかに動揺している様子である。
「もしかして、小川之助様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうです。」
「申し訳ございません。すぐに社長にご連絡いたします。」
受付の女性は慌てて電話を取り、都に連絡を入れ始めた。太郎はこの状況が理解できずに困惑した表情を浮かべている。
「なんだよ、おじさん。」
「私の父です。父は普通のサラリーマンじゃないか。」
数分後、エレベーターの扉が開き、都が慌てたように現れた。都の表情には明らかな焦りが見て取れ、額には汗が浮かんでいる。都は父の姿を確認すると、深々と頭を下げた。
「小川社長、本日はお忙しい中ありがとうございます。」
「お疲れ様です。何か手違いがあったようで、大変失礼いたしました。」
都の慌てすぎる態度に太郎は困惑している様子である。しかし都が私ととやの存在に気づくと、その表情は一変した。
「お前たちは、なんでここにいるんだ?お前たちの来るところじゃないだろう。さっさと帰れ。」
都の変貌ぶりに、父は不審な表情を浮かべる。
「この2人が何か問題でも?」
「この連中は仕事もロクにできない口だけの連中ですよ。」
都の言葉に私は強い屈辱を感じた。とやも拳を握りしめているのが分かる。
父はしばらく沈黙を保った後、静かに口を開いた。
「なるほど。」
「ええ、全く使い物にならない連中で。」
「そうですか。うちの娘と娘婿が、とんだご無礼をいたしました。」
父の言葉を聞いた瞬間、都の顔色がみるみるうちに蒼ざめていく。
「え、娘さんと娘婿?」
「恵は私の1人娘で、とや君は無用姿して迎えた息子です。」
都は言葉を失い、ただじっと私たちを見つめている。
実は父の会社の小川産業は、佐野工業の重要取引先なのである。その社長令嬢が自分たちが冷遇していた相手だったという事実に、都は動揺を隠せない。まるで雷に打たれたかのように硬直し、必死に体を支えている。
一方、太郎はまだ状況を理解できずにいた。
「なんだよ。こいつら何様だよ。」
「太郎、黙れ。」
「親父、なんでそんなに慌ててるんだよ。」
太郎は都の制止を振り切り、私たちに向かって歩いてくる。
「どうせ給料安いんだろ。清掃バイトとしてうちで雇ってやるよ。」
太郎はそう言いながら、近くにあったゴミ箱を手に取った。
そして信じられないことに、ゴミ箱の中身を私ととやの頭から浴びせかけたのだ。生ゴミや空き缶が私たちの頭に降りかかり、周囲の人々が息を飲んだ。
都は太郎の行動を見て青ざめ、駆け寄ってくる。
「太郎、何をしている!」
都は太郎の頭を強く押さえつけ、無理やり土下座の姿勢を取らせた。そして自分自身も父の前で土下座の姿勢を取る。
「申し訳ございません。息子が大変な無礼を。」
「親父、なんで俺が謝らなきゃいけないんだよ。」
「黙れ。お前は状況が分かっていない。」
エントランスには重苦しい空気が流れ、他の社員たちも固唾を飲んで見守っている。父は冷静な表情を保ちながら、都を見下ろしていた。
「頭を上げてください。」
「はい。」
「実は今日伺ったのは、御社との取引について相談があったからです。」
「取引の件でございますか?」
「はい。御社の経営状況を拝見していると、少し心配になる部分があります。」
都の表情がさらに蒼ざめていく。父の言葉は的確で、佐野工業の経営が悪化していることを示していた。
「財務諸表を見る限り、かなり厳しい状況のようですね。」
「そんなことは……」
「数字は嘘をつきません。」
父の冷静な分析に、都は反論することができずにいる。
「残念ですが、今後の取引については見直しをさせていただくことになりそうです。」
「そ、そんな!お待ちください!」
「申し訳ございませんが、決定事項です。」
父の言葉は最終通告であり、覆すことのできない重みを持っていた。都は必死に食い下がろうとしたが、父の意思は硬い。
最後に父は、地に伏している都と太郎を冷たく睨みつけ、言い放った。
「それと、私の娘と娘婿にゴミをかけたこと、決して忘れませんよ。もうあなた方もこの会社も、二度と見たくない。」
そう言い残し、私たちは会社を後にした。
建物を出る時、私は振り返ることはしなかった。とやも同様で、もう過去を振り返る必要はないという表情をしている。
「あの会社は、いずれ潰れるだろう。」
「そうですね。」
「自業自得だと思います。」
車の中で私たちは静かに会話を交わした。都と太郎はひどい人間だが、それでもとやの家族だ。彼らの行く末を思うと、少し複雑な気持ちにもなる。しかしそれ以上に、私たちの新しい人生の希望の方が大きかった。
「君たちはもう、あの人たちのことは忘れなさい。」
「はい。」
「これからは前だけを見て歩んでいきます。」
私たちを乗せた車は、静かに佐野工業から遠ざかっていく。窓の外に流れる景色を眺めながら、私は心の中で新しい人生の始まりを感じていた。
都と太郎にとって、これが転落の始まりになることは間違いないだろう。けれど私たちにとって今日という日は、より良い方向へと向かう分岐点になるのだ。
—
父の会社での私の新しい仕事は、想像以上に充実したものだった。秘書として父をサポートしながら、会社の様々な部門と関わる機会が増えている。とやも技術部門で着実に成果を上げており、社内での評価は日に日に高まっていた。
そんな中、父から興味深い提案があったのである。
「とや君、君に相談したいことがある。」
「何でしょうか?」
「以前君の元の会社にいた、森山さんという方を覚えているかい?」
とやの表情が明るくなった。森山主任はとやが深く尊敬していた技術者の1人で、理不尽な解雇を受けた人物である。
「もちろん覚えています。素晴らしい技術者でした。」
「その方をうちで採用できないだろうか。」
「本当ですか?森山さんが来てくださるなら、それほど心強いことはありません。」
父の提案により、森山主任への接触が始まった。とやが連絡を取ると、森山主任は心よく面談に応じてくれたという。
面談当日、私も同席させてもらうことになった。森山主任は温厚そうな人柄で、技術に対する情熱が言葉の端々から感じられる。
「小川社長にお会いできて光栄です。」
「こちらこそ。とや君から色々とお話を伺っております。森山さんには前の会社でも随分と助けられたそうです。」
父は森山主任の経歴と技術を詳しく聞き、その能力の高さに感銘を受けている様子だった。
「是非うちの会社で力を発揮していただきたい。」
「ありがとうございます。喜んでお受けいたします。」
こうして森山主任が父の会社に加わることが決定した。しかし父の構想はそれだけにとどまらなかった。
「森山さんを中心に、新しい技術開発部を立ち上げたいと思う。」
「新しい部署ですか?」
「そうだ。これからの時代、技術革新は避けて通れない。」
森山主任の加入により、父の会社は技術開発に本格的に取り組むことになったのである。
新しい技術開発部の設立に伴い、若い技術者の募集も始まった。すると思いがけない反応が返ってくる。森山主任のかつての同僚たちが、次々と転職を希望してきたのだ。
「実は前の会社の仲間たちから連絡が来ているんです。」
「どのような?」
「みんなこちらで働かせてもらえないかと。」
前の会社での森山主任の人徳が、このような形で発揮されることになった。優秀な技術者たちが揃って父の会社への転職を希望し、技術開発部は一気に充実した組織となる。
「すごい人数になりましたね。」
「森山さんの人望の厚さがよく分かる。」
「みんな優秀な技術者ばかりです。」
新しく加わった技術者たちはそれぞれが専門分野を持っており、チーム全体のレベルは非常に高い。森山主任がリーダーシップを発揮し、若い技術者たちを指導する体制も整った。
—
一方で、佐野工業の状況は日に日に悪化していると聞く。優秀な人材の流出により、技術開発が滞り始めているらしい。
「森山さんたちがいなくなって、製品開発が全然進んでいないみたいだな。」
「太郎さんでは、やはり難しかったのね。」
「技術は一朝一夕で身につくものではないからね。」
佐野工業では重要な製品の開発が納期に間に合わない事態が頻発し、部長としての能力不足がここに来て露呈し始めた。取引先からのクレームも増加し、会社の信頼は地に落ちつつあった。
父の会社を訪れた取引先の担当者から、話を耳にすることもある。
「佐野工業さんの製品、最近品質が落ちてませんか?」
「そうですか。それは残念ですね。」
「納期も守れないし、正直困っています。」
こうした評判の悪化は、佐野工業の売上に直接的な影響を与えている。既存の取引先が次々と契約を見直し、新規開拓も困難な状況に陥っているらしい。
私たちが取引を中止したのも、決して感情的な判断ではなく合理的な経営判断だったということが証明された。
「前の会社の元同僚から聞いた話ですが、かなり厳しい状況のようです。」
「やはりそうですか。」
「社員の士気も下がっているとのことでした。」
優秀な人材を失い続けた結果、残された社員たちの負担は増大している。しかし都や太郎には、状況を改善する具体的な策がないのが現実だった。
そしてついに、佐野工業にとって決定的な出来事が起こることになる。株主総会の開催である。
業績悪化が続く中での株主総会は、都にとって非常に厳しいものとなった。株主たちからは経営責任を問う声が次々と上がり、都の無能が白日の下に晒される。
「株主総会の様子が新聞に載ってたよ。」
「どんな内容?」
「かなり荒れたようだね。」
新聞記事によると、株主たちは都の経営に対して厳しい批判を浴びせたという。創業者時代と比較して、売上も利益も大幅に減少していることが数字で示された。特に優秀な人材の流出と技術力の低下については、株主から厳しく追求されたらしい。
「創業者の頃とは全く違う会社になってしまったようです。」
「残念ですが、仕方のないことかもしれません。優秀な経営者というのは、そう簡単には育つものではありません。」
株主総会での厳しい追求を受けて、佐野工業の役員会議が緊急召集された。そこで下された決定は、都にとって衝撃的なものだった。社長解任である。創業者の息子であっても、経営能力がなければ経営者としては失格だという判断が下されたのだ。
「都さんが社長を解任されたそうだよ。」
「そうなのね。」
「太郎兄さんも一緒に会社を去ることになったみたい。」
太郎も父親の連座という形で技術部長の職を失うことになった。コネで入社し、コネで昇進した太郎にとって、父親の失脚は致命的な出来事である。
「2人とも、これからどうするのかしら。」
「さあ。でも自分たちの行いの結果だから。人を大切にしない経営者はいずれ、こうなる運命なのでしょう。」
佐野工業の転落は、多くの関係者にとって教訓となる出来事だった。人材こそが会社の最も重要な資産であり、それを軽視すれば必ず報いを受けることになる。都と太郎はまさにその典型例となってしまったのである。
—
一方、父の会社では森山主任を中心とした技術開発部が順調に成果を上げている。優秀な人材が集まり、活気に満ちた職場環境が形成されていた。
「技術開発部の皆さん、本当に生き生きと働いてるね。」
「いい人材がいい環境を作り、いい成果を生むということだ。僕も毎日が勉強になります。」
私たちの会社が発展していく一方で、佐野工業の衰退は止まらない。この対比は経営における人材の重要性を如実に物語っていた。
都と太郎が犯した最大の過ちは、人を見る目がなかったことである。森山主任やとやのような優秀な人材を手放し、代わりに無能なものを重宝した結果がこれだった。一度組織が崩れてしまうと、それを再構築するのは容易なことではない。
「因果応報という言葉が、これほど当てはまることもないわね。」
「本当にそう思うよ。でも私たちは、前だけを見て頑張りましょう。」
過去の出来事は教訓として心に留めつつ、私たちは未来に向かって歩んでいく。都と太郎の転落は、私たちにとってもう関係のない話になりつつあった。
しかし、まだこの物語には続きがあることを、この時の私たちは知らなかったのである。
—
それから数ヶ月が経った頃、私の自宅の玄関に見慣れない人影が現れた。モニター画面を見ると、そこにいたのは都と太郎、そしてさち子だった。
「とやさん、あなたの家族がいらしています。」
「え?そんな、いきなり?」
「でももう絶縁してるから、うちにあげる必要はないね。」
3人は疲れきった様子で、以前の威厳は全く感じられない。父も玄関に出てきたが、3人を家に招き入れることはしなかった。
「何かご用でしょうか?」
「とやに頼みがあってきました。」
「申し訳ありませんが、お断りします。僕は他人なので。」
とやの表情は冷静そのもので、かつての家族に対する情は一切感じられない。
3人がどのような状況に置かれているのか、私たちも薄々聞いていた。再就職先が見つからず、SNSで流出した悪評により社会的な信用も失っているらしい。創業者が大切に築き上げた立派な家も、ついに売却せざるを得なくなったという。
当てのない3人は、なんと私の自宅前の空き地にテントを張って暮らし始めたのである。まるで嫌がらせのように、私たちの目に入る場所での野宿生活だった。
しかしこの空き地にはすでに新しい買い手がついており、数日後には所有者からの通報により、3人は警察のお世話になることになった。
「あの3人も、ついにここまで落ちぶれてしまったのね。」
「自分たちが巻いた種だから。人を大切にしなかった報いというものだろう。」
—
一方で、私たちの生活は日々充実したものになっていた。父はとやの能力を高く評価し、会社の将来を託すと宣言する。
「とや君、君に会社の未来を託したい。」
「責任の重さを感じますが、精一杯頑張ります。」
「君なら必ずやり遂げてくれると信じている。」
そして私からも、嬉しい報告があった。
「皆さん、お伝えしたいことがあります。」
「なんだい?」
「赤ちゃんができました。」
とやの顔が驚きと喜びで輝き、父も満面の笑みを浮かべる。来年には、私たちの家族に新しい命が加わる予定だ。
過去の辛い出来事はすべて、この幸せな未来への道のりだったのかもしれない。私たちは手を取り合い、明るい未来に向かって歩んでいくのだった。



