2026年11月、東京高架線の物流倉庫の清掃員休憩室に、古い鏡が一枚かかっていた。鏡の前に立った古月千鶴は65歳だった。彼女は発作の扉の目薬を一粒、奥歯で噛み砕いた。その痛みで胸の奥の灼熱感を一瞬だけ忘れる。それが、胃の痛みをごまかすために覚えた方法だった。本当は今すぐ横になりたかったが、休憩は残り3分しかない。
休憩室のドアが勢いよく開き、35歳の現場管理職、江口が入ってきた。江口は手に持ったバインダーの書類に目を落としたまま、「休憩終わりましたよね」とだけ言って出て行こうとした。千鶴はすでに立ち上がっていた。「はい」と小さな声で言い、必要以上に深く頭を下げた。それが彼女の癖だった。
作業中、江口がまた声をかけてきた。「今月の稼働時間確認しました。先月より12時間少ない」千鶴は手を止めずに答えた。「はい。先月は月末に残業が出ましたので」江口はそれに答えない。しばらく間があって、江口が言った。「そこ取れてないですよ」江口が指で示したのは、千鶴がすでに掃除した箇所だった。近づいて目を凝らすと、爪の先ほどの小さな黒点が一つあった。千鶴は言った。「申し訳ございません」頭を下げ、またブラシを持ち直した。
江口がまた口を開いた。「古月さん、うちの会社に直接雇用の枠は今はないですから。来月の契約延長できるかどうかは本社次第です」千鶴はブラシを持ったまま少しだけ体を固めた。「はい」とだけ言った。江口の足音が遠ざかる。
10月の給与明細を思い出した。手取りは13万円。シフトを週4日入れ、1日10時間働いて13万円。社会保険に入れてもらえない雇用形態だった。もっと怒っていいはずだった。でも、怒る場所が分からなかった。
午後2時を少し過ぎた頃、千鶴はタイムカードを打刻して倉庫を出た。帰り道に駅前のスーパーへ寄った。目的は値引きシールの貼られた弁当を探すことだった。50%オフの赤いシールが貼られた幕の内弁当が2つ残っていた。賞味期限は今日だった。それでいい。
レジへ向かいながら千鶴は顔を上げた。回転寿司のカウンター席が見えた。ガラス越しに中の様子がよく見えた。千鶴の足が止まった。カウンターの奥の席に1人の女が座っていた。ウールのコートを着て、髪は緩くまとめてあり、顔に艶があった。鉱ずき千鶴の娘、42歳の社音だった。3年間、一度も連絡がなかった。
気がついたら千鶴はガラス戸を押して店の中に入っていた。社音は顔を上げた。母親を見た瞬間、社音の表情がわずかに変わった。驚きではなかった。何かを計算するような短い間があって、また元の穏やかな顔に戻った。社音が先に口を開いた。「お母さん、どうしたの?ここで会うなんて」千鶴は言った。「3年間あなたから何の連絡もなかった」社音はバッグから折りたたまれた紙を取り出し、千鶴の前に置いた。生活保護の受給証明書だった。受給額の欄に13万円と書いてあった。
社音が静かな声で言った。「うつ病と診断されてるから働けない状態なの。だから保護を受けてる。家賃と医療費も出てるから今は安定してる」千鶴はしばらくその数字を見ていた。13万円。千鶴が毎朝5時に起きて倉庫でトイレを磨いて手にする金額と同じだった。社音は寿司を箸で取った。「お母さんも申請すればいいのに。働かなくても良くなるよ」
千鶴は言った。「なぜ連絡が取れなかった?」社音は少し黙った。「謝らないよ。私はただ自分の生活を立て直す必要があった」千鶴は言った。「あなたのために入れたものがある。7年前、あなたが起こした問題の後始末のために」社音の顔に何か小さな動揺が走ったが、すぐに消えた。「それは親がすることでしょう。私が頼んだわけじゃない」
千鶴は自分の手を見た。清掃のブラシを持ち続けてきた手だった。彼女はただその場を離れた。店を出ると外の空気が冷たかった。13万円。その数字が頭の中でずっと残っていた。
その夜、月千鶴は弁当の蓋を開けながら今日起きたことを順番に話した。夫の古月人は67歳。背筋はまっすぐで座り方に崩れがない。右手に目薬の小瓶を持ったまま千鶴の話を聞いていた。千鶴が話し終えると、人はゆっくりと目薬を右目に差した。「シャオンのことはもう考えなくていい」千鶴は箸を止めた。人は続けた。「あの子が今どこでどうしているかは我々には関係ない」千鶴は言った。「あの子は今生活保護を受けている。月に13万円もらって家賃も医療費も出ている」人はしばらく黙っていた。「我々はそれをしない。保護を申請すること、人に頼って生きること。それは我々には合わない。シャオンがどうやって生きていようと我々には関係ない。我々は我々のやり方で返済する。それだけだ」
その夜、千鶴は人がスマートフォンで警備会社の求人サイトを開いているのを横目で見た。何も言わなかった。
翌朝、人は早番の警備シフトのために5時に起きた。千鶴はそれより早く起きていた。11月の第2週、千鶴はいつも通り倉庫の清掃に出勤した。江口が言った。「今日本社の人間が来てて施設の清掃状況を確認してる。午後にここも見るから手洗い場の上の棚も拭いといてください」それから、江口は言った。「先月の残業の件なんですけど、今月から超分は申請できない形になりますので」シフト外で残った時間分は出せないということだった。江口自身が頼んできた延長作業だったが、書類には記録されていない。「わかりました」と千鶴は言った。
その週の金曜日、他の清掃員の液という女性と話した。「今月のシフト見た?来月から入れるのが減ってる」千鶴は聞いた。「あなたも?」液は頷いた。「みんなそうなんか。本社が人件費の見直しをするって話。江口さんから聞いた」
その夜の帰り道、千鶴は駅前を通ると先日社音を見かけた回転寿司の店の前を通り過ぎた。前を向いたままペダルを踏み続けた。
1週間後の月曜日、身に変化があった。人は夜間警備に加えて土曜日の早朝シフトを新たに入れていた。千鶴がそれを知ったのは、土曜日の朝に人が4時半に起きるところを目撃したからだった。「今日も行くの?」人は言った。「早番が入った。6時から12時まで」千鶴は人の顔を見た。目が赤かった。眠れていない人間の目の赤さだった。「眠れてる?」人は言った。「眠れてる」2人とも、それが嘘だと分かっていた。
11月の第3週に入った頃、千鶴の胃の具合が目に見えて悪くなっていた。病院に行こうとは思わなかった。社会保険に入れてもらっていないから医療費は全額自己負担だった。
その週の火曜日、事件が起きた。午後2時頃、千鶴が廊下の拭き掃除をしていると、後ろから江口が来た。江口の手には使い捨てのプラスチックカップが2つあった。江口は千鶴のすぐ後ろに来て立ち、何も言わずに片方のカップをひっくり返した。コーヒーが、拭き終えたばかりの床に広がった。江口は言った。「ここまだ汚れてますよ」声のトーンは平坦だった。「お年を召した方々は体力的にこういう仕事がきついのは分かるんですけどね。うちの倉庫清掃の質を上げていかないといけないって本社から言われてるんで」それだけ言って江口は歩き去った。千鶴は腰をかがめてコーヒーの液体にモップを当てた。怒りはあった。でもそれがどこへ向かえばいいのか分からなかった。
その日の帰り、千鶴は胃の下の方に違う種類の痛みを感じた。家に帰ると、人はまだ戻っていなかった。布団を敷いて横になった。日付が変わる頃、人が帰ってきた。「今夜は少し問題があった」千鶴は体を起こした。人は言った。「深夜0時過ぎに若い男が数人で建物の入り口の辺りに来て騒ぎを起こした。ガラスが割られた」千鶴は言った。「怪我は?」人は首を振った。「ない。ただ……」人 はしばらく答えなかった。「少し見えにくかった」緑内障のせいで夜間の視力が落ちていることを2人とも分かっていた。
翌日の朝、人の携帯電話が鳴った。人は台所に来て言った。「解雇になった。昨夜の件で警備の能力に問題があると判断された。それとガラスの修理費用を一部負担する書類に署名させられた」
その日の夕方、千鶴はハローワークのウェブサイトを開いた。67歳の緑内障の男が応募できる警備の仕事を探した。条件に合うものが3件あったが、1件は視力の基準があって人には厳しかった。残りの2件に応募した。1件は翌日に不採用の通知が届いた。もう1件は1週間経っても何も来なかった。人は言った。「どこも年齢で引かれる」
12月に入って最初の月曜日、千鶴は人が求人サイトと睨めっこしているのを見た。その日、江口は千鶴にシフトの確認書を渡した。来月から週4日になると書いてあった。帰りの自転車の上で千鶴は頭の中で来月の収入を計算した。手取りが10万円を切る。
その夜、千鶴は人に言った。「区役所に相談に行こうと思う。生活保護の相談ではない。どういう支援があるかを聞くだけ。状況を整理するために」人はしばらく黙っていた。「君が行くならそれでいい」。それは、認めたくはないが止める気力もないという状態だった。
翌週の火曜日、千鶴は区役所に向かった。福祉の相談窓口には40代くらいの女性職員が座っていた。職員は言った。「今日はどのようなご相談でしょうか?」千鶴は言った。「生活保護について少し話を聞きたい」職員は続けた。「お子さんはいらっしゃいますか?」千鶴は少し間を置いた。「います」職員が顔を上げた。「お子さんとのご関係はどういった状況ですか?」千鶴は言った。「3年前から連絡が取れない状態です」職員は言った。「確認なのですが、お子さんは現在就労可能な年齢ですか?」「はい」職員は言った。「現状ですと審査の上でいくつか難しい点があります。まずご夫婦のお名前でご自宅の不動産が登記されている場合、資産として扱われます。低入っていても名義があれば原則として審査の対象になります。それから、就労可能なお子さんがいらっしゃる場合、まずお子さんに親御さんへの扶養の意思確認をする手続きが入ります」千鶴は言った。「その子はすでに生活保護を受けています。娘は生活保護の受給者です。3年間私たちへの連絡も援助もありませんでした」職員は言った。「その場合でも手続きの上ではお子さんへの意思確認の連絡が必要になります。省略することはできません」
千鶴はゆっくりと話し始めた。娘が3年前に詐欺的な投資に失敗し、その後始末のために家を抵当に入れたこと。娘が今は保護を受けながら私たちとは無関係に生活していること。夫が病気で失職したこと。自分自身が病気を抱えながら倉庫で働き続けていること。話しながら涙が出た。職員は言った。「大変なご状況だと思います。ただ申し訳ないのですが、手続きの上で省略できないステップがあります。早くて2〜3ヶ月です」
千鶴は言った。「申請書類はいただけますか?」職員は少し戸惑った顔をした。「今すぐ申請されますか?」千鶴は言った。「書類だけもらって帰ります。考えます」
家に帰ると、人は部屋の電気をつけずに座っていた。千鶴は全部話した。人は言った。「シャオンに連絡が行くのか」千鶴は言った。「申請したら手続きとして行くと言っていた」人は言った。「あの子が何と言うかは分かっている」千鶴は言った。「分かっている」2人は黙った。「申請はするのか」千鶴は答えなかった。「まだわからない。でも他に何かあるとも思えない」
その夜から3日後、千鶴は1人でシャオンのアパートに向かった。人の住所は3年前に残っていった郵便物に書いてあった。千鶴はエントランスのオートロックに部屋番号を入力した。呼び出し音が3回なった。応答がなかった。もう1度押した。「はい」という声がした。シャオンの声だった。「お母さんです」間があった。「何の用?」千鶴は言った。「少しだけ話をしたい。中に入れて欲しい」インターフォンが切れた。千鶴は5分待った。もう一度ボタンを押した。今度はすぐに社音が出た。「何度も鳴らして迷惑」千鶴は言った。「シャオン。お父さんが仕事を失った。私も来月から収入が減る。あなたに援助して欲しいわけじゃない。ただお父さんの目薬の代金だけ毎月3000円でいい。目の病気が進んでいる」社音が言った。「私は病気なの。お金がない」千鶴は言った。「会わなくていい。顔を見せなくていい。振り込みでいい。ただお父さんの目のことだけ」インターフォンがまた切れた。
千鶴はもう1度ボタンを押した。応答はなかった。マンションのエントランスを離れた。歩き出して数秒後、背後で扉が開く音がした。社音が出てきた。部屋着のままだった。「これ以上来たら警察に言う」千鶴は言った。「私はあなたの母親です」社音は言った。「関係ない。私は今精神的に不安定な状態にある。こういう接触は療養の妨げになる。弁護士に相談することもできる。お父さんもお母さんも自分たちの選択で子供を産んだんでしょう。私はそれを頼んでいない。育ててもらったからって無限に責任を負うわけじゃない。私には私の生活がある」言い終えると、社音はドアを閉めた。
千鶴は電車に乗って座席に座った。窓の外を見た。暗い車窓には自分の顔が反射して見えた。65歳、髪は灰色。疲れた顔をしている。でも、崩れてはいなかった。
家に帰ると、人はまだ起きていた。「シャオンのところに行ってきた」人は何も言わなかった。「話にならなかった」人は頷いた。人は言った。「区役所の書類。書くか」千鶴は言った。「一緒に書こう」2人はテーブルに向かい合って座った。千鶴が区役所でもらった書類の袋を開けた。「名前から書く」人は言った。「ああ。2人は黙って書き始めた。部屋は静かだった。
12月の第3週、千鶴は役所の申請書類を仕上げた。翌朝、区役所の郵便受けに投函した。帰り道の自転車の上で千鶴は、後ろめたさがあった。だが、その後ろめたさがどこから来るのかがはっきりしなかった。
その日の倉庫の仕事はいつも通りだった。江口はその日の午後に来月のシフト表を渡した。休憩室でシフト表を開いた。来月は週3日になっていた。先月の予告よりさらに1日減っていた。
その夜の帰り道、千鶴は胃薬の残りを数えた。ポケットの中に2粒あった。家に帰ると、人はいなかった。最近の人は夕方になると近所を散歩するようになっていた。7時半を過ぎても人は戻らなかった。8時を回った頃、千鶴の携帯電話が鳴った。知らない番号だった。「もしもし」と千鶴が言うと、向こうが言った。「古月人のご家族の方ですか?警察のものです。旦那様が駅のホームで転落されて、今救急で病院に運ばれています」
病院に着いたのは夜の9時過ぎだった。40代くらいの男性の医師が言った。「転落の際に両脚に重度の損傷を受けています。今後、自力での歩行が可能かどうかは回復を見ながら判断していくことになります」千鶴は言った。「歩けなくなる可能性があると」医師は言った。「高い確率で長期的なリハビリが必要になります。完全に歩行機能が戻るかどうかは現時点では断言できません」それから医師は続けた。「転落の際に頭部を強打されています。現在は意識がありますが、脳の影響を調べるために引き続き検査が必要です」
人は処置室の隣の部屋のベッドに横になっていた。「すまない」声はいつもより少し低くて遠かった。千鶴は言った。「どうして転んだ?」人は言った。「暗くて橋が見えなかった。目薬を切らしていた。3日ほどさしていなかった。節約しようとして感覚を開けていた」千鶴は何も言えなかった。人の目薬を節約させていたのは、目薬代を削ろうとしていた千鶴自身の計算でもあった。
翌朝、検査の結果が出た。脳への直接的な損傷はなかったが、今後、認知面での変化が出る可能性は0ではないと言われた。両脚については長期のリハビリが必要だった。医療費の話を聞いた時、千鶴は頭の中が空白になった。社会保険に入れてもらっていないから医療費の自己負担は3割。それだけでも毎月の収入を超える数字だった。
その日の午後、千鶴は倉庫に電話をしてしばらく休ませて欲しいと伝えた。江口は「わかりました」と言った。声に感情はなかった。
その週の木曜日、千鶴が病院から家に戻ると、郵便受けに倉庫の会社から封筒が入っていた。開けると、契約終了の通知だった。理由の欄には「業務上の都合による契約期間満了」と書いてあった。千鶴が無断欠勤をしたという扱いになっていた。病院に電話を入れたはずだった。だが、電話1本は書類の上では何の証拠にもならなかった。退職金や保障の欄は何も書かれていなかった。
千鶴は自分が今この部屋に1人でいるということに気づいた。仕事はない。夫は入院している。医療費が積み上がっている。ローンの返済が続いている。申請した保護はまだ審査中だった。収入は今月から0だった。千鶴は流しの縁を両手で握った。泣かなかった。泣く場所を千鶴は長い間失ったままだった。
翌日、千鶴は区役所の福祉担当に電話をした。担当者が言った。「現在審査中です。追加資料の提出をお願いすることがあるかもしれません」千鶴は翌日、区役所に行った。担当者は前回と違う30代くらいの男性だった。千鶴は人の入院の状況、医療費のこと、今後の収入が0になったこと、自分の仕事も失ったことを話した。担当者は言った。「お子さんへの意思確認の連絡については、先週文書を発送しています」千鶴の手が少し止まった。「返答がない場合、一定期間後に審査を進めます」千鶴は言った。「娘は生活保護の受給者です。扶養できる状況にないはずです」担当者は言った。「はい。そのことは記録にあります。ただ、手続きとして確認の連絡は必要になります」「結果が出るのはいつ頃になりますか?」「ケースによりますが、通常は申請から2ヶ月ほどです。ただ、今回は追加の確認事項がありますので、もう少し時間がかかる可能性があります」千鶴は言った。「その間の生活費はどうすればいいですか?」担当者は少し間を置いた。「緊急の場合は社会福祉協議会の緊急小口資金という制度があります。無利子の貸し付けです」
千鶴は区役所を出た。40年間、人に借りずに生きてきた。頭を下げることを惜しまずに働いてきた。正直に真面目に。それが、こうなった。千鶴は病院に向かって歩き始めた。病室に入ると、人は起きていた。千鶴は区役所のことを話した。人が言った。「また借りるのか?」千鶴は言った。「他に今月をしのぐ方法がない」人は何も言わなかった。しばらくして、人が言った。「千鶴」千鶴は顔を上げた。人が自分の名前を呼ぶことは最近ほとんどなかった。「すまなかった。ずっと意地を張り続けた。区役所の書類を書く時、もっと早く君と一緒に決めるべきだった。1人で全部抱えさせた」千鶴は人の手の上に手を置いた。「今は言えたならそれでいい」
1月に入って最初の週が終わる頃、千鶴は新しい住所を手に入れた。区から紹介されたNPO法人が管理する簡易宿泊施設の一部屋、畳4枚ほどの広さだった。元の家は年明けに銀行が差し押さえた。通知は年末に届いていた。千鶴は人が知らせるタイミングを測り続けて、結局退院の見通しが立った段階で話した。人はその話を聞いてただ頷いた。何も言わなかった。
医療費の高額療養費の手続きは済ませていた。それでも毎月の自己負担額は千鶴の今の収入では賄えなかった。緊急小口資金を借りた。10万円だった。
その翌週、区役所から封筒が届いた。開けると、生活保護の受給決定通知書だった。月額13万円。千鶴はその数字を見た。医療費は別途給付されると書いてあった。人がかつて倉庫のトイレを磨いて江口の視線を受けながら胃の痛みを薬で抑えながら1ヶ月かけて手にしていた金額と同じだった。それが今、何もしなくても振り込まれてくる。千鶴はその事実を頭の中でゆっくりと回した。怒りが来るかと思ったが来なかった。感謝が来るかと思ったが、それも来なかった。
翌月の初め、振込日が来た。千鶴は郵便局のATMに向かった。残高を確認した。振り込まれていた。引き出しの操作をした。使い込まれた、少し柔らかくなった紙幣の束だった。千鶴は郵便局の外に出た。朝の通りは人が動き始めていた。千鶴は立ったまま人の流れを見ていた。40年間この流れの中にいた。今は違った。自分だけが止まっているような気がした。
病院に向かう前に、千鶴は商店街を歩いた。肉店の前を通り過ぎた時、ショーケースの中に牛肉が並んでいるのが見えた。千鶴は肉店の中に入った。焼肉用の牛肉、100g320円だった。「200gください」640円だった。それから野菜の店で白菜を1枚買った。
病室に入ると、人はリハビリから戻ったところだった。千鶴が持っている袋を見て、人は言った。「何だ、それは?」千鶴は言った。「今夜牛肉を焼く」人はしばらく袋を見ていた。「退院の目処が立ったら一緒に食べる」人は言った。「いつになるかわからないぞ」千鶴は言った。「する」人はわずかに顔を緩めた。千鶴は言った。「今日のリハビリで少し動かせた。右の膝がほんの少しだが」
帰り際、千鶴は病室の入り口で振り返った。人はまた窓の外を見ていた。「また明日来る」人は窓を見たまま言った。「ああ」
その夜、千鶴は部屋に帰って台所で白菜を刻んだ。共同の台所には小さなコンロが2つあって、千鶴はフライパンを借りた。牛肉を少しだけ解凍して塩だけで焼いた。白菜と一緒に炒めて醤油を少し垂らした。プラスチックの皿に盛って自分の部屋に持ち帰った。床に座って皿を前に置いた。牛肉を一切れ箸で挟んで口に運んだ。噛んだ。胃が反応した。下の方から鈍い痛みが来た。それでも噛み続けた。飲み込んだ。目の奥が暑くなった。涙が出るのを止めようとした。止まらなかった。泣いている理由が千鶴には分からなかった。嬉しいわけではなかった。肉が食べられたからと言って何かが解決したわけではない。人の足は戻るかどうか分からない。この部屋は来月も再来月もここのままだ。シャオンから連絡は来ない。それなのに涙が出た。
千鶴は袖で目を拭った。また箸を取った。白菜を口に入れた。食べながら思った。40年間働いた。誰にも頭を下げ続けた。倉庫のトイレを磨いた。江口に謝り続けた。シャオンのために家を抵当に入れた。区役所の窓口で泣いた。シャオンのマンションの前で立ち続けた。人の入院費の書類を何枚も書いた。それで今ここにいる。4畳の部屋に1人で座って、床に置いた皿の牛肉を泣きながら食べている。千鶴にはこれが何なのか分からなかった。勝ちでも負けでもなかった。終わりでも始まりでもなかった。ただ、今日という日がこの形でここにあった。
皿を食べ終えた。千鶴は皿を持って台所に行き、洗った。水が冷たかった。手がかじかんだ。それでも丁寧に洗って拭いて棚に戻した。部屋に戻って布団を敷いた。横になって天井を見た。翌朝もここから始まる。区役所に行くこと、病院に行くこと、人のリハビリの進み具合を聞くこと、来月の支出を計算すること。やることはある。今日が終われば明日が来る。明日が来ればまたそこからやる。それだけのことだった。窓の外で風が鳴った。1月の夜の風だった。千鶴は目を閉じた。すぐには眠れなかった。しばらくして、呼吸が少しだけ深くなった。部屋は静かだった。



