社長の息子が、俺と部下のギャル社員に向かって「中卒2人にボーナス350万。冗談は学歴だけにしろ。嫌ならやめれば」と罵倒した。
俺たちは、その350万というボーナスを受け取るだけの価値があるのに、社長の息子は何も分かっていないらしい。自らの地位に溺れている愚かな社長の息子に、きついお灸を据える時が来たようだ。
俺の名前は原田。36歳。中堅の科学メーカーで働いている。我が家はとても貧乏だった。両親は2人ともいい加減な人で、仕事は長続きせず無責任に暮らしていた。
一方の俺は勉強が好きで、将来はしっかりとした仕事について両親のようにはならないぞと決意。高校進学を考える時期になり、父に相談したところ「高校に行く金なんかうちにはないぞ」と言われた。当たり前のように高校に行けると思っていたけれど、両親は最初からそんなつもりはなかったのだ。
仕方なく俺は中卒で就職。採用してくれたのは地元の小さな会社で、配属先は総務部だった。そこは塩化ビニルなどの部品を作っている会社で、科学に興味があった俺は製造部によく顔を出していた。会社で1番若い俺を社員たちは可愛がってくれて、製品の作り方や製造に必要な科学の知識も教えてくれたのだ。
勉強好きと科学への興味のおかげで俺はどんどん知識を吸収していく。入社2年目には総務部から製造部に移動して経験も身についた。そして23歳の時に今の勤務先である中堅の科学メーカーに転職。開発部に所属して日々様々なものを作っている。
4年前には初めての部下ができた。部下の遠藤さんはいわゆるギャルだ。仕事に支障が出るのでメイクは薄いし髪も短いが、少し前、休日の遠藤さんの写真を見せてもらったことがある。「めっちゃ漏れてると思いません?」「髪は派手だね」。写真に映っていた遠藤さんは別人に思えるほど派手だったが、とても似合っていたのを覚えている。彼女は営業部に所属していたけれど、俺と同じように独学で科学の知識を身につけて開発部の仕事に積極的に携わっていた。そして4年前、営業部から開発部へ移動し、俺の部下になった。ちなみに遠藤さんも俺と同じく中卒だ。
「うちの父親が浮気して離婚したんすよ。それ以来母と2人暮らしでお金に余裕なかったんすよね。母にこれ以上苦労はさせられないと中卒で就職することを決意したらしい」
「若いのに立派だね」
「原田さんも中卒で頑張ってるじゃないすか。うちら似た者同士っすね」
遠藤さんが笑い、俺も釣られて笑みを浮かべる。地味な30代男とギャル社員のコンビは、傍から見ると奇妙に映るだろう。しかし俺たちはいいコンビネーションで毎日楽しく仕事をこなしていた。
そんなある日のこと。
「原田さん聞きました? あの龍太さんが経営企画部の部長になったらしいっすよ」
「経営企画部って新設の部署だよね。この部長に社長の息子か」
遠藤さんがいち早く聞きつけた社内の噂を教えてくれる。経営企画部は1年ほど前から新設されると話が出ていた。主導で進めていたのが社長の息子である龍太さん。しかし龍太さんはかなり厄介な人物だ。龍太さんが我が社に入社したのは11年前。大学卒業後、すぐに父親の会社で働き始めたところ、最初に所属していた営業部ではサボってばかりで大した功績も出せない。営業の仕事は合わないと本人希望で人事部へ移動になったが、面接で自分の好みの女性ばかり採用した。他にも俺が知らないところで色々と問題を起こしていたらしい。
周りは社長の息子という立場に怯えて何も言えなかったが、ある時耐えかねた社員が匿名で社長に通報。社長はメールで送られた告発文を読んで「これは本当か」と龍太さんを問い詰める。しかし具体的な証拠は何もなかったため、そこまで大きな問題にはならなかったらしい。
「最近は何かしたっていう話は聞かないけど、過去にやらかした人を新設部署のトップに据えるのか」
「なんか嫌な予感がしますね」
遠藤さんの意見に俺も頷いて同意する。
「うちとは直接関わりがないだろうし大丈夫でしょう」
「そっすね」
この時の俺たちは楽天的に考えていて、まさかあんな大事になるとは夢にも思ってなかったのだ。
社長は息子に実務経験を積ませたかったのだろう。だが実力のない人間に権力だけ与えるのは、本人にとっても会社にとっても毒でしかない。
それから1ヶ月後、経営企画部が正式に発足したと社内通達があった。最初の仕事として会社全体の収支を見直すことになったらしい。全部署に年間収支の報告書の提出が求められ、俺たちも仕事の片手間に書類をまとめていた。
「全く面倒くさいっすね」
遠藤さんはブツブツと文句を言いながら手早く書類を作成していく。派手な見た目に反して仕事はかなりできる人なのだ。
書類の提出から半月後、突然龍太さんがうちの部署にやってきた。
「なんでこんなに出費が多いの?」
挨拶もそこそこにそんなことを言われたため、俺が開発部の代表として説明することにした。開発部の部長は半年間の出張中で、うちの部署で現在1番偉いのが課長の俺となっている。とはいえ少人数で回している部署なので、課長とは言っても大した権力はない。
「この経費は新商品開発の材料費でして」
龍太さんは開発系の知識がない。大学では経営学を学んでいて、会社に入った後も開発系の仕事には一切携わっていなかった。専門外の龍太さんにも分かりやすく説明する。しかし龍太さんは俺の説明を途中で遮った。
「ごちゃごちゃとわけのわかんないことを言うな。開発部の予算を大幅に削減するよう上層部に進言しておこう」
「え、それは困ります」
「他の部署も少ない予算でやりくりしてるぞ。開発部はどうしても費用が多くかかる部署だ」
改めて説明しようとしたが、先にこんなことを言われた。
「そういえばお前中卒なんだって。よくそんな学歴で開発部の仕事がやれてるな。仕事は他の連中に任せっきりにしてるのか? 低学歴のくせに部下の使い方はうまいんだな」
突然飛び出した罵倒に俺は目を大きく見開く。言葉を失った俺の代わりに反論したのは、隣で話を聞いていた遠藤さんだった。
「あの、私も中卒ですけど。ていうか学歴の話って関係あります?」
言い返されたのが気に食わなかったようだ。龍太さんはむっとした顔で遠藤さんも馬鹿にした。
「似た者同士ってことだな。言っておくが、うちは低学歴の無能を養う余裕はない。俺がこの仕事に就いたからには容赦なくコストカットしていくからな。覚悟しておけ」
そう言い捨てて開発部から立ち去る。
「何なんすかあの人」
「強烈な人だったね。今まで関わりのなかった社長の息子がまさかあんな人だったとは」
俺と遠藤さんはさらなる波乱の予感に顔を曇らせた。
そして決算の1ヶ月前、冬も終わりに近づいた2月の初旬に事件は起こる。いつも通り仕事をしていた俺たちの元に、今1番会いたくない人がやってきた。
「決算前に大切な話がある。お前ら会議室に来い」
開発部の扉を乱暴に開け、龍太さんが俺たちを呼んだ。
「絶対ロクな話じゃないっすよ」
遠藤さんの呟きに心の中で頷く。何を言われても驚かないぞと決めていたが、あまりにも予想を超える龍太さんの言葉に、俺も遠藤さんも顎が外れるんじゃないかと思うくらい大きく口を開けるはめになった。
「お前らの給与を確認させてもらった。中卒2人にボーナス350万だと。冗談は学歴だけにしろ。というわけでお前らボーナスはカットな。嫌ならやめれば」
何を言っているのか理解できず、しばらく黙り込んでしまう。俺たちの反応がお気に召したのか、龍太さんはにやにやした笑みを浮かべながらこんなことを言ってきた。
「今期に入って予想外の支出があってな、予算に余裕がないんだ。そもそも中卒の無能にこれだけ払うなんて意味不明だしな」
「予想外の支出」という発言に俺はピンと来た。
「これって龍太さんが主導してたAI事業のことですか?」
「ああ、大失敗した新規事業ですよね。3ヶ月で2000万の赤字が出たって噂で聞きましたよ」
前から思ってたけど遠藤さんって情報通だよね。遠藤さんの耳の大きさに関心しながら龍太さんを見る。その顔は驚愕と焦りの感情に満ちていた。
「な、何を言ってる? そんな大赤字が出たなんて事実無根の噂だ。失礼な」
おそらく遠藤さんの言っていることは事実なのだろう。
「その補填のために俺たちのボーナスをカットするつもりですか?」
「いやいや、ありえないっしょ。龍太さんの失敗なんだから責任はちゃんと自分で取ってください」
これも図星だったようだ。龍太さんはうろたえ、都合の悪い事実を隠すように無駄に大きな声で俺たちを罵倒してきた。
「うるさい。低学歴の的外れな推理なんか聞きたくない。それと開発部の研究費用も来期から30%カットだ。無駄なものに金を使う余裕はない」
「で、浮いたお金を自分のミスの補填に使うつもりなんすか? それちゃんと上層部に許可取ってます?」
一切ひるまない遠藤さんに龍太さんの怒りが爆発する。
「ゴミが社長令嬢の俺に偉そうな口を聞くんじゃない。お前は首だ。父さんに行って解雇してやる」
まるで子供の駄々こねだと、呆れすぎてため息も出ない。龍太さんは遠藤さんより年上のはずだ。顔を真っ赤にして自分の感情をむき出しにしている龍太さんと比べ、遠藤さんは冷静沈着に見える。しかしよく見ると遠藤さんの目の奥には怒りの炎が燃えていた。
「こんな会社、私の方から捨ててやるよ」
「じゃあ俺も捨てちゃおうかな」
「は?」
俺たちの口から飛び出した予想外の言葉に、龍太さんが間抜けな声をあげる。
「退職するって言ってんの? これ以上あんたと一緒に働きたくないし」
「はい。俺も同じ気持ちです」
龍太さんは俺と遠藤さんを交互に見る。
「お、お前ら正気か? 雇ってくれるところなんかないぞ」
「私たちのこと心配してくれんの? 優しい」
遠藤さんが嫌みたっぷりに返す。龍太さんの目と眉が一気に釣り上がった。
「上等だ。俺の前からさっさと消えろ」
「了解」
怒り狂う龍太さんを置き去りにして、俺と遠藤さんは会議室から出る。廊下に出た瞬間、遠藤さんが小さく息を吐いた。俺は遠藤さんに目で合図した。準備はとっくにできている。こうして俺たちは会社を去ることになった。
翌日、俺はいつも通り会社へ向かっていた。退職するとは言ったものの、残った仕事の片付けと引き継ぎ作業が必要だ。俺が出勤すると、すでに遠藤さんが自分のデスクで仕事をしていた。ちなみに部署の人たちには昨日の時点で退職する旨を伝えてある。みんなかなり驚いていた。出張中の部長も仕事を早めに切り上げてこちらへ戻ってくるらしい。龍太さんはともかく、開発部のみんなに迷惑をかけることになったのは申し訳なかった。
「おはようございます。原田さん。面倒なことはちゃちゃっと片付けて早く有休取りましょう」
「そうだね。さてやるぞ」
と気合いを入れた瞬間、開発部の扉が開いた。
「原田君たちはいるかね?」
入ってきたのは我が社のトップである社長だ。その隣には法務部の部長と顔面蒼白の龍太さんがいる。
「おはようございます。社長どうされましたか?」
いつもは軽い口調の遠藤さんも、さすがに社長の前ではしっかりとした言葉遣いだ。
法務部の部長が眼鏡をクイっとあげながら、ある書類を俺たちに見せてきた。
「昨日私が外回り中に部下が受け取った書類です。あなたたちが作った書類で間違いありませんね」
「ええ、そうです」
俺が迷わず答えると、法務部の部長の顔色が若干悪くなる。
「なるほど。ではこの書類に書いてある通り、君たちは退職に際して会社と共同開発した特許の商用利用許諾を全て取り消すということだね」
社長の問いかけに俺はもう一度頷いて返した。
「ええ、その通りです」
「ねえ、なんでこいつらにそんな権限があるんだよ」
叫んだのは龍太さんだ。事情は詳しく理解していないようだが、自分の父親と法務部の部長が出てきたことで何やらとんでもない事態になっているのは分かっているらしい。
そんな龍太さんに俺はある事実を教えてやった。
「我が社のメイン商品である特殊コーティング技術は、俺が主導で遠藤さんと一緒に開発したものです。会社の売上の約70%を占めていますが、龍太さんはご存知なかったんですね」
俺に続いて遠藤さんが補足説明する。
「特許のライセンスはその他収入として計上されてますし、開発部って地味な研究部門ってイメージ持たれてますから、誰の貢献か社内で認識されにくいんですよね」
我が社は製造部門がメインで動いている。開発部は製造部の付属品のような扱いであまり目立たない部署なのだ。そして龍太さんは仕事ができるタイプとは言えない。社内の事情に詳しい様子もなかったし、俺たちがどれだけ重要な立場にいるか知らなかったのだろう。
「あの特殊コーティングは俺と遠藤さんの個人名義が60%、会社名義は40%となっています。商用利用するには俺と遠藤さんの承認が必要です」
「特許申請に関する事務処理は全部私がやったんで、この事実を知っている人は限られてるんですよ」
俺たちから次々と明かされる衝撃の事実に、龍太さんは目を白黒させている。
「か、会社の特許は会社のものじゃないのか」
「そんな単純なものじゃありませんよ」
法務部の部長が頭を抱える。社長も虫を噛みつぶしたような顔で龍太さんに向き直った。
「どういうことだと尋ねた法務の社員に、龍太が一方的にボーナスカットをされたのが原因だと言ったそうだね。それは本当なのか?」
「ええ、本当です。それ以外にもこんなことがありまして」
何があったかも社長に詳しく教えると、龍太さんに向かって特大の雷が落ちた。
「何事も経験だと思い、お前の自由にさせていたが、まさかこんな愚かなことをしていたとは。お前は俺の息子と言うだけで社員のボーナスや人生を決められる立場じゃないぞ」
社長は普段は温厚な人だが、怒るとかなり怖い。そんな人から怒りをぶつけられ、龍太さんは涙目になっていた。
「使用の承認を取り消されたら、我が社の主力製品の部品が製造できなくなります。売上は大幅に落ち、取引先からの信用も失い、場合によっては我が社の株価が大暴落するでしょう」
法務部の部長の言葉に龍太さんがブルブルと震え出す。
「そ、そんなことになるとは思ってなかったんだ。まさか中卒の底辺が特許開発してたなんて」
「そもそも話だが、誰が相手だろうと馬鹿にしてはならん。社会人として以前の問題で、いい年をした大人がすることではないぞ」
それはごもっともだと、俺と遠藤さんは同時に頷く。
「学歴で人を判断するのもどうかと思いますよ」
遠藤さんの追撃に龍太さんは悔しそうな様子だ。
「さっさと謝れ」
社長に促され、龍太さんがしぶしぶといった様子で頭を下げる。
「す、すまなかった。首とボーナスカットは取り消す。お前らもその方が都合がいいだろ。学歴が低いと転職先に困るだろうし」
「まだ俺たちを学歴で馬鹿にするんですか?」
「そ、そんなつもりはない」
焦って首を何度も横に振る龍太さんに、俺はため息混じりである事実を告げた。
「俺と遠藤さんは少し前にライバル社からヘッドハンティングされたんですよ。あっさり退職を決めたのは転職先に困ってないからですよ」
「はあ? 嘘だろ? そんなはずは」
「いや、俺が先方に確認済みだ」
社長が口を開く。社長は業界内の情報に精通している人だ。ヘッドハンティングの噂を聞いてすぐに俺たちのところへ駆けつけた。
「非常に残念ではあるが、もし2人が転職を決めた場合は、業界の発展のために俺は笑顔で2人を見送ると決めていたんだ」
社長から告げられた新たな事実に、龍太さんはこれ以上ないほど目を見開いた。見下していた相手が自分より評価されているとは思ってもみなかったのだろう。
「お前なんかより100倍優秀な社員だ。そういえばお前は無駄なコストをカットしたいらしいな。なら我が社にとって最も不要な人材を切り捨てよう」
社長が冷たい目を龍太さんに向ける。
「龍太、俺の会社から消えろ。これ以上面倒は見ない」
「そ、そんな」
解雇宣告された龍太さんは脂汗を滝のように流している。そして勢いよく俺たちの方を向いた。
「す、すまなかった。今までのことは謝る。これからは心を入れ替えて真面目に仕事をすると約束しよう。お前たちからも親父に言ってくれよなあ」
「は? 嫌だし。なんであんたの味方をしないといけないの?」
遠藤さんが冷たい目を龍太さんに向ける。俺も続けて口を開いた。
「あなたがいるとみんなに迷惑がかかります。仕事の邪魔なので大人しく消えてください」
どうあがいてもこの状況をひっくり返すことはできないと悟ったらしい。龍太さんの目から一気に光が消え、力なくその場に膝をつく。
「ど、どうして…なんでこうなったんだ?」
「あんたがバカだからでしょ」
遠藤さんのとどめの言葉も、龍太さんには届かなかった。
その後、社長は龍太さんを迅速に処分する。表向きは本人希望の退職という形になった。金銭での援助も一切していない。今はバイトを掛け持ちしてその日暮らしをしているそうだ。後日、社長は俺にわざわざ電話をかけてきて龍太さんのその後を教えてくれた。
「あの愚か者にはいい薬になっただろう」
一方、俺と遠藤さんはライバル会社に転職を果たし、忙しい毎日を送っている。龍太さんを処分してくれた社長にはお礼として特許使用拒否を撤回し、今まで通り使ってもらって構わないと伝えた。ただしライセンス料はきちんと払ってもらう。
「結果的に収入もアップしましたし、思い切ってブランドもののバッグ買っちゃおうかな」
「無駄遣いしすぎないようにね」
「原田さんってお父さんみたいですね。私、父親いないけど」
今日も遠藤さんと軽口を交わしながら楽しく仕事をこなす。できればこの先もずっと頼もしい相棒と一緒に働けたらいいなと思っている。
—
俺がお前の代わりにきっちり契約をまとめてきてやるからさ。
俺が正談に向けて作った契約書を台無しにしておいて、部長がにんまりと笑う。今までも俺が中卒なのを理由に嫌がらせをされてきた。もう我慢の限界だ。そう思った次の瞬間、明るい調子の第三者の声が俺たちの間に割り込んだ。
俺の名前は佐井。37歳の会社員だ。営業部で課長をしている。うちは精密機械や産業ロボットを製造する会社だ。俺は中学卒業と同時に今の会社に入社したが、昔は産業ロボと言っても限定的な用途が大半で、当時は精密機械がメインだった。俺は母子家庭で育ったのだが、ちょうど中学入学の時期に母が再婚することに。母と再婚相手との関係は決して悪くはなかったが、俺は自立した方が母にも自分のためにもいいと考えた。そういった理由もあり、俺は入社が決まって以来、自分の仕事に対して真面目に向き合ってきたのだ。
「おい、中卒課長の佐井君」
「柿本部長、その呼び方はやめてくださいと何度も申し上げておりますが」
俺は眉を潜めて抗議する。俺は仕事に不満はないが1つだけ問題を抱えていた。目の前の男、俺の上司でこの部署の部長である柿本が薄ら笑いを浮かべている。俺はこの男が苦手だ。中卒である俺を見下し、何かあるごとに嫌がらせをしてくる。言葉もそうだ。俺が何度もやめてくれと言っているにも関わらず、必要以上に「中卒」とつけて呼んでくるのだ。
「おいおい、事実だろ? そんなことより、前田、今度新しい商談を担当するんだったよな」
俺はため息混じりに柿本の質問に答えた。
「はい。部長もご存知だと思いますが、先方に指名されましたので」
俺は今、ある商談の準備を進めている最中だ。相手は俺が以前から足しげく通っていた有名な大企業である。前田、あの大企業がうちみたいな会社を相手にするわけがないと言っていたが、俺はそう思わなかった。確かにそう簡単にはいかなかったが、時間をかけて通ううちに話を聞いてもらえるようになったのだ。そこからうちの産業ロボットに興味を示すようになった。ちょうど新しい工場を建設する話が持ち上がっており、性能の良い産業ロボットを導入しようかと検討していたんだとか。このチャンスを逃すわけにはいかない。そう思った俺は、ここぞとばかりにうちの産業ロボットや精密機械について売り込むことに。そうしてようやく掴んだ案件だ。
「その大企業の案件なんだがな。中卒のお前にはふさわしくない案件だと思うんだよ。社長もかなりこの商談に期待しているそうじゃないか。だったらなおさら、部長である俺こそがふさわしい役割が付くってもんだろう」
はあ、と内心やっぱりかとうんざりする。正直言うと、声をかけてきた時から嫌な予感はしていたのだ。実を言うと今回の商談はうちの会社全体が盛り上がるほど大きな商談である。柿本の言った通り、社長もかなり期待しているのだ。浮き足だった社員たちが色々噂をするのも無理はない。ついさっきも今年入った新入社員たちが俺の商談の噂をしていた。「3億。いや、5億クラスの商談なんじゃないか」と新入社員たちが盛り上がっているのを、柿本が聞き耳を立てていた様子も俺は見ていたのだ。
「おいおい、まさか本当にお前がこのまま担当になれるとでも? 中卒の低能が運良く商談のチャンスを掴めただけだろう。なあ、出来る人間には役割分担というものがあると思っているんだよ。中卒のお前が掴んだ商談を、大卒の俺が綺麗にまとめる。こっちの方がしっくり来ると思わないか?」
「ちょっと何を言っているのか分かりませんね」
あまりのむちゃくちゃぶりに俺は思わずそう口にしていた。いつもなら適当に流して終わるのだが、ここまで露骨に馬鹿にされてはさすがに黙っていられない。柿本は俺が言い返してくると思わなかったのか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「要するに俺の努力の成果の美味しいところだけ奪うという話じゃないか。どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むのだろう」
俺の切り返しに、柿本部長のあの顔と周りにいた社員が吹き出すのが聞こえた。途端に柿本の顔が真っ赤になる。
「ふん。なんせお前は中卒だ。チャンスを手放したくないのは分かる。が」
などと柿本が言いかけたところで俺は口を挟んだ。
「確かに私は中卒です。ですが長年真面目に仕事と向き合い成果を出してきました。だからこそ課長という立場にまでなれたと思っております。誰かの力でもなく、自分の力で」
俺の最後の発言で柿本の顔がさらに真っ赤に染まる。俺の皮肉が効いたらしい。実は柿本の親はこの会社の役員らしく、入社しただけでなく親の威光を笠に着て今の役職にまでなったという噂だ。この様子を見ると図星だったらしい。課長と部長という立場的にあまり柿本に強く言うべきではないだろうが、ここまで馬鹿にされて黙っていることはできなかった。
「何マジになってんだよ。まあいい。そのうち後悔するだろうさ。泣いて縋り付くはめになっても俺は知らんからな」
柿本はそう言い捨ててオフィスを出ていく。途端に部下たちが俺に向かって口を開いた。
「柿本部長もしつこいですよね。多分佐井課長の方が人望もあるし仕事もできるから絡むんですよ」
「そうそう。部長の言うことなんて気にしないでくださいね」
部下たちの言葉に俺は少し心が楽になる。俺自身中卒であることに後悔はないが、それでも全く気にしないというわけではない。柿本の発言に正当性など感じないが、それでも「中卒」を持ち出されると気持ちがチクチクと痛むのだ。
「みんなありがとう」
俺は部下たちに微笑みながら考える。おそらく柿本の嫌がらせ行為はこれからも続くだろう。ましてや俺は大きな商談を控えている。今までは親が役員ということもあり、諦め半分で受け流すことに注力してきたが、そろそろ本格的に行動するしかないのかもしれない。俺は密かに決意を固めるのだった。
柿本とのやり取りからさらに1週間後、俺は例の大企業との商談のために残業をしていた。明日は土曜日ということもあり、みんな早めに仕事を切り上げ、残っているのは俺しかいない。商談の準備は大詰めを迎えている段階だ。
「うん。これで配布用の資料は完璧だな。契約書の文面も…うん、問題ない。あ、ブツブツと独り言をしつつ俺は作業を進めていく。商談当日まであと数日まで迫っている。ここで気を抜くわけにはいかない。
俺が印刷した用紙を1枚1枚チェックしていると、
「まだ残っていたのか」
と声をかけられた。声の主が誰か察して、俺はびくりと体を強張らせる。恐る恐る振り返ると柿本が立っていた。いつも真っ先に帰るくせに、どうしてこういう時に限っているんだろうか。どうせ忘れ物でも取りに来たのだろう。運が悪いと俺は内心ため息をついた。
「もしかして例の大企業との商談に使う書類か」
柿本が俺の手元の書類を指さしている。
「ええ、そうですが」
俺は言いながらそういえばと思った。商談の用意が完成に近づくにつれ、そろそろ柿本にチェックを頼まないといけないと思っていたのだ。中には部長である柿本の判が必要な箇所もある。柿本に対して嫌な感情があるためつい後回しにしていたが、そろそろ本格的にそうも言ってはいられない。そこで俺は勇気を出して柿本にこう切り出した。
「あの、柿本部長、月曜日で大丈夫ですので、一度商談の資料や契約書に目を通していただけますか?」
俺の言葉に柿本ははーっと目を細める。
「中卒の無能というだけでも目障りなのに、今度は俺の貴重な時間を潰そうって」
「私への個人の感情はともかく、商談に必要なことですのでどうかよろしくお願いいたします」
俺は努めて丁寧に言いながら頭を下げた。俺としても柿本個人は大嫌いだが、それはそれというやつだ。
「ふん」
柿本は鼻を鳴らしつつ、俺の手元から契約書と一緒になった書類の束を取り去る。もしかして今見てくれるのだろうか。丁寧に頼んだ甲斐があった。この時はそう思った。だが、すぐに後悔する。柿本が書類の束を持って歩き始めたのだ。柿本がどこに向かっているのかを悟った瞬間、俺は声を張り上げていた。
「ちょっと、一体何を?」
「中卒無能に使う時間は1秒もないということだ」
俺が手を伸ばした時にはもう遅い。何を思ったのか、柿本は俺の準備した契約書をシュレッダーにかけたのだ。音を立てて細切れになっていく様子を、俺は呆然と眺めるしかできない。ただ難癖をつけられるだけだと思った自分が甘かった。柿本はきっと最初からここまでの仕打ちをするつもりだったに違いない。
呆然とする俺の顔を見て、追い打ちをかけるように柿本は言い放つ。
「データの方も削除しろ。お前みたいな中卒が作った契約書なんぞ、先方にはとてもじゃないがお見せできん」
俺が大企業の商談担当になったのが、そんなにも妬ましいのか。どこまで俺の努力を踏みにじれば気が済むんだ。俺は拳を握りしめる。柿本の表情は得意げで、俺に対する歪んだ笑顔は見ていて不愉快だった。この時、自分の中で何かがプツンと切れたような気がする。
「じゃあ削除します」
俺は力なくそう答え、パソコンを操作する。柿本は満足そうに頷いた。
「もっと早く素直になっていれば、俺だってこんな真似しなくて済んだんだぞ。今後は部長である俺に盾突くような真似はしないことだ。まあ、安心しろよ。どんな内容かは知らないが、俺がお前の代わりにきっちり契約をまとめてきてやるからさ」
項垂れる俺に対し、柿本は馴れ馴れしく肩を叩いてくる。「どんな内容かは知らない」。それが部長のセリフかよ。俺が思わずそう口に出そうとしたその時だった。
「佐井課長はまだ残っているかな?」
オフィスに漂う険悪な空気を払うような明るい調子の声が聞こえてくる。視線を向けると社長が立っていた。
「社長」
突然の社長の登場に、さすがの柿本も驚いたらしい。慌てて姿勢を正し、社長に向かって愛想を振りまいていた。社長は状況が掴めず首をかしげている。
「おや、柿本君も一緒だったのかね。ああ、佐井君の準備を手伝ってあげていたのかな。さすが部長だね」
と勝手に解釈していた。
「そ、そうなんですよ。なんせ佐井君は中卒ですから、高学歴の私がサポートしなくてはと思いまして」
柿本の言い分に社長は苦笑する。
「中卒は関係ないだろう。それは上司の君が1番よく分かっているんじゃないのかな。佐井君が誠実で優秀だからこそ、先方は君を商談の担当に指名してきたんだから」
柿本の発言に対し社長が切り返す。思ってもみなかった言葉に、柿本はえっと一瞬固まった。その間俺は一言も発さなかった。ただ柿本が社長に調子のいい発言をするのを睨むだけだ。
「ところで」
社長がこほんと咳払いして本題に入る。
「君が準備している37億の特許の契約書はどこだ? できたら商談用の資料も見せてくれ。私も社長として一度目を通しておきたいんだ」
なるほどと俺は納得した。いきなりやってくるから何事かと思ったが、社長は今回の商談にかなり期待していた。だからこそ俺がどんな内容で商談に望むのかを直接確認したかったに違いない。柿本は「37億」と繰り返し、はっとした顔で俺を見てくる。部長として恥ずかしいことだが、ここで初めて俺の商談内容について知ったのだろう。詳しく言うと、うちの産業ロボットには自社製の特許製品が部品として使用されているのだ。こうして先方の希望台数諸々を含め、37億の契約となる。
「ん、どうかしたのかな?」
社長の問いに柿本が慌て始める。
「いや、大丈夫です。ほら、佐井君、早くデータを出力して」
俺はちらっとした顔で柿本に告げた。
「何を言ってるんですか? 契約書や資料をシュレッダーにかけたのは柿本部長でしょ? それにデータごと削除しろと命令したのをお忘れですか? 私はすでに削除してしまいましたが」
俺の発言で社長は絶句する。俺と柿本の顔を交互に見て、
「どういうことか説明してもらえるかい」
とかろうじて柿本に尋ねた。
「おいおい、佐井君、こんな時に冗談は?」
「冗談なんかじゃありませんよ。なんなら証拠をお確かめください。うちの会社は夜間、防犯カメラが稼働していますよね。私の作業中に柿本部長がやってきて、書類をシュレッダーにかける一部始終が録画されているはずです」
柿本は失念していたようだが、ここ数年の間にうちの会社は防犯上の問題で各所に防犯カメラを導入したのだ。と言ってもメインで稼働しているのは俺が言った夜間後の時間帯と休日の人気がない時のみだが、俺が堂々と言い切ったことで社長としては俺を信じてくれたようだ。
「なるほど。録画はもちろん確認するとして」
言いながら社長は柿本に視線を向ける。
「どういうことかきちんと説明してもらおうかね。柿本部長」
この時の柿本の表情を俺は忘れないだろう。顔面蒼白になり、脂汗を流し、顔が引きつっていた。おそらく言い訳をしようとしていたのだろうが、表情筋が言うことを聞かなかったのだろう。
「も、申し訳ありませんでした。佐井君に指導していたらつい熱量が上がってしまい、上司としてあるまじき行動を」
なるほど。そういう手なのか。言い訳としてお粗末すぎて、俺は思わず笑ってしまった。防犯カメラは映像だけでなく音声も拾っている。不明瞭な部分はあるかもしれないが、実際に確認すれば指導ではなく暴言を吐いているとすぐに分かるだろう。
社長も呆れて首を振った。
「何を意味のわからないことを。柿本君は日頃から佐井君や他の部下にパワハラ行為をしていたようだね。最近、匿名で私に直訴があったんだよ。証拠の録音や記録も提出されている。人事部と連携して動こうとしていた矢先にこれだ。信頼できる役員の身内だからと思っていたが、これは由々しき問題だ。相応の処罰を覚悟するんだね」
「こんな中卒の発言を信じるんですか?」
柿本の訴えに社長は首を横に振る。
「中卒が何だ? 君のような低劣な真似をするものより、君の方がよっぽど立派だろ」
そんな社長にはっきり告げられて、柿本は目を見開き絶望する。ちなみに社長に匿名で直訴したのは俺のことだ。柿本の身内が役員ということで人事に訴えても無駄だと思った。そこで俺は思い切って社長に直訴したのだ。特に俺は現在社長も注目する商談の担当者ということもあり、社長はすんなり話に応じてくれた。そこで社長は俺に謝罪し、しっかりと行動を取ってくれると約束してくれたのだ。まあ、柿本が俺の作った契約書などの諸々をシュレッダーにかけた直後に現れるとは思わなかったが、正直社長が来てくれて助かった。だけど、と俺は柿本を叱り続ける社長を見て思う。そもそも役員の身内だということで柿本を部長としたのは社長である。しかも俺が直訴するまで柿本を放置していたのもまた社長なのだ。俺は情けなく謝罪し続ける柿本と社長の姿を見て、ある決意を固めた。
その後、俺は予定通り大企業との商談をまとめた。柿本に命じられデータも削除したはずだったが、実はデータを削除するふりをして一時的にパソコンのゴミ箱の機能に移動させただけだったのだ。社長登場後すぐにゴミ箱から戻したので、こっちの勝ちを得たというわけだ。その後すぐ、俺は退職届を提出し、会社を退職した。社長は驚いていたが、俺が思っていたことを話すと納得したらしく、謝罪もしてくれた。俺としては最後の商談は、中卒で雇ってくれたことへの最後の恩返しのつもりだったのだ。社長は今までのことと今回の功績を称え、かなりの額の退職金を約束してくれた。信頼できる転職先も紹介してくれたのは、きっと社長なりの罪滅ぼしのつもりだろう。今では転職先で部長補佐として働いている。一方柿本はと言うと、懲戒解雇となったそうだ。柿本の身内の役員も退任となったらしい。柿本は最後まで納得がいかないと喚いていたそうだが、こうなるのが遅すぎたくらいである。個人の感情と仕事を切り離して考えることができたら、柿本はここまで転落しなかったはずだ。俺も一歩間違えたら同じようになってしまうのかもしれない。そう考えたらぞっとする。柿本を反面教師に、これからも仕事と向き合っていこう。
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「俺がお前の代わりにきっちり契約をまとめてきてやるからさ」
俺が正談に向けて作った契約書をシュレッダーにかけた後、部長はにんまりと笑ってそう言った。中卒の俺を「中卒課長」と呼び、これまで散々嫌がらせをしてきた柿本部長。今度は俺が掴んだ37億の商談を横取りするつもりらしい。もう我慢の限界だった。だが、その場に現れたのは、ほかでもない社長だった。
「佐井君が準備している37億の特許の契約書はどうした?」
そう聞かれた瞬間、部長の顔色が変わった。俺は静かに告げた。
「契約書もデータも、柿本部長が全て処分しました」
そして部長は、これまで俺たちに行ってきた仕打ちを思い知ることになる。俺の最後の一言は、この傲慢な上司の人生を根底から覆すものだった。



