「お兄ちゃん、ちょっと待って!一体どこに連れて行くつもり?」
ひなこが焦った声を上げる。いつもの温厚な兄の姿はそこになく、腕を掴む手には妙な力がこもっていた。俺は構わず彼女を店の外へ引きずり出した。
「お前、今日のキャンセル、取り立てずに終わるつもりか?」
「だって相手がどこに住んでるのか、今どこにいるのか、何も分かんないんだよ!どうやって取り立てるの?」
言い合っていると、一台の黒塗りのセダンが目の前に停まった。クロスーツ姿の男が二人降りてきて、俺とひなこに向かって深く頭を下げる。
「お迎えに上がりました。そちらのお嬢さんと一緒に、早く乗ってください」
俺が「ご苦労だったな」と頷くと、わけが分からないという顔のひなこを後部座席に押し込み、自分も隣に乗り込んだ。ドアが閉まるのを合図に、車は静かに発進した。
事の発端は、数週間前のことだ。
俺は朝倉清。もう三十代も半ばに差し掛かろうというのに、結婚の「け」の字も出てこない、ちょっと寂しい男だ。普段は妹のひなこより遅く出勤し、ひなこより早く帰宅する。一応「俺だってちゃんと働いてるんだ」と言ってはいるが、よくニート呼ばわりされていた。
そして、俺の自慢の妹であるひなこは、大学時代に株で失敗したのをいいことに、せっせと貯金をしながら株式投資に熱中した。株で設けた金額はかなり大きく、都市部から少し離れた場所に、夢だった創作レストランを無借金で立ち上げられるほどだった。店の名前は「ひや」。和風創作フレンチの店だ。
ひなこの労働時間が長いことを踏まえ、俺は積極的に家事をこなしていた。トイレや風呂の掃除はもちろん、洗濯や炊事もだ。
そんなある日、ひなこが「ただいま」といつもより元気に帰宅した。時刻は午前一時。店の閉店時間は午後十時半で、それからオーナーとして帳簿をつけたり、売上金を数えたり、従業員の翌日のシフトを確認したりという事務仕事をこなす。オーナーともなると、裏方の作業に時間を取られるものらしい。
「お帰り、ひなこ。随分嬉しそうだな」
「うん。今日はね、たくさんの人に新メニューを褒めてもらえたの」
「すごいじゃないか。良かったな。俺も自分のことのように嬉しい」
ひなこの店には、一流レストランで修行を積んだシェフが三人いると聞いている。新メニューを考案するのもその三人らしい。と言っても、彼らの独断で決まるわけではなく、何度も試作を重ね、店の従業員が満場一致で褒めた作品だけを新メニューとして採用するのだそうだ。
そんなある日のこと。俺はひなこに誘われ、「ひや」に行くことになった。とは言っても、一人では入りにくい。今日は頼りになる助っ人を呼んでいて、今、俺の隣に立っている。
「ここが妹さんのレストランですか? 結構大きいですね」
俺が呼んだ日高という男は、いわゆる俺の右腕だ。頭の回転が驚くほど速くて、頼りになる。
「分かってるな。くれぐれも俺の立ち位置として振る舞ってくれ」
「承知してます。俺は朝倉さんの大学時代の後輩、ということでいいですね」
俺と日高が暖簾をくぐると、店内で何やら揉めているのが分かった。俺は日高と共に、ドアの外から内側の様子を覗いてみることにした。
「だから、今週末に八十五人分の和風創作フレンチをフルコースでお願いしたいの。何度言えば分かるわけ?」
声の主はこちらに背を向けていて表情は見えないが、揉め事の原因は彼女だと見て間違いないだろう。
「お客様、当店でご案内できるのは七十名までとなっております。八十五名となりますと、お席をご用意できかねます」
ひなこの困りきった声が、ドア越しに聞こえてくる。
「無理でもなんとかしなさいよ。こっちは金払って、ここの料理を食べてあげてるのよ」
なんと高飛車な女だろう。俺は思わず顔をしかめた。
「高橋様、立食形式のパーティーとお決めになるのはいかがですか? それでしたらなんとか収まりきると思いますし、当店からも特別料金でご用意させていただきますが」
「はあ? なんて融通の利かない店なの? こっちは和風創作フレンチのフルコースって言ってんのよ。あんた、ちゃんと話聞いてた?」
言わせておけば言いたい放題ではないか。俺が怒りに任せてドアに手をかけたところで、日高に肩をきつく掴まれた。
「気持ちは分かりますが、ここは冷静に」
「お前にあの女を止める術でもあるのか?」
日高には何の策もないのに、俺は声を尖らせてしまった。
「へえ、今のところは何も。ですが、我々はこの騒動が終わってから入店するのがいいかと思います」
「まあ、店内が険悪な雰囲気なのを考えると、むやみに店に入るより、ここで成り行きを見守っていた方が良さそうだな」
俺はそう言って頷いた。
「お客様、大変申し訳ございません。立食がお気に召さないようですと、他のお店を当たっていただくしか…」
「じゃあ立食でいいわ。一人いくらの計算になるの? 当然、割引してくれるんでしょうね」
ちなみに、この女性客はかなり大声で話しているので、店内で食事を楽しむ客の注目を一心に集めていた。
「当店のフルコースですとお一人様四万円ですが、こちらの事情で立食にしていただきますので、三万五千円でご提供させていただきます」
「随分としょぼい値引きだけど、まあいいわ。それで、結局八十五人分でいくらなの?」
ひなこはレジから電卓を取り出すと、素早く数字を叩いて見せた。
「二百九十七万五千円になりますね」
「分かったわ。当日払えばいいのね」
ひなこはそれからキャンセル料についても丁寧に説明した。特に、当日キャンセルすると二百九十七万五千円全額を支払ってもらう旨について、何度も説明している。
「もううるさい。当日キャンセルが全額負担だってことは理解したわよ。その代わり、当日まずい料理を出したら承知しないからね。お金だって払わないわよ」
「お客様、ご安心ください。当日は当店のシェフを総動員して、全力でご案内させていただきますので」
一日の売上が三百万に届きそうな数字とは、すごいなと俺は純粋に思った。そして、店内で騒ぎ立てていた女が店から出てきた。体にぴったりフィットするグレーのスーツを着ており、顔の方はあまりの厚化粧で、素顔の想像がつかないほどだ。
俺は日高に目配せをして合図を送ると、日高は「承知した」とばかりに頷き、立ち上がった。俺はそれを見送ると、「ひや」に入ることなく家に着いた。
それにしても、あの女は一体何だったのだろう。ひなこを困らせて楽しんでいるように思えたのは、俺だけだろうか。
そして、あの厚化粧の女の予約日を迎えた。俺はどうしても嫌な予感がして仕方がなく、店に出向いて様子を見ようと支度を始めた。その時、俺のスマホが着信音を鳴らした。
「ターゲットに動きがありました。レストランへ向かうようです」
日高から淡々と告げられ、俺は腕時計に目を落とした。時刻は午前九時三十分に差しかかったところだ。日高があの女を尾行して突き止めた住まいからなら、予約時間に間に合う計算だ。
「やはり俺の思い過ごしだったのか」
そう思って支度の手を止めていると、再び日高から電話が入った。
「女が電車に乗りますが、店とは逆方向への電車です」
電話の向こうの日高が、珍しく熱くなっている。
「お前は引き続き女を尾行しろ。そして、車を妹の店へ回せ」
俺は指示を出すと、すぐに髪をセットし始めた。普段はボサボサの髪だが、いつも仕事に行く前はきっちり整えている。スーツも割と地味なものを選んでみた。俺は最後にスマホを胸ポケットへしまうと、家を出てひなこの店へと足早に向かうのだった。
「え、高橋様、キャンセルでございますか?」
その頃店では、ひなこが電話越しに愕然とした表情を浮かべていた。
「そうよ。八十五名全員キャンセル」
「高橋様、前にもお伝えしましたが、当日キャンセルの場合は約三百万円の代金を全額お支払いいただきたいのですが」
「食べてもいないのに金なんて払うバカがいると思ってるわけ?」
「そういうお約束でご予約をお受けしております」
俺が店の外に到着した時、ひなこはあの厚化粧の女と電話をしていた。俺はとっさに、店先の植木の影に身を隠した。
「あ、そう。じゃあ、取り立てに来れば?」
そこでひなこは固まった。取り立てたくても、手元にあるのは相手の携帯の番号だけで、住所など到底分からないからだ。
「まあ、来たくても来られないと思うけどね。じゃあね」
そこで電話が切れると、ひなこはその場にへたり込んだ。
「どうしよう。キャンセルになった挙げ句、キャンセル料が取れない」
スタッフも、厨房から出てきたシェフたちも、何も言葉がなく、ただひなこを見て立ち尽くすばかりだ。
そんな空気の中、俺は「ひや」の店内に入り込み、ひなこの腕を掴んだ。スタッフたちが俺の乱入に驚きの声を上げるが、今は無視することにする。いつもと全く違う兄の姿に驚くひなこだが、俺は構わず腕を掴んで外へと引きずり出す。
「お兄ちゃん、ちょっと待って! 一体どこに連れて行くつもり?」
「お前、今日受けたキャンセル、取り立てずに終わるつもりか?」
「だって、相手がどこに住んでいるのか、今どこにいるのか、何も分からないんだよ。どうやって取り立てるの?」
言い合っていると、一台の黒塗りのセダンが目の前に止まり、クロスーツ姿の二人の男が降りてきた。そして俺とひなこに向かって深く頭を下げる。
「お迎えに上がりました。そちらのお嬢さんと一緒に、早く乗ってください」
俺は「ご苦労だったな」と彼らを労うと、わけが分からないという表情のひなこを後部座席に押し込み、自分も隣に乗り込んでドアを閉めた。それが合図だったかのように、車が発進した。
ひなこは焦って、何がどうなっているのかを俺に問い詰めてくるが、今の俺は正直とんでもなく機嫌がいい。ひなこに「黙ってろ」と言うと、彼女は黙り、ついでに車の運転手と助手席に座っていた二人の男も驚かせてしまった。
行きついた場所は、緑に囲まれたフレンチレストランで、ドアには「本日貸切」の札が下がっている。俺が「ふざけた真似をする」ものだと思いながらそのレストランを睨みつけていると、日高が足早にやってきた。
「若頭。高橋なほは、ここで今日、結婚式を挙げる予定です」
「そうか。それはめでたい日だな。俺たちも全員で祝わないと罰が当たるってもんだ」
そこでひなこが恐る恐る日高へと問いかける。
「初めまして。私、朝倉ひなこと言います。兄がいつもお世話になっております。それで、あの、若頭って何ですか?」
「それは…自分らの力では何とも。全ては若頭の決めることですので、どうかそのように」
ひなこは、分かっているのかいないのか、困ったような表情を浮かべた。俺たちは、この場に全くそぐわない空気を醸し出しており、客の視線を集めつつあった。
「ひなこ、行くぞ。日高もついてこい」
「お兄ちゃん、何をする気なの?」
「決まってんだろ。キャンセル料を取るんだ」
俺は店内に入り込むと、受付を全く無視して、店内の一番奥で純白のワンピースをまとった高橋なほを視界に捉えた。
「げえ、あんた、なんでこんなところにいるのよ。そうまでしてキャンセル料が欲しいわけ?」
二人がまさに言い合いをしようとしたその時、なほの背後から、光沢のある黒スーツに身を包んだ男性が姿を表した。
「初めまして。君島と申します。私の妻に何かご用ですか?」
君島と名乗った男は、なほの肩に手を置くと、舐めるようにじっと俺を見つめてきた。
「こちらの朝倉ひなこの『ひや』という店のキャンセル料二百九十七万五千円。と、慰謝料三百万円の合計五百九十七万五千円。耳を揃えてきっちり返してもらいに来た」
「なほ、君はこの方の店を予約していたのか?」
「してないわよ。お金欲しさに嫌がらせに来ただけよ。さっさと警察に通報して追い出しましょうよ」
そこで日高が高性能のボイスレコーダーを取り出し、再生した。駅のホームで録音していたらしく、電車到着のアナウンスまで録音されているが、なほの声も電話の向こうのひなこの声もしっかり録音されていた。
「何よこれ。知らないわ。こんなの偽装よ。なんてことをするの?」
「でも、あなたは確かに今日、私のお店に予約を入れました。どうしてそんなことをしたんですか? こんなに素敵なお店で式を挙げる予定があったなら、私の店に迷惑をかけなくても良かったんじゃないですか?」
君島は、なほに泣きつかれて、心底困っているように見えた。
「ほら、何があったのか言ってごらん。怒らないから、本当のことを言うんだ」
すると、なほは甲高い声で自分を正当化しようとした。
「あの女が妬ましいのよ。あんなに若くて大きいお店のオーナーなんて。私なんて向かいの雑居ビルのお茶汲み派遣なのに、何様って感じだったの。気に食わなかったのよ」
言い終えたかと思えば、今度はわっと泣きじくる。一体何なんだ、この女は。そんななほに、君島は優しく問いかける。どうしてこんなことをしたのか、どうして嫌がらせなんてしたのか、と。
一方のなほは、君島なら絶対に自分の味方をしてくれると思っていたのに、どうしてそんなことを聞くのかと、新たな涙をこぼすばかりだ。すると君島は、目をそらして視線を正し、こちらに向けて深く頭を下げてきた。
「事情は分かりました。キャンセル料と慰謝料、きっちりお支払いしますので、少しお待ちいただけますか?」
なほは信じられないといった面持ちで、どこかへ行こうとする君島の後を追いかける。君島はどうやら受付でキャンセル料の一部を賄うつもりらしく、入り口で受付をしている女性二人から祝儀の入った箱を奪うと、入り口に背を向けて金を取り出し始めた。
「あなた、どうして。どうして私の味方をしてくれないの?」
「なほ、今は自分のしたことをちゃんと反省するべきだよ」
正直なところ、俺にもひなこにも、そして日高にも、君島が何を考えているのかさっぱり分からなかった。どちらかといえば、なほの方を持って出てくるのではと思っていたので、この展開に少々戸惑ってもいる。
しばらく待ったところで、君島がなほを連れて戻ってきた。そして、ひなこに向かって百万円を差し出してくる。
「キャンセル料の半分にもなりませんが、とりあえずこれを。残りは平日にお金を下ろして、必ずお店にお持ちしますので」
「今日のところはこれで勘弁してください。若頭」
俺はそう呼ばれて、初めて君島の顔をじっくり見つめた。そういえば先日、組長から新しい組員が入ったと知らせを受けた。決して若くはないが、なかなか骨のあるやつだと褒めていた。その新入りの組員の苗字が確か…。俺はようやく思い出した。
「若頭、お知り合いで?」
「ああ、うちの新入りだ。なら、この件で逃げることはない」
「そうだな。はい、もちろんです」
そこで今度こそ、なほが顔を赤くして叫び出した。
「何なのよ、あなたは! 最近会社を辞めて新しい人生に踏み出したって言ってたのって、こいつらの仲間になったってことなの?」
「すまないな、なほ。今夜話すつもりだった。君の反応を見て、入籍するかどうか決めようと思っていた」
「あなた、入籍したって言ってたじゃない。あれ、嘘だったの?」
なほが愕然として問い詰めると、君島は静かに首を横に振った。同時に、なほが悲鳴を上げる声がレストランに響き渡った。
それから数日後、君島が金を持ってひなこの店を訪れた。ちょうど俺がカウンターでコーヒーをご馳走になっていた時のことだ。君島は俺を見るなり、深く一礼してきた。
「君さん、こんにちは。先日の結婚式、あれからどうなったんですか?」
「へえ、なほが泣き喚いて大変でした。それから、式は取りやめ、入籍もしていません」
俺はその話を、ひなこより前に君島本人から聞いて知っていた。ただ君島が、ひなこには自分から事実を話したいと言っていたので、俺からは何も話さなかった。
「それって、兄がお邪魔してしまったからですよね。なんかすみません」
「いえ、実はこのお金、私がなほに貸しているんです。だから彼女が働いて返している間は、他の男性と付き合う余裕なんてないでしょうね」
俺は二人の話を聞きながら、向かいにある雑居ビルをぼんやりと見つめた。結婚に失敗したあの日から、なほの生活は変わった。これまでは午前九時から午後五時まで、事務をやったりコピーやお茶汲みをやったりしているだけで食べていけたが、君島との結婚が破談となり、挙げ句に六百万近い金を借りてしまったため、昼間の稼ぎだけでは食べていけなくなったのである。
「それもこれも、みんなあの女のせいよ。見てなさい。いつか私があの女を超えて見返してやるんだから」
昼間の仕事を終え、夜の仕事へと向かう間も、なほのストレスはたまるばかりだ。
「ああ、むかつく。どうして私が夜の仕事なんてしないといけないのかしら」
ぶつぶつと文句を言いながら歩く、なほの背中はすっかり丸まっていた。
俺はといえば、ひなこのために一肌脱いだあの日から、山岡組の若頭として君臨していることが露見し、兄妹仲が危うくなった。だが俺が説明に説明を重ねた結果、俺の今の仕事について納得してもらえた。そして、俺の仕事を認める代わりに、と言って一つだけ条件を突きつけてきた。
「お兄ちゃんは不細工じゃないんだから、家にいる時も身だしなみをきちんとしなさい。これが私からの条件よ」
と、ぴしゃりと言われてしまった。家にいる時くらい、だらしなくさせてくれようと思ったが、俺の仕事を認めるというのだから、まあそのくらいの条件は飲んでいいだろう。
顔を洗って部屋に戻ると、俺のスマホが鳴っており、何事かと急いで電話を取った。
「ひな子様のレストランで騒動が…」
「すぐに行く」
慌ただしく過ぎる日々の中で、俺は山岡組の若頭として、ひなこに内緒で今日も店を見守っていこうと心に誓うのだった。



