「出て行け。お前みたいな片親の子が、俺の土地にしがみついても無駄だ」
これは1年前、令和7年4月の朝のことだ。都内の長屋、雨上がりの午前10時過ぎ。資源回収の前だった。
高校2年生の藤田セナは、足元に缶とペットボトル用の袋を並べ、金属類だけを資源回収用の袋へ移していた。手袋の先は雨で濡れ、分別の合間にラベル付きの小箱へ何かを入れていた。部屋で温度を調べるための材料だ。
長屋の主、黒田大輔がセナに悪態を浴びせた。廊下の奥の住人も小声でつぶやいた。
「本当にうるさい子ね。早く出て行ってくれないかしら」
セナは金属用の袋の口を急いで縛り、持ち手を強く握って立ち上がった。視線だけが廊下の奥へ逃げ、手袋のままの指が震えた。また近所の目が痛い。
「おい、そこのガキ。聞こえたんだろ。みんな思ってることは同じだ。お前は厄介者だよ」
セナは唇を結び、答えなかった。
「なんだ、黙るのか。まあ、言い返せないよな」
黒田は封筒をセナの頬に当て、乱暴に叩きつけた。セナは落ちた封筒を拾い、汚れを指で払った。
「ってことで話は終わり。来月以降の更新はしない。20日後に出て行け」
セナは前を向き、黒田の顔をまともに見ずに視線を封筒の角へ落とした。声がかすれた。
「いや、これには訳があって… 」
黒田は鼻で笑い、言い訳を払った。
「でも、黒田さんがそう言うなら仕方ありません。出ます」
セナの言葉は丁寧だったが、細い肩が一瞬だけ震えた。涙はなかったが、唇の端だけが苦く曲がっていた。
「当然だろ。文句がある奴、誰もいねえよな」
誰も返事をしなかった。
夜勤明けの母、藤田あやが駆け込んできた。介護の制服のまま大声を出した。
「待ってください!」
黒田は振り向かず、手を上げて遮った。
「契約は俺が握ってる。余計な口出しはするな。これ以上騒ぐなら、お前の保証人記録にも響かせるぞ」
あやはセナを見た。セナは小さく首を振り、手のひらを下に向けて母を止める合図をした。
同じ日、朝の一件から数時間も経たないうちに、長屋の廊下に白髪の男が現れた。高梨博士で、国内に名を知られた白石学武、65歳。手にはセナの研究まとめの写しがあった。
「調べたよ。君はここにいたんだね」
セナは作業用の手袋を外し、泥のついた靴のまま立ち上がった。
「助けてほしいんだ。君の頭脳を貸してほしい。国の打ち上げの安全も、世界のハガス削減も、君を待っている」
廊下の住人がざわめき、スマホを向ける手が一斉に増えた。
「あの人、ニュースに出てた博士だ」
誰も知らなかった。この騒動がどう転がるのかを。
セナがまだ小さい頃から、父は早く家を出ていき、役所の届けでは父の欄が空のままだった。母のあやは介護の夜勤と昼の仕事を重ね、家賃と学費を抱えて働いてきた。
「私が騒げば、母がもっと疲れる。母に言えないことも、まだある」
セナは家賃の明細を冷蔵庫に磁石で止め、増額の数字を指でなぞった。
「来月、少しだけ上がるって。大丈夫。私も手伝う」
セナは幼い頃から数字と図形が得意だったが、学校では目立たないようにした。中学で理数クラスに入り、放課後は図書館と大学の公開講座へ通った。口頭では質問を控え、配られた資料だけを写し取った。帰り道で空を見上げ、ニュースのロケットが頭から離れなかった。
「藤田さんは理解が早すぎます。教える側が追いついていません」
そんな言葉をかけられることもあった。
家に帰ると、小さな機械で温度を測り、数字をノートに並べた。このデータはロケットの機体を熱から守る塗装方法の特許につながるものだった。説明は難しいが、やることは金属に薄い膜をつけて、燃え広がりにくくすることだ。セナは同じ条件で何度も温度を測り、外れた日だけ理由を余白にメモした。
高校で申請の仕方を覚え、セナは自分の名前で特許を取った。代理で特許を出す事務所の担当も、書類の揃い方に驚いた。
「高校生にしては書類が整いすぎていますね」
大手の神聖工業は、国と組んで大型ロケットを作る側の会社だった。しかしテレビでは打ち上げ失敗のニュースが繰り返し流れた。報道は熱や材料を原因とし、会社は安全のテストを急いでいた。国の会議の席でセナの研究まとめを見せた特許担当部長の森川武尊は、セナの名前を知った。そして森川は長屋を訪れ、セナと町内会の前で条件を話した。森川はセナの年齢を聞いて一瞬目を見開き、すぐに姿勢を正した。
「ここでの記録は、綺麗さより正確さ、正直さを優先してください」
「はい。雨の日など、状況に合わせて書きます」
森川はノートの長屋のページに印をつけて見せた。
「数字が崩れた日こそ、理由を余白に残してください」
「分かってます。綺麗な部屋だけの実験では足りません。こういった場所での記録が必要です」
同行していた町内会長の町田哲也は合意書に署名し、コピーを黒田へ送った。しかし黒田は読まず、口だけで「勝手に書け」と吐き捨てた。森川は試験機の周りに立ち入り禁止の札を置き、夜の連絡先を町田に渡した。
黒田はセナの部屋を先に開けさせ、立て替えの話で入る金を早く受け取ろうとしていた。セナの部屋番号に赤丸を描き、業者の見積もりの紙と一緒に挟んだ。セナは自分の部屋のドアの紙を見て息を止めた。紙には退去の日付と立て替えの案内が並んでいた。
「セナ、それ本当? 今朝廊下で聞いたのと同じだよ」
「大丈夫。手は打ってるから」
セナは笑って首を振った。
翌朝、掲示板に工事の予定が小さく書かれ、住人が集まった。
「セナちゃんの部屋だけ先なのかよ」
黒田は業者と並び、セナの部屋番号を指で叩いた。
「こちらには合意書と会社の許可があります」
「うるせえ。ガキが口出しするな。そんなもん、俺の許可なしに通らねえよ」
セナはスマホを握り、森川の番号を開いた。業者がすぐ駆けつけ、セナに頭を下げて話した。
「すみません。この件は黒田さん側の判断も必要です」
夜、セナは蛍光灯の下でノートを広げ、消えない数字を並べ替えた。ここで記録が切れたら意味がない。母が帰ると、セナはノートを伏せ、味噌汁の湯気だけを見た。
翌朝、黒田は駐車場でセナの部屋の見取り図を業者に見せた。
「ここを先に開けさせろ」
住人がその姿を撮り、すぐにスマホを下に向けた。そんな中、黒田はセナの部屋の郵便受けに退去勧告の封筒を入れていた。後日、セナは封筒を開け、文面に目を通して静かにうつむいた。いい争いは母を巻き込む。
「中身、何だったの?」
「だ、大丈夫だよ。なんてことない書類」
黒田は秘書に電話し、セナの部屋だけ先に開けさせるよう指示した。
「あの部屋は金になる。文句は後で聞け。さっさと追い出せ」
翌日、1台のトラックが長屋の駐車場に止まり、荷台に新たな試験機が搬送されると、黒田は廊下で声を張り上げた。
「なんだその物騒なものは。もう出ていくんだろう」
業者は廊下にビニールシートを敷いた。セナは機械に近づき、唇を結び、森川が出した契約書のコピーを黒田へ差し出した。
「あの、何度も言いますが、町内会の合意と神聖工業さんの許可があります」
「話は終わりだ。ここは俺の土地だ」
セナは契約書の角を親指で押さえ、紙が破れないようにめくった。ここで泣いたら、あの人に負ける。
「黒田さん、セナちゃんはそんな悪いことしてないでしょ」
「黙ってろ」
廊下の住人は黒田の背中から目を外し、口をつぐむ者と顔を伏せる者に分かれた。
「セナちゃん、荷物運び、手伝うよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
再び白石学武が長屋を訪れ、廊下に住人が集まった。
「彼女を追い出せば、打ち上げの準備が止まる。国が困る」
「え、あの子が何かするの?」
「あの博士と本気で話し合ってる」
セナは膝の上で指を組み、爪が白くなるほど力が入った。言いたいことは山ほどある。でも今は事実だけ。白石の隣から森川がタブレットを差し出し、特許登録画面を見せた。
「彼女の特許がないと、ロケットの機体を熱から守るテストを終えられません」
群衆をかき分け、黒田がやってきた。
「はっ、こんなガキが特許? ロケットなんて出鱈目だろう」
「ガキかもしれませんが、知恵さえあれば関係ありません。ここに特許番号があります」
黒田は画面を見て、指が止まった。
「ま、マジか。このガキの名前が載ってる」
黒田は画面から顔を離し、番号を口の中で繰り返した。
「いや、偽造だ。そんなもん見せられても分かんねえよ。高校生が取れるわけないだろ」
「偽造なら審査は通りません。変更の履歴もここにあります」
黒田の喉が鳴った。
「お前らがグルになって、俺を嵌めてるんだろ。どうせこの長屋を乗っ取ろうとしてるんだろうが」
「嵌める必要はない。事実が動いているだけです」
白石学武が前に出た。
「申し遅れました。国家認定でロケット工学を担当しております、白石学武です」
黒田は強く歯を食いしばった。
「運の悪いゴミを見てた女が、国だと?」
廊下のどこかで短い笑いが漏れ、黒田はその方を睨んだ。
「黒田さん、見てください。無理に退去させるのは契約に反します。そして、この子を追い出すことの損害は計算できます」
ホームと呼ばれた人物は数字の表を置き、黒田の立て替えの前払いより大きい金額を示した。
「脅迫かよ」
「事実を並べただけです。ここで止めれば、日程は確実に遅れます」
「本当に国の話なのか?」
黒田は白石学武に指をさした。しかし、指先が小刻みに震えていた。
「国から依頼された人間が、市民を扇動してる。これが大事になれば、あんたら評価を落とす話だぞ」
「こちらとして対応は十分にできています。事実の説明をしたまでです。訴えれば、こちらも応じます」
黒田は指を引っ込め、ズボンの腿を強く掴んだ。
「結局、金目当てだろ。このガキに誑かされたんだろ」
「そんなことありません。私を信じてください」
セナの声は小さかったが、黒田は一瞬だけ言葉を失った。
白石学武は名刺の裏に役職と電話だけを書き、町田に渡した。黒田は森川の腕に手を伸ばしたが、ホームが一歩前に出た。
「いい争いはやめてください」
「お前らが先に手を出したんだろう。現状、問題はこの藤田さん宅の記録にあるのに、更新拒否をした黒田さんです」
森川は画面を切り替え、特許の出願日と公開日を並べた。
「さっきから画面ばかりだ」
「画面が証拠です。この子がここにいなければならない理由です」
元秘書は床を見て、封筒の束を胸に抱えた。
「黒田さん、そろそろ黙れ」
「お前も同罪だ」
「秘書の方も、書類を見せなかった経緯を説明してください」
「指示通り送りました。でも、黒田さんを止められず… 」
「競技の説明は、あなたにも責任が残ります」
元秘書は震える声で日付と宛先を読み上げ、汗を浮かべた。
「内容は後日まとめます。今日の発言は記録します」
「おい、勝手に売るな」
「事実を語るだけです。お願いします」
ホームは印刷した文面を机に並べ、黒田の言葉が並ぶところに印をつけた。
「この場で説明させていただきます。ここには、黒田さんとのメールのやり取りもあります」
ホームはスマホの画面を黒田に向け、送信者の名前と日付が並んだ。
「改ざんだ。そんな文面、覚えてない」
「保存された記録と一致しています。覚えているかどうかは問題ではありません」
黒田は唇を舐め、ポケットに手を入れて電話しようとした。
「今は、その電話も控えてください。後で説明します」
黒田の顔から血の気が引き、膝の上で拳を握りしめた。黒田は紙の端に手を伸ばしたが、ホームが指で押さえた。
「持ち帰りはできません。コピーは後で送ります」
「それは横暴だ。原本の管理だ。俺は主として当然のことを… 」
「当然じゃない。住人がいます」
森川は声を落とし、セナの肩越しに廊下を見た。
「また、彼女のこの記録は国家秘密の扱いにもなり得ます。無視できません」
「国家秘密? ガキのただのノートだろう」
「そのノートが安全の根拠になります」
「くそ。そもそも、お前んとこの親がちゃんとしてりゃ、こんな話し合いなんて…

」
「セナは私を心配してくれて」
セナは母のそばに寄り添い、そっと手を回した。
「その発言も、可能なら記録に残せますけど」
「記録、記録。うるせえな」
黒田は机の端を拳で叩き、ペンが床に落ちた。黒田は唾を飲み込み、そこで初めて契約書の束に目をやった。
「わけわかんねえよ。国に言え。国が許可するかどうかだ」
「国はすでに、ここでの記録を前提に動いています」
白石学武は研究まとめの写しを軽く掲げ、黒田はそれから目をそらした。
「セナさんを先に退去させた時点で、当社の損害が確定します」
「知らねえ。俺は知らねえ」
「知らないは通用しません。メールと録音があります」
スピーカーから短いノイズが流れ、黒田の声の一部が廊下に広がった。
「本当に黒田さんの声?」
廊下の奥で誰かが「やばい」と小声で言い、すぐ息を殺した。
「録音だと? 卑怯だ」
「脅しの声は、人の頭が勝手に覚えてるんですよ。町田会長、あなたもグルか?」
「違う。スマホに残してある。そして、住人みんなが聞いている」
黒田は唾を飲み込めず、口の端を手の甲で拭った。
「黒田さん、私の携帯にも残ってます」
「お前も裏切ったのか」
「仕事じゃなくて、1000を超えました」
「お前の誤送信だろ。認めろ」
「内容は指示通りです。私の送信記録もあります」
「秘書の方のメールも揃っています」
黒田は床に唾を吐き、慌てて靴の裏でこすった。
「住人と試験の両方を守るためです」
「守る? 俺の意見はどうなる?」
「義務とお金が関わっています。契約に従ってください」
その一言で、廊下の空気は一段と冷たくなった。
「つきましては、本日付けで工事の優先順位を一旦停止いたします。試験区域の境界は、この図面通りに戻してください」
業者は黒田から目をそらし、セナの部屋の前へ札を戻した。先ほどまで黒田は「先に開けさせろ」と強気の退去工作に見えた。封筒も録音も合意書の文面も、黒田の言い分を跳ね返した。
長屋の改築は、家賃と戸数を膨らませる黒田の事業の軸だった。看板より賃料表の数字が先に動いていたという。町内会の手続きを飛ばし、業者だけを抱え込んで進めていたという噂もある。勝手な前倒しは、住人を巻き込むだけだった。セナの部屋だけ赤丸で先に荷物を出す段取りも紙に残っていた。黒田は一歩前に出て、書類と背中を交互に睨んだ。
「停止の結果、費用負担の説明はここから先です」
ホームは淡々と告げ、黒田の肩越しに廊下を見た。
「証拠と契約が先です。黒田さんも理解しているはずです」
黒田の喉が乾き、言葉は舌先で一度だけ止まった。
「待てよ。俺の金はどうなる? 前払いした立て替え費用と、業者の着手金だ」
「違約金と損害の試算はここにあります」
表には9桁の見込みが並び、黒田の喉が鳴った。
「ふざけんな。こんな額、簡単に出せるか」
「分割ではなく、履行と保全が先です。着手金の返還請求も別途あります」
町内会は合意書の写しを前後に配った。
「黒田さん、説明、ちゃんとしてよ」
「説明不足だったのは認めるよ。でもな、土地のことは俺が握ってて当然だと思っただけだ」
スマホの画面が増え、廊下の小声が波のように広がった。その夜から映像は切り貼りされ、数日で長屋の動画が広まった。再生は一晩で30万を超え、3日で200万、1週間で800万に達した。コメントには「脅迫」「更新拒否」が並んだ。その頃セナは母の帰りを玄関で待ち、小さく頷いた。余計な口出しはしなかった。記録だけ返した。それが一番だから。母子は食卓に着き、汁の湯気で画面を曇らせた。
一方、森川の手元には取引先からの問い合わせが積み上がった。
「取引先からの紹介が一気に増えています」
神聖工業は当初プライム上場だったが、株は一時下落した。取締役は声明で安全テストの遅延リスクを明記した。
「主要3社から契約解除の申し入れが来ました」
「俺が悪いって決めつけるな」
「決めつけではなく、証拠の整理です」
ホームは別紙を置き、日付と署名欄を示した。
「ここに答えがないと、保全の手続きに入ります」
黒田の名刺入れから古い名刺が床に散った。
「着手金の返還に加え、遅延損害の内訳はここです。工事側のキャンセル料と試験再採配費が積み上がります」
「俺の財布がそんなに深いわけねえだろう」
「深さは問題ではありません。契約が問題です。明日、公開説明をします。黒田さんも同席を。逃げたら、その事実も残ります」
「黒田さん、弁護士から連絡が… 」
「黙れ。まだ終わってねえ」
黒田は名刺を踏みつけ、廊下を走って駐車場へ向かった。黒田は融資担当に電話し、声を低くした。
「立て替えの前払い。もう少し待ってくれ」
「条件見直しの連絡が上がっています」
「条件? 俺はちゃんと払ってきただろう」
「担保評価の再調査です。書類をお願いします」
黒田は拳を握りしめ、爪が白くなった。
「期限は10日以内です。遅延金も説明します」
「10日? 冗談だろ」
黒田は切符の束のような書類をポケットにねじ込んだ。
「機械のログも揃ってます」
「ありがとう。君の正直さが現場を守る」
「セナ、無理だけはしないで」
「大丈夫。数字は嘘をつかないから」
セナはノートの余白に、雨の理由を1行だけ書いた。
夜、黒田は直談判するため、業者事務所の前で時間を重ね、扉に背中を預けていた。シャッターは下り、表札の明かりだけが薄く残っていた。
「おい、早く入れさせろよ」
するとインターホンから短い返事が帰り、声は丁寧で距離だけがあった。
「事情はすでに伺っております。今までの取引の縁には感謝しています。でも、今は分けるしかないんです」
「切るのか?」
「おい、今までお前んとこに大量のお金を落としてやってたんだろう」
「会社の人間は変わります。変われないのは記録だけです」
業者は中で頭を下げるそぶりだけ見せ、映像は切れた。ブラインドが落ち、影が黒田の頬に落ちた。
「縁を切るのかよ。丁寧に逃げやがって。くそ」
黒田はセナの部屋の明かりを見上げ、唾を飲み込んだ。
翌朝、公開説明のプリントが廊下に並んだ。
「録音の要点だけ流します。異議は後で」
短いノイズの後、黒田の声が廊下に広がった。
「聞きたくなかったけど、本物だな」
「やめろ。恥だろ」
「味方なのはどちらですか?」
数日後、黒田はセナの通学路で待ち伏せした。
「なあ、話だけでいい。頼む」
「学校の近くはやめてください」
「金は払う。黙っててくれ」
「お金で記録は買えません」
「ガキが偉そうに」
近くの警官が声をかけ、黒田は手を上げた。
「身元確認をさせてください」
「誤解だ。親戚の話だ」
「知りません、この人」
黒田の顔が赤くなり、言い訳が喉で詰まった。
その夜、黒田はSNSに長文を投稿した。「俺は被害者」と書かれた投稿は、すぐに引用で返された。拡散が増え、保存が跳ねた。
「逆効果ですね。人を傷つける書き方は、後から自分に帰ります。控えてください」
黒田は投稿を削除し、指が震えて何度もタップした。
「なんで俺がこんな目に… 」
黒田は元秘書に金を積み、口を滑らせた。
「ニュースに出すなら、こっちにも材料がある」
「今更無理です。触れないでください」
電話は切れ、黒田は机に額を押し付けた。
黒田は神聖工業の窓口へ匿名で文句のメールを送った。返信は自動返信だけで、担当名は伏せられていた。
「全部ガキの仕業だ」
別の角度の動画も上がり、再生はさらに伸びた。黒田は自宅で弁護士と向かい合い、声を荒げた。
「俺は脅してねえ。家主の権利だ」
「権利は契約と法律の中にあります。示談の案はここです。拒否なら、訴訟です」
紙の数字を見て、黒田の手が震えた。
「減らせ。俺が全部悪いわけない」
「減らす材料は、君の協力次第です」
黒田は髪を握りしめ、目を閉じた。
黒田の妻、黒田リカは弁護士事務所の封筒を玄関に置いた。
「離婚の話、本気で進める」
「待ってよ。家は… 」
「俺があなたの言葉、全部録音も含めて見たわ。子供の前で恥を晒したくない」
リカは鍵だけ置き、小さなスーツケースを引いた。
「リカ、頼む」
ドアが閉まり、廊下の足音が遠ざかった。
神聖工業は損害賠償の準備書面を送付した。回答期限は14日。金額は再計算の余地があるが、下振れしない。黒田の口座には差し押さえの予告通知が届いた。黒い会社の車がレッカーに乗せられ、黒田は窓の内側で見た。
「待て、待てって」
タイヤが回り、黒田の声はガラスに弾けた。執行の札が貼られた棚から観葉植物が運ばれた。ボールに詰められた書類の山が玄関を通った。取締役は臨時招集され、黒田関連の土地取引を分離した。
「第三者委員会の設置も検討に上がっています」
「セナさんの滞在条件は維持が前提です。違反が続くなら、仮処分も視野に入ります」
「仮処分? 俺の土地だぞ」
「土地でも、義務は残ります」
黒田は唇を噛み、合意書のコピーに視線を落とした。
結局、業者の工事は通らず、前払いと着手金、違約金やキャンセル料も紙に増えた。信用と信頼は地に落ち、リカからは離婚を突き付けられ、従来の取引先との縁も全て途切れた。差し押さえは車と家具にも及び、黒田に残ったのは小さな荷物だけだった。
セナの部屋は守られ、町内会の見守りで黒田の独断は戻らなかった。長屋の掲示板には工事再開の条件と日程が貼られた。
「セナちゃんの部屋、守られたんだな」
「私は記録を守りたかっただけです」
町内会は新しい管理会社の案内を掲示板に貼った。
「住人の安全と試験の安全はセットだ」
「セナちゃん、ありがとうね」
「本当に、私はやるべきことをしただけです」
セナは手袋を外し、母の肩にそっと寄り添った。
「打ち上げの準備はまた前に進める。君の記録が根拠になる」
「はい。最後まで記録を止めさせません」
元秘書の勤務先は声明を出し、重い懲戒処分で退職したと発表した。
「組織を超えたのは私も同じでした」
元秘書はダンボールを抱え、玄関の前で深く頭を下げた。黒田はその背中を見て、何も言えなかった。
3ヶ月後、黒田は派遣の面接で古いスーツの袖を直した。壁には張り出しの紙と小さな紙が貼られ、針の音がした。
「経歴は…
管理と現場は任せるタイプでした」
「トラブルも、トラブルと言うと… それは世間が勝手に… 」
面接官は微笑み、書類の角だけを整えた。
「ご縁がなかったです」
黒田は封筒を握りしめ、駅の階段を下りた。携帯は留守電ばかりで、弁護士事務所の名前が増えていた。ハローワークの受付で番号札を受け取り、画面に年齢が映った。求人情報の列に目を凝らすと、夜勤の文字が遠く見えた。
「お年齢的に、夜勤は厳しいかもしれません」
「軽作業なら経験はあるんだが… 」
「履歴書の年月と内容を合わせて書き直してください」
「俺だって、働ける」
黒田の声は細く、自分でも聞き取りにくかった。
スーパーのレジ前で、元住人と目があった。黒田は値引き弁当に手を伸ばし、値札の赤を見た。視線がそらされ、黒田は袋の持ち手を強く握った。レジの電子音だけが響き、黒田の頬が熱くなった。
「あの時、黙ってりゃ…
いや、黙ってたら潰してた」
アパートの床にダンボールがあり、名刺箱だけが残っていた。黒田はシュレッダーに集めた名刺を1枚ずつ入れた。細い音が続き、文字だけがくずになった。黒田は安アパートの窓から雨のしみを眺めた。
「車も、リカも、信用も… 」
一方、セナは大学の公開講座の後、母と待ち合わせた。
「遅くなかった?」
「大丈夫。記録は朝に送った」
「セナも強くなったね」
「ママが帰ってくるのを待ってたから」
セナは空を見上げ、薄い雲の向こうを指でなぞった。
「ロケットは、正直者の味方だと思う」
「うん。あなたもね」
森川から届いた短いメールに、試験完了の一文があった。続く行には打ち上げの日取りと衛星の役割が短く並んでいた。
「藤田さん、現場から感謝が届いています」
「そっか。よかった。無事に進んだんだ」
「よし。これからも記録は続けていかないとね」
それから1年後、大学の端末に大型ロケットの打ち上げ成功が流れた。機体の温度は長屋のログと膜のデータを基に最終調整されたと解説が言った。平成は台風の壁雲とハガスの塊を1枚の絵に重ねる方法だという。メタンが濃いところは避難の順番も変わるんだって。漁船と工場街が同じ空、同じ雲を通って航路と経路まで共有する。燃料の無駄も、その温度とハガスの数字で見張られるという。
「それで、今は理学部の学科にいて、会社の学生窓口も少し任されてるの」
「すごいね。セナでも大丈夫?」
「大丈夫だよ、ママ。次は立派な広いお家に引っ越そうね」
セナはノートパソコンを閉じ、肩の力を抜いて母の方を見た。
「ママ、今夜は卵焼き、集めでいい?」
「うん。私はいつでも、セナの味方だからね」
「私もずっと、ママの味方」
キッチンでは卵が割られ、卵焼きの匂いが立った。長屋の雨も、廊下の冷たい声も、今夜の湯気に溶けていくみたいだった。
数字は嘘をつかない。嘘をつけない人は、いつか空へ届く。弁当メモの横で、曲げなかった正直さが光を増した。年齢も学歴も関係なく、積み上げた誠実さには席が残る。肩書きより先に、現場が信じるのは数字の綺麗さと正直さだ。藤田セナの物語は、明るい朝へ走り続ける。


