ギターの一音が、凍りついた空気を溶かした。ステージに立ったのは、商店街の片隅で写真館を営む、俺、奥野公平だった。
「俺がステージに立ちます」
その言葉に、周囲は凍りついた。涙に濡れたリナさんの瞳が、驚きに見開かれる。スタッフたちの戸惑いの視線が突き刺さる。だが、俺はもう決めていた。背負ってきた、錆びついたギターケースに手をかける。
俺の名前は奥野公平、35歳。古びた商店街の一角で、親父が残した写真館を細々と営んでいる。客はまばらで、撮る写真に魂がこもっていない。誰かに「写真に心がこもってない」と言われたのも、聞こえていた。技術だけは親父に叩き込まれたからそれなりに撮れる。だが、それだけだった。
昔はこんなんじゃなかった。いや、昔の話はどうでもいい。カウンターの引き出しから、黄ばんだアルバムを取り出す。そこには、俺が子供の頃に親父が撮ってくれた写真の数々。どれも暖かくて、被写体の笑顔が溢れ出してくるようだった。親父はどうやって、こんな写真を撮っていたのだろう。
閉店後、俺は店の奥にあるスタジオへ向かった。親父が数々の家族の笑顔を切り取ってきた場所であり、俺にとっては息苦しい記憶が染みついた場所でもある。スタジオの隅には、埃をかぶった黒いギターケースが立てかけてあった。親父の形見だ。若い頃、親父も音楽の道を志していたと母から聞いたことがある。ケースを開けると、使い込まれたアコースティックギターが現れた。ボディにはいくつかの傷があり、弦も錆びついている。だが、それは紛れもなく親父が生きた証の一部だった。
無性にギターに触りたくなった。何年ぶりだろうか。指が弦の感触を覚えているだろうか。世界的なギタリスト、リカルド・バルガス。彼のような自由な音を、かつて俺も追い求めていた。ゆっくりとギターを抱え、古びたスツールに腰かける。深呼吸を一つ、そして震える指先でそっと弦をつまびいた。ポロン。くぐもった、しかし確かな音が静寂の中に響き渡る。最初はぎこちなかった指の動きも、次第に滑らかさを取り戻していく。目を閉じると、かつて親父が好きでよく弾いていた懐かしいメロディが、自然と指先から溢れ出てきた。
夢中でギターを弾き続けていた。どれくらいの時間が経っただろうか。ふと、スタジオの入り口に人の気配を感じて、俺ははっと我に返る。演奏を止め顔を上げると、そこには1人の若い女性が立っていた。大きな瞳を驚いたように見開き、息を飲んでこちらを見つめている。手には小さなボイスレコーダーが握られていた。
「あの、すみません。勝手に……あまりにも素敵な音色だったので、つい」
俺は無言で彼女を見つめた。見慣れない顔だ。こんな時間に一体何の用だろうか。
「どちら様ですか?」
低い声で訪ねると、女性は少しひるんだように肩をすくめたが、すぐに気を取り直したように微笑んだ。
「私、FMさえの、最近リナと申します。今、新しい番組の企画でこの辺りを取材していまして」
FM局のリポーターが、さびれた写真館に何の用だろうか。俺の言葉には棘があったかもしれない。だが、リナと名乗ったその女性は、ひるむことなくまっすぐに俺の目を見つめ返した。
「先ほどのギター、あなたが弾いていたんですよね。すごく……すごく心に響きました。あんな音、私初めて聞きました」
その言葉には、嘘や追従の響きは感じられなかった。ただ純粋な感動が、その瞳をキラキラと輝かせている。
「奥野さんのギターには、風景が見えるんです。ただ音が鳴っているんじゃなくて、その音の一つ一つに物語があって、感情があって、聞いていると胸が熱くなるんです。もしよかったら、私たちの番組に出ていただけませんか?」
その真摯な申し出に、俺は一瞬言葉を失ったが、すぐに首を横に振った。
「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいです。でも、俺はもう人前で弾くつもりはないので」
「どうしてですか?何か理由があるんですか?」
「昔、少しだけ本気で音楽をやろうとしていた時期があって。でも、才能なんてものはそう簡単には開かない。それに、音楽で食べていくのは本当に厳しい世界なんですよ」
それはかつて親父が俺によく言っていた言葉でもあった。俺は反発した。リカルド・バルガスのように、ギター一本で世界を渡り歩くんだと本気で信じていた。だが現実は厳しかった。バンドを組んでも鳴かず飛ばず、ライブハウスの客はまばら。焦りと苛立ちだけが募っていく日々。そして、親父の事故。
「少し疲れたんです、音楽に」
俺はリナさんにそうとしか言えなかった。リナさんは俯き、長いまつ毛が震えていた。
「そうですか。無理を言ってすみませんでした」
絞り出すような声だった。彼女は深々と頭を下げると、名残り惜しそうにスタジオを見回し、そして静かに出ていった。これでいいんだ。俺は自分に言い聞かせるように呟いた。だが、胸の奥で何かが小さく疼いているのを感じていた。
あの夜から数日、俺の日常は相変わらず静かに過ぎていた。そんな単調な繰り返しの午後、店のドアベルがチリンと鳴った。顔を上げると、リナさんが少し緊張した面持ちで立っていた。
「あの、奥野さん。本日はどうしても奥野さんにお願いしたいことがあって参りました」
その手には数枚の古びた写真とUSBメモリが握られていた。今度の番組で町の歴史を振り返る特集を組むことになり、古い写真資料をデータ化して修復してくれる人を探しているが、どこも断られてしまったという。奥野さんしか頼れる人がいないと、彼女は必死に訴えた。
「やってみましょう。ただ、状態によっては完全に綺麗にするのは難しいかもしれませんが」
数時間後、俺はスタジオの作業台で、リナさんから預かった写真の修復作業に取り組んでいた。問題の写真は通常の修復方法ではどうにもならなかったため、俺は以前個人的に研究していた画像解析のアルゴリズムを応用し、わずかに残った色彩情報から元の画像を再構築するという、ほとんど力技に近い方法を試みていた。それは地道でかつ極めて集中力を要する作業だったが、不思議と苦にはならなかった。モニターの中の絶望的だった写真が、まるでパズルのピースがはまるように少しずつ、しかし確実に元の姿を取り戻していく。
「すごい、奥野さん。本当に魔法みたいです」
リナさんの声には、もはや驚きを超えて敬意すら込められているように感じられた。集中してモニターを見つめ、細かな調整を続けていると、ふと無意識のうちに鼻歌を口ずさんでいた。それはかつて俺が敬愛したギタリスト、リカルド・バルガスの難解なギターフレーズの一部だった。
「あの、奥野さん。もしかして今のって、リカルド・バルガスのソル・ナシエンテのフレーズですか?」
まさかこのフレーズが分かるとは?俺は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
「私、学生の頃少しだけクラシックギターを習っていて、リカルド・バルガスがすごく好きでよく聞いていたんです。まさか奥野さんも好きだったなんて。やっぱりギターも好きなんですね」
リナさんの瞳がキラキラと輝いている。彼女は、自分が音楽に救われた経験があると話し始めた。
「子供の頃、私すごく内気でクラスにも全然馴染めなくて、学校に行くのが本当に辛い時期があったんです。そんな時、たまたまラジオから流れてきた1曲の歌に心をわし掴みにされたんです。その歌詞とメロディが、まるで私のために歌ってくれているみたいで、『1人じゃないよ』ってそう言ってくれている気がして、涙が止まらなくなったんです。音楽ってこんなにも人の心を動かす力があるんだって、その時初めて知りました。だから私も音楽を通して、誰かの心を少しでも明るく照らせるような、そんな仕事がしたいって思うようになったんです」
「奥野さんのギターを聞いた時、あの時の感動が鮮やかに蘇ってきたんです。あなたの音には、技術とか理論とかそういうものを超えた魂が込められている気がしました。あなたの音楽には、人を救う力があると、私は信じていますから」
リナさんの言葉は、俺の心の奥深くに重く、そして温かく響いた。俺の音楽が誰かを救う?そんな大それたこと、考えたこともなかった。だが、心の奥底では彼女の言葉が小さな波紋を広げ始めているのを感じていた。凍てついた何かが、少しずつ溶け出していくような、そんな感覚。
あのリナさんとの出来事以来、俺の日常には少しずつ変化が訪れていた。俺が修復した写真は彼女の番組で予想以上の反響を呼び、それ以来、彼女は定期的に写真に関する仕事を依頼してくるようになった。写真の仕事だけでは感じることのなかった、誰かの役に立っているという確かな手応え。それはかつて音楽に全てを捧げていた頃の充実感とは違う、穏やかで、しかし確かな喜びだった。いつからだろうか。彼女とこうして仕事の話をする時間が、俺にとって苦ではなく、むしろ待ち遠しいものに変わっていたのは。
そんなある日、俺はリナさんに頼まれていた写真を届けにFM局のスタジオを訪れていた。すると、不意に背後から低く、しかし妙に耳につく声がした。
「よう、さき君。霊のフェス準備は順調か?」
振り返ると、そこに立っていたのはいかにも業界人といった風体の、派手なシャツを着こなした男だった。高梨プロデューサー。リナさんの表情がさっと緊張に変わった。高梨は俺には一瞥もくれず、リナさんの肩を慣れ慣れしく叩いた。
「頼むぜ、さき君。今回の桜ミュージックフェスタ、うちの一押しのバンドがトリを飾るんだからな。絶対に成功させてもらわないと困る。分かるだろ?君のディレクターとしての腕の見せどころだ」
その言葉には、激励というより、もはや言い包めを許さない圧力が込められていた。リナさんは困った笑顔で頷いている。
そして、あっという間にフェスティバル当日がやってきた。会場となる駅前の広場には朝から多くの人が集まり、特設されたステージや飲食の屋台、そして俺の写真が展示されたブースも賑いを見せていた。リナさんはスタッフ用のTシャツを着て、インカムで指示を飛ばしながら会場中を忙しそうに走り回っている。その表情は緊張と期待で輝いていた。このまま何事もなく、彼女の夢が最高の形で実現すればいい。そう願っていた。
だが、メインステージの設営が最終段階に入った昼過ぎ、突如として会場に不穏な空気が流れ始めた。スタッフたちの動きが急に慌ただしくなり、インカムで怒鳴り声のようなものが飛び交っている。リナさんの顔から笑顔が消え、見る見るうちに青ざめていくのが遠目にも分かった。俺はいても立ってもいられず、リナさんの元へ駆け寄った。
「リナさん、どうしたんですか?何かあったんですか?」
「公平さん、どうしよう。メインゲストのサイレントリバーブが……出演できなくなったって、たった今連絡が」
その言葉はまるで稲妻のように俺の耳を打った。サイレントリバーブ。高梨プロデューサーが一押しだと豪語していたバンド、フェスティバルの最大の目玉のはずだった。
「なぜですか?理由は何で?」
「それが、メンバーの1人が急病で倒れたって。でも、なんだか様子がおかしいんです。高梨プロデューサーの事務所からの連絡なんですけど」
リナさんが言い終わらないうちに、その高梨が数人の取り巻きを引き連れて、歩いてくるのが見えた。その顔には困惑や焦りの色など微塵もなく、むしろどこか満足げな、不気味な笑みさえ浮かべているように見えた。
「いやあ、さき君、大変なことになったね」
高梨はまるで他人事のように言った。
「うちの看板バンドが、こんな大事なフェスに穴を開けるなんてね。今朝、ボーカルが急な高熱で倒れちゃってね。ドタキャンだよ。こればっかりはどうしようもない」
「じゃあ、フェスは……」
リナさんの声が絶望に染まる。
「まあ、トリがいなくなっちゃったんじゃ、盛り上がりにかけるよな。お客さんもがっかりだろう。さき君、君の責任問題にもなりかねないぞ。大丈夫か?」
高梨の言葉は、甘い毒のようにリナさんの心を蝕んでいく。彼は意地の悪い笑みを浮かべながら、さらに言葉を続けた。
「まあ、自業自得かな。君、去年の秋にも俺の顔に泥を塗ってくれたことがあっただろう。忘れたとは言わせないぜ」
リナさんの顔色がさっと変わった。彼女は昔、高梨が推薦したアイドルユニットではなく、まだ無名のロックバンドを番組で紹介し続けたことで、高梨の怒りを買っていたのだ。
「俺が曲の上層部やスポンサーにも話を通して、期待入りでデビューさせようとしていた、あの可愛いアイドルユニットを差し置いて。お前は高がADの分際で、自分の好みだけで、あの売れそうもない連中をプッシュし続けた。あの時、俺がどれだけお前のせいで面倒なことになったか分かってるのか。上からもスポンサーからも突き上げられて、俺のメンツは丸つぶれだ」
その声には、抑えきれない怒りと屈辱が滲んでいた。
「で、でも、あのバンドは本当に才能があって、実際にあの後インディーズチャートで1位になって……」
「だからどうした?実力なんてどうでもいいんだよ、この業界は。売れるか売れないか、話題になるかならないか。それだけだ。お前みたいな青臭い理想論ばかり振りかざして、俺たちのビジネスの邪魔をする奴がいるから、話がややこしくなるんだろうが。お前みたいなのがいると、俺たちが長年築き上げてきたやり方が通用しなくなるんだよ。だからな、さき君。悪いが、お前は邪魔なんだ。ここで大人しく潰れてもらうのが、お互いのためってもんだろ」
彼は隠そうともしない悪意を込めて言い放った。リナさんの目から、再び涙がこぼれ落ちた。
「そんなの、ひどすぎます。音楽は、ビジネスの道具じゃない」
彼女の純粋な思いを、音楽への愛を踏みにじる高梨のやり方が許せなかった。そして、何もできずにいる自分自身にも、強烈な無力感を覚えていた。ふと、脳裏にリナさんの言葉が蘇ってきた。
「奥野さんの音楽には、人を救う力があると、私は信じていますから」
救う力か。そんなもの、今の俺にあるのだろうか。だが、目の前で泣き崩れるリナさんを見ているうちに、俺の中で何かが変わっていくのを感じた。このまま終わらせていいのか?彼女の夢を、こんな形で終わらせてしまって、本当にいいのか?
「リナさん、顔を上げてください」
リナさんは涙に濡れた瞳で俺を見上げた。その瞳には深い絶望の色が浮かんでいた。
「もうダメです。終わりです」
「まだ、終わってなんかいませんよ」
俺は自分でも驚くほど力強い声で言った。そして踵を返し、写真館へと走り出した。写真館の古びたドアを開け、スタジオへと駆け込む。隅に立てかけられた、埃をかぶった黒いギターケース。親父の形見。震える手でそのケースの止め金を外す。ガチッという鈍い音と共に蓋が開くと、そこには長い間眠りについていたアコースティックギターが横たわっていた。手に取ると、ずっしりとした重みが伝わってきた。ネックを握りしめる指が、弦の位置を覚えている。錆びついた弦。かの傷。だが、それは紛れもなく、俺がかつて魂を燃やした証であり、親父との絆だった。
俺はギターを抱え、再びフェス会場へと戻った。茫然とステージ袖で立ち尽くすリナさんの前に立つ。
「公平さん、そのギター……」
「俺がステージに立ちます」
「え?でも、公平さん、あなたはずっと人前では弾かないって……」
「ええ、そうでした。でも、今はそんなこと言っていられませんから。俺が、あなたの夢を壊させません」
俺は彼女の目をまっすぐに見つめて言った。リナさんの瞳が大きく見開かれた。その瞳に、微かだが希望の光が宿ったように見えた。ステージマネージャーに事情を話し、急遽予定を変更してステージに立たせてもらうことになった。観客には「スペシャルゲストの登場」とだけアナウンスされた。ざわめきはさらに大きくなった。
スポットライトを浴び、ステージの中央に立つ。何年ぶりだろうか、この感覚。心臓が早鐘のようになっている。だが、不思議と恐怖はなかった。ただ、目の前にいるリナさんのために、そしてこの会場に集まってくれた人たちのために、俺の音を届けたい。その一心だった。深呼吸を一つ。そして、俺はピックを握りしめ、最初の音を紡ぎ出した。それは、親父が好きでよく弾いていた、物悲しくも美しい優しいメロディだった。
最初は少しだけ指が震えた。だが、弾き進めるうちに、指が、体が、音楽を思い出していく。音が空気を振わせ、会場全体に広がっていく。観客たちのざわめきが、少しずつ静まっていくのが分かった。1曲目が終わると、俺は間髪入れずに次の曲に移った。今度は、俺が昔作ったオリジナル曲だ。激しい怒りや悲しみ、そしてほんの少しの希望を込めた、魂の叫びのような曲。ネックの上を指が滑り、弦が激しく振動する。忘れていたはずの感情が、音となって溢れ出してくる。そうだ。俺は音楽が好きだったんだ。心の底から。
そして3曲目。俺はかつて憧れて止まなかったギタリスト、リカルド・バルガスの最も難解と言われるナンバー「魂の風」を弾き始めた。超絶技巧を要するそのフレーズは、かつての俺にとっても大きな壁だった。だが、今の俺には迷いはなかった。指が、まるで意思を持ったかのように正確に、そして情熱的に弦の上を舞う。複雑なアルペジオ、高速のカッティング、泣きのチョーキング。全ての音が完璧なバランスで絡み合い、一つの壮大な物語を紡ぎ出していく。観客は完全に静まり返っていた。ただ、俺のギターの音だけが会場を支配している。
俺は目を閉じて演奏に没頭した。過去のトラウマも、未来への不安も、全てが音の中に溶けていくような感覚。ただ、今この瞬間だけが確かに存在している。どれくらいの時間が経っただろうか。最後の音が、長い余韻を残して消えていく。一瞬の静寂。そして、次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が、津波のように俺に押し寄せてきた。その音は会場全体を揺るがし、俺の鼓膜を振わせた。目を開けると、そこには涙を流しながら拍手を送る観客たちの姿があった。リナさんもステージ袖で、泣きながら何度も頷いていた。大成功だった。俺の音が、確かに届いたのだ。
演奏が終わり、ステージ袖に戻ると、リナさんが駆け寄ってきて俺に抱きついてきた。
「公平さん、公平さん……ありがとうございました。本当に、本当に」
彼女は言葉にならない感謝を、涙と共に伝えてくれた。その時だった。
「素晴らしい演奏だった。実に、心が震えたよ」
落ち着いた、しかし異厳のある声がすぐそばでした。振り返ると、そこには白が混じりの髪を後ろで束ね、品のいいジャケットを着こなした初老の紳士が立っていた。その顔には深い感動と、そしてどこか懐かしむような優しい微笑みが浮かんでいた。俺は自分の目を疑った。その人物は、俺が子供の頃から、そして今もなお、世界で最も尊敬するギタリスト、リカルド・バルガスその人だったのだ。
「リカルド・バルガスさん?なぜ、あなたがここに?」
俺はあまりの驚きに、言葉も出なかった。バルガス氏はにっこりと微笑んだ。
「少し休暇で日本に来ていてね。偶然この町で音楽フェスティバルがあると聞いて、ふらりと立ち寄ってみたんだ。まさか、こんな素晴らしい才能に出会えるとは。思っても見なかったよ。君のギターには魂が宿っている。技術だけではない。深い感情と、そして何よりも愛がある。本当に感動した。ところで、君の名前を聞いてもいいかな」
「奥野、公平です」
俺は緊張しながらも、はっきりと名乗った。その名前を聞いた瞬間、バルガス氏の表情がわずかに変わった。驚きと、そして何かを思い出すような、そんな表情。
「奥野公平君……もしかして、君は奥野誠一さんの息子さんではないか」
俺は息を飲んだ。親父の名前。なぜ、リカルド・バルガスが親父の名前を知っているんだ?
「はい。父は奥野誠一と申します。あなたは父を、ご存知なのですか?」
バルガス氏は少しだけ遠くを見るような目をして、静かに語り始めた。
「ああ、よく覚えているよ。誠一さんのことは、もう随分と昔の話になるがね。彼から、何度も何度も熱心な手紙を頂いたんだ。『私の息子、公平があなたのギターに心酔し、来る日も来る日もあなたの曲を練習しています。どうか一度でいい、ほんの短い時間でいいから、息子の演奏を聞いてやってはいただけないでしょうか』とね。その手紙には、君への深い愛情と、そして君の才能への確信が、痛いほどに綴られていた」
俺は言葉を失った。親父が、俺のためにそんな手紙を?
「正直に言うと、最初は戸惑ったよ。世界中から同じような手紙はたくさん届いていたからね。でも、誠一さんの手紙には、何か特別なものを感じたんだ。何度断っても、彼は諦めなかった。その熱意に、ついに私も心を動かされてね。ついに、一度だけならと、お会いする約束をしたんだ」
バルガス氏の言葉は、まるで鋭い刃のように俺の胸に突き刺さった。
「だが、約束の日、彼は約束の場所には現れなかった。時間になっても連絡もなくてね、どうしたのだろうかと心配していたんだが、数日後、日本の知人から、彼が交通事故に遭われたと知らされた。私が約束した場所へ向かう、その途中で。本当に、言葉もなかった」
俺の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つ一つはまっていく。親父が音楽に反対していたのは、俺の将来を案じてのことだった。だが、心の奥底では、誰よりも俺の才能を信じ、応援してくれていたんだ。それなのに俺は、親父の本当の気持ちに気づかず、ただ反発し、そして事故の後は音楽から逃げ続けていた。涙が止めどなく溢れ出てきた。親父への申し訳なさと、感謝の気持ちと、そしてもっと早く気づけなかった自分への後悔と。様々な感情が、濁流のように俺の心を飲み込んでいく。
バルガス氏は、そんな俺の肩をそっと、しかし力強く抱いてくれた。
「公平君。お父さんの思いは、決して無駄にはならなかった。今日の君のギターには、彼の愛情と、そして君自身の魂がはっきりと宿っていたよ。天国のお父さんも、今日の君のステージを見て、きっと心の底から喜んでいるはずだ」
その温かい言葉に、俺はただ子供のように泣きじゃくるしかなかった。長年、心の奥底に封じ込めていた悲しみと後悔が、ようやく解き放たれたような気がした。親父の愛は、確かにここに、俺の中に生き続けていたのだ。
あの劇的な音楽フェスティバルから数ヶ月が過ぎた。俺の人生は、あの日を境にまるで嘘のように大きく変わっていた。フェスティバルでの俺の演奏、そしてリカルド・バルガスによって明かされた父との秘話は、瞬く間に多くのメディアで取り上げられ、大きな感動と共に日本中に、いや、世界中に広がっていった。インターネットを通じて、俺の演奏動画は何百万回も再生され、父への思いを綴ったコメントが溢れた。「奇跡のギタリスト」「魂を揺さぶる音色」。そんな見出しがニュースサイトを飾り、俺の名前は一夜にして多くの人が知るところとなった。一方、あの卑劣な妨害工作を巡んだ高梨は、その後あっけなく業界から姿を消した。キャンセルされたバンド、サイレントリバーブのメンバーたちが、彼の圧力による虚偽のキャンセルであったことを勇気を持って告発したのだ。さらに彼の過去の悪質な手口やパワハラ行為も次々と明るみに出て、彼は全ての信用と地位を失った。自らの歪んだプライドと嫉妬心によって、彼は自滅したのだ。
俺自身はと言うと、あの日以来、リカルド・バルガス氏が親身になってサポートしてくれるようになった。彼は俺を、ただの昔世話になった男の息子としてではなく、一人のギタリストとして高く評価し、尊重してくれたのだ。
「君の音楽には、多くの人を引きつける特別な力がある。君のお父さんが信じた通りだ。その才能をもう眠らせていてはいけないよ」
バルガス氏の言葉に背中を押され、俺は本格的に音楽家としての道を再び歩むことを決意した。もちろん、実家の写真館も続けている。いや、以前とは比べ物にならないほど忙しくなった。俺の成長の証であり、親父の形見のギターが置かれているこの場所は、いつしかファンの間で「聖地」と呼ばれるようになり、記念写真を撮りに来る人々が後を絶たないのだ。かつて「心がこもってない」と言われた俺の写真だが、今は違う。音楽を通して再び心を開いた俺が撮る写真は、不思議と温かい光を宿していると、リナさんが言ってくれた。
そしてリナさん。彼女は今や、俺にとってかけがえのない存在となっていた。フェスティバルの成功を自信に変え、ディレクターとして目覚ましい活躍を見せる彼女の姿は、俺にとっても大きな刺激になっている。
あの運命のフェスティバルから1年が経った、ある静かな夜。俺たちはあの時と同じ駅前の広場が見える小さな丘の上にいた。眼下には、宝石箱をひっくり返したような街の夜景が広がっている。隣には、俺にそっと寄り添うリナのぬくもりがあった。
「あの日から、もう1年か」
俺は眼下の広場を見つめながら、感慨深く呟いた。
「本当にあっという間だったね。嬉しいことも大変なこともたくさんあったけど……でも、公平さんが隣にいてくれたから、私、どんな時も頑張れたんだよ」
彼女は俺の手に、自分の手を重ねた。その小さな手のぬくもりが、じんわりと俺の心を溶かしていく。出会った頃のあの凍てついた心が、嘘のようだ。このぬくもりを、一生守り続けたい。込み上げてくる愛しさに、胸が締めつけられるようだった。俺はもう一度、リナの手を強く握りしめ、意を決して口を開いた。声が少し震えているのが、自分でも分かった。
「リナ、俺はもう、君がいない人生なんて考えられないんだ。君といると、俺は素直になれる。強くなれる。君の笑顔を見るたびに、俺は心の底から幸せを感じるんだ。だから……俺の隣で、ずっと笑っていてほしい。嬉しいことも、悲しいことも、これから起こる全てのこと。君と二人で分かち合いたい。リナ、俺と、家族になってくれないか?」
それは飾り気のない、俺の精一杯の言葉だった。言い終わると、心臓が張り裂けそうなくらい激しく鼓動していた。リナの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。だが、その顔は、今まで見たどんな時よりも美しく輝いていた。
「ずっと、一緒にいてくださいね、公平さん」
紡がれたその言葉を、俺は生涯の宝物として心に深く刻み込んだ。俺はこれからもギターを弾き続けるだろう。そして、シャッターを切り続けるだろう。音楽と写真、二つの翼で、誰かの心を少しでも温かく照らせるように。隣には、リナさんの笑顔がある。それだけで、俺はどこまでも飛んでいける気がした。物語は、まだ始まったばかりだ。



