夜の九時を過ぎた頃、リビングには重い空気が漂っていました。息子の高志が、私の目を見て、凍りつくような言葉を放ったのです。
「母さん、言っておくけど、この家と全財産を置いて出て行ってよ」
私はその瞬間、時が止まったような感覚に陥りました。隣に座る嫁の衣咲も、冷たい視線を私に注いでいます。
「そうですよ、お母さん。もうこの家にあなたの居場所はありません。明日の朝までに出て行ってください」
五年間、一緒に暮らしてきた息子夫婦から、まさかこんな宣告を受けるとは思いもしませんでした。私は深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げました。
「わかりました」
私の口から出たのは、ただその一言だけでした。衣咲も高志も、私があまりにもあっさり受け入れたことに、一瞬戸惑ったような表情を見せました。
「本当にいいのか? 」
高志が確認するように尋ねます。私は静かに頷きました。
「お望み通りにいたします」
その夜、私の心は不思議なほど穏やかでした。なぜなら、この瞬間から私の本当の人生が始まることを、私は知っていたからです。
私は高田幸恵、六十九歳。長年市役所の福祉課で働いてきました。三十八年の勤務を終え、定年退職してから八年が経ちます。夫の雅夫を十年前に病気で亡くし、それからは女手一つで息子の高志を支えてきました。
息子が結婚したのは七年前のことです。衣咲と出会い、幸せそうな姿を見て、私も心から喜びました。そして五年前、「母さんも一緒に暮らそう」という息子の言葉に甘えて、同居を始めたのです。その時、私は退職金の千五百万円を使って、この家の頭金を出しました。家族だから当然だと思っていました。
実は、この家の登記は私の名義にしてあるのですが、そのことは息子夫婦には伝えていません。
毎朝五時に起きて朝食の準備から始まる一日。掃除、洗濯、夕食の支度と、休む間もなく家事に追われる日々でした。それでも息子家族のためならと思い、文句一つ言わずに過ごしてきました。
預金通帳を確認すると、夫の生命保険金と投資で増やした資産が三千万円ほどあります。これも息子には内緒にしていました。将来孫のためにと思って、大切に守ってきたお金です。
しかし、今夜の出来事で全てが変わりました。
思い返せば、息子夫婦の態度が変わり始めたのは二年前ほどからでした。最初は些細なことからでした。
「お母さん、この味噌汁、ちょっと味が濃すぎませんか? 」
衣咲が眉を潜めながら言いました。
「高志さんの健康のことも考えてください」
私は何十年も同じように作ってきた味噌汁でしたが、「そうですね、気をつけます」と素直に謝りました。次第に衣咲の指摘は増えていきました。
「お母さん、リビングの掃除がまだ終わってないみたいですけど」
「洗濯物の干し方が雑ですね」
「買い物に時間かけすぎじゃないですか? 」
息子の高志も最初は「母さんの言うことも聞いてあげて」と優しく宥めていましたが、やがて彼も妻の味方をするようになりました。
「母さん、正直言って、ちょっとお荷物なんだよね」
ある日の夕食後、高志が切り出しました。私は箸を置いて息子の顔を見つめました。
「お荷物だって?

」
「衣咲も仕事してるのに、母さんの世話まで大変だって言ってるし」
「私、自分のことは全部自分でしています。家事も全部やっているつもりですが」
「それが帰って邪魔なんだよ。衣咲のやり方があるのに、母さんが勝手にやるから」
「そうなんです。お母さんがいると、私、自分の家って感じがしなくて」
その日から、私はリビングで過ごす時間を減らし、自分の部屋にいることが多くなりました。食事も別々に取るようになり、まるで下宿人のような扱いを受けるようになったのです。
さらに辛かったのは、孫たちとの時間を制限されたことでした。
小学三年生の翔太と、一年生の凛は、以前は「おばあちゃん、おばあちゃん」と慕ってくれていました。
「子供たちの教育に良くないから、あまり甘やかさないでください」
衣咲の冷たい声が今でも耳に残っています。
「おやつをあげるのも、お小遣いをあげるのも禁止です。私たちの教育方針に従ってください」
孫たちと触れ合う時間は一日三十分までと決められました。それも衣咲の監視付きです。
「おばあちゃん、どうして一緒に遊べないの? 」
凛が寂しそうに尋ねた時、私は涙をこらえるのが精一杯でした。
そして三ヶ月前、決定的な出来事が起きました。衣咲の両親がこの家に同居することになったのです。
「お母さん、私の両親が体調を崩して、一人暮らしが難しくなったんです」
衣咲が切り出しました。
「そうですか。それは心配ですね」
「それで、二階の客間に住んでもらおうと思うんです」
二階の客間は、私が時々使っていた部屋でした。裁縫道具や思い出の品を置いていた場所です。
「あの部屋は…」
「お母さんは一階の部屋があるでしょう。それで十分じゃないですか? 」
高志も同調しました。
「母さん、衣咲の両親も家族なんだから、協力してよ」
「でも高志、私だってあなたの母親よ」
「分かってるよ。でも義両親の方が…いや、その世話が必要なんだ」
息子の言葉に、私は深く傷つきました。実の母親よりも義理の両親の方が大切だと、はっきりと言われたような気がしたのです。
衣咲の両親が引っ越してきてから、私の立場はさらに悪化しました。リビングでは衣咲の両親が居座るようにテレビを見て、私は自分の部屋で一人で食事を取ることが増えました。
「幸恵さん、すみませんね。でも私たちも遠慮なく過ごさせてもらいますから」
衣咲の母親は申し訳なさそうな顔をしながらも、しっかりとこの家の主のような振る舞いをしていました。
ある日、衣咲が私の部屋に来ました。手には私の大切にしていたアルバムが握られていました。
「お母さん、これ処分してもいいですか? 場所を取るので」
「それは…雅夫との思い出の…」
「過去のものにいつまでも執着していても仕方ないでしょう」
私は黙って首を横に振りました。すると衣咲は吐き捨てるように言いました。
「正直、お母さんがいるせいでこの家が狭く感じるんです。荷物も多いし」
「私の荷物は自分の部屋にしかありませんが」
「存在自体が邪魔なんです」
衣咲の本音がついに出ました。高志も黙って聞いているだけで、母親をかばう言葉一つありませんでした。
その夜、高志が私の部屋に来ました。
「母さん、衣咲の言い方はきつかったけど、正直俺も同じ気持ちなんだ。母さんはもう他人同然なんだよ。衣咲の両親の方が、俺たちにとっては大切な家族なんだ」
息子の言葉は、私の心に深い傷を残しました。三十八年間市役所で働いて貯めたお金で息子を大学まで出し、結婚資金も援助し、この家の頭金まで出した私が、他人同然だというのです。
そして今夜、ついに最後通告を受けました。
全ての始まりは、私が大切に取っておいた夫の形見の腕時計を、衣咲が勝手に処分しようとしたことでした。
「これは触らないでください」
私が珍しく強い口調で言うと、衣咲は逆上しました。
「もう限界です。お母さんは出て行ってください」
そしてあの言葉につながったのです。
今夜の通告は、衣咲の両親も同席した家族会議という形で行われました。リビングには息子夫婦と衣咲の両親が、まるで裁判官のように私と向かい合って座っていました。
「お母さん、私たちは真剣に話し合った結果、この決断に至りました」
衣咲が切り出しました。
「母さん、これは家族全員の総意なんだ」
高志も頷きながら言いました。
家族全員。その言葉に、私は含まれていないことが明確でした。
「幸恵さん」
衣咲の父親が口を開きました。
「我々も心苦しいのですが、この家の平和のためには、あなたに出て行っていただくのが一番だと思うのです」
私は静かに皆の顔を見回しました。誰一人、私の味方はいませんでした。
「それで、具体的にどうしろと?
」
衣咲が書類を取り出しました。
「これにサインしてください。この家の一切の権利を放棄するという書類です」
「家の登記がお母さんの名義になっているのは知っています。でも実質的に住んでいるのは私たちです。頭金を出してもらったのは感謝していますが、それは息子への贈与ということで」
高志が続けました。
「母さん、家具も道具も全部置いて行ってもらいたいんだ。どうせ新しいところでは使わないでしょう」
「私が買った家具も家電も全部です」
衣咲がきっぱりと言いました。
「それから通帳類、年金手帳、保険証券、全て置いていってください」
「それでは、私はどうやって生活を…」
「それは自分で考えてください。今まで十分私たちに依存してきたじゃないですか」
衣咲の声は氷のように冷たいものでした。
依存。私が朝五時から夜遅くまで家事をこなし、自分の年金で生活費を賄っていたことが、依存だというのです。
「現金も置いていってもらいます。財布の中身も全部です」
「さすがにそれは…」
「幸恵さん、これ以上ごねるなら警察を呼びますよ。不法侵入ということになりますから」
衣咲の母親が畳みかけるように言いました。
不法侵入。自分の名義の家に住んでいて、不法侵入とは。しかし、私は反論しませんでした。
「いつまでに出ていけばいいのですか? 」
「明日の朝八時まで。それまでに身の回りの最低限のものだけ持って出て行ってください」
高志が事務的に告げました。
「行き先は? 」
「それは母さんが考えることだろう」
その声には、もう息子の温かさは微塵も感じられませんでした。
衣咲が立ち上がりました。
「話は以上です。今夜は自分の部屋で荷物をまとめてください。私たちが見張っていますから、勝手に何か持ち出そうとしないでくださいね」
その瞬間、孫の凛がリビングに顔を出しました。
「おばあちゃん、どうしたの? 」
「凛、部屋に戻りなさい」
衣咲が鋭い声で命じました。
「でも、おばあちゃんが…」
「おばあちゃんは明日からいなくなるの。もう会えないから、さよならを言いなさい」
凛の目に涙が浮かびました。
「やだ、おばあちゃん行かないで」
私は凛を抱きしめたくなりましたが、衣咲がそれを遮りました。
「触らないでください。子供が混乱します」
高志も冷たく言いました。
「母さん、もう孫は他人だから。会うことはないと思って」
他人。五年間、愛情を注いできた孫まで他人だというのです。
私は深く息を吸い込みました。そして、もう一度皆の顔を見回しました。衣咲の両親は満足げに微笑み、衣咲は勝ち誇ったような表情を浮かべ、そして私の息子は、まるで他人を見るような目で私を見ていました。
「わかりました」
私は静かに立ち上がりました。
「お望み通りにいたします。家も全財産も、全て置いていきます」
あまりにもあっさりとした私の返事に、一瞬皆の表情が揺らぎました。
「本当にいいのか?
」
高志が確認するように尋ねました。私は微笑みました。心の底から湧き上がる、不思議な微笑みでした。
「ええ、構いません。全て、あなたたちのお望み通りにいたします」
その夜、私は自分の部屋で静かに身支度を整えました。窓の外では冷たい風が吹いていました。でも、私の心はなぜか温かいものに包まれていたのです。
部屋に戻った私は、まずドアに鍵をかけました。そして静かにクローゼットの奥に手を伸ばしました。そこには誰にも知られていない小さな金庫がありました。中にはこの家の登記簿、実印、印鑑証明書、そして最も重要な書類が入っていました。それは夫が生前、いざという時のために用意してくれていた委任状です。
これがあれば、私一人の判断でこの家に関するあらゆる手続きが可能になります。
時計を見ると、夜の十時を回っていました。私は携帯電話を取り出し、長年の友人である弁護士の藤原先生に電話をかけました。
「藤原先生、夜分に申し訳ありません。高田です」
「幸恵さん、どうされました? 」
「実は、緊急でご相談があります」
私は今夜の出来事を簡潔に説明しました。藤原先生は私の話を黙って聞いてくれました。
「なるほど。そういうことですか。幸恵さん、家の登記は確実にあなたの名義ですね」
「はい。間違いありません」
「では、法的にはあなたに全ての権利があります。明日の朝一番で動きましょう」
藤原先生との電話を切った後、私は次に不動産会社の社長である栗原さんに連絡を取りました。市役所時代からの知り合いで、信頼できる人物です。
「栗原さん、突然のお電話で申し訳ありません」
「高田さん、お久しぶりです。どうされました? 」
「実は、この家を売却したいのです」
事情を説明すると、栗原さんは快く理解してくれました。
「わかりました。その条件なら、すぐに買い手が見つかると思います。駅から徒歩圏内で、しかも登記がきれいなら、三千五百万円は確実につきます」
「ありがとうございます。できるだけ早く手続きをお願いします」
「明日の午前中に、現金で購入したいという顧客を連れて伺います」
次に、私は別の携帯電話を取り出しました。これは息子も知らない、私専用の電話です。銀行の担当者に連絡を取り、明日の朝一番で全ての口座から現金を引き出してほしいと依頼しました。
「三千万円全額ですか? 」
担当者が確認しました。
「はい。全額です。新しい口座も解約したいので、よろしくお願いします」
続いて、ライフラインの契約について確認しました。電気、ガス、水道、インターネット、全て私の名義になっていました。息子夫婦は面倒だからと言って、全ての契約を私に押し付けていたのです。
私は各会社のカスタマーセンターに電話をかけ、解約の手続きを進めました。
「一週間後の月末をもって、契約を解除させていただきます」
全ての手配が終わったのは、深夜一時を過ぎていました。私は机の引き出しから一冊の手帳を取り出しました。そこにはこの五年間の出来事が細かく記録されていました。息子夫婦からの暴言、理不尽な扱い、金銭の要求。全てが日付と共に記されています。
これは万一の時のために記録していたものですが、まさかこんな形で役立つとは思いませんでした。
そして最後に、一番大切なものを取り出しました。それは夫が残してくれた手紙でした。
「幸恵へ。もし俺が先に行って、お前が一人になった時に頼るのもいいが、自分の幸せを一番に考えてくれ。お前にはそれだけの資産と力がある。俺が残した三千万円は、お前の自由のためのものだ。誰にも遠慮することなく、自分の人生を生きてくれ」
夫の言葉が、今の私に勇気を与えてくれました。
午前四時、私は静かに荷造りを始めました。持っていくのは本当に最低限のものだけ。下着数枚、洋服二着、そして夫との思い出の写真だけです。
通帳も年金手帳も保険証券も、要求された通りテーブルの上に並べました。ただし、それらは全て、もう使えないものです。口座は空になり、保険は解約済み、年金も振り込み先を変更済みです。
そして、私は一通の手紙を書きました。
「高志へ。あなたの望み通り、全て置いていきます。家も通帳も、全てあなたのものです。ただし、それらにどんな価値があるかは、あなたが確かめてください。母より」
午前七時、私は最後に家の中を見回りました。三十八年の勤務で貯めたお金で買った家具、家電、食器。それら全てに別れを告げました。でも、不思議と悲しみはありませんでした。新しい人生が始まる予感に、私の心は踊っていました。
玄関で靴を履きながら、私は小さく呟きました。
「さようなら。そして、ありがとう」
私は薄明かりの中、静かに家を出ました。振り返ることなく、まっすぐ前を見据えて歩き始めました。財布には、昨日コンビニで下ろしておいた三万円だけ。でも、それで十分でした。なぜなら、本当の財産は別の場所に確実に守られているのですから。
タクシーを拾い、駅前のビジネスホテルに向かいました。そこで、新しい一日が始まるのを待つことにしたのです。
一週間後の朝、息子の高志は異変に気づきました。スマートフォンが充電されていないのです。時計を見ようとしても、真っ暗で何も見えません。
「電気がつかないぞ」
部屋のスイッチを押しても、部屋は暗いまま。リビングに出ると、衣咲の両親も困惑した表情で立っていました。
「どうも電気が止まっているみたいね」
衣咲の母親が不安そうに言いました。
高志がブレーカーを確認しに行きましたが、問題はありませんでした。そして更なる異変に気づきます。
「ガスがつかないわ」
衣咲がキッチンで叫びました。まるでライフラインが全て止まってしまったかのようでした。
高志は慌てて電力会社に電話をかけました。
「申し訳ございません。こちら の住所では、先週をもって契約が解除されております」
「解除?
誰が解除したんですか? 」
「契約者の高田幸恵様からのお申し出により…」
高志は言葉を失いました。ガス会社、水道局、インターネット会社、全て同じ回答でした。
「どういうことよ!? 」
衣咲が叫びました。
「お母さん、出ていく時に嫌がらせしたのよ! 」
その時、玄関のチャイムが鳴りました。高志が扉を開けると、そこにはスーツ姿の男性が三人立っていました。
「藤原法律事務所の藤原です。高田幸恵様の代理人として参りました」
藤原弁護士は書類を取り出しました。
「この家は高田様の所有物です。本日をもって売却が完了しましたので、明後日までに退去していただきます」
「売却?!
そんな馬鹿な! 」
高志は書類を奪うように受け取りました。確かにそこには、この家が第三者に売却されたことが記されていました。売却価格は三千五百万円。新しい所有者はすでに決まっているとのことでした。
「これはおかしいだろ! 俺たちが住んでいるんだから! 」
藤原弁護士は冷静に答えました。
「いいえ、当方の記録によれば、この家は最初から高田幸恵様の単独所有です。あなた方はあくまで同居人に過ぎません」
横で立っていた別の男性が前に出ました。
「栗原不動産の栗原です。新しいオーナー様は三日以内の明け渡しを希望されています」
衣咲が青ざめました。
「でも、お母さんは全財産を置いて行くって…」
「ええ、確かに置いて行かれましたね」
藤原弁護士は微笑みました。
「通帳も年金手帳も、全て置いて行かれました。ただし…」
高志は慌てて母が置いて行った通帳を確認しました。残高は全てゼロ円でした。
「これは…解約済みの保険証券、振り込み先変更済みの年金手帳。確かに置いて行かれましたが、もう何の価値もありません」
衣咲の父親が怒鳴りました。
「これは詐欺だ!
詐欺! 」
「詐欺? 」
藤原弁護士の声が急に冷たくなりました。
「高田様に対して、家と全財産を置いて出て行けと要求したのは、あなた方ではありませんか? 」
その時、引っ越し業者が到着しました。
「お荷物の搬出に参りました」
「荷物の搬出?
」
「はい。この家の家具は全て高田幸恵様の所有物です。売却に伴い、全て運び出させていただきます」
高志たちは呆然と見ているしかありませんでした。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ソファー、ダイニングテーブル。五年間使っていた生活道具が、次々とトラックに積み込まれていきます。
「待ってくれ! これは俺たちが使っているものだ! 」
引っ越し業者のリーダーがリストを見せました。
「これらは全て高田様が購入されたものです。領収書も保管されています」
確かに、家具も家電も、全て母が買ったものでした。面倒だからと言って、全て母に買わせていたのです。
衣咲が泣き叫びました。
「どうするのよ! 住むところもないし、生活道具もないなんて!
」
その時、藤原弁護士がもう一つの書類を取り出しました。
「それから、生活費の件ですが」
「生活費? 」
「高田様は五年間の家事労働の対価を、一度も受け取っておられません。一日八時間、時給千円で計算すると」
電卓を叩く音が響きました。
「およそ七百三十万円になります。これについては、別途請求させていただきます」
高志は足元がふらつきました。
「そんな…母さんは家族だろう…」
「家族? 」
藤原弁護士はメガネを直しました。
「あなた方は、高田様を『他人同然』『お荷物』と呼び、追い出したのではありませんか? 」
衣咲の両親も、事態の深刻さに気づき始めました。
「私たちには関係ないわ!
」
衣咲の母が叫びました。
「いいえ、関係あります」
栗原社長が口を開きました。
「あなた方も高田様を追い出すことに賛同されましたね。共同不法行為として、連帯責任を負っていただきます」
高志は、母が置いて行った手紙を震える手で開きました。
「高志へ。あなたの望み通り、全て置いていきます。家も通帳も、全てあなたのものです。ただし、それらにどんな価値があるかは、あなたが確かめてください。母より」
今になって、母の言葉の意味が分かりました。価値のないものを、置いていったのです。
「母さんは…今どこに…」
高志が呟きました。藤原弁護士は首を横に振りました。
「それはお教えできません。ただ、一つだけお伝えしておきます」
弁護士は一枚の写真を見せました。そこには駅前の高級マンションが映っていました。
「高田様は現在、こちらのペントハウスにお住まいです。家賃は月額四十五万円。もちろん、問題なくお支払いいただいています」
衣咲が言葉を失いました。
「四十五万円…どうやって…」
「高田様の個人資産はおよそ三千万円。さらにこの家の売却代金三千五百万円。合計六千五百万円の資産をお持ちです」
高志たちは完全に打ちのめされました。お荷物だと思っていた母親が、実は高志たちよりもはるかに裕福だったのです。
引っ越し作業が終わり、家はガランとしてしまいました。電気もガスも水道も使えない。家具も何もない空間に、高志たちは呆然と立ち尽くしていました。
「三日以内に退去してください。新しいオーナー様がリフォームを予定されていますので」
藤原弁護士も帰り際に言いました。
「高田様からの伝言です。『さよなら、そしてありがとう』と」
玄関が閉まり、薄暗い家の中で、高志は膝から崩れ落ちました。
「母さん…」
しかし、もう遅すぎました。自分たちが巻いた種は、全て自分たちに帰ってきたのです。
あれから三ヶ月が経ちました。私は高田幸恵、駅前の高級マンションの最上階で、新しい生活を満喫していました。
朝六時に目覚めると、大きな窓から朝日が差し込んできます。もう誰かのために早起きする必要はありません。自分のペースでゆっくりとコーヒーを入れ、ベランダに出て街並みを眺めます。
なんて静かで平和な朝でしょう。そう思いながら、私は深呼吸をしました。六十九歳にして、初めて味わう本当の自由でした。
マンションのコンシェルジュサービスは、想像以上に快適でした。買い物の代行からクリーニングの手配、タクシーの予約まで、全てお任せできます。
「おはようございます、高田様。今日は良い天気ですね。本日はご予約の陶芸教室がございますね。送迎の車は十時にご用意しております」
「ありがとうございます」
私は念願だった陶芸を始めたのです。市役所時代は忙しくて諦めていた趣味でしたが、今は時間がたっぷりあります。教室では同年代の友人もできました。皆さん、それぞれの人生を歩んできた素敵な女性たちです。
「幸恵さん、今日の作品も素敵ね」
友人の関田さんが褒めてくれました。
「ありがとうございます。自分の好きなことができるって、本当に幸せですね」
昼食はマンション内のレストランか、時には友人たちと外食を楽しみます。もう誰かの好みに合わせる必要もありません。午後は読書をしたり、映画を見たり、時には美術館に足を運んだり、文化的で充実した時間を過ごしています。
先日、孫の凛から手紙が届きました。学校で住所を調べて、こっそり送ってくれたようです。
「おばあちゃんへ。元気ですか? 私は元気です。お母さんには内緒で手紙を書きました。おばあちゃんに会いたいです。凛」
涙が溢れました。罪のない孫には、いつか会えることを願っています。でも、今は時期ではありません。
その頃、息子夫婦の生活は悲惨なものになっていました。家を追い出された後、高志たちは衣咲の実家近くの古いアパートに引っ越しました。二DKの狭い部屋に、大人四人での生活。すぐに、毎日のように遺恨会が起きているそうです。
高志からは何度も電話がかかってきました。
「母さん、お願いだ。会って話をさせてくれ」
私は全て着信拒否にしました。もう息子の声を聞く必要はないのです。私は彼らの不幸を喜んでいるわけではありません。ただ、自分たちが巻いた種は、自分たちで刈り取るしかないのです。それが人生の因果応報というものでしょう。
ある日、私は市役所時代の同僚たちと久しぶりに会いました。
「幸恵さん、本当に生き生きしているわね」
「ええ、やっと自分の人生を取り戻せました」
「息子さんのこと、大変だったでしょう」
「はい。でも、あれがあったから、今の幸せがあるんです」
私は心からそう思いました。あの屈辱的な夜がなければ、私はずっと息子夫婦の奴隷のような生活を続けていたでしょう。
理不尽には屈しない。それが私が六十九歳にして学んだことです。
友人たちは深く頷いてくれました。私の体験は、同世代の女性たちの間で話題になりました。同じように子供たちから理不尽な扱いを受けている人が、思った以上に多いことを知りました。
「私も勇気をもらいました。子供のためと思って我慢してきたけど、もう限界です」
そんな声を聞くたびに、私は伝えています。
「自分の人生は自分のものです。年齢なんて関係ありません。今からでも変えられるんです」
私は今、ボランティア活動にも参加しています。高齢者の権利を守るための相談窓口で、週に二回、相談員として活動しています。市役所での経験と自分の体験を生かして、困っている高齢者の方々の力になれることが何より嬉しいです。
「あなたには権利があります。諦めないでください」
そう伝えるたびに、相談者の顔に希望の光が宿るのを見ます。
夕方、マンションの自室に戻ると、夕日が部屋を黄金色に染めています。ソファに座り、お気に入りの紅茶を飲みながら、私は静かに一日を振り返ります。
高志のことを思い出すこともあります。小さかった頃の、優しかった息子の姿。でも、それはもう過去のこと。今の彼は、私の知っている息子ではありません。
人は変わってしまうのね。そう呟いて、私は窓の外を見ました。街の灯りが、一つ、また一つと灯り始めています。私の新しい人生も、こうして一日一日、確実に積み重なっていきます。
六千五百万円の資産があれば、残りの人生を優雅に過ごすには十分すぎるほどです。何より、誰にも遠慮することなく、自分の好きなように生きられることが、最高の幸せです。
「雅夫さん」
私は天国の夫に語りかけました。
「あなたの言葉通り、私は自分の人生を生きています。きっと褒めてくれるでしょうね」
夫の写真が、優しく微笑んでいるように見えました。
私の物語は決して特別なものではありません。ただ、勇気を出して一歩を踏み出しただけです。その一歩が、人生を百八十度変えることもあるのです。
今夜も、私は満ち足りた気持ちで眠りにつきます。明日も、素晴らしい一日になることでしょう。六十九歳、人生はまだまだこれからです。


