朝の4時、真っ暗なハウスで一粒一粒手摘みしたイチゴ。それが「ただのイチゴ」と切り捨てられた瞬間、私は言葉を失った。新人バイヤーの相澤は、30年かけて祖父と母が作り上げた品種を鼻で笑い、「下請けが黙ってろ」と吐き捨てた。しかも契約更新の条件は、三割引き。無理だと伝えれば、四割に変えられ、亡き母の日誌を「死んだ母親の手帳で泣き落とし?」と嘲笑された。祖父は何も言わず、ただ座っていた。でも、あの日…

朝の4時、真っ暗なハウスで一粒一粒手摘みしたイチゴ。それが「ただのイチゴ」と切り捨てられた瞬間、私は言葉を失った。新人バイヤーの相澤は、30年かけて祖父と母が作り上げた品種を鼻で笑い、「下請けが黙ってろ」と吐き捨てた。しかも契約更新の条件は、三割引き。無理だと伝えれば、四割に変えられ、亡き母の日誌を「死んだ母親の手帳で泣き落とし?」と嘲笑された。祖父は何も言わず、ただ座っていた。でも、あの日...

「素の農家の娘に契約の話が分かるんですか?」

新人バイヤーの長が会議室に冷たく響かせた言葉だ。周りの大人たちは誰一人として彼を止めなかった。それでも私は言い返さなかった。こういう場面を私はもう何度も見てきた。

このイチゴを誰が育て、なぜ他の誰にも作れないのか。その意味を目の前の彼はもう知る機会を失っている。全国の店を支えるあの一粒がどこから来るのかも。

鞄の底には、亡き母が残した一冊の栽培日誌がある。

明日の朝、この巨大な組織は思い知ることになる。

これは25歳の私と、頑固な祖父が会議室を静かに凍りつかせた日の記録だ。

朝の4時、まだ辺りが暗いうちに私は起きる。綾瀬イチゴ農園の一日はいつも誰よりも早く始まった。ビニールハウスの扉を開けると、甘い香りがふわりと立ち込める。

祖父が歳月をかけて育て上げた品種、赤の雫。一粒を口に含むと、蜜のような甘さの奥から夕焼けを思わせる香りが広がった。

「実り、今日の色はどうだ?」

軍手をはめた祖父が、腰を曲げて畝の間を歩いてくる。79歳とは思えない、穏やかでそれでいて鋭い目だった。

「この列は食べ頃だと思う」

「よく見てる。お前は本当にみさに似てきたなあ」

みさというのは、5年前に病で亡くなった私の母だ。祖父と母は30年近い歳月をかけてこのイチゴを作り上げた。甘さと香りを両立させるために、何百回も交配を繰り返したのだという。

そうして生まれた赤の雫は、国に品種登録され、栽培する権利を持つのは綾瀬農園ただ一件だけになった。

母が名付けたこの名前は、夕暮れの畑を真っ赤に染める光の色から取られている。

今ではこのイチゴは、全国に店を構えるスイーツ専門店ベルフルールの看板メニュー、赤の雫のイチゴパフェに使われていた。どこの店でも一番人気の品だと聞いている。

「うちのイチゴは数では大手の農家に叶わん」

祖父はいつもそう言って静かに笑った。

「だが味と香りだけは世界のどこにも負けん。それでいいんだ」

派手さはない。それでも、この畑に流れる空気が私は何より好きだった。

だが、その穏やかな日々が一本の電話をきっかけに崩れ始めることを、この時の私はまだ知らなかった。

電話は収穫を終えた昼下がりにかかってきた。

「綾瀬さんのご家族の方ですか?」

慌ただしい声に、私の胸がざわついた。父が畑の隅で倒れ、そのまま救急車で運ばれたのだという。

病院に駆けつけると、父はストレッチャーの上で青白い顔をしていた。過労と極度の疲れが重なった急性の心不全だった。

「命に別状はありませんが、しばらくは絶対安静です」

医師の言葉に、私はその場に座り込みそうになった。

父は一人で栽培から出荷、取引先との交渉まで背負い込んでいた。母が亡くなってからの5年間、その背中はいつも張り詰めていたのだ。

「実り、すまん」

点滴につながれた父が、かれた声で言った。

「実は明日、ベルフルールとの契約更新の面談があるんだ。相手は多忙で、一度はこちらの都合で日程を変えてもらっている。これ以上伸ばすわけにはいかない」

「私が代理で行く」

気づけばそう口にしていた。

「前年度と同じ条件での更新でしょ。私にもできるはずよ」

父は迷う表情を見せたが、やがて小さく頷いた。

「担当の小暮さんは義理堅い人だ。きっと大丈夫だ」

その夜、私は仏壇の前に座り、母の写真に手を合わせた。そして引き出しから、母が残した一冊の栽培日誌を取り出す。表紙はすり切れ、ページには母の几帳面な字がびっしりと並んでいた。

お守りのように、それを鞄の底へそっと忍ばせる。

「明日はわしも一緒に行こう」

いつの間にか祖父が背後に立っていた。

「念のためだ。一人いるだけで話がこじれずに済むこともある」

その言葉がどれほど大きな意味を持つのか、この時の私はまだ何も分かっていなかった。

翌朝、私は祖父と共にベルフルールの本社へ向かった。受付で名前を告げ、案内された会議室で担当者を待つけれど、約束の時刻を10分過ぎても誰も現れなかった。

ようやく扉が開いたのは、それからさらに5分後のことだ。ノックもなく入ってきたのは、まだ若い男だった。仕立てのいいスーツに磨き上げられた革靴。値踏みするような冷たい目で、私と祖父を上から下まで眺める。

「どうも、バイヤーの相澤です」

そう言って名刺をテーブルの上に滑らせるように放った。

「あの、担当は小暮さんと伺ってたのですが」

「ああ、小暮さんは異動でね。今はこのエリアの農家全部、僕が見てるんです」

彼はどっかりと椅子に腰を下ろし、足を組んだ。

「で、そちらは?」

「父が入院しておりまして、娘の私が代わりに伺いました」

「はあ」

相澤はわざとらしくため息をつき、前髪をかき上げる。

「言っておきますけど、僕は前任者みたいに農家に甘くないんで。社内じゃ鬼と呼ばれてるんですよ」

その言葉にも、隣の祖父は何も返さず、ただ静かに座っていた。

「簡単に契約更新できるなんて甘い考えは持たない方がいいですよ」

私は膝の上でぎゅっと拳を握る。こういう場面を、私は嫌というほど見てきたはずだった。それでも初めて畑の外で向き合う侮辱は、思っていたよりずっと冷たい。

鞄の底の日誌が、かすかに背中を押してくれる気がした。落ち着いて。まだ何も始まっていない。そう自分に言い聞かせた。

祖父が口を開こうとした時、相澤が先に切り出した。

「率直に言わせてもらいますけど」

相澤はテーブルに肘をつき、くすっと笑った。

「綾瀬さんとこのイチゴって、正直そんなに特別ですか? 赤くて甘い。それだけでしょう。ぶっちゃけただのイチゴじゃないですか?」

私は一瞬言葉を失った。祖父と母が30年かけて生み出したものを、彼はあまりに簡単に切り捨てた。

「今うちも経営がシビアでしてね。仕入れ値、もう少し下げてもらえません? 下げるというのは三割引き。それで契約更新してあげてもいいですよ」

「三割?」

思わず声が裏返った。今の単価でも資材や燃料の高騰でギリギリなのだ。そこから三割も引けば、作れば作るほど赤字になる。

「それはあまりに厳しいです。うちのイチゴは一粒ずつ食べ頃を見て手で積んでいて、そういう昔ながらのやり方で……」

相澤は面倒くさそうに私の言葉を遮った。

「効率が悪いから高くつくんでしょう。機械化すればいいだけの話じゃないですか」

手でしか守れない味があることを、この人は分かろうともしない。反論しかけた私の膝に、祖父がそっと手を置いた。

「相澤さん、条件については一度持ち帰って検討させてもらえますかな?」

「はあ。まあ、じいさんは話が分かるね」

相澤は満足そうに頷く。

「あんまり時間はないんで、いい返事を早めにお願いしますよ」

会議室を出るなり、私は唇を噛んだ。

「おじいちゃん、あんな言い方って……」

「まあ落ち着きなさい」

祖父は穏やかに言った。

「相手にも事情はある。一度で席を立つのはまだ早いよ」

その数日後、地元の農家が集まる寄り合いがあった。父の代わりに私が顔を出すことになる。公民館の畳の間に、見知った顔がずらりと並んでいた。

「みのりちゃん、お父さんの具合はどうだい?」

「はい。今は入院して絶対安静で、回復を待っているところです」

「そりゃよかった。無理せんようになあ」

和やかに始まった集まりだったが、話がベルフルールに及んだ途端、空気が重くなった。

「ところでみのりちゃん、あんたんとこも担当が相澤さんに変わったろ」

そう切り出したのは、隣町で野菜を作る田村さんだった。

「はい。三割引きを突きつけられて、今検討中で……」

「やっぱりか」

田村さんは深いため息をついた。

「うちもだよ。あの人になってから、どこも三割四割と値切られてる。四割値切られた小野さんとこなんか、無茶な納品量を飲まされてね。奥さんが過労で倒れちまった」

座敷の隅で、白髪の小野さんが力なく俯いている。

「それでも相澤さんには逆らえんさ。契約を切るって言われたら、こっちは飲むしかない。結局、泣き寝入りするしかないのかね」

誰かのその一言が、畳の上に重く沈んだ。

相澤に泣かされているのは、うちだけではなかったのだ。

胸の奥がぐっと熱くなる。みんな家族の暮らしと畑を守るために必死で頭を下げている。それをあの男は「効率が悪い」の一言で踏みつけにしていた。

「みのりちゃん、あんたんとこのイチゴは特別だ。あれだけは安売りしちゃいかんよ」

田村さんの言葉に、私は静かに頷いた。悔しさと小さな怒りが、確かに胸の中で芽を出していた。

それから数日、私と祖父は少しでもコストを抑える道を探し続けた。

「有機肥料なら、格安で分けてくれる知り合いがおる。資材も、昔世話になった販売店に声をかけてみよう」

祖父はそう言って、あちこちに電話をかけてくれた。

「おじいちゃん、本当に顔が広いね」

「何? 長年この土地で頭を下げてきただけさ」

祖父の人脈のおかげで、肥料代も資材も思っていた以上に削ることができた。私は母の日誌を開き、無駄を落とせないか何度も読み返す。

そうして数字を積み上げていった結果、どうにか出せる限界は二割引きだった。

「三割は、どう計算しても無理だね」

「ああ。だが、できる限りの努力はした。誠意を持って分かってもらうしかない」

病室の父に報告すると、痩せた顔で静かに頷いた。

「実り、ありがとうな。無理だけはするなよ」

「うん。でも、うちのイチゴの価値だけはちゃんと伝えてくる」

面談の前夜、私はふと前回の相澤の態度を思い出した。あの調子では、どんな言いがかりをつけられるか分からない。

私はスマホを手に取り、録音アプリの使い方を念のため確かめておく。証拠として残すつもりなど、その時はなかった。ただ、身を守るためのささやかなお守りのようなものだった。

「明日はわしも行く」

祖父が湯のみを置きながら言った。

「今度は少しばかり長話になるかもしれんな」

その横顔には、いつもの穏やかさの奥に、見たことのない静かな覚悟が滲んでいた。私はまだ、祖父が背負っているものの本当の重さを知らずにいた。

翌日、私は祖父と共に再びあの会議室に通された。扉の前で深呼吸をして、スマホをそっと胸ポケットに滑り込ませる。録音のスイッチは、すでに入れてあった。

「ねえ、わざわざ来たってことは、三割で話がついたんだよね」

相澤は挨拶もなく、足を組んだまま切り出した。

「いえ、何度も見直しましたが、三割はどうしても難しくて……」

私は資料を差し出した。

「コストを限界まで削って、二割引き。これが私たちにできる精一杯です」

相澤の表情がみるみる険しくなる。

「はあ。こっちは三割って言ってんのに二割。ふざけてんの?」

「ふざけてなどいません。これ以上引けば、うちはイチゴを作り続けられなくなります」

「じゃあペナルティだ。四割にしろ。四割できないなら、こんな契約こっちから願い下げだよ」

私は思わず立ち上がりかけた。

「四割なんて、そんな無茶な……食べ物を作る仕事を何だと思っているんですか?」

その瞬間、相澤の声が低くなった。

「下請けが黙ってろ」

空気がピリッと張り詰める。

「いいか、うちが買ってやってるから、お前らみたいな農家が飯を食えてるんだ。身のほどを知れよ」

握った拳が細かく震えた。それでも相澤は止まらない。私の鞄から覗いた、すり切れた日誌に目を止める。

「何、その古臭いメモ? まさか、そんなものが交渉の大事な相手か?」

「母の日誌です」

「へえ。死んだ母親の手帳を握りしめて、泣き落としのつもり? そういうの、本当迷惑なんだよね」

頭の中がカッと熱くなった。何か言い返そうとした、その時だった。

それまで一言も発さず座っていた祖父が、静かに、ゆっくりと立ち上がった。

「相澤さん、一つだけ教えておきましょう」

祖父の声は驚くほど穏やかだったけれど、その一言で会議室の空気が浸透のように静まった。

「あなたが今、ただのイチゴと切り捨てたその赤の雫。あれを作れるのは、この世で綾瀬農園ただ一件だけです」

「はあ? 何言ってんの? じいさん」

相澤は鼻で笑おうとした。だが、祖父の目を見て、その笑いが途中で凍りついた。

「あのイチゴは国に品種登録された品種でしてな。育てる権利を持つのは、登録した者と、その者が許した農家だけ。他の誰が真似しようとしても、法で禁じられているんです」

「その品種を30年かけて生み、育て、登録した育成者が」

祖父は静かに自分の胸へ手を当てた。

「この私です」

時間が止まったようだった。相澤の顔から、みるみる血の気が引いていく。

「あなたは今、うちを下請けと呼びましたな。ですが、その下請けがいなくなれば、あなたの会社の看板は明日から品を失う。あの雫のパフェ。あれはこのイチゴでなければ作れない。よそのどんな農家からも、二度と仕入れられませんよ」

会議室に居合わせた社員たちが、息を飲んだのが分かった。

「ま、待てよ。そんな話、聞いてない」

「あなたが聞こうとしなかっただけです」

祖父は静かに頭を下げた。

「相澤さん、この契約は今日で終わりにさせてもらいます。長い付き合いだったが、仕方がありませんな」

そして、私の肩にそっと手を置く。

「実り、帰ろう」

立ち上がった祖父の背中が、この時、いつもの何倍も大きく見えた。

帰り道の車の中、祖父はしばらく黙っていた。

「すまんな、実り。こっそりと動いてしまって」

祖父は静かに言った。

「本当は、お前が助けを求めるまで口を出さんつもりだったんだ」

「うん。おじいちゃんが立ってくれなかったら、私、あの場で泣いてた」

「長い付き合いだったからなあ。できれば丸く収めたかったが」

祖父は窓の外を流れる田んぼを見つめた。

「あそこまで農家を虫けらのように扱われては、黙ってはおれん」

「契約、大丈夫かな?」

「そのことなら心配らん」

祖父はいつもの穏やかな顔に戻っていた。

「実はなあ、お前が数字と睨めっこしている間に、昔の知り合いに声をかけておいた。うちのイチゴを是非扱いたいという店が、いくつもあるんだ」

「いつの間に?」

思わず笑ってしまった。この人にはいつも敵わない。

けれど、私にはまだやり残したことがあった。苦しめられているのは、うちだけではない。隣の農家の小野さんも、他の仲間たちも、相澤の横暴に泣かされている。

その夜、退院したばかりの父にも相談し、私は決意した。

翌朝、私はベルフルールの本社に直接電話をかけた。面談での相澤の態度、農家を下請けと見下し無理な条件を突きつけてきたこと、そして寄り合いで聞いた他の農家たちの被害。それらを一つ一つ、丁寧に伝える。

電話口の担当者は、みるみる声を変えた。

「大変申し訳ございません。至急、社内で調査いたします」

そう約束すると、ほどなくして折り返しの電話が入った。

「明日、責任者がそちらへ直接、お詫びに伺わせていただきます」

それは、事態が大きく動き出す始まりの合図だった。

翌日の午後、綾瀬農園に三台の車が止まった。降りてきたのは専務の高梨さんと、前の担当だった小暮さん、そして相澤だった。

「この度は弊社の社員が取り返しのつかない過ちを。心よりお詫び申し上げます」

高梨専務が深々と頭を下げる。

「私が昇格で現場を離れている間、担当を相澤に引き継いでもらっていたんです」

そう言ったのは、小暮さんだった。

「まさかこんなことになっていたなんて。本当に申し訳ありません」

だが、相澤だけは不服そうに口を尖らせていた。

「僕は普通に更新手続きをしようとしただけですよ。それをそっちが勝手に契約を切るって話を蒸し返して」

「普通にですか?」

私は静かにスマホを取り出した。

「それでは、あの日の面談を皆さんにも聞いていただきましょう」

録音アプリの再生ボタンを押す。静まり返った座敷に、あの日の相澤の声が流れ出した。

「下請けが黙ってろ」「うちが買ってやってるから、お前らみたいな農家が飯を食えてるんだ」「死んだ母親の手帳を握りしめて、泣き落としのつもり?」

相澤の顔から、音を立てるように血の気が引いていく。

「あの……これは、実は身を守るために録音させていただいていたんです」

高梨専務と小暮さんの表情が、みるみる険しくなった。

「相澤、これでも自分は悪くないと言い張るのか?」

「違うんです、専務。これは……」

「黙れ。もう調べさせてもらった。お前は他の契約農家にも、独断で無茶な値引きを強要して回っていたそうだな」

専務の声が、血を吐くように低くなる。

「会社はそんな指示を一度も出していない」

「そ、そんな……」

「お前は、自分が誰に何をしたのか、まるで分かっていないようだな」

高梨専務は深いため息をついた。

「こちらの綾瀬さんが、どういう方か知っているのか?」

「え? ただの農家の年寄りじゃ……」

「あの雫をたった一人で生み出した育成者だ」

専務の言葉に、相澤の肩がびくりと震えた。

「30年かけて品種を育て、国に登録された、この地域の農業の宝のような方だ。うちの看板メニューの赤の雫パフェは、綾瀬さんのイチゴがあって初めて成り立っている。全国何百という店の一番人気だ。そのイチゴをお前は『ただのイチゴ』と切り捨て、契約まで切らせた」

相澤の顔が、紙のように白くなっていく。

「もし本当に契約が切れていたら、うちは看板商品を失い、どれだけの損害が出たか分からん。お前は会社の屋台骨に、自分の手で斧を振り下ろしたんだ」

「そ、そんな……僕はただ……」

「言い訳は車に戻ってから聞く」

専務はそう言い捨てると、改めて祖父に向き直り、深く頭を下げた。

「綾瀬さん。図々しいお願いなのは承知の上です。どうか、これまで通りお取引を続けていただけないでしょうか? うちのイチゴは、甘くて香りがいいとお客様に本当に愛されています。この味を絶やしてしまうわけにはいかないんです」

祖父はしばらく専務の顔を見つめてから、静かに口を開いた。

「分かりました。ただし、条件があります。無理な値引きにはもう応じません。それと、あなたに泣かされた他の農家さんにも、きちんと筋を通してあげてください」

「もちろんです。責任を持って対処いたします」

専務は何度も深く頭を下げた。

後日、小暮さんがわざわざ電話で知らせてくれた。相澤は降格処分を受けたという。給料も大幅に減らされ、担当していた農家からは全て外された。今は社内で備品の整理や雑用ばかりを任されているらしい。

「なぜ俺がこんな雑用を」と腐る相澤に、周りの社員も冷ややかだったと聞く。

自業自得だと、私は思った。

一方で、綾瀬農園はこれまでにない忙しさに包まれていた。ベルフルールとの契約は、以前と変わらぬ条件で無事に更新された。それに加えて、祖父が声をかけていた新しい取引先とも、次々と契約が決まっていく。

「赤の雫を、うちの店で是非使いたい」。そんな嬉しい申し出が、あちこちから舞い込んできた。

退院した父も、少しずつ畑に戻り、痩せた頬に血色がさしてくる。

「実り。お前とおじいちゃんに助けられたな」

父の言葉に、私は照れ隠しに笑った。

梨の農家の小野さんたちにも、会社から正式な謝罪と条件の見直しがあったという。

「みのりちゃんのおかげだよ。本当にありがとう」

そう頭を下げられて、胸が温かくなる。

畑には、いつもの穏やかな日々が戻ってきたはずだった。

ある朝、ハウスの見回りをしていると、地面に見慣れない足跡が残っていた。雨も降っていないのに、土が不自然に乱れている。

気のせいかな。その時はそう思おうとした。

けれど、数日後、近所の人から思いがけない話を耳にする。

「みのりちゃん、夜中にあんたの畑の前で、見かけない男がうろついてたよ」

その言葉に、私の背筋がすっと冷たくなった。

不審な足跡の話を聞いてから、私たちは警戒を強めた。祖父の提案で、ハウスの隅に小さな監視カメラを取り付ける。

その数日後の深夜のことだった。スマホに、カメラが動きを検知したという通知が届く。

私は懐中電灯を握りしめ、そっとハウスへ向かった。扉の隙間から、明かりが漏れている。中では、黒い人影が地面にしゃがみ込んでいた。

土を掘り返し、育ててきた赤の雫の親株を袋に詰め込んでいる。

「そこで何をしているの?」

私の声に、人影がびっくりと振り返った。懐中電灯の光に照らし出されたのは、あの相澤だった。

「相澤さん……!」

「来るな。これは俺の正当な取り分だ」

相澤は血走った目で叫んだ。

「このイチゴさえあれば、俺は一発で逆転できるんだ。お前らみたいな田舎者に独り占めさせてたまるか」

「その株を持ち出しても、栽培する権利はあなたにはない。それは歴とした犯罪です」

「うるさい! 誰にも言うな!」

「言っておきますけど、この様子は全部、そこのカメラに映っています」

私が指さした先で、赤いランプが静かに点滅していた。

相澤の顔が、絶望に歪む。

「実り、下がってなさい」

いつの間にか、祖父と父が駆けつけていた。逃げようとする相澤は、父にがっちりと取り押さえられる。

ほどなく到着した警察に、相澤はその場で現行犯逮捕された。育成者権を侵害する種苗法違反、そして窃盗と建造物侵入。罪状はいくつにも積み重なっていった。

後日、ベルフルールは相澤を懲戒解雇とし、独断で招いた損失についても本人へ賠償を求める方針を固めたという。

その後、相澤の裁判が開かれた。言い逃れのできない証拠の前に、彼はほとんど反論もできなかった。判決では執行猶予こそついたものの、前科が残ることになる。

会社から求められた数百万円の賠償。そしてわずかな貯金。そのほとんどを失い、再就職の当てもないまま、彼は街から静かに姿を消したという。

「うちのイチゴを下請けと見下した報いだな」

父が、ぽつりと呟いた。

騒ぎが落ち着いたある夜、私は久しぶりに母の日誌を開いた。何度も読んだはずのそれを、最後のページまでめくった時だった。これまで気づかなかった母の小さな書き込みが、隅に残っている。

「このイチゴは、私とお父さんと、いつか継いでくれる誰かの宝物。売り物である前に、食べた人を笑顔にするために生まれてきたの」

その一文に、私の目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「母さんは、ちゃんと分かっていたんだな」

いつの間にか、隣に祖父が立っていた。

「赤の雫。この名前は、母さんが夕焼けの色からつけたんだったね」

「はい」

「あの人は、この畑の夕暮れが何より好きだった」

翌朝、私はいつものように夜明け前の畑に立つ。真っ赤に熟した実を、一粒ずつ丁寧に手のひらへ摘み取った。

数では大手に叶わないかもしれない。それでも、この一粒に込めた味と香りは、世界のどこにも負けない。泥臭いと笑われたって構わない。汗を流して人を笑顔にする、この仕事が私は何より好きなのだから。

朝日を浴びた赤の雫が、母の愛した夕焼けの色で、キラキラと輝いていた。

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