10年ぶりに本社へ戻ってきた初日、廊で同僚の苛がニヤニヤしながら立ちはだかった。
「お前のおかげで俺も部長だよ。部長権限で俺の部下にしてやろうか。どうせまたすぐに地方に飛ばされるんだろ?気の毒にな。俺が社長に頼んで何とかしてやろうか」
こいつは昔からそうだ。上には媚びへつらい、自分より下だと思えば平気で足を引っ張る。10年前、俺をこの男が嵌め落とした。あの日からずっと、この復讐だけを心に誓って生きてきた。ようやくその時が来た。
思わず笑みがこぼれた。こいつがまだ何も知らないと思うと、どうしようもなく可笑しかった。
――俺の名前は岡村。大学を卒業して大手IT企業に就職し、本社の営業部に配属された。口下手で営業なんて向いていないと思っていたが、部長は言ってくれた。「相手が何を望んでいるかを丁寧に掴むのが営業だ」と。働くうちに、この仕事が好きになっていった。下調べを入念にし、丁寧な対応を心がけた。少しずつ得意先との信頼関係も築け、手応えを感じるようになった。
数年後、部長と昼食を共にした時のことだ。
「岡村君も営業をだいぶ続けてきたな。次の人事でチーフマネージャーに考えているが、どうだ?」
驚いた。自分なりに地道にやってきたが、それが評価されるとは思っていなかった。
「君はいつも誠実に仕事に取り組んでいる。長く付き合っている得意先も多い。そろそろ責任ある仕事を任せたいんだ」
部長の言葉に、胸が熱くなった。この人のために頑張ろう、と思った。
ところが、それから一週間ほど経った日の朝。エレベーターで同期の苛と鉢合わせした。
「聞いたぞ。お前、チーフマネージャーになるんだってな。お前みたいなノロマに務まるのか?」
そう言って苛はニヤニヤ笑っていた。
「どこで誰に取り入ったのか知らないが、せいぜい頑張れよ」
苛は自分のフロアに着くと、捨て台詞を残して降りていった。こいつは仕事は適当だが、人に取り入るのが上手く上司からの評判だけはいい。それでいて、自分より下だと思う人間には態度を変えてくる。入社以来、俺と苛は水と油のような関係だった。
数日後、部長が皆の前で言った。
「みんな聞いてくれ。岡村君の大きな取引がまとまりそうだ」
あの行政機関向けの事務処理システムの案件。俺が一年前から何度も足を運び、心血を注いできた仕事だ。まとまれば数十億という大型契約になる。
「おめでとうございます!」
「さすが岡村さん!」
皆の言葉に、照れくさくて汗が出た。コツコツやってきたことが認められた瞬間だった。
――その数日後だ。部長が俺のデスクに来て、耳元で囁いた。
「岡村君、監査役が君を呼んでいる。すぐに行ってくれ」
監査役の部屋に入ると、重い空気が流れていた。
「岡村君、忙しいところ申し訳ない。実は先日、君に対する密告があってね」
「密告?私は何も心当たりがありませんが」
「君が行政機関用のシステムの案件をまとめるため、賄賂を送り、違法な接待を繰り返しているというんだ」
あまりのことに頭が真っ白になった。
「そんなはずありません!私は何もやっていません。担当者に確認していただければすぐに分かります」
「火のないところに煙は立たないと言うだろう。密告者は君を処罰しなければ、然るべき機関に告発すると言っている」
「お願いします、調べてください」
「会社としては、事実がどうであれ、メディアに取り上げられ会社の名前が出ることが一番の問題なんだ。疑いのある人物を厳しく処罰せざるを得ない」
濁った目で監査役は言い放った。会社は一人の社員の無実よりも、会社の名誉を選んだのだ。
翌日、降された処分は「地方子会社への出向」だった。噂が広がらないよう、理由は伏せられた。
「密告って何なんだ……誰がそんなことを?」
いくら考えても分からない。苛に、その真相を知っているんじゃないかと疑ったこともある。だが確証はなかった。
出向が正式に発表されると、同僚たちが心配そうに詰め寄ってきた。
「岡村さん、出向ってどうしてですか?まさか希望したわけじゃないですよね?」
「ああ……新しい経験を積みたくてね」
俺は適当に誤魔化した。そんな中、本社での最終日。苛が珍しく俺のデスクに来て、顔を近づけて囁いた。
「密告のせいで仕事を追われて、哀れだな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが、次の瞬間には理解した。誰も知らないはずの「密告」のことを、この男だけが知っている。密告電話を入れたのは、こいつだったんだ。
「覚えていろ。俺はこのままでは終わらせない」
俺は小声で呟いた。
それから10年。子会社での日々は決して楽ではなかった。だが、俺は腐らず働き続けた。すると、同期の社員が言ってきた。
「岡村さん、本社で大きな取引がまとまったそうですね。厚生機関向けの大掛かりなシステムで、テレビでも大騒ぎですよ」
それは俺が担当していたあの案件だった。
「担当は苛さんだそうですよ。出世頭で話題らしいです」
あいつが、俺の案件を奪い取って、出世しているのか。俺を蹴落としたのは、ただの嫉妬だけじゃなかったのか。あの仕事まで奪うためだったのか。悔しさで歯を食いしばった。
それからさらに月日が流れ、臨時移動で俺が本社に復帰することになった。出向から10年後だ。子会社の社員たちとの別れは辛かったが、晴れて本社に戻れて嬉しかった。
挨拶回りをしていると、廊下の向こうから男が歩いてきた。
「よう、岡村じゃないか」
10年ぶりに見る苛は、相変わらずの嫌な笑みを浮かべていた。
「のこのこ戻ってきやがって。どうせまたすぐに地方に飛ばされるんだろ?気の毒にな。俺が社長に頼んで何とかしてやろうか」
俺は思わず笑ってしまった。苛は眉をひそめる。
「何を笑ってんだ?地方で頭がおかしくなったのか?」
「苛、お前はまだ知らないみたいだな。今度の役員会で、俺は社長に就任するんだよ」
「はあ?お前、本気で頭がおかしくなったんじゃないか?お前が社長なら俺は会長にでもなるか」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだ。社長権限で、お前は首だ」
「負け犬はよく吠えるな。バカバカしい」
苛はそう言い捨てて、俺を嘲るようにして立ち去っていった。あいつはまだ分かっていない。これが現実だと。
数日後の役員会で、俺の社長就任と苛の解雇が決定した。
「苛、一体どういうことだ!お前が社長って、お前が俺を首にするって、冗談だろ!?」
苛は慌てて俺のところにやってきた。
「何を言っているんだ?お前は首だ。もう決定したことだ。お前は部下に対して暴力的な言動を繰り返していただろう。調査はもう終わっている。君の所業は、一人や二人の証言じゃない」
「そんな……あんまりだろ!俺は会社のためにやってきたんだ!」
「今更何を言っている?お前は散々、下の人間に対してひどいことをしてきた。それを棚に上げて出世しようとしている。どうしようもないな」
苛は唇を噛みしめ、肩を落として去っていった。あいつは自分が賢く立ち回っていると思っていたのだろう。だが、本当の実力は違うところにあった。皆、見抜いていたのだ。
――その後、俺は元部長であり前社長に挨拶に行った。俺を社長に推薦してくれたのは、彼だった。
「社長、長い間お疲れ様でした。私が社長にまでなれたのは、入社以来の地道な努力を認めてくださったからです。子会社でも頑張れたのは、社長のおかげです」
「君には本当に苦労をかけた。以前チーフマネージャーにと思っていたが、叶わなかった。それが悔やまれてね」
「あの時、自分の仕事ぶりを認めてもらえたことが、何より嬉しかったです」
「これからはこの会社を頼んだよ。君の地道な頑張りは、誰にでもできることではない」
固く握手を交わした。俺は社長になった以上、真面目に働く社員を大切にし、この会社を守っていく。それが、俺の使命だ。



