あの日、義母が突然、私たちの新居に来ることを決めた。
「これから私たちもここに住むからね。そのために広いLDKを買ったんだから」
そう言って、夫のたく志は悪びれる様子もなく宣った。私に相談もなく、決定事項として。私は呆れ果てた。しかし、驚きはしなかった。この日が来ることを、私はずっと待っていたのだから。
「同居なんて絶対に無理よ。だって今日で離婚するから。嫁をやめるから、介護は別の人に頼んでね」
「は? 離婚だと? 専業主婦のくせに、一人で生きていけると思っているのか?」
彼は笑った。窓の外に、笑い声が聞こえた人がいた。彼はそれに気づかず、笑い続けていた。
本当にバカな人。私は全て知っているのに。あなたは必ず後悔するわ。私はそっと、あるものを取り出した。白地に緑で枠が書かれた、離婚届だった。すでに私の記入欄は埋まっている。
「ペンも用意してあるわ。今すぐに書いてちょうだい」
「ふざけているのか!」
彼はペンを弾き飛ばした。そして、離婚届を破り始めた。ビリビリという音が部屋に響く。私は焦ることなく、ただ黙ってそれを見守っていた。
「離婚なんてするわけないだろうが! 大人しく親父やお袋の面倒を見ていればいいんだよ!」
「あなたが何枚破っても、私の意思は変わらないわ。いい加減諦めて。あなたに残された道は、ここにサインすることだけよ」
私は二枚目の離婚届を取り出した。彼はあんぐりと口を開けた。マジックでも見ているかのような驚きようだった。
「うるせえな! 離婚は認めないって言っているだろうが!」
彼は義両親の話題を出してきた。私は淡々と詰め寄る。
「いい加減にして。これはあなた自身の行動が招いた結果よ。あなたはこれまで、散々私を苦しめてきた。自分のことを大切に扱わず、見下してくるような相手と、誰がこの先も一緒にいたいと思う?」
すると、彼の拳が震え始めた。怒りを抑えきれずに飛びかかってくるのかと思ったが、予想は外れた。
「馬鹿にしやがって。何がお前を苦しめてきただよ。お前は今まで、誰のおかげで生活できていたか分かっているのか? 俺が養ってやったんだろうが! その立場で、お前が俺の言うことを聞くのは当たり前だろうが!」
彼の怒鳴り声は、窓ガラスを震わせるようだった。私は眉間に皺を寄せ、目を細めることで耐えた。
「お前みたいな顔だけの女が、何を偉そうに!」
私はぼんやりと、過去の記憶を振り返っていた。私の実の両親は、私が高校生になった頃に失踪してしまった。誰にも答えてもらえないまま、私は一人で生きていくことを決めた。大学には行かず、働いた。友人もいなかった。私は、人の形をしたロボットのようだった。
そんな私を変えたのが、夫との出会いだった。凍りついていた心が溶け、笑顔を取り戻すことができた。彼は私にとって、特別な人間だった。
そんな彼が、私を試していたなんて。彼が私に近づいてきたのは、私を「介護要員」にするためだった。その真実を知った瞬間、私の胸の内には怒りの炎が吹き出した。
「生き恥を晒しやがって! お前が俺に逆らうなんて許されるわけがないだろうが!」
彼が罵声を浴びせても、私は表情を崩さなかった。ちょうどその時、インターホンが鳴った。
「いやあ、恵さん、お邪魔するわね」
予想通り、義両親が立っていた。二人は優しそうな雰囲気だったが、床に散らばった細切れの紙を見て、表情を固くした。
「こ、これは……二人とも、何があったのか聞かせてくれるか?」
義父がそう言うと、夫は慌てて言い訳を始めた。
「いや、それが、突然、離婚を切り出してきたんだよ。同居したくないみたいでさ」
私に責任をなすりつけるつもりだったのだろう。しかし、義両親は違った。
「恵さん、そう思った理由とか、あるのかしら?」
二人は、私の話も聞こうとしてくれた。私はゆっくりと顔を上げ、二人を見据えた。
「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい。お二人とは同居できません。私はたく志さんと離婚するつもりです。今回の同居について、私は一切知らされていなかったんです」
「え? どういうことだ?」
私は、夫が私を介護要員にするつもりでいたこと、それを知られたら断られると思って黙って同居を進めようとしていたこと、それから、もう一つ衝撃的な事実を伝えた。
「実は、たく志さんは浮気をしていたんです」
「な、なんだって……」
私は、夫の浮気調査を依頼していた。出張だと偽って女性の元へ通っていた証拠写真を、義両親に手渡した。
「ふざけんな! これは俺じゃない!」
夫は慌てて取り上げようとしたが、もう遅かった。そして、私はさらなる決定的な証拠を突きつけるため、ある人物を呼んだ。
「そう。この女性こそ、浮気相手のルナさんよ。ずっと前から家の外で待機してもらっていたの」
ルナは、気まずそうに現れた。夫は真っ青になった。
「どう? これでもまだ言い逃れを続けるつもり?」
ルナは、私の元同僚だった。私が彼女に連絡を取り、夫の本性を教えたのだ。
「お前たち、ふざけやがって!」
義父が怒鳴り声をあげ、夫に掴みかかった。
「お前がやったことは間違っているんだぞ! さっさと彼女を解放すべきなんだよ!」
しかし、夫はついに開き直った。
「うるせえな! 分かったよ。離婚する。それでルナと再婚するんだ!」
彼はルナを抱き寄せた。すると、ルナは得意げな笑顔を浮かべた。
「もうお前とは絶縁する。二度と姿を現すな!」
義父の言葉にも、夫は動じなかった。
「ああ、別にいいよ。俺にはルナがいればいいからな」
そう言って、夫は私たちを家から追い出した。義両親は何度も謝ってくれた。
「大丈夫です。すぐにあの二人は地獄を見ることになりますから」
それから数日後、私のスマホに夫から電話がかかってきた。
「助けてくれ!」
彼の声は、泣きそうだった。
「浮気相手のルナも、既婚者だったんだ。しかも、相手は職場の上司だったんだよ!」
つまり、私の元上司だった。ルナは既婚者であることを隠していたが、私は調査で気づき、元上司に全てを話していたのだ。元上司は激怒し、夫とルナの家に押しかけたという。
「お前が来たら、ちょっとは落ち着くと思うんだ。頼む!」
「行くわけないでしょ」
私はそう言って、電話を切った。夫たちは、私の知らないところで自滅していく。私は高額な慰謝料を請求し、夫はルナと離婚した。夫は周りから白い目で見られ、肩身の狭い思いをしているそうだ。
肩の荷が下りた私は、義両親にお礼を伝えに行った。すると、二人は驚くべき話を口にした。
「なんと、失踪したあなたの両親を見つけたんだ」
義父は、京都でそれらしき人物を発見し、詳しい場所を突き止めたらしい。私は心臓が高鳴るのを感じた。
「今は、会わなくていいかなと思っています。いつか、本当に会いたいと思った時は、お二人と共にその場所へ向かいたいです」
そう伝えると、二人は頷いてくれた。
あれから数年が経ち、私は息子のた志と二人で、穏やかな日々を過ごしていた。
「母さん、大学合格したよ!」
私は息子の学費を、別の人に振り込んでもらっていた。夫が私の金を使い込んでいたからだ。今日は合格祝いで、親族が集まっていた。私は、夫に学費のことを尋ねると、彼はニヤニヤしながら吐き捨てた。
「ああ? 学費なら俺が使ったぞ。新車代としてな。何か問題あるか?」
親族たちは気づいていない。しかし、私は取り乱さなかった。
「学費を貯め直す必要はないわ。別の人に500万振り込んでもらったから」
「は? 別の人? お前、まさか父さんや母さんに泣きついたのか?」
夫は私の腕を掴んだ。直後、息子が現れた。
「おい、あんた、汚い手をどけろ」
息子は夫の腕を掴み、力づくで引き剥がした。
「た志、お前、親に向かって何て口の聞き方だ!」
「お前こそ、手を離せ。母さんを強引に連れて行こうとしたくせに、どの口が言ってんだ」
息子の鋭い目が光る。夫は大声で反撃したが、それは彼が何も知らない証拠だった。
私は深呼吸をして、口を開いた。
「6月30日、3万9800円。7月5日、5万8200円」
「な、なんだお前? いきなりどうした?」
「あら、あなたには心当たりがあるでしょう? ここに全部記録してあるわ」
私は、夫が私の金を使い込んだ記録を、夫の前に差し出した。義両親が声をかける。
「どうした? 何事だ?」
そこに、一人の女性が立ち上がった。夫の姉で、弁護士をしている義姉だった。
「おい、バカ弟。いい加減黙れ」
「姉ちゃん、なんでここにいるんだよ?」
「今日は仕事で来ているからよ」
義姉はそう言って、分厚い封筒を取り出した。
「さて、皆さんにも知ってもらおうかしら。バカ弟がどれだけバカなのかを」
義姉が中身をテーブルの前に置くと、夫の顔は真っ青になった。そこには、夫の浮気の証拠写真と書類があった。
「うちのバカ弟は、恵さんという素敵な奥さんがいながら、別の女と楽しそうに浮気してたんですよ」
親族たちは、一斉に夫を囲んだ。夫は震えながら言い訳を並べた。
「いや、冷静になってくれ。俺が浮気なんてするわけないだろう!」
「そうよ。浮気する理由なんて一つもないの。それなのに、浮気して何をやってるの?」
私は言った。
「た志の学費は、浮気相手のかよさんからの慰謝料で払いました」
「なんだと!?」
実は、私は息子と血が繋がっていない。息子は連れ子で、夫はバツイチだった。夫が離婚したのは、妻への態度が原因だったらしい。私は、その事実を知った時から、夫への反撃を決意していた。息子も、私の味方になってくれた。
「母さんが言っているのは、そういうことだよ。あんたが浮気していることを、俺は知っていたんだ」
「た志、お前、俺の息子だろうが! それなのに、俺を見捨てる気か?」
「もうあんたのことは父親だと思ってないよ。それに、あんたが先に母さんを捨てたんだからな」
息子は、夫に殴りかかろうとした。私はそれを止めた。
「殴るのは良くないわ。あなたのようなクズを殴って、た志の手が怪我したら困るもの。た志には、弁護士になる夢があるからね。だから、勉強のために力を振ってもらいたいの」
夫は完全に沈黙した。しかし、彼は最悪の選択をしてしまう。
「やっぱり無理だわ。お前らなんかに頭を下げるなんてな」
夫は薄笑いを浮かべた。
「俺は、ずっとた志が邪魔だと思ってたからな。前と離婚した時、た志が俺についてくることは想定外だった。でも、思いついたんだよ。た志を利用すればいいってな。だから、ここまで育ててやった」
「お前、よくもそんなことが言えるな!」
義父が怒り、夫に襲いかかろうとした。
「何言ってんの? 助けるわけないだろ。あんたの考えはどうでもいい。それよりも母さんに謝れ。もし謝罪するなら、俺も少しは考えてやってもいい」
「謝るわけないだろ、クソガキが! 俺には謝る理由がない!」
夫はそのまま、家を飛び出してしまった。誰も追いかけなかった。もう何を言っても無駄だと、全員が悟っていた。
数日後、私は夫から電話を受けた。
「ふざけんじゃねえ! 何で電話に出ないんだ!」
「あら? 全員と縁を切るって言ってたのに。間違い電話だと思っただけよ」
「まだ離婚届けを出してないだろうが! 実は俺、かよさんにお金を奪われたんだ。彼女が失踪して連絡がつかない!」
「ええ、そうでしょうね」
「は? なんでお前がそれを知ってるんだ?」
「だって、最初から分かっていたから。かよさんがあなたのお金を奪うために浮気を持ちかけたこと。彼女が詐欺グループの一員だということもね」
「ふざけるな! そんなわけない!」
「別に信じなくてもいいわ。でも、あなたはお金を奪われて、かよさんと音信不通になっている。追い詰められているのは、変わらないでしょ」
「お前、知ってたなら教えろよ! 俺がどうなっても構わないのか?」
「ええ、構わないわ。むしろ喜んでいるもの。あなたが地獄に落ちることをね」
夫は、借金までしていたらしい。かよさんの紹介で借りた金が、ヤクザと繋がっていたのだ。
「頼む、助けてくれ。俺が間違っていた。心を入れ替えるから!」
「もう遅いわよ。随分前に、離婚届けは提出したから。あなたが隠し持っていた、記入済みの離婚届をね」
その後、夫はかよさんと共に、詐欺グループに加担したことで逮捕された。私は、息子が弁護士になる姿を見届けていた。
「母さんのような人を助けたいんだ。そのためなら、いくらでも努力する」
そんな息子の言葉を思い出す。私たちは血が繋がっていないけれど、心は確かに繋がっている。それが、何よりの幸せだ。



