朝8時、病院のロビーはすでに患者で溢れていた。自動ドアが開くたび、冷たい風とともに新しい患者が流れ込んでくる。俺は診察券を受け取りながら、淡々と作業を続けていた。
「おはようございます。本日は内科のご予約ですね」
俺の名前は原田誠。歳は36、独身。この精鋭会総合病院で受付として働いて8年になる。カウンター越しに見える患者たちは、誰もが何らかの不安を抱えている。母親に抱かれた赤ん坊。点滴台を引いた入院患者。俺はその一人ひとりに、淡々と番号札を渡す。それだけが今の俺にできることだ。
「原田さん、おはようございます」
振り向くと、ベテラン看護師の佐々木さんが書類を抱えて立っていた。
「おはようございます。今日も朝から混んでますね」
「ええ、インフルエンザが流行り始めているみたい。原田さんも気をつけてね」
「ありがとうございます。佐々木さんこそ、無理しないでください」
会話はそれで終わった。俺はまた画面に視線を戻す。壁掛けテレビが朝のニュースを流していた。政治の話題、株価、天気予報。誰も真剣には見ていない。その時、自動ドアの向こうで足音が響いた。ヒールの音だ。リズムが早く、迷いがない。
「おはようございます、原田さん」
顔を上げると、白い白衣を着た女が立っていた。木崎洋子。この病院の心臓外科のエース。36歳、独身。実力も容姿も完璧という噂で、患者からの信頼は院内でも群を抜いている。
「おはようございます、木崎先生。今日もお早いですね」
「ええ、午後にカテーテルが2件入ってるので」
彼女はカウンターに手をついて、少しだけ俺の顔を覗き込んだ。
「原田さん、昨日のカルテの整理、助かりました。あなたが整理してくれた書類は、いつも分かりやすいです」
「いえ、仕事ですから。お役に立てたなら良かったです」
木崎は頷いて、エレベーターの方へ歩いていった。ヒールの音が遠ざかる。佐々木さんが小さく笑った。
「木崎先生、原田さんのこと気に入っているみたいね」
「気のせいですよ。先生は誰にでも丁寧な方ですから」
そう言って、俺はまた画面に目を落とした。木崎洋子という女のことはもちろん知っている。腕は確かだ。判断も早い。ただ、完璧であろうとしすぎる癖がある。追い込まれた時、その癖がどう出るか。それだけが少し気にかかっていた。もちろん、俺がそんなことを口に出すことはない。俺はただの受付だ。
昼前、ロビーに大きな声が響いた。
「おい、窓口」
顔を上げると、心臓外科部長の沢村亮が立っていた。45歳。白い白衣の襟元には、いつものブランドのネクタイ。腕時計も革靴も、全て高価なものだ。
「沢村部長、お疲れ様です。何かございましたか?」
「お疲れ様じゃないだろう。先週、緊急搬送の導線変更について連絡を回したはずだ。なぜ窓口の対応がバラバラなんだ」
「申し訳ございません。確認いたします」
「確認じゃない。すぐに直せ」
沢村はカウンターに書類を叩きつけた。周囲の患者がちらりとこちらを見る。
「承知しました。すぐに全員に周知いたします」
「お前みたいな受付係が現場の動きを乱すんだよ。医療ってのはな、知識と経験の世界だ。事務方は事務方らしく、黙って指示に従っていればいい」
俺は黙って頭を下げた。俺はもう医者ではない。ただの受付だ。沢村は鼻を鳴らしてエレベーターへ向かった。佐々木さんが小さくため息をついた。
「沢村先生、最近またピリピリしてるわね。今度の学会発表で焦ってるのよ」
「そうですか。難しい立場ですからね、部長というのは」
「原田さんは本当に怒らないわね。私だったら一発ぐらい言い返したくなるけど」
「言い返す必要のないことにエネルギーを使うのはもったいないですよ」
そう言って俺は笑った。佐々木さんは肩をすくめて、また病棟へ戻っていった。こういう人間はどこにでもいる。医者だった頃も、何人も見てきた。肩書きで人を見下す者ほど、自分の中に不安を抱えている。俺はそれを十分に知っていた。だが、それが俺の現実を変えるわけではない。俺はただの受付だ。
昼休み、俺は職員食堂の隅で定食を一人食べていた。ふと、隣の席に誰かが座った。神谷理事長だった。
「原田君、隣いいかね?」
「理事長、もちろんです。どうぞ」
理事長は穏やかな笑みを浮かべていた。俺がこの病院に来た日から、ずっと変わらない笑い方だ。
「最近どうかね、仕事は」
「おかげ様で、変わりなくやらせていただいています」
「そうか。それは何より」
理事長はお茶を一口飲んで、静かに言った。
「君の手はまだ覚えていると思うがね」
「理事長、その話はもう」
「すまん。年寄りの独り言だ。気にせんでくれ」
神谷理事長は、俺の過去を知る数少ない人物だ。10年前、白衣を脱いだ俺を、それでもこの病院で雇い続けてくれている。
午後3時過ぎ、ロビーの空気が突然張り詰めた。救急受け入れのアナウンスが流れる。
「緊急搬送、入り口準備願います」
俺はカウンター越しに救急入り口の方を見た。救急車のサイレンが敷地内に入ってくる音がする。数分後、ストレッチャーが運び込まれてきた。酸素マスクをつけられた初老の男。顔色は土気色だった。そのすぐ後ろを、スーツ姿の男が走ってくる。30歳前後だろうか。青ざめた顔で、看護師たちに必死に呼びかけていた。
「父を、父を助けてください。お願いします」
俺はその名前をすぐに思い出した。受付システムに入力された患者名、黒崎龍一。その瞬間、俺の手が止まった。その名前を忘れたことはない。10年前、あの工事現場の事故。全ての責任を現場の作業員に押し付け、自らは法廷に逃げ込んだ男。あの事故で運ばれてきた少年を、俺は救えなかった。俺はゆっくりとストレッチャーの上の顔を見た。酸素マスクの下、苦しそうに歪んだ顔。10年分確かに歳を取っている。だが、間違いない。あの男だ。
沢村が走ってきた。
「木崎先生、すぐに執刀の準備を。大動脈解離だ」
「はい。直ちに」
木崎洋子が走り抜けていく。息子らしき男が、その背中に向かって叫んだ。
「先生、父をお願いします。どんなことでもします。お願いします」
俺はカウンターの内側で、ただ立っていた。心臓の奥がわずかに音を立てている。10年間止めていた何かが、ゆっくりと動き始めるような感覚。俺は両手を見下ろした。受付係の手だ。もう人の命に触れる手ではない。そのはずだった。神谷理事長が、いつの間にか俺の隣に立っていた。何も言わずに、あの行方を見つめている。俺は小さく息を吐いた。
「理事長、あの患者は黒崎龍一です。あの事故の」
「存じている」
理事長はそれ以上何も聞かなかった。ロビーの天井のスピーカーから、コード・ブルーのアナウンスが流れた。人々がざわめき、看護師たちが走り抜けていく。
黒崎龍一が搬送されてから2時間が過ぎていた。俺はカウンターの中で淡々と入院手続きの書類をさばいていた。頭の片隅ではずっと7階の手術室のことを考えていた。大動脈解離。ステージ3後半。人工血管との置換が必要になる。10年前の知識でも、それくらいは即座に思い浮かんだ。執刀は木崎洋子。彼女の腕と麻酔の体制なら、この病院なら問題ないはずだ。それでも俺の中で何かが落ち着かない。あの女医の癖が頭をよぎる。追い込まれた時、判断をやや早く下しすぎる癖。普段ならそれで切り抜けられる。だが、相手は人体の中で最も繊細な臓器だ。一手の速さが致命傷になることもある。
カウンターの内線が鳴った。受話器を取ると、佐々木さんだった。
「原田さん、7階のオペ室、ちょっと様子がおかしいの。沢村部長まで呼ばれて」
「容態が悪化したんですか?」
「分からない。でも応援依頼が出てるの。私も今から上がるわ」
電話が切れた。俺は受話器を置いて、しばらく動けなかった。カウンターの奥から、神谷理事長が静かに歩いてきた。
「原田君」
「理事長」
「7階に上がってきなさい」
「俺は受付です。手術室に立ち入る資格はありません」
「資格の話をしているのではない。見るだけでいい」
俺は理事長の顔を見た。穏やかな目だ。だが、その奥には何かを決めた人間の静かな強さがあった。エレベーターの中で、理事長は何も言わなかった。7階の手術室前は、緊迫した空気に包まれていた。廊下のベンチに、息子らしき男が座り込んでいる。俺は理事長に促されるまま、手術室のモニター室に入った。ガラス越しにオペ室の中が見える。木崎洋子が執刀していた。額に汗が滲んでいる。助手への指示の声が、わずかに上ずっている。モニター室のスピーカーから、緊迫したやり取りが漏れてくる。
「解離が予想より広い。人工血管の時間も必要かもしれない」
「先生、出血が止まりません。視野が確保できません」
「吸引、もう一度」
俺の隣で、理事長が小さく息を吐いた。そこへ沢村がオペ室に入ってきた。
「先生、代われ。これは部長の俺がやる」
「沢村部長、まだ大丈夫です。私が最後まで」
「VIP患者だぞ。失敗は許されない。引け」
ガラスの向こうで、二人の声が交錯する。俺は唇を噛んだ。今、交代させてはいけない。視野が確保できていない状態での執刀交代は危険すぎる。言葉が喉の奥で止まる。理事長が俺の横顔を静かに見ていた。オペのモニターから警告音が鳴った。血圧の急激な低下を示すアラームだ。
「血圧60を切りました。心拍も不安定です」
「輸血追加。アドレナリン用意」
「だから言っただろう。早く代われ」
俺は両手を握りしめた。拳の中で、爪が手のひらに食い込む。10年前の手の感覚がはっきりと戻ってきていた。あの青年の心臓に触れた、最後の手の感覚。救えなかった、あの感覚。俺は目を閉じた。あの日と同じ風が吹いている気がした。ガラスの向こうで、木崎が一瞬手を止めた。明らかに迷っていた。判断が揺れている。
「理事長」
「どうした?」
「あの解離の広がり方。剥離面の処理を先にやらないと、いくら吸引しても視野は出ません。順番が違うんです」
「ほう、そうなのか」
「それと、人工血管の置換は今やるべきじゃない。心拍の補強だけで、今日のところはやめるべきです。患者の体力が持ちません」
口にしてから、自分の声に驚いた。10年間口にしてこなかった言葉だ。出てしまえば、もう止まらなかった。理事長は静かに微笑んだ。
「原田君、それを中で言いなさい」
「でも、俺は医者では」
「君は医者だ。10年経っても、その手は医者の手だ」
理事長は白衣を一枚、俺に差し出した。いつから用意していたのか分からない。新品の白衣だった。俺は白衣を受け取った。
廊下に出ると、息子の男が顔を上げた。俺の顔を不思議そうに見ている。
「あなたは、お医者さんなんですか?」
「昔、少しだけ」
「父を、助けてもらえますか?」
俺はその目を見た。10年前、あの工事現場で死んだ青年の母親と同じ目だった。助けてくれとすがる目。俺は静かに言った。
「全力を尽くします。ただ、それだけは約束します」
ガウンを着せられ、手袋をはめる。看護師が戸惑った顔で俺を見ていた。誰も、俺が誰なのか分からない。オペ室の扉が開いた。中の空気がぴりぴりと張り詰めていた。消毒液の匂い。機械の電子音。沢村が俺の顔を見て、目を見開いた。
「お前、窓口の。何のつもりだ?」
「沢村部長、少しだけ見せてください」
木崎が振り返った。目には追い詰められた色があった。
「原田さん?」
「木崎先生、剥離面の処理を先にしましょう。心拍の補強だけで止めます。ベンチは今日はやりません」
「どうして、あなたが?」
「説明は後でいくらでもします。今は、患者を生かすことだけを考えてください」
沢村が声を荒げた。
「ふざけるな。窓口の素人が何をする」
その時、神谷理事長の声がインカム越しに響いた。
「沢村部長、彼の指示に従いなさい。私の責任で言っている」
沢村は絶句した。理事長の声には、うむを言わせぬ重さがあった。俺は患者の胸の中を覗き込んだ。大動脈解離。予想以上に難しい状況だ。それでも見えた。道筋がはっきりと見えた。
「メスとテクロンを2枚。木崎先生、左から抑えてください」
「は、はい。分かりました」
俺の右手がゆっくりと動き始めた。10年間止まっていた手が、まるで今朝までずっと動かしていたかのように、迷いなく動いていく。助手の看護師が息を飲む音が聞こえた。木崎が隣で小さく呟いた。
「すごい。こんな手、見たことがない」
俺は何も答えなかった。ただ、目の前の心臓だけを見ていた。ガラスの向こうで、理事長が静かに目を閉じていた。
夕日が手術室の小さな窓から差し込んでいた。オペの中の空気が、少しずつ変わっていた。俺の右手は迷いなく動いていた。滲み出る血を指先で抑え、糸を渡していく。木崎が左から視野を抑えている。
「木崎先生、もう少し奥です。視野を広げます」
「はい、了解です」
声に迷いがなくなった。さっきまで上ずっていた声が、今は落ち着きを取り戻している。それだけで、手術の流れが変わる。血圧のモニターが少しずつ安定し始めた。助手の看護師が小声で数字を読み上げる。沢村は後方で立ち尽くしていた。腕を組んだまま、俺の手の動きから目が離せないでいた。
「人工血管22ミリ。心拍の補強だけで止めます」
看護師がすぐに用意してくれた。人工血管を当て、縫合していく。モニター室で神谷理事長が見ている。その視線を背中で感じていた。理事長は、10年間ずっとこの瞬間を待っていたのだろう。信じて、待ち続けていた。その重みは、口に出されない分だけ深い。木崎が手元を見ながらぽつりと言った。
「原田さん、あなたは一体何者なんですか?」
「今はただの助手です。それ以上でも、それ以下でもありません」
それきり、彼女は何も聞かなかった。代わりに、執刀医としての動きがさらに正確になっていく。俺の右手が次に何を求めるか、先回りして支持し、引っ張る。優秀な医師だ。追い込まれた時の癖さえ抜ければ、この女医はもっと伸びる。時計の針がゆっくりと進んでいた。
「閉胸に入ります。あとはお願いできますか?」
「は? はい、私が」
「焦らなくていい。丁寧に」
俺はそう言って、一歩手術台から下がった。沢村が何も言わずに、俺に頭を下げた。深く、長く。俺は何も言わなかった。ただ軽く頷いた。それだけで十分だった。
オペ室を出る時、看護師たちの目が俺を追っていた。誰も何も言わなかった。廊下のベンチで、黒崎龍一の息子が立ち上がった。俺の顔を見て、表情が強張る。
「手術は無事に終わりました。山は超えました」
「父は、助かったんですか?」
「ええ。今夜が一番大事ですが、心配いらないと思います」
男はその場に崩れ落ちた。床に膝をつき、両手で顔を覆っている。肩が震えていた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「執刀したのは木崎先生です。私は少し手伝っただけです」
「いえ、さっき看護師さんが教えてくれました。あなたが父を助けてくれたって」
俺は黙っていた。男は深く頭を下げた。
「父は、決していい人間じゃありません。家でも外でも、人を踏みつけてきた人です。俺は、ずっと父が嫌いでした」
俺は黙って話を聞いた。
「それでも、こうなって初めて、まだ話していないことがたくさんあると気づきました。憎んだまま、別れたくなかった」
俺はゆっくりと口を開いた。
「黒崎さん、お父さんが目を覚ましたら、話してあげてください。憎んでいたことも、それでも生きていて欲しかったことも、全部」
「はい、先生」
「人は話せるうちに話しておかないと、後悔します。私はそれを知っています」
男はもう一度深く頭を下げた。俺はその場を離れた。背中に、男の嗚咽が聞こえていた。廊下の窓から夕日が差し込んでいる。理事長が廊下の向こうから歩いてきた。
「よくやってくれた」
「理事長」
「白衣を持っていなさい。君が次にいつ着るか、それは君が決めればいい。私はただ、その日まで預けておくだけだ」
理事長はそれだけ言って、また歩いていった。背中が、少しだけ小さく見えた。10年待たせてしまった。そのことが、今になって胸に染みた。
翌朝、俺はいつも通り8時に受付のカウンターに立っていた。昨日と何も変わらない朝のはずだった。ただ、ロビーの空気だけが少し違っていた。通りすがる看護師が、俺に小さく会釈をしていく。噂はもう、病院中に広まっているのだろう。
「原田さん、ひとついい?」
「いただきます。ありがとうございます」
「ねえ、原田さん。本当のこと聞いていい?」
「何でしょう?」
「あなた、本当はすごい人なんでしょ?」
「いえ、ただの受付係ですよ」
佐々木さんは笑って首を振った。エレベーターから木崎が降りてきた。
「原田さん、おはようございます」
「おはようございます。木崎先生、黒崎さんの容態はどうですか?」
「安定しています。今朝、意識も戻りました」
「そうですか。良かった」
「原田さん、ひとつだけいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「また、一緒にオペに立ってもらえますか? 今すぐじゃなくていい。あなたが立ちたいと思った日でいいんです」
「考えておきます。先生がこれからも患者さんを救い続けるのを見ていますから」
「はい。待っていますね」
カウンターの奥、棚の一番下に、昨日の白衣が畳んで置いてある。着るか着ないか、それはまだ分からない。ただ、10年前に止まっていた何かが、確かに動き始めていた。自動ドアが開いて、新しい患者が入ってきた。
「おはようございます。本日はどちらの受診ですか?」
今日も、受付としての一日が始まる。窓の外で、街路樹が風に揺れていた。



