高校卒業から30年。同窓会の会場に選ばれた高級レストラン「桜亭」で、私は信じられない光景を目にした。ウェイトレスとして働く私の娘、せつ。その姿を見つけた瞬間、心臓が凍りつくようだった。
「親がクズなら娘もやっぱりクズだな。」
その言葉を浴びせたのは、不動産会社の御曹司だった木田。高校時代からずっと私を見下し続けてきた男だ。娘が私の子だと分かるやいなや、彼は標的を娘に変えた。
「底辺の娘がこんな高級レストランでバイトなんかして、料理人の真似でもしたいのか?笑わせるなよ。」
「そうだな。お前なんか今すぐ首にしちゃおうかな。こんなのが働いてると、店の格が下がっちゃうからね。」
木田は意地の悪い笑みを浮かべる。娘の瞳から涙がこぼれ落ちた。私は拳を握りしめ、怒りに震えた。だが、その時――背後から冷静な声が響いた。
「おやおや、騒がしいですね。木田さん、彼の正体を知っていながらの発言じゃないでしょうね。」
その人物が、私の過去を語り始めた瞬間、会場の空気が一変した。
――
あの日々を思い出す。
教室の窓から差し込む春の日差し。いつもの席で弁当を開ける私の手を、柔らかく照らしていた。周りではクラスメートたちが賑やかに昼食を取っている。その声が妙に遠く感じられた。
私は福田白。高校2年生。3年前から母が肺を患っていて、毎日の食事は私が作っていた。母の笑顔のために始めた料理だったが、学校では決して口にできない話題だった。
「ね、それ手作り?」
突然耳元で明るい声が響いた。驚いて顔を上げると、そこには晴れ山すみれが立っていた。学校で一番の美人と評判の少女だ。化粧っ気のない整った顔立ちが、私の弁当を興味深そうに覗き込んでいた。
「ああ、まあ…」
戸惑う私に、晴れ山は目を輝かせた。
「すごい!プロみたい。特にこの照り焼きの焼き目、完璧じゃない?家でこんなの作れるなんて。」
「当たり前だよ。毎日作ってるんだから。」
思わず突き放すような口調で返してしまう。すると彼女は目を丸くした。
「え?これ、福田くんが作ったの?じゃあなおさら当たり前じゃないわよ。うちなんて代々レストランやってるけど、私が作ってもこんなに綺麗にはできないもん。」
その日から、昼休みになると晴れ山は私の席に弁当を持ってくるようになった。最初は距離を置いていたクラスメートも、徐々に会話に加わってくるようになる。そして、私は文化祭の料理部門のリーダーを任されることになった。
ある日の夕暮れ、教室の戸締まりをしている私のところへ晴れ山がやってきた。
「良かったね、福田くん。」
「何が?」
「最近、楽しそうだから。前は一人でお弁当食べて寂しそうだった。みんなも声かけづらそうにしてたし。」
そう言って、晴れ山は微笑んだ。その日の教室は、夕日が優しく照らしていた。
だが、翌日。クラスメートの木田が私の机の横に立っていた。木田は成績優秀で、地元の有名な不動産会社の社長の息子だ。彼は私の机に手をつき、威圧的に身を乗り出してきた。
「おい、福田。お前、文化祭の料理担当のリーダーになって調子に乗ってるんじゃないか。男のくせに料理なんかしてさ、見てるとむかつくんだよ。」
そう言うと、木田は私のカバンを奪い取り、試作品の入った容器を乱暴に掴み上げた。蓋が外れ、中身が見える。文化祭で作る予定のたこ焼きだった。
「へえ、これ文化祭で作るやつか。なんかまずそうじゃね?」
「ああ、お前の母ちゃん病気だったよな。お前のまずい料理食って、具合悪くなったんじゃねえのか。」
その言葉に、私の体が震えた。
「木田くん、そんなこと言うなんて!言っていいことと悪いことの区別もつかないの?」
晴れ山が声をあげる。いつもの優しい表情は消え、真っ直ぐに木田を睨みつけていた。
「おい、すみれ。なんでお前、こんな女みたいなやつとつるんでんだよ。俺なら高級レストランに連れてってやるぜ。」
木田は晴れ山の腕を掴んで引っ張ろうとした。
「やめて!」
「やめろよ!」
私は反射的に声をあげた。
「うるせえな。お前はこれ食ってればいいだろ。」
木田は容器を逆さにして振った。たこ焼きが床に落ちる音が、異様に大きく響いた。木田はそれを靴で踏みつぶしながら笑った。
「ほら、食えよ。」
声が出なかった。夜遅くまでかかって完成させた試作品。その一つ一つに込めた思いが、木田の靴の下で潰されていく。
その時、一条が教室に入ってきた。状況を察したのか、すぐに木田の前に立ちはだかる。
「木田くん、先生呼んでくる?それとも、ここでちゃんと謝る?」
一条の冷たい声に、木田は顔を引きつらせた。
「謝りゃいいんだろ。どうもすみませんでした。」
そう言い残して、木田は教室を出ていった。
「福田くん、大丈夫?」
晴れ山が心配そうに私の顔を覗き込む。私は無理に微笑んだ。だが、床に落ちたたこ焼きを拭き取りながら、喉の奥が熱くなるのを感じた。
するとその時、晴れ山が私のカバンから小さな容器を取り出した。中には試作品のたこ焼きが一つだけ入っていた。木田は見逃していたようだ。
「ねえ、これ食べてみていい?」
晴れ山は私の顔を覗き込むように尋ねた。私が頷くと、晴れ山は蓋を開け、一つを口に運んだ。
「おいしい!」
その声に、周りにいたクラスメートが集まってきた。
「私も食べていい?」
「僕も!」
「ねえ、これカレー味。すごくいい香り。」
次々と手が伸び、みんなが笑顔で頬張っていく。
「ほら、見て福田くん。福田くんの料理を食べると、みんな自然と笑顔になるの。これってすごく素敵なことだと思うわ。」
その言葉が胸に染みた。母の笑顔のために始めた料理。それが、こんな風に誰かの笑顔につながっていく。クラスメートの笑顔を見ているうちに、私の胸には強い決意が湧いてきた。
そうだ。俺は料理人になろう。
――
その年の冬、母は静かに息を引き取った。私の作った料理を最後まで「美味しい」と笑顔で食べてくれた母は、まるで眠るように逝ってしまった。
葬儀の後、晴れ山が声をかけてきた。
「高校を卒業したら、料理人になる。そのために修行に行こうと思う。」
「ち…修行?」
「ああ、まずは東京の有名店を回って、それから全国を回りたい。」
晴れ山の瞳が揺れた。
「そう…遠くまで行くのね。」
「日本一の料理人になりたいんだ。母さんも、そうしなさいって最後にそう言ってくれた。」
「白なら、きっと素敵な料理人になれる。だって白の料理には、人を幸せにする力があるから。だから絶対に帰ってきてね。その時は…私の店にも来てちょうだい。一緒に…一緒に料理がしたいな。」
言葉を紡ぐうちに、晴れ山の声が震え始めた。
「ごめんね。こんなこと言っちゃって。修行に行く白の背中を笑顔で見送りたかったのに。私、バカだよね。こんな風に泣いちゃって。」
私は迷わず晴れ山を抱きしめた。
「必ず戻ってくるよ。約束する。その時は、すみれの店で一緒に料理を作ろう。」
――
それから11年。私は全国の有名店を渡り歩き、修行を積んだ。そして、懐かしい商店街に足を踏み入れた。角を曲がると、晴れ山家のレストランの看板が見えてきた。昔は行列ができていた店なのに、今は客の姿はまばらだ。
「いらっしゃいませ…白?」
ドアを開けると、すみれが驚いた様子で迎えてくれた。相変わらず綺麗だけど、目の下には疲れが見える。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
すみれの声が少し震えた。
「約束通り、帰ってきたぞ。それよりすみれ、どうしたんだ?店がひっそりしてるけど。」
「お父さんが倒れて…それからお客さんが徐々に減っていったの。私一人じゃ、父のような味は出せなくて。」
「すみれ、手伝わせてくれ。メニューも新しくして、内装も回送して、この店をもう一度笑顔が集まる場所にしよう。」
それから数ヶ月、私たちは一生懸命働いた。昼は営業、夜は新メニューの試作。すみれの父の味を受け継ぎながら、私なりの工夫を加えていく。少しずつ客足が戻り始めた。
そして、ある夜。
「すみれ。結婚してくれ。」
すみれの皿を拭く手が止まる。
「この店ですみれと一緒に、たくさんの人を笑顔にしていきたい。」
すみれは目に涙を浮かべながら頷いた。
――
私たちの店は少しずつ評判が広がり、週末には行列ができるようになった。そして、すみれが妊娠した。この上ない幸せを感じていた。
だが、その一ヶ月後。すみれが急な立ちくらみで倒れた。
「膵臓の腫瘍が見つかりました。かなり進行しています。妊娠中の抗がん剤治療は、お子様への影響が避けられません。場合によっては、妊娠を断念していただく必要があるかもしれません。」
妊娠か、治療か。やっと手に入れた幸せなのに。やっとすみれと二人で作り上げた店なのに。
その時、すみれが私の手を強く握った。
「私、この子を産みたい。でもごめんなさい。わがままだって分かってる。でも、私この子にあなたの作る料理を食べて欲しいの。これが幸せの味なんだって、教えてあげたいの。」
――
年が明けて、娘が生まれた。私たちは彼女に「せつ」という名前を送った。すみれは懸命に病と戦いながら、娘の成長を見守ろうとした。
せつが4歳の春。すみれは静かに息を引き取った。
すみれが亡くなってから、私は料理が作れなくなった。厨房に立つと、すみれと一緒に作ってきた思い出が押し寄せる。包丁を持つ手が震え、料理の味さえ分からなくなった。そして、ついに店を畳むことにした。
――
店を畳んだ私は、商店街の片隅のコンビニで店長として働きながら、せつを育てていった。料理人だった頃の腕は、レジ打ちの正確さに形を変えていった。
「パパ、お弁当作ってよ。」
せつが時々そう言うけれど、私にはもう作れない。スーパーの総菜でごまかす毎日だった。
高校2年生になったせつは、私が出会った頃のすみれと同じような顔立ちをしている。だが、ここ数ヶ月、せつは私と目を合わせようとしない。夜遅くまでバイトがあると言って、帰りも遅い。反抗期の娘に悩む日々を過ごしていた。
――
そんなある日、コンビニの事務所でバイトの面接を終えた時だった。
「店長、お電話です。娘さんの担任の先生から。」
受話器を取ると、懐かしい声が響いた。
「久しぶり、福田くん。せつちゃんの担任をしている一条です。」
一条とは、高校時代のクラスメートだ。彼女は私の娘の担任になっていた。そして、進路希望調査表が空白のままであることを教えてくれた。
「せつちゃんにも聞いたわ。『ちょっとでもいいからやってみたいって思うことはないのか』って。でも、せつちゃんは何も答えないの。福田くんは、娘さんが将来何になりたいのか知らない?」
「すまない。俺にも分からない。最近はせつとはほとんど話もしないんだ。母親がいなくて、父親の俺は仕事ばかり。こんなんじゃ、娘に愛想を尽かされても仕方がないよな。俺は父親失格だ。」
「そんなことない!」
一条の声がいつもより強く響いた。
「私はせつちゃんの様子を見てて思うの。きちんとした子に育ってる。礼儀正しいし、授業態度もいい。これはお父さんの背中を見て育ったからよ。福田くん、あなたは立派な父親だと思う。」
その言葉に、胸が熱くなった。
「そうだ、福田くん。今度同窓会があるんだけど、来てくれるよね?卒業30周年だから、みんなで企画したの。私たち、あの頃の福田くんの料理が忘れられないの。それに、たまには思い出話でもしましょうよ。」
「……わかった。行くよ。」
――
同窓会の会場であるレストラン「桜亭」の看板が、夜の町に温かな明かりを投げかけていた。エントランスをくぐると、懐かしい顔ぶれが次々と声をかけてくる。
「久しぶり!元気だった?」
「変わんないね!」
立食パーティー形式の会場には、すでに何人もの同級生が集まっていた。一条が嬉しそうに近づいてくる。赤のワンピース姿がひどく似合っていた。
「来てくれてありがとう、福田くん。料理すごく美味しいのよ。フレンチベースの創作料理が評判で。」
確かに、並んでいる料理はどれも美しい。その中で、私は一人の少女に目を留めた。旧制服を着た少女がオードブルを運んでいく。すらりとした背丈に、すみれに似た横顔。
「……せつ?」
思わず声が漏れる。せつも私に気づいたのか、一瞬動きを止めた。
「お父さん…」
「お前、ここでバイトしてたのか?」
「うん。」
返事は小さく、私の目を見ようとしない。制服の襟元を無意識に触る仕草は、まるですみれそっくりだった。
「え、福田くん知らなかったの?せつちゃんがここで働いていること。」
一条が驚いた声をあげる。
「ああ、バイト先については友達の紹介で見つけたって言うだけで…詳しく聞いても、駅前の方としか答えてもらえなかったから。」
そう言うと、一条が嬉しそうに続けた。
「そういえば福田くん、せつちゃん料理上手なのよ。特に調理実習の時、先生たちが驚いてたわ。せつちゃんのグループだけプロの料理みたいだって。味付けのバランスから盛り付けまで、どれも完璧なんですって。やっぱり親の血かしらね。」
その言葉に、周りにいた同級生たちがせつに注目し始めた。
「え、この子が福田の娘さん?」
「本当だ、すみれにそっくり。」
「可愛いわね。やっぱり二人の娘だもんね。」
突然の注目に、せつの頬が赤く染まる。彼女は軽く頭を下げると、そそくさとビュッフェテーブルの方へ向かっていった。
――
その時、会場の雰囲気が微妙に変化した。滑らかな足取りで近づいてきたのは、木田だった。高級そうなスーツに身を包み、人の良い笑顔を浮かべている。
「この会場、気に入ってもらえたかな?桜亭はうちの会社の重要な取引先でね。ここは最近ミシュランにも乗ったしね。」
木田は周囲に聞こえるような大きな声で言った。そうして周りに人が集まってくると、その目が私に止まった。
「おや、福田じゃないか。聞いたよ。今はコンビニの店長だって。」
木田の声に、周囲の空気が凍りついた。
「高校の時は随分と調子に乗ってたよな。学年一の美女と言われる晴れ山に媚び売るのに一生懸命で。それでそうやってゲットしたあの店はどうなったんだっけ?潰されたんだっけ?さもありなんだよね。男のくせに料理なんかやってるから。」
木田はグラスをくるくると回しながら言った。
「俺はね、お前とは違ってちゃんとした仕事をしてるんだよ。年収1000万だ。福田には一生かかっても手の届かない金額だろう。コンビニの店長なんて所詮その程度だ。器の小さい男は、小さな仕事しかできないもんな。まあ、かわいそうなのはすみれの方だよな。お前なんかと結婚しなきゃ、もっと長生きできたかもしれないのに。」
その瞬間、フロアに響いていた話し声が静まり返った。
「お前には、すみれの生きざまを語る資格なんてない。」
俺の声は静かだったが、重い響きを持っていた。
「すみれは自分の意思で生きた。最後の一瞬まで、自分の選んだ道を誇りに思っていた。そんな彼女の人生を、お前のような男にけなされてたまるか。」
木田はさらに挑発的に笑みを深める。
「はっ、何が生きざまだ。お前みたいなクズと結婚して店なんかついで、結局それで命を縮めただけだろ。俺なら高級病院だってすぐに手配できたのに。まあ、所詮その程度の男を選んだすみれもバカだったってことだな。」
その瞬間――。
「やめて!」
突然の叫び声と共に、木田の高級なスーツに赤ワインが豪快に飛び散った。せつが手に持っていたワインをかけて浴びせたのだ。
「人の人生を、大切な思い出を、そんな風に笑わないで!」
せつの声は震えていたが、その瞳は強い光を放っていた。
「母は最後まで自分の選んだ道を誇りに思っていた。私のことを思って、残された時間全てを使ってくれた父だって。父だって私のために一生懸命頑張ってきた。毎日コンビニで働きながら、一人で私を育ててくれた。そんな父の背中を見て育った私は、ちゃんと分かってる。寂しいのに、私の前では無理に笑顔を作って、こっそり夜泣いてるの知ってる。大切な人を失って、それでも前を向いて生きてきた父を、母の分まで私を育ててくれた父を。そんな父のことを、あんたなんかに笑わせない!」
せつの瞳から涙がこぼれ落ちる。その言葉に、私の胸が熱くなった。私に愛想を尽かしていると思っていた娘が、こんなにも私のことを見ていてくれた。分かってくれていた。
すると、せつは姿勢を正し、木田を真っすぐに見つめた。
「それに木田さん、あなた私の母に嫌がらせしてましたよね。母が残した日記を、私全部読んだんです。母は日記に『木田くんにしつこく突きまとわれて困る』と書いてました。断っているのに毎日のように店に来て、長居したり、帰り道に待ち伏せしたり、友達と話していると無理やり割り込んでくるし、すみれと仲良くしているのを見ると、とっても意地悪な嫌がらせをしてきたって。」
その言葉に、会場がざわめいた。
「そういえば木田くん、すみれによく話しかけてたよね。いつも断られてたのに。」
「私も覚えてる。帰り道、わざと遠回りして逃げてたって、すみれさん言ってた。」
「教室移動の時も、廊下でずっと待ってたじゃん。」
木田への視線は、すっかり冷ややかなものに変わっていった。
「へっ、カエルの子はカエルってのは本当だな。親子揃ってレベルが低いんだから。」
木田は冷たい声を出した。
「そんな日記が何だって言うんだ?嘘も大概にしろよ。こんな底辺が高級レストランでバイトなんかして、料理人の真似でもしたいのか?笑わせるなよ。この店のキッチンには、お前みたいな三流以下のクズは入れないのにね。そうだな。お前は首だ。」
「え…」
目を見開くせつを見て、木田の口元が歪んだ笑みを浮かべる。
「分かってるのか?桜亭が俺たちの会社とどれだけの取引があるか。年間100億の再開発案件。これがパーになったら、この店がどうなると思う?お前ごときのバイトが、そんな大口顧客の俺に逆らっていいと思ってるのか?」
会場の空気が一層重くなる。
「俺が一言言えば、お前なんかすぐに首だ。いや、それどころか、店の評判も落としてやれる。衛生管理が悪いとか、接客が最低だったとか、いくらでも言いふらせるんだよ。」
せつの顔から血の気が引いていく。
「これが大人の世界ってやつさ。お前みたいな三流以下のクズが一流店で働けると思った方が、間違いだったんだよ。さあ、今すぐ制服を脱いで二度と来るな。」
木田の言葉が突き刺さるように響き、せつの肩が小刻みに震えた。その時、背後から冷静な声が響いた。
「お客様、何か不都合でもございましたか?」
低く、しかし威厳のある声だった。振り返ると、そこにはレストランのオーナー、佐田宗が立っていた。
「はあ、佐田オーナー。先日は100億の再開発案件でお世話になりました。」
木田の声がまるで別人のように変わる。頭を下げながら媚びるような笑顔を浮かべる。
「こんなところで申し訳ありません。この親子が騒ぎを起こしまして。父親は私に向かって暴力的な態度を取るし、娘の方は勤務中に大声を出すし、ワインまでかけられちゃって。こんな低レベルな人間は、桜亭のような一流店にはふさわしくありませんよ。従業員の質が問われます。即刻解雇すべきかと。」
佐田宗はゆっくりと目を閉じ、深いため息をついた。
「なるほど。確かにサービス業として、お客様に不快な思いをさせるのは大きな問題です。」
木田は表情を明るくして、満足そうに頷いた。
「ですが、せつちゃんは黙ってて。」
佐田宗の言葉に、せつは「はい」と青い顔のまま小さな声でつく。私は思わず娘の肩に手を伸ばそうとした。
「ですので、そちらとの100億円規模の再開発案件は、全て白紙とさせていただきます。」
穏やかな表情のまま、ゆっくりと紡がれた佐田宗の言葉に、私は手を止めた。
「え?白紙にするって、どういう意味ですか?」
「先ほど申し上げた通りです。貴社との100億円規模の再開発案件を、全て白紙に戻させていただきます。」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな、そんな大きな判断を、こんな些細なことで?」
佐田宗の声が一段と冷たくなる。
「あなたが今、辱めた方は、私の師匠、福田白郎さんです。私がこうして桜亭を開業できたのも、全て彼のおかげなのです。」
その言葉に、会場にざわめきが起こった。
「15年前、パリのミシュラン三星店で、私は白郎さんと出会いました。当時の白さんは、世界中の名店を巡る武者修行の途中でした。東京、香港…どの店でもその卓越した技術を認められ、声がかかったほどです。私は白さんの繊細な包丁さばきと、独創的な創作料理に魅了されました。特に和の技法をフレンチに取り入れた斬新な調理法は、パリの料理人たちを驚かせていました。私は白さんの料理を食べてすぐ、弟子入りを志願しました。」
佐田宗は木田を一瞥してから、ゆっくりと続けた。
「ある日、突然白郎さんが日本に帰ると言い出したんです。パリの美食会で話題になっていた矢先でした。有名レストランからオファーが押し寄せていたのに。私が『なぜですか』と尋ねると、白郎さんはこう答えました。『約束があるから』と。そう言って、白さんは日本に帰られました。」
せつが大きな瞳で私を見つめている。木田の顔からは、うっすらと脂汗が浮かんでいた。
「私はそれから数年ほどフランスで腕を磨いた後、白郎さんを追うように、この町に店を開きました。パリで教わった技術を生かしながら、白郎さんが育った町の人々の笑顔を見たい。そう思ったんです。でも、白郎さんの店が見つからない。おかしいと思っていました。」
佐田宗は少し言葉を置いて、視線を落とした。
「そんなある日、一人の女子高生が面接にやってきたんです。それが、せつちゃんでした。話を聞いていくうちに、事情が分かってきました。白郎さんは地元に戻られた後、晴山家のレストランを立て直し、すみれさんと結婚された。でも、すみれさんが亡くなられてから、白郎さんは包丁を持てなくなってしまった。料理人としての情熱も腕も確かにそこにあるのに、大切な人を失った悲しみが、その全てを封じ込めてしまった。」
会場に重い沈黙が流れる。
「面接に来た彼女が白郎さんの娘さんだと分かった時、私は迷わず採用を決めました。あの白郎さんの娘さんなら、きっと料理の心も受け継いでいるはずだと。そして私の直感は間違っていなかった。彼女の仕事ぶりを見ていると、白さんそのものなんです。包丁を持つ手つき、火加減を見る目、全てが。」
すると、木田がうろたえたように声をあげた。
「ちょ、ちょっと待ってください。福田があなたの師匠だったからという、そんな個人的な理由で契約を白紙にされても、我が社としては納得できません!このプロジェクトにはすでに多くの関係者が関わっています。工事の準備も始まっているんです。これを今更白紙に…これは損害賠償問題になりかねませんよ!」
佐田宗はゆっくりと木田の方を向いた。その表情はさっきまでの優しさが消え、冷たい厳しさを帯びていた。
「個人的ですか?私は人とビジネスをしているんです。契約書にサインする前に、まずその人の人となりを見る。それが、私の流儀です。父親は侮辱し、挙句は一人の少女を傷つけた。そんな人間性の持ち主が率いる会社と、100億の契約を結べると思いますか?この町の再開発は単なる建物の立て替えではありません。人々の暮らし、思い出、未来がかかっている。その大切な事業を、他人の心も痛みも分からない人間に任せるわけにはいかない。」
木田の顔が青ざめていく。
「商売は信用が全てです。人として信用できない相手と、どうやって長期的な信頼関係を築ける?今日のあなたの言動は、私にとって十分な判断材料になりました。」
佐田宗の言葉は、会場に集まった人々の心にも深く響いているようだった。クラスメートが少しずつ距離を取り始めている。
木田が言葉を失い、額に浮かんだ汗を拭おうとしたその時。
「なんで…なんでいつもお前なんだよ!」
突然、木田が絞り出すような声をあげて私を指さした。
「お前なんか、いつも一人ぼっちの惨めなやつだったじゃないか!昼飯も一人で食ってる哀れなやつ!料理なんかやって、女々しい真似して!なのにすみれはお前のことばっかり見てた!お前なんかに何ができるって言うんだ!俺の方がずっと上なのに!金も実家も全部持ってるのにな!なのにどうしてお前みたいな奴が…どうしてすみれに選ばれて…」
木田の叫びが会場に響く。長年の嫉妬と憎悪が、歪んだ形で溢れ出していく。
「木田、お前は昔から他人の気持ちを考えたことがないんだな。」
私は静かに、しかし強い声で言った。
「何?」
「すみれが俺のどこを見てくれていたのか。せつがどんな気持ちで料理の道を選んだのか。そういう目の前にいる人の思いに、一度でも心を寄せたことがあるのか。お前は自分の気持ちだけで人を判断する。だから相手の心の痛みも分からない。それは高校生の頃も、今も何も変わっていない。他人の気持ちを踏みにじってまで、自分の優位性を示そうとする。すみれを手に入れられなかった腹いせに俺をいじめ、今度はせつを傷つけた。目の前にいる人の痛みも思いも、全く分かっていない。そんなお前に、人の幸せを壊す資格なんてない。」
木田は言葉を失い、その場にへたり込むように膝をついた。
佐田宗がゆっくりと歩み寄ってきた。
「せつちゃん、今日は早めに上がっていいよ。」
「はい。」
せつは小さく頷くと、私の方を見た。
「お父さん、帰ろう。」
その言葉に、私は少し微笑んだ。
「ああ。」
会場を後にする時、一条が優しく手を振ってくれた。外では夜風が静かに吹いていた。
――
それから一週間後、三者面談の日。教室でせつの成績表を前に、私とせつ、一条の三人が向かい合う。成績は相変わらずのオール5に近い。進路希望には、きっちりとした文字で「料理人」と記されていた。
「お父さん、今まで黙っててごめんなさい。」
せつが切り出した。その声には、珍しく迷いが混じっていた。
「お母さんが亡くなってから、お父さんが料理できなくなったの、私ずっと知ってた。だから自分の夢が言えなかった。でも、私はお父さんの作る料理の味をずっと覚えてた。特製デミグラスソースのハンバーグ。お母さんが大好きだった生姜を聞かせた照り焼き。あの味は私の心の中でずっと生きてた。それで…私も料理人になりたいって思うようになってた。だから、桜亭でバイトを始めたの。」
せつは机の上の両手を強く握りしめた。
「お母さんがね、お父さんの料理を食べながらよく言ってたの。『これが幸せの味よ』って。子供だった私には、どういう意味か分からなかった。でも今は分かる。料理には、人を幸せにする力があるんだって。お父さんの料理は、食べる人みんなを笑顔にした。私も…私もそんな料理人になりたい。誰かの心に温かい思い出を作れる料理を。誰かの幸せの味を作れる。そんな料理人に。お父さんの背中を見て育った私だもん。きっとお父さんみたいな料理人になれる。そう信じてる。」
せつの言葉に、私は息を飲んだ。目の前にいるのは、もう子供ではない。確かな意思を持った、一人の料理人の卵だった。
「せつ…今まで我慢させてごめんな。」
喉から絞り出すような声が出た。
「料理ができなくなったのは、俺の弱さだ。でもお前はずっと強かった。すみれの分まで、前を向いて生きてくれた。」
「お父さん…」
俺たち親子は、同じ涙を流していた。
その後、一条が静かな声で言った。
「木田くんのこと、聞いた?超大手の会社、解雇されたって。」
「ああ、桜亭との100億の契約が白紙になって、会社に大損害を与えた責任を問われたんだって。」
「うん。自分の父親の会社なのにね。でも、あの態度じゃ仕方なかったのかもしれないわね。」
少し間を置いて、一条が続けた。
「そういえば福田くん、桜亭で働くことになったって本当?佐田宗さんから『白郎さんの腕をもう一度、桜亭で振るって欲しい』って頼まれたんだって?」
「ああ。実はね、佐田宗さんから、そう頼まれてね。コンビニ店長の仕事は慣れたけど、やっぱり心のどこかで料理への思いが残ってた。でも、踏み出せなかった。でも、せつがあんな風に夢を語ってくれて…すみれがいない厨房で料理を作ることが怖かったけど、せつの言葉を聞いてたら、少しずつ勇気が湧いてきたんだ。」
「それに気づいたんだ。すみれがいない店で作る料理に意味がないって思ってたけど、違った。今度はせつと一緒に作る料理。それはきっと、新しい幸せの味になる。そう信じられるようになったんだ。」
「素敵ね。親子で同じ夢を追うなんて。」
一条の言葉に、私は少し照れ臭そうに頷いた。夕暮れの教室で、なんとなく言葉が出てこない。
「あの…今度、食べに来てよ。」
「え?」
「世話になったお礼も込めて、特別なコース作らせてもらいたいんだ。」
「うん。」
一条が頬を染めて微笑む。その仕草は、高校生の時と変わらない。
「じゃあ、約束ね。」
――
それから一年が経った五月のある日。すみれの命日に、私とせつ、一条の三人で墓参りに来ていた。墓前に線香を立てながら、ふと気配を感じた。振り返ると、木田が立っていた。
「福田…久しぶりだな。」
いつもの高圧的な態度は消え、どこか自嘲的な笑みを浮かべている。
「お前には、謝らなきゃいけないと思ってさ。あの日以来、色々考えてたんだ。会社首になって、取引先からも信用を失って、初めて分かったよ。お前が味わってた気持ち。」
木田は苦笑する。
「今は地方で小さな不動産屋やってる。まあ、親父の会社みたいな大きな仕事はできないけど。でもさ、お客さんに『ありがとう』って言われると、なんかこっちの方が向いてる気がするんだ。」
「福田。あん時は悪かった。ああ、嫌なやつだったよな、俺。」
「今更か。」
思わず漏れた軽口に、木田も私も少し笑った。
「今なら分かるよ。なんであいつがお前を選んだのか。結局、お前ってやつは人のこと考えすぎなんだよ。」
木田は照れ隠しのように言葉を濁す。
「だからあいつも…」
墓苑に静かな風が吹き抜けていく。
「なあ、今度店に行っていいか?」
「…ああ。来いよ。」
二人の間の長かった溝が、少しずつ埋まっていくのを感じた。
――
墓参りを終えて帰り道。夕暮れの商店街を三人で歩いていると、せつがふと立ち止まった。
「そういえば私ね、母の日記を読んでた時に、気になることを見つけたの。」
「日記?」
一条が振り返る。
「うん。高校時代のこと。先生って、実は…」
一条がはっとしたように目を見開く。
「あ、ちょっとせつちゃん!お父さんのこと…好きだったんでしょ?」
「え、一条それは…」
「あの、それはその…昔のことだから!」
一条は慌てて手を振る。
「違うの。ただ、その…クラスメートとして…その、私は先生のこと、嫌いじゃないからね。」
「ふふん。」
せつが意味ありげな笑みを浮かべる。
「それじゃあ私、先に店戻ってます。お父さん、先生にちゃんと伝えてね。」
そう言って、小走りに去っていくせつの背中に、一条は「もう…」と困ったように呟いた。
街灯が灯り始める商店街で、二人きりになる。初夏の風がゆっくりと流れていく。
「あの…また、お店に行ってもいいかな?」
「もちろん。」
「うん。」
二人とも言葉の続きが見つからない。でも、それでいいような気がした。
大切な人を失って、全てを失ったように思えた時期があった。料理への情熱も、人を笑顔にする喜びも、何もかも手放してしまった。でも、大切なものは、本当は何も失われていなかった。娘は黙って私の背中を見続け、すみれは日記に思いを残し、仲間たちは私の再出発を待っていてくれた。
新しい希望はずっとそこにあったんだ。それに気づくまでに長い時間がかかったけれど、今は分かる。大切なものを失っても、きっと新しい光は見つかる。ただ、その光に気づくためには、前を向く勇気が必要なんだということ。



